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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2018年5月

2018年5月31日 (木)

恨みと表現

 

サロマさんとあすなろさんのやりとりの中で、「恨み」という言葉が出て来ました。あすなろさんはサロマさんの文章を読んで、「恨み」の部分を感じ、サロマさんはそこには「恨み」はない、と応じられるというズレがあります。

 まだ私としてはよくわからない状態ですが、ひとつ可能性として気づいたことがあります。

 それはこれまで表情と表現、ということで繰り返し考えてきたことと、このずれが繋がるのではないかという事です。

 あすなろさんはサロマさんに対して、自分がそれを恨みととらえたのは、自分の経験に引き寄せて理解したためではないか、と応じられていましたが、あすなろさんに言われてみると、たしかに私もサロマさん(たち)の文章には、多少なりとも恨み的な要素を感じることがありました。そして「なぜこの人たちは関係ない私たちに恨みをぶつけてくるのだろうか?」と不思議に思うことが何度かありました。

 その結果、炎上に至るということもあったため、そういう展開を防ぐために、ガイドラインでは「3.投稿者の個人的体験で,関係ない人に八つ当たり的非難をしない」という項目をわざわざ立てたりしています。

 表情と表現の問題についてこれまで考えてきたことを改めて書けば、私と相方が話をすると、私の言ったことに彼女が非常に苦しそうな顔で「反論」することがある。それは私から見ると「なんでこういう理不尽な理屈で私を苦しめるのか?」という「非難」に見えて、単に話し合いたいだけの私がびっくりしてしまう、というようなことが起こる。

 あるいは何かを頼んだ時、すごくしんどそうな顔をするので、「なんでこんなにひどいことを自分に頼んでくるのか」という「非難」をされているように感じて、私の方がショックを受けてしまう。

 またこれは彼女とのことではないですが、ここでも何度か展開されたこととして、アスペの方が自分が苦労した体験を語られ、それは定型的に見れば「通常人には言えないような深い悩みを語ったのだから、必死の思いで助けを求めているのだ」と理解され、それに応じていろいろアドバイスをしようとしたり定型的な努力を相手のために行うのですが、そのアドバイス自体がアスペ的に無理難題になる場合にトラブルに展開します。一部のアスペ側が「なんでそんな無理難題を押し付けてくるのか」と言い、一部の定型側が「援助を求めておきながら、援助者を非難するとは何事か」と怒りを示すと、「私は何も頼んでいない」と主張し、そこで大混乱になる。

 あすなろさんの娘さんの話もありました。まぶしくて目を細めて人と話していると、それを知らない相手がその表情を自分への表現として読み取り、態度が悪いと理解して非難するというようなことだったと思います。


 いずれの場合も、アスペの方の側は素朴に「自分がしんどいと感じている部分がそのまま自然に表情に現れているだけのこと」と感じており、それを定型の側が「私に対する訴え・表現」として受け取ってそれに応じることでその後の混乱が生まれています。

 「恨み」の話も、この表情と表現のずれの問題の一部ではないかと思ったわけです。

 そういう目で私と相方の関係を考えてみても、かなり当てはまることが多いように思えてくるのですが、彼女は否定的なことをいう割合がとても大きいのですが、私は多くの場合、それを「私に向けられたもの」と感じ取ってしまいます。私の側の自意識過剰という解釈もあり得るのですが、ただほかの人(子どもなどを含め)との関係ではそこまでのことはあまりないので、たぶん彼女との関係で起こりやすいことだと思います。

 それも、たんに彼女が「自分のしんどい思いを話しているだけ」というふうに考え直すと、事態の意味がまた別の形で考えられるようになると思うのですが、感覚的にはそこが難しいところになります。

