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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2018年9月17日 (月)

個人か社会か

 ある人が何かの問題を起こしたとき、それがその個人の責任なのか、社会(周囲)の責任なのか、という議論はいつでも起こります。

 結論は単純で、個人の責任の部分と社会(周囲)の責任の部分と両方がある、ということだと考えますけれど、パートナーと話をしていても、この点でも定型アスペ間に視点のズレが生まれやすいと感じます。

 定型の場合、人との関係の中でのその人ということに目が向きやすいので、社会(周囲)に目が向きやすく、アスペの場合その人が自分で生きていくということに目が向きやすいので、個人に目が向きやすくなる、ということがあるのだろうということです。

 実際はどっちもどっちでしょう。だから同じ人に対しても、その個人の責任を問い、あるいはその個人に改善を求めるということもあるし、逆にその個人がその状態になった環境を変えない限り、同じことが繰り返されるだけだ、という視点から、その個人の行動を「適切な環境が得られなかったことの結果」と言う意味で、社会の責任を問う、という在り方もある。どちらにも理由があるし、どちらにもそうすることの効果はある。でもどっちも完全ではありません。

 

 ですから、やはり結論は単純になるでしょう。個人に対しては個人の責任や努力を問うことが必要になり、同時に社会に対してはそのような個人を生んでしまった世の中のあり方を変えていく必要を訴えることが重要になる。前者がなければ「なんでもあり」の世の中になるし、後者がなければいつまでたっても同じ環境の中で同じことが繰り返されるだけになります。

 私はそういうふうにシンプルに考えています。

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コメント

掲示板やここでの議論で、以前から気になっていることがあります。
社会システムの不具合が、結果的に生んだ『個人の問題』を、個人の自己責任として切り捨ててしまう傾向です。
例えば、凄惨なイジメに遭っていた人が、誰からも助けてもらえず、耐えて耐えて、結局加害者を刺してしまった、という例の場合、相手を刺したその行為は社会的に許されるものではなく個人の責任が追及されるのは当然です。
しかし、それと同時に、その犯罪に至るまで、凄惨なイジメを放置していた社会、もう少し遡るとイジメを生み出す土壌になっている社会を変えて行かなくてはならないし、そうしなければ第二第三の犯罪が生まれる可能性は大いにあります。

ただ、ここでその社会の責任について話し合いたいと思っても、『個人の責任はどうなのか?社会に責任転嫁する事で、個人の罪は許すのか?』という話になりやすい。
いや、そこは同時進行なのですが。ということが、とても伝わりにくいと思います。

あるいは、個人の責任については解決が想像しやすいけれど(個人一人一人が気を付けて生活することで、犯罪を抑制する)、社会などの大きなものは簡単に動かさないのだから言っても仕方ないと思われる人が多いのか?

私は、根本的な社会の問題が解決しないとその種の犯罪の撲滅には繋がらないし、社会の問題は、個人個人が少しずつ意識を変えることで解決していく問題だと思うので、意識を変えない時点で犯罪に加担しているというくらい、社会問題について個人が責任を持っても良いと思うのですが。

社会か個人か、と言う話は、いつごろからでしょうか、歴史的にはものすごく昔からずっと議論され続けてきた話ですよね。鶏と卵のような議論とも言えるでしょう。

社会を変えるには個人が変わらなければならない。でも個人が変わるには社会が変わらなければならない。どっちも間違いのないことですし、どっちも間違っています。

そういう果てしのない議論が続くのは、結局社会と個人を切り離して考えてしまう、という思考パターンに陥ってしまうからだと私は考えています。そこに陥ってしまう限り、いつまでたっても鶏か卵かの議論から抜け出すことが出来ません。

そこから抜け出すのは、個の中に社会を見る、そして社会の中に個を見る、という視点の切り替えしかないので、ここではずっとそれを模索し続けています。だからアスペの問題をその人の個人的な特性の問題と考えるのではなく、周りとの関係がずれることで生まれる問題だという視点で考え続けてきたわけですし、つまりはアスペ定型の問題は関係の問題だということになるわけです。

けれども関係の問題と言ってもそこで実際の行動しているのは個人ですから、その関係を変えるのは個人以外ではありえない。個人が変わらなければ関係は変わらないわけです。でも関係を変えるには個人が相手との関係の中で個人なんだという視点がないと結局問題を特定の個人の自覚や努力の問題に矮小化するだけで終わってしまいます。

