2018年7月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 見えない自分 | トップページ

2018年5月31日 (木)

恨みと表現

 

サロマさんとあすなろさんのやりとりの中で、「恨み」という言葉が出て来ました。あすなろさんはサロマさんの文章を読んで、「恨み」の部分を感じ、サロマさんはそこには「恨み」はない、と応じられるというズレがあります。

 まだ私としてはよくわからない状態ですが、ひとつ可能性として気づいたことがあります。

 それはこれまで表情と表現、ということで繰り返し考えてきたことと、このずれが繋がるのではないかという事です。

 あすなろさんはサロマさんに対して、自分がそれを恨みととらえたのは、自分の経験に引き寄せて理解したためではないか、と応じられていましたが、あすなろさんに言われてみると、たしかに私もサロマさん(たち)の文章には、多少なりとも恨み的な要素を感じることがありました。そして「なぜこの人たちは関係ない私たちに恨みをぶつけてくるのだろうか?」と不思議に思うことが何度かありました。

 その結果、炎上に至るということもあったため、そういう展開を防ぐために、ガイドラインでは「3.投稿者の個人的体験で,関係ない人に八つ当たり的非難をしない」という項目をわざわざ立てたりしています。

 表情と表現の問題についてこれまで考えてきたことを改めて書けば、私と相方が話をすると、私の言ったことに彼女が非常に苦しそうな顔で「反論」することがある。それは私から見ると「なんでこういう理不尽な理屈で私を苦しめるのか?」という「非難」に見えて、単に話し合いたいだけの私がびっくりしてしまう、というようなことが起こる。

 あるいは何かを頼んだ時、すごくしんどそうな顔をするので、「なんでこんなにひどいことを自分に頼んでくるのか」という「非難」をされているように感じて、私の方がショックを受けてしまう。

 またこれは彼女とのことではないですが、ここでも何度か展開されたこととして、アスペの方が自分が苦労した体験を語られ、それは定型的に見れば「通常人には言えないような深い悩みを語ったのだから、必死の思いで助けを求めているのだ」と理解され、それに応じていろいろアドバイスをしようとしたり定型的な努力を相手のために行うのですが、そのアドバイス自体がアスペ的に無理難題になる場合にトラブルに展開します。一部のアスペ側が「なんでそんな無理難題を押し付けてくるのか」と言い、一部の定型側が「援助を求めておきながら、援助者を非難するとは何事か」と怒りを示すと、「私は何も頼んでいない」と主張し、そこで大混乱になる。

 あすなろさんの娘さんの話もありました。まぶしくて目を細めて人と話していると、それを知らない相手がその表情を自分への表現として読み取り、態度が悪いと理解して非難するというようなことだったと思います。


 いずれの場合も、アスペの方の側は素朴に「自分がしんどいと感じている部分がそのまま自然に表情に現れているだけのこと」と感じており、それを定型の側が「私に対する訴え・表現」として受け取ってそれに応じることでその後の混乱が生まれています。

 「恨み」の話も、この表情と表現のずれの問題の一部ではないかと思ったわけです。

 そういう目で私と相方の関係を考えてみても、かなり当てはまることが多いように思えてくるのですが、彼女は否定的なことをいう割合がとても大きいのですが、私は多くの場合、それを「私に向けられたもの」と感じ取ってしまいます。私の側の自意識過剰という解釈もあり得るのですが、ただほかの人(子どもなどを含め)との関係ではそこまでのことはあまりないので、たぶん彼女との関係で起こりやすいことだと思います。

 それも、たんに彼女が「自分のしんどい思いを話しているだけ」というふうに考え直すと、事態の意味がまた別の形で考えられるようになると思うのですが、感覚的にはそこが難しいところになります。

 なぜ難しいのかというと、否定的なことを言うその言い方が、「誰に対して言っているのか」、その「表現」の先が明確でないことが大きな原因ではないかと思いました。

 定型は基本的に仲間づくりを非常に重視して動く傾向がありますから、相手から何かを言われたとき、「この人は自分に好意的なのか、自分と仲間になりたいと思っているのか、あるいは敵対的で攻撃してきているのか」ということについて、無意識のうちに非常に敏感に反応します。

