「平等」と「ケア」の関係のむつかしさ
つまり、そこでは「対等」の関係が崩れていて、「庇護されるべき子ども」という「不平等」な扱いになり、相手の人格を尊重していないのが問題だ、という趣旨なのかなと想像します。
たぶんそれと通じるのだと思うのですが、ここでも定型の側からの「配慮」の仕方について、何度かそれはアスペに対する差別だということを主張されることがありました。アスペのためにというのは見せかけで、本当は差別者なんだ、というかなりきつい主張だった印象が残ります。
たしかにそういう受け取り方もありうるということはわからないでもないのですが、ただ、あまりにも一面的な決めつけのようで、そのまま納得することも到底不可能という感じでした。とはいえ、何が問題なのかがどうもうまく言葉にならない状態がずっと続いていたのですが、なんかちょっと考える糸口が見えたような気がしています。
なぜ「障がい者」に対する「ケア」が対等な関係ではなく、「子ども扱い」のようになりやすいのかということなのですが、どうもこういうことがあるのではないかという気がするのです。
そうすると、「対等な関係」として相手に向き合った場合は、その基準をそのまま相手にぶつける必要があります。定型が自分に許していないことを相手に許すのは、それこそ不平等になる、ともいえるからです。基準がどちらにも同様に当てはめられるからその二人は平等ということになる。
ところが、そういう前提で接しようとする限り、結局「障がい者」を無理やり「正しい基準」に従わせるしかなくなります。「障がい者をケアしよう」と考える人は、そこでは「その人には特別な配慮をしなければならないのだ」と考えて「ケア」をするわけですから、その基準に合わない相手の人を「大目に見る」ことが必要になる。
「本当は許されないこと(自分は決してそうしないこと、自分には許していないこと)を、広い心と思いやりで優しく特別扱いで許してあげているんだ」という感覚になりやすくなるわけですね。
定型同士の人間関係でそういう態度が生まれるのは、つまり「子ども」を相手にしたときなわけです。大人には許されないことを、子どもだからしかたない、という目で「暖かく見守る」姿勢を取るのが大人の態度ということになります。
そうすると、そういう形で「障がい者」にケアをしようというところにとどまっている限りは、どうしても「大目に見てあげているんだよ」という態度からは離れられません。その場合、当然「大目に見てあげている」側のほうが相手を子ども扱いにしているところから抜け切れず、そして表には出さなくても自分のほうが「大人」=「上」だということにもなる。
そうすると、その部分だけを強調して敏感に感じ取った「障がい者」はその相手の事を、「あなたのため」などと言いながら実際は自分たちをバカにしている差別者なんだ、という決めつけを行って攻撃するようにもなりうるわけです。
私もそういう関係はやはり本当の対等な関係とは言えないし、そこは「乗り越えなければならない」と思うのですが、でもそんなこと簡単にできることではありません。「特別の配慮」という感覚が付きまとう限り、そこを抜け切るのはむつかしい。かといって、「乗り越える」のではなく、「最初からそういう感覚を素通りする」ことができるかと考えてみると、これもまたむつかしそうです。どうしても「特別の配慮」の感覚から出発して、でもそのままではいけないんだよね、という風に一歩一歩進んでいくしかなさそうな気がします。
逆に言えば、アスペの側が定型にアスペの基準を押し付けることはせずに、定型の基準も尊重しつつ対等な関係を作る、ということも大変だと思うんですね。そう簡単にはできないんじゃないでしょうか。だからいやいや定型の基準に従うか、あるいは逆に定型基準を激しく攻撃して自分を守ろうとするか、そのどちらかになりやすいのではないかと思います。
定型アスペの間で対話がむつかしくなりがちな原因の一つに、そういうこともありそうな気もします。
ただ、こう書いてきましたけれど、そこのところにひっかからずにうまい関係を作れている人がいるかもしれない、という気もちょっと残るのも事実です。それが何なのかはわかりませんし、それが見えてきたら相当すごいことだと思いますが、今の自分ではまだ無理ですね。そういう力はありません。当面こういう泥臭いことをうじうじ考える他なさそう。
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