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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

2017年8月15日 (火)

ねぎらいの言葉の意味

 ふと思ったことです。

 定型はたとえば病気でつらそうにしている人に「大丈夫?」と聞いたりすることがよくあります。アスペの方がしばしばいうのは「大丈夫じゃないから寝てるんじゃない」という、しごくまっとうなことです。

 そう考えると、定型は何と無意味な馬鹿なことを言っているんだろう、とも言えますけど、もちろんそれにはそれなりの意味があるはずです。

 

 で、そこで「私は私、あなたはあなた」という話とちょっと絡めて思いついたんですが、この「大丈夫?」というのは、「私は私、あなたはあなた」で自分には具体的には何もできないから、「せめて気持ちだけでも使っておく」みたいな部分があるのかなと思ったわけです。

 アスペ的には「それはあなたのことで私には何もできないから私は関われない」となりやすい。で、定型は「何もできないからせめてリップサービスだけでも」という気分が生まれやすい。

 どちらも「あなたはあなた、私は私だから、私は何もできない」というところから出発して、そのあとがずいぶん違う方向に行くことがわかります。

 そういえば私のパートナーは寅さんみたいな人が大嫌いみたいなんですが、要するに人に迷惑をかけながら、共感的なつながりを大事にして、お互いの違いを強調すると「それを言っちゃおしまいよ」みたいなことを言ったりするあたりが嫌なのかなと想像するのですが、その寅さんの名セリフのひとつにやはり私とあなたは違う、というのがあります。

 「人間みんな別々よ。早い話がよ、俺が飯を食ったらお前がクソをするか?しねえだろう。」

 まあ、寅さんも今でいえば発達障がいと言うことになるのかもしれませんが、あのような定型的な人情、共感を追求するタイプの人のセリフとしても、面白いなと思います。

 

工夫の副次的な効果

 パートナーはいつもと違う状態があると途端に緊張が高まり、「これはなんなの?」と私を問い詰めるように(と聞こえてしまう)言われる傾向があるのを減らしたくて、そうなりにくいような工夫を考えるのですが、今のところわりといいかなと思うのは、彼女が自分でその変化を見る前に、なるべく先立ってこちらから伝えておく、ということです。

 そうすると気持ちの準備をする時間が増える分、いきなりその状態にぶつかって混乱する、ということが少なくなるような気がします。

 最近は100円ショップで小さなホワイトボードを買ってきて、それに私が気づいたことを早めに書いておく、ということを始めました。

 実際に彼女に対してどこまで効果があるかはしばらく見てみないとわかりませんが、ただ私の方で「これはまた彼女が混乱するんじゃないか」とか心配になる気持ちが、こうやって書いてしまうことで軽くなるという、副次的な効果がどうもあるみたいで、これは自分にとっていいと思っています(笑)

2017年8月11日 (金)

不機嫌の理由

 パートナーがかなり不機嫌な感じがしたので、小心者の私としては(笑)、また何か気に障ること、特に家事などの失敗とかしたのだろうかと不安になっていたところ、案の定スケジュールの伝達を間違えていたことを指摘され、「それでか!」と思ったのですね。

 それで、「昨日不機嫌だった」という話を仕向けたらそれには気づいていなかったようでした。それでその伝達の失敗の話をして、「それが原因だったんじゃないの?」と聞いたら、その失敗に気づいたのは今日なので、それはありえない、と説明された後、「不機嫌な時の9割はだいたい仕事のことだから」と慰められ(?)て、ほっとしました。

 でも考えてみると1割はそうじゃないんだ(やばい (笑))。

2017年8月10日 (木)

ずれを抱え続けられるか

carryさんとのやりとりなどからふと思ったことです。

 定型とアスペの違いは,どちらも「直す」とか「治す」ようなものではなく,男が男の体を持ち,女が女の体を持って生まれてくるのと同じように,それぞれが生まれながらに持っている特性の違いです。

 定型的な視点からみると,そのアスペの方の特性は定型的な社会を成り立たせるために必要な関係調整の力が「不足している」状態で,その結果周囲と不要な軋轢を生んだり,自分自身も不適応状態に苦しむことになる,と理解されることになりますから,それに対する必要なケアとして,一歩でも多く定型の力を身に着ける努力をしたり,自らの「誤った」特性を治療することが重要なのだ,という理解の仕方になりやすくなります。

 でもそれは完全に定型的な視点を絶対のものとして考えた一面的な見方ということになります。定型が自分の視点を抜けることがむつかしいということと,アスペの方がアスペの視点を抜けて考えることがむつかしいということは,その限りでは対等なことでしょう。お互い様です。

 定型のほうが優れているのだ,という考え方のひとつとして,定型の調整力があるから社会が成り立っていて,その証拠に,アスペ間で関係がうまくいくかといえば,アスペ同士でも対立がひどくなることがよくあり,そもそも調整力の不足するアスペは社会を作れないのだ,という理解の仕方もあると思います。

 けれども,あすなろさんのご家族の中のお話を伺っていたりすると,アスペ同士はアスペ同士の関係の調整の仕方がやはりあって,それが定型的には単なる対立の破たんした関係にしか見えないだけのことだ,という可能性も十分に考えられるはずです。

 実際「相手を理解し,相手を気遣い,そのことで相手との調整を行う」という定型的な生き方は,「おもてなし」が世界的な売りになる日本の社会で特に強烈に要求される能力です。そしてその能力が不足しているとみなされる人は「KY」と言って責められる。

 けれども私の少ない経験からも,日本ほどこのタイプの調整力を芸術的といっていいほどに高め,KY=悪のように考える社会はそうそうありません。もっと自己本位で,がんがん自己主張をしながら他者とバランスをとっている(ように見える)社会のほうが一般的のように感じます。

 そのことを考えても,バランスのとり方,あるいは調整の仕方は,それ自体がいろんなパターンがあると考えたほうがはるかに現実的に思えます。同様にアスペにはアスペ的な調整の仕方がある,という視点でちゃんと考える必要がある。


 ただし,これも繰り返し書いてきましたように,定型の気遣いはアスペの方には気遣いにならないことがしばしばあり,逆にアスペの気遣いも定型には理解されないことがとても多く,つまりはお互いにとって自然な調整の仕方自体がずれてしまい,相手の調整の仕方は
感覚的にはとても受け入れにくい場合が多いわけです。

 で,そのずれは,もともと生まれながらに持ってきた特性に根差すものです。

 つまり,その調整の感覚のずれは,それ自体がなくなることはありえないということになります。

 そういう根深いずれを抱えた者同士が一緒に生きていくということは,その感覚を一致させるというやり方では基本的には無理だということになります。
 仮にそのことを前提として定型アスペ問題の解決の道,ということを考えた場合,お互いの理解や調整の工夫がどんなに進んでも,感覚のずれによる軋轢を「なくす」ことはほとんど非現実的なわけですから,そのずれを「共に生きる」という形を模索するしかなくなります。

