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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

2018年2月17日 (土)

命令口調になりやすい訳

 相方の表現でなかなか慣れないもののひとつとして、私に対する意見の言い方があります。意図としては「こうしたほうがいいよ」という提案だったり、「こういうやりかたもある」というヒントだったりという感じもあるし、もうちょっと強く「こうすべきだ」みたいな命令に近い感じのこともあるようなのですが、私にはどれもが「強い命令」のように聞こえてしまう、ということがよくあります。

 なぜなのか、いろんな可能性があるのでしょう。たとえば彼女自身はそのあたりのニュアンスはちゃんと区別して話しているんだけど、私がその区別を理解する能力がなくて全部同じように聞こえてしまうのかもしれません。逆に彼女の方がそのあたりを区別して表現することが苦手か、その必要を感じていないのかもしれません。場合によっては私が気にしすぎているので、もっと気楽にすればいいという見方もあるでしょう(ただ、気楽にすると「私の言うことを無視している」と怒られたりもするので、それだけではなさそう)。

 なんでなのかなあとずっと考えているのですが、ひとつふと思ったことは、彼女は自分自身に対しても同じように「命令」のような言い方をしているのかも、ということです。

 先日も彼女が言っていたのですが、生きていく中で相手の言うことが納得できない場合は多いわけですね。でも我慢して従わざるを得ない。人から「あなたはこうすべきだ」と言われると、とりあえずそれに従ってみる、という風にすることが多い、という話です。当然それは納得はしていないのですから、無理にやるわけです。だからそういう決意でそれをやるときには、自分に対して自分自身で「命令してやらせる」という感じになるのかもしれません。

 人とのコミュニケーションでそうやって「納得できないけど命令されて無理にやる」という形が中心になるとすれば、その中で生きていくためには自分自身に対して厳しく命令して自分をコントロールするしかなくなります。それが人とのコミュニケーションなんだ、という感覚がそこから育っても不思議ではない。

 そうすると、人と付き合うときも、おなじような態度、やりかたでそれをするようになったとしても、それも不思議ではありません。

 まあ、それでどこまで言えるのかはわかりませんが、なんかそんな面もあるかもな、という気がしました。

2018年2月11日 (日)

「お互い様」を受け入れられるかどうか

 ある意味で子育て経験者さんのおかげという風に言えなくもないですが、反復される同じようなパターンの対立状態がどうやって生まれるか、どうしてそれ以降破たんせざるを得ないのかについて、私なりにちょっと理解が進んだ気がしています。それはこういうことです。

 私は性格的に、相手との共感を求める傾向が強いタイプの人間で、可能な限り相手の人の感情を理解しようとする部分があります。その姿勢が伝わることで、相手の人とうまくいく場合もあります。ただ、感情の動き方が人それぞれなので、どうしても相手の人の感情に共感できないことがあります。

 共感できない状態には二種類ありそうです。ひとつは「わけわかんない」と当惑するようなもので、もうひとつは一応「こういう感情だろう」とはわかっても、それが自分の価値観などと正面からぶつかってしまって、その感情をどうしても受け入れられないような場合です。

 前者の場合はああでもない、こうでもない、と自分の経験を手掛かりに、それを深め、想像力を広げることで「こういう形で考えると自分にも共通することがあるな」ということに気づき、そこを足場になんとか共感的な理解にたどり着く、という方向を模索しますし、部分的にはそのやり方はこの場でうまくいくこともあり、一部のアスペの方からは私に「アスペ認定」をいただくようなこともありました(笑) こういう場合は激しい対立関係になる必要もありません。

 後者の場合も、できれば理解をしたいと思いますので、その場合は自分の感情を抑えながら考えることを進めていきます。むつかしいのはこのパターンの時です。

 この時は私の方も自分の痛みをこらえながら、そことまずはいったん切り離して、言ってみれば「頭で考える」という姿勢になります。そうでなければ感情的にぶつかるだけになってしまうことは明らかです。そういう感情的なぶつかり合いを通して共感的な理解に到達できるのならいいのですが、そもそも定型アスペ関係ではそういうことが難しいということが明らかなのですから、その道は歩めません。

 そうやって自分の痛みを一度自分の中に収める状態で、相手の人に「頭で」向き合うことになります。そのやり方がある程度有効になるのは、相手の人も同じように自分の痛みを直接相手にぶつけるのではなく、一度自分の中に収めて改めて自分自身のその姿も含めて見つめなおしてみる、というふうになれるときです。お互いにそうやって「相手は自分にとっては痛みを与える(加害者のような)人だけれど、でも自分も相手にとってはそういう人になっているのだろう」と考えることで、そこから別の視点から問題を考え直すきっかけが生まれるからです。

 ただ、現実的にはさろまさんもアスペの立場から書かれているように、ここがとてもむつかしいわけですね。定型の側はだいたいは多数派になりますから、アスペの方が仮にそういう姿勢を持ったとしても、自分の方は「正しいから変更の必要がない」と考えやすいので、「お互い」の関係にはとてもなりにくい現実があります。

 その中でも一部の定型の人はアスペの方の苦境を見て何とかしたいと考え、いろいろ努力して接近をしようとするのですが、あまりに感じ方考え方が違うので、自分の善意がそのまま善意として通じることがなく、逆に悪意にとられたりして繰り返し拒絶され、傷つきながら、それでもそれに耐えて頑張ろうとしますが、やはりその状態が続けばそのうちに切れてしまうということが起こります。

 その時は「自分は必死に相手のために頑張ろうとしたのに、それを否定された」という思いになっていて、「なぜ否定されたのか」ということをそこでもう一度考え直してみる気持ちの余裕がなくなっていますから、「やっぱりアスペはどうしようもない人たちだ」というふうに思うことで定型的な自分を支えるしかなくなっていきます。その結果、今まで耐えていた分、その反動で激しい攻撃になることもあります。

 アスペの方の多くは、定型社会では基本的にはその特性は否定的にみられてしまう状況の中で生きています。今の定型社会を維持するために大事なやり方にその特性があわないからです。そのシビアな状況の中で、それでも少なくとも一部の方は善意で定型に接しようとしますが、サロマさんも書かれているようにやはりそれも理解されず、拒絶され、傷つき、それでも耐えてなんとか関係をうまくしようと努力しても結局うまくいかないという厳しい現実があります。

 そういうシビアな状況の中でも自分自身のこともとらえなおしながら、なんとか関係の調整に努力し続ける方もあります。そういうタイプの方はここでの「お互い様」の議論の仕方も共有されやすいのだと思います。

 けれども誰もがそうなれるわけではありません。どこでその分かれ目が生まれるのかはまだよくわかりません。ひとつ可能性として考えるのは、どこかで自己肯定感を保てている場合と、そこが根っこから危機的な状態にある場合の違いでしょうか。

 自分自身がもう保てない危機感を持たれている場合には、まずは自分を救うことが大事になりますから、そのためには自分の中に閉じこもるか、あるいは人に自分の苦境を訴えてそれを認めてもらうことが必要になる。相手のことを考えるという余裕は全くなくなります。

 そうすると、そういう状態にある方にとっては「お互いに傷ついていることを知るところから関係を考え直していこう」というこのブログのスタンスは全くずれてしまうことになります。

 ブログの性格として、定型の感じ方を絶対的なものとはしませんから、アスペの方への理解を、アスペ的な感覚にできるだけ近づきながら進めようとする議論がたくさん出て来ます。けれどもそれは「定型の痛み」も前提にしてなりたつことで、「アスペだけが一方的に苦しめられ、痛めつけられているんだ」という見方とは根本的に違うわけです。

 でもそこがそういう状態にある人にはとても理解できないか、あるいは受け入れられないのですね。そういう方にとっては「自分がどれほど苦しめられているのか」を相手に認めさせることが一番重要になってしまっているからです。だから「あなたが苦しんでいるのはわかるけれど、同時に定型も苦しんでいるという両面を見失わずに考える必要がある」という言葉は何の意味もなく、単に「定型の考え方を絶対のものとして、アスペを頭から否定しているのだ」としか感じられなくなってしまうのだと思います。

 たとえて言えば、大けがをして血を流している人に、となりのけが人の心配もしなさい、ということを要求するようなものですから、そう簡単にできることではありません。けがをした者同士、お互いに励ましあう関係になれれば理想ですが、ただ自分のけがはとなりのけが人のせいだと感じてしまえば、とてもではないがその人の心配をするなどできることではない。「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」という言い方がありますが、そんなことが完全にできるとすれば、それこそ「神様」レベルの対応になってしまいますね。凡人には簡単にできることではない。

