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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

2018年11月12日 (月)

引き続き

お待ちくださっているみなさま、申し訳ありませんが、少し考えたいことがあって時間を頂きます。

今考えている問題のポイントは以下のようなことです。


現在、議論の内容がかなり偏ったものになっていて、投稿者もとても限定されてしまっていることに違和感があったこと。


違和感の原因を考えてみると、その中で繰り返し行われている主張が、「定型とアスペとはどういうところで理解などにズレが起こるのか、どうやってそのズレを調整しながら一緒に生きていくことが出来るのか」ということをみんなで考えていく、というところに焦点がなく、「どういう人間がどういう権利を持つのか」を決めようとするような、本来のブログの趣旨とは関係のない話になっていること。


人の権利とは何か、という問題はもちろん人間がずっと考え続けてきた大問題で、今の権利の考え方は数百年の議論の中で生み出され、発展してきたものです。それを丁寧に議論すること自体は常に大事なことなので、そのことを否定する必要はないのですが、それはそれでしっかりとした議論をしなければ、非常に乱暴な人権否定の話の応酬になってしまうことは、いろんなネット上のやりとりを見てもはっきりしています。

人権の考え方はある意味でそういう乱暴な議論のなかで多くの人が傷ついてきた長い歴史の中で作り出されてきたものなので、現在の人権の考え方自体を否定する(その自覚の有無は別として)議論をすれば、同じように乱暴な議論になってしまうことも当然だとも言えます。

私としては一方では、ひとりひとりが本当に人権ということをちゃんと考えようとすれば、そういう乱暴な議論に戻ってしっかりと議論することも必要であるとも思います。そのため以前は相当乱暴な、明らかに差別的と言える発言もそのまま自動的に公開される時期がありました。そのような乱暴な議論も、やり取りの中で修正されていくことがよいとも考えたからです。


ところが、そのような形のやりとりは結局炎上をくり返すことになったこと、そしてもう一つ大事なこととして、そのような乱暴な発言を読むことで深く傷ついてしまう方たちから、そのような発言を公開すること自体に強い批判が起こったことなどから、その点についての管理人としての制限を一定程度せざるを得なくなったという経緯もありました。


もしそのような形のやりとりが、定型とアスペの間で常に起こるものであるとすれば、それは「定型とアスペの考え方の違い」の問題として、ここでの議論の対象となると思うのですが、これまでの経緯を見ると、そういう乱暴な議論をする方はどちらにもあって、そういう乱暴な議論をする定型とアスペ同士で炎上するパターンが多いわけです。


と言う風にかんがえると、やはりそのような議論はここで考えていきたい「定型とアスペのズレ」を考えるということとは違う問題だということになります。

そして私が見る限り、現在くり返される主張は、そのような質を持つものと見えます。そして現在、以前のようにやわらかくこの問題をお互いに考えあおうとするようなコメントは、どちらの側からもこのところすっかりなくなってしまいました。


以上の状況を考え、改めて本来のこのブログの目的に沿った形でやり取りを出来るようにするにはどうしたらいいかを考えていますが、ちょっと仕事などの方で今余裕がない状況なので、簡単に結論が出しにくい状況になっています。

ということで、しばらく時間を頂くこととしました。

2018年11月 4日 (日)

1週間ほど管理をお休みさせていただきます

ちょっと立て込んでいて、コメントの管理ができないので、一週間ほどお休みさせてください。

2018年10月28日 (日)

親しさの意味のズレ

 昨日の晩は晩御飯を遅くに家で食べることになっていて、相方は私の分を残しておいてくれたのですが、私の方は外で軽く飲んで帰ったので、あんまりたくさんいらないと言いました。

 そうするとやっぱり怒ったような口ぶりで今日は家で食べるんじゃなかったのかと言うので、食べるけど沢山は要らないというだけ、と言ったのですが、しばらく怒りの雰囲気(に感じられるもの)はなくなりませんでした。

 そのあと、彼女のパソコンの仕事でソフトがうまく働かないことがあって、それにいらだっていたので、ご飯を中断して状態を見せてもらい、原因を一応見つけたのですが、私には解決の力がないので、仮の逃げ道を作って「解決」させたのですが、ようやく少し気持ちが落ち着いたみたいでした。

 以前だとこういう時に、「なんでその程度の事でここまでいらだたれなければならないのか」=「なんでそこまで責められなければならないのか」という気持ちになったのですが、最近はちょっと違う面を感じるようになりました。

 つまり彼女のいら立ちの中身は、ひとつには予定外の事が起こった事への戸惑いなのですが、その戸惑いの中身は単に怒りではなく、「たくさんは要らないと言っているが、食べなくてもいいということではないか」「無理に食べてもらう必要はないのではないか」というような、どっちかというと私の方への配慮の気持ちもごちゃごちゃと混じって、さらに混乱しているんじゃないかと言う気がしてきています。

 ただ、そういうふうに「相手の事を考えて」の場合でも、自分の中で整理がつかずにとっさにどうしていいかわからない混乱が起こると、そのことへのいら立ちが、相手への攻撃的と感じられるような態度になって現れる、そんな感じなんじゃないかと言う気がするわけです。

 もしそうだとすれば、そこで私が「そんなに怒らなくたっていいじゃない」と言ったとすれば、それでまた傷つくのでしょう。

 今朝は「疲れを癒して気分を楽にするのに、なんかしたいことある?」と聞いたら、そういうことを聞かれること自体がしんどいんだと言ってました。昨日(心身が)疲れているというので、何か回復への方法はないかなと思ったのですが、なにしろ私ならこういうことがいい、と思うアイディアはことごとく失敗するので、直接本人に聞いてみたいのですが、やはりこういう返事でした。

