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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2018年5月 5日 (土)

自慢?

 前からどうも会話がずれる様で気になっていたことに、自分が何かを達成したと感じたとき、それを話したときの相方の反応があります。

 特にそれは一般的には他の人から褒められるような成果を上げたときのことが多いように思うのですが、それを話すと、「自慢したいの?」と聞かれたりするんですね。

 そう言われてみると、「ほめられるようなこと」について、相方に話をして彼女にもほめてもらいたい、という気持ちはたしかに入っているように思うので、全然外れというわけではないんですが、でもそう決めつけられてしまうと、なんだか「身も蓋もない」感じで困ってしまうのです。

 なんでなのかなと思ったのですが、まずそういう対応をされたときの私の気分は、すっと冷めてしまって、なんだか冷たい風がスーッとその場に吹くような感じになります。こころが冷えていく感じですね。そして、自分がただ人に自分を自慢したいだけの、つまんない人間に思えてきたりします。

 それと同時に、いやあ、でもこれって一緒に喜んでもらえるところだよな、という悲しい気持ちが起こるわけです。

 ということを考えると、つまりそういう話をするのは、「一緒に喜んでほしいから」なわけですね。

 このことについてはこれまでも何度も書いてきたことにつながっていますが、子育てをしていても、私が一番強い違和感を覚えたのが、彼女が子どもと一緒に喜ぶ、ということが非常に少ないという事でした。子どもは喜びを共有してもらい、またほめられることで成長すると私なんかは思っていますから、それは子どもにとってつらいことと思え、またそれを見ていて私もつらくなるわけです。

 たとえば子どもが絵を描いて、嬉しそうに「○○描けた!」と持って来たとします。絵としてはもちろん幼い下手な絵ですから、それを見て「すごい上手だね!」と感動することはあまりないかもしれません(もちろん子どもの絵独特の感じに感動する人もいるでしょうけれど)。でも、私などはそうされると「ああ、よく描けたね」とか「頑張ったね」とか、なんかほめてあげたい気分になります。

 そこがほんとに少ないんですね。ここでも同じことがあって、それは「ほめてほしい」=「自慢したい」という部分がないわけではないですが、でもそれと同じくらい、あるいはそれ以上に「一緒に喜んでほしい」という気持ちがあるわけです。

 「自慢したいの?」という見方では、そのもうひとつの大事と感じられる部分がすっぽり抜けてしまうので、「身も蓋もない」状態になるのだと思います。

 定型から見てアスペの方が非常に冷たく見えるときは、たぶんそういうような場面が多いのではないか、と想像します。

 なんでそういうことになるのか。「アスペの人はもともと冷血漢なんだ」という説明の仕方があるでしょうが、それは私には全然納得できません。逆に定型の方が残酷な冷血動物のように思うアスペの方が少なくない、という現実も、この場でも何度も見てきましたし、まあ確かにアスペの立場から見ればそう見えるんだろうな、というふうにも思います。だから問題は「○○は冷血漢」という単純な決めつけでわかるものとは違う。

 ここでも二つの可能性を思いつきます。ひとつはアスペの方自身が子どものころから否定され続け、一緒に喜んでもらえる体験が少なかったために、自分にもそういうスタイルが身に付いたという可能性です。私の相方などは、実家に行くとびっくりするくらい否定的に言われ続けるのを見て、私がつらくなったり憤ったりすることも多かったですから、その可能性もあります。(そういう相方の親のことについて、ほんとに彼女が苦しかっただろうと私が憤って、彼女にその憤りを彼女に対する深い共感の思いで伝えたら、自分の親を悪く言うなと激しく怒られたので、面食らいましたが)

 もうひとつはアスペ的な特性の一つとして、そういうところで共感的につながりを作ることについてあまり関心が向きにくいために、自然にそうなる、という可能性です。だから相手がそういうことを言ってくる意味が分からず、「これは自慢なのかな」と頭で解釈して、とまどいつつそう相手に尋ねるという可能性もあります。

 もちろん両方が絡んでいるのかもしれません。

 いずれにせよ、そういうことが自然な姿なのだとすれば、そのずれを前提に、お互いの期待をうまく調整しながら関係を模索していく必要があるのでしょうね。まだよくわからないですが。

 
 

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コメント

パンダさんの分析自体が、いかにも『定型的』だな、という感じがしたのは、私がかなり『アスペ的』になってきた証拠でしょうか?
それとも、他のアスペの方から指摘されたように、実は本来私はアスペだったものが、親から徹底的に定型色に染められていたものが、ここに来て元に戻ってきたのでしょうか?(笑)

今の職場に変わった時、私は一所懸命、全体の運営の仕方を変えようと働きかけました。もちろん最初は、『今までやってきたことを否定するのか?』という感じで、難色を示す人が多く、一言アイデアを出せば、「それは無理!」と却下されることが多かったのです。
しかし、一つのアイデアを実際に取り込んで見ると、成果が現れました。周りの人も、それについては何も言わなくなり、自然に受け入れるようになりました。
また一つのアイデアをさりげなく取り込むと、また成果がありました。周りもそれを自然に受け入れ、業務の一環になりました。
その時、自分がとても苛立っていることに気付きました。
『あれほど、無駄だと突っぱねたのに、今はその成果を認めているじゃないか!あの時、否定したことを謝りもしないで!図々しい!』
しかし、ちょっと考えて、その苛立ちは何が目的なんだろう?と考えました。すると、私自身が「あすなろさん、凄いじゃない!あなたのお陰よ!」とみんなに言って欲しかったんですよね。それに気付いて、とても恥ずかしくなりました。
私のアイデアを否定せずに受け入れたこと。それ自体がもう、十分な評価なのに、私は、私の中の寂しい子供が消化し切れていないために、過剰な褒め言葉を欲しているんだなと。

これは、定型、アスペ関係なく、日本人に多い特徴なのかもしれません。日本流の独特の躾が、誰かの賞賛を過剰に欲する。その『賞賛』は、その人自身の価値とは別に、なにかを成し遂げた事柄に対する評価であって、その人の価値には何も影響を与えない部分である。

奥様はすでに、パンダさんの価値を十分認めているのに、何か評価を求めてくるパンダさんは、一体何を求めているのだろうか?