 

 そう考えてみると、このブログは、けがのレベルがそれでもまだ軽めですんでいるか、どこかで自己肯定ができていて、そこでの深刻な危機状態を免れていてその分相手の立場も考えるゆとりがあるか、もともと「体力」のある人か、あるいは神に近い人(?)か、そういう人にとっては意味のある場になる可能性が高くなりますが、その逆の人にとっては結局自分を受け入れない、自分を否定する場にしか見えなくなってきてしまう可能性が高い、ということになるかもしれません。

 後者の方にこのブログの姿勢を受け入れていただくことは簡単なことではなく、その姿勢を強調するほどに、そういう方は自分が否定され、攻撃されたと理解されますから、どんどん炎上への道を進むことになります。そういう方にとっては「反撃」しなければ自分が完全に崩壊してしまう危機感を懐かれても不思議ない状況があるからです。

 最初のころは「この方はそもそも人の視点から考えることが<知的な問題として>不可能なのだろうか」といぶかったこともありましたが、やはりそういう問題ではないと思います。自分を必死で守る必要のないところではそれはできる方たちだろうと思います。ただ、状況がそれを許さないのでしょう。

 私は最初に書いたように、できれば共感的に理解したい方で、でもそれが無理な場合は感情を抑えて頭でまずは理解しようとする傾向が非常に強く、そういうコミュニケーションの取り方をしようとします。けれどもそういうやりかたがそもそも適さない状況に置かれている方もあるわけで、そういう方がぶつかってこられたときにどう対応するのがお互いにとっていいのか。今は炎上に向かいそうになったら発言を遠慮していただくような対処しかできてませんが、何か工夫が必要だと感じています。

 

2018年2月10日 (土)

自立と依存の価値観の調整

 またふと思ったことです。

 定型とアスペでは、もともと持っている特性が違うだけでなく、そのことをきっかけに周囲に作られる環境も変わっていきます。そして定型は他の人とつながりながら自分の生きる場を作る努力を続ける、という方向に進みやすくなり、他者との間に共感を求めるというような傾向が一層強まっていきます。それに対してアスペの方は共感を求める気持ちがないわけではないが、無理なことや逆に求めて傷つくことが多いので、つながりの中で生きるよりも自分の力で生きる道を見つけようと努力を続ける、という方向に進みやすくなる。

 そうやって特性の違いがきっかけになって、生き方やそれにかかわる価値観がかなり違う方向に進んでいく、といったことが起こっているのだろうと思います。

 それで、アスペの方は「自立」しているように見えることがある。アスペの男性に惹かれる定型の女性は、その「自立した姿」にあこがれをもったりということが結構あるようです。男らしさとかかっこよさを感じるのかもしれません。ただ、その生き方は「共感を求めない」という姿勢ともセットになるため、そういう女性にとっては今度は共感してほしい部分がいつまでたっても満たされず、苦しんでカサンドラになったりするのでしょう。

 それはさておき、そうやって持って生まれたものと、それをきっかけに作られる環境の違いによって、その後の人生の方向が変わっていくことになります。単純な形で言えば「人を頼ってひととのつながりの中で生きる」方向と「人を頼らず自分の力で生きる」方向の違いです。

 人が生きて行く時、そのどちらかだけで生きられるわけはありません。どんなに「自立」したひとであっても、生活のすべてを一人で成り立たせることは不可能です。かならず人とのやり取りの中で生きていく必要がある。逆に人に頼りたい人でも、頼りたい自分から逃れることはできません。どうしたって自分は他の人と違う自分として生きていくしかない。

 そう考えれば、どちらも必要なわけですね。

 そうすると、アスペの方は社会性に乏しい、ということで「社会的なスキル」みたいなものを身につけなければならないと考えられることがあると思いますが、そこがちょっと違うんじゃないかという風に思えてきます。

 たしかにひとりで生きていけるわけじゃないから、多少なりともほかの人とうまくつきあえる力は必要にはなります。だからそれがなくていいという話にはならない。でも「それが生きていく上で一番大事な目標だ」みたいな感じで考えられてしまうと問題が起こる。

 人との付き合いの中で自分を作り上げ、その中で自分の価値を実現していく、といった価値観を持つ場合にはそれでもいいわけですが、でも「人は関係なく自分らしく生きていく」ことに大きな価値観を感じる場合には、それは目標にはならない。

 これはあくまで「傾向」の話ですが、定型は人から見た自分の姿をとても気にしている。だからその中で自分がよい姿になりたいという欲望が強い。それに対して、たとえば私の相方(パートナーという言い方をcarryさんに習って変えてみました)はそれには揺るがされない印象が強い。そうではなく「自分にとっての真実」に足場をおいて揺るがない感じがするわけです。生きていくために相手に適当に合わせる場合もありますが、それはあくまで表面的なことです。

私も定型の中では比較的「他の人がどういおうと自分にとっての真実を追求しようとする」という傾向が強い方だと思っていますが(だからこそ、ここでもアスペルガーについてのよくある見方、型にはまった見方から考えることを全然していません。あくまでも自分が見たこと、感じたことから考え続けています)、でももうそのレベルが全然彼女とは違う感じがするんですね。

 定型とアスペと、どうやってお互いに折り合いをつけて生きていけるのかを考えるとき、この「生きるうえでの中心となる価値観」の違いを前提にして考えていく必要を改めて思ったという事です。

2018年2月 9日 (金)

被害と加害

 定型アスペ間のやりとりでむつかしくなるときは、だいたい被害感情が複雑に絡まっているときのような気がします。

 一般的なことでいうと、だいたい人間というのは自分の痛みはよくわかるけれど、相手の痛みはなかなか実感できません。加害・被害の関係がはっきりしている場合でも、「足を踏んでいるほうは痛くない」というようなことがあって、踏んでいるほうが踏まれているほうの痛みを理解するのはむつかしい、というか、踏んでいることを気付かないことがよくあります。
 それでも「足を踏む」みたいなわかりやすいことなら、相手に「足を踏んでるよ」と指摘され、自分も踏まれた時のことを思い出せば、想像することはできます。ところが自分がそんなことでは全然痛いとは感じないことを痛いと言われる場合はもっとむつかしくなります。想像すらできないのですから。

 さらにアスペの方のうち、たぶんかなり多くの方は周りから「あなたが加害者だ」と言われ続け、そう思わざるを得ない状況に追い込まれ、自分でも自分を加害者として考えて苦しまれている方が少なくない。そうすると自分も相手から傷つけられて苦しいところに加えて、さらに自分自身が加害者だという苦しみを背負うことになりますので、問題がより複雑になる。

 ただ、その複雑な状態で、自分がなぜ加害者と言われなければならないのか、定型の側がそれで傷つくのかについては実際はなかなか実感できない場合がある。みんながそういうのだからそうと認めるしかない、というふうになっても、実感として「ほんとにそうだ」とはなりにくい。だからある意味では仕方なく「頭で」そう思わざるを得ない立場になったりする。これは定型がアスペの方の痛みを実感として理解しにくいことが多いのと同じことですね。ことばでは理解したとしてもピンとは来ない。

 そういう状況の中で改めて「やっぱり自分のほうが痛みを感じているんだ」ということに気付かれると、その我慢していた痛みが噴出することになりますから、それまで必死で我慢している分、それだけ激しい怒りが沸き起こってくることがあります。これは定型でもアスペでも、そういう場合はそうなりますが、この問題についてはアスペの方(立場の弱い方)がそうなる場合が多い。

 同じように、定型も自分の痛みをこらえてなんとか歩み寄ろうとする場合、その痛みが伝わらない状態で相手から攻撃と感じられるふるまいを受けると、「なんで自分がこんなに痛みをこらえて対応しているのに、そういう態度に出るのだ!」という激しい怒りが生じること(あるいは人)があります。これまでの議論の中で、アスペの方の側からすれば、攻撃している意識は全くなかったりということも多いということも分かってきていますが、「攻撃されている」と感じている側からすると、なかなかそれがそこは理解がむつかしい。

