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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2018年5月 1日 (火)

ブラック イズ ビューティフル

 

サロマさんのコメントを拝見して、またひとつなんとなく感じながらもやもやしていた感じが形になってきたような気になりました。

 一部の定型サイドの方たちから、「なんでもっとがんばらないんだ」とか、「結局甘えじゃないか」というたぐいの非難に見える「攻撃」がアスペの一部の方に激しい怒りを伴って加えられたことについて、もちろんその攻撃が妥当だとは私は思いませんが、なぜその非難にアスペの方たちが私の想像をはるかに超えて傷つくかというと、その前提にはご自身が「なんでできないんだろう?」という悩みを常に持ち続け、そしてそれだけではなく、できない自分自身をどうしても肯定できない、というつらさを抱えているから、ということがあるのですね。

 すでに自分自身を自分で深く非難し、痛めつけているところに、輪をかけて人からその傷口を無慈悲に切り拓かれる状態になる。そのことへの怒りというふうに理解すると、すっと腑に落ちる感じがします。

 私はここでずっと定型アスペの「対等な関係」がどうやったら可能になるかを考え続けてきました。ですから、私にとっては否定的に見えるアスペの方の特色の部分も、だからといってそれでその人の価値を判断することはしたくないと思ってきました。そういう姿勢を模索し続けたので、逆に「アスペの方自身が自分を否定している」という部分を十分に受け止めきれなかったのではないかという気がします。

 言ってみれば私には、たとえアスペの方が攻撃されたとしても、それは多くの場合(すべてではないとしても)相手の無理解からくるもので、そのような種類の批判は「お互い様」のレベルで対応すればよく、そのことで傷つく必要はない、というような感覚がどこかにあったわけです。でもそれは自分をどこかで肯定できているからそういうことができるわけで、その自己肯定そのものに苦しんでいる場合は、とてもではないがそういう事が可能にはなりにくい。

 ではなぜアスペの方がしばしば自分を肯定できないかというと、それはやはりこの世の中が定型中心で作られているからで、その価値観にアスペの方もどうしても染まらざるを得ないからのような気がします。そうではない別の価値観、別の生き方が確立されてくれば、また見方が全然変わってくるのだと思うわけです。

 

 昔アメリカで黒人差別が今よりもさらに激しかったころ、いろんな運動があったわけですが、その中ですごいスローガンが出て来ました。「ブラック イズ ビューティフル」という言葉です。

 「肌が黒い」ということはそれまでマイナスのイメージになっていた。でもそれは差別的な白人の視線によるものです。アフリカで先祖が暮らしていた時、自分の肌の色に引け目を感じていたなどという事は考えられません。多数派で権力を持つ白人層の中で作られた差別的価値観を、弱い立場にいる黒人の人たちがどうしても引き受けざるを得なかった。そうしないと生きていかれないからです。その結果、自分で自分を肯定できない状態に陥っていった。

 その状況を「ブラック イズ ビューティフル」というスローガンが打ち砕いたのですね。これはすごいと思います。実際、アメリカの街角で、黒人のビジネスパーソンがほんとにかっこよく、美しく、自信をもって生きているように見える姿を見て感動したことがありました。もちろん深刻な差別は残り続けるにしても、そうではない力も大きく育っています。

 

 同じようなことが定型アスペ関係でも起こりうるのではないか、ということを私は考えています。もちろんある意味それは今は夢物語でしょうし、私自身、具体的にその物語の内容を心に描けているわけではないのですが、なんとなくその可能性を感じるのです。もちろん差別されている現実の中で苦しんでいる方にはなんの説得力もない話だと思いますけれど。

 あこまてぃっくさんも書かれていましたが、みんな変なんです(笑)。誰一人まともな(?)人間はいない。それぞれの長所と短所を抱えて生きています。問題はお互いの短所同士がぶつかり合って激しい葛藤になること、そのことでどちらかが、あるいは両方が痛めつけられてしまうという状況でしょう。 それをできるだけ回避して、長所を活かしあうかかわり方を見つけられたら、そうしたら一方的に自分や他人を否定する必要もなくなりますよね。もちろん部分否定は残りますが、でも肯定がベースになって否定があれば、それは問題がないでしょう。問題は否定がベースになることで、大事なのは否定がなくなることではありません。むしろ全部長所という方がおかしいですよね。それはありえない幻想です。