 なぜ難しいのかというと、否定的なことを言うその言い方が、「誰に対して言っているのか」、その「表現」の先が明確でないことが大きな原因ではないかと思いました。

 定型は基本的に仲間づくりを非常に重視して動く傾向がありますから、相手から何かを言われたとき、「この人は自分に好意的なのか、自分と仲間になりたいと思っているのか、あるいは敵対的で攻撃してきているのか」ということについて、無意識のうちに非常に敏感に反応します。

 それで、相手に否定的なことを言う場合は、それが相手にとっては攻撃として受け取られる可能性が高くなるので、その否定的なことは「貴方に対して」ではなくて、「別の対象に対して」向けられていることを可能な限り表現しながらそういう否定的なことを言う、というスタイルを身に着けていくんですね。そして相手に対してはできるだけ友好的な表情を保とうとしたりする。

 というわけですから、そういう「配慮」抜きに相手がストレートに否定的なことを言う場合は、「私に対して攻撃をしてきている」「いい関係を作りたくないのだ」と直感してしまうことが起こりやすくなります。いわば「宣戦布告」をされた気分になるのです。


 「恨み」の問題はもうひとつ複雑になるかもしれません。

 なぜなら、あすなろさんとサロマさんのやりとりの例では、サロマさんがあすなろさんに対して恨みを持っているというふうに理解されたのではないからです。その意味では、あすなろさんはサロマさんが「別の対象」に対して否定的に語っているという事を理解できる状態にあると言えますし、サロマさんはそういうところで誤解される書き方はされていないことになる。

 でもそのうえでなお、あすなろさんはサロマさんに「恨み」を感じ、サロマさんはそんなものはないという、というズレが起こっています。

 そうするとここで二つの可能性が出てくるかもしれません。ひとつはサロマさんが否定的な感情を持っていて、それはサロマさんの意識としては別に「別の対象」に向けた否定的な感情ではないのだけれど、定型的にその表現を見るとその「別の対象」に向けられた「非難」の表現として受け止められてしまうために「恨み」をそこに感じる、という可能性です。

 もう一つは実はサロマさんはまったく否定的な感情をもそこでは持っておらず、それを定型的に理解して「こういう場合なら当然否定的にみるだろう」と自分に引き寄せて理解してしまうために全く存在しない否定的感情=「恨み」をそこに感じてしまった、という可能性です。

 私はまだどうなのかがよくわかりませんが、なんかそういうあたりに、かなり大事な問題が隠れていそうな気がします。
 

2018年5月20日 (日)

見えない自分

 ある意味、自分のことを一番よく理解しているのは相方なのかもしれないという気持ちになってきています。

 その意味は、自分がこう見てほしい、という「お化粧」の部分はほとんど関係なしに見ているということでしょうか。

 「お化粧」とか「クッション」とか、いろんな表現が可能だと思いますが。

 定型的な人間関係では重要と考えられていて、その中で自分の「人生」を作ろうとしたりしている気がしますが、そこをすぱっと切り落としたときに見えるものを見ているのが彼女のような気がしてきます。

 もちろん、逆に言えば彼女に見えない世界があるわけですが、でも私には見えない世界をたぶん見ているし、その目で見ると、私はまたかなり違う風にみえるんだろうなと。

 定型アスペ関係でしばしばお互いが傷つく理由は、この大事にしている見方のズレからくるんでしょうね。

2018年5月 5日 (土)

自慢?

 前からどうも会話がずれる様で気になっていたことに、自分が何かを達成したと感じたとき、それを話したときの相方の反応があります。

 特にそれは一般的には他の人から褒められるような成果を上げたときのことが多いように思うのですが、それを話すと、「自慢したいの?」と聞かれたりするんですね。

 そう言われてみると、「ほめられるようなこと」について、相方に話をして彼女にもほめてもらいたい、という気持ちはたしかに入っているように思うので、全然外れというわけではないんですが、でもそう決めつけられてしまうと、なんだか「身も蓋もない」感じで困ってしまうのです。