 たぶんここで何度か起こった炎上はそういうことだったのだろうと思います。どちらも日常生活の中で激しい痛みに耐え続けてきている。そしてその痛みに耐えながら、それでも相手と話をしようと試みる。ところがいつまでたっても相手は自分の自分の痛みを理解しない。そして相手の加害者としての面が、つまり自分を苦しめる側の人間としての面が強烈に意識されるようになる。その結果、相手に対するぎりぎりの「反撃」というつもりで、「攻撃」が始まる。

 その時、どちらも自分が加害者であるという面についての実感がないので、自分は被害者であるという意識が前面に出てきますから、相手の「反撃」は「攻撃」にしか見えないわけですね。まさか自分のふるまいが相手にとっては「攻撃」になっているとはなかなか思えないからです。

 その状態に入り込んでしまって、その「純粋な被害者」の視点からしか状況を見られなくなる状態になってしまうと、議論が成り立たなくなってきます。発言の目的はただ「お前は加害者だ。私は被害者だ」ということを相手に認めさせることに集中してしまうからです。すべてがその視点からしか見えなくなってしまうので、何を言っても違う話になってしまって伝わらなくなる。そしてお互いにそれをやるから、話がかみ合うわけがありません。


 ここで模索してきたことはお互いどうやったらそういう一方的な見方を超えていけるかということなわけですが、日常場面のものの見方のずれや感じ方のずれの問題であれば、だいぶんそういうことができるところが増えてきましたけれど、いったんこの被害感情が絡む問題になると極端にそれがむつかしくなります。

 まあ、世の中の悲惨な対立は、その多くがそういう「被害感情」がらみの問題のようにも思えますから、その解決がむつかしいのは当然と言えば当然と言えるのでしょう。そういうものすごくむつかしい問題ですけれど、でもやっぱり単純に自分を被害者としてだけ見るのでもなく、逆に加害者としてだけみるのでもなく、自分が想像できていないところで相手が被害者で、自分が加害者になっていることに少しずつ気付きながら、お互いの新しい関係を模索していく、ということにこだわって、ちいさな歩みを続けていこうと思います。

 

2018年2月 2日 (金)

コミュニケーションスタイルのズレ

 パートナーとのやりとりで、どこがいつも「感情的」にずれるのかがなんとなくわかってきた気がしました。

 私の場合、自分のことを理解したいし、理解してほしいし、また話したい、という「欲望」が強いタイプです。それが一方的なものだとそれこそ傍若無人な「支配欲」みたいにもなり得ますけれど、私の場合はそういうのもいやで、相手の言うことも理解したい、聞きたいという「欲望」も強いんですね。なぜかはわかりませんが。

 そういうことで、お互いに「理解しあう」という状態を求めるスタンスがかなり強くあります。

 もちろん相手を理解するなんて至難の業で、完全に理解するなんていうことは最初から不可能ですから、自分の感覚で相手を理解できる範囲はほんとにちょっとだということも、経験を通してどんどんわかってきます。だから、無自覚な自分の感覚や考え方をできるだけ整理しながら、「そうでない(自分とは違う)相手」のことをできるだけ相手に合わせて理解したいというスタイルになっていきます。

 ということで、相手と話をするときは、まずはできる限り相手の人の言いたいことを、相手の人が感じている感覚に近い状態で理解したいと思うのですね。そうできるというのではなくて、そういう姿勢を保とうとします。どのレベルまでいくととりあえず自分として一段落したと思えるかというと、相手に「あなたはこんな感じ方・考え方をしてるんじゃないですか」と説明して、相手の人が「その通りだ」と納得してくれるレベルまでです。そこまでいくと、ようやくちゃんとしたコミュニケーションが取れるようになったかな、と感じるわけです。

 この場でもそれをやろうと努力して来ているわけですが、もちろんそんなことが完全にできるわけではなく、ただある種の「理想」としてそういう姿勢を保とうとしているということですね。実際そのことで、少しずつ見えてくるものがあるわけです。そしてその見えてくるものには、今までのアスペや定型についての見方では見えてこなかったものがたくさんある。だからそれは必要だと思えます。

 

 そういうやりかたを大事にするので、そこで問題が起こります。お互いにそういう姿勢でやり取りをしたいと思っているのに、そこが相手とずれてしまう場合です。そういう私のやりかたや姿勢は私の性格や、これまでの経験の中で作られてきたものですから、私にとっては大事でも、相手の人はまた別の生き方や姿勢を持っていても全然おかしくありません。それがずれたときに私は困ってしまうわけです。

 彼女とのやりとりも結局そのパターンに落ち込んでしまってうまく進まないことが多いようです。私が自分にとって大事な発見や大事な思いがあった時、それを彼女に対しても話したくなるのですが、まずそれが肯定されることは珍しいと言えます。だいたいがその私の話を否定するような方向で意見が出て来ます。

 もちろん意見が違うことは全然問題ではないのですが、私が言いたい事とは全然関係ないところで否定的な意見が出てくることがほとんどなのです。だからほんとに話がかみ合わず、説明を続けてもその状態がますますひどくなることがよくあります。そういうときの私の素朴な感覚は「こちらの言うことをもう少し理解してから反論してよ」というものです。そんなにでたらめにわかりにくい話をしているつもりはなくて、普通に聞けば「なるほどそういうことも言えるよね」という程度の話だと思うので。

 ということでなんでそういう風に自分が話したことにそういう否定のされ方をするのかがわからずに苛立たしい思いが募ったりするのですが、ただ、時間をおいて考えてみると、私が言いたかったところとはずれたところで、彼女が私の言葉をきっかけに何を感じたのかがわかることがだんだんでてきました。

 つまり、彼女は「私がいいたかったこと」とやりとりしているのではなく、私が言ったことのある部分に刺激されて「自分がいいたかったこと」を言っていると理解すると、ちょっとわかりやすくなるのですね。それは私の言いたかったことを否定しようとしているという風な意識はたぶん彼女にはなくて、ただ素朴に自分が普段感じていることの中の、私の話で引っかかってきた部分を語っているのではないか、という気がしたわけです。

 ただ、私の方はそれを私の話、私が伝えたかったことに対する「反論」として受け取ってしまうので、それに対して説明を加えたり、その「反論」の内容が「おかしい」という説明をしようとすると、今度は彼女の方が「自分の言っていることを理解しない。頭から否定しようとする」と感じて、ますます話がかみ合わなくなっていきます。

 

 この話、コミュニケーションの基本的なスタイルのずれと考えるとわかりやすくなる気がします。彼女は自分がいいと思ったものを私に見せてくれたりするとき、自分の感想もあまり言わないし、私にそれを求めることもありませんでした。最初はその意味が分からなかったけれど、今ではそれは「自分の感覚を押し付けず、その人の感じるままを大事にする」姿勢だったという事がわかります。

 この感覚の延長で考えてみると、ここでも同じことが起こっているのかもしれませんね。私はお互いの考えていることのズレを議論で「調整する」ということをめざすタイプです。でも彼女にとってそういうことはあまり問題にならない。それをやるのは場合によっては「自分の意見を相手に押し付ける」こととして感じ取られてしまうのかもしれません。だから、私の意見に対して彼女が意見を言うときは、それはいってみれば「感想を述べあう」というスタンスで、そこから議論を展開する、というスタンスではないということですね。

 だからそこで言っていることのズレをかみ合わせようとして私が話を「議論」として進めようとすると、「なんで?」という受け止め方をされることになる。そして「また私の言うことが否定された」と感じられることになる。

 お互いに知らず知らずに相手を否定しているのでしょう。彼女は私の「議論」のスタイルを理解しないことで私の意見を「否定」することになる。私は彼女の「感想」のスタイルを理解しないことで、彼女の意見を「否定」することになる。どちらも「自分の言いたいことが否定された」と感じてしまうことが起こります。

 
 ネット上のやりとりだと、お互いに時間的にも距離をとってズレを考えられますから、そのあたりもある程度調整できたりしますが、面と向かってやりとりしているときは、そういう「余裕」も作りにくいので、ずれたまんま話がおかしな方向に展開してしまいやすくなるのでしょう。

 

2018年1月30日 (火)

道徳的な感じ方のズレ

子育て経験者さんのコメント

息子が子供の頃は近所の人におばさんシワが多いねとか、太ったね、おじさんはげてきたねなどと言うので、困ったことがありました。……息子は熟女好きとか言う意味ではなく、肌がきれいな若い女性の方が良いとか、痩せている方が良いなどの一般的な感覚がなく、ハゲていようが、肌が劣っていようが、人の中身が一番ではないかという感覚のようです。