 このあたりも私の方は「ああやっぱりそうなんだな」という感じで理解するようになってきています。

 私の場合は、自分の中で整理されないもやもやがあるときは、人と話をすることがよくあります。そうやっていろいろ話をしているうちにだんだん整理されてくるわけです。だから人にいろいろ聞くことは大事だし、人から聞かれた時も相手のために(そしてそれが結局自分のためにもなる)答える、ということについては基本的にプラスに感じます。

 でも相方の場合はそこが違う。やっぱり基本は自分の中で解決しなければならなくて、相手がそこに入り込んでくることは混乱を生むことにしかならないわけです。特にその場での即座の応答を求めあう形の会話でのやりとりがそう言う事になりやすい。

 そういうふうに見ると、昨日の晩の話も今朝の話も同じことですね。どちらも自分の中に生まれた混乱を、「相手と一緒に解決していく」というふうになりにくいので、拒否的に見える態度になる、ということになります。

 定型的に「お互いのその場でのやり取りの中で一緒に問題を解決する関係こそが親しい関係だ」という感覚でいると、なかなかうまくいかないわけですね。定型的にはそれがないと「親しさ」を感じにくかったりするわけですが、かといって相方が私に親しさを感じていないのかと言われれば、それも違う気がするわけです。そこがむつかしい。

 なんか親しさの意味にズレがあるんですね。きっと。 

2018年10月 7日 (日)

地図

 母親と久しぶりに話をしていて思ったことです。母親はかなり強烈な人で周囲が振り回され続けるために、こちらも身が持たなくなるので、ある程度距離を取らざるを得なくなります。そして「この人はこういう人なんだから、それを前提に付き合うしかない」という、自分なりの「理解」を作り上げていくんですね。

 その「この人はこういう人だ」という「理解」によって、なんとか自分なりの「対処の仕方」を見つけるわけです。 それは自分をある程度守りながら対応するためにある程度有効なんですね。だから「この理解で間違いない」という気持ちにもなる。

 けれども、実際には丁寧に考えてみれば、いろいろその「理解」では及ばないところが出てきます。だからその「理解」は相手から見ればおかしな「決めつけ」に思える、ということも起こる。かといってこちらは自分の「理解」を捨てるわけにもいかないわけです。なぜならそれは相手との付き合い方を探る長い葛藤の中でようやく手に入れた「ある程度有効なもの」ですから、それを捨ててしまったらまたもとの混乱に戻るだけだ、というふうに感じられるからでしょう。

 実際にできるのはその「理解」を少しずつ調整していくことだけなのだろうと思います。それが積み重なっていくといつかその「理解」が大きく変化することもあるでしょうが、そこでできた「理解」もまたある種の「決めつけ」であることは変わりなく、それを超えることはできない。

 

 たとえ話ですが、こういう「理解」って、地図のようなものかなという気がします。行きたいところに行くにはそこまでの道筋を「理解」しておく必要があります。その理解を図にすれば地図になる。でも、言ってみればその地図って線の集まりですから、実物とはもちろん違います。たくさんのものが省略され、大雑把な道筋(歩き方)をそこから読み取れるだけです。

 地図にも大雑把に手書きで「だいたいこっちのほう」ということを示すだけのものもあるし、縮尺とかを細かく決めて、距離や方角などはかなり細かく調整されているものもある。でもいくら細かくしたところで実物とは違います。でもどれでも実際にその場所を動き回るにはある程度役立つのです。

 正確ではないからといって地図を捨てるわけにもいかない。でも地図はやっぱりどこまでいっても地図で、実物とはぴったりとは合わない。そういうところが上の話に似ています。

 なんでこの話を書くかと言うと、定型アスペの話もおんなじだなと思うからです。ここでは定型とはこういう人で、アスペとはこういう人だ、ということを考えてきています。お互いにどこが違うのか。どこがずれるのか。

 なぜそういうことをやるかというと、定型アスペ問題に新しい理解を切り拓いていかなければ、定型の視点から「アスペはこういう人々だ」という決めつけでは「対等なコミュニケーション」は無理だと感じているからです。だから、定型だけではなく、アスペからも「それは納得できる」という理解を探してきました。

 実際にそれはある程度はうまくいくところもあって、今までのアスペルガー理解とは違う世界が見えてくることもあるように感じています。 けれども、やっぱりそれもまた別の種類の「決めつけ」であることを逃れることはできません。


 まあ、自分が生きていくためには、たとえずれたものであっても何か「理解」という「見通し」を作りながら進むよりありません。先が予想できなければ身動きができませんから。けれどもそれは一種の決めつけであることも意識しながらその都度ずれを調整し続ける、とうことなんでしょうね。それ以外の進み方はちょっと想像することが出来ません。

 地図は決して完全にはならないけれど、手掛かりになるので捨てるわけにもいかない。でも手がかりにすぎないことを忘れてはならないし、ちょっとずつよりましな地図を作っていくしかない。という話になります。

2018年10月 6日 (土)

恨みに見える理由

 相方から私の行動とか性格のことなど、稀にコメントをもらうことがあるのですが、だいたいはマイナスの内容です。誉められた記憶はほとんどありません ('◇')ゞ

 それで、その時はだいたいがなんとなく「恨みがましい」言い方のように聞こえてしまって、一層つらくなるので、「なんでそうなるのかなあ」というのが長年の疑問でした。

 まあもちろん実際に恨みを蓄積しているのかもしれないわけですが('◇')ゞ、でもそこまでのことはなさそうにも思ったり(甘いかも?(笑))、あるいはアスペとしてこれまでの人生で苦労し続けてきたわけですから、基本的に世の中に対しては全て深い恨みが基調になっているのだろうかと考えたり、そんな感じでした。

 で、ふと思ったのですが、これもまた表情と表現の問題の一部かもしれない。

 定型(少なくとも私)の場合、相手に対してその否定的なことについて指摘をする場合は、やはりかなり気を使います。ストレートにきつく言うときは相当覚悟をして相手と対立関係になってもいいという感じになるか、あるいは「本当にあなたのためを思って無理して指摘するんだ」という感じをなんとか伝えようと努力したり、そんなことを結構やっていると思います。