 

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コメント

お互い様も限界があるんだと思います。

例えばアスペがある人が「あなたは不細工だね」と言ってきた。
例えば知的障害がある男性が女性の着替えを見たがり、注意をしたら逆ギレされて物を投げられた。
だけど職員さんは「あなただって知らず知らずのうちに人を傷つけているのだから、お互い様だと思って許してあげて」と諭してきた。
いや、これは明らかにお互い様をこえるレベルでしょう。
お互い様だというのは少なくとも最低限の常識や秩序、思いやりが持ててこそ言える言葉なんだと思います。

黒人や性的マイノリティの方であれば、コミュニケーションは取れるし、仕事の能力もあるわけです。これは一方的な偏見が原因でしょう。
発達や知的障害者が嫌われるのもコミュニケーションが取れない変な人とか見た目が気持ち悪いといった一方的な偏見やマウンティングが原因の場合は多数派側の偏見が問題です。
しかし自覚が持てずに人を傷つける障害者がいたり、にわとりさんのように障害は障害でしかなく、周りの足を引っ張って皆が自動的に困らせてしまう人もいるのは事実。
そんな人は周りの理解と協力なしにはやっていけません。生きていけません。
「お互い様」のレベルが越えています。「ラベルが違う」わけです。

障害者特性で人を傷つけることをしても気づけないからというのは言い訳にはならないですし、被害にあったり、傷つけられた相手側だって我慢の限界もあります。
たとえ世の中から偏見がなくなったとしても自己肯定感は持てないでしょう。
福祉や家族のお世話にならないと生きていけない人でも自己肯定感を持てる方もいるかもしれませんが、私は人のお世話にならないと生きられない障害を抱える現実なんて望んでいません。でも人に頼らないと生きていけない。

ちなみに私は母からは肯定されて育っています。障害があってもあなたはあなただからと言われ、自己肯定感は持っていました。
しかし社会に出てから価値観は変わりました。母の言葉は綺麗事にしか感じられなくなりました。
再び言いますが、どんなに育った環境が良くても、世の中からの偏見がはじめからなくても、障害がある以上は自己肯定感は持てないです。


家族や福祉、周りの理解と協力なしにはやっていけない人の場合、「お互い様」のレベルは遥か越えています。

Black Is BeautifulもMeTooも、それまでは顕在化されていなかったマイノリティが持つ社会的な負のイメージを、むしろ意識上に照らし出すことよってエンパワメントのメッセージにしたものですね。
こういったスローガンで、自閉症コミュニティが使うものにはAutism Speaksがあります。
吃音症や失感情症(アレキシサイミヤ)を持つというステレオタイプから、話せない、伝えられないというレッテルを貼られがちな自閉症者をエンパワメントするスローガンとして、自閉症意識月間の4月には、アメリカの街中で多く見られます。

多様性を受け止める中で、何を「障害」とするのかは難しいところだと感じます。サロマさんが仰っているレベルの明らかな知的障害や、独立した日常生活を送れない場合は別として、知能レベルが平均あるいは一般以上のアスペルガー傾向者の場合、本人も周囲も、それを「障害」とするのか、あるいは「違い」と認識して生きてゆくのかによって、精神的構造はもちろん、実際の物理的アウトプットも大きく変わってくるように思います。むしろ、それを障害と呼べない、というところに、アスペ定型問題の根幹があるように思います。

定型色が強い社会や環境では、コミュニケーションや関係構築に一定の期待値ボーダーラインがあって、それが出来なければ障害、というレッテル貼りをしやすいのかもですね。
でも、多分、アスペ側から見たら、定型が設けている「ここまでライン」の枠をものすごい勢いで飛び越えて、「えっと、、、こういう全く別の場所でできちゃったんですけど、これは出来ないってことになるんですかね?」っていう場面が多いようなw

