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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2018年10月

2018年10月28日 (日)

親しさの意味のズレ

 昨日の晩は晩御飯を遅くに家で食べることになっていて、相方は私の分を残しておいてくれたのですが、私の方は外で軽く飲んで帰ったので、あんまりたくさんいらないと言いました。

 そうするとやっぱり怒ったような口ぶりで今日は家で食べるんじゃなかったのかと言うので、食べるけど沢山は要らないというだけ、と言ったのですが、しばらく怒りの雰囲気(に感じられるもの)はなくなりませんでした。

 そのあと、彼女のパソコンの仕事でソフトがうまく働かないことがあって、それにいらだっていたので、ご飯を中断して状態を見せてもらい、原因を一応見つけたのですが、私には解決の力がないので、仮の逃げ道を作って「解決」させたのですが、ようやく少し気持ちが落ち着いたみたいでした。

 以前だとこういう時に、「なんでその程度の事でここまでいらだたれなければならないのか」=「なんでそこまで責められなければならないのか」という気持ちになったのですが、最近はちょっと違う面を感じるようになりました。

 つまり彼女のいら立ちの中身は、ひとつには予定外の事が起こった事への戸惑いなのですが、その戸惑いの中身は単に怒りではなく、「たくさんは要らないと言っているが、食べなくてもいいということではないか」「無理に食べてもらう必要はないのではないか」というような、どっちかというと私の方への配慮の気持ちもごちゃごちゃと混じって、さらに混乱しているんじゃないかと言う気がしてきています。

 ただ、そういうふうに「相手の事を考えて」の場合でも、自分の中で整理がつかずにとっさにどうしていいかわからない混乱が起こると、そのことへのいら立ちが、相手への攻撃的と感じられるような態度になって現れる、そんな感じなんじゃないかと言う気がするわけです。

 もしそうだとすれば、そこで私が「そんなに怒らなくたっていいじゃない」と言ったとすれば、それでまた傷つくのでしょう。

 今朝は「疲れを癒して気分を楽にするのに、なんかしたいことある?」と聞いたら、そういうことを聞かれること自体がしんどいんだと言ってました。昨日(心身が)疲れているというので、何か回復への方法はないかなと思ったのですが、なにしろ私ならこういうことがいい、と思うアイディアはことごとく失敗するので、直接本人に聞いてみたいのですが、やはりこういう返事でした。

 このあたりも私の方は「ああやっぱりそうなんだな」という感じで理解するようになってきています。

 私の場合は、自分の中で整理されないもやもやがあるときは、人と話をすることがよくあります。そうやっていろいろ話をしているうちにだんだん整理されてくるわけです。だから人にいろいろ聞くことは大事だし、人から聞かれた時も相手のために(そしてそれが結局自分のためにもなる)答える、ということについては基本的にプラスに感じます。

 でも相方の場合はそこが違う。やっぱり基本は自分の中で解決しなければならなくて、相手がそこに入り込んでくることは混乱を生むことにしかならないわけです。特にその場での即座の応答を求めあう形の会話でのやりとりがそう言う事になりやすい。

 そういうふうに見ると、昨日の晩の話も今朝の話も同じことですね。どちらも自分の中に生まれた混乱を、「相手と一緒に解決していく」というふうになりにくいので、拒否的に見える態度になる、ということになります。

 定型的に「お互いのその場でのやり取りの中で一緒に問題を解決する関係こそが親しい関係だ」という感覚でいると、なかなかうまくいかないわけですね。定型的にはそれがないと「親しさ」を感じにくかったりするわけですが、かといって相方が私に親しさを感じていないのかと言われれば、それも違う気がするわけです。そこがむつかしい。

 なんか親しさの意味にズレがあるんですね。きっと。 

2018年10月 7日 (日)

地図

 母親と久しぶりに話をしていて思ったことです。母親はかなり強烈な人で周囲が振り回され続けるために、こちらも身が持たなくなるので、ある程度距離を取らざるを得なくなります。そして「この人はこういう人なんだから、それを前提に付き合うしかない」という、自分なりの「理解」を作り上げていくんですね。

 その「この人はこういう人だ」という「理解」によって、なんとか自分なりの「対処の仕方」を見つけるわけです。 それは自分をある程度守りながら対応するためにある程度有効なんですね。だから「この理解で間違いない」という気持ちにもなる。

 けれども、実際には丁寧に考えてみれば、いろいろその「理解」では及ばないところが出てきます。だからその「理解」は相手から見ればおかしな「決めつけ」に思える、ということも起こる。かといってこちらは自分の「理解」を捨てるわけにもいかないわけです。なぜならそれは相手との付き合い方を探る長い葛藤の中でようやく手に入れた「ある程度有効なもの」ですから、それを捨ててしまったらまたもとの混乱に戻るだけだ、というふうに感じられるからでしょう。

 実際にできるのはその「理解」を少しずつ調整していくことだけなのだろうと思います。それが積み重なっていくといつかその「理解」が大きく変化することもあるでしょうが、そこでできた「理解」もまたある種の「決めつけ」であることは変わりなく、それを超えることはできない。