そんな行き違いなのでは?と感じました。

アスペの人は、『真実』のみを見る力に長けていると思います。しかし、その『真実』の中に『他者の評価』も大きく関係すると考える定型には、とても物足りないか、不安に思うことが多いのではないかと。

嫌い嫌いも好きのうち、という言葉があります。ちょっと意味合いは違いますが、例えば誰かが『そんなお前のやり方は嫌いだ!!』と言った時、実は相手のやり方に敬服していて、太刀打ちできない自分が悔しいという意味合いにも取れることがあります。
その言葉とは裏腹に、相手のやり方を『凄い!』と認めていることがある。

個人の表現には、本当の気持ちを表す時と、ほかの要素が大きく絡まる時があって、決して『真実』とは言えない。

そうすると、奥様には、パンダさんのことを十分評価しているのに、パンダさんが欲している『表現』が何なのかよく分からないということがあるのかな?と感じました。

うちは誉められることも否定されることもないですが、それが普通だと刷り込まれていたので、ほめられることはなくても辛くはありませんでした。否定されることがなかったからというのもあると思います。

奥さまは否定されることが当たり前の環境で育ったからそれが普通だと刷り込まれて辛いとは感じなかったのかもしれません。


こんばんは。

奥さまは、ただ、目的を確認したかったのではないでしょうか。
「褒められたいんだ、一緒に喜びたいんだ」といえば「そう、良かったね」と反応できるし。
「アドバイスが欲しい」のなら、聞き方をしっかりしないといけないし。

この人は何を求めてこの話をしてくるんだろう、というのが私もつかみにくかったりします。
でも長年家族をやってるなら、まあ大体の予想はつくでしょうけど、確認するのは、尊重している証かもしれませんよ? ^_^

アスペかもしれないというあすなろさん(笑)

> 日本流の独特の躾が、誰かの賞賛を過剰に欲する。その『賞賛』は、その人自身の価値とは別に、なにかを成し遂げた事柄に対する評価であって、その人の価値には何も影響を与えない部分である。

 ここがちょっとピンときませんでした。たとえばアメリカ人なんて、成し遂げたことに対してすごくほめる印象があったりするので。今でいえば大谷とかも。

> そうすると、奥様には、パンダさんのことを十分評価しているのに、パンダさんが欲している『表現』が何なのかよく分からないということがあるのかな?と感じました。

 ここはなんとなくそんな部分もあるような気がしますね。そんな意味のことを言われたこともありました。

 ただ、ここで書きたかったのは、評価してくれているかどうかの部分よりも「一緒に喜ぶ」みたいな部分についてではあります。


サロマさん

> 奥さまは否定されることが当たり前の環境で育ったからそれが普通だと刷り込まれて辛いとは感じなかったのかもしれません。

 なるほど。そういうふうに考えたことはありませんでした。私の感覚で「当然つらいだろう」と思い込んでいたのかもしれないですね。


キキさん

> 確認するのは、尊重している証かもしれませんよ? ^_^

 であればいいんですけどね(笑)
 

>パンダさん

欧米の『家庭』では、成し遂げたことより、人物を評価する傾向が強いかなと思います。評価というより、存在価値を認めるという感じでしょうか?
すると、社会の評価というのは、あくまで事実の一つとして、良くも悪くも受け取ることができる。
大谷選手が、あれほど悪評から好評に移っても惑わされることがないのは、彼が十分存在価値を認められてきたからかもしれません。
大谷選手が、アメリカメディアの異常な評価を気にする人なら、今以前に潰されていたかもしれませんね。それほど辛辣で、途端に手のひらを返したような報道でしたから。

ただ、子供の存在価値を認めるために、親や家族が過剰なまでの愛情表現をすることがあり、そういう風習は、アスペの人には不向きなのかもしれません。
でも、過剰なまでの表現をしなくても、ASDの子供を優しく抱きしめたり、肩を叩いたり、という別の表現方法もあるので、それが良いのかもしれませんね。
日本人は、『成し遂げたことに対する』『言葉による』評価が、愛情表現だと思っている人が多いので、特にASDの人たちの愛情表現が伝わりにくいのではないでしょうか?

あすなろさん

 なるほど。ポイントはむしろ評価された側の受け止め方のほうですね。
 大谷さんはゆとり世代真っただ中で、この世代の人は自分の興味関心で動き、周りによってぶれることが少ない、ということを書いている記事があって、もしそうなら面白いなと思いました。

> 日本人は、『成し遂げたことに対する』『言葉による』評価が、愛情表現だと思っている

 この辺はまだよくわかりません。アメリカの映画とか見ていると、やたらとアイラブユーとか言葉で表現するし、相手をことばでほめたりするシーンが多い印象がありました。それは彼らが「言葉で言わなければ伝わらない」という感覚を持っているからだという解説を読んだことがあります。逆に日本人は「愛してます」とか「あなたはきれいですね」とかはあまり言わないですよね。このあたり、シャイというのか、「言わなくても伝わる」し「読み取れなければならない」という感覚が強いからだという話もあって、そういうふうに見ると確かにわかりやすいことが多いと感じています。

 成し遂げたことに対する評価についても、たとえば日本の学校ではみんなの前で特定の子どもをほめるのはあまりよくない、というふうに考えられ、また子ども達もそう感じているという話も聞いたことがあります。この話は「出る杭は打たれる」という感覚と深く結びついているようで、目立つことをすごく恐れる空気があるみたいなんですね。子どもがみんなの前でほめられるのを嫌がったりする理由はそこにかなりあるような印象でした。

 そういうことを考えると、日本では周囲の視線(あからさまな言葉による評価というより「雰囲気」)に縛られる傾向が強く、その「雰囲気」で自分が縛られてしまい、自分個人を強く保つことが難しい、というふうに考えたほうがわかりやすそうに思います。ですから、むしろ「言葉に出す」ことは少なくて、もしことばにするときはもうそうとう深刻な事態で、最終段階に入っているくらいの、そんな状態だから、ことばの影響力はさらに強烈になるのではないでしょうか。