そういう定型が持つ世界観だけでは、創り出せなかったコンセプトやイノベーションを生み出してきたからこそ、アスペルガー者が持つ脳の構造はまだ人間の進化の中で淘汰されていないんですよね?本当にただの「欠陥」だったら、自然摂理の中で弱者となり、とっくに淘汰されているはず・・・

なので、もう何度も議論されてますが、アスペ=障がいとするのは難しく、
以下4つの項目の中で、誰もが自己肯定感に苛まれ、自己肯定感を育み、自己肯定感を適当にやり過ごす人生かなと思います・・・

定型の健常者 
定型の障がい者
アスペの健常者
アスペの障がい者

すみません、定型のアホが大それたこと書きました。自己肯定感崩壊しそうですけど送信します。


サロマさん

> お互い様だというのは少なくとも最低限の常識や秩序、思いやりが持ててこそ言える言葉なんだと思います。

 これはおっしゃる通りだと思います。ここではこれまでその問題についてかなり意識的に語らないできたのですが、なぜならその話は「何が最低限の常識か」ということについて、簡単に線引きができず、それを無理に今の段階でやろうと思うと簡単に「定型的な常識」になってしまう可能性がかなり高いからです。

 それを防ぐには、お互いにとって何らかの意味で納得できる常識の線はどのあたりなのかを相当丁寧に考える必要があると感じています。そこがないと、結局「自分(たち)」の常識を単純に相手に押し付けてしまうだけに終わる危険が大きいからですね。

 というわけで、その問題はここでは意識的に置いたまま来ていますが、おっしゃる通り避けて通れないものすごく重要な問題だとも思っています。


> ちなみに私は母からは肯定されて育っています。障害があってもあなたはあなただからと言われ、自己肯定感は持っていました。しかし社会に出てから価値観は変わりました。母の言葉は綺麗事にしか感じられなくなりました。

 ここはすごく考えさせられます。子どものころにしっかり肯定されることが大人になった時の力になるだろう、という思い自体は変わりませんが、ただそういう力があっても、それをさらに超える「否定する力」が押し寄せる現実もあるわけですよね。

 特にサロマさんの場合はお母さんの肯定(または肯定の仕方)と社会の否定とのギャップがものすごかったのではないかと想像しました。そこでサロマさんは「自分を肯定しつつ、否定してくる社会に向き合う」ということについては考える機会もないまま巨大な否定にぶつかってしまい、その分衝撃が大きかった。そういう展開があったのではないかと、そんなふうに想像したわけです。

 「肯定」というのは、そう考えると、「あなたのそのままに価値がある」ということを認め合う事ではあっても、決して「あなたはそのままで生きられる」という「幻想」を与えあうことではない、ということが大事なことなんだろうと思いました。

 つまり「あなたのそのままには価値がある、けれども、その価値を認めてくれない社会がある」ということを前提に「だから折り合いをつける道を探していかなければいけない」という大きな課題を子どもと共有できる、そういう「厳しさ」を持った肯定でなければ、逆に子どもを将来苦しめてしまう可能性があるのだ、ということなのかなと思います。

 そうだとすれば、ここにはものすごく重要な問題があるのだと思いました。

> 家族や福祉、周りの理解と協力なしにはやっていけない人の場合、「お互い様」のレベルは遥か越えています。

 ここは私の考え方は全く違います。私の言う「お互い様」は極端な例で言えば重度の寝たきりの言葉も話せない障がい者と介護者との間にも成り立ちうるような関係です。その「お互い様」はシンプルな意味での「同じ基準」では成り立ちません。違う者同士が違いを前提に成り立たせる「お互い」です。

 もちろん何によってそれができるのかは今の私には具体的に述べる力はありませんが、ただ、そういう意味での「お互い様」を考える必要が絶対にあるだろうと思っていて、ここでの私の議論は全てそのような意味でのお互い様をめざしたものになっています。


あこまてぃっく さん

 なんか発想が似てますね (笑)

 こんなふうにこれまで交流のなかった方と、自分がこだわって考えてきてたどり着いてきた発想がふっと一致する、ということを経験するたびに、「こういう考え方って単なるひとりよがりじゃないんだな」と感じたりします。ありがたいことです。

