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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

2017年12月 7日 (木)

ネットという「クッション」

 

キキさんのコメントで改めて思ったのですが、この場は少なくとも一部の方にとっては「「自分」は変わってないんですが、そこを別に変えなくても、自分を知れば、もっとうまくやっていける、と前向きに考えられる」場として育ってきているということで、それはとてもありがたいことです。で、なぜそうなれているのか、ということについて少し考えたことです。

 これまでここで考えてきたことで、関連しそうなキーワードを拾ってみると、「クッション」「時間」を思い起こします。

 「クッション」は定型のやりとりで多用される方法で、「あついですね!(=窓を開けてくれない?)」といった間接的な要求とか、「ちょっと考えておきます(=受け入れはむつかしいですね)」といった婉曲な拒否とか、相手に直接言わず人を介して言うとか、いろんなタイプのクッションを使って、直接相手にぶつけることを避け、柔らかくして対立を減らそうということを実にたくさん、しかもほとんど無意識でやっています。

 これがアスペの方が定型社会になじみにくい大きな原因の一つですね。アスペの方から見ると、それは「本当のことを言わない=嘘をついている」とか「ごまかそうとしている」などの否定的な感じを受けることがしばしばになるようです。(もちろん定型間でもそういう否定的な印象を与えることはいくらでもありますが、そのレベルが強い)

 でも、クッションは定型に限らず、定型アスペ間でも、アスペアスペ間でも必要です。たとえばあすなろさんの息子さんは同じアスペのお父さんとの葛藤を避ける工夫の一つとも思うのですが、「あの人はそういう人だ(=自分とは違う)」という形でお互いを切り離し、気持ちの上で距離を置くことでいろいろな衝撃をかわすことができているように感じられます。これも言ってみればクッションの一種でしょう。

 またここで定型アスペ間でも効果が高いと考えられてきたことの一つには「時間」があります。すぐに反論せずに時間を置く。すぐに答えを求めずに待つ時間を置く。

 気持ちの上で、とか、物理的に時間や場所で、距離を置く、という方法が定型アスペ問題(アスペアスペ問題も含め)では重要になることが多いようです。

 夫婦関係など、実生活上ではこの距離の取り方が結構難しいんですね。そういう距離を置けるためには何かの余裕が必要になりますが、それが実生活上ではそう簡単に行かないことが多い。私もここでは「こういうふうにやればもっといい」ということがわかってきても、それを実生活上でパートナーと実現できるかというと、そう簡単ではありません。

 でも、逆に言えばこういう場ではそれが実現しやすいのだということにもなります。なぜならこういう場は見たくない時は見なければいいし、発言したいときだけすればいいし、自分が全部さらけ出されてぶつかることもないわけです。その意味でもともと距離を取りやすい場とも言えます。しかも自分のペースを守りやすい。

 もちろん別の意味で距離が作れずに炎上ということもあるわけですが、そこがある程度うまくコントロールできるようになれば、自分のペースで「距離を取りやすい」というこういうネットの性格は、それ自体が「クッション」として働くことになります。

 キキさんが指摘してくださったそういうこの場のいい性格は、そういう「クッション」としてのネットの使い方がうまく働いた部分も結構あるのかなと、そう思いました。

 

2017年12月 1日 (金)

言葉で表現すること、体で感じること

 記事「プラス派とマイナス派のズレ」へのあすなろさんとのコメントのやりとりの中で、久しぶりに「入れ子」の話を思い出して、その視点で整理してみたのですが、その話はあすなろさんの息子さんが定型社会との自分なりの付き合い方を発見されていく過程にもわりあいよく当てはまるものであったようです。

 つまり、この場合で言えば「人から見られる自分1」と「自分が考えている自分2」という二つにズレがあった時、「あなたは1だよね」と相手から言われても、「『自分1』と見られている自分2」という風に、自分1と2を切り離して入れ子にして考えられればまだいいのですが、それが切り離せずに「相手から自分1と言われた」=「自分が自分1になってしまう」という形になってしまうと、自分が全否定されることになりますから、もう耐えられなくなる。

 二つの自分(1と2)は、入れ子のように理解することで、「どちらの自分にもそれぞれの理由がある」ことになって、その意味で矛盾なく受け入れられることになりますし、そうなればたとえ相手が「お前は1だ」と主張したとしても「まあそう見えるわけだよね。ほんとは2なんだけど」とちょっと余裕を持って受け止めることができるようになるわけです。それができないと「自分1」を認めること=「自分2を否定すること」となってしまって、必死で対抗せざるを得なくなる。

 こういう話は実際は大部分の人が一生繰り返して直面することだと思います。年齢と経験を重ね、いろんなことを入れ子や入れ子の入れ子、入れ子の入れ子の入れ子……のように複雑に組み合わせて考える力がついてくると、その分いろんな見方を組み合わせて考えられるようになりますが、でもどれだけそれができるようになったとしても、その自分の見方を入れ子で考えることがその時にはできないので、やはり上の話と同じ問題がより複雑な形で起こり続けるわけです。

 考えてみると、宗教的な「救い」も同じ構図で理解できる部分がありそうです。世の中から自分を理解されず、否定的にみられ、苦しくて仕方がなかった人が、たとえば「神様」に本当の自分を見て受け入れてもらえた、と感じたとします。そうすると「世間からは自分1と見られているのだけれど、神様にはちゃんと自分2を見ていただいている」という理解が成り立つことで「『自分1』と見られている自分2」が救われ、否定されずに生きられるようになる。

 出家などはさらにそれを推し進めた形かもしれません。世間(家)の見方を離れ(出)て、そういうものに振り回されない自分の世界に生きる場自体を移していくことで、「自分1を見ている世間に振り回されない、本当の自分2」に生きられる、ということなのでしょう。