 

 たとえ話ですが、こういう「理解」って、地図のようなものかなという気がします。行きたいところに行くにはそこまでの道筋を「理解」しておく必要があります。その理解を図にすれば地図になる。でも、言ってみればその地図って線の集まりですから、実物とはもちろん違います。たくさんのものが省略され、大雑把な道筋(歩き方)をそこから読み取れるだけです。

 地図にも大雑把に手書きで「だいたいこっちのほう」ということを示すだけのものもあるし、縮尺とかを細かく決めて、距離や方角などはかなり細かく調整されているものもある。でもいくら細かくしたところで実物とは違います。でもどれでも実際にその場所を動き回るにはある程度役立つのです。

 正確ではないからといって地図を捨てるわけにもいかない。でも地図はやっぱりどこまでいっても地図で、実物とはぴったりとは合わない。そういうところが上の話に似ています。

 なんでこの話を書くかと言うと、定型アスペの話もおんなじだなと思うからです。ここでは定型とはこういう人で、アスペとはこういう人だ、ということを考えてきています。お互いにどこが違うのか。どこがずれるのか。

 なぜそういうことをやるかというと、定型アスペ問題に新しい理解を切り拓いていかなければ、定型の視点から「アスペはこういう人々だ」という決めつけでは「対等なコミュニケーション」は無理だと感じているからです。だから、定型だけではなく、アスペからも「それは納得できる」という理解を探してきました。

 実際にそれはある程度はうまくいくところもあって、今までのアスペルガー理解とは違う世界が見えてくることもあるように感じています。 けれども、やっぱりそれもまた別の種類の「決めつけ」であることを逃れることはできません。


 まあ、自分が生きていくためには、たとえずれたものであっても何か「理解」という「見通し」を作りながら進むよりありません。先が予想できなければ身動きができませんから。けれどもそれは一種の決めつけであることも意識しながらその都度ずれを調整し続ける、とうことなんでしょうね。それ以外の進み方はちょっと想像することが出来ません。

 地図は決して完全にはならないけれど、手掛かりになるので捨てるわけにもいかない。でも手がかりにすぎないことを忘れてはならないし、ちょっとずつよりましな地図を作っていくしかない。という話になります。

2018年10月 6日 (土)

恨みに見える理由

 相方から私の行動とか性格のことなど、稀にコメントをもらうことがあるのですが、だいたいはマイナスの内容です。誉められた記憶はほとんどありません ('◇')ゞ

 それで、その時はだいたいがなんとなく「恨みがましい」言い方のように聞こえてしまって、一層つらくなるので、「なんでそうなるのかなあ」というのが長年の疑問でした。

 まあもちろん実際に恨みを蓄積しているのかもしれないわけですが('◇')ゞ、でもそこまでのことはなさそうにも思ったり(甘いかも?(笑))、あるいはアスペとしてこれまでの人生で苦労し続けてきたわけですから、基本的に世の中に対しては全て深い恨みが基調になっているのだろうかと考えたり、そんな感じでした。

 で、ふと思ったのですが、これもまた表情と表現の問題の一部かもしれない。

 定型(少なくとも私)の場合、相手に対してその否定的なことについて指摘をする場合は、やはりかなり気を使います。ストレートにきつく言うときは相当覚悟をして相手と対立関係になってもいいという感じになるか、あるいは「本当にあなたのためを思って無理して指摘するんだ」という感じをなんとか伝えようと努力したり、そんなことを結構やっていると思います。

 あるいは半分冗談のような感じで伝えて見たり、笑顔で伝えようとしたり、なんかそういうクッションを入れようと自然となるんですね。

 これもまた表情を意識してコントロールして表現に気を付ける、というスタイルでしょう。

 その部分がないと、「ケンカ腰」のように相手に受け取られてしまうわけで、危険なわけです。アスペの人はそういうところで定型の地雷を踏みやすいのだろうと思います。けれどもなぜそれが地雷なのかはピンときにくいのでしょうね。だから混乱する。

 それで「恨みに見える」言い方も同じようなことなのかなとも思えたわけです。ある意味素朴な感想を伝えているだけなんだけど、その時定型的な感じで表現を調整することがあまりないので、「マイナスの事を言っている」ということは伝わってきて、ただし直接攻撃的な感じまでは行かない、そんな感じになる。

 そうすると、定型的には「マイナスの話を、怒りを抑え込んで話している」という印象になり、つまりは「恨みがましい言い方」に聞こえてしまう、ということがあるのかも、と思ったわけですね。ドラマとかで自分の思いを相手がくみ取ってくれないことに苦しんでいる(特に)女性が、「なんであなたは私の気持ちをわかってくれないの?」というメッセージを込めて控えめにマイナスのことを言う、というシーンがあったりしますが、そのパターンに結果的に似てしまうわけなのでしょう。

 これも定型的な「察しあい」の文化の中での理解の仕方で、そこが「素直」を重視するアスペ的文化とずれてしまうのでしょう。なんかそんな気がします。


 
 
 
 

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