親しさの意味のズレ
昨日の晩は晩御飯を遅くに家で食べることになっていて、相方は私の分を残しておいてくれたのですが、私の方は外で軽く飲んで帰ったので、あんまりたくさんいらないと言いました。
そうするとやっぱり怒ったような口ぶりで今日は家で食べるんじゃなかったのかと言うので、食べるけど沢山は要らないというだけ、と言ったのですが、しばらく怒りの雰囲気(に感じられるもの)はなくなりませんでした。
そのあと、彼女のパソコンの仕事でソフトがうまく働かないことがあって、それにいらだっていたので、ご飯を中断して状態を見せてもらい、原因を一応見つけたのですが、私には解決の力がないので、仮の逃げ道を作って「解決」させたのですが、ようやく少し気持ちが落ち着いたみたいでした。
以前だとこういう時に、「なんでその程度の事でここまでいらだたれなければならないのか」=「なんでそこまで責められなければならないのか」という気持ちになったのですが、最近はちょっと違う面を感じるようになりました。
つまり彼女のいら立ちの中身は、ひとつには予定外の事が起こった事への戸惑いなのですが、その戸惑いの中身は単に怒りではなく、「たくさんは要らないと言っているが、食べなくてもいいということではないか」「無理に食べてもらう必要はないのではないか」というような、どっちかというと私の方への配慮の気持ちもごちゃごちゃと混じって、さらに混乱しているんじゃないかと言う気がしてきています。
ただ、そういうふうに「相手の事を考えて」の場合でも、自分の中で整理がつかずにとっさにどうしていいかわからない混乱が起こると、そのことへのいら立ちが、相手への攻撃的と感じられるような態度になって現れる、そんな感じなんじゃないかと言う気がするわけです。
もしそうだとすれば、そこで私が「そんなに怒らなくたっていいじゃない」と言ったとすれば、それでまた傷つくのでしょう。
今朝は「疲れを癒して気分を楽にするのに、なんかしたいことある?」と聞いたら、そういうことを聞かれること自体がしんどいんだと言ってました。昨日(心身が)疲れているというので、何か回復への方法はないかなと思ったのですが、なにしろ私ならこういうことがいい、と思うアイディアはことごとく失敗するので、直接本人に聞いてみたいのですが、やはりこういう返事でした。
このあたりも私の方は「ああやっぱりそうなんだな」という感じで理解するようになってきています。
私の場合は、自分の中で整理されないもやもやがあるときは、人と話をすることがよくあります。そうやっていろいろ話をしているうちにだんだん整理されてくるわけです。だから人にいろいろ聞くことは大事だし、人から聞かれた時も相手のために(そしてそれが結局自分のためにもなる)答える、ということについては基本的にプラスに感じます。
でも相方の場合はそこが違う。やっぱり基本は自分の中で解決しなければならなくて、相手がそこに入り込んでくることは混乱を生むことにしかならないわけです。特にその場での即座の応答を求めあう形の会話でのやりとりがそう言う事になりやすい。
そういうふうに見ると、昨日の晩の話も今朝の話も同じことですね。どちらも自分の中に生まれた混乱を、「相手と一緒に解決していく」というふうになりにくいので、拒否的に見える態度になる、ということになります。
定型的に「お互いのその場でのやり取りの中で一緒に問題を解決する関係こそが親しい関係だ」という感覚でいると、なかなかうまくいかないわけですね。定型的にはそれがないと「親しさ」を感じにくかったりするわけですが、かといって相方が私に親しさを感じていないのかと言われれば、それも違う気がするわけです。そこがむつかしい。
なんか親しさの意味にズレがあるんですね。きっと。
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