社会と切り離された個人は存在しないし、個人抜きの社会は存在しない。個人として行う事は社会的な意味を持つし、社会のあり方は個人のあり方に依存している。まあ、実に単純な話なんですが、どうしてもそれを二分する議論がなくならないのも実情ですね。

とはいえ、そろそろそういう堂々巡りになるしかない議論の仕方は終わりにして、次に進んでもいいのではないかと私は思ってこのブログをやり続けています。個人の変化は周囲の人たちとの関係を変化させ、周囲の変化は自分を変化させる。その連鎖の中でよりよい関係が生み出されていけばいいだけの話だと思います。それがいつか多くの人に共有されて「制度」のレベルにまで及んだ時に社会全体の変化が現れるのですから。

>パンダさん

私は、パンダさんのブログと掲示板は、時代の最先端を行っている!と、最近しみじみ感じています。
カサンドラ症候群に悩む方同士で集まると、気持ちは分かるけどどうしてもパートナー批判に終始してしまう。その場では気持ちが治るけど、そこからは何も見えてこなくて、また同じことの繰り返し。
しかし、ここで、私とは違う価値観を持つ人の話を理解しようとしてきた結果、クリアになってきたものがたくさんあり、救われました。
社会というのは、異なる価値観を持つ人たちが、それでも協力し合って生活する場ですから、トラブルがあって当然。そのトラブルに対処するために、法律や制度が出来て来たのですから、現時点の社会の形は、それ以上にもそれ以下にもならないのだと思います。
ただ、今の形が絶対ということはあり得ないし、人間の側で現状を維持したいと思っても、自然災害が連続して起きるなど、維持できない諸事情がたくさん生まれてくる。
必然的に変えざるを得ない。
日本は大きな転換期に来ていて、どの方向に変えて行くのかで大きな議論が起きている状態だと思います。
社会対個人の責任論など虚しく、放っておいても変わらざるを得ない社会に、個人はどういう主張を持って関わって行くのか、それが今、大きく問われることなのではないでしょうか?
私はこのブログに出会うまで、視野がとても狭かったことを痛感しています。けれど、おかげさまで、出会う前より価値観が100度くらい(90度よりもちょっと多い!笑)変わったように思いますし、この転換期にだいたい自分の方針が定まってきたことが、ありがたいなと思っています。
もちろん、色々な価値観の方が居て良いんですが、あまりにも『現状の社会』というものに縛られ過ぎたり、理想化し過ぎてしまっているのは、残念だし、大きな変化が来た時に自分の立ち位置が分からなくなるのでは?という心配を感じてしまいます。まったく老婆心ですが。
大事なのは、どんな時代の変化がやってきても、自分の主張に根拠があれば揺るがないってことですよね。しかし、その揺るがない根拠を他人に押し付けて争いを起こすことだけはあってはならないと思います。(うっかりすると、よくやってしまうことなので、自戒を込めて!)

「最先端認定」ありがとうございます m(. .)m

ほんとうに最先端なのか、一周遅れのトップランナーで見た目の先端なのかはわかりませんが(笑)、なんか今の障がいに対する考え方とか、療育に対する考え方って、すごく一方的なものが多いなと感じて、なじめないんです。

定型は共感性が高くてアスペは低い、とよく言われるのも、実際は定型はアスペに対する共感性が低い、という見方だってできるのに、そういう話もまず聞いたことがありません。

人間はみんな自己中で、それを抜け出ることは不可能ですけれど、少なくともこのレベルの自己中はそろそろ卒業してもいいんじゃないかと思えるんですね。そうしない限り定型アスペ問題はいつまでたっても怒りと恨みのぶつけ合いに終わってその先がない。

もちろん怒りを持つことにも恨みを持つことにも、お互いにそれぞれの理由があって、その感情自体を無視することも否定することもできないし、してはいけないんだと思うのですが、大事なのはそこをどう乗り越えるかでしょうし。

そのためには、「お互い様だなあ」ということに気づくことが大事なのかなと思っています。もちろん簡単ではないですが、それでもここで少しずつお互い様の面が見えてきているように、不可能ではないと思っています。