 それで、相手に否定的なことを言う場合は、それが相手にとっては攻撃として受け取られる可能性が高くなるので、その否定的なことは「貴方に対して」ではなくて、「別の対象に対して」向けられていることを可能な限り表現しながらそういう否定的なことを言う、というスタイルを身に着けていくんですね。そして相手に対してはできるだけ友好的な表情を保とうとしたりする。

 というわけですから、そういう「配慮」抜きに相手がストレートに否定的なことを言う場合は、「私に対して攻撃をしてきている」「いい関係を作りたくないのだ」と直感してしまうことが起こりやすくなります。いわば「宣戦布告」をされた気分になるのです。


 「恨み」の問題はもうひとつ複雑になるかもしれません。

 なぜなら、あすなろさんとサロマさんのやりとりの例では、サロマさんがあすなろさんに対して恨みを持っているというふうに理解されたのではないからです。その意味では、あすなろさんはサロマさんが「別の対象」に対して否定的に語っているという事を理解できる状態にあると言えますし、サロマさんはそういうところで誤解される書き方はされていないことになる。

 でもそのうえでなお、あすなろさんはサロマさんに「恨み」を感じ、サロマさんはそんなものはないという、というズレが起こっています。

 そうするとここで二つの可能性が出てくるかもしれません。ひとつはサロマさんが否定的な感情を持っていて、それはサロマさんの意識としては別に「別の対象」に向けた否定的な感情ではないのだけれど、定型的にその表現を見るとその「別の対象」に向けられた「非難」の表現として受け止められてしまうために「恨み」をそこに感じる、という可能性です。

 もう一つは実はサロマさんはまったく否定的な感情をもそこでは持っておらず、それを定型的に理解して「こういう場合なら当然否定的にみるだろう」と自分に引き寄せて理解してしまうために全く存在しない否定的感情=「恨み」をそこに感じてしまった、という可能性です。

 私はまだどうなのかがよくわかりませんが、なんかそういうあたりに、かなり大事な問題が隠れていそうな気がします。
 

« 見えない自分 | トップページ

コメント

面白い……と言っては失礼ですが、興味深い行き違いだなと思います。
以前から、ここでのやり取りのズレは、表現=使う言葉のチョイスの違いが大きいのではないかと感じていましたが、まさにそれを証明するような行き違いだと思います。
色々推察できることはあるのですが、今回のやり取りの行き違いについて考えてみると。

まず、パンダさんの『独特』という言葉を、サロマさんが否定的に受け取られたというところで、私は不思議だなと感じました。
独特という言葉は、良い意味で使われることも悪い意味で使われることも、そのどちらでもない『一般的ではない』という意味で使われることがあります。
パンダさんはどちらでもない意味で使っていらしたのだろうなと思うのですが、サロマさんは悪い意味に捉えられた。何故そういう違いが生まれるかは、おそらくその言葉に含まれる印象が、個人個人の経験からかなり違ってくるのだろうなと。

次に、私が『人から嫌なことをされた』という言葉に対して、自動的に恨みという言葉を連想してしまった。これもまた、私の経験と、サロマさんの経験の違いから来るのではないかと。
私は親から信頼されずに育ってきたので、根本的には人を信用しておらず、その中で信用できる人もいるのだと学んできたけれど、サロマさんは元々人を信用していて、その中で信用できない人もいるのだと学んで来た。そんな違いがあるのかなと思いました。
さらに、サロマさんは、人を恨むような人間には思われたくないというポリシーがあり、私は人を恨むのは当然の感情だから否定しないというポリシーがある。
そんな微妙な行き違いも感じられます。
もし、この行き違いにアスペ定型の違いを無理やりはめ込もうとすれば、起きた出来事に対して、どのように受け取って来たか、という違いがあるのではないかと。
サロマさんは基本、起きた出来事の裏を見るということがあまりなく、私は起きた出来事について、その裏を勘ぐるような見方をして来た。それによって同じ経験でも、違った捉え方になるのではないかなと、そんな風に感じました。

あすなろさん
私も基本的には人を信用していないです。しかし中には信用できる人もいます。
あるいは部分的には信用できるけど、他のところでは信用できないとかもあります。