>  それまでは顕在化されていなかったマイノリティが持つ社会的な負のイメージを、むしろ意識上に照らし出すことよってエンパワメントのメッセージにした

 このお話すごく面白くて、意識するって、隠れていた部分を浮き立たせることで状況を変える、という「パワー」を持っているのだ、とういことに気づかされました。「自覚」が状況を変える、というのはそういうことなんですね。

>「何が最低限の常識か」ということについて、簡単に線引きができず、それを無理に今の段階でやろうと思うと簡単に「定型的な常識」になってしまう可能性がかなり高いからです。

実際にあったのが、女性の着替えをのぞきたいからのぞこうとした障害者を注意したら、注意した人を殴るということがあったんです。

殴られた側は物凄く怒っていたのですが、障害者を支援していた職員が「そこまで怒るなんて、今までにあなた達はよほど辛い目にあってきたんだね。自分達は一般常識を必死で守ろうと頑張っているからそれをしない人が許せないんでしょ?でもね、あなた達だって完璧な人間じゃないでしょう?人を無意識に不愉快なことをしていることだってあるのよ?お互い様じゃない。彼は言っても分からない障害特性なんだよ。あれでも根はいい奴なの。許してあげて。何でも一般常識を押し付けるのは良くない。常識にとらわれずに行きたい」と言っていたことがあったわけです。

この話は極論過ぎたかも知れませんが、何でも「定型的な常識を押し付けるのは良くない」となれば違うんじゃないかなと。

>「あなたのそのままには価値がある、けれども、その価値を認めてくれない社会がある」ということを前提に「だから折り合いをつける道を探していかなければいけない」という大きな課題を子どもと共有できる、そういう「厳しさ」を持った肯定でなければ、逆に子どもを将来苦しめてしまう可能性があるのだ、ということなのかなと思います。

誤解がありますが、母は私を甘やかして育てたり、人様に迷惑をかけて良いと思って育てていたわけではないですよ。

厳しさを持った肯定というより、悪いことは悪いといっていましたし、私が空気を読めない発言をして人を傷つけた時には「相手の気持ちに立って物を考えなさい」と怒っていました。私が社会で苦労しないようにと定型的な常識を身につけさせようと必死だったと思います。

ただそれは躾の一種であって(アスペに効果的な躾かは置いといて)、虐待とは思いません。
どんくさいこととかできないことを感情的に責められたとかはないですし、学校に行けなかった時のことを責められたこともないと言う意味での肯定です。

>私の言う「お互い様」は極端な例で言えば重度の寝たきりの言葉も話せない障がい者と介護者との間にも成り立ちうるような関係です。その「お互い様」はシンプルな意味での「同じ基準」では成り立ちません。違う者同士が違いを前提に成り立たせる「お互い」です。
正直、私には綺麗にしか感じられません。
「欠陥品」は「欠陥品」としてしか見られず、実際に与えてもらってばかりで役に立っていることも与えていることは無いに等しいです。
昔は自然淘汰されるものが、現在は人様のお情けがあって「欠陥品」は生かされている。そこにお互い様のような関係は成立しないというのが多いと思います。

サロマさん

 その事例は知的障がいの方でしょうか?仮にそうだとすると、私がここで想定していたのは、知的障がいというずれはない定型アスペ間のことだったので、少し問題が違うと思います。定型アスペ間でもそのあたりはたぶん「それはいけないこと」という共通理解は成り立ちそうな気がするので。

> どんくさいこととかできないことを感情的に責められたとかはないですし、学校に行けなかった時のことを責められたこともないと言う意味での肯定です。

 そういうことなんですね。ここで私が肯定として考えるのは、その先のもっと積極的な肯定のことでした。あえて対比させるとすれば、拒否せずに見守る姿勢をもっていてくださったという事でしょうか。もちろんそれだけでも重要なことだと思いますけれど。