 なんでなのかなと思ったのですが、まずそういう対応をされたときの私の気分は、すっと冷めてしまって、なんだか冷たい風がスーッとその場に吹くような感じになります。こころが冷えていく感じですね。そして、自分がただ人に自分を自慢したいだけの、つまんない人間に思えてきたりします。

 それと同時に、いやあ、でもこれって一緒に喜んでもらえるところだよな、という悲しい気持ちが起こるわけです。

 ということを考えると、つまりそういう話をするのは、「一緒に喜んでほしいから」なわけですね。

 このことについてはこれまでも何度も書いてきたことにつながっていますが、子育てをしていても、私が一番強い違和感を覚えたのが、彼女が子どもと一緒に喜ぶ、ということが非常に少ないという事でした。子どもは喜びを共有してもらい、またほめられることで成長すると私なんかは思っていますから、それは子どもにとってつらいことと思え、またそれを見ていて私もつらくなるわけです。

 たとえば子どもが絵を描いて、嬉しそうに「○○描けた!」と持って来たとします。絵としてはもちろん幼い下手な絵ですから、それを見て「すごい上手だね!」と感動することはあまりないかもしれません(もちろん子どもの絵独特の感じに感動する人もいるでしょうけれど)。でも、私などはそうされると「ああ、よく描けたね」とか「頑張ったね」とか、なんかほめてあげたい気分になります。

 そこがほんとに少ないんですね。ここでも同じことがあって、それは「ほめてほしい」=「自慢したい」という部分がないわけではないですが、でもそれと同じくらい、あるいはそれ以上に「一緒に喜んでほしい」という気持ちがあるわけです。

 「自慢したいの?」という見方では、そのもうひとつの大事と感じられる部分がすっぽり抜けてしまうので、「身も蓋もない」状態になるのだと思います。

 定型から見てアスペの方が非常に冷たく見えるときは、たぶんそういうような場面が多いのではないか、と想像します。

 なんでそういうことになるのか。「アスペの人はもともと冷血漢なんだ」という説明の仕方があるでしょうが、それは私には全然納得できません。逆に定型の方が残酷な冷血動物のように思うアスペの方が少なくない、という現実も、この場でも何度も見てきましたし、まあ確かにアスペの立場から見ればそう見えるんだろうな、というふうにも思います。だから問題は「○○は冷血漢」という単純な決めつけでわかるものとは違う。

 ここでも二つの可能性を思いつきます。ひとつはアスペの方自身が子どものころから否定され続け、一緒に喜んでもらえる体験が少なかったために、自分にもそういうスタイルが身に付いたという可能性です。私の相方などは、実家に行くとびっくりするくらい否定的に言われ続けるのを見て、私がつらくなったり憤ったりすることも多かったですから、その可能性もあります。(そういう相方の親のことについて、ほんとに彼女が苦しかっただろうと私が憤って、彼女にその憤りを彼女に対する深い共感の思いで伝えたら、自分の親を悪く言うなと激しく怒られたので、面食らいましたが)

 もうひとつはアスペ的な特性の一つとして、そういうところで共感的につながりを作ることについてあまり関心が向きにくいために、自然にそうなる、という可能性です。だから相手がそういうことを言ってくる意味が分からず、「これは自慢なのかな」と頭で解釈して、とまどいつつそう相手に尋ねるという可能性もあります。

 もちろん両方が絡んでいるのかもしれません。

 いずれにせよ、そういうことが自然な姿なのだとすれば、そのずれを前提に、お互いの期待をうまく調整しながら関係を模索していく必要があるのでしょうね。まだよくわからないですが。

 
 

2018年5月 1日 (火)

ブラック イズ ビューティフル

 

サロマさんのコメントを拝見して、またひとつなんとなく感じながらもやもやしていた感じが形になってきたような気になりました。

 一部の定型サイドの方たちから、「なんでもっとがんばらないんだ」とか、「結局甘えじゃないか」というたぐいの非難に見える「攻撃」がアスペの一部の方に激しい怒りを伴って加えられたことについて、もちろんその攻撃が妥当だとは私は思いませんが、なぜその非難にアスペの方たちが私の想像をはるかに超えて傷つくかというと、その前提にはご自身が「なんでできないんだろう?」という悩みを常に持ち続け、そしてそれだけではなく、できない自分自身をどうしても肯定できない、というつらさを抱えているから、ということがあるのですね。