 あるいは半分冗談のような感じで伝えて見たり、笑顔で伝えようとしたり、なんかそういうクッションを入れようと自然となるんですね。

 これもまた表情を意識してコントロールして表現に気を付ける、というスタイルでしょう。

 その部分がないと、「ケンカ腰」のように相手に受け取られてしまうわけで、危険なわけです。アスペの人はそういうところで定型の地雷を踏みやすいのだろうと思います。けれどもなぜそれが地雷なのかはピンときにくいのでしょうね。だから混乱する。

 それで「恨みに見える」言い方も同じようなことなのかなとも思えたわけです。ある意味素朴な感想を伝えているだけなんだけど、その時定型的な感じで表現を調整することがあまりないので、「マイナスの事を言っている」ということは伝わってきて、ただし直接攻撃的な感じまでは行かない、そんな感じになる。

 そうすると、定型的には「マイナスの話を、怒りを抑え込んで話している」という印象になり、つまりは「恨みがましい言い方」に聞こえてしまう、ということがあるのかも、と思ったわけですね。ドラマとかで自分の思いを相手がくみ取ってくれないことに苦しんでいる(特に)女性が、「なんであなたは私の気持ちをわかってくれないの?」というメッセージを込めて控えめにマイナスのことを言う、というシーンがあったりしますが、そのパターンに結果的に似てしまうわけなのでしょう。

 これも定型的な「察しあい」の文化の中での理解の仕方で、そこが「素直」を重視するアスペ的文化とずれてしまうのでしょう。なんかそんな気がします。


 
 
 
 

2018年9月27日 (木)

「平等」と「ケア」の関係のむつかしさ

 成人している知的障がい者への対応の際の態度ですべきでないこととして、「○○ちゃん」と子どもに対するような接し方がある、という話を聞いたことがあります。

 つまり、そこでは「対等」の関係が崩れていて、「庇護されるべき子ども」という「不平等」な扱いになり、相手の人格を尊重していないのが問題だ、という趣旨なのかなと想像します。

 たぶんそれと通じるのだと思うのですが、ここでも定型の側からの「配慮」の仕方について、何度かそれはアスペに対する差別だということを主張されることがありました。アスペのためにというのは見せかけで、本当は差別者なんだ、というかなりきつい主張だった印象が残ります。

 たしかにそういう受け取り方もありうるということはわからないでもないのですが、ただ、あまりにも一面的な決めつけのようで、そのまま納得することも到底不可能という感じでした。とはいえ、何が問題なのかがどうもうまく言葉にならない状態がずっと続いていたのですが、なんかちょっと考える糸口が見えたような気がしています。

 なぜ「障がい者」に対する「ケア」が対等な関係ではなく、「子ども扱い」のようになりやすいのかということなのですが、どうもこういうことがあるのではないかという気がするのです。

 アスペ的な感覚やそれに基づく発言や行動などは、定型的な基準からすると「困ったもの」と判断されてしまうことがよくあります。定型同士の関係でなら「許されない」ものがそこにあるからですね。もちろんそれは定型的な一面的な判断からのものであることは、ここでずっと考えてきたわけですが、普通はそんなことは考えずに「定型のやり方が正しい」とか「常識だ」と思われているわけですから、やっぱり「許されない」ことになる。

 そうすると、「対等な関係」として相手に向き合った場合は、その基準をそのまま相手にぶつける必要があります。定型が自分に許していないことを相手に許すのは、それこそ不平等になる、ともいえるからです。基準がどちらにも同様に当てはめられるからその二人は平等ということになる。

 ところが、そういう前提で接しようとする限り、結局「障がい者」を無理やり「正しい基準」に従わせるしかなくなります。「障がい者をケアしよう」と考える人は、そこでは「その人には特別な配慮をしなければならないのだ」と考えて「ケア」をするわけですから、その基準に合わない相手の人を「大目に見る」ことが必要になる。

 「本当は許されないこと(自分は決してそうしないこと、自分には許していないこと)を、広い心と思いやりで優しく特別扱いで許してあげているんだ」という感覚になりやすくなるわけですね。

 定型同士の人間関係でそういう態度が生まれるのは、つまり「子ども」を相手にしたときなわけです。大人には許されないことを、子どもだからしかたない、という目で「暖かく見守る」姿勢を取るのが大人の態度ということになります。

 そうすると、そういう形で「障がい者」にケアをしようというところにとどまっている限りは、どうしても「大目に見てあげているんだよ」という態度からは離れられません。その場合、当然「大目に見てあげている」側のほうが相手を子ども扱いにしているところから抜け切れず、そして表には出さなくても自分のほうが「大人」=「上」だということにもなる。

 そうすると、その部分だけを強調して敏感に感じ取った「障がい者」はその相手の事を、「あなたのため」などと言いながら実際は自分たちをバカにしている差別者なんだ、という決めつけを行って攻撃するようにもなりうるわけです。

  私もそういう関係はやはり本当の対等な関係とは言えないし、そこは「乗り越えなければならない」と思うのですが、でもそんなこと簡単にできることではありません。「特別の配慮」という感覚が付きまとう限り、そこを抜け切るのはむつかしい。かといって、「乗り越える」のではなく、「最初からそういう感覚を素通りする」ことができるかと考えてみると、これもまたむつかしそうです。どうしても「特別の配慮」の感覚から出発して、でもそのままではいけないんだよね、という風に一歩一歩進んでいくしかなさそうな気がします。

 逆に言えば、アスペの側が定型にアスペの基準を押し付けることはせずに、定型の基準も尊重しつつ対等な関係を作る、ということも大変だと思うんですね。そう簡単にはできないんじゃないでしょうか。だからいやいや定型の基準に従うか、あるいは逆に定型基準を激しく攻撃して自分を守ろうとするか、そのどちらかになりやすいのではないかと思います。