 自己主張を徹底して行う文化の人たちと接していると、そんな印象があります。

パンダさんのおっしゃっることは、だいたい私か伝えたかったことを汲んでくださっているのですが、『成し遂げたことを評価する』というところが、そもそも大きな違いではないかと、私は考えます。
『アイラブユー』とは、『あなたが何を成し遂げようと、成し遂げなかろうと、私はあなたを信じている。愛している』という表現だと思います。
それは、『○○ができたから、あなたが好きだよ』という条件付きの評価とは全く違います。
外国人が常にそれを言葉にするということは、そうしないと本来伝わらないものなのかもしれないなと。
日本人は伝わっていると信じている。しかし、パンダさんが奥様に言葉を求めても返ってこなくて寂しい思いをするというのは、奥様のパンダさんへの愛情がどれほどなのか、パンダさんにははっきりと伝わっていないということです。もちろん漠然とした実感はあるでしょうが、それが本当の奥様の気持ちなのかどうか、確かめる術が無いということですよね。

日本人はそういうストレートな表現が苦手だったり、恥ずかしかったりするので、きちんと伝えることをしない。しかしやはり伝わらなくて不安なので、条件を付けて(○○が出来たから、私のことを認めてというような)相手の反応を待つ傾向があるのではないでしょうか。

最近はその傾向が行き過ぎて、小さな子供も、条件付きで褒めてもらおうと必死になり、親も条件付きでしか褒めてあげられない。成績が一番だから、サッカーで得点を入れたから、お手伝いが出来たから、……。
クラスで条件付きで誰かを褒めた時、条件に当てはまらない子は、自分はダメだと感じたり、その条件にハマるようにこれまで努力して来た方向を変えようと躍起になる子が出て来ます。
それこそが問題なんだと思います。
学力至上の世の中になったのも、使える人間、使えない人間と、簡単に人を分けてしまうのも、愛情を条件付きでしか得られなかった日本人の悲しい末路のような気がしますね。

だからといって、染み付いた修正は、どうすることも出来ない。私もストレートに表現することが最も苦手で恥ずかしいので、人に対してそれをやってあげることは難しい。
けれど、自分自身は、ちゃんと認められているんだという実感は、相手の表現方法に関係なく、持ち続けたいなと思っています。

あすなろさんの言っていることよくわかります。当たってると思います。

私はアスペですけど、子供のことをすごく褒めますね。自分のことのように一緒に喜ぶし、子供が辛い目にあって泣きべそかいていた時は 私も一緒に泣いちゃう感じでした。「ママも同じことされたら 悲しい。。なんでそんなことするんだろうね。。」と相手(定型)の行動が理解出来ずに 2人で落ち込んで アスペ同士 共感してきました。嬉しいことや 何かを達成した時には 1番にママに言ってくる子なので 2人で
私:「すごーい!!すごいじゃーん」
息子:「でしょー。すごいでしょー。」って 喜んでました。

きっと アスペ同士だから 喜び方も悲しみ方も 同じツボだから共感しやすかったのかもしれませんね。

もし子供が 定型で 定型的な 言い方で 定型的な 喜ぶツボ で言ってきたとしたら、その意図を察することが難しく 一緒に喜んで欲しいのか 褒めて欲しいのか どうして欲しいのか戸惑うのかもしれません。 現に 私の彼(定型)が 共感して欲しいと思ってることを 私に言ってきて 同じ温度で 喜べることは少ない気がします。 長年いて 彼のことをよく知っているので 今となっては「よかったね!!」「すごいじゃーん」と言って 共感も出来ますけどね。どこか喜ぶポイントもズレてるような気もしないでもないです(笑)

私は人生の半分くらいアメリカ在住です。あすなろさんもそうなのかな?

私は うまく言葉で説明出来ませんが、、あすなろさんが 説明してくれていること 私も感じてきたことです。空気を読んで 期待に応えることが苦手な私には 日本が合わず、存在そのものを認めてくれるような ストレートに表現をしてくれる ストレートに表現することを許してくれる アメリカに救われて 私は ここに住んでいます。

>Tinaさん

何を隠そう、私はほとんど日本から出たことがありません!!(笑)
アメリカ生活の長いTinaさんにそう言っていただけるとは、私はやっぱり海外の方が水が合うのかな?

海外を旅行したときに、すごく楽だったんですよね。
日本では、言って良いこと悪いこと、すごく考えて、『言っちゃだめ!言っちゃだめ!』って我慢していることが多いのに、海外では、何でもはっきり言わないと伝わらない。
英語なんて全然できないのに、ジェスチャーでも良いからどんどん伝えなくちゃ!伝えて良いんだ!と思ったら、とても楽しくて、言葉が分からないのに身振り手振りで伝えていたら、ちゃんと汲み取ってくれるし、嫌な顔はしないし。
むしろ、はっきり言わないと相手にしてくれないので、私の言いたいことは何?欲しいものは何?とずっと考えていました。
日本は真逆ですよね。正直に告げた、たった一言が、人間関係を崩すキッカケになってしまったり。
ほんの少し海外に触れただけですが、あまりにも居心地が良かったので、もうこんな忖度の世界、嫌だーと思ってしまいます。

あすなろさん
そ〜なんですね。アメリカは1人1人違って当たり前の国ですからね。個性を大事にする傾向にある国だからこその 生きやすさがあると思います。人種レベルの差別がないと言ったら嘘になりますが、個々の人間関係だけで言えば 日本よりもはるかに 楽に感じます。

>奥さまは否定されることが当たり前の環境で育ったからそれが普通だと刷り込まれて辛いとは感じなかったのかもしれません
こう言いましたが、もしくは、辛いと感じていても辛い気持ちになっていることに奥さま自身が気づいていないか。
奥様に聞いてみないとわかりませんが。