 それが進んで「無我」の話になったりすると、今度はもう「自分1も自分2も、ぜんぶ無だ」というところまで行って、そういう「誰々が見た自分」みたいな固定的な自分の見方を離れて、あるがままに生きるという境地になっていく。どういう場に生きているかも関係なくなる。ま、私自身が悟っているわけではないので(笑)、あくまで頭で考えた想像の話ですけど……。

 

 また寄り道してしまいましたが、もともと書きたかったことはそこではなくて、とにかく人はいろんな自分を抱えて生きているわけです。いろんな面があると言ってもいいでしょう。そして見る人によってそのどの面が見えているかが異なる。そしてその面が「悪」か「善」かなど、どういう意味で理解されるかは、見る人の価値観によっても変わったりする。

 で、そういう矛盾するような二つの自分を両方とも認めて、入れ子で理解する人から見ると、一つの自分しか認められない人は「このひとは一つしか見られず、本当のことがわかっていない」というふうに見えることになります。まあ自分は二つをちゃんと認めることができて、相手が一つしか認められないということなら、数の上では自分の方が上ですから、「自分の方が正しい」と感じられるのは無理もないことかもしれません。

 ただ、そこで単純に「相手が一つしか見えていない」と理解してしまうと、そこはまた違うんだろうなと思ったんです。たしかに話し合っているときには「一つの面」しか認めないので、全体として理屈に合わないものすごく偏った見方をしているようにも見える。でも、その人がほかの面を全く知らないのかというと、ある意味「体では知っている」というようなことがあるんじゃないか、と思ったわけです。

 話し合いという「頭で知っている」ところで見ると「一つしか見えてない」ということになるけど、頭で理解するような、言葉で理解するような世界ではないところで、もっと素朴な体の感覚のところで、実はいろんな面を感じてはいる。

 これ、パートナーとのやり取りの中でいつも引っかかるところの一つなんですね。私は基本的に「頭でっかち」の部分があって、言葉にして理解する世界をすごく重視しています。ですから、いろんな面について、ちゃんと言葉にして考えられなければならない、という感覚があります。ちょっと極端に言えば、言葉にして語れないのは、わかっていないこと、見えていないことだ、と否定的に見る傾向もあります。

 その癖が体の芯まで染み付いてしまっているので、彼女と話をすると、「話がとても一面的だ」「言うことが矛盾している」といった、言葉の世界での「不完全さ」が気になってしまって、そこですぐに反論してしまうんです。で、そのやりかたは必ずと言っていいほどに失敗します。ここでも同じことが起こりましたけど。

 なんでなのかですが、彼女が言葉の上では「aだ」と表現したとします。で、私は「aだけではなく、bも大事だ」と考えている。それで私は「彼女はaしか見ていない。bを無視している」と考えるわけですね。で、「bもあるでしょう。aだ、という決めつけはおかしいでしょう」と反論する。ところがこれが彼女にとっては私の方からの不当な決めつけに感じられるわけです。なぜなら実際は言葉にはならないところでbについても感じていて、ただそれがうまく表現できずに言葉にするとaしか出てこないだけだからです。

 言葉の世界で表現することを a b
 体で感じていることを      A B
 
 という風に表したとすると、頭でっかちの私はaとbで話をしようとして、AとBは無視しがちになる。で、彼女の方は私に合わせてaで話をするけど、実際はAとBを重視している。というズレが起こっていることになります。

 私から見た彼女の話  a そして bはない
 彼女の言いたいこと  a=A ただし Bもある

 そして「あなたはaと言ったでしょう?」という私の問いかけは、彼女にとっては不当な問い詰めになってしまうことになります。そうやってお互いに「この人には話が通じない」と感じることになる。


 うーん、この話は男女間のズレでもよくおこることのように思うし、いろんなところでありそうですが、この視点から「アスペ的な生き方」について考えると、結構面白いことが見えてきそうな気がしてきました。

 

2017年11月27日 (月)

プラス派とマイナス派のズレ

 いろいろここで考えてきて、最近は定型アスペの違いよりも、共通性の方に目が向くことが多くなってきました。つまり、一見ものすごく違うように見えるんだけど、それを掘り進めて考えていくと、どこかで共通する気持ちの動きみたいなものが感じられてきて、ただそれがいろんな条件で大きな違いを生んでいくだけだ、と感じられるような部分が増えてきたということです。

 もちろん、条件の違いがどんなふうに影響するのか、について、そこではそれぞれの特性が効いていると感じることもあります。でも、逆に言えば条件が同じようなものになれば、それほどの違いは生まれないと感じることでもあります。

 私から見てのコミュニケーションの取りやすさの違いということから、アスペの方たちの中での個性やタイプの違いというのも強く感じられるようになりました。その違いは以前は「アスペ度」の強さの違いかとも考えてみました。定型に近い場合には私はコミュニケーションがとりやすいが、遠い場合には困難になる、というように。

 でもどうもそうでないのだ、ということがかなりはっきり感じられるようになってきました。そしてその違いは、実は定型間でも起こりうるようなものだと感じられてきたのです。

 定型アスペ間でお互いに理解がむつかしく、コミュニケーションが困難になることがしばしばあるように、定型間でもそれがむつかしいことはいくらでもあります。その結果、いろんなぶつかり合いが起こるわけで、お互いに相手を全否定するようなことにもなり得ます。

 そして、定型間で私がコミュニケーションをとるのが苦手と感じるタイプと、この場でうまくやり取りがしにくいアスペの方のタイプに、実はある共通性があるのではないかと感じられるようになってきたのですね。どういうところで対立的になりやすいか、その具体的な内容はかなり違うように見えて、根っこのところでは基本的に似ているタイプの違いです。