 定型アスペの間で対話がむつかしくなりがちな原因の一つに、そういうこともありそうな気もします。

 ただ、こう書いてきましたけれど、そこのところにひっかからずにうまい関係を作れている人がいるかもしれない、という気もちょっと残るのも事実です。それが何なのかはわかりませんし、それが見えてきたら相当すごいことだと思いますが、今の自分ではまだ無理ですね。そういう力はありません。当面こういう泥臭いことをうじうじ考える他なさそう。
 



 

2018年9月21日 (金)

集中力

 相方と電話をすると、話が一応終わった後に「それじゃね」などと一言挨拶が入らず、いきなりぷつんと切れる、ということが目立ち、子どもともお母さんらしいという話になることがよくありました。

 家を出る時も「それじゃ言ってくるね」と顔を見合って言いあうタイミングもなく、向こうを向いたままそそくさと「じゃ」などと言って行ってしまうとか。

 定型的にはそれをされると、相手は一刻も早くその場を去りたいと思っているという感じを受け、自分が拒絶されているような印象を持つのですが(私はずっとそうだと思っていました)、でもどうもそうではない。

 この感覚のズレをどう理解したらいいのか、ずっと分からなかったのですが、ふとこういう考え方をしたら自分の定型的な感覚でも少しわかった気になるかもしれないと思いました。

 もし自分がかなり強力に「次にやるべきこと」に気持ちをとらえられていたとしたら、その時は挨拶などもそこそこに次のことに移っていくのではないかという事です。ただし、それはかなり特別な場合で、あとからそのことに気づけば「申し訳なかった」という気持ちになりますが、少なくともその場ではそういう感じになることは「あるかもしれない」という程度には想像が出来そうです。

 少し別の言い方をすると、定型的な人間関係では「今は二人で○○をしている状況」と「今は一人で△△をしている状況」の間に「気分」的に大きな違いがあって、その二つを切り替えるときには儀式が必要なんです。

 「二人で」の時は、相手もそういう気分になっている必要があるので、お互いにそういう気分をベースにやり取りが成り立ちますし、「一人で」の時は相手に関係なく自分の振る舞いが行われます。だから「二人で」の時に「一人で」に移る場合は、相手にそれを伝えないと、「二人の世界を勝手に壊してしまった」という気分が起こる。

 あいさつは「二人の世界」に居る人が「今からあなたとは別の世界に行きますよ」という合図になるんですね。それで相手の人は「ああそうか。あの人は別の世界に行くんだ」ということで気持ちの切り替えがしやすくなる。それがないと、びっくりしてショックを受けます。

 たとえば、二人でゲームをやっていたとして、相手が何も言わずにその場を急に立ち去ってしまって、トイレにでも行ったのかと思ったらそのままいなくなっちゃったとします。そうすると、取り残された方は「自分は相手の気分を害したんだろうか?なにかわるいことでもしたかな?」と心配になったり、あるいは「なんて失礼な奴なんだ、自分勝手な奴だ」と腹を立てたり、まあトラブルの原因となります。

 たぶんそういう感じなんですね。定型はそれだけ「二人(以上でもいいですが)の状態」を特別な状態として意識して調整しようとするわけです。

 これも私の勝手な想像ですが、アスペの場合は基本的に一人の世界がベースで、ときどきちょっとそこから出てほかの人とやりとりをするけど、すぐに自分の世界に戻るという感じなのかなと。だからもともとの世界に戻るだけだから、別に特別の事ではないし、相手に対してはやりとりをしていること自体が特別なできごとなので、それにさらに何かのあいさつで切り替える必要も感じず、用事が終われば自動的に終了して何も問題ない世界という感覚になる。

 そんなふうに想像すると、なんとなく分からないでもない感じがあります。

 仮にそうだとすると、たとえば夫婦で一つの部屋に居ても「二人でいてもひとり」がベースなのがアスペなんでしょうね。ただ時々必要や気分に応じてつながるときがある。

定型は「二人でいれば二人」ですし、場合によっては「一人でいても二人」ということを重視する。ただ、時々必要や気分に応じて「二人でいてもひとり」の状態を作ることがある。

          ふだんの状態        特別の状態
 定型     「二人でいれば二人」   「二人でいても一人」
 アスペ    「二人でいても一人」   「二人でいれば二人」

 そうすると、普段の状態でいつも「二人でいても一人」の感じになると、定型は自分が拒否されているような感覚になって、カサンドラになったりするわけです。

2018年9月17日 (月)

個人か社会か

 ある人が何かの問題を起こしたとき、それがその個人の責任なのか、社会(周囲)の責任なのか、という議論はいつでも起こります。

 結論は単純で、個人の責任の部分と社会(周囲)の責任の部分と両方がある、ということだと考えますけれど、パートナーと話をしていても、この点でも定型アスペ間に視点のズレが生まれやすいと感じます。

 定型の場合、人との関係の中でのその人ということに目が向きやすいので、社会(周囲)に目が向きやすく、アスペの場合その人が自分で生きていくということに目が向きやすいので、個人に目が向きやすくなる、ということがあるのだろうということです。

 実際はどっちもどっちでしょう。だから同じ人に対しても、その個人の責任を問い、あるいはその個人に改善を求めるということもあるし、逆にその個人がその状態になった環境を変えない限り、同じことが繰り返されるだけだ、という視点から、その個人の行動を「適切な環境が得られなかったことの結果」と言う意味で、社会の責任を問う、という在り方もある。どちらにも理由があるし、どちらにもそうすることの効果はある。でもどっちも完全ではありません。

 

 ですから、やはり結論は単純になるでしょう。個人に対しては個人の責任や努力を問うことが必要になり、同時に社会に対してはそのような個人を生んでしまった世の中のあり方を変えていく必要を訴えることが重要になる。前者がなければ「なんでもあり」の世の中になるし、後者がなければいつまでたっても同じ環境の中で同じことが繰り返されるだけになります。