と言った話があり、私はとても興味深く思ったのですが、あすなろさんもやはり興味を持たれてご自分の経験を寄せられました。

うちの場合、私がアスペの子どもたちの話を半分に聞いて丁度良いというのも、実は全てがそうでなくて、時々彼らを怒らせることがあるのです。そういう時、『ママって酷い!』『言って良いことと悪いことがあるだろ!』などと、散々言われます。よく芸人やタレントのことや、ニュースの話題などでぼやいて、そうなることが多いんですが。
私は、目の前にいない人のことなので、何を言ってもいいでしょ!と思うのですが、息子たちは、人をそういう風に見る姿勢が許せないと。
例えば『太っている』と、『ブス』は全く違う。『おとなしい』と、『根グラ』は全く違う。『口下手』と『コミュ障』は全く違う。そんなところのニュアンスが、定型は時にごっちゃになっていることがあるんじゃないかと。だから息子は事実でないことを言った時、怒るのかなと。


 よく、アスペルガーの「障がいの特性」として、「相手の立場に立って考えることが苦手」みたいなことが言われ、子育て経験者さんの例はまさにそういわれることの典型みたいな話になりますが、そういう見方だけでは大事なことを見落とされてしまっている事がお二人の話から分かります。

 なぜなら、そういう形での「障がいの特性」の見方では、要するに人間関係で大事な道徳的な感覚がアスペの方には育っていない(あるいは育ちにくい)という話になります。でもお二人の例からわかるように、明らかにそういう話ではないのですね。

 そうではなく、定型的な「道徳」のポイントと、アスペ的な「道徳」のポイントにずれがあるわけです。

 だから、定型的な道徳の目で見れば、アスペの方のそういう発言は単純に「人の事を考えない、道徳的に未熟な話し方だ」という理解になりますが、逆にアスペ的な道徳から見ると、定型の発言が不道徳に見えることがあるわけです。

 一般によく言われるこの「障がいの特性」の見方は、この部分を完全に見落としてしまっています。つまり、それは徹底して定型中心の見方で、「アスペ」=「不完全な定型」という発想を抜け出られていないわけです。アスペにはアスペの生き方があるということに思い至っていないことになります。


 もちろん、「だから定型は不道徳なんだ」ということを言いたいわけではありません。それぞれにそれぞれの特性をベースにした道徳的な感覚が育つので、そこにずれが起こって相手にとっては不道徳に見える振る舞いが起こってしまうことがある、ということです。どっちがいいとか悪いとかいう話ではありません。
 
 むつかしいのは、相手の道徳的な感覚は自分には不自然だったり良く無いことだったりするので、単純に相手にあわせればいいというものではありません。アスペの方が社会で苦労するのはそういう形で一方的に定型の基準に合わせさせられるからで、納得のいかない生き方をそこで強いられるから苦しくなります。

 逆にカサンドラ症候群のような状態に陥る定型は、家庭という閉じられた別の場で、今度はアスペ的な基準を強いられたりするわけですね。だからその場合は今度は定型の側がものすごく苦しむことになります。

 どちらから言っても、自分を否定して解決することはない。あとはどう折り合いをつけるかという事だけでしょう。そういう折り合いをつける道を探すためにも、まずはそういう道徳的な感覚のレベルでもずれが生まれていることをちゃんと見つめる態度が大事になると思います。

2018年1月24日 (水)

異文化間よりむつかしい定型アスペ関係

 前の記事にいただいたあすなろさんのコメント が、私の中ではとてもヒットしました。

 もうしつこく言い続けてきていることですが、基本的な表現とその受け取り方のところで定型(ADHDの方も含んで)アスペ間で大きなずれがある。「ああそこもそうなのか」「ここもそうなのか」とそのたびにある意味おどろくんですね。いつまでたってもばちっと理解できずに、個別にひとつひとつの「場合」を理解していくしかない。

 考えてみるとアスペの方が定型社会に適応しようとすると、「パターン」で理解するしかなくなる、というい話がありますよね。なぜかはわかりにくいので、「この場合はこうするものだ」というようなパターン化された理解で乗り切るしかなくなる。でも立場を変えて定型がアスペ的関係に適応しようとすると、同じことが起こるわけです。

 今回のあすなろさんのコメントに書かれていた家庭の中で繰り返される風景は、アスペの兄妹と、定型側の母姉の間でマイナスの表現の理解が全然ずれてしまうという話でした。その仕組みはよく分かりませんが、とにかくこういうところでも基本的な感覚にずれがあって、それは個性の差のレベルを超えているらしい。

 そしてあすなろさんはそのパターンを読み取って、「話半分」に聞くような形でバランスを取ろうと工夫されているわけですが、それは自然な感覚ではないわけですよね。頭で理解してやっているということで。

 もしそれが自然な感覚になってしまうと、今度はあすなろさんが定型社会でうまくやり取りできなくなってしまう可能性があります。だからその意味でも完全に感覚を切り替えるのはむつかしい。

 もしかしてバイリンガルのように、状況で表現の理解や表現の仕方を自由に切り替えられる人がいれば、そこはほとんど無理なくきりかえられるのかもしれません。でも言葉なら生まれた時から二つの言葉が周りにあれば、どちらも母語になって違和感なく自然に使えるようになりますけれど、定型アスペの感覚のずれはたとえ生まれた時から両方の親に育てられたとしてもそれで身につくわけではない。
 つまり定型アスペのずれは、言葉の違いや、文化の違いなどよりも、もっと深いところで起こるのだということがこういうところからも想像されるわけです。


 そんなふうに考えてみると、文化や言葉の違いでも人間はものすごい摩擦を起こしているわけですから、定型アスペ関係で摩擦なしに進むなんて、ほとんど奇跡のようなものかもしれません。それほどむつかしい課題にここでは取り組んでいるわけでしょうね。

 ABAとかはそういうことは抜きに、わかりやすくパターンを学び続けるみたいな発想でしょうから、その限りでは即効性を持つでしょうけれど、それだけじゃねえ、と思うし。

2018年1月21日 (日)

闘うか耐えるか

 定型アスペ問題を考え、議論するときに、話がかみ合わなくなる場合の原因の一つに、プラス派とマイナス派の視点のずれがあるのでは、という話を前に書きました。このずれは定型だからプラスで、アスペだからマイナスだというゆうものではなく、定型にもアスペにもどちらにも両方のタイプがありますし、一人の人でも場合によってプラスになったりマイナスになったりしますから、単純な分け方はできないのですが、ただ状況から言ってアスペの方はマイナス派になりやすく、それに比べると定型はプラス派になりやすいと思えるので、そのずれが定型アスペ問題を考えるときにも話のかみ合わなさで出てくることがある、と思えたわけです。

 ここで考えてみようとしている闘うか耐えるかという姿勢の違いも、似たようなものだと思います。

 いろいろな困難にぶつかった時、たとえば理不尽な扱いを受けたり、そうされる人を見たとき、「それはおかしいことだ、変えなければならない」と闘いの姿勢になりやすい人と、「そんな世の中でどうやって生きていくかを考えなければならない」と耐えの姿勢になりやすい人があるように思います。

 もちろんこれも固定したものではなくて、闘いの姿勢の人も破れ続けていつか闘い続けることをあきらめ、耐えの姿勢に変わることもあるし、耐えの姿勢の人が、「これではいけない」と闘いの姿勢に変わることもある。ただ人によってどちらになりやすいかの傾向の違いはありそうな気がするし、またその人が置かれた状況で、どちらにされやすいかの違いもあると思います。

 ものすごく大雑把に言えば、定型社会の中ではアスペの方は不利な立場に置かれることが多く、そして定型の理屈に苦しめられて定型からの要求に理不尽さを感じることも多いはずです。けれどもどれほどそれに理不尽さを感じたとしても、巨大な定型社会の仕組みが簡単に変わるわけもなく、個々人でそれに闘いを挑んだとしてもつぶされてしまう可能性が大きい。

 もちろん定型でも今の世の中に理不尽さを感じる場合には同じようなことは起こるわけですが、そうなる可能性がたぶんアスペの方は定型より圧倒的に大きそうな気がする。そうすると、多くのアスペの方は、闘うよりも耐えて生き延びる道を選ばなければならない、という形になりやすそうです。