 そのひとつですが、私の場合はマイナスの面よりプラスの面を探そうとする傾向が強いです。かなりひどい状況に置かれても、あるいはかなりシビアな関係になっても、どこかにプラスの面を探そうとする。そしてそこを足場にプラスを増やそうとする、というかそうしたいのですね。

 それに対して、逆にプラスの面よりマイナスの面を探そうとする傾向が強い方があります。場合によっては状況がよくなるほど逆にマイナスの面を探そうとする。そしてそれを強調したりする。たぶんそれはマイナスを減らそうとする、あるいはそうしたいという思いが非常に強いのかと思います。

 この違いはやはり定型アスペの違いではないように思います。持って生まれた性格の問題なのか、その人が生まれ育った状況によってそうなるのか、その両方なのか、そこはいろいろありそうですが、でも定型でもアスペでも、そのどちらにより傾くかということの違いはある。

 そこが違うと、たとえばお互いの関係を改善しようとするときにも、そのスタイルがすごく違ってきます。プラスを増やそうとするタイプは、マイナスの面はありながらもそこは置いておいて共有できるプラスを増やすことで前進しようとする。逆にマイナスを減らそうとするタイプは、プラスの面はどこか感じながらも、今あるマイナスを強調し続ける。

 そうすると、仮にお互いに関係を改善しようと思っていたとしても、具体的なところでは完全にすれ違ってしまうことになります。プラスを増やそうとするタイプはプラスを確認しようとするのですが、マイナスを減らそうとする側はそれを無視してマイナスを強調する。逆に言えばマイナスを問題と思ってそこを解決しなければ関係が改善しないと考えるタイプはマイナスを強調しますが、プラスを増やそうとする側はそれを無視してプラスを強調する。

 関係を改善するための足場が共有されないということがそこで生じるわけですね。そして相手はむしろ関係改善を不可能にしようとしているように感じられてしまう。

 そういうズレた関係は定型アスペ間でなくてもいろんなところで見られます。そしてその違いを生む一つのポイントは、「被害」の立場に身を置くかどうかの違いということもありそうです(被害の立場で考える人は、二度と被害を受けないためにマイナスをなくそうとする)。とはいえ、私自身を考えてみると、定型アスペ問題では私自身もかなりの「被害」を受けていると感じている部分もあるので、それだけで説明できるものでもなさそうです。やっぱりかなり根っこのところでの生き方のスタイルの違いがありそう。

 そのスタイルの違いの問題を意識しておかないと、定型アスペのズレを話し合うときに、定型アスペ問題とは直接関係ないところで話が混乱することが起こりそうです。

 

2017年11月 2日 (木)

価値観のズレの問題

 

キキさんのコメントを読んでちょっと思ったのですが、定型とアスペでは人とコミュニケーションをとるときに、注目するポイントに違いがありますよね。キキさんの話では、定型が相手のやっていることにいちいち意味を探ろうとするのに対して、「アスペ族は、あまり考えずに行動しているような気がして、「特に意味なし」と自然に感じる」のだそうです。

 そういわれてみると、いろんなことがなんとなくわかる感じがしてきます。

 定型の場合は、自分のやることを「相手が見ている」という意識がかなり強くて、「相手にどうみられるか」を常に気にしているところがあります。それに比べるとアスペの方は「自分の状態」の方により強く意識が向くらしいですね。

 それに限られず、いろんなところで定型アスペでは注目ポイントや感じ方にズレがあるわけですが、そうすると、そういう条件の違いがからんで、何が大事だと思うか、何を実現しようとするか、その人の「生き方」とか「価値観」なんかもかなり違ってくるのだろうと思うわけです。

 病気で寝ているときに、「気を遣って<大丈夫?>などとときどき声をかけてあげる」ことが大事なのか、「食事など必要な手助けはするが、あとは静かに放っておいてあげる」ことが大事なのか、といったような「気遣いについての価値観」の違いもこれまで考えてきましたが、そういうずれも、持って生まれた感覚の違いがベースになって作られている部分がかなりありそうな気がします。

 定型アスペ間のトラブルの多くもその「何を大事と考える(感じる)か」といった価値観のズレから生み出されているような気がするんですが、そうすると、定型アスペの関係を調整するには、お互いに相手の価値観を認めて、その違いを前提にどうお互いの生き方に折り合いをつけるか、ということが問題になるのかなと思います。

2017年10月31日 (火)

相手の気持ちがわからない

 アスペの方は定型の気持ちがわかりにくいので、気持ちの理解や共感によってではなくて、パターンによって「こういう場合はこうすることになっているらしい」というふうな理解をし、それでなんとか事態を乗り切ることが多い、という話をしばしば聞きます。

 けれどもそれは定型がそうする理屈はピンときてはいないので、どうしても対応がずれてしまう場合が多く、そこでまた定型から文句を言われたりすることが多くなる。

 とても鋭い方の場合はそこでパターンを小分けにして「こういう場合はこうする、似ているけどここがこう違う場合はこうする」など、どんどん条件を細かく理解していって、それでかなり定型に近い反応をするようになられることもあるし、またそれが慣れてくればいちいち悩みながらでなくても、瞬間的に、半分無意識に近く応答できるようになったりもするから、定型の側もほとんど気づかずに「自然」なやりとりになったりもする。

 でも、それはものすごい努力や観察、工夫の積み重ねのことで、そこでアスペの方は定型には想像もできないようなエネルギーを使ってそれを可能にされているわけですし、しかもかなり基本的なところで定型との着目点や理解の仕組みに違いがあるので、そのズレがなくなることはない。

 たとえて言えば、アナログの世界をデジタルで理解したり再現したりするようなことが起こるのでしょう。写真で言えば「画素数」が荒いときには実物と比べてギザギザが目立ったりするけれど、画素数が多くなると、そのギザギザはよほど拡大してみないと見えなくなる。