 思えば直感的につけた「定型とアスペルガーを共に生きる」という本のタイトルは,そこにつながることだったんですね,きっと。

 定型とアスペが共に生きる,ということは,つまりは常に発生し続けるずれを調整しながら少しでもよく生きていく関係,そのための姿勢をお互いに維持し続ける,ということ以上でも以下でもない,ということなのかもしれません。

 まあ,考えてみればこのことはなにも定型アスペ間に限られたことではなく,すべての人間同士の関係について言えることだという気がします。男女間でも,世代間でも,親子間でも,文化間でもみんな同じ。ただずれがどういうところに生まれやすいかという,そのずれの性質にそれぞれ違いがあるだけなのでしょう。
  

2017年8月 7日 (月)

単なる我慢を超えられるのか

 ふと思ったことで、これもほんとかどうかはわかりません。

 アスペの方は家族とか、身内になると必要最小限の事しか言わなくなり、朝の挨拶とか、出かけるときや帰ってきたときに挨拶も必要を感じなくなる、という話がありました。

 定型の場合は身内になっても親しさを保ったり深めたりするには、相手のこと(特に気分など)を気にしていることが大事で、挨拶などは、相手のその時の気持ちの状態を知る大事な手掛かりとして使われています(ただしほぼ無意識で自動的に。「あれ?なんか変だ」と言うときだけ意識されます)。

 つまり、お互いに気分を調整しあうということが、親しい関係でも重要で、それが相手に対する気遣いであったり、思いやりであったりする。そのレベルは人によってかなり違って、比較的あっさり系の、淡白な付き合い方の人もあるし、相当相手の中に入り込みあう人もあるし、そこはスペクトラムだと思いますが、ただいずれにしてもそこに大事なアンテナを張っていること自体は基本的に共通している部分と思います。

 ですから、挨拶とか、挨拶でなくてもいいですが、それに類することで、相手の気持ちの変化を知ろうとする姿勢を相手が示しているかどうかは、相手との関係が維持されているのか、崩壊に向かおうとしているのか(したがって修復が必要か)を判断する重要な手掛かりの一つになっています。

 自分のちょっとした変化を相手が気づいてくれるということは(場合によっては自分でもまだ気づかない変化を気づいてくれる)、定型的にはとてもうれしいことになります。それがうれしくなくなる時は、相手との関係が薄くなったり、距離を取ろうとしていたり、あるいは破たんに向かっているときです。

 というわけで、たとえば挨拶をしてくれなくなったという変化は、定型的には「相手が自分と関係を断とうとしている」という方向に理解する可能性が高いことになります。

 で、アスペの方の話を聞く限り、アスペの方にとってはこれは正反対の意味を持っていて、身内になったからこそ、そういうやりとりは不要になると感じられるようです。むしろ外の世界では必死でそのような「気遣い」をしなければならずにへとへとになるので、そういう気遣いを必要としない世界こそが自分にとって心地よい世界になるわけですから、家族はそういう場であってほしい(あるいは当然そうだろう)と思う、というのもわからないではない。

 ということで、ここで「挨拶をしなくなる」ということが定型とアスペで真逆の理解を生んでいくことになるわけですよね。

 アスペの方にとってはそういう「形ばかりの気遣い」(というか気遣いの意味があるとも思われないでしょうが)はなくすほど、自分が生きやすい世界になり、そのような世界を安心して享受できるほど、いい家庭だということになる。その意味で、夫婦関係もいい方向に深まっているという評価になる。

 逆に定型の方は、親しさが増すほど相手の気分の変化などがよくわかるようになり、そこに気遣いあうことがいい関係の深まりを示すという感覚が強くあるので、そういう気遣いが感じられなくなると、関係が終わりに向かっていると感じる。挨拶もその一つになりえます(人や場合によっては挨拶はどうでもよくて、ほかのポイントが同じような意味を持つこともあると思いますが)

 というようなことはこれまで書いてきたことでだいたい見えてきたことのように思うのですが、それを前提にした話です。

 そういう真逆の理解の仕方、感じ方をする定型アスペ関係を調整するにはどうしたらいいのか、ということが大きな問題になります。そうとう基本的なところで感じ方が真逆なので、相手の感じ方に従えば、自分の感じ方が否定されることになり、自分の感じ方を貫こうとすれば相手を否定することになる、という状況がすぐに生まれる。

 そうすると、それでも何らかの理由で関係を維持しようとすれば、相手に対する関心をあきらめて、形だけの家族を維持する、ひたすら我慢する、といった、対処しかなくなるのではないか、という考え方が出てきます。実際そうなっている家族も相当多いのではないかと思います。

 で、私は性格がしつこいので(笑)、第三の道はないかなと思い続けているのですが、たとえば今朝ちょっと思ったんですね。それが今書こうとしていることです。

 彼女が挨拶をますますしなくなっていく状況と言うのは、彼女が自分の感覚を「大事にできている」状態だと考える。彼女が自分でいられる状態を深めていると考える。私との関係を「それができる関係だ」という理解を深めていると考える。

 もし本当にそうだとすれば、の話なのですが(逆にほんとにもうどんどん関係を切られているという可能性もありますから ('◇')ゞ)、それは「彼女が彼女らしく生きられる」ということを望んでいる私としては、うれしいことでもあるわけですね。

 積極的に相手への気遣いを示しあう関係(もちろん程度にもよりますが。あまりしつこすぎると嫌になります(笑))を求めている自分の感覚から言うと、それは同時につらいことでもあるわけですが、以前ならそこは「一方的に我慢する」というだけになってしまうところ、他方で上のようなことだとすれば、「私にとってもうれしいこと」という別の面が表れてきていることになります。

 つまり、単なる我慢の話とは違う可能性が出てきているのかもしれません。

 まあ、たんに自分の都合のいいように考えて、自分を慰めようとしているだけと言う可能性も否定できないのですが ('◇')ゞ

2017年8月 5日 (土)

性格の差の大きさ

 定型には定型の、アスペにはアスペの、それぞれの特性を踏まえた生き方や人生観、世界観が作られていく、ということを考えてきているわけですが、それって、男には男の、女には女の、それぞれの特性を踏まえた生き方や人生観、世界観が作られていく、ということと基本同じなのかなと思います。

 男とは何か、といったって、固定的なものはありません。大雑把に言えば体が女性より大きくて、骨っぽくて、力が強くて、闘争心が強く、持久力はそれほどでもなく、命は短くて、みたいな傾向はあるでしょうけれど、個々のケースでは男女逆転することもいっぱいあります。

 男らしさとは何か、といったって、それこそ時代や社会によって全然違う。光源氏なんて、マッチョな見方からすればぜんぜん「めめしい」と馬鹿にされる男でしょう。

 しばらく世の中のトップは男性と言う時代が続きましたが、最近は女性がトップになることも多く、テレビのニュースとかのキャスターを見ても、女性がメインでちょっと年下の男性がサブになる、と言う組み合わせが目立っています。男女の権力関係も変化しています。