 あともうひとつ私がまだよく理解できていないのは、特性の強さのレベルの差がどう影響するか、ということでしょうか。困難を抱えながらも一応仕事を続けられるレベルと、現在のような職場環境ではそれ自体が困難なレベルのずれを抱えている場合と、その違いは当然ある筈ですが、私にはまだピンと来ていません。当然その差は生きる条件の大きな差なので、重要な問題であることは間違いないと思いますが、現時点では私の方に想像力が働いていませんね。今後の課題です。

> 正直、私には綺麗にしか感じられません。

 そうでしょうね。そう思われるだろうと思っていました。そういうことがきれいごとに感じられる状況を生きてこられた方だと想像していましたし。

 私もそれがきれいごとではないとここで今言える力はありません。ただ、可能性を感じているだけです。ただし、この場では定型アスペ間でもそれなりに「理解」を共有する対話が可能な筈だと思ってずっと続けてきましたが、多くの方は(特にそれをめざして苦労され続けた方は)少なからずそれについても「きれいごと」と思われていたと思いますし、別にきれいごとと見られることについて、悪いこととも思っていません。何を目指して進みたいかの趣味の差ですし、別に賛同していただかなくても構いません。

>定型アスペ間でもそのあたりはたぶん「それはいけないこと」という共通理解は成り立ちそうな気がするので。

仰っている意味を掴みきれていなかったようですね。自分の理解力に限界を感じました。

ただアスペルさんのように周りの協力がなければ仕事ができず、人のお情けで仕事もさせていただけている状態は「お互い様」の関係ではなく、一方的に与えてもらっているだけと言えますので、お互い様の関係が成り立つのは「仕事の能力があり、経済的に自立しているアスペ」と定型が前提と言えますね。

>拒否せずに見守る姿勢をもっていてくださったという事でしょうか

私の頭では意味が理解できませんでした。申し訳ないですが、噛み砕いて説明していただけますか。

;もうひとつ私がまだよく理解できていないのは、特性の強さのレベルの差がどう影響するか、ということでしょうか。その違いは当然ある筈ですが、私にはまだピンと来ていません。

実際に体験しないとピンと来ないのかもしれません。

しかし決して特性や障害の重さにしているわけでもなく、怠けているとか努力しないためのいいわけにしているわけではありません。

こればかりは障害の重さもあるかもしれませんが、どの部分に欠陥があるかによっても症状が変わった来るとしか言いようがないです。

ある当事者は、人の表情は読み取れるから、相手が機嫌が悪いときや落ち込んでいる時にはそっとしておくなどの対処はできるけど、空気を読めない発言をよくしていてそれが自なぜ相手が怒るのかわからない(表情は読み取れるから相手を怒らせたことはわかる)ということがよくありますが、話さなければ怒らせる回数は押さえられるといったことはあります。

にわとりさんの場合は広範囲で障害があり、それも重症だったのではないかと言いようがないです。誰にも修正されずに手遅れとなってしまったのかもしれません。

パンダさんの仰っている意味が読み取れないので、話が噛み合ってないかもしれませんが。

サロマさん

>仰っている意味を掴みきれていなかったようですね。自分の理解力に限界を感じました。

 ここは私の独自の考え方の部分もあり、定型の方でも誤解はありうると思いましたので、特にサロマさんがアスペだからというような話ではないと思います。

>人のお情けで仕事もさせていただけている状態は「お互い様」の関係ではなく、一方的に与えてもらっているだけ

 私が考える「お互い様」は多分二つの意味があって、ひとつは「お互いに相手のことはわかってないよね」というお互い様。一方だけが他方を責められるような、今の世の中で一般的なような「一方的にアスペの側がわかってない」という話ではないはずだという意味です。

 もう一つの意味は、お互いにいいものを与えあっているよね、ということですね。

 いいものもわるいものも、お互いどっかでバランスが取れている、という感じをお互い様と考えています。

 それで、サロマさんがここで引っかかっているのは、たぶん「バランスが取れないじゃないか」ということなのだろうと思います。だから一方的に「与えていただくしかない人間」=「障がい者」ということになり、それは障害というものをマイナスとしてしか実感できない状況があるので、どうしてもそういう形での理解になるのではないかと想像します。