 鋭いアスペの方は、その「画素数」が天才的に細かかったりするので、定型の側がギザギザに気づきにくく、とても「自然」に感じるわけですが、でも逆に言えばアスペの方にとってはそれは「意識的なすごい努力の結果」であって、決して「自然」なことではないわけです。

(理屈を言えば、実物の側、物の世界も分子とか原子とかのレベルまで細かく見れば「ギザギザ」だという話はあるでしょうし、物を見るときも網膜の神経細胞で光をキャッチしているわけで、ちゃんと「画素」があるから、結局どっちも同じだという見方もあり得ますし、いや、原子とか素粒子とかは「粒」じゃないんだ、という問題も出てくるし、見たものの理解も「画素」をそのまま素材にはしていないんだという話もありますし、キリがなくなりますが、そこまでの話はおいておくことにして……)

 これもたとえてみれば、こんなふうに言えそうです。姿勢を保つときに私たちはからだの傾きを目や体の中の傾きを感じ取る器官で知っているわけですね。その両方を使っている。だからVRのように、仮想現実で作られた周りの状況を見せられると、実際には自分の体が動いていないのに傾いている錯覚になったりします。逆に目を閉じていても、姿勢が傾くのは感じられたりする。

 で、定型のやりとりは体の中の何かの定型的な感覚(あるいは感情)と、見た目の世界と、両方を使っているのに対して、アスペの方は見た目の世界は定型と共通するんだけど、体の中の何かの感覚(感情)の仕組みが定型とは結構ことなるものになっていて、そこでズレが起こる。それでアスペの方が定型に合わせようとするときには、その自分にとって自然な感覚(感情)をいわば無視する形で、見た目だけに頼って理解して定型に合わせようと努力することになる。だから大変だし、だから定型の世界とはピタッと重なることがむつかしい。

 そんなイメージがあります。この体の中の感覚が、上の比喩で言えばアナログかデジタルかの違いにあたる部分です。

 さて、前置きが長くなって本題が短いのですが (笑)、 昨日、パートナーが私の出張の時の話についてぼちぼち質問をしてくれました。最近そのあたり気を遣ってくれているのかなと思うのですが、「会話を心掛けてくれている」感じがすることがあります。

 それで、ややとぎれとぎれな感じの会話を続けながら、「もしすごく気を遣わせているのなら、こちらがあんまり期待して長く続けても疲れてしまうかな」などと思うこともあって、話が一段落した(かもしれないと思った)時に、ちょっとすることもあってその場をいったん離れたんですね。

 で、そのあとまた戻ってみると、彼女から「なにか気に障ることを言った?」と聞かれたのです。私がその場を離れたのは、彼女が私の気に入らないことを言ったから、気分を悪くして何も言わずに去ったのではないかと心配したらしいのですね。

 ふだん会話しているときに、彼女の方がすっと何も言わずに行ってしまうことがよくあるので、私の方はそういうのが彼女には自然なのかなと思って、特に何も言わずにその場をいったん離れたのですが、それがどうもそうではなかったようです。

 すっと離れる場合と、相手に断っての場合と、どこがどう違うのか、彼女の基準が私にはよくわからないんですね。それで彼女に尋ねてみても、たぶん彼女も特に意識せずに感覚的にそういう判断をしているからでしょう、説明できるわけではないわけです。

 つまり、定型の基準にアスペの方が合わせようとするとズレが起こってアスペの方が定型から「どうしてその違いが判らないんだ」と不思議に思われたり、状況によっては責められたりする。ところが逆に定型の側がアスペの基準に合わせようとすると、やっぱり同じことが起こるわけです。

 「相手の気持ちを理解できない」とか「空気(文脈)を読めない」とか、アスペの方の「障がい」として言われることがよくありますが、まあそれは定型基準で考えたときの話で、その基準を外して考えれば、どっちもどっち、お互い様ということですね。

 

 

2017年10月25日 (水)

嫌な顔のわけ

 しばらく頭が別の方に行っていて、こちらに書くことが思いつきませんでした。また別の方に行くかもしれませんが、今朝思ったことがあったので。

 パートナーに何かを頼むと、嫌な顔(に見える)をされることがよくあります。ほんとに迷惑そうな感じで、頼むことに罪悪感が生まれてしまいます。だから基本的には、ほんとに簡単なことか、あるいはどうしようもないときにしか頼まないようにしていました。

 で、今回もそのどうしようもない場合だったので、あることのチェックをお願いしたんです。やはりいやな顔(に見える)をされました。

 これまでの経験から、頼む内容をできるだけ簡潔に、絞り込んで説明するようにして、引き受けてもらいましたが、その時、彼女が言ったことは、自分は小さなところは必ずのように見落とすから、というようなことでした。

 それでこう思ったわけです。

 彼女は私に頼まれること自体が嫌でそういう顔になっていたのではなさそうだと。そうではなくて、自分の苦手さを知っている分、「本当に自分にできるのか」を苦しそうに考えているのがその表情なのだと。

 そう考えてみると、彼女の完ぺき主義や責任感の強さからかなり納得できるのですね。頼まれたことは手を抜かずにベストを尽くしてやる。無責任なことはできない。だからできないかもしれないことは安易に引き受けることはしない。そういう姿勢がたしかにある気がするわけです。

 その「本当に自分が引き受けられるか?」ということを考えている表情が、あの「いやそうな顔」だということになります。

 

 翻って考えてみると、私なんかは人から頼まれたことについて、結構いい加減に引き受けることが多いです。完璧は無理でも、多少でも相手の役に立つならいいという感じですね。そしてその結果失敗があったとしても、自分なりに頑張ったうえでのことなら相手も理解してくれるだろうという気持ちがあります(もちろん相手や内容にもよりますが)。そのあたりのいい加減さの感じが彼女にはないのでしょう。

 子育てでも私から見て彼女は子どもに完璧を求める傾向が強かったように思います。「遊び」を感じられないんですね。それで私が息苦しくなってそこがまた対立の原因にもなったわけですが、それは彼女自身がそうやって完璧を求めて生きてきた(あるいは生きざるを得なかった?)からなのだろうと、そう考えるとわかりやすい気がします。

2017年9月15日 (金)

答えはもう出ている?