 私は子どものころ比較的早い時期から親の影響もあって闘う姿勢の方になり、それ以降破れ続けながら(笑)も基本的にはその癖が抜けないのですが、そうすると、「耐えて生きる」というものの見方を理解することがむつかしくなったりするのですね。

 人が生きていく上では、耐えることも必要だし、でも闘うことも必要だし、どちらか一つだけで生きられることはない、と冷静に考えればまあそうなんだろ思いますが、闘う姿勢をとるという事は「耐えない」という決意でもありますから、耐える姿勢を理解する、ということになりにくい。とくにずっと耐え続ける、ということを認められなくなります。

 パートナーが子どものいじめ問題に直面したとき、彼女はいじめからどう逃れるか、という方法を子どもに一生懸命伝えようとしたようです。例によって報連相はありませんから、私には具体的には何も伝わらないのですが、断片的に聞くところからするとそういう感じがしました。

 で、それは私は理解できない、というか納得できなかったわけです。いじめに対しては正面から闘うべきだ、という発想にすぐなってしまうからです。

 こどものいじめ問題に限らず、いろんなところでそういう姿勢のズレを感じ続けてきたのですね。

 けれども、最近だんだんと実感するようになってきたことは、彼女のこれまでの人生で、彼女が置かれてきた状況を考えると、彼女がそういう姿勢を選んできたことは当然ではなかったか、ということでした。私が私に与えられた条件や私の気質の中で闘いの生き方を選んできたように、彼女は彼女に与えられた条件や気質の中で、そうでない生き方を作り上げてきた。

 当たり前といえば当たり前の事なんですけど、なかなかそういうことは実感として理解しにくいことでもありました。でも少しずつそのあたりについて見えてくると、そこがお互いの関係の変化にも結びつきそうな予感もしています。

2018年1月 2日 (火)

並びあう

 なんとなく思うことです。

 定型アスペ間の共感関係というのは、向き合って語り合う中で生まれるよりも、並びあって同じものを見つめる形での方が生まれやすいのかなあと。

 並びあっていても、お互いに少し位置が違う(目の位置が完全に重なることはむりですもんね)から、ちょっと見え方はずれているんだけど、でも同じものを見ているわけだし、それを見て感じていることもずれているかもしれないんだけど、でも同じものを見ているその場を共有している。

 向き合うとある意味強烈に相手を意識しながらの関係になるので、それってアスペ的にはすごい緊張が高くなってしまって、共感どころではなくなるのかもしれません。でも並びあって前を向いているのなら、そういう緊張は生まれにくいでしょう。

 相手をなんとなく感じながら、でも自分なりにものを見つめることができて、そうやって相手も自分なりにものを見つめている場を共にする。

 なんかそういう静かな、ほっとできる関係が定型アスペ間では特にいいのかもしれないと、そんなことをふと思うのでした。

2018年1月 1日 (月)

2018年 年賀

   

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2017年12月31日 (日)

人生観のすり合わせ

 ここではみなさんのコメントなどをいただきながら、アスペ的なものの見方や感じ方を想像し続け、定型とのズレを探ってきました。

 今のところは世の中に多い見方は

「 アスペ = 定型 - 障がい部分の能力 」 …… ①

というものですが、ここではそうではなくて

「 アスペ = 人間 + アスペ的特性 」 …… ②
「 定型 = 人間 + 定型的特性 」 …… ③

と考え、

「 障がい = アスペ的特性と定型的特性のズレ」 …… ④

という風に障がいを理解してみよう、という試みをやってきているわけです。

 なぜそういうことをやろうとしているかと言えば、①の見方から考えると、定型アスペ問題は「どうやってアスペが定型に近づけるか」という話になってしまいます。目標は定型であって、アスペは目標に到達するのが困難な人たち、という発想です。

 でも、なんでかわかんないけど、こういう発想は私はしっくりこないんですね。そこに含まれる「私(定型)は絶対に正しい」みたいな感じになじめないし。もちろん私自身にとっては私の見方や感じ方は「正しい」と思っているんだけど、それがほかの人にも正しいとはとても思えない……という、なんかそういう感覚がどっかにあって、そこにひっかかるのかもしれません。

 で、私がさぐっているのは、「お互い様だよね」という話です。私から見れば「あんた(相手)、変!」だし、相手から見れば「あんた(私)、変!」。だから別にどっちが優れているということもないし(もちろんある一部分での得意不得意はそれぞれにあるにしても)、どっちも変なんだから、「お互い変な者どうし、なんとか折り合いをつけていきましょう」という話になる。

 まあ、自分が正しいと思い込んでる方にはなかなか通用しない話ではあります。いや、もちろん自分にとっては自分は正しいということは自己肯定感としてはあって当然なんだけど、それって人に押し付けられるものなの?という話ですけど。

 

 で、ぼちぼちそのずれの部分について見えてくるところがあって、そこで見えてくるアスペの方の感じ方とかはあくまで私の定型的な想像力を使っての話にすぎないんだけど、それでもある程度はアスペの方から共感的に受け止めてもらえる部分もあったり、最近は時々私の方が「アスペ認定」をいただくことがあったり、というふうにはなってきたわけです。私自身は依然として「アスペ=謎」という感覚が一番強烈なんですけどね。でも、たしかに「わかる」感じも少しずつは出てきていますし、定型の中ではすこしだけその部分が多い部類に入るのでしょう。

 そのことがベースになってだと思うんですが、最近はたんにズレを考えるだけではなく、「アスペ的生き方」と「定型的生き方」について考えることが増えてきました。

 たとえば男と女は体のつくりがもともと違います。もちろん個人差もあるけど、でも骨の形とか、筋肉の付き方とか、結構違う部分があるし、ホルモンの出方も違うし、そんなこんなで身のこなしがやっぱり変わってきます。男に得意(不得意)な動き方も、女に得意(不得意)な動き方もある。たしか野球のオーバーハンドの投げ方とか、あれは肩の関節の形が男女で違うので、男は得意で女は不得意になるから、女性はアンダースローのソフトボールの方が向いてるとか、そんなこともあったような。

 ということで、そういう持って生まれた体のつくりの違いで、その身のこなし方が変わってくる。それだけじゃなくて、たとえば「言葉が早く身につく」という点ではたぶん女の子の方が一般的には早いんですよね。で、おままごととか、話をしながら進める遊びは女の子の方が得意だし好きな子が多いでしょう。男の子はもっとメカニックなものに魅力を感じる子が多い。

 そんなこんなで、生まれてその後に興味関心を持って作り上げていく世界がまた違ってくる。喧嘩のしかたや仲直りの仕方もそれぞれの特徴がありそう。

 つまり持って生まれたものが違うと、その後の「生き方」が変わってくるわけです。当然、違う特性を持つ定型とアスペも、その特性に基づいた生き方をそれぞれ作り上げて生きているはずです。

 だから、定型アスペのずれというのは、単に感じ方や考え方のズレなのではなくて、なにを大事に何を目指して生きるか、何に価値を感じるか、といった、「人生観」のずれのようなものにも及んでいるんだと思うわけです。

 男の人生観を女に強制することも、女の人生観を男に強制することも意味がないように(もちろん人によっては男(女)の人生観を男(女)に強制することに無理が出てくるタイプの方もありますが)、違う条件を持って生まれ育った定型とアスペの間で、相手に自分の人生観を押し付けることにも無理が出てくる。

 これもたとえて言えば、日本の生活になじみのないアメリカ人に、たくあんの匂いをかがせることはできても、その匂いを「素晴らしいと感じなさい」と強制することはもともと不可能だし、その匂いを嗅いで「おなかがへってきた」ということがないからと言ってそれを「おかしい」と非難することもできない。もちろん「あなたの食生活の中の大事な一部としてたくあんを組み込みなさい」なんていう話は不当な押しつけ以外の何物でもない。なにしろあの匂い、慣れない人には排せつ物の臭いに感じられたりするんですよね。

 こういうたとえ話ならわかりやすいでしょうけれど、でも定型アスペ間では実際はそういうことがたくさん行われていると思うわけです。私も気づかずにそういうことをずっとやってきていて、ずれに気づいて初めてその部分では自分が相手にとっては不当なことをやってきたことに後から気づく程度です。

 