 私はそういうふうにシンプルに考えています。

2018年9月 4日 (火)

またまた表情の意味の話

 相手が失敗をしたときの対応の仕方に関して、基本は今まで書いてきたことと同じですが、定型アスペ的なずれの起こり方についてもう少し頭が整理されてきた感じがあるので、改めてメモ的に。

 定型の場合

  相手の失敗を知る→(心の中で困ったことだと思う)→(相手との関係や相手の状態を考える)→(その相手にどう表現するとよいかを考える)→「叱責する」or「説明する」or「対応策を協議する」or「無視する」などの対応の選択+(ポジティヴな表情orネガティヴな表情 + その強さの選択)

 ( )の中は通常はなかば無意識で瞬時にやってしまうことです。ここで迷いが出ると、表情が不自然になり、相手に変だと思われます。

 このやりかたが小さいころから鍛えられて身についていて、それが当たり前になっているので、自分が失敗したときに示す相手の対応の仕方の意味についても同じ形で判断します。

 
 アスペの場合

  相手の失敗を知る→(心の中で困ったことだと思う)+「困った表情になる」→(どう対処すべきかの現実的な手段を考える)→「困った表情」+「叱責する」or「説明する」or「対応策を協議する」or「無視する」などの対応の選択


 違いは自分の感情をストレートに表すか、それ自体を関係の調整に使うかにあります。仲間づくり大好きな定型の場合、このお互いの感情のすりあわせの過程がものすごく重視されて洗練されていきます。ちょっとした表情の変化で、相手が自分をどう思っているのか、敵なのか味方なのか、どういう関係を作ろうとしているのかを「読む(推理する)」ということをほとんど無意識に近い感じでやり続けます。

 当然、相手との関係をよくするために、本当の気持ちを表さない、ということもやります。それは相手をだますような政治的な意図でそうすることもあれば、相手を傷つけないようにという「思いやり」や「配慮」でそうすることもあります。否定的な表情は比較的「隠していない本心」と受け取られますが、逆に「笑顔」はすなおな表現の場合もあるし、そういう「政治的なもの」とか「配慮するためのもの」である可能性も大きくなります。

 そのことも定型はよく知っているので、相手が笑顔でいても、それはそのまま受け取っていいのか、隠した気持ちが相手にあるのかの「裏読み」が必要になります。つまり、例外はありますが、基本パターンとしては


 相手が否定的な表情をする → こちらを攻撃する気持ちになっている (※)

 相手が肯定的な表情をする → 本当の気持ちの表現 or こちらへの気遣い or 政治的意図


 というふうに直感的に理解し、その後の展開を考えます。

 この定型的な理解のパターンに上に書いたアスペ的応答パターンが入ると、基本的にそのすべての場合で「こちらを攻撃する気持ちになっている」と判断されることになります。当然、アスペの側からすれば、なぜそれで自分がそう受け止められるのかが理解が難しくなります。自分の表情をコントロールしている意識があまりないからです。半ばでも意識していればそこに「その表情をあえてする」ことの意味が出て来ますが、それがないわけですので、ないものを読み取られても困る、ということになります。


 このずれは単に顔の表情や声の調子などに限らず、文章の表現の仕方にも現れる様です。文章の場合は書くための時間があるので、「考えながら工夫する」ことがしやすくなりますから、顔の表情などのようにはストレートには出にくいですが、それでも基本は同じですので、同じようなずれがなくなることはないでしょう。


 そうすると、定型の側からこのずれからくる誤解に基づく対立を避けるには、相手(アスペ)の表情を無視するとか、何らかの形で翻訳する、といった特別の工夫が必要になるのかもしれません。


 ※ ちょっと補足します。
    否定的な表情と言っても、「落ち込んでいる」というように理解される場合は攻撃的とは受け取りません。場合によって「力になってあげなければならない」という気持ちが起きたりします。どこがちがうかをまだうまく説明できませんが、相手を攻撃するつもりがなく、ただ自分がつらい状況にあるということが表現されるときは、それを「相手への非難・攻撃」と受け取られないようにしていると思います。また、仮にそれで相手が誤解して攻撃と受け取った場合は、「ごめん、そういうことじゃなくて……」とわりとすぐに説明することも多いと思います。その際は、「なんで攻撃と受け取るの?」ということを相手に問い返すことはしません。そう問い返すこと自体が攻撃として受け取られる可能性が高いですし、自分の表現がうまくない時は、当然相手は攻撃として受け止めるだろうと思っているので、「表現が悪くて申し訳なかった」ということをまず相手に誤解を与えてしまったことを謝ることが多いと思います。

2018年8月22日 (水)

コメントの書き方についてのお願い

 アスペの方の子育てをめぐるやりとりについて、これまでずっとこの場をご覧になってこられた方からご意見がありました。

 現在のやりとりは、とても攻撃的なものになっていて、定型とアスペが話し合う場と言う大事な性格が損なわれるというご意見です。

 コメントされるかたに、相手を攻撃する意図があると理解すべきなのか、ただ自分の正直な気持ち、切実な気持ちを表現しているだけという意図なのか、その区別でいつも私は迷います。もし攻撃の意図があるのであれば、それは明らかにガイドラインに抵触しますし、しかしその意図がなく、真剣な問いかけをしているだけだ、ということであれば、少なくともその意図についてはガイドラインに抵触するとは考えられなくなります。

 問題はたとえ投稿者にその意図が全くなくても、結果としてそれを読む側が深く傷つく場合があるということです。しかし傷つける可能性をすべて排除することも実際上は無理で、たとえばこの私の文章も、読む人によっては傷ついたと感じる人があるかもしれません。それをあらかじめ予想して完全に避けることは事実上不可能です。

 そうすると、読む側に一切傷つけることを避けることを最優先させるとすると、極端な場合は誰も何も言えなくなるとか、あるいは結局あたりさわりのないことを話すだけに終わってしまい、「どうしようもなく意図せずに傷つけあってしまう」ということが起こりやすい定型アスペ関係のシビアな現実を議論することが自体が不可能になってしまいます。