犯罪に至る経緯については社会にも多いに問題があると思っています。
ただ無関係な人間を巻き添えにするのはやった個人に問題があると思います。

>社会を変えるには個人が変わらなければならない。でも個人が変わるには社会が変わらなければならない。
間違いではないと思いますが、やはり集団心理(社会)というものが主体で動いているのではないかと思います。
共同幻想の話ではないですが、時代によって全体的な価値観というものが変わってくるように思います。
例えば昔は電車に乗っていても人に席を譲るというのはたまにしか見かけなかったのですが、最近は席を譲る光景はよく見るようになりました。
個人で変えようと思ってもなかなか変わらなくて、時代の変化で社会も少しずつ変化していくのではないかと思います。

個人の責任なのか?社会の責任なのか?それぞれの責任も違ってくるのだと思います。

例えばある男性が事故の後遺症で働けなくなった。しかし奥さんの給料だけでは子供を養えない。こういった時に福祉は手を貸すべきだと思います。

しかし、社会の責任とは言えない、個人の責任だと思うケースもあります。
実際に畠山鈴香のような女性は実際に何例か見てきました(彼女達は殺人はやっていません)。
貞操観念がない障害者の女性が男を取っ替え引っ替え、ね子供が出来たら自分の親や兄弟に押し付けて放置、または施設に子供を預けていました。
発達障害や軽度知的障害でもやって良いのかの判断くらいはつくでしょう。もちろん男に溺れてばかりの健常者にも同じことは言えます。
彼女達の欲望の尻拭いのために福祉があるわけではないです。何より一番の犠牲者は子供です。
彼女達がそうなってしまう背景(社会)にも問題はあり、改善しなければならない問題だとは思いますが、罪のない子供を巻き添えにして良い理由にはなりません。のれは個人の責任です。

>サロマさん

よく分かります。私もそういうケースを知っています。何故子供を産んだのか?と思うようなケースもよく見聞きしますよね。虐待殺人にまで発展する前に、何故手が打てなかったのか?そもそも子供を産むことをどう考えているのか?
悪質なケースだと、児童手当目当て、障害児なら、さらに優遇されるものが大きいので、その金目当てという人もいます。

生活保護費と同じく、ある福祉制度が確立すると、それを悪用する人間が湧いて出てくるのが現状です。

個人の責任は大きいでしょう。
しかしずる賢い人間ほど、個人の責任など全く意に介さない人が多いです。その責任を重くすると、負担は真面目に福祉を必要とする人が被り、ずる賢い人間は正当なフリをして利益を貪ります。
問題はそういうマナーの悪い人間のために、生真面目に頑張っている人が福祉や支援から溢れてしまうことではないかと。そして、社会から溢れて、どうにもならなくなった時、元は生真面目だった人も、こんな社会で真面目にやっていても何も得は無いと、やけになったり、絶望から犯罪を犯しても何も怖くなくなったりするのではないかと。

だからこそ、社会制度は出来るだけ多くの人を救えるように整えられるべきだと思います。

サロマさんの今回の問題提起の仕方はかなりいいんじゃないでしょうか。
これはまず具体的な個別のケースについて話されているわけですから、具体的に考えることが出来るし、そのケースで言えることがどこまで一般的に言えるかどうかも議論することが出来る。
最初から障がい者というくくりで書かれると問題になることでも、こういう形なら議論ができるのだと思います。

あすなろさん

ずる賢い人間を野放しにしている現状もあるかと思います。
ある人が不正受給している話を隠し録音して市役所に提出しても市役所が取り合わないとか。しかし真面目にやっている人には厳しく指導する。
こんなことも普通にあります。
これは行政側の問題かと思います。
しかし個人にも選択の責任や義務はあるかと思います。子育て放棄しかねないのに産むという選択をやめさせることも必要かと思います。

パンダさん

私は障害者というくくりでは書いていませんよ。
「子供を育てる気がない人」「障害があることによって能力的に子供を育てることに無理がある人」を対象としています。
精神病と上手く付き合ったり、障害があっても子育て能力があり、パニックにならず、子供が何かあった時にきちんと対象できる人であれば問題ないと思います。
そこを「障害者一くくりにしている」と決めつけられるのが残念でなりませんが。

>「子供を育てる気がない人」「障害があることによって能力的に子供を育てることに無理がある人」を対象としています。

そうであるなら、なおのことわざわざ障がい者の問題として書く必要はないですね。
定型の場合にも障がい者の場合にも「親としての責任を果たしていない」ひとがいるわけですし、その場合「障がい者がそうなる原因」と「定型がそうなる原因」に特性上の違いがあるかもしれません。どうしても障がい者のケースを取り上げて議論したい場合は、その問題が生じる場合の障がい者のどの点がほかの障がい者と違って問題なのかを論ずればいいわけで、そのことを触れずにただ「障がい者」がどうのこうのと言い出すから問題が深刻になるわけです。