>私などはそうされると「ああ、よく描けたね」とか「頑張ったね」とか、なんかほめてあげたい気分になります。
私も父からはこんな言葉を言われたことはないですが、誉められなくて辛いと思ったことはないです。
逆に母は誉めてくれましたが、嬉しいとも思わなかったです。
私ももし子供がいたら、誉めることはなかったかもしれません。
「自分が子供の立場になったらどう思う?」と考えた時に、私は誉められなくても何とも思わないから、もし子供がいたとしても誉めないと答えると思います。

アスペに対して「相手の立場になって考えてみなさい」という言葉は当たり前のルール(人を叩いてはいけない、死ねと言ってはいけないなど)には通用すると思いますが、場合によっては定型とのすれ違いの原因になることもありますね。

サロマさん

> 辛いと感じていても辛い気持ちになっていることに奥さま自身が気づいていないか。

 ここはよくわかりません。他人の感情がわかりにくいように、自分の感情もわかりにくい、という面があるのかもしれませんね。いじめをいじめと長く気づかなかった、という話は聞いたことがありますが。

> 私も父からはこんな言葉を言われたことはないですが、誉められなくて辛いと思ったことはないです。逆に母は誉めてくれましたが、嬉しいとも思わなかったです

 ここはものすごく考えさせられます。アスペでもそうでない方もあると感じていますが、もしそのあたりでタイプに違うがあるのだとすれば、定型アスペ問題を考えるときに、またすごく大きな問題がそこにあるように思えてきます。

 サロマさんの文章から感じる独特の印象、それが何かをまだうまく言葉にできないのですが、その印象にもどこかつながってくる問題のようにも感じますし、私の相方のことを理解する上でももうひとつの新しいポイントになるのかもしれない、と思ったりします。

> アスペに対して「相手の立場になって考えてみなさい」という言葉は当たり前のルール(人を叩いてはいけない、死ねと言ってはいけないなど)には通用すると思いますが、場合によっては定型とのすれ違いの原因になることもありますね。

 これは全くその通りだと思います。ある意味で定型アスペ問題のすべての根っこがそこにある、つまり「自分の基準」で「相手の立場に立って考えること」にあるように思います。

前から思っていたのですが、私や他の誰か(アスペ)の文章を独特だとおっしゃるのはなぜでしょうか?
逆にガーディナーさんは定型的な物を感じるとおっしゃっていましたよね。
私から見れば、どなたの文章でも定型的とか、アスペ的だとか独特だとは感じません。
私のが独特だと言われると正直あまりいい気分はしないのですが。

サロマさん

 いい気持ちがしないという事で、失礼しました。

 先に書きましたように、まだ言葉に表せないのですが、私の感覚でやりとりがスムーズにいきやすい文章を書くアスペの方と、なにかスムーズに入ってこない文章を書く方と、両方が存在するのです。

 たぶん、同じアスペと言っても、どこかのポイントで違う感性のタイプがあって、やりとりの質が少し違ってくるのだと思います。表現なのか、内容なのか、その両方なのか。

 少なくともサロマさんタイプの方とやりとりする時と、ガーディナーさんたちのタイプの方とやりとりする場合では、私の方の気の使い方に違いが出てくるんですね。最近までサロマさんタイプの方とのやり取りは私にはうまくできませんでした。ようやく最近、こうやってある程度はスムーズに往復のやりとりが私なりにできるようになった感覚があります。それがなんなのか、体感的には違いを感じているのですが、ほんとにまだ言葉になりません。そこが言葉になるようになると、また定型アスペ問題の理解に次のステップが見えてくるだろうというふうに思ったりしています。
 

サロマさんのお話、なんとなく分かります。
息子や娘を褒めると(毎回ではありませんが)『それはどういう意味なのか?何が狙いなんだ?』と責められることがあります。
息子にとって、私が褒めた出来事は、私に褒められようが褒められなかろうが、プラスになる出来事だったり、努力の途中だったりして、それを実感しているのは自分だけでよく、敢えて他者と気持ちを共有するつもりもないし、共有しようとしても温度差が生まれるので、余計な介入をして欲しくないという感覚があるようです。
それがサロマさんのおっしゃる感覚と同じかどうかは分かりませんが。
私はそれを聞いてから、他者と感覚を共有しようがしまいが、息子にとって、自分が良いと思うものは良いし、悪いと思うものは悪い。信じられるのは事実と自分の現時点での見方だけという感覚が強いんだなと思いました。
しかし、褒めて(認めて)欲しそうにしている時もあり、その差がよく分かりません。

上記のコメントを書いてから、アスペの人にとって、嬉しい気持ちや、辛い気持ちを共感してもらうことが、定型とはどう違うのか?ということを想像してみました。

息子が、褒めて欲しそうにしているときと、そうでない時は、どんな違いがあるのかと思い起こした時、例えば偶然の出来事や自分が『こうやろう』と思い立って成し遂げたことについては、あまり他人に共感して欲しくないという感じです。自分でその喜びを実感しているのに、他人が一緒に喜ぶのは、『余計なこと』というか。

逆に私や他人が息子に「これをやってほしい」とか、「こうなってほしい」と言ったことについては、あからさまに目の前に持ってきて「ほら、これだけのことをやったよ!」と見せつけてくることがあります。そこで私の反応が薄いと、がっかりしたような顔をしたり、時には怒り出すこともあります。
息子にとって、自分から思い立ったというより、私が言ったからやったという感じが強いのかもしれません。
良くも悪くも忠実なので、自分が同じ方向性で考えていたことも、他人がそれに同調すると、誰かのためにやったという感じになるのではないかと思いました。

もし、これがアスペの人に共通する感覚なのだとしたら、定型の感じ方と大きく違ってくると思います。

定型は、例えはじめは自分が思い立ったことだとしても、誰かのアドバイスや共感、あるいは反論などからそのやり方を変えていくことが多く、誰かと一緒に成し遂げたとか、アドバイスのお陰で完成出来たという感覚が強く、その相手に感謝したり、喜びを共感したりします。

一方で、発端は誰かに言われて始めたことだとしても、その過程で自分なりのやり方に変えて行くので、『自分がやった』ことになり、きっかけを与えてくれた他人は、前者の、アドバイスをくれた人と、同じような存在になります。なので、過剰に褒めの言葉を期待するわけではなく、やはり共感してもらって一緒に喜ぶという感覚になり、どちらも同じような度合いの共感を求めます。

息子の感覚がアスペの人の一般的な感覚なのだとしたら、その両者にとても大きな違いが生まれているのではないかなと感じるのですが、いかがでしょうか?