 で、私がここで問題にしようと考えているのは、プラスとかマイナスとかの評価は見方によってもずいぶん変わるという事です。それまでマイナスにしか見えなかったある人が、何かのきっかけですごく価値のあるように感じられてくることがあります。それはその人が変化してそうなる場合もありますが、単にそれまで気づいていなかった、その人の新しい面が発見できたからであることもあります。

 たとえば、マグロのトロは昔はみんな嫌がって食べなかったみたいですね。漁師が食べるくらいで。脂っこすぎて食べ物としては劣ったものと考えられたみたいです。ところが今や大トロと言えば大変な高級品。人々の嗜好が変わり、価値観が変わったからそういうことが起こります。今や大トロを捨てるのは「バカだ」ということになるでしょう。

 三年寝太郎というお話があります。細かいことは忘れましたが、たしかごろごろ寝ているばかりでどうしようもない人間と思われていた人が、あることをきっかけに大活躍して、みんなに福をもたらして、大活躍したという話です。

 先日知り合いに聞いた話ですが、重度の障がい者と暮らしている家庭には、ほんとにやさしさに満ちた感じの家庭がそれなりにあるそうです。もちろん逆もあるでしょうが、なにかの条件があればそうなれる。その場合、その障がい者はその家庭を幸せにしていると考えることも可能になります。

 大事なことは何が幸せか、何が価値があるのか、ということは見方によってある程度変わる可能性がある、ということです。今肯定的に見えるものが後に否定的にしか見えなくなることも、逆に今否定的にしか見えないものが、後に素晴らしいものとして見えてくることもある。

 この点で、サロマさんの見方はだいぶ固いと思えます。世の中が障がいをマイナスの目で見る(人が多い)、その価値観をそのまま引き受けざるを得ない状況にいて、そのような固い信念を持たざるを得なかったのだろうと想像しますし、定型にもそういう固い信念を持つ人はいくらでもいますから、不思議ではないですが、ただ私の観点から見ると固すぎます。

 ここではそういう世の中に今のところ蔓延している固定的な観念を柔らかくして、別の可能性を探してみようとしているので、固い考え方だけでは受け付けられないと思います。別にサロマさんのような見方があることを否定して居るわけではないですが、ここで追究しようとしているのはまた別の話だという事になります。


> しかし決して特性や障害の重さにしているわけでもなく、怠けているとか努力しないためのいいわけにしているわけではありません。

 ここは私にもよくわかります。というか、だんだんと皆さんの話を聞きながら、よりわかるようになってきたと言えるのでしょう。

>拒否せずに見守る姿勢をもっていてくださったという事でしょうか

 私も探り探り書いているところなので、うまく説明できていないでしょうし、またうまく説明できないかも知れません。

 私がちょっと考えたのは、世の中でマイナスと見られている障がい特性の部分について、お母さんはそれを責めるのではなく、「許容する」という配慮だったのかなということでした。

 そういう特性を攻撃して許さない人が多い中で、そういう配慮ができること自体素晴らしいことだと思いますが、ただそういう配慮というのは「障がい」を定型的な基準でだけ否定的に見ている、という裏の面があるとも思えます。

 別にお母さんを責めているのとは違うのですが、ただ、アスペの方が障がい特性を持って生きていくには、その「配慮される人」という定型的な見方だけでは足りないと思うのですね。アスペであること自体に価値がある、というような、そんな肯定的な見方があるんだろうと思います。

 そういう肯定的な見方ができてくると、たとえ無理解な世の中で厳しい目にあい続けたとしても、自分を否定してしまわない芯ができるでしょう。そしてその状況を生き抜いていくための足場がそこにできると思うわけです。

 もちろん口で言うのは簡単で実際には大変なことですが、そこが真剣に模索すべき大事な突破口かなと思っています。

>特にサロマさんがアスペだからというような話ではないと思います。

それでしたら良いのですが。

>ひとつは「お互いに相手のことはわかってないよね」というお互い様。一方だけが他方を責められるような、今の世の中で一般的なような「一方的にアスペの側がわかってない」という話ではないはずだという意味です。