 定型もアスペも、そして細かく見ていけば定型アスペに関係なく、ひとりひとりがそうなのだと思いますが、それぞれ持って生まれた特性をベースに、与えられた環境の中で、いろいろ試行錯誤しながら自分の生き方を作り上げてきている。そうやってそれぞれの人生観も作り上げてくる。そのお互いの人生観をすり合わせる作業も、定型アスペ問題にとっては大事になってくるのだろうと、そんなことを思います。

 ことしもあと半日余りになりましたが、来年はぼちぼちその続きをすることになるのでしょう。また皆さんからもこれまで通りにいろいろな経験や知恵を教えていただけるとありがたく思います。

 ではどうぞよいお年をお迎えください。

 

2017年12月24日 (日)

猫は痛みを伝えない

 いよいよ暮れもおしつまってきました。早いものです。

 家の猫が、ここしばらくなんとなく足を引きずるような歩き方をしていたので、最初は足をくじくか何かで痛めたのかなと思ったのですが、いつまでも治らないので、もう年なので関節が悪くなったとか、そんなことなのかな?とか、そんなことを思っていたのですね。

 そうしたらしばらくぶりに帰ってきた子どもが猫を抱いているうちに、脚の爪を見て、爪とぎができてないんじゃないかと言い始めました。そして爪が伸びすぎて肉球に刺さってきていることを見つけたのです。

 それから猫に文句を言われながら(?)、爪を切ってやったというわけです。

 今朝、歩いている猫を見て、しみじみと「ああ、猫って痛みを表現しないんだなあ」と思いました。考えてみればあたりまえのことなんですけどね。改めてそう思いました。

 人は痛いときは顔をしかめます。別に痛みを人に表現しようとしているわけでも、何かを訴えようとしているわけでもありません。でもその表情を見れば、周りの人は「その人は苦しがっている」と理解します。別に意図してそうしているわけじゃないんだけど、結果としてそれは「人に自分の痛みを伝える」という働きを持っているということになります。

 別にその顔をしたから痛みが消えるわけでも何でもないですし、その表情には自分の中での実用的な働きはなさそうです。とすると少なくともそのメインの役割は「周りの人に自分の痛みを伝える」ということでしょう。だからその表情を見ると、周りは「なんとかしなきゃならない状態」と感じ取ることになります。

 そう感じたうえで、実際にどう対応するかは状況や人によって様々です。「どうしたの?」と話しかけて手助けしようとする人もいれば、面倒だと思って離れていく人もいるでしょう。相手が親しい人なら手助けすることが多いでしょうし、知らない人なら離れていく人が多くなるでしょう。また手助けを考えたとしても、ほかに手助けする人が居たり、すべき人が居たりすればその人に譲って自分は見守るかもしれません。

 そんなふうに痛みの「表情」というのは、自分自身にとってはあんまり意味がないけれど、ほかの人に大きな影響を与え、波紋を広げ、ほかの人を突き動かして事態を変えていく力を持っていることになります。その結果として、自分を助けてくれる人が出てくれば、その時初めてその痛みの表現は自分にとって意味のあるものになります。

 猫は独立独歩の生き方が強いですから、「お互いに協力し合う」ような姿はあまり見られません。自分のことは自分で解決するし、しなければならないのです。そういう猫の人生、いや猫生(笑)にとって、痛みの「表情」は無駄なものです。今回はおせっかいな人間がその痛みの原因を取り除いてくれましたが、そんなことは猫自身は知ったことではなく、爪を切られるときには怒り続け、そのあと痛みが減っただろうに、感謝の気持ちを表すなどということもありません。それが独立独歩の猫的生き方なのだろうということにもなります。

 

 独立独歩の人生観を作っていく、という点ではアスペの方たちもそういう傾向がより強いわけですよね。風邪をひいて寝込んでいるときも、薬を飲むといった手立ては必要ですが、基本的には自分の力で治すしかない、という考え方をされる方が多い。定型は「病は気から」という言葉がありますし、そしてその「気(持ち)」は他の人の働きかけによって変わりますから、ほかの人の働きかけ(なぐさめなど)によって気分が変わると、病にも対抗しやすくなるという感じがある(そんなこといちいち意識しているわけではないですが)。まあたぶん免疫力もそれでアップしているはずです。

 ここでアスペの方が持ちやすい「独立独歩」型の人生観や生き方のスタイルと、定型の方が持ちやすい「頼りあい」型の人生観や生き方のスタイルを考えてみることができそうです。もちろん「独立独歩」か「頼りあい」かはこれもスペクトラムで、完全にどちらか一つということはないし、アスペの方でも「頼りあい」の姿勢が比較的強い人もいるし、「独立独歩」の姿勢が強力な人もいるし、定型も同じようにそのレベルはさまざまでしょう。一人の人もその両方の要素を持っていて、ただバランスとかどの面でそれを発揮するかに個性的な違いがある。

 ただ、そういう細かいことはとりあえずおいておいて、でも大きな傾向としてはアスペ=「独立独歩」型、定型=「頼りあい」型という両極を考えてみると、人がみんなその両極の間のどちらにより傾いているか、ということでわかりやすくなる部分がありそうです。

 

 さて、そうだとして、独立独歩ということではアスペの人生観と猫の生き方には共通するものが感じられます。でも実際にはものすごい違いがあって、その違いが定型アスペ問題を生む大きな要因になっていると考えられます。

 それは何かというと、アスペの方も、基本的な体のつくりは定型と共通していて、痛みなどの自分の状態が表情などによって現れる、というところは一緒なわけです。そしてその表情を見て、周りの人が影響され、反応してしまう。つまり「頼りあい」の関係をそこから作り出すきっかけを無意識に生むわけですね。

 ところが私のパートナーがそのタイプですが、その表情が相手に及ぼす影響、ということはあまり意識しない。これまでも何度か書いたように、たとえば相談事を持ちかけたとき、彼女は「どうしたらいいだろう?」と自分の中で考え込み、戸惑い、それが「苦しそうな表情」として現れます。その表情は定型的に見れば「なんで私をこんなに苦しめるの?」という「非難の表現」に見えたり、時には攻撃的な表現に見えたりするのですけれど、彼女にはまったくそういう表現の意図はありません(そのことを私がある程度納得するまでにものすごく時間がかかりました。今も反射的にはそうなれません)。そこで定型との間にトラブルが起こるのです。

 定型は「頼りあい」型の生き方を成長させていきますから、そこでは相手の表情の読み取りも大事になるし、自分も表情によって表現する力を育てることが必要になる。そこでは自分の表情は、相手への表現になるんだ、ということが大前提になっていて、だから表現の仕方にはとても気を遣うことになるわけです。「表情」=「表現」という関係はもう何も考えるまでもなく当然のこととして定型は全く疑いもなくそう思っている。

 ところがアスペの方の場合、体の仕組みとしては無意識に自然に表情を作るわけで、そこは猫とは全く違うわけです。ところがその表情を「相手への表現」として理解するということが少ない。だから自分の表情が相手にどういう影響を与えるか、ということを考えずに素直に自分の状態が表情に現れることになります。定型がそこで半ば無意識に表情をコントロールして相手との「頼りあい」をうまくやろうと工夫するような、その部分がとても薄くなるわけですね。

 そこでこの「表情」のほとんど無意識のレベルで成り立つ「理解」のところで定型アスペ間でものすごいずれが起こります。定型はそれを相手への「表現」と理解してその後の対応が決まる。ところがアスペは自分の「表情」と理解されてそこに相手のことは入ってこない。そしてその「表情」をめぐってお互いの誤解が生まれ、その後のやりとりがちんぷんかんぷんになっていく。お互いに相手の反応がなんのことかわからなくなる。そして混乱が生まれ、お互いに傷ついていったりする。

 猫と定型を両極において考えると、猫は表情もないし表現の読み取りもしない「表情×」&「表現×」の傾向が強く、アスペは表情はあるけど表現としては理解しない「表情〇」&「表現×」の傾向が強く、そして定型は表情もあって表現としても読み取る「表情〇」&「表現〇」の傾向が強い。そんな風に理解ができるかもしれません。

 人間の世の中は、だれしも、そしてどこでもつねに「独立独歩」と「頼りあい」の両方が必要です。その両方がうまくかみ合ったときに人も世の中全体も一番うまく回るようになる。ただし、ほかの動物と比べてみれば、人間は「頼りあい」の部分をものすごく進歩させてきたとも言えるので、世の中の仕組みの中でその部分が閉めるウェイトが大きくなっています。そして定型はそこがある意味得意な人々なのですね。だから定型はこの世の中で主流になりやすく、それが苦手なアスペは傍流として「障がい」と言われたりすることになる。