 あることについてパートナーが感じていること、考えていることについて、理解できるように努力をしたいと話をしたら、とてもがっくりした感じで、これまであれだけ言い続けてきたのに無駄だったのか、みたいなことを言われました。

 そうなんですよね。わかんないわけです。いくら説明されても。アスペが定型の言うことを理解するのがむつかしいように、定型もアスペの言うことがわからない。それぞれ自分のことはちゃんと相手に説明しているように思っているんだけど、それが全然伝わらないわけです。で、なぜ伝わらないのかもわからない。

 今回のやりとりで言えば、彼女がこれまで一生懸命説明しようとしてきたことが私にはわかってないわけですし、逆に彼女は、「私にはわからないんだから改めて<わからない>ことを前提にわかる努力をしたい」という私の気持ちがわからないのですね。「わからない」というところだけでショックを受けている(ように見える)。

 
 ということで、たぶんお互いに相手の言葉の中に、実はもう答えがあるんです。ただ、それが答えだということにお互いに気づけない。なぜそれが答えになるのかも理解できない。そういう状態なわけですね。

 だから少しずつ理解が進む中で、私も「ああ、あのことの意味はこういうことだったのか!」とようやく後から実感としてもわかるようなことが時々あります。「答えはそこにあったのか!」という感じですね。

 見ても見えていない、聞いても聞こえていない。定型アスペのコミュニケーションはそういうことがたくさん起こっているのだと思います。もちろん定型間でもそういうことは起こりがちですが、そのレベルが全然違うのでしょう。

 だから、そういうことを前提に、少しでも見えるように、聞こえるように工夫を積み重ねていくしかないのだと思います。

2017年9月 6日 (水)

つながり方のスイッチ

 昔、中学生とかが荒れていたころだったか、学校で「おはよう運動(?)」みたいのが始まったというようなニュースを何度か見たことがありました。校門で学校の先生が生徒一人一人におはようとか声をかけたりするやつです。

 当時は、何の意味があるんだ、と、なんだかばかばかしい感じで見ていたんですが、自分自身が日常的に朝の挨拶の有無に違和感を感じる状態が続くと、さすがに、なるほどなあと感じる部分も出てきます。

 ここではこの「おはよう」という挨拶は、相手のその日の状態を知る手がかりだ、という話をしてきたのですが、もう一つは単純に相手との気持ちのやりとりのスイッチになる、ということがあるんだと思えてきたわけです。

 夜寝ているときは他の人とも、もっと言えば周りの状況とも、関係をほとんど断って「死んだように(笑)」寝ています。で、目が覚めると、自分が寝ている部屋の状態とか、周りの音とかに気づいて、そういう周りの世界を意識しながら起き上がったり、顔を洗ったり、ご飯を食べたりするわけです。

 まあたとえ話で言えば、死んでる状態から、周りの世界とコミュニケーションをして(意識しながら働きかけたりすること)、活動する生きた状態に入るわけですね。

 で、そこに人がいると、今度は人を意識してその人(たち)とコミュニケーションしながら生活する態勢に入ります。人の間で生きて活躍する状態に入るわけです。あるいは寝る前の状態から言えばそこに「戻る」と言ってもいいかも。

 朝の挨拶は、そういう人の間で生きる状態に入るための、スイッチの一つになるのだ、と考えると、ちょっとわかりやすいなと思ったわけです。

 会社の朝礼などで、場所によっては大声で挨拶をさせるようなところもありますが、あれもそうやってみんなを一斉に一種の活動状態に入れて仕事をさせるためのスイッチなわけですね。気合を入れるとか、そんな言い方もあるのかも。私はそういうのは苦手ですが、まあその会社にとっては効果があるからやっているんでしょう。

 もちろんそんなことをしない会社とか場所だってあるわけです。やり方だって声を張り上げてやらせるようなところもあれば、簡単にあっさりのところもあれば、いろいろです。そこにその会社の「雰囲気」の違いが表れています。

 逆に言えばその挨拶のあるなしや、やり方の違いは、その会社の雰囲気を変える結構大きなポイントの一つになっているということになります。社員間でどんな態度でやりとりして、どんな雰囲気で一緒に仕事をしていくか、その基本的な方向性がそれで作られる。

 だから、人によってその社のやり方があっている人もいるし、合わない人も出てきます。個人的にどういうやりとりの仕方、人とのつながり方が心地よいかと言う、そのパターンが違うからですね。

 もちろん挨拶だけがそのスイッチになるわけではないですが、そこにお互いにどんなつながりを作っていきたいか、というその人の態度が現れるものの一つではあるわけです。

 だから挨拶の有無ややり方で違和感がある状態と言うのは、どういうつながり方が心地よいか、どういうつながり方を求めているか、という感覚の違いがそこにあるということなのでしょう。

 求めている心地よさの感覚がずれているということですね。

 

2017年8月26日 (土)

 加害と被害と八つ当たり

 定型アスペ関係を考えるとき,私は基本的に対等な立場で考える,というスタンスを追及しているのですが,そこに加害者と被害者という感覚が入ると,問題はものすごくむつかしくなりますね。

