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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2018年9月

2018年9月27日 (木)

「平等」と「ケア」の関係のむつかしさ

 成人している知的障がい者への対応の際の態度ですべきでないこととして、「○○ちゃん」と子どもに対するような接し方がある、という話を聞いたことがあります。

 つまり、そこでは「対等」の関係が崩れていて、「庇護されるべき子ども」という「不平等」な扱いになり、相手の人格を尊重していないのが問題だ、という趣旨なのかなと想像します。

 たぶんそれと通じるのだと思うのですが、ここでも定型の側からの「配慮」の仕方について、何度かそれはアスペに対する差別だということを主張されることがありました。アスペのためにというのは見せかけで、本当は差別者なんだ、というかなりきつい主張だった印象が残ります。

 たしかにそういう受け取り方もありうるということはわからないでもないのですが、ただ、あまりにも一面的な決めつけのようで、そのまま納得することも到底不可能という感じでした。とはいえ、何が問題なのかがどうもうまく言葉にならない状態がずっと続いていたのですが、なんかちょっと考える糸口が見えたような気がしています。

 なぜ「障がい者」に対する「ケア」が対等な関係ではなく、「子ども扱い」のようになりやすいのかということなのですが、どうもこういうことがあるのではないかという気がするのです。

 アスペ的な感覚やそれに基づく発言や行動などは、定型的な基準からすると「困ったもの」と判断されてしまうことがよくあります。定型同士の関係でなら「許されない」ものがそこにあるからですね。もちろんそれは定型的な一面的な判断からのものであることは、ここでずっと考えてきたわけですが、普通はそんなことは考えずに「定型のやり方が正しい」とか「常識だ」と思われているわけですから、やっぱり「許されない」ことになる。

 そうすると、「対等な関係」として相手に向き合った場合は、その基準をそのまま相手にぶつける必要があります。定型が自分に許していないことを相手に許すのは、それこそ不平等になる、ともいえるからです。基準がどちらにも同様に当てはめられるからその二人は平等ということになる。

 ところが、そういう前提で接しようとする限り、結局「障がい者」を無理やり「正しい基準」に従わせるしかなくなります。「障がい者をケアしよう」と考える人は、そこでは「その人には特別な配慮をしなければならないのだ」と考えて「ケア」をするわけですから、その基準に合わない相手の人を「大目に見る」ことが必要になる。

 「本当は許されないこと(自分は決してそうしないこと、自分には許していないこと)を、広い心と思いやりで優しく特別扱いで許してあげているんだ」という感覚になりやすくなるわけですね。

 定型同士の人間関係でそういう態度が生まれるのは、つまり「子ども」を相手にしたときなわけです。大人には許されないことを、子どもだからしかたない、という目で「暖かく見守る」姿勢を取るのが大人の態度ということになります。

 そうすると、そういう形で「障がい者」にケアをしようというところにとどまっている限りは、どうしても「大目に見てあげているんだよ」という態度からは離れられません。その場合、当然「大目に見てあげている」側のほうが相手を子ども扱いにしているところから抜け切れず、そして表には出さなくても自分のほうが「大人」=「上」だということにもなる。

 そうすると、その部分だけを強調して敏感に感じ取った「障がい者」はその相手の事を、「あなたのため」などと言いながら実際は自分たちをバカにしている差別者なんだ、という決めつけを行って攻撃するようにもなりうるわけです。

  私もそういう関係はやはり本当の対等な関係とは言えないし、そこは「乗り越えなければならない」と思うのですが、でもそんなこと簡単にできることではありません。「特別の配慮」という感覚が付きまとう限り、そこを抜け切るのはむつかしい。かといって、「乗り越える」のではなく、「最初からそういう感覚を素通りする」ことができるかと考えてみると、これもまたむつかしそうです。どうしても「特別の配慮」の感覚から出発して、でもそのままではいけないんだよね、という風に一歩一歩進んでいくしかなさそうな気がします。

 逆に言えば、アスペの側が定型にアスペの基準を押し付けることはせずに、定型の基準も尊重しつつ対等な関係を作る、ということも大変だと思うんですね。そう簡単にはできないんじゃないでしょうか。だからいやいや定型の基準に従うか、あるいは逆に定型基準を激しく攻撃して自分を守ろうとするか、そのどちらかになりやすいのではないかと思います。

 定型アスペの間で対話がむつかしくなりがちな原因の一つに、そういうこともありそうな気もします。

 ただ、こう書いてきましたけれど、そこのところにひっかからずにうまい関係を作れている人がいるかもしれない、という気もちょっと残るのも事実です。それが何なのかはわかりませんし、それが見えてきたら相当すごいことだと思いますが、今の自分ではまだ無理ですね。そういう力はありません。当面こういう泥臭いことをうじうじ考える他なさそう。
 



 

2018年9月21日 (金)

集中力

 相方と電話をすると、話が一応終わった後に「それじゃね」などと一言挨拶が入らず、いきなりぷつんと切れる、ということが目立ち、子どもともお母さんらしいという話になることがよくありました。