 人の世の中は「頼りあい」を進めるために表情を表現として理解する、という「頼りあい」型の人間関係をものすごく発達させています。そして自分の表情が相手に及ぼす影響を考えながら相手との関係をうまく作ろうとする。そこに衝突を避けるために「ストレートに表さない」という「クッション」の工夫も複雑に作られていくことになります。だからクッションを使わずにストレートに表すことが多いアスペの方はその中でうまくいかなくなり、「クッションを使わない」ということで「掟破りの人間」とみなされてみんなから袋叩きの目にあったりする。

 アスペ的人生観からすればそれはとんでもないことになります。自分の思ったことをすなおに表情に表すという「正直」な生き方をしているのに、定型は常に裏がある。嘘をつく。正直に話をしない。人をだます。そして正直に生きようとする自分をみんなでよってたかって攻撃し、排除する。そうしておいて、自分のことを「人の事を考えない、思いやりのないやつだ」などと言う。……アスペの方にそんな風に定型の世の中が見えたとしても、まあ当然かなと言う気もします。

 定型的には「クッション」は相手への配慮だったり思いやりだったり、お互いの関係をよくするための工夫です。ところがアスペ的にはそれは不正直なことで相手に嘘をつくことであり、関係を悪くするものになります。だからお互いに信頼関係が作りにくく、相手への不信感が募りやすくなる。

 その大元の一つが、たぶん表情はするが表現とは見ないアスペ的な傾向と、表情を表現として見て関係を作る定型的な傾向の差なのではないでしょうか。それがアスペ的人生観や「独立独歩」型の生き方を作ったり、定型的人生観や「頼りあい」型の生き方に結びついていく。そしてその異なる人生観の間のぶつかり合いを繰り返すことにもなる。

 もちろん、クッションは実際にお互いの衝突を減らす役割を持っていますから、「助け合い」型の関係を作っていく上では有利に働くことが多い。アスペ的な生き方はそのようなクッションが少ないので、どうしてもぶつかり合いが生まれやすくなる。だからアスペ同士ならうまくいくかと言えば、決してそうは言えないという結果になる。アスペ的な生き方から生まれやすいクッションは相手と「距離をとる」ことです。そして人との関係で安定するのではなく、自分の世界の中で安定する、という方向に向かうことが多くなる。

 まあ、「積極奇異型」とかいうめちゃくちゃな名前が付けられている(ほんとにどういう人がこういうめちゃくちゃなネーミングを思いついたんでしょう?その人の方がよほど「奇異」に思えます)、より人とのかかわりを求めるタイプの方だと、そこはまたちょっと違う工夫を積み重ねられているんでしょうね。そのあたりがどういうことかも興味深いです。

2017年12月 7日 (木)

ネットという「クッション」

 

キキさんのコメントで改めて思ったのですが、この場は少なくとも一部の方にとっては「「自分」は変わってないんですが、そこを別に変えなくても、自分を知れば、もっとうまくやっていける、と前向きに考えられる」場として育ってきているということで、それはとてもありがたいことです。で、なぜそうなれているのか、ということについて少し考えたことです。

 これまでここで考えてきたことで、関連しそうなキーワードを拾ってみると、「クッション」「時間」を思い起こします。

 「クッション」は定型のやりとりで多用される方法で、「あついですね!(=窓を開けてくれない?)」といった間接的な要求とか、「ちょっと考えておきます(=受け入れはむつかしいですね)」といった婉曲な拒否とか、相手に直接言わず人を介して言うとか、いろんなタイプのクッションを使って、直接相手にぶつけることを避け、柔らかくして対立を減らそうということを実にたくさん、しかもほとんど無意識でやっています。

 これがアスペの方が定型社会になじみにくい大きな原因の一つですね。アスペの方から見ると、それは「本当のことを言わない=嘘をついている」とか「ごまかそうとしている」などの否定的な感じを受けることがしばしばになるようです。(もちろん定型間でもそういう否定的な印象を与えることはいくらでもありますが、そのレベルが強い)

 でも、クッションは定型に限らず、定型アスペ間でも、アスペアスペ間でも必要です。たとえばあすなろさんの息子さんは同じアスペのお父さんとの葛藤を避ける工夫の一つとも思うのですが、「あの人はそういう人だ(=自分とは違う)」という形でお互いを切り離し、気持ちの上で距離を置くことでいろいろな衝撃をかわすことができているように感じられます。これも言ってみればクッションの一種でしょう。

 またここで定型アスペ間でも効果が高いと考えられてきたことの一つには「時間」があります。すぐに反論せずに時間を置く。すぐに答えを求めずに待つ時間を置く。

 気持ちの上で、とか、物理的に時間や場所で、距離を置く、という方法が定型アスペ問題(アスペアスペ問題も含め)では重要になることが多いようです。

 夫婦関係など、実生活上ではこの距離の取り方が結構難しいんですね。そういう距離を置けるためには何かの余裕が必要になりますが、それが実生活上ではそう簡単に行かないことが多い。私もここでは「こういうふうにやればもっといい」ということがわかってきても、それを実生活上でパートナーと実現できるかというと、そう簡単ではありません。

 でも、逆に言えばこういう場ではそれが実現しやすいのだということにもなります。なぜならこういう場は見たくない時は見なければいいし、発言したいときだけすればいいし、自分が全部さらけ出されてぶつかることもないわけです。その意味でもともと距離を取りやすい場とも言えます。しかも自分のペースを守りやすい。

 もちろん別の意味で距離が作れずに炎上ということもあるわけですが、そこがある程度うまくコントロールできるようになれば、自分のペースで「距離を取りやすい」というこういうネットの性格は、それ自体が「クッション」として働くことになります。

 キキさんが指摘してくださったそういうこの場のいい性格は、そういう「クッション」としてのネットの使い方がうまく働いた部分も結構あるのかなと、そう思いました。

 

2017年12月 1日 (金)

言葉で表現すること、体で感じること

 記事「プラス派とマイナス派のズレ」へのあすなろさんとのコメントのやりとりの中で、久しぶりに「入れ子」の話を思い出して、その視点で整理してみたのですが、その話はあすなろさんの息子さんが定型社会との自分なりの付き合い方を発見されていく過程にもわりあいよく当てはまるものであったようです。

 つまり、この場合で言えば「人から見られる自分1」と「自分が考えている自分2」という二つにズレがあった時、「あなたは1だよね」と相手から言われても、「『自分1』と見られている自分2」という風に、自分1と2を切り離して入れ子にして考えられればまだいいのですが、それが切り離せずに「相手から自分1と言われた」=「自分が自分1になってしまう」という形になってしまうと、自分が全否定されることになりますから、もう耐えられなくなる。

 二つの自分(1と2)は、入れ子のように理解することで、「どちらの自分にもそれぞれの理由がある」ことになって、その意味で矛盾なく受け入れられることになりますし、そうなればたとえ相手が「お前は1だ」と主張したとしても「まあそう見えるわけだよね。ほんとは2なんだけど」とちょっと余裕を持って受け止めることができるようになるわけです。それができないと「自分1」を認めること=「自分2を否定すること」となってしまって、必死で対抗せざるを得なくなる。

 こういう話は実際は大部分の人が一生繰り返して直面することだと思います。年齢と経験を重ね、いろんなことを入れ子や入れ子の入れ子、入れ子の入れ子の入れ子……のように複雑に組み合わせて考える力がついてくると、その分いろんな見方を組み合わせて考えられるようになりますが、でもどれだけそれができるようになったとしても、その自分の見方を入れ子で考えることがその時にはできないので、やはり上の話と同じ問題がより複雑な形で起こり続けるわけです。

 考えてみると、宗教的な「救い」も同じ構図で理解できる部分がありそうです。世の中から自分を理解されず、否定的にみられ、苦しくて仕方がなかった人が、たとえば「神様」に本当の自分を見て受け入れてもらえた、と感じたとします。そうすると「世間からは自分1と見られているのだけれど、神様にはちゃんと自分2を見ていただいている」という理解が成り立つことで「『自分1』と見られている自分2」が救われ、否定されずに生きられるようになる。