私もアスペ的な部分があるとはいえ、一般と同じ感覚で物を言っているのですが。察することができなかったり、息を揃えて行動ができずにずれてしまいますが、それは障害やそれまでの事情からそうならざるを得ないだけで、自分の意思でアスペ的になっているわけではないのですが。

私や他のアスペさんに対して独特だとおっしゃっていましたが、どういったところがパンダさんの感覚の合わず、違和感を感じたり、受け付けたりないのでしょうか?
私達が世の中に敵意むき出しで、人に対して思いやったり考えを持てていないと感じたのでしょうか?

あすなろさん
>アドバイスのお陰で完成出来たという感覚が強く、その相手に感謝したり、喜びを共感したりします。
そこは私も同じです。

自分が人から嫌なことをされた、ひどい目に合った時とかは共感してほしいです。

あすなろさん
>アドバイスのお陰で完成出来たという感覚が強く、その相手に感謝したり、喜びを共感したりします。
そこは私も同じです。
自分が人から嫌なことをされた、ひどい目に合った時とかは共感してほしいです。

サロマさん

>私や他のアスペさんに対して独特だとおっしゃっていましたが、どういったところがパンダさんの感覚の合わず、違和感を感じたり、受け付けたりないのでしょうか?

 何度か書いているように、まだ言葉になりません。

 ということで、ひとつ思いついたことは、なんどか「まだ言葉にならない」という意味のことを書いているのに、そこがうまく伝わらない感じがひとつはあるかもしれません。

 まだ言葉にならない、という表現は、「いずれ言葉になることを期待している」ということと、「今はまだむりだけど」という2つの意味を含んで使われています。

 これまでのここでのいろんな方とのやりとりから明らかなように、とてもではないが定型アスペ関係のずれ方はすぐにわかるようなものではありません。ですから、時間をかけて少しずつ分かっていく必要があります。

 そういう努力の中で、ある範囲のアスペの方たちとは、ずれはありながらもかなりやりとりがスムーズになってきたという感覚を持っています。ただ、そこで身に着いた感覚では届かないものがあるという風にも感じています。

 サロマさんにはその届かない部分を感じるわけですが、それがわかるにはかなり時間と努力が必要だろうと思っています。

 ただ、以前と違うのは、「努力すればわかりそうな気もする」という感じが生まれてきていることです。

>サロマさん

私の表現が極端だったのかもしれないので、修正します。
アスぺの方に、全く共感が無いということを言いたいわけではありません。自分で成し遂げ、自分で実感するという意識が、定型より強いのでは?ということです。
私が特に、人に依存的なのかもしれませんが、何かを成し遂げようとするとき、相手の出方に合わせることが多いので。
その点、息子や娘は、相手の出方に関わらず自分のやり方を貫く意識が強く、相手のお陰と思う強さが、私より弱いのかな?という感じがします。
私自身が極端に依存的とも言えるので、その辺りは定型アスペの違いとは言い切れない部分が大きいので、他の方はどうなのかな?と思いました。

この自分で成し遂げたという意識の強さは、言葉になると、『言い切り』という形になることが多く、それがすごく辛辣に感じられることがありますね。
息子の『言い切り』の表現に、グサッとくることは多いです。息子本人は、息子が感じた『事実』を告げているだけなのですが、それを受けた私は、何か自分のやり方が全否定されているような感覚になってしまう。
パンダさんのおっしゃる『独特』というのは、そういう表現方法の受け取り方の違いも、一つ可能性としてあるのかな?
私もまだ、よく分かりませんが、
うちの場合、息子や娘の表現方法は私から見ると独特で、時々、これ以上話すとお互い泥沼になりそうな感じがして、話を打ち切ることがあります。逆に息子から、私の話は意味がわからないと言われることもある。
多分微妙なニュアンスの受け取り方がお互いに違っているんじゃないかと思うんですが。

「まだ言葉にならない」という意味のことを書いているのは理解していますが、パンダさんのおっしゃる意味は「さろまはアスペの中でもさらにおかしく、厄介でやり取りがしづらい」と言われているようで、独特というのは悪い意味で使われているような感じがします。
他の方に対しても独特だと仰っていましたが、その方も皆から良い印象を持たれていませんでしたし、パンダさんの使う独特の言葉の意味は、定型的だと感じる意味とは対照的に使われている感じなので、少なくとも悪い意味なんだと受けとります。
人格面や感覚の面でおかしいと言われている感じもします。
言葉にならないとの意味が余計に潜在的な偏見からしか感じません。

サロマさん


 独特という言葉は、私の感覚(つまり、私が普通と感じている感覚)とはずれるからそういう言葉になります。

 この時、私が私の感覚を唯一正しいものとして話しているのであれば、独特という事は正しくないもの、誤ったものという意味になります。

 ところがこのブログでずっと追求し続けていることは、「自分にとっておかしいと思うことが、相手にとってはおかしくないし、その逆も同じこと」という大前提を置いたうえで、「なんで自分にとってはおかしいとかんじられてしまうのか」を考えていくことです。

 ですから、(たとえば「個性的」という言葉は日本では否定的な意味でつかわれるように)、独特という言葉は否定的な響きを持つこともあるでしょうが、(私は個性的という言葉を素晴らしいという意味でも使うように)独特という言葉に固定的な価値を含ませることは有りません。

 ただ、繰り返しますが、私にとっては普通ではない、という意味が含まれていますので、私の普通の感覚をそのまま価値判断の基準に用いたとしたら、それは否定的な意味になるでしょう。そしてサロマさんはそのように受け取ったわけですね。

 たぶん、こういう話がすっと共有されにくいところ、私の話の前提がかなり安定して伝わりにくいところが、私にとってのサロマさんタイプの方の独特さの感覚につながっているところの一部だろうと思います。