説明頂いてありがとうございます。お手数お掛けしました。

ここの部分については私も同じ意見です。

>サロマさんがここで引っかかっているのは、たぶん「バランスが取れないじゃないか」ということなのだろうと思います

おっしゃるとおりです。

>その人の新しい面が発見できたからであることもあります。

私は正直、障害者は障害者としてしか思えないです。

アスペの全てがそうだとは思いませんが、少なくとも仕事ができない障害者から学べるものも与えてもらえるものも感じません。

時代が進んで、ロボットが介護をするようになったり、北欧のように福祉が進んでいる時代であれば、障害者が重荷だと捉えられることは今より少なくなるかもしれませし、偏見も今よりは少なくなるかもしれません。

ただ時代が変わっても、少なくとも障害者から得られるものがあるという価値観が出てくるかは疑問です。

 

>重度の障がい者と暮らしている家庭には、ほんとにやさしさに満ちた感じの家庭がそれなりにあるそうです。

そういう家庭も存在することは否定しません。そういった家庭は私も理想だと思います。

ただ普通は重荷に感じたり、将来への不安もあると思います。私自身も重度の障害者が身近にいたら負担に感じます。

介護が必要な障害者や言うことを聞かない我儘な障害者、経済的に障害者が身近にいたら私でもイライラすると思います。

器が広ければ障害者に対する見方や価値観も変わるのであれば、私は器が狭い人間であり、固い考えなのかもしれませんね。

>その価値観をそのまま引き受けざるを得ない状況にいて、そのような固い信念を持たざるを得なかったのだろうと想像します

私が逆の立場でもそういった身内がいれば負担に思います。

私自身も人の役に立つ、できる女でありたかったので、障害を持っている現実は望んでいません。

もともとの私自身の考えでもあります。器が狭いと言われるなら否定はしません。

>というか、だんだんと皆さんの話を聞きながら、よりわかるようになってきたと言えるのでしょう。

そういう理解がパンダさん以外の多数派の方にも広まることを祈ります。

>そういう特性を攻撃して許さない人が多い中で、そういう配慮ができること自体素晴らしいことだと思いますが、ただそういう配慮というのは「障がい」を定型的な基準でだけ否定的に見ている、という裏の面があるとも思えます。

>アスペの方が障がい特性を持って生きていくには、その「配慮される人」という定型的な見方だけでは足りないと思うのですね。アスペであること自体に価値がある、というような、そんな肯定的な見方があるんだろうと思います。

説明ありがとうございます。

なるほど。パンダさんの仰ることも一理あると思います。

「配慮される人」という視点だけで見てしまうのも危険だと思います。

仰るように世間の厳しい目があっても、自分を否定せずにいられるかもしれません。

ただそれとは別に支援が必要な人も存在するので、そこは「人様の力で生きられる人」という考えは変わりません。

サロマさんのご意見を伺って、当事者というのは、その過酷な経歴から、様々な価値観を持つものだなと思いました。
当事者というのは、私や家族や、今接している人たちも含みます。
みなそれぞれ全く課題は違うとはいえ、共通しているのは、社会に迎合するのが難しく、その都度悩み、闘い、工夫を重ねてきたことだと思います。
ある時は、社会や周りに恨みを抱き、ある時は身を切られるような思いをし、ある時は社会を斜に見ることで痛みを回避してきて、この社会とは何なのか?と、常に疑問を抱いて生きなくてはいけません。

人の支援が無くては生きられない重度障害と聞いて、ふとヘレンケラーが思い浮かびました。ヘレンが言葉を獲得するまでのくだりは有名だけど、さて、彼女は何で偉人と言われているんだっけ?
改めて調べてみると、彼女は『運動家』であって、彼女の主張に批判的な人も多かったそうですね。支援なくては生きられない人が偉そうなことを言うなというような。
昔、車椅子の人がバスに乗れないことに抗議してバスを止めた『青い芝の会事件』というのがありましたが、その時も一部の障害者のために、なぜ健常者が迷惑を被るのだ!という意見がありました。
多数の健常者が、一部の障害者のために迷惑を被るのは許せないという意見は根強く、今も議論されています。
しかし、ヘレンが声を上げなくても、青い芝の会が抗議しなくても、『障害者』は生まれ、中途で障害を負う人の割合も変わらない。障害者は一定数、必ず存在し続ける。
ヘレンのように、世の中に障害者の生き様を示した人がいたからこそ、のちの世代の障害者は生きやすくなったのだと思います。
私のような特性を持つ人間も、昔だったら社会から排除され、非難され、人知れず命を絶っていたかもしれません。
あるいは、もっと古い時代なら、単に変わり者というだけで、親が学校にも通わせず座敷牢に閉じ込めていたかもしれません。