私は恨みを忘れたつもりでいましたが、どこかでは虐げてきた人への恨みも消えていないのかもしれません。ただ「全体」を恨んでいるのではなく、「個人」を恨んでいます。
しかし虐げてきた人の割合があまりにも多いので、「全体」と同じまではいかないにしても近いものなのでしょうか。
何が許せないのかなと考えていましたが、虐げてきた人に対する恨みを「社会全体に対しての恨みを持ってる」「人に対しての敵対心むき出しで良くない」と言われることです。
そこまでの経験もしてない人が事情もわからないくせに、もしくは虐げてきた立場であるくせに、勝手にそんな形でまとめるなとの思いがあるからです。
あすなろさんのおっしゃるように、虐げてきた人を恨んだり、同じ目にあってほしいと願う気持ちになるのは自然なことで、何も事情を知らない人にこちらが悪いように捉えられるのがおかしいとの怒りはあります。
その人達だって同じ立場になれば人を恨む人の方が多いのだから「あなた達だって同じ立場になれば同じような気持ちを抱くくせに人の人間性を偉そうに非難しないで」とも思います。


全く別の話ですが、知人がタクシーに乗っていた時のことです。
うちの近くに再開発されている場所があるのですが、計画の立て方がわるかったようで失敗に終わっています。
知人が乗っていたタクシーの運転手が、その再開発のことを非難していたようなのですが、知人は「私に怒られても知らないわよ。再開発を計画した人達に言えば良いのに」と怒っていました。

私はその話を聞いて、タクシーの運転手は知人を怒っていたのではなく、再開発の非難をしていただけだと感じました。むしろなぜ知人は自分に矛先を向けられたと感じたのだろうと疑問に思いました。
その人の心理状態をフィルターにして捉え方も変わってくるのではないかと思います。

パンダさんの奥様のようなケースの場合、パンダさん個人には恨みがなくても、全体的に怒りがどこかにあるとその怒りが混み上がったまま話すので「パンダさんに八つ当たりしているように『感じられる』」場合と、
パンダさんには恨みはないけど、全体的な恨みがあって
無意識にパンダさんの方にも「全体的な恨みを『投影されてしまっている』」場合と二種類あると思います。
パンダさんの奥様にしか気持ちがわからないので、そうだと言い切れませんが。

>サロマさん

お知り合いのお話、うちで、私と息子の話が噛み合わない時によく起きる出来事の典型で、つい笑ってしまいました。

テレビでニュース番組を観ているとき、私がテレビに向かって「なんて酷いニュースだ!」と、ぼやくとします。
すると、息子が「何が酷いの?」と聞くので、そのニュースについて思ったことを説明しながらつい、感情がこもってしまうと、最後には「そんなこと、俺が怒られることじゃないだろ!」という話になり、時には息子が不機嫌になるというパターン、かなり多いんです。
「説明しろと言ったから、説明したんじゃないの?」と私がつっかかろうものなら、「ほら、やっぱり怒っているじゃないか?飛んだとばっちりだ!」となって、収集がつきません。

思うに、これは感情を込めるポイントがズレているんじゃないかな?と。
逆に娘は私と一緒になって、テレビに向かって怒っていることが多いのですが、彼女は世の中全般のあり方や、差別などの問題にとても敏感で、ニュースで報道されること、特に政治関係のことにはすごく関心があるうえに、理不尽さを感じているようなのです。

息子にとって、関心があるとか、理不尽さを感じるのは、主に家族の行動みたいなんです。友人同士のトラブルや不満もないようで、社会に対しても「そういうものだから、別に何も思わない」という考え方です。だから、ニュースの内容よりも、落ち着いて黙ってテレビを観ていられない私が一番のストレスのようで(笑)
一方で、娘は家族の行動には無頓着で、友人や社会的なことに関心が強くて、日々ストレスを抱えているようです。だから私に愚痴るのは友人や先生のことばかり。唐突に「今の政治家ってさ!」みたいな話も出てくるので、不思議です。

サロマさんと私の間にも、お知り合いとタクシーの運転手さんの間にも、そうした関心の向け方の違いや、感情が篭るポイントの違いがあるのかもしれないなと、サロマさんのお話から何となく感じました。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/73591777

この記事へのトラックバック一覧です: 恨みと表現:

« 見えない自分 | トップページ

最近のトラックバック

無料ブログはココログ