 LGBTとかいう言葉が割と最近急速に広まりましたけれど、性差を固定的に考えない思想が今のはやりですよね。テレビもお姉が大活躍です。「お兄」はどうなんでしたっけ?(笑)

 定型とアスペの関係も、今やスペクトラムと言われるほどですから、常に相対的なものでしかありません。定型の特徴、アスペの特徴と言われるものたちも、個々の人の個々の部分を見れば、そうだったりそうでなかったり。いろんなバリエーションがある。

 当然時代や社会によってもその扱いは全然変わっていくわけです。

 そして男にも女にもいろんな性格の人間がいるように、定型にもアスペにもいろんな性格の人間がいる。当たり前と言えば当たり前なんですが、だんだんとそのことの意味をリアルに感じられるようになってきました。

 定型アスペ問題と言えば、「定型」VS[アスペ」と言う話になりますが、でも現実に自分が向き合っている定型アスペ問題は、そういう大雑把な話では対応しきれません。お互いの個性の部分がそこにすごく効いてくる。だから定型アスペ問題への対処は、ほんとにそれぞれに個性的になるのが当然なわけです。

 ちょうどそれは夫婦関係の問題を「男」VS「女」の問題としてだけ理解するのが不可能であるのと同じですね。そんな大雑把な見方では夫婦間の具体的な問題は解決しません。

 ようやくそのあたりのことが、たんなる頭での抽象的な理解ではなく、もっと具体的な問題として見えてき始めた気がします。そうなったのも、定型アスペの差の問題について、多少自分なりに安定した見方ができ始めたからかなと思います。大雑把な話が見えてきたから、より具体的な問題に目が向き始めたということかも。

 あるいはこんな風に言えるかもしれません。男女差と性格の差ははたしてどちらの方が大きいだろうかと言うと、何とも言えない感じがします。ある面では男女が、ある面では性格の差の方がはるかに大きく感じる。

 ところが定型アスペの差と性格の差は果たしてどちらが大きいかというと、これは定型アスペの差の方が大きいと思えたりするわけですね。なにしろアスペの方自身が自分を「火星人」と言ったりするくらいに、お互いにわけのわからない世界に生きていたりするのですから、定型が持っている性格の差についての理解の物差しが全然役立たなくなって、「アスペ」という大雑把なくくりでしか見られなくなってしまうわけです。

 昔猫にそれほど関心がなかったときは、猫の個性なんか気づかなかった。顔が一匹一匹違うことも見分けがつかなかった。だからまとめて「猫」でしかなかったのが、だんだん慣れてきて、知ってくると一匹一匹の特徴がわかってきて、付き合い方も変わってくるんですね。定型アスペ間でもそういうことが起こるのかもしれません。

 そうやって個性の差が見えてくると、その大きさにも気づき始めるのでしょう。

 

2017年8月 4日 (金)

アスペ的共感

 なんとなくそうかなと感じることで、単なる思い込みの話でしかないのかもしれません。

 パートナーは猫が好きなんですが、私も特別に好きと言うことはないですが、まあ普通に好きというか、居たら居たで面白いしかわいがる、程度の感じです。

 猫は唯我独尊みたいに言われることも多い動物で、犬と違って飼い主を強く求めることはありませんが、でもたまに甘えてくる感じもあります。それで猫のリクエストに応えて私が体をなぜてやっていたりすると、なんとなくですが、それを見た彼女の気持ちも少し和らいでいるのかな、と思えることがあるんですね。

 定型同士だと、もしそうなら「ねこ気持ちよさそうだよね」など、なんか感想を言ったりして、気持ちの共有をしてお互いの絆を確かめたり強めたりすることがよくあるんですが、もちろんそういうことは一切ありません。

 だから定型的には「この人は人と気持ちを共有したくないんだ」と理解してしまうことになります。

 でも、もしかすると、お互いに確認しなくても、お互いの状態が和らいでいるのなら、それがアスペ的な共感のひとつになるのかもしれないと、そんなことを思ったわけです。

 まあたぶんアスペ的にはわざわざ共感などと言う言葉をそこに持ってくる必要も感じられないのかもしれませんが、定型語に翻訳するとそういうことになるのかなと。

2017年8月 3日 (木)

あきらめと尊重

 おいしいお菓子があったので、パートナーにも食べてほしくて渡しておいたのですが、そのあとなくなっていたので食べたのだろうと思います。

 定型的には多くの場合はここで「おいしかったでしょう?」などと言って「一緒に喜びを語り合い、楽しみを共有する」ことが自然で、大事な展開パターンの一つになるのですが、彼女に対してはそれはしないほうがいいのかな、と思うようになってきて、していません。

 かなり前から私はそういう「共感を求める」ようなかかわりを彼女に対してやらなくなってきていたのですが、それはどちらかというと「あきらめ」の感覚でした。どうせ拒否されるんだからとか、言っても意味がないからとか、そんな感じですね。

 そこは今少し変化が起こりつつあるように感じます。あきらめではなく、尊重という感覚が少し生まれつつある気がするからです。

 共感を求めないということは、共感を大事にしたい自分の感覚を抑圧することですし、それ自体大変に苦しいことなので(人生の意味を半分以上否定されたような感覚になります)、「あきらめ」の形でしか対応できなかったのでしょうが、彼女の価値観、世界観が前より少しリアルに見えてくるようになったことで、そこに変化が起こりつつあるのかなと思ったりします。

 もしかするとこの感覚、自閉のお子さんを育てる親御さんの直面する感覚にもつながるのかもしれません。定型的に共感的なかかわりをしようとしても、子どもの方からそれを避けられ続ける。だからあきらめて距離を置いてみるしかなくなる。そしてそのうえで新たに子どもとのつながり方を考え直さなければならなくなる。そんな展開とも共通するものがありそうです。

2017年8月 2日 (水)

アスペ的倫理観?

 ことばが人に対して持つ意味の感覚が違うと、「何が正しい生き方なのか」の考え方が変わってきてしまう。一昨日はそんなことを考えてみたのですが、そこでさらに腑に落ちることがありました。

 以前、「自分がとてもいいと感じ、自分にとって大事な人にそれを教えてあげたい」ということがあったときに、定型とアスペでは伝え方がかなり違う場合がある、ということを、不思議なこととして書いたことがあります。

 全てのアスペの方がそうかどうかはわかりませんが、少なくとも私の経験では、複数のアスペの方が「自分の感想は言わずに、ただ見せてあげる」ということをするわけです。定型ならそれを見せて「ね?すごくいいでしょう?」などと共感を求めることがよくあるのですが、それをしない。

 私はそれがとても不思議で、なんでなのかと思ったのですが、アスペの方の説明では「相手がどう感じるかは相手の問題だから、自分がそこで評価を押し付けるようなことはしてはいけない」ということのようでした。