そう考えると、ヘレンのように、三重苦でも発言力を持つことや、青い芝の会のように、障害者でも、社会の工夫次第で外出することは可能なのだと知らしめてくれたことは、健常な人は対象にならなくても、のちの世代の障害者の役に立ったことになる。これも公共の利益と言えるのではないかと思います。

サロマさん

 たまたま「道徳経」というのをネットで見ていて、以下の文章とかも面白いなと思いました。老荘思想ですね。


http://mage8.com/magetan/roushi01.html

天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。是以聖人、處無爲之事、行不言之教。萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。

現代語訳
世の人々は皆美しいものを美しいと感じるが、これは醜い事なのだ。同様に善い事を善いと思うが、これは善くない事なのだ。何故ならば有と無、難しいと易しい、長いと短い、高いと低い、これらは全て相対的な概念で、音と声も互いに調和し、前と後もお互いがあってはじめて存在できるからだ。だから「道」を知った聖人は人為的にこれらを区別せず、言葉にできない教えを実行する。この世の出来事をいちいち説明せず、何かを生み出しても自分の物とせず、何かを成してもそれに頼らず、成功してもそこに留まらない。そうやってこだわりを捨てるからこそ、それらが離れる事は無いのだ。


 器が大きいかどうかというより、器をなくす、という発想が老荘の思想なのかもしれません。発想の転換の面白さですね。ま、にわか勉強でよくわかんないですが ('◇')ゞ

サロマさんの語られたエピソードをもう一度読み返して、大きな問題に気付きました。

女性の着替えを覗こうとした障害のある人を、注意した人が殴られてしまったとき、職員の言った、この言葉です。

>そこまで怒るなんて、今までにあなた達はよほど辛い目にあってきたんだね。自分達は一般常識を必死で守ろうと頑張っているからそれをしない人が許せないんでしょ?でもね、あなた達だって完璧な人間じゃないでしょう?人を無意識に不愉快なことをしていることだってあるのよ?お互い様じゃない。彼は言っても分からない障害特性なんだよ。あれでも根はいい奴なの。許してあげて。何でも一般常識を押し付けるのは良くない。常識にとらわれずに行きたい

サロマさんが誤解されているのは、この職員の言葉が、社会通念に近いと思われているからではないでしょうか?

私から見ると、この職員こそが、障害者の人権侵害を行っていると感じます。
それはどこかというと、『障害者だから、言っても分からない』と決めつけていること。『障害者だから、暴力を働いても、殴られた方が我慢するべきだ』と言い切っていることです。
この決めつけは、殴られた側だけでなく、殴った障害者本人に対しても人権侵害を犯しています。
おそらく、サロマさんはこのことに、とても憤りを感じられたと思うのですが、その矛先は擁護されている障害者に向けられました。
私もこのことに、同じく憤りを感じますが、障害者が自分の意見を発することが出来ないのを良いことに、あたかも障害者の側に立っていると信じている職員のデリカシーの無さです。

もし、この問題を解決するとしたら、殴った障害者への正しい教育が行われれば、簡単に解決します。これ以上被害者を増やすこともなくなれば、殴った人の人権も守られますし、殴られた人が訴える権利も尊重できます。

最大の問題は、間違った価値観を持ってしまった職員が、あたかも障害者の代弁をしているように振る舞う、その行為ですね!
社会のマイノリティ叩きの根底には、味方のような顔をして、マイノリティの声なき声を間違って代弁し、世間の心象を悪くしてきた似非支援者の存在がありそうだと思いました。

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