今後は「障がい者の場合はこういう点が苦手だから、そこを何とかしなければ同じ悲劇が繰り返される」という観点からお書きください。同時に定型とそれがどこが違うのかを議論すべきですね。そうでなければただ障がい者だけがそうなるという主張になってしまいます。

なお、くり返しになりますが、どういう場合にもさろまさんがほかの障がい者の権利を奪う権利はないのだという事は確認してください。このことはくり返しお伝えしていますので、今後なおそのことの主張がある場合は特に断らずに公開を控えます。

>サロマさん

ずる賢い人間を野放しにしない社会?
おそらくそれを徹底させたのが、北朝鮮やナチスではないでしょうか?

私はずる賢いことを、悪とは捉えていません。
人間は誰もずる賢い。それは元々生存競争に生き残るための本能からきているのだと思います。
その度合いがあまりにも自己中心的だとか、多数派(社会常識)から逸脱していることが問題なのですが。

ここでそういう人を徹底的に排除する方法として、社会常識をより狭めて、法を厳格化するというものがあります。
つまり、『この程度なら許されるだろう?』『これは個性の範囲だろう』という曖昧さを無くして、少しでも外れたら先に処罰する。
すると、他の人たちも『決して外れてはいけない』という恐怖が湧いて、法を守るようになります。
戦前の日本の政治のやり方ですね。
その結果、社会は平和になったでしょうか?

子育てに関しても、育てる能力が見られない人は、先に去勢することを強要する。ナチスの優生思想ですね。行き着いた先は、生存している障害者そのものの虐殺でした。

ずる賢い、法を守れない、子供を育てる意識がない、これらのことを、そのことが発覚する前に予防することは不可能であって、それを無理やり予防しようとすると、恐怖政治になります。
私は逆の発想で、人に、ずる賢く立ち回ったり、法を守らなかったり、子育てを放棄せざるを得ないような、ある意味追い詰められた状況を与えない社会を作ることで、問題を解決するのが良いと思っています。
これにはとてもとても時間が掛かりますが、短絡的に恐怖政治で人を選別するような社会は、多くの人を排除して、結果として生産性の低い社会を生み出し、ゆくゆくは人類の滅亡にも繋がる恐ろしさがあると思っています。

あすなろさん

>人に、ずる賢く立ち回ったり、法を守らなかったり、子育てを放棄せざるを得ないような、ある意味追い詰められた状況を与えない社会を作ることで、問題を解決するのが良いと思っています。
どうやってその状況を与えないような社会を実現するのでしょうか?

パンダさん

「障害者がどうのこうの」とは言っておりませんが。

いざとなった時にパニックになって子育てに対応できない。
危機予測ができないから子供を危険にさらす。
無神経な言葉を言って子供や家族を傷つけているのにそれが何故なのか自覚できない。
相談しても答えてもらえなかったり、的はずれな答えばかり話す。
こんなのはほんの一例でしかありませんが、他にも数え上げればキリがありませんよ。
そのために定型の親が一人で子育てしている状況(それどころか発達のフォローまでしなければならない)が続いて潰れてしまう。
両親が発達障害であれば、子供が親のフォローまでしなければならなかったり、子供は親無しで育っているのと同じ状況で苦しむ。

もちろん発達障害全てではなく、「発達障害者によります」が、発達親本人は分からないでしょうけど、子供は想像以上に苦しみます。
定型の場合は異性に走って子供を省みないとか、ご飯を与えない、殴る、暴言を吐くといったあからさまな虐待が多いのだと思いますが、発達の場合はそういった問題以外にも、上で話したようなケースも多いです。
パンダさんのところは違うのかもしれませんが、他の家庭では私が話したようなケースを多く聞きますし、見てきました。