 まあそういう考え方もあるのかなと頭では思う一方、なんだか変な考え方だという気持ちは抜けませんでした。「これいいよね!」と自分の気持ちを表し、相手の意見を聞くのは、相手と共有する世界を広げ、相手との関係を深める大事な意味があるし、そして定型的なやりとりではとても普通のことだからです。

 もちろん「人に押し付けるのはよくない」ということ自体はそうだと思うし、相手があきらかに嫌いだと推定できる場合はそんなことは言わないし、関係が薄いときにもあまり断定的には言わないのが基本だと思います。そういうときにあえて押しつけ的に言うのは、相手との関係を悪くしたいときでしょう。

 でも自分の気持ちを素直に表現できる関係では積極的に言うわけです。そこで自分の好みを伝えたり、相手の好みを知ったり、お互いの好みをすり合わせることもできる。お互いの関係をさらに深め、絆を築いていくうえで大事なことなのですね。だから「ただ見せるだけで何も言わない」というのは、感覚的によくわからないことになる。


 それが今回、さらに一歩踏み込んで、「ああそういうことか」という感じで受け止められ始めたのですね。なるほどよくわかる、という感じで。

 ことばが基本的に自分の思いを確かめる、自分の世界を作る手段だというイメージがあって、人との世界を作る手段だというイメージは薄い場合、自分の世界を大事にする気持ちを相手とも共有しようとすれば、相手の世界を大事にしなければならないことになります。だから自分の評価を押し付けることは、「してはならない」ことになる。それは相手を大事にしていないことになるからです。

 だから、相手のことを大事だと思うほど、むしろ相手に自分の評価を伝えない、という態度が生まれる。もちろん結果として評価が共有されることはうれしいことでしょうが、そこは自分がどうこう左右するべき問題ではない。

 
 まあ、同じアスペの方でも、かなり自分の考えを一方的に人に押し付けるタイプの方もありそうなので、そこは性格の違いも絡んでくるとは思いますが、少なくとも言葉のイメージが「自分の世界」中心で、しかも自分をあまり強く押し出さず「相手を気遣う」タイプのアスペの方はそういう傾向が強く出るのだろうと想像できます。押しつけタイプの人とアスペ的に共通するのは、「相手との積極的な調整をあまりしない」という部分です。調整せずに自己主張をする人は強烈な押しつけになるし、押しつけを嫌って自己主張を控える人は「相手が感じるに任せる」ことを大事なこととする。


 自分のことばが他人や自分にとって持つ意味の感覚が違うことで、「どういう人間関係が大切なのか」のイメージが変わってきてしまう。つまり、人と人の間の「倫理」、道徳観に違いが出てきてしまうことになります。だから「気遣い」の方向が逆になる。

 病気をしたときにどう相手を気遣うか、どう気遣ってほしいかが定型とアスペの間で正反対になる、ということもこれで説明ができます。


 あと、その先に、「じゃあなんで言葉のイメージがそれだけ違ってくるのか」という問題が出てきますし、そこがさらに根っこの部分になってきますが、とりあえずことばで作る世界についてはそういうことがかなり言えそうに思いました。

 

 
 

2017年8月 1日 (火)

倫理観のズレのつらさ

 またいろいろと腑に落ちる感覚が続いています。

 昨日も少し書きましたが、パートナーは自分の気持ちと異なることを言うことについて、私から見てものすごく抵抗感が強いと感じることが時々ありました。もちろん私も抵抗感はありますが、その時の状況ではまあそうしたほうがいいかな、と思えれば、抵抗感は減ることがあるし、そもそもそんなに大きな問題と感じなくて、気楽な時もありますが、彼女はどうもそうでない。

 それは今思えば彼女の大事な倫理観なのかなと。

 人との調整を重視すれば、自分の感覚にこだわっていられないことがありますし、むしろこだわらないことの方が倫理的に感じられるという場合もあり得ます。

 でも自分の思いに誠実であることを重視し、人に対してもそういう意味で「嘘」をつかないことが相手に対しても誠実なことだ、ということを強調すれば、彼女の倫理観になるでしょう。

 このあたりは誰もどっちかひとつということはたぶんなくて、ただ人によってそのバランスが違うのかもしれません。定型は「関係を保つ=思いやり=倫理」(A)の割合が多く、アスペは「自分に誠実=他者にも誠実=倫理」(B)の割合が多い。

 ここでも炎上が起こるときには、激しい怒りが表現されることがよくありました。それは「なんでこんなあたりまえのこと(正しいこと)が無視されたり否定されたりするのか」という、いわば義憤ともいえる憤りのように感じられます。

 ところがお互いが重視するその「あたりまえ(正しいこと)」のポイントがずれてしまうので、大変なことになるわけです。Aを重視する人はBの点で多少問題があっても、そこはそれほど騒ぎ立てるほどの事ではなく、Aこそが重要だと考えるし、Bを重視する人はその逆になります。

 私自身「なんで自分はあんなにひどいことを人に言っておきながら、そのことについては知らんぷりしたかのように相手のことばかり攻め立てるのか?」と不思議に思うことがよくありました。その理由も上のように考えればわかります。

 違う条件(特性とか環境とか)があると、その人の生き方が変わりますから、その中で育つ倫理観も様々になります。で、人間誰でも自分の倫理観は体に染みついていて当たり前に思っていますが、違う倫理観を「倫理」として感じることはとてもむつかしいことです。

 だから違う倫理観で動く相手は自分からすると「ひどい奴」と見えたりする。そして許しがたく思えたりするわけです。そういうことが定型アスペ間では普通に繰り返されている。ここでの炎上もそのひとつの典型的なものでしょう。

 そんな風に考えてみると、彼女もこの世の中で、ほんとうに大変なんだということが改めて感じられるようになってきます。たんに自分の「やりかた」を否定されるわけじゃなくて、その「倫理観」まで否定され続ける状態になるわけです。

 生きるうえで自分が大事にしたい倫理観を否定され続け、そして周りや世の中はみんなそうやって生きているように見える。たとえ自分が嫌でも、その力は圧倒的ですから、結局自分をごまかして生きていくしかなくなるわけです。そうすると、そういう自分自身のことも嫌になってくる。

 まじめな人であればあるほど、そういうつらさが募るのは当然でしょう。

 改めて彼女の大変さ、生きづらさがわかる気がしてきました。

 

2017年7月31日 (月)

対立する「正しいこと」が生まれる道筋

 昨日の記事で整理してみた考え方について、キキさんからもお墨付きをいただいたので(笑)、引き続き少し考えてみます。

   なんで定型アスペのコミュニケーションがここまでずれてトラブルを生み出すのか、ということについて、「ことばで作る世界の違い」みたいなことから説明してみようとしたわけでした。

   ことばにはいろんな働きがあると思いますが、ひとつは人とコミュニケーションを行うための手段ですよね。そのほかに自分の中で考えるという、ひとり言の世界を生む力もあります。この独り言と言うのは、言ってみれば自分で自分に話すようなことですから、広い意味では「自分とのコミュニケーション」という意味で、人とのコミュニケーションの一部ではあります。違うのは「誰と話すか」といことです。