 別の言い方を使えば、私は「独特」という言葉を「カッコに入れて」使っているわけです。もしかすると私の理解の視点から言うと、以前繰り返し考えた、この「カッコに入れる」ということの伝わりにくさが繰り返されているのかもしれませんが、そこもまだよくわかりません。

 かなり無意識的にですが、私がカッコに入れた言葉で語っていることに対して、カッコを外して反論をされるので、話がなかなかかみ合わないと感じる、そんな感じでしょうか。

あすなろさん
私の前のコメントを見直したら意味不明な文章になっていました。

>定型は、例えはじめは自分が思い立ったことだとしても、誰かのアドバイスや共感、あるいは反論などからそのやり方を変えていくことが多く、誰かと一緒に成し遂げたとか、アドバイスのお陰で完成出来たという感覚が強く、その相手に感謝したり、喜びを共感したりします。
どちらかと言えば私もこっちの方が強いです。
自分だけでやりとげても上手くいかないし、相手に聞いてやり方を変えることが多いです。
相手のおかげでできたと感謝してお礼を言います。
ただ誰かと一緒に成し遂げるということはあまりないです。
しかし誰かと一緒に成し遂げて喜びを共感、共有したい気持ちはあるんです。
私ができないことが多いために相手が一人でやっているような状態なので、一緒に成し遂げて喜びを共感することができないです。
したくないのではなく、できない。

>自分で成し遂げ、自分で実感するという意識が、定型より強いのでは?ということです。
少なくとも私にはこれはないです。
自分でやっていたら失敗するというのもあるので相手の出方を見たり、お伺いをたてていることが多いのが一番の理由ですが、(自分もできる範囲内に限りますが)誰かと何かを一緒にしている感覚が強いです。

自分でなしとげ、実感するというのは、そのやり方でやった方が上手くいっているアスペの方ではないでしょうか?

>私は「独特」という言葉を「カッコに入れて」使っているわけです。もしかすると私の理解の視点から言うと、以前繰り返し考えた、この「カッコに入れる」ということの伝わりにくさが繰り返されているのかもしれませんが、そこもまだよくわかりません。
言葉以外に含まれている意味が感じ取れていないことが話が噛み合わなかったり、すれ違いが起きる原因の一つではあると思うので、そこは否定しません。

>独特という言葉は、私の感覚(つまり、私が普通と感じている感覚)とはずれるからそういう言葉になります
独特というのは、バンダさんや一般的に普通だと思われている感覚とは違っているという意味だということですね。
このサイトは、アスペと定型のずれがどういったものなのか見つけて、お互いに歩み寄ろうということで、パンダさんや皆様がお話なさっているので、独特な感覚だから悪いという意味でおっしゃっているのもわかります。
しかし言葉の端々にどうしても引っ掛かるものはあります。
ガーディナーさんが人を気遣える意味ではとても定型的な部分をお持ちだとの話をおっしゃっていて、一部のアスペの人達にはアスペ度が高いとおっしゃることもあり、そういったことを考えると、私は独特というのがあまり良い意味には感じ取れません。
誰だって偏見はどこかにありますし、私もどこかではあるかもしれないので、完璧を求めすぎているのかもしれませんが。

>サロマさん

なるほど。サロマさんは、どちらかというと、私の感覚に近いのかもしれません。我が家に居らしたら、息子や娘とは意見が対立するかもしれませんね。我が家で起きているアスペ定型の違いとは、また別の感覚をお持ちの方なのかもしれませんし、私の考えるアスペ定型の違いはあまり一般的ではないのかもしれません。
私は時々、サロマさんは、定型よりも、定型の感じ方や習い性を遵守しようとされているように感じます。サロマさんご自身も、夫や息子の感覚より、私の感覚に共感することが多いとおっしゃっていたことがありましたよね。
例えば、アスペの感覚が、どうやっても定型社会に受け入れられないという経験が続いて、定型の感覚に近づけようと努力するうちに、むしろアスペの感覚よりも定型の感覚のほうが理解できるようになってきた、という可能性はないでしょうか?
かくいう私も、ADHDの純粋な感覚を徹底的に改革されてきたために、定型社会の基準を必要以上に自分に課しているかもしれないなと自覚しているんですが。
つまり、私が、どちらかというと定型の感覚の方が理解できるのは、本来の性格ではなく、過去の学校や職場での経験から『矯正』されてきた部分が大きいという可能性もあるのではないかと。

あすなろさん
私もあすなろさんのご家族の考えはあまり理解できないです。前から言っているようにあすなろさんの感覚の方が理解しやすいです。

私は矯正しようとしてきた人が多かったですが、言われている意味が理解できず、マイペースにやっていました。自分では普通にしていたつもりなのですが、母は何でこの子は普通じゃないんだろうと思っていたと聞いていたので、おかしな部分は多かったのだと思います。
母を見て育っていたので、定型的な感覚を持って育ったという感じてす。母に押し付けられた感覚はないです。
定型的な感覚と言っても、父との関係や育った環境で歪みまくってしまったので、所詮は不完全なものでしかありませんが。

育った環境の中で強制されたことや半ば脅された(と私やアスペ当事者が感じる)感じで身につけた部分はあるのかもしれませんが、私はその空気すら読めない奴だったので、マイペースにやっていた感じでした(汗)
母に怒られても意味がわからず、マイペースに過ごしていました。
だから強制された感覚もありますが、あすなろさんよりは薄いと思います。
だから余計に周りから叩かれていた、もしくはこいつはだめだと放置されたのだとは思いますが。
成長するにつれてこれはまずいと思った部分が自分であり、周りから言われたのではなく、自分でなおしていった感じです。
それでも同じアスペ当事者からですら天然(バカ)と言われるくらいボケていたり、どじを踏んだりしているので、ほぼ治しようがないと悟って病んだ感じです。