 これまでも少しずつ書いてきたことなので,重複が多いかもしれませんが,改めてそのことのむつかしさを感じます。

 定型の側からいえば,カサンドラ症候群という名前がつくくらいに大変な「被害」を受けると感じられ,被害者の立場からそれでも自分を譲ってアスペの方を理解しようとする,という形になることが多い。逆にアスペの方からすれば,もう日々定型から理不尽な要求をされ続けて,被害者としてしか自分を感じられなくなる,というところから始まる。

 というか,アスペの方については,順序からいうと,まずは「自分が悪いんだ」と世の中から思い込まされる状況があり,そのうちに「自分がうまく定型社会に適応できないのは自分が悪いのではない」という「発見」があって,そうなると今度は「自分は理不尽な接し方をする定型社会による被害者」だという「真実」が見えてくる,といった形でしょうね。

 そうなると,それぞれが自分が被害者だというモードで基本的には向き合うことになるから,ちょっと話がこじれたときにはその「被害感情」がどちらも噴出することになり,相手を加害者だと激しく攻撃する展開になります。

 その不毛な戦いの状態を乗り越える条件はなんなのかなと考えるのですが,ひとつはやはり少し精神的に余裕が持てる状態が必要でしょう。ぎりぎりまで追い込まれてしまった状態では,もう自分の今の見方以外はなにもできなくなりますし。それはひとつには,今現在の余裕のこともありますし,時間をかけられる余裕,ということもあるし,あとは子どものころからの体験で与えられる余裕もある。

 でも余裕だけの問題ではなさそうです。なんとなく思うことですが,自分の中に被害の感覚だけではなく,加害の感覚(自覚)も同時にあることに重要な意味がありそうに思います。

 ガーディナーさんは子どものころに自分がひたすら苦しい思いを続けてこられたことをベースに,でも定型社会の視点から定型の人の被害感情について考えるという視点を失われなかった。なぜそうなれたのかは私にはわかりませんが(よいパートナーとの出会いとかも大きかったのかもとか),複雑な思いを抱え続けられながらも,一方的な決めつけではなく「前向き」な感じで問題を考えようとされていることが伝わってきます。

 あすなろさんの場合は,夫さんとの関係ではほとんど純然たる被害者にみえるような立場を持たれながら,お子さんとの関係では今度は子どもを理解してあげられない加害者的立場も考えざるを得ない,という状況を抱えられています。だから,シンプルに自分をどちらかだけの立場で考えても,何の問題も解決しないという条件で生きていらっしゃる。

 世の中を大きな目で見れば,世の中は結局多数派が力を持ちやすいですから(絶対ではないですが),この被害と加害の関係は,アスペが被害者に,定型が加害者になりやすい条件を持っています。だから世の中の大きな仕組みを考えるときには,少数派である被害者の立場を,力を持つ加害者の側が尊重する姿勢が大事になる。

 でも,個人対個人の関係になると,そういう理屈は単純には成り立ちません。いろんな理由がありますが,家庭内のアスペ夫と定型妻の関係のように,家庭内では「権力関係」が逆転することもありますから,その場合はアスペ側が簡単に純然たる加害者になりやすい。

 このとき,たぶん大事な問題は,その「純然たる加害者」が「なぜ加害者になってしまうのか」を考えるとき,その背景にある理由として「世の中がその人を被害者の立場に追い込んだから」ということが見えてくるということだと思うわけです。

 ここが八つ当たりの話にもつながりますが,その人はそれまでの経験から世の中から激しく迫害され,排除され,苦しめられてきたという実感がある。だからそういうものへの憤りは骨の髄まで染みついているような感じになる。そこから復讐心も育つ。

 復讐のやり方としては,いろんな形が考えられますが,ひとつは「自分がやられたことをそのまま相手にやり返す」という形でしょう。だから自分が理不尽に迫害されたと思ったら,相手をそういう立場に追いやることも「当然」と思うようになる。

 差別を正当化する議論は,私にはこのパターンの一つと思えます。つまり,世の中が差別を当然のことのように成り立っていて,自分がそれに逆らえない状況にある。だからその差別を受け入れて生きざるを得ない。そうすると差別することは世の中の「正当なルール」と考えられるようになるわけですから,自分も人も差別するようになる。

 自分が世の中から否定的にみられて,それを自分も認めざるを得ない状況に置かれた場合,自分と同じような立場にある人間もみんな否定されることが当然だという理解になる。だから自分に権利が与えられていないと思えることについては,人の権利を制限することも当然だと考えるようになる。それは「悲しい平等」の感覚でしょう。本当は自分自身が受けている不当な扱いを認めたくないんだけど,認めざるを得ないから「それじゃあ,みんな同じようにならなければ自分が納得できない」という「公平さ」の感覚になるのだと思います。結果として人の権利を否定するような発言になる。

 そんなようなことで,個人と個人の問題が,もう個人を超えた問題になり,目の前の相手の人が自分に加害をしているひとかどうか,その迫害は不当なものではないのかとか,別の方法はないのかちいうことは関係なくなり,「この人たちは私を迫害している」とか「この人も私と同じように,迫害されて当然の人だ」という見方で,「八つ当たり」の対応が始まります。しかもそういう八つ当たりをする人は全然そういう自覚がないままにそうするわけです。それどころかそうすることに正義感を感じることさえ出てくる。


 この心の動き方は,私は定型もアスペも同じではないかと感じます。どちらにも同じことがみられる。 その意味でもアスペの方が「社会性がない」とは全然思えません。上の話はアスペ的な視点から「正義」とか「公平」という社会的な問題を追及するから出てくる問題なのですから。もし社会性がないのなら,そういう自分の見方を人に訴えたり,強制しようとしたりする必要もなくなりわけですし。
 