 それで、定型の場合はことばは「相手との関係をうまくやっていく」ための手段という意味が強く、アスペの場合は「自分の思いを確かめる(自分の世界を作る)」ための手段と言う意味が強いので、おなじことばでもこの両者の間で交わされると、そのニュアンスや目的に大きなずれが起こって、トラブルが起こりやすいことになります。

 定型の場合は「相手との関係をうまくやる」ことを優先することが多いので、そうすると「自分の思いを正直に言う」ということを控えなければならない時が出てきます。いわゆる「本音と建て前」のズレの世界ですね。

 たとえば相手の人が自分自身コンプレックスを持っているようなことについて、それを自分もそう思っても相手には言わない、ということをしたりする。それは「本当のこと(本当に思ったこと)を言わない」という意味では「嘘」をついていることにもなります。でもそれは定型的には「正しいウソ」ということになる。なぜなら、自分の利益のためではなく、「相手が傷つかないように」という「思いやりの嘘」と理解されるからです。

 実際はそれが誰の利益なのかについてはいろんな見方が可能なので、そんなに簡単には割り切れない話になりますけど、でも少なくとも「この嘘は自分の利益のためについた嘘だ」と理解されればそれは悪いことだし、「相手のために、場合によっては自分を犠牲にしてまでついた嘘だ」というふうに理解されれば同情されたり、場合によっては正しいことと考えられることもある。そういう世界観があります。

 「嘘も方便」とか「優しいウソ」とか、そんな言葉もあるくらいですね。「本音を言わない」ことが道徳的だ、と考えられる場合も出てくることになります。相手を傷つけず、お互いの関係を維持するということを優先する場合とかですね。このところでその感覚がピンとこないアスペの子どもなんかよく怒られたりするわけです。そこでは「本音=正直」を言うことが「悪いこと」と考えられている。

 ただ、当然のことながら、建前だけでは人間は生きていかれないわけですし、建前だけが暴走してしまって本音との折り合いがつかなくなってしまったら、それはそれで大きな問題が起こります。だから定型もときどき本音をぶつけ合うことが必要になるし(昔ならお酒を飲んだ席では生の本音をぶつけ合っても「酒の席の事だ」と許される、というのもありました)、相手のことばを聞いても、それをそのまま受け取るのではなく、「建前の部分もあるかもしれない」ということを前提に聞く、という態度も育っていきます。

 もちろん親しい関係になるほど、本音を言いあう割合が増えていくわけですが、それでも「親しき中にも礼儀あり」という言葉にもあるように、完全に本音だけの世界にはならない。特に「相手への思いやり」に関する部分では、本音を言うことは許されないという感覚がある。「相手が嫌がること」でも本音を言うべきだということになるのは、あくまでも「今は嫌な思いをするだろうけれど、そのことが結果として将来は相手のためになる」という理由がつくときに限られそうです。

 そんな風に徹底して「本音と建て前」を使い分けて、それで人との関係をうまくいかせようとする傾向が定型はものすごく強くて、そうすること自体が「人として正しいこと」と考えられたりして、それに縛られまくるわけです。

 その結果、自分の中で本音と建前の関係がうまくいかなくなっちゃって、建前に振り回されて自分がつぶれそうになる人も出てくる。そういうときに活躍するものの一つがカウンセリングと言う場なわけですね。カウンセリングの場では普段は建前で語らなければならないことについて、本音で語りなおすということをやるわけです。そうやって本音と建前のバランスを作り直すことで、生きやすい状態を作る、という意味がある。(アスペの方への定型的なカウンセリングが時に失敗するのは、この部分に関係するでしょう)

 そういう形で成り立っている定型社会の仕組みが、アスペにとっては受け入れがたい部分が大きいのですね。アスペの方にとってはことばは「自分の思いを確かめる」ことが大事で、そこから離れたことを言うのは「嘘」をつくことで、正直ではなく、だからそうすることにはものすごく気が咎める。ひどいことをしているような感じになる。私のパートナーなんかもそうですね。

 アスペの方が定型のやりかたにショックを受ける典型的な場面は、「陰口を言う」ような場面です。その人がいない場ではぼろくそにその人への文句を言いあってた人たちが、その人が現れると手のひらを返したようににこにことその人と接したりするのを見て、ものすごく不信感を持ったりするわけです。もちろん私もそういうのは個人的には好きでないですし、そういうことばっかりやっているような人とはあまりお付き合いしたくないですが、そこで受けるショックのレベルがアスペの方は全然違うと感じます。

 そんな定型社会で生きるには、しかたなく定型に合わせて「嘘」を言わなければいけないこともあるから、そこはアスペの方にはとてもしんどくなるわけですね。そのところを自分の感情をかかわらせずに「これが礼儀なんだ」とか思えればまだ楽になりますが、感情がかかわってしまうとそこは大変になる。

 と言う感じで、ことばの「人とのコミュニケーションの手段」という面をものすごく重視している定型と、「自分とのコミュニケーションの手段」という面を大事にしているアスペでは、そこから作られていくその人の世界にとって「何が正しいことなのか」ということの道徳観とか倫理観からして異なっていくことが考えられるわけです。

 そうすると、定型にとってはアスペの言葉はものすごく人の道に外れる、とい感じられることがあるし、逆にアスペから見れば、定型の言葉は嘘ばっかりでひどい、ということにもなる。お互いに相手を非道徳的と考えてしまうことが生まれるわけです。そしてこのズレにはなかなか気づかないのが実態でしょう。

 
 

 

2017年7月30日 (日)

将棋との違い

 また入れ子の話ですが、将棋はある意味で入れ子の連続のようなところがあります。

 「「自分がここで歩を打つ」と相手はそれを「自分が次に飛車を○○に動かす」準備と考えて、それに対抗して金を××に動かすかもしれない。その時は自分は次に桂馬をうつことで相手の意図を外すことができる。」というふうに自分が考えるだろうと相手が考えて、金を××に動かさず、銀を××に動かすかもしれない。その時は自分は歩を進めて成ることで局面を変えることができる。そうすると相手は……」」」


 みたいに、お互いの読みを読みあって進めるわけですね。しかもその読みのパターンはものすごい数になります。

 将棋のプロと言うのは基本的に天才みたいな人でしょうし、何十手も、しかも何筋も読むんでしょうね。そんなに複雑な入れ子を頭で展開する。そういう人たちの中にもアスペ系の方が結構いそうです。

 だからその意味ではアスペの方が入れ子がわからないということはないはず。アスペ系の方が得意なプログラミングだって入れ子のオンパレードですしね。

 
 でもだからと言ってそういうアスペ系の方が人間関係の入れ子をうまく理解できるわけではなく、そこではものすごく苦労されたりもするわけです。

 
 何が違うのかなと気になっているのですが、ひとつてがかりになりそうなことは、将棋の場合は駒の動きがあらかじめはっきりと決まっていて、それ以外はルール違反だということです。だから相手の意図を読むと言っても、限られた可能性の中から読んでいけばいいわけで、しかもそのルールは基本的にはずっと変化しない。