 家を出る時も「それじゃ言ってくるね」と顔を見合って言いあうタイミングもなく、向こうを向いたままそそくさと「じゃ」などと言って行ってしまうとか。

 定型的にはそれをされると、相手は一刻も早くその場を去りたいと思っているという感じを受け、自分が拒絶されているような印象を持つのですが(私はずっとそうだと思っていました)、でもどうもそうではない。

 この感覚のズレをどう理解したらいいのか、ずっと分からなかったのですが、ふとこういう考え方をしたら自分の定型的な感覚でも少しわかった気になるかもしれないと思いました。

 もし自分がかなり強力に「次にやるべきこと」に気持ちをとらえられていたとしたら、その時は挨拶などもそこそこに次のことに移っていくのではないかという事です。ただし、それはかなり特別な場合で、あとからそのことに気づけば「申し訳なかった」という気持ちになりますが、少なくともその場ではそういう感じになることは「あるかもしれない」という程度には想像が出来そうです。

 少し別の言い方をすると、定型的な人間関係では「今は二人で○○をしている状況」と「今は一人で△△をしている状況」の間に「気分」的に大きな違いがあって、その二つを切り替えるときには儀式が必要なんです。

 「二人で」の時は、相手もそういう気分になっている必要があるので、お互いにそういう気分をベースにやり取りが成り立ちますし、「一人で」の時は相手に関係なく自分の振る舞いが行われます。だから「二人で」の時に「一人で」に移る場合は、相手にそれを伝えないと、「二人の世界を勝手に壊してしまった」という気分が起こる。

 あいさつは「二人の世界」に居る人が「今からあなたとは別の世界に行きますよ」という合図になるんですね。それで相手の人は「ああそうか。あの人は別の世界に行くんだ」ということで気持ちの切り替えがしやすくなる。それがないと、びっくりしてショックを受けます。

 たとえば、二人でゲームをやっていたとして、相手が何も言わずにその場を急に立ち去ってしまって、トイレにでも行ったのかと思ったらそのままいなくなっちゃったとします。そうすると、取り残された方は「自分は相手の気分を害したんだろうか?なにかわるいことでもしたかな?」と心配になったり、あるいは「なんて失礼な奴なんだ、自分勝手な奴だ」と腹を立てたり、まあトラブルの原因となります。

 たぶんそういう感じなんですね。定型はそれだけ「二人(以上でもいいですが)の状態」を特別な状態として意識して調整しようとするわけです。

 これも私の勝手な想像ですが、アスペの場合は基本的に一人の世界がベースで、ときどきちょっとそこから出てほかの人とやりとりをするけど、すぐに自分の世界に戻るという感じなのかなと。だからもともとの世界に戻るだけだから、別に特別の事ではないし、相手に対してはやりとりをしていること自体が特別なできごとなので、それにさらに何かのあいさつで切り替える必要も感じず、用事が終われば自動的に終了して何も問題ない世界という感覚になる。

 そんなふうに想像すると、なんとなく分からないでもない感じがあります。

 仮にそうだとすると、たとえば夫婦で一つの部屋に居ても「二人でいてもひとり」がベースなのがアスペなんでしょうね。ただ時々必要や気分に応じてつながるときがある。

定型は「二人でいれば二人」ですし、場合によっては「一人でいても二人」ということを重視する。ただ、時々必要や気分に応じて「二人でいてもひとり」の状態を作ることがある。

          ふだんの状態        特別の状態
 定型     「二人でいれば二人」   「二人でいても一人」
 アスペ    「二人でいても一人」   「二人でいれば二人」

 そうすると、普段の状態でいつも「二人でいても一人」の感じになると、定型は自分が拒否されているような感覚になって、カサンドラになったりするわけです。

2018年9月17日 (月)

個人か社会か

 ある人が何かの問題を起こしたとき、それがその個人の責任なのか、社会(周囲)の責任なのか、という議論はいつでも起こります。

 結論は単純で、個人の責任の部分と社会(周囲)の責任の部分と両方がある、ということだと考えますけれど、パートナーと話をしていても、この点でも定型アスペ間に視点のズレが生まれやすいと感じます。

 定型の場合、人との関係の中でのその人ということに目が向きやすいので、社会(周囲)に目が向きやすく、アスペの場合その人が自分で生きていくということに目が向きやすいので、個人に目が向きやすくなる、ということがあるのだろうということです。

 実際はどっちもどっちでしょう。だから同じ人に対しても、その個人の責任を問い、あるいはその個人に改善を求めるということもあるし、逆にその個人がその状態になった環境を変えない限り、同じことが繰り返されるだけだ、という視点から、その個人の行動を「適切な環境が得られなかったことの結果」と言う意味で、社会の責任を問う、という在り方もある。どちらにも理由があるし、どちらにもそうすることの効果はある。でもどっちも完全ではありません。

 