>サロマさん
サロマさんのお話を伺っていて、非常に似通った経歴を感じました!何が定型と違うのか、というのが、ASDとADHDの違いが大きく、おそらくサロマさんが感じられている定型との差とは、私とはかなり違うとは思うのですが。
私も幼少期より、家族の中では異色で、母も祖母も、何とか世間に恥ずかしくないように育てようと必死でした。
サロマさんは、お母様に感謝していると実感されていますが、私は逆に母の躾によって傷つけられたと認識しています。しかし、もしかしたら、同じ方向で躾けられてきたのかもしれません。私の母も、虐待や強迫的な躾を行ったわけではなく、当時の世間の価値観に、何とか添わせようと必死だっただけです。私もそれは分かっていて、母だけの責任ではないことを重々承知しています。だから、直接母に恨み言を言うことはなく、むしろ母も可哀想な人だし、頑張ってきたんだなと思っています。
定型に合わせようと必死になったのは、幼少期の家族の接し方よりもむしろ、家庭から自立し始めた中学校以降ですね!
家庭でも指摘されてきたことが、自分で友人や集団に関わり始めた時から、ますますプレッシャーに感じるようになりました。家庭では逃げ道があり、親も、お茶を濁していたことが、決定的に不利になり、気付いた時にはどう対応して良いのか分からなくなっていたのです。
当時、もう少し発達障害についての知識が広まっていて、自分一人ではないという認識ができていて、特性を持ちながら生きるコツなどを教えてもらえていたら、まるで違っていたと思います。しかし、それは時代のせいであって、親や家族や学校のせいではないのですが、受けた被害は、それで変わるものではないとおもいます。
サロマさんが、自分に辛く当たった人たちを恨む気持ちには共感してもらいたいと思われる気持ちはとても良く分かります。
でもその気持ちを、本当の意味で共有できる人はいないのだということも分かるのです。
漠然とこんな辛い目にあったということには共感できるのですが、具体的に説明した時、他人には『何それ?』と言われることも多いのではないかと。
私が母を恨む気持ちを、お母様を尊敬していらっしゃるサロマさんに、本当の意味で共感してもらうことは難しいのと同じです。頭ではわかってくださるとは思いますが。
おそらく、そういった類の心情のすれ違いが、同じ発達障害者の間でも、ましてや定型と発達障害者の間ならなおさら、深くなるのではないかと思います。
すると、発達障害者の中にも、定型の価値観を取り入れようと必死にならざるを得ない人と、ありのままの姿で生きていこうとする人が生まれてくるのではないかと思うのです。
もしかしたら、定型と発達障害者の価値観の違いというのは、本当に先天的な障害があるかないかの違いよりも、生活歴から得た価値観の違いが原因のことが多いのかもしれないなと、私は思っています。

あすなろさんは親からできないことを責め立てられたり、感情的に怒られたことはありましたか?
私はそれがなかったので、虐待されたって感覚がないのかもしれません。感情的に責め立てられたり、何でできないの?ってどうにもならないことを責められたりしたら、親が虐待したと恨んでいたかもしれません。

>漠然とこんな辛い目にあったということには共感できるのですが、具体的に説明した時、他人には『何それ?』と言われることも多いのではないかと。
完全に分かることは難しいかもしれませんが、だからと言って何をやってもできない当事者を感情的に責め立てたり、努力しないとか、障害を言い訳にしているというのは許されることだとは思いません。
それに私は周りを恨んでいるとは言っていませんよ?そこは恨んでいると皆様から決めつけられたくはないです。

仮に恨んでいたのだとしても、それは周りの無理解が原因でもあるので、そこは周りが反省すべき点であり、恨んでいる本人に「敵対心と憎しみの心で一杯だから受け付けない」「あなたの心に問題がある」などと言って、問題をそちらに押し付けるのは間違いかと思います。

私は周りに憎しみを持っているから生理的に受け付けず、独特な感覚がある、やり取りがしづらくて理解しがたい。などと潜在的に思われているのかは定かではないですが、そちらの方が不快です。
何度もいうように恨みはないです

そのままの自分でも社会から受け入れられたり、社会適応できる術を持っているのは育った環境が大きいとのお話でしたが、少なくとも私に関してはそうは感じません。
親が生きやすいこつを教えたら今よりはましかもしれませんが、それだけでは社会適応できないと思います。

>サロマさん

恨むという表現は適切ではありませんでした。

>自分が人から嫌なことをされた、ひどい目に合った時とかは共感してほしいです。

という部分を、恨むと解釈してしまいました。すみません。

私は、無理解からそういうことをされると恨む方です。自分の落ち度なら仕方ないですが、障害や個性を許容されなくて嫌なことをされるのは、理解されるのは難しいと分かっていても悔しいですからね。
私の母は、たしかに感情的に叱ることはありましたが、私が恨んでいるのはそこではなく、私の存在を無視するようなことをしてきたからです。『Itと呼ばれた子』という小説がありますが、私はそれを読んで、とても共感しました。
母は、自分の子供でありながら、It=それ、と呼ぶような、人としての存在を認めないような行為をしたのです。
どんなに厳しく叱責する親でも、子供の存在を認め、なんとか立派になってほしいという思いからなら、私は全然許せると思います。最も酷い虐待は、存在の無視だと思うからです。
それほど大したことが出来なくても、失敗が多くても、存在そのものを無視される謂れはありません。
そういう育ちをしたからという理屈は通りませんが、私は人を恨むことが多いですね。でもADHDの特性で、すぐに忘れてしまうのが幸いです。
過去、ある事件に巻き込まれて、生き霊になるのではないかと思うくらい人を憎んだことがあります。
でも、それは人間としての当然の感情だし、人を恨む自分を悪いとは思いません。悪いのは、それを復讐として形にしてしまったり、自分の生活に支障をきたすように大きくなってしまうことだと思います。
人を恨むことのないサロマさんには共感できないかもしれませんが。

>人を恨むことのないサロマさんには共感できないかもしれませんが
皮肉をおっしゃっているのかは分かりませんが、人を憎んではいけないとも書いていません。
人を憎む気持ちも報復したい気持ちもわかります。私はそれが悪いとは思いません。