 ところが人間関係の場合は、相手の出方のパターンはきっちりとは決まらない。大雑把には法律に違反しないとか、習慣に従うとか、礼儀に従うとか、ある程度の決まりがあるときもあるけど、それも絶対とは言えない。決まりと言っても矛盾するようなのがあって、場合によって使い分けたりもするし、そもそも決まり自体がどんどん変わっていくこともある。

 割と安定しているように見える習慣だって、十年、二十年と年月が経つとぜんぜん変わってしまうこともあるし、そもそも文化が違うとお互いに全然矛盾するような習慣を持っていたりします。

 だから世の中の人間関係の中での決まりと言うのは、多かれ少なかれ揺れ動き続けるものなわけですね。もちろん大きな決まりは比較的安定して続きやすいし、細かい決まりはすぐに変わる可能性が高いとか、そんな違いはあるにしても、でもいずれ変化していくというのはどちらも同じ。原始時代から一切変化しないきまりなんてないでしょう。

 かといっていつでもずるずると変化していったら、みんなわけがわからなくなって世の中大混乱になるから、ある程度は安定していないといけないし、安定させようとする力も働く。そういう意味で変化しようとしたり安定しようとしたり、そのあたりも揺れ動きながら世の中の決まりは成り立っているわけです。


 そうすると、そういう社会で生きていくには、「はっきりと決まらないもの」について、お互いにいろいろ調整しあいながら折り合いをつけていくような、柔軟な、あるいはある種のいい加減さを持ったやりとりの仕方を身に着けていかないと生きていきにくいことになります。

 そうすると、曖昧さが我慢できず、白黒明確な状態を好むアスペの方にとってはとても不利な状況だということになりますよね。


 たぶん定型の使う入れ子は、そういうあいまいさをたっぷり含んだ入れ子なんでしょう。そこがたとえば将棋などのように、曖昧さは全くない入れ子(ただし、相手がいろんな可能性のある手のどれを選ぶかは断定できない)とはすごく質が違うのだということになりそうです。


 物理学とかの自然科学や数学、論理学、プログラミングなどでアスペの方が活躍しやすいのはそういうめちゃくちゃ曖昧な世界、複雑な世界を数式や論理の式で明確にしながら考える方法を持っているからでしょうね。「どっちとも言えない」みたいな世界も「確率」という数学で対応してしまいますし。そのやりかたで宇宙の始まりまで考えられてしまうわけですから、その力は相当のものです。

 法律なんかも、めちゃくちゃ複雑な世の中を、法律と言う「きまり」で割り切る形で対処するから、アスペ的な理解がしやすいところでもあります。ここもまたアスペの方が活躍する場面の一つになっているようですね。ただし非常に複雑な問題について、あまりに機械的に表面的にルールを当てはめることでおかしな法律的判断が生まれることも実際にはよくあっていろんなトラブルのもとにもなりますが。 


 共感の問題がそこにどうからむのかはまだちょっとよくわかりませんが、とりあえず理屈の世界の問題としては、そんなことがありそうな気がしました。

「話す」ことの意味のズレ

 ある方からいただいたご意見から思ったことです。

 定型にとってアスペの方の発言の意図が理解しにくくなるパターンとして、もしかすると次のようなことがあるのかもしれません。

 「誰に対するものかが不明確な形で自分の思いをそのまま発言する」

 定型アスペの違いとして、ここでも何度かアスペの方自身から語られてきたことの一つに、定型の行う人間関係の「読み」がアスペの方には複雑でむつかしすぎるということがありました。

 定型がやりとりをするときには、自分が何を言いたいかということだけではなく、相手がそれをどう理解するか、ということを推定して、相手に合わせて表現を変える、というようなことを多かれ少なかれやります。入れ子で説明すれば「私は○○と思う」ということをいうときに、「「私は○○と思う」ということを聞いてあの人は「私は××を要求している」と理解するだろう」というところまで想定して、自分の表現の仕方を工夫するという感じでしょう。この入れ子の関係がさらにいくつも重なっていって、どんどん複雑になっていきます。

 複雑になればなるほど、定型でもわけがわからなくなることがありますし、そういうわけのわからない複雑さで進められるのが、政治の世界みたいなところもあります。話題の忖度もそういう仕組みの中に生み出されるものの一つでしょう。

 「AさんはBさんに○○と言った」というたったひとつの事実についても、その解釈の仕方はいくらでも複雑になりえます。

 「「AさんがBさんに○○と言った」のは、AさんがBさんに「Aさんは××を望んでいる」ということを伝えたいためだ」

 「「AさんがBさんに○○と言った」のは、「その言い方だとAさんがBさんに「Aさんは××を望んでいる」ということを伝えたいのだと思われるだろう」、ということを理解したうえで、Cさんに対して「AさんはBさんとの間に△△の関係を求めている」ということを伝えたいためにあえてそう言ったのだ」

 「「AさんがBさんに○○と言った」のは、AさんがBさんに「Aさんは××を望んでいるのかもしれない」という疑問を抱かせることで、Bさんとの関係を変えようとしているからだ」

 「「「AさんがBさんに○○と言った」のは、AさんがBさんに「Aさんは××を望んでいる」ということを伝えたいためだ」」とBさんは理解するだろうとAさんが考え、そうBさんに理解させることで△△を実現するためだ」

 などなど。いくらでも考えることが可能です。もちろん複雑になればなるほど、定型でもわけがわからなくなってしまうということもいくらでも起こりえます。

 そんな風にたったひとつの発言でもいろんな意味を含みえますから、さまざまな理解の内、どれが一番適切な理解なのかを判断する必要が出てきます。そのときに使われる手掛かりが、たとえば話の文脈です。それ以前にどんな話の展開があって、今その話が出てきているのか。それを聞いているのは誰で、どんな展開が予想される中でその人の発言が行われているのか。あるいはその人の性格についての判断も関係します。その人はどういう意味でそういう発言を行う傾向があるのか。

 アスペの方はそういう文脈などについての読み取り方が定型とずれやすいのですね。それで「空気を読めない」という言われ方をする。

 ただしそのこと自体も、状況によってすこしいろんなパターンになる可能性があって、このややこしい「空気」の読み方をどこまで要求するか、ということは相手との関係や社会によっても大きく異なります。

 私の経験する限り、日本の社会はこの読み取りをめちゃくちゃ複雑にすることが要求されやすい社会です。それに対して、たとえばアメリカなどの社会は言葉を比較的その言葉通りに理解しようとする傾向が強い。たとえば「私は○○は得意ではありません」と言えば、日本では「この人は控えめに自分を表現している。本当は結構できるはずだ」と思ったりすることが多いですが、アメリカだと「この人は○○については無能な人だ」とそのままストレートに判断されたりする傾向が強い。そんな違いがあります。