>サロマさん

逆に、ずる賢い人間や無責任な人間が、これだけ増えてしまったのはどうしてなのか?を考えてみると分かりやすいと思います。
もちろん、時代によって価値観が大きく変わったことも一理あるのですが、それならば誠実な人間や責任感のある人間を増やすように価値観を変えることも出来るはずです。
私が考える原因は、ひとえに『貧しさ』だと思います。
日本は全体的には裕福な国ですが、必要な部分に回さない、ある一部に経済力が集中しているという大きな問題を抱えています。
持っているのに貸さない、有り余っているのにシェアしない。具体的な豊かさでは無く、精神的な豊かさに欠けていることは、人々の恨みを増幅させます。
マリーアントワネットが『パンが無ければお菓子を食べれば良いのに』と言ったことでフランス革命が加速した。
お腹を空かせている人に見せびらかすように美味しそうに高級料理を食べている人が居たら、掴みかかりたくなるのは当然でしょう。
行き場のない怒りや恨みをぶつける場が無くなると、弱いものにぶつけたくなるのは、残念ながら人の性だと思います。
そうならないシステムを作ることが必要。
辿っていけば、国の経済が正常に働いていないことが貧しさを生み出している。だから、国の経済を正しく働かせることが出来る人を、国民が選ぶ。そんなところから地道な改革が始まり、時間をかけて変えていくしか方法は無いのだと思います。
高級料理を食べている人に掴みかかった空腹の人を罰しても、その場しのぎにしかなりません。

あすなろさん

>国の経済が正常に働いていないことが貧しさを生み出している。だから、国の経済を正しく働かせることが出来る人を、国民が選ぶ。そんなところから地道な改革が始まり、時間をかけて変えていくしか方法は無いのだと思います。
そこは私も必要だと思いますが、それとは別に個人が子供を持つ責任というのも教育すべきではないかと思います。
もちろん健常者向けにも教育はすべきですが、障害者向けにも教育は必要だと思います。
パンダさん宛の回答にも書きましたが、障害ゆえにできないことがあったり、障害があるゆえに自覚できていないこともあります。子供を産んでから分かったでは遅いです。
支援者は障害者が子供を産む権利(それを福祉がサポートする)を主張するだけでなく、障害者によっては子供を産む厳しさ、時には作ることは断念した方が良いことを伝える厳しさも必要だと思います。

>サロマさん

健常、障害関係なく、今の社会は子育てに関して正しい教育が、全く為されていませんね。
子育て以前に、性教育もまるで意味のないことをやっています。なので、本当の性や、子供を作ること、産むこと、育てることに関して、正しい知識を得ないまま親になった人が大半です。そういう私も私の周囲も、試行錯誤で子供を育ててきた人ばかり。困った事になっても、トンデモ教育に傾倒してしまって抜け出せなくても(例えば宗教にハマって必要な栄養を与えないとか、輸血をしないとか)社会は『個人の価値観なのだから良いんじゃないの?』と知らんぷりです。
サロマさんは障害のある人に正しい教育をする事にこだわっていらっしゃいますが、社会の中に性や子育てのベストな方法を知っている人がほとんどいない現状では、障害があろうと無かろうと、正しい教育を施してもらえる人など誰もいません。もしかしたら、自称子育てのプロと名乗る人物が一番怪しいかもしれません。実際そういうトラブルを見聞きしたり巻き込まれたりしてきたので、つくづく感じます。障害があっても、自分の経験から子どもに寄り添った子育てが出来る人もいれば、障害が無くても、無いからこそ、子どものことなど全く考えずに自分の信念を押し付けて子供の人格を破壊するような人もいます。
正しい子育ての教育とは、社会全体が一つの方向性を持って行われるものでなければ意味がなく、その対象は障害のあるなしに関係なく、すべての人に行われるべきものだと思います。子育てに関わらない人も、子供と接する機会はあるのですから、関係ないとは言えない。親を亡くした子もいるのですから、子育ては実の親だけの責任ではないのです。子供を社会全体で見守り育てる視点が無いと、社会というのは次世代に受け継ぐものが無く、廃れていくのだと思います。