 この問題をどう考えたらいいのか、ずっと悩んできましたが、次のように考えて基準をはっきりさせれば、一応この問題はある程度回避できるかもしれないと思いました。

 それは、相手のコメントに触発され、それについて批判的な意見を述べたいときには、あくまで自分の経験や考え方を、自分個人のものとして述べるという枠を守るという事です。逆に言えば他人に対してそれを正しいこととして主張することは許されないことになります。(これまでは「○の人たち」というカテゴリーで一色単にまとめてしまうことについて同じことをお願いしてきましたが、今回は一人に対しても同様に考えます)

 その批判的な意見を聞いて、それを正しいと思うかどうかは相手の問題で、他人が「これが正しいのだ」と押し付けることはできないと考えるからです。

 ということで、今後コメントをくださる方は、「あなたの考え方は間違っている」というような表現は行わないようにお願いいたします。逆に「私はあなたの考え方と違って、このように考えている。なぜなら自分はこういう経験をしてきたからだ」というような表現で有れば、問題がないと思います。

 そのような「表現の工夫」によって、意図せずに相手を傷つけてしまう事を出来るだけ避けると共に、その発言者が本当に言いたい切実な問題を語ることを妨げない、ということになればと思います。

 実際にはまたいろいろむつかしい問題も出てくるでしょうが、とりあえず今後はそのような表現上の工夫がなされていない場合は、公開を控える対応を取らせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 

2018年8月 5日 (日)

ご無沙汰しております

 長らくご無沙汰しております。

 
 この問題について考えなくなったのではもちろんないですし、引き続き同じような考え方で考え続けていますが、いろいろな事情で少し別の形で模索をするようになっているので、こちらには書き込む余裕がなくなってきてしまいました。またいずれ発信し始めることもあるかと思いますが、当面は仮に発信したとしても頻度はかなり少なくなるように思います。どうぞご容赦ください。
 なお、コメントなどを投稿していただいた分については、少し作業が遅れることはあっても、引き続き公開の手続きを取らせていただきますので、自由にご利用ください。

2018年5月31日 (木)

恨みと表現

 

サロマさんとあすなろさんのやりとりの中で、「恨み」という言葉が出て来ました。あすなろさんはサロマさんの文章を読んで、「恨み」の部分を感じ、サロマさんはそこには「恨み」はない、と応じられるというズレがあります。

 まだ私としてはよくわからない状態ですが、ひとつ可能性として気づいたことがあります。

 それはこれまで表情と表現、ということで繰り返し考えてきたことと、このずれが繋がるのではないかという事です。

 あすなろさんはサロマさんに対して、自分がそれを恨みととらえたのは、自分の経験に引き寄せて理解したためではないか、と応じられていましたが、あすなろさんに言われてみると、たしかに私もサロマさん(たち)の文章には、多少なりとも恨み的な要素を感じることがありました。そして「なぜこの人たちは関係ない私たちに恨みをぶつけてくるのだろうか?」と不思議に思うことが何度かありました。

 その結果、炎上に至るということもあったため、そういう展開を防ぐために、ガイドラインでは「3.投稿者の個人的体験で,関係ない人に八つ当たり的非難をしない」という項目をわざわざ立てたりしています。

 表情と表現の問題についてこれまで考えてきたことを改めて書けば、私と相方が話をすると、私の言ったことに彼女が非常に苦しそうな顔で「反論」することがある。それは私から見ると「なんでこういう理不尽な理屈で私を苦しめるのか?」という「非難」に見えて、単に話し合いたいだけの私がびっくりしてしまう、というようなことが起こる。

 あるいは何かを頼んだ時、すごくしんどそうな顔をするので、「なんでこんなにひどいことを自分に頼んでくるのか」という「非難」をされているように感じて、私の方がショックを受けてしまう。

 またこれは彼女とのことではないですが、ここでも何度か展開されたこととして、アスペの方が自分が苦労した体験を語られ、それは定型的に見れば「通常人には言えないような深い悩みを語ったのだから、必死の思いで助けを求めているのだ」と理解され、それに応じていろいろアドバイスをしようとしたり定型的な努力を相手のために行うのですが、そのアドバイス自体がアスペ的に無理難題になる場合にトラブルに展開します。一部のアスペ側が「なんでそんな無理難題を押し付けてくるのか」と言い、一部の定型側が「援助を求めておきながら、援助者を非難するとは何事か」と怒りを示すと、「私は何も頼んでいない」と主張し、そこで大混乱になる。

 あすなろさんの娘さんの話もありました。まぶしくて目を細めて人と話していると、それを知らない相手がその表情を自分への表現として読み取り、態度が悪いと理解して非難するというようなことだったと思います。


 いずれの場合も、アスペの方の側は素朴に「自分がしんどいと感じている部分がそのまま自然に表情に現れているだけのこと」と感じており、それを定型の側が「私に対する訴え・表現」として受け取ってそれに応じることでその後の混乱が生まれています。

 「恨み」の話も、この表情と表現のずれの問題の一部ではないかと思ったわけです。

 そういう目で私と相方の関係を考えてみても、かなり当てはまることが多いように思えてくるのですが、彼女は否定的なことをいう割合がとても大きいのですが、私は多くの場合、それを「私に向けられたもの」と感じ取ってしまいます。私の側の自意識過剰という解釈もあり得るのですが、ただほかの人(子どもなどを含め)との関係ではそこまでのことはあまりないので、たぶん彼女との関係で起こりやすいことだと思います。

 それも、たんに彼女が「自分のしんどい思いを話しているだけ」というふうに考え直すと、事態の意味がまた別の形で考えられるようになると思うのですが、感覚的にはそこが難しいところになります。