 いろんな文化の人がまじりあっていて、定型同士でもお互いに理解しあうことがむつかしい社会では、ややこしい空気の読みあいよりも、ストレートなやりとりを好む傾向があるように感じます。また、言うことと思っていることのズレが少ない人は「表裏がない人」ということで、定型同士の複雑な読みあいのややこしさに嫌気がさしたときにはむしろ「信用できる人」となることもあります。

 また逆にアスペの方でも理屈の世界で複雑な入れ子の関係を理解するようなタイプの方は、定型とはすこしニュアンスを違えながらも定型的なややこしい「空気」の世界を客観的に分析して結構うまくつかまえる方もあるような気がします。


 そういういろんなバリエーションもありながら、いずれにしてもアスペの方に比べれば定型の社会はそういうあいまいな「空気」をお互いに読みあって関係を作る、ということを「自然」なことと感じて生きています。そうすると、相手に対して自分の真意をできるだけ誤解なく伝えようとすれば、逆に曖昧さを減らす工夫も必要になります。誤解を生まない表現の仕方の工夫ですね。


 そこで問題になることの一つは「Aさんは○○と思っている」ということを表現するときに、それはAさん自身の思いの素直な表現なのか、それを表現することで、聞いている相手の人に何かを求めていることなのかということの区別が重要になります。

 定型的な関係では、Aさんが何かを誰かに言ったとすれば、それは単に独り言として理解することはまずありません。あえて相手に言ったということで、そこにAさんが相手に言う意図を同時に推定することが当然のことになります。Aさんは何かを求めているから相手にそれを言うわけです。

 ですから、Aさんが本当にひとり言に近くある発言をするときには、それが相手に特別の意図をもって言われているのではない、ということを伝える工夫を行います。たとえば「○○って私はおもっちゃったんだよね」とか、ちょっと過去のような言い方にして距離を置く。「まあ私のぐちみたいなもんなんだけど、○○とか思っちゃってね」というように「あなたに何かを求めているわけじゃないんだよ」ということをそれとなく表現するというのもあります。

 というわけで、Aさんがそういう工夫なしに「○○と思っている」と言えば、それはそういうAさんの立場を相手に理解させることで、何かを相手に要求しているのだと理解することが自然になります。「私とてもつらいんです」と言えば、それは「助けてください」ということを要求しているのだと理解するのが普通のことで、仮にそこで「助けてください」の意味を受け取らないとすれば、それは「相手の要求を無視した」ことになり、「人の援助要請を拒絶した」ことになりますから、それ自体倫理的に問題になることもあるのです。だから「つらいです」と言われて対応できない場合は「ごめんなさい。私にはどうしようもありません」みたいな感じで謝るとか、何かの応答が必要になります。それが定型のやりとりにとっての「人としての道徳」にもなります。

 逆に言えば、「私とてもつらいんです」と相手に言ったにもかかわらず、「私は相手には何も求めていなかった」と言うのは、人をだまし、裏切る反倫理的な行為と言うことになります。だから定型間ではそういうことをする人は信用を失い、時に激しい非難を受けることになります。

 この点で、アスペの方の中にこの関係がまったく理解されない方があるのですね。相手に言っているにもかかわらず、その発言は相手抜きの独り言のように感じられている。だから相手がそれに応じて援助をするのは、相手が変だということになる。

 これは言葉を発するということについての感じ方の基本的な部分での感覚のズレの結果と言うことになります。

 たぶんそういうタイプのアスペの方も、相手の援助が適切ならば、それはありがたいと思うのでしょう。そこまでを拒否するわけではない。でも、ことばが人に対して及ぼす影響についての意識が定型に比べるとかなり希薄で、相手の言葉に対して応答する義務がお互いにある、ということについての感覚が希薄であるために、「自分の言動が相手に対して持つ意味」を考えることが少ない。その結果、「相手の応答が自分の言動の結果だ」という理解がむつかしくなり、「相手の応答には自分にも責任がある」という考え方が生まれにくくなる。「あなたはあなた。わたしはわたし。あなたは勝手にやっていることで、私には責任はない」という理解になっていく。

 それがそのタイプのアスペの方にとっては自然な感覚なので、そこで「あなたがこういったからでしょう」というような定型側からの批判が来ると、その意味が全く理解できず、「自分で勝手にいらないお世話をしておいて、逆に文句を言ってくる」と理解し、そのことに怒りを爆発させるような展開にもなります。

 これなんか、典型的に「人に語るということの意味」に関する理解あるいは感覚のズレによって生まれる悲劇的な対立ですね。


 アスペの方の中の一部の人の場合「その言葉が誰に向けられたものなのか」がはっきりしなくなる、というのも同じような仕組みから生まれてくることだと思います。サロマさんとあすなろさんのやりとり(この場合はあすなろさんが定型的な感覚をお持ちと理解します)の間のかみ合わない議論の展開はその典型例になります。

 あることについて怒りを持つ、ということは誰にでもあることですし、それに対して怒りを表明することも当然の事でしょう。問題は誰のどういう部分について誰にどのようにその怒りを表明するのかです。

 ここで定型の場合は、「この人には何を言うべきで、何を言うべきではないか」ということを明確にしながらやりとりするということを常に調整しながら発言していきます。ほんらいCさんとの間に起こったトラブルから生まれた怒りについて、その怒りをBさんに向けてしまったら、Bさんとしては理不尽な攻撃を受けたと感じますから、Bさんとの関係が悪くなってしまいます。それは「八つ当たり」であって、子どものような未熟な行動として否定的に見られますし、実際必要のない人を敵にしてしまうので、当然本人にとっても不利なのです。

 この点で一部のアスペの方は、「誰に発言するか」をあまり意識せず、「自分の怒りを表現する」というところにだけ意識が向きやすい傾向があると思います。だからおそらくその方自身の感覚では「自分の感情をすなおに表現しただけだ」と思われるのでしょう。その場合、その「すなおな表現」が、相手に対して不当な攻撃の意味を持ちうる、ということはほとんど意識されないことになります。ですから、不当に攻撃されたと感じた側が「それはおかしいでしょう」と反撃すると、こんどはなぜ自分が反撃されたのかが全く理解できないので、「自分が理由もなく不当に攻撃された」という理解になってしまうわけです。


 改めて書くと、これらのかみ合わないずれた展開は、いずれも「あることを言う」という行動が、相手にとってどういう意味を持つのかということについての理解の仕方の基本的な感覚のズレから生まれていることがわかります。定型は「言う」ということは相手に対する表現なのだ、という側面に常に注意を払う傾向があり、その中で「適切な言い方」を工夫する努力を続けます。これに対して少なくとも上のタイプのアスペの方は「言う」ということは基本的に自分の思いの確認であって、そこに他者がいてもいなくてもあまり違いを意識されないことになる。だから相手に合わせた表現の調整の必要も基本的には感じないことになります。 