>仮に恨んでいたのだとしても、それは周りの無理解が原因でもあるので、そこは周りが反省すべき点であり、恨んでいる本人に「敵対心と憎しみの心で一杯だから受け付けない」「あなたの心に問題がある」などと言って、問題をそちらに押し付けるのは間違いかと思います。
と書いています。
人殺しとかまではいけませんが、差別や貧困が原因での犯罪の場合にしてもそれまでの経緯があり、問題の本質や原因を作った側はそれを認めようとせず、殺した側だけに全ての原因を押し付けて非難するずにのも間違っていると思います。
何度も言っているように人殺しは正当化していません。
しかし多数派が自分達がその原因を作ったり、追い込んだりしていることには目を向けず、さらには私達のような立場の人間を犯罪者予備軍として非難、警戒することにも問題があると思います。

感情的に言っても、論理的に言ってもこういったことを言うこと自体、経験がない人からは理解されないのでしょうけど、それこそ想像力が足りませんし、事の本質から目をそらしてばかりでいつまでも問題が解決しないということを思います。

親に関しても、障害を持っている子を愛せない、人としての存在を認められないのは仕方ないと正当化する風潮ももりますが、それも問題だと思います。
障害がある子の世話も健常の子に比べたら大変なのも感じますが、じゃあ当事者だって生んでくれとは頼んでいないし、勝手に生んだくせに普通じゃないからと愛せないというのもどうなの?と思うし、障害児に問題があると言われる覚えもないです。
親から虐待されたのであれば、恨んだり、報復したいと思うのは普通にあるとは思います。

サロマさんの

> 差別や貧困が原因での犯罪の場合にしてもそれまでの経緯があり、問題の本質や原因を作った側はそれを認めようとせず、殺した側だけに全ての原因を押し付けて非難するずにのも間違っていると思います。

 という議論は全くその通りと思います。だいたい、足を踏んでいる側は痛くないし、いくらでも「我慢」できる(というか勿論我慢の必要もない)というのは、いろんなところで見られることですね。痛みを感じている側が発言しない限り、その状態は永遠に続くでしょう。

 もうひとつ、このサロマさんの書かれたことに私が素直に賛同できるのは、「殺した側だけに」と書かれているように、単なる逆転の議論にはなっていないからだと思います。弱者の立場に置かれた人々が、その関係を逆転することで強者の立場に立ってしまっては問題の本当の解決にはならないと思うからです。カサンドラ症候群はしばしばそういう悲劇の一例であるとも思います。

 強者はだれも自分の立場を容易に手放そうとしませんから、その関係を崩そうと思ったら一時的には逆転させることもやむを得ない場合もあるでしょうけれど、この逆転した権力的関係も同様に容易に固定化されてしまいがちなので、それを防ぐ道を同時に探ることがどうしても必要だと考えています。

>サロマさん、パンダさん

私が最近感じているのは、まさにパンダさんがおっしゃるような、弱者がその被害をことさらに強調することで、誰も異論を挟む余地のない強者になってしまう恐ろしさです。

以前にも、こちらに書いたと思うのですが、『ルサンチマン』という言葉で言い表すことが出来るのですが。
それをやっている側が、ほとんど無自覚に強者を支配する構造が、国の中枢でも起きている現実があり、最早誰が被害者で、誰が加害者なのか、全く分からなくなっていると思います。
自分は被害者だと、言い切ることが、実は加害になっていることもあり得る。被害者だと思っていた人が、実は加害をしている可能性がある。
私は子育てをしていて、特にそれを感じます。
私が母にされたことを、決して子供にはすまいと思っていたら、実はそのポリシーの強さが、子供にとっては被害になっていたということが多々あるからです。
子供が大きくなって、ボロボロと私にこぼすようになって、初めて分かりました。私も、母とは反対方向の毒親だったわけです。
人は常に、それぞれの関係性で人を苦しめていることも、喜ばせることもある。そのことを常に念頭に置いておかないと、本当の意味での問題解決にはならないのだと、私は思っています。

>「殺した側だけに」と書かれているように、単なる逆転の議論にはなっていないからだと思います。弱者の立場に置かれた人々が、その関係を逆転することで強者の立場に立ってしまっては問題の本当の解決にはならないと思うからです。カサンドラ症候群はしばしばそういう悲劇の一例であるとも思います。

気分を悪くさせてしまうと思いますが、私はそういった意味合いでは言っていません。
犯罪の経緯は貧困や差別が背景にある場合もあるとよく言われますが、(アスペの犯罪に至って言えば)周囲の無理解や排斥などを受けて育ち、人格が歪んでしまったり、自分を差別した人に対しての報復の場合もあるからです。
それをアスペは人格がおかしい、親が悪いからと(もちろん障害の我が子を受容せずに育てた家庭にも大いに責任はあります)、全てアスペ側の責任にして、偏見や排斥している側が自分達が追い込んでいることを認めようとしないからです。
アスペ側が罪のない人に殺意を向けて殺すのが問題だとか、人格を歪ませて良い理由だとは言いませんが(例えば畠山鈴香は無期懲役ではなく、死刑で当然だったと思いますし)、何でもかんでも人を殺したアスペ側のせいだけにして問題を片付けて、その背景にある差別や排斥などに目を向けようともしない人々や社会にも大いに問題があるとの意味で書かせて頂きました。
世間ではこういったことを言って非難される現状もおかしいとも思います。

しかし、
>弱者の立場に置かれた人々が、その関係を逆転することで強者の立場に立ってしまっては問題の本当の解決にはならないと思うからです
についてはそのとおりだと思います。
アスペの側が定型の相方をいじめるとか、より弱い者に鬱憤を晴らすとかになっては元も子もないですね。

(話がずれますが、カサンドラはアスペ定型間のずれが生じるものですよね?対等な関係だからこそ起きる問題だと思います。
アスペ側が強者の側に立った時に、弱者に暴言や暴力を振るったり、自分優先に考える(強制的に従わせる)ために、相手が苦しむのであれば、ハラスメントになるので、ハラスメントとカサンドラの問題を同じに見るべきではないと思うのですが)

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