 ということで,定型は定型,アスペはアスペという感じで切り離してみても問題は解決しないことも明らかだと思います。この世の中,お互いに関係なく生きることは不可能です。仮に定型国を作り,そこからすべてのアスペの人を追い出し,アスペ国も作り,そこからすべての定型を追い出すという漫画のようなことをやったとしても,アスペ国の中には定型の子どもが一定の割合で必ず生まれ,逆に定型国にはアスペの子どもが一定の割合で生まれ続けます。そこでまた同じことが繰り返されます。


 だからどちらも社会性を持ち,でもお互いにずれた異なるコミュニケーションの感覚を抱えながら,やっぱりそれを調整して生きる道をさぐるしかない。そしてその時に,加害と被害の立場の問題,そこから生まれる八つ当たりの問題をどう考えるかがとても重要になるのだなと思うわけです。 

 

2017年8月22日 (火)

コメント公開作業について

 これから1週間ほど、コメントの公開作業が毎日できない可能性があります。場合によって一日二日が遅れることがあるかもしれませんので、どうぞご了解ください。

2017年8月19日 (土)

アスペ的一生懸命?

 子どもが帰ってくると、パートナー出勤前の朝の忙しいときに必ずお昼ごはんを作っておいてあげます。で、厳しい顔でお昼ごはんの説明をして出て行ったり。

 その表情とかを見て、最初はいやいや義務感でやっているのかなと思い、そこまで無理しなくてもいいのにと感じていました。

 でも、だんだんと、なんか子どものためにそうしたいんだろうな、というふうに私の方が理解するようになっていきました。なんとなくその一生懸命さの方をより強くかんじるようになったからだと思います。

 それで、ふと思ったんですが、例の表情の問題です。

 定型だとそこで昼ご飯の説明をするときに、笑顔になる場合が多くなります。で、それがないから彼女は「義務感でいやいややっているのかな」と私が感じたんだということに気づいたんですね。

 じゃあなんで笑顔になるのか、と考えてみると、そんなこといちいち意識していませんが、結局「私はあなたのために喜んでこれをしているんですよ。義務感じゃなく。あなたが喜んでくれれば私もうれしいから」という自分の気持ちを相手にアッピールしているんだなと思ったわけです。


 そうやって、定型はひとつひとつ自分の行動の相手に対する意味や意図、そこに込められた感情を無意識のうちに伝えることをやっているんですね。だから、当然のように相手の振る舞いもそういう点を気にしながら見ていて、自分と同じ基準で相手の意図を読もうとする。

 なにしろそうやって絶えずお互いにアッピールしながら、関係を調整しようとしているのが定型的な関係づくりなのですから。(それをいちいち頭で考えないで、直感的にやってしまうわけですから、そこをアスペの方が頭で考えて補うのはほんとに大変だと思います)

 そうするとアスペ的なたんたんとした表情は、定型的には「相手のことを考えない」「いやいややっている」「不機嫌だ」などと、否定的なメッセージを伝えているのだ、と直感的に感じ取られてしまうことが起こりやすいわけです。それが実際は誤解のことが多い。

 そんな風に理解されるアスペの方は悲劇でもありますよね。自分自身は相手のためにと思って一生懸命やっているのに、それを「いやいややっている」と誤解されて、評価されないわけですから。

 

 

2017年8月17日 (木)

八つ当たりについて

 定型アスペ間でなくても同じようなことは起こりがちだと思いますが、あるタイプの定型アスペ間では特に起こりやすいことのひとつが「八つ当たり」ということで、そこがとてもむつかしいのだと改めて思いました。

 八つ当たりという言葉は、職場で上司に怒られていらだった思いを、関係ない子どもにぶつけて怒るようなときに使われます。どうしてそんなことをするかと言えば、もしかするとその子どものちょっとしたしぐさが上司を連想させるからかもしれません。

 そうすると八つ当たりをする人から見れば、上司も子どもも同じに見えてしまうのでしょう。

 そうすると、人としては明らかに別の人で、自分が怒られて嫌な思いをした原因は子どもではないので、子どもからすればとんだとばっちりになります。なんで自分がやられなければならないのかが全然わからない。わかるのは、自分の親が「機嫌が悪い」ということだけです。

 あすなろさんが夫さんについて何度か書かれ続けてきて、こちらで説明してくださったことの意味が私にもようやくわかり始めた感じがします。

 八つ当たりをされた人からすれば、自分には何の非もないわけですから、そういう不当な扱いを受けたことに対して傷つき、反発します。そうすると、八つ当たりをする人からすれば、自分の憤りが理解されないと感じてさらに怒りが増す。

 つまり、そこで問題になっているのは、自分の怒りの原因をどこに見て、誰にぶつけて、どうやって解決するのか、という理解の仕方にかなり悲劇的なズレがあるということです。

 八つ当たりをされる人から見れば「関係ない人の事で攻撃された」と感じますが、八つ当たりをしている人からすれば「関係ある人」とか、場合によっては「同じ人」にさえ感じられているわけです。だから話がかみ合わなくなる。

 いくつかのことを思いつきます。昔の刑罰で、だれかが罪を犯すと「一族郎党」がみんな処罰の対象になるようなことがありました。今はそういうことは許されないと考えられています。それこそ罪のない「関係のない人たち」が罰せられるわけです。八つ当たりと同じです。

 でも当時の人たちにしてみると、たぶん「関係のある人たち」なのですね。だから罰せられても仕方がないとも思える。ある人々を「関係ある人」とみて一色単に考えるか、ひとりひとりは「関係ない」別の人と見て個別に考えるかの、見方の違いがそこにあるわけです。