 

 
 
 

 

2017年7月27日 (木)

薄皮を一枚一枚

 子どもとパートナーの関係が、永遠にうまくいかないのではないかと思わされる時期がずっと続きましたし、そのことで彼女が子どもに対してまるで原罪を背負ったかのような姿勢になってしまい、子どもへの笑顔もほとんどなく、あるときは無理やりひきつったような笑顔になることもあったりして、私もいったいどうしたらいいのか、痛々しくて仕方なかったのですが、ほんとにこの1年くらいでしょうか、少しずつ変化が見えてきて、今は子どもに対する自然な笑顔がもう何年振り、いや十何年ぶりくらいに見られて、うれしくて仕方なかったです。

 やっぱり彼女の自然な笑顔は、私にとっては本当に大切なものなんですね。それが見られない状態はほんとうにつらい。もう一生その状態が続くのかという思いにもなっていましたが、文字通り薄皮を一枚一枚、ゆっくりとはがすように、ものすごい時間をかけて変わってきました。

 もちろん彼女だけがかわったわけではなく、子どもも私もかわってきたわけです。みんながそこで傷ついてきたわけですね。その傷跡がなくなることはないのかもしれませんが、でもちょっといじればすぐにまた血が流れるような危ういかさぶたの状態からは抜けてきているのかなとも思います。「腫れ物に触るような状態」ではなくなってきているから、自然な笑顔も出るようになっているのでしょう。

 私も、たとえば食事時にテレビを見ていて、わりに最近までは彼女の固い雰囲気が気になって、笑うこともできなかったのが、最近は気にせず馬鹿笑いもするようになってきました。自分が暗くなっていれば、彼女もますますそうなるかもしれないと思って、多少意識的に笑いを「こらえないようにする」という感じもあったりしたのですが、でもなんとなく「笑ってもいいんだ」という感じになってきている事の方が今は大きい気がします。たぶん彼女の中の変化を私がどこかで感じてきたからでしょう。そして私自身も感じ方や考え方が変わってきたのでしょう。

 あきらめないということは、やっぱり大事なのかなと思います。

2017年7月24日 (月)

お互い様のむつかしさ

 定型アスペ問題について、ここでは「お互いの感じ方、考え方、ふるまい方のズレ」に注目し、おかしな誤解で悲劇的な対立が繰り返される状況をなんとかできないか、ということを考え続けてきました。

 そのこと自体は全然間違っていないと確信していますけれど、そこでどうしても繰り返し突き当たってしまう問題は、「お互いに相手方に対して被害感情を持っている」という現実です。

 その深刻さが比較的少なめの場合は、たとえ被害感情があっても、そこを少し引いて考えることもできやすくなりますが、その被害感情がものすごく深刻なレベルまでいっている場合はそう簡単に相手の立場まで考えることは無理になります。

 さらに自分の加害者としての部分にはまったく思いが及ばず、ただただひたすら自分の被害の部分しか見えない状態に陥ってしまっている場合には、とてもではないが相手の立場を考えることなど想像もつかない、という状態になります。

 そういう感情的な部分がからまない問題については、頭で理性的に相手の立場も考えて、「お互い様の状態を考える(相対的に見る)」ことはやりやすいですが、感情的な問題がからむとその「お互い様と考える(相対的に見る)」ことのむつかしさはものすごくなってしまいます。

 人が感情的になるのは、なにか自分が大切にしている部分をだめにされてしまう、と感じたときなのでしょう。そこを譲ってしまったら自分はもう成り立たなくなる、とか、自分の願いが無になるとか、なにか自分の痛みにつながるような問題が深刻に絡んでくる時です。

 利害がからむという言い方もあるかもしれません。特に「害」がからむとき、人はものすごく防衛的になったり攻撃的にならざるを得ないところがある。そのこと自体は無理のないことでしょう。そしてその点では定型もアスペも何の違いもないと私は感じています。もうそうなってしまうと、冷静な理屈の議論はふっとんでしまい、被害感情をひたすら相手にぶつけることしかできなくなってしまいます。

 私自身の場合は、「被害」のレベルはかなり深刻だと思っていますが、たださまざまな葛藤を通して自分の「加害」の部分についてもだんだんと自覚せざるを得なくなってきたという経緯もあって、それ以前から「お互い様」という理解へのこだわりもあったことがベースとなって、定型アスペ問題でも「お互い様」という視点で「頭で考える」ことをやり続けてきました。当然その時には自分の中の激しい痛みの部分はカッコに入れて、アスペ的世界を頭で想像するというかなり大変な作業を続けることにもなりました。

 私のパートナーも被害感情は強いですが、でもやはり子どものことなどを通して自分が意図せずに結果として生んでしまった加害の部分を深刻に見つめざるを得なくなったのですね。そこがたぶん大きな転換点の一つだったろうと思います。

 だから、被害感情が激しい場合でも、そういう「お互い様」という見方の追求が全くできないわけではないと思います。

 と考えてみると、深刻な被害感情を抱え込んでしまった場合は、いずれかの段階で自分の加害性についても気づく、ということが必要になりそうだということになります。

 もちろんそれはものすごくむつかしいことで、自分が痛めつけられ続けて、もう息も絶え絶えだという感じになっているところに、さらに自分の加害性に気づいてしまえば、今度は自分で自分を痛めつけることにもなりますから、到底耐え難いことだとしても無理はありません。

 自分はこんなにも不当にひどい扱いを受け、これほど理不尽に傷つけられ続けているのに、なんでその自分が相手を傷つけてもいるなどと考える必要があるのか。そんなめちゃくちゃな話があるか。という怒りが生じても、それも無理のないことだろうと思います。

 そういう状態になった時、何が「お互い様」へのステップを生むきっかけになりうるのでしょうか?

 ひとつには、上の事から言えば、なんらかの理由で、いやがおうでも自分の加害の部分を直視するように追い込まれる場合でしょう。その場合は自ら「お互い様」へと進まざるを得なくなる。

 もうひとつは相手が自分の痛みを理解したと感じられることかもしれません。相手に自分の痛みを承認されることで、苦しんでいる自分を否定する必要がなくなります。そうすると、自分の苦しみは一応置いておいて、今度は相手の苦しみについても考える余裕が生まれる可能性が出てきます。

 この二つ目のことについてもう少し考えてみると、こういうことが言えそうです。深刻な被害感情を抱え込んでしまった場合、自分の加害性について考えること、ことばを変えると相手の被害の部分について考えることは自分の被害の部分を否定してしまうことになりかねないということです。「自分がこれだけの被害を受け、苦しんでいることが、なにか思い込みのように理解されて否定される」と感じてしまう。

 だから、「相手の被害」について考えることが「自分の被害感情の否定」につながらないような状態が生まれないと、「お互い様」に進むことがとてもむつかしいということになりそうです。

 まだいろいろな問題があるでしょうが、とりあえずそんなことを考えます。 

 

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