追記ですが。
私が障害のある子たちに複数関わってきて気付いたことがあります。
『障害児』と言われる子の中にはかなり多くの割合で、脳機能の障害ではなく生育歴から障害を負ったのでは無いかと思われるケースがいることです。
日本では障害等級を決める際に『言葉の有る無し』が大きな判定基準になりますが、発語が始まる乳児期に親が一切話しかけなかった、親が不在だったというネグレクトを受けると、発語が無かったり、あっても喃語しか出ないということも十分あり得ます。
こちらの話していることは理解しているのに発語が無いというケースがここ最近とても目立ちます。
また昔の『非行』と呼ばれるケースも、基本的な社会ルールを教える人が居なかった、または、そもそも親がルールを守っていなかった(理解していないのではなく反社会的な性格だった)ために、それが犯罪になるということを知らなかったというケースも多いです。
障害のある親から生まれる子どもが不幸なのではなく、障害の有無に関係なく常識の欠けた生活をしてきた親が障害児を作り出しているという深刻な社会問題があると、現場では感じています。
またASDは脳機能の障害であるにもかかわらず、診断基準が行動の特徴に重点を置いているので、実際には障害は無いのにASDと診断されているケースはとても多い。医者すら、脳の障害なのか、育ちの中で障害を負ってしまったのか、判断することは出来ないのが現状です。
社会全体で『障害者の割合を増やしている』ということは、公にしないだけで、実際には十分あり得ると思います。
親としての資質のない人に子供を産ませるな、などという付け焼き刃では解決しない根深い問題です。

あすなろさん

>障害があっても、自分の経験から子どもに寄り添った子育てが出来る人もいれば、
ここは私も「障害者による」と話しています。

>障害が無くても、無いからこそ、子どものことなど全く考えずに自分の信念を押し付けて子供の人格を破壊するような人もいます。
そういった健常者の親も中にはいると思います。
ただ「無いからこそ」というのは違うと思います。
「障害があるからこそ(障害特性ゆえに)」自分の信念を押し付けて子供を潰す親もいますし、障害がなくても子供に自分の信念を押し付けて潰す親もいるということだと思います。

>正しい子育ての教育とは、社会全体が一つの方向性を持って行われるものでなければ意味がなく、その対象は障害のあるなしに関係なく、すべての人に行われるべきものだと思います。
問題のある親をもう一度育て直すのは厳しいですから、せめて問題のある親の子供達に悪影響が及ばないように社会が教育するしかないのかもしれませんね。
ただ「親だけのせいではない」というご意見には賛同できません。
子育ての器や能力がないのに子供を産んだ(そのために子供が苦労したり、苦しむことがある)のは、親に責任があると思います。
親が病気や事故で亡くなった場合と同じにして考えるべきではないと思います。

子育ての器や能力がないなら始めから作るべきではない。そういったことも自覚できるように(特に問題がある親の家庭には)社会が教育する必要はあるとは思います(本来なら親が教育するべきなのですが)。

>サロマさん

子供を作る……生殖というのは、残念ながら人間の本能で、バースコントロールできることこそが、知的に成熟している証なのだという事を思い知らされる事例をいくつか聞きました。

団地の物陰で、明らかに知的障害のあるカップルが性交している場面に出くわした。
施設内で出会った男女に子供が出来てしまい、その親が育てることになった。
知的障害がなくても、虐待によって自虐的な思考を持ってしまった人が、避妊もせず次々と異性と関係を持って、相手の違う子どもを産んでしまう。

性教育の不備や、性への軽視が、社会全体にあることの影響も大きいですが、それ以前に性が本能による欲求である限り、食欲や睡眠欲と同様に、コントロール不可な部分が大きいということも認識されるべきなのかもしれません。
だからといって、中絶や去勢を薦めるわけではなく、教育の仕方にも独特の方法が必要なのではないかと思います。
食欲は止められないものですが、食べたくなったらいつでも食べられるわけではない。排泄や睡眠も同様です。
障害者は産むべきではない、のではなく、障害者だからこそ、トイレトレーニングのような、きめ細やかな『指導』が必要なのでしょう。
今の世の中は、障害者どころか、一般の子供に対しても効果的な性教育は全く行われていません。性的虐待、強姦、痴漢などがあからさまに行われ、正しく取り締まれていないような状態です。こんな世の中で、知的に障害がある人がどうやって正しい性の知識を身に付けたら良いのでしょうか?
それこそ、食べたい時には人の物を奪ってでも食べてしまうような、性衝動のコントロールが出来ない人が社会にはたくさんいる。
そのことこそ、大問題なのだと思います。

投稿されたコメントで人を動物に例える侮辱的な表現があったため、公開を控えます。

このあたりについては自閉傾向の方にしばしばみられる「素朴な表現」である可能性があり、難しい部分もあり、その問題自体はいろいろ考えていくべきことと思っていますが、ここでの主張に関わる表現についてはいわゆる社会常識の線で判断を行います。

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