 いじめも同じです。いじめられたから別の人をいじめる。そういうパターンもあります。その意味ではいじめもまた八つ当たりの連鎖と言う見方もできるでしょう。

 そう考えてみれば、八つ当たりはこの世の中の、あちこちに普通にあることです。定型社会にも普通にある。

 そこで悲劇的なことは八つ当たりはそれをされている人から見れば八つ当たりで「関係ないことで攻撃される」と思えるのですが、する人からすればそういう区別がなくて「当然のこと」と思われているという点です。このずれは簡単には解決しません。

 そこには二つの悲劇が生まれています。八つ当たりをされる人から見れば、不当に攻撃されるという悲劇。そして八つ当たりをする人から見れば、自分の正当な怒りが理解されないばかりか、「八つ当たりだ」といって逆に非難される悲劇。

 八つ当たりをする側からすれば、それを八つ当たりだと言われることで、自分の苦しみは永遠に理解されない、というふうに感じられるのでしょう。そして理解されないことの理由は全く見えない。その人にとっては八つ当たりではないからです。だから自分の怒りや苦しみを理解されないことへの怒りが増幅し、攻撃の気持ちが激しくなる。

 そう考えれば、八つ当たりをする人の気持ちはわかる気がします。それがいいことか悪いとかは別として、そうなってしまうことはわかる気がするし、そういう状態で生まれるその人の憤りもわかる感じがします。あくまでもその人の立場に立てば、ということですが。

 アスペの方の中に、その「区別」が特に苦手な方がいらっしゃる、ということがあるのだと思います。だから定型から見れば区別して対応すべきところが全部同じ対応になってしまい、定型から見れば「不当な攻撃」(八つ当たり)とみなされて否定されることになる。

 それはアスペの方すべてに言えることではないと思いますが、あるタイプのアスペの方に起こりやすいことなのだろうと思います。あすなろさんの夫さんの八つ当たりは全てのアスペの方が同じようにするのでは全くないけれど、でもやっぱりそこにはアスペ的な部分も関係している。なにかの条件でアスペの方が陥りやすい状態だ、という言い方はできそうに思います。その条件のありかたがアスペ的と言うか。

 そうすると、ガイドラインに八つ当たりはだめです、ということを書いてあるわけですが、実は何が八つ当たりになるか、と言うことの理解そのものが共有されない場合がある。そうするとその基準は一方の人にとっては意味のないものになりますよね。

 そういう現実があるとき、そこをどう調整することができるのか。むつかしい問題です。

  

2017年8月15日 (火)

ねぎらいの言葉の意味

 ふと思ったことです。

 定型はたとえば病気でつらそうにしている人に「大丈夫?」と聞いたりすることがよくあります。アスペの方がしばしばいうのは「大丈夫じゃないから寝てるんじゃない」という、しごくまっとうなことです。

 そう考えると、定型は何と無意味な馬鹿なことを言っているんだろう、とも言えますけど、もちろんそれにはそれなりの意味があるはずです。

 

 で、そこで「私は私、あなたはあなた」という話とちょっと絡めて思いついたんですが、この「大丈夫?」というのは、「私は私、あなたはあなた」で自分には具体的には何もできないから、「せめて気持ちだけでも使っておく」みたいな部分があるのかなと思ったわけです。

 アスペ的には「それはあなたのことで私には何もできないから私は関われない」となりやすい。で、定型は「何もできないからせめてリップサービスだけでも」という気分が生まれやすい。

 どちらも「あなたはあなた、私は私だから、私は何もできない」というところから出発して、そのあとがずいぶん違う方向に行くことがわかります。

 そういえば私のパートナーは寅さんみたいな人が大嫌いみたいなんですが、要するに人に迷惑をかけながら、共感的なつながりを大事にして、お互いの違いを強調すると「それを言っちゃおしまいよ」みたいなことを言ったりするあたりが嫌なのかなと想像するのですが、その寅さんの名セリフのひとつにやはり私とあなたは違う、というのがあります。

 「人間みんな別々よ。早い話がよ、俺が飯を食ったらお前がクソをするか?しねえだろう。」

 まあ、寅さんも今でいえば発達障がいと言うことになるのかもしれませんが、あのような定型的な人情、共感を追求するタイプの人のセリフとしても、面白いなと思います。

 

工夫の副次的な効果

 パートナーはいつもと違う状態があると途端に緊張が高まり、「これはなんなの?」と私を問い詰めるように(と聞こえてしまう)言われる傾向があるのを減らしたくて、そうなりにくいような工夫を考えるのですが、今のところわりといいかなと思うのは、彼女が自分でその変化を見る前に、なるべく先立ってこちらから伝えておく、ということです。

 そうすると気持ちの準備をする時間が増える分、いきなりその状態にぶつかって混乱する、ということが少なくなるような気がします。

 最近は100円ショップで小さなホワイトボードを買ってきて、それに私が気づいたことを早めに書いておく、ということを始めました。

 実際に彼女に対してどこまで効果があるかはしばらく見てみないとわかりませんが、ただ私の方で「これはまた彼女が混乱するんじゃないか」とか心配になる気持ちが、こうやって書いてしまうことで軽くなるという、副次的な効果がどうもあるみたいで、これは自分にとっていいと思っています(笑)

2017年8月11日 (金)

不機嫌の理由

 パートナーがかなり不機嫌な感じがしたので、小心者の私としては(笑)、また何か気に障ること、特に家事などの失敗とかしたのだろうかと不安になっていたところ、案の定スケジュールの伝達を間違えていたことを指摘され、「それでか!」と思ったのですね。

 それで、「昨日不機嫌だった」という話を仕向けたらそれには気づいていなかったようでした。それでその伝達の失敗の話をして、「それが原因だったんじゃないの?」と聞いたら、その失敗に気づいたのは今日なので、それはありえない、と説明された後、「不機嫌な時の9割はだいたい仕事のことだから」と慰められ(?)て、ほっとしました。

 でも考えてみると1割はそうじゃないんだ(やばい (笑))。

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