 ですから、やはり結論は単純になるでしょう。個人に対しては個人の責任や努力を問うことが必要になり、同時に社会に対してはそのような個人を生んでしまった世の中のあり方を変えていく必要を訴えることが重要になる。前者がなければ「なんでもあり」の世の中になるし、後者がなければいつまでたっても同じ環境の中で同じことが繰り返されるだけになります。

 私はそういうふうにシンプルに考えています。

2018年9月 4日 (火)

またまた表情の意味の話

 相手が失敗をしたときの対応の仕方に関して、基本は今まで書いてきたことと同じですが、定型アスペ的なずれの起こり方についてもう少し頭が整理されてきた感じがあるので、改めてメモ的に。

 定型の場合

  相手の失敗を知る→(心の中で困ったことだと思う)→(相手との関係や相手の状態を考える)→(その相手にどう表現するとよいかを考える)→「叱責する」or「説明する」or「対応策を協議する」or「無視する」などの対応の選択+(ポジティヴな表情orネガティヴな表情 + その強さの選択)

 ( )の中は通常はなかば無意識で瞬時にやってしまうことです。ここで迷いが出ると、表情が不自然になり、相手に変だと思われます。

 このやりかたが小さいころから鍛えられて身についていて、それが当たり前になっているので、自分が失敗したときに示す相手の対応の仕方の意味についても同じ形で判断します。

 
 アスペの場合

  相手の失敗を知る→(心の中で困ったことだと思う)+「困った表情になる」→(どう対処すべきかの現実的な手段を考える)→「困った表情」+「叱責する」or「説明する」or「対応策を協議する」or「無視する」などの対応の選択


 違いは自分の感情をストレートに表すか、それ自体を関係の調整に使うかにあります。仲間づくり大好きな定型の場合、このお互いの感情のすりあわせの過程がものすごく重視されて洗練されていきます。ちょっとした表情の変化で、相手が自分をどう思っているのか、敵なのか味方なのか、どういう関係を作ろうとしているのかを「読む(推理する)」ということをほとんど無意識に近い感じでやり続けます。

 当然、相手との関係をよくするために、本当の気持ちを表さない、ということもやります。それは相手をだますような政治的な意図でそうすることもあれば、相手を傷つけないようにという「思いやり」や「配慮」でそうすることもあります。否定的な表情は比較的「隠していない本心」と受け取られますが、逆に「笑顔」はすなおな表現の場合もあるし、そういう「政治的なもの」とか「配慮するためのもの」である可能性も大きくなります。

 そのことも定型はよく知っているので、相手が笑顔でいても、それはそのまま受け取っていいのか、隠した気持ちが相手にあるのかの「裏読み」が必要になります。つまり、例外はありますが、基本パターンとしては


 相手が否定的な表情をする → こちらを攻撃する気持ちになっている (※)

 相手が肯定的な表情をする → 本当の気持ちの表現 or こちらへの気遣い or 政治的意図


 というふうに直感的に理解し、その後の展開を考えます。

 この定型的な理解のパターンに上に書いたアスペ的応答パターンが入ると、基本的にそのすべての場合で「こちらを攻撃する気持ちになっている」と判断されることになります。当然、アスペの側からすれば、なぜそれで自分がそう受け止められるのかが理解が難しくなります。自分の表情をコントロールしている意識があまりないからです。半ばでも意識していればそこに「その表情をあえてする」ことの意味が出て来ますが、それがないわけですので、ないものを読み取られても困る、ということになります。


 このずれは単に顔の表情や声の調子などに限らず、文章の表現の仕方にも現れる様です。文章の場合は書くための時間があるので、「考えながら工夫する」ことがしやすくなりますから、顔の表情などのようにはストレートには出にくいですが、それでも基本は同じですので、同じようなずれがなくなることはないでしょう。


 そうすると、定型の側からこのずれからくる誤解に基づく対立を避けるには、相手(アスペ)の表情を無視するとか、何らかの形で翻訳する、といった特別の工夫が必要になるのかもしれません。


 ※ ちょっと補足します。
    否定的な表情と言っても、「落ち込んでいる」というように理解される場合は攻撃的とは受け取りません。場合によって「力になってあげなければならない」という気持ちが起きたりします。どこがちがうかをまだうまく説明できませんが、相手を攻撃するつもりがなく、ただ自分がつらい状況にあるということが表現されるときは、それを「相手への非難・攻撃」と受け取られないようにしていると思います。また、仮にそれで相手が誤解して攻撃と受け取った場合は、「ごめん、そういうことじゃなくて……」とわりとすぐに説明することも多いと思います。その際は、「なんで攻撃と受け取るの?」ということを相手に問い返すことはしません。そう問い返すこと自体が攻撃として受け取られる可能性が高いですし、自分の表現がうまくない時は、当然相手は攻撃として受け止めるだろうと思っているので、「表現が悪くて申し訳なかった」ということをまず相手に誤解を与えてしまったことを謝ることが多いと思います。

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