 すでに自分自身を自分で深く非難し、痛めつけているところに、輪をかけて人からその傷口を無慈悲に切り拓かれる状態になる。そのことへの怒りというふうに理解すると、すっと腑に落ちる感じがします。

 私はここでずっと定型アスペの「対等な関係」がどうやったら可能になるかを考え続けてきました。ですから、私にとっては否定的に見えるアスペの方の特色の部分も、だからといってそれでその人の価値を判断することはしたくないと思ってきました。そういう姿勢を模索し続けたので、逆に「アスペの方自身が自分を否定している」という部分を十分に受け止めきれなかったのではないかという気がします。

 言ってみれば私には、たとえアスペの方が攻撃されたとしても、それは多くの場合(すべてではないとしても)相手の無理解からくるもので、そのような種類の批判は「お互い様」のレベルで対応すればよく、そのことで傷つく必要はない、というような感覚がどこかにあったわけです。でもそれは自分をどこかで肯定できているからそういうことができるわけで、その自己肯定そのものに苦しんでいる場合は、とてもではないがそういう事が可能にはなりにくい。

 ではなぜアスペの方がしばしば自分を肯定できないかというと、それはやはりこの世の中が定型中心で作られているからで、その価値観にアスペの方もどうしても染まらざるを得ないからのような気がします。そうではない別の価値観、別の生き方が確立されてくれば、また見方が全然変わってくるのだと思うわけです。

 

 昔アメリカで黒人差別が今よりもさらに激しかったころ、いろんな運動があったわけですが、その中ですごいスローガンが出て来ました。「ブラック イズ ビューティフル」という言葉です。

 「肌が黒い」ということはそれまでマイナスのイメージになっていた。でもそれは差別的な白人の視線によるものです。アフリカで先祖が暮らしていた時、自分の肌の色に引け目を感じていたなどという事は考えられません。多数派で権力を持つ白人層の中で作られた差別的価値観を、弱い立場にいる黒人の人たちがどうしても引き受けざるを得なかった。そうしないと生きていかれないからです。その結果、自分で自分を肯定できない状態に陥っていった。

 その状況を「ブラック イズ ビューティフル」というスローガンが打ち砕いたのですね。これはすごいと思います。実際、アメリカの街角で、黒人のビジネスパーソンがほんとにかっこよく、美しく、自信をもって生きているように見える姿を見て感動したことがありました。もちろん深刻な差別は残り続けるにしても、そうではない力も大きく育っています。

 

 同じようなことが定型アスペ関係でも起こりうるのではないか、ということを私は考えています。もちろんある意味それは今は夢物語でしょうし、私自身、具体的にその物語の内容を心に描けているわけではないのですが、なんとなくその可能性を感じるのです。もちろん差別されている現実の中で苦しんでいる方にはなんの説得力もない話だと思いますけれど。

 あこまてぃっくさんも書かれていましたが、みんな変なんです(笑)。誰一人まともな(?)人間はいない。それぞれの長所と短所を抱えて生きています。問題はお互いの短所同士がぶつかり合って激しい葛藤になること、そのことでどちらかが、あるいは両方が痛めつけられてしまうという状況でしょう。 それをできるだけ回避して、長所を活かしあうかかわり方を見つけられたら、そうしたら一方的に自分や他人を否定する必要もなくなりますよね。もちろん部分否定は残りますが、でも肯定がベースになって否定があれば、それは問題がないでしょう。問題は否定がベースになることで、大事なのは否定がなくなることではありません。むしろ全部長所という方がおかしいですよね。それはありえない幻想です。

 

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