 なぜ難しいのかというと、否定的なことを言うその言い方が、「誰に対して言っているのか」、その「表現」の先が明確でないことが大きな原因ではないかと思いました。

 定型は基本的に仲間づくりを非常に重視して動く傾向がありますから、相手から何かを言われたとき、「この人は自分に好意的なのか、自分と仲間になりたいと思っているのか、あるいは敵対的で攻撃してきているのか」ということについて、無意識のうちに非常に敏感に反応します。

 それで、相手に否定的なことを言う場合は、それが相手にとっては攻撃として受け取られる可能性が高くなるので、その否定的なことは「貴方に対して」ではなくて、「別の対象に対して」向けられていることを可能な限り表現しながらそういう否定的なことを言う、というスタイルを身に着けていくんですね。そして相手に対してはできるだけ友好的な表情を保とうとしたりする。

 というわけですから、そういう「配慮」抜きに相手がストレートに否定的なことを言う場合は、「私に対して攻撃をしてきている」「いい関係を作りたくないのだ」と直感してしまうことが起こりやすくなります。いわば「宣戦布告」をされた気分になるのです。


 「恨み」の問題はもうひとつ複雑になるかもしれません。

 なぜなら、あすなろさんとサロマさんのやりとりの例では、サロマさんがあすなろさんに対して恨みを持っているというふうに理解されたのではないからです。その意味では、あすなろさんはサロマさんが「別の対象」に対して否定的に語っているという事を理解できる状態にあると言えますし、サロマさんはそういうところで誤解される書き方はされていないことになる。

 でもそのうえでなお、あすなろさんはサロマさんに「恨み」を感じ、サロマさんはそんなものはないという、というズレが起こっています。

 そうするとここで二つの可能性が出てくるかもしれません。ひとつはサロマさんが否定的な感情を持っていて、それはサロマさんの意識としては別に「別の対象」に向けた否定的な感情ではないのだけれど、定型的にその表現を見るとその「別の対象」に向けられた「非難」の表現として受け止められてしまうために「恨み」をそこに感じる、という可能性です。

 もう一つは実はサロマさんはまったく否定的な感情をもそこでは持っておらず、それを定型的に理解して「こういう場合なら当然否定的にみるだろう」と自分に引き寄せて理解してしまうために全く存在しない否定的感情=「恨み」をそこに感じてしまった、という可能性です。

 私はまだどうなのかがよくわかりませんが、なんかそういうあたりに、かなり大事な問題が隠れていそうな気がします。
 

2018年5月20日 (日)

見えない自分

 ある意味、自分のことを一番よく理解しているのは相方なのかもしれないという気持ちになってきています。

 その意味は、自分がこう見てほしい、という「お化粧」の部分はほとんど関係なしに見ているということでしょうか。

 「お化粧」とか「クッション」とか、いろんな表現が可能だと思いますが。

 定型的な人間関係では重要と考えられていて、その中で自分の「人生」を作ろうとしたりしている気がしますが、そこをすぱっと切り落としたときに見えるものを見ているのが彼女のような気がしてきます。

 もちろん、逆に言えば彼女に見えない世界があるわけですが、でも私には見えない世界をたぶん見ているし、その目で見ると、私はまたかなり違う風にみえるんだろうなと。

 定型アスペ関係でしばしばお互いが傷つく理由は、この大事にしている見方のズレからくるんでしょうね。

2018年5月 5日 (土)

自慢?

 前からどうも会話がずれる様で気になっていたことに、自分が何かを達成したと感じたとき、それを話したときの相方の反応があります。

 特にそれは一般的には他の人から褒められるような成果を上げたときのことが多いように思うのですが、それを話すと、「自慢したいの?」と聞かれたりするんですね。

 そう言われてみると、「ほめられるようなこと」について、相方に話をして彼女にもほめてもらいたい、という気持ちはたしかに入っているように思うので、全然外れというわけではないんですが、でもそう決めつけられてしまうと、なんだか「身も蓋もない」感じで困ってしまうのです。

 なんでなのかなと思ったのですが、まずそういう対応をされたときの私の気分は、すっと冷めてしまって、なんだか冷たい風がスーッとその場に吹くような感じになります。こころが冷えていく感じですね。そして、自分がただ人に自分を自慢したいだけの、つまんない人間に思えてきたりします。

 それと同時に、いやあ、でもこれって一緒に喜んでもらえるところだよな、という悲しい気持ちが起こるわけです。

 ということを考えると、つまりそういう話をするのは、「一緒に喜んでほしいから」なわけですね。

 このことについてはこれまでも何度も書いてきたことにつながっていますが、子育てをしていても、私が一番強い違和感を覚えたのが、彼女が子どもと一緒に喜ぶ、ということが非常に少ないという事でした。子どもは喜びを共有してもらい、またほめられることで成長すると私なんかは思っていますから、それは子どもにとってつらいことと思え、またそれを見ていて私もつらくなるわけです。

 たとえば子どもが絵を描いて、嬉しそうに「○○描けた!」と持って来たとします。絵としてはもちろん幼い下手な絵ですから、それを見て「すごい上手だね!」と感動することはあまりないかもしれません(もちろん子どもの絵独特の感じに感動する人もいるでしょうけれど)。でも、私などはそうされると「ああ、よく描けたね」とか「頑張ったね」とか、なんかほめてあげたい気分になります。

 そこがほんとに少ないんですね。ここでも同じことがあって、それは「ほめてほしい」=「自慢したい」という部分がないわけではないですが、でもそれと同じくらい、あるいはそれ以上に「一緒に喜んでほしい」という気持ちがあるわけです。

 「自慢したいの?」という見方では、そのもうひとつの大事と感じられる部分がすっぽり抜けてしまうので、「身も蓋もない」状態になるのだと思います。

 定型から見てアスペの方が非常に冷たく見えるときは、たぶんそういうような場面が多いのではないか、と想像します。

 なんでそういうことになるのか。「アスペの人はもともと冷血漢なんだ」という説明の仕方があるでしょうが、それは私には全然納得できません。逆に定型の方が残酷な冷血動物のように思うアスペの方が少なくない、という現実も、この場でも何度も見てきましたし、まあ確かにアスペの立場から見ればそう見えるんだろうな、というふうにも思います。だから問題は「○○は冷血漢」という単純な決めつけでわかるものとは違う。