 出家などはさらにそれを推し進めた形かもしれません。世間(家)の見方を離れ(出)て、そういうものに振り回されない自分の世界に生きる場自体を移していくことで、「自分1を見ている世間に振り回されない、本当の自分2」に生きられる、ということなのでしょう。

 それが進んで「無我」の話になったりすると、今度はもう「自分1も自分2も、ぜんぶ無だ」というところまで行って、そういう「誰々が見た自分」みたいな固定的な自分の見方を離れて、あるがままに生きるという境地になっていく。どういう場に生きているかも関係なくなる。ま、私自身が悟っているわけではないので(笑)、あくまで頭で考えた想像の話ですけど……。

 

 また寄り道してしまいましたが、もともと書きたかったことはそこではなくて、とにかく人はいろんな自分を抱えて生きているわけです。いろんな面があると言ってもいいでしょう。そして見る人によってそのどの面が見えているかが異なる。そしてその面が「悪」か「善」かなど、どういう意味で理解されるかは、見る人の価値観によっても変わったりする。

 で、そういう矛盾するような二つの自分を両方とも認めて、入れ子で理解する人から見ると、一つの自分しか認められない人は「このひとは一つしか見られず、本当のことがわかっていない」というふうに見えることになります。まあ自分は二つをちゃんと認めることができて、相手が一つしか認められないということなら、数の上では自分の方が上ですから、「自分の方が正しい」と感じられるのは無理もないことかもしれません。

 ただ、そこで単純に「相手が一つしか見えていない」と理解してしまうと、そこはまた違うんだろうなと思ったんです。たしかに話し合っているときには「一つの面」しか認めないので、全体として理屈に合わないものすごく偏った見方をしているようにも見える。でも、その人がほかの面を全く知らないのかというと、ある意味「体では知っている」というようなことがあるんじゃないか、と思ったわけです。

 話し合いという「頭で知っている」ところで見ると「一つしか見えてない」ということになるけど、頭で理解するような、言葉で理解するような世界ではないところで、もっと素朴な体の感覚のところで、実はいろんな面を感じてはいる。

 これ、パートナーとのやり取りの中でいつも引っかかるところの一つなんですね。私は基本的に「頭でっかち」の部分があって、言葉にして理解する世界をすごく重視しています。ですから、いろんな面について、ちゃんと言葉にして考えられなければならない、という感覚があります。ちょっと極端に言えば、言葉にして語れないのは、わかっていないこと、見えていないことだ、と否定的に見る傾向もあります。

 その癖が体の芯まで染み付いてしまっているので、彼女と話をすると、「話がとても一面的だ」「言うことが矛盾している」といった、言葉の世界での「不完全さ」が気になってしまって、そこですぐに反論してしまうんです。で、そのやりかたは必ずと言っていいほどに失敗します。ここでも同じことが起こりましたけど。

 なんでなのかですが、彼女が言葉の上では「aだ」と表現したとします。で、私は「aだけではなく、bも大事だ」と考えている。それで私は「彼女はaしか見ていない。bを無視している」と考えるわけですね。で、「bもあるでしょう。aだ、という決めつけはおかしいでしょう」と反論する。ところがこれが彼女にとっては私の方からの不当な決めつけに感じられるわけです。なぜなら実際は言葉にはならないところでbについても感じていて、ただそれがうまく表現できずに言葉にするとaしか出てこないだけだからです。

 言葉の世界で表現することを a b
 体で感じていることを      A B
 
 という風に表したとすると、頭でっかちの私はaとbで話をしようとして、AとBは無視しがちになる。で、彼女の方は私に合わせてaで話をするけど、実際はAとBを重視している。というズレが起こっていることになります。

 私から見た彼女の話  a そして bはない
 彼女の言いたいこと  a=A ただし Bもある

 そして「あなたはaと言ったでしょう?」という私の問いかけは、彼女にとっては不当な問い詰めになってしまうことになります。そうやってお互いに「この人には話が通じない」と感じることになる。


 うーん、この話は男女間のズレでもよくおこることのように思うし、いろんなところでありそうですが、この視点から「アスペ的な生き方」について考えると、結構面白いことが見えてきそうな気がしてきました。

 

2017年11月27日 (月)

プラス派とマイナス派のズレ

 いろいろここで考えてきて、最近は定型アスペの違いよりも、共通性の方に目が向くことが多くなってきました。つまり、一見ものすごく違うように見えるんだけど、それを掘り進めて考えていくと、どこかで共通する気持ちの動きみたいなものが感じられてきて、ただそれがいろんな条件で大きな違いを生んでいくだけだ、と感じられるような部分が増えてきたということです。

 もちろん、条件の違いがどんなふうに影響するのか、について、そこではそれぞれの特性が効いていると感じることもあります。でも、逆に言えば条件が同じようなものになれば、それほどの違いは生まれないと感じることでもあります。

 私から見てのコミュニケーションの取りやすさの違いということから、アスペの方たちの中での個性やタイプの違いというのも強く感じられるようになりました。その違いは以前は「アスペ度」の強さの違いかとも考えてみました。定型に近い場合には私はコミュニケーションがとりやすいが、遠い場合には困難になる、というように。

 でもどうもそうでないのだ、ということがかなりはっきり感じられるようになってきました。そしてその違いは、実は定型間でも起こりうるようなものだと感じられてきたのです。

 定型アスペ間でお互いに理解がむつかしく、コミュニケーションが困難になることがしばしばあるように、定型間でもそれがむつかしいことはいくらでもあります。その結果、いろんなぶつかり合いが起こるわけで、お互いに相手を全否定するようなことにもなり得ます。

 そして、定型間で私がコミュニケーションをとるのが苦手と感じるタイプと、この場でうまくやり取りがしにくいアスペの方のタイプに、実はある共通性があるのではないかと感じられるようになってきたのですね。どういうところで対立的になりやすいか、その具体的な内容はかなり違うように見えて、根っこのところでは基本的に似ているタイプの違いです。

 そのひとつですが、私の場合はマイナスの面よりプラスの面を探そうとする傾向が強いです。かなりひどい状況に置かれても、あるいはかなりシビアな関係になっても、どこかにプラスの面を探そうとする。そしてそこを足場にプラスを増やそうとする、というかそうしたいのですね。

 それに対して、逆にプラスの面よりマイナスの面を探そうとする傾向が強い方があります。場合によっては状況がよくなるほど逆にマイナスの面を探そうとする。そしてそれを強調したりする。たぶんそれはマイナスを減らそうとする、あるいはそうしたいという思いが非常に強いのかと思います。

 この違いはやはり定型アスペの違いではないように思います。持って生まれた性格の問題なのか、その人が生まれ育った状況によってそうなるのか、その両方なのか、そこはいろいろありそうですが、でも定型でもアスペでも、そのどちらにより傾くかということの違いはある。

 そこが違うと、たとえばお互いの関係を改善しようとするときにも、そのスタイルがすごく違ってきます。プラスを増やそうとするタイプは、マイナスの面はありながらもそこは置いておいて共有できるプラスを増やすことで前進しようとする。逆にマイナスを減らそうとするタイプは、プラスの面はどこか感じながらも、今あるマイナスを強調し続ける。

 そうすると、仮にお互いに関係を改善しようと思っていたとしても、具体的なところでは完全にすれ違ってしまうことになります。プラスを増やそうとするタイプはプラスを確認しようとするのですが、マイナスを減らそうとする側はそれを無視してマイナスを強調する。逆に言えばマイナスを問題と思ってそこを解決しなければ関係が改善しないと考えるタイプはマイナスを強調しますが、プラスを増やそうとする側はそれを無視してプラスを強調する。

 関係を改善するための足場が共有されないということがそこで生じるわけですね。そして相手はむしろ関係改善を不可能にしようとしているように感じられてしまう。

 そういうズレた関係は定型アスペ間でなくてもいろんなところで見られます。そしてその違いを生む一つのポイントは、「被害」の立場に身を置くかどうかの違いということもありそうです(被害の立場で考える人は、二度と被害を受けないためにマイナスをなくそうとする)。とはいえ、私自身を考えてみると、定型アスペ問題では私自身もかなりの「被害」を受けていると感じている部分もあるので、それだけで説明できるものでもなさそうです。やっぱりかなり根っこのところでの生き方のスタイルの違いがありそう。

 そのスタイルの違いの問題を意識しておかないと、定型アスペのズレを話し合うときに、定型アスペ問題とは直接関係ないところで話が混乱することが起こりそうです。

 

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