 ここでも二つの可能性を思いつきます。ひとつはアスペの方自身が子どものころから否定され続け、一緒に喜んでもらえる体験が少なかったために、自分にもそういうスタイルが身に付いたという可能性です。私の相方などは、実家に行くとびっくりするくらい否定的に言われ続けるのを見て、私がつらくなったり憤ったりすることも多かったですから、その可能性もあります。(そういう相方の親のことについて、ほんとに彼女が苦しかっただろうと私が憤って、彼女にその憤りを彼女に対する深い共感の思いで伝えたら、自分の親を悪く言うなと激しく怒られたので、面食らいましたが)

 もうひとつはアスペ的な特性の一つとして、そういうところで共感的につながりを作ることについてあまり関心が向きにくいために、自然にそうなる、という可能性です。だから相手がそういうことを言ってくる意味が分からず、「これは自慢なのかな」と頭で解釈して、とまどいつつそう相手に尋ねるという可能性もあります。

 もちろん両方が絡んでいるのかもしれません。

 いずれにせよ、そういうことが自然な姿なのだとすれば、そのずれを前提に、お互いの期待をうまく調整しながら関係を模索していく必要があるのでしょうね。まだよくわからないですが。

 
 

2018年5月 1日 (火)

ブラック イズ ビューティフル

 

サロマさんのコメントを拝見して、またひとつなんとなく感じながらもやもやしていた感じが形になってきたような気になりました。

 一部の定型サイドの方たちから、「なんでもっとがんばらないんだ」とか、「結局甘えじゃないか」というたぐいの非難に見える「攻撃」がアスペの一部の方に激しい怒りを伴って加えられたことについて、もちろんその攻撃が妥当だとは私は思いませんが、なぜその非難にアスペの方たちが私の想像をはるかに超えて傷つくかというと、その前提にはご自身が「なんでできないんだろう?」という悩みを常に持ち続け、そしてそれだけではなく、できない自分自身をどうしても肯定できない、というつらさを抱えているから、ということがあるのですね。

 すでに自分自身を自分で深く非難し、痛めつけているところに、輪をかけて人からその傷口を無慈悲に切り拓かれる状態になる。そのことへの怒りというふうに理解すると、すっと腑に落ちる感じがします。

 私はここでずっと定型アスペの「対等な関係」がどうやったら可能になるかを考え続けてきました。ですから、私にとっては否定的に見えるアスペの方の特色の部分も、だからといってそれでその人の価値を判断することはしたくないと思ってきました。そういう姿勢を模索し続けたので、逆に「アスペの方自身が自分を否定している」という部分を十分に受け止めきれなかったのではないかという気がします。

 言ってみれば私には、たとえアスペの方が攻撃されたとしても、それは多くの場合(すべてではないとしても)相手の無理解からくるもので、そのような種類の批判は「お互い様」のレベルで対応すればよく、そのことで傷つく必要はない、というような感覚がどこかにあったわけです。でもそれは自分をどこかで肯定できているからそういうことができるわけで、その自己肯定そのものに苦しんでいる場合は、とてもではないがそういう事が可能にはなりにくい。

 ではなぜアスペの方がしばしば自分を肯定できないかというと、それはやはりこの世の中が定型中心で作られているからで、その価値観にアスペの方もどうしても染まらざるを得ないからのような気がします。そうではない別の価値観、別の生き方が確立されてくれば、また見方が全然変わってくるのだと思うわけです。

 

 昔アメリカで黒人差別が今よりもさらに激しかったころ、いろんな運動があったわけですが、その中ですごいスローガンが出て来ました。「ブラック イズ ビューティフル」という言葉です。

 「肌が黒い」ということはそれまでマイナスのイメージになっていた。でもそれは差別的な白人の視線によるものです。アフリカで先祖が暮らしていた時、自分の肌の色に引け目を感じていたなどという事は考えられません。多数派で権力を持つ白人層の中で作られた差別的価値観を、弱い立場にいる黒人の人たちがどうしても引き受けざるを得なかった。そうしないと生きていかれないからです。その結果、自分で自分を肯定できない状態に陥っていった。

 その状況を「ブラック イズ ビューティフル」というスローガンが打ち砕いたのですね。これはすごいと思います。実際、アメリカの街角で、黒人のビジネスパーソンがほんとにかっこよく、美しく、自信をもって生きているように見える姿を見て感動したことがありました。もちろん深刻な差別は残り続けるにしても、そうではない力も大きく育っています。

 

 同じようなことが定型アスペ関係でも起こりうるのではないか、ということを私は考えています。もちろんある意味それは今は夢物語でしょうし、私自身、具体的にその物語の内容を心に描けているわけではないのですが、なんとなくその可能性を感じるのです。もちろん差別されている現実の中で苦しんでいる方にはなんの説得力もない話だと思いますけれど。

 あこまてぃっくさんも書かれていましたが、みんな変なんです(笑)。誰一人まともな(?)人間はいない。それぞれの長所と短所を抱えて生きています。問題はお互いの短所同士がぶつかり合って激しい葛藤になること、そのことでどちらかが、あるいは両方が痛めつけられてしまうという状況でしょう。 それをできるだけ回避して、長所を活かしあうかかわり方を見つけられたら、そうしたら一方的に自分や他人を否定する必要もなくなりますよね。もちろん部分否定は残りますが、でも肯定がベースになって否定があれば、それは問題がないでしょう。問題は否定がベースになることで、大事なのは否定がなくなることではありません。むしろ全部長所という方がおかしいですよね。それはありえない幻想です。

 

«「痛みの共有」と「仲間への援助」

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