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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2018年4月 7日 (土)

夫婦の「特別さ」のずれ

 またTinaさんから頂いたコメントに触発されての話です。Tinaさんはこう書かれています。

定型が求めているのは エクストラ感(特別感?)ですかね。アスペが求めているのは 自然体(気付かない心地良さ?)ですかね。
だから 定型は エクストラに行動も起こすし、表す分、普段以上の見返りも求める。アスペはエクストラ感は出さずに 極力 相手が自然体で心地良くいられる空間を提供したい=干渉しない、そのままを受け入れる、相手を変えようとしない。= 何もしてくれているようには見えない。= 冷たく見える。
そして エクストラの行動を起こさないアスペは 文句を言われてしまう。

 たしかにエクストラ感というのは言える部分がありそうです。なぜかというと、定型の人間関係では、突き放してドライに見れば、基本的に「仲間づくりをする」「徒党を組む」ということ、よく言えば助け合いの関係づくりがとても重要です。だから「あなたには特別な思いでこのことをしている」ということの表現と、「私はそれを受け入れた(または拒否する)」ということの相手からの表現を貰えることがとても大事なわけです。

 普通の人にはしてあげないことを、あなただからしてあげるんだ、という関係をものすごく重視するんですね。お互いにそれが成り立つ関係は「親しい関係」で、それはつまりお互いに多少自分のことは犠牲にしても、相手のために何かをしてあげる「特別な関係」(きずな)なわけです。「表現」というのはそのことをお互いに確かめ合うことだと考えることができます。

 もちろん定型がいつも意識してそれをやっているわけではありません。意識的にコントロールしてやるのは「政治」の世界ですね。あまりに露骨に政治的な人はだいたい嫌われますし、普通はそこまではあんまりやらない。ただ、はっきり意識はしていないけど、実はそういう気持ちの動き方があって、ごく自然にほとんど無意識にそうやっている。「自然体」という意味ではそれが定型の「自然体」で、そういう意味では「特別」なことではありません。

 そういうふうに「自然体」で「特別」なつながりを一生懸命作って生きるのが定型だから、だから相手から期待した「表現」が得られないと、それは自分の大事な思いが拒否されたことになり、その「暗黙の期待」が裏切られてすごく傷つくわけです。「あなたにとって私はどうでもいい人なのね?」という傷つき方をする。


 もちろん定型は特別な関係を作るが、アスペはそれをしない、というふうに単純に割り切って考えることは無理で、アスペの方にももちろん「特別な関係」はありますよね。たとえば「家族」という関係。私の相方はよく私のことを「家族なんだから」と表現します。それは「家族でない人」とは全然違う人間だ、ということなわけですよね。

 ところが「家族ならこうするだろう」というところがずれてしまうわけです。

 今までに考えてきた典型的な例で言えば、アスペの男性が結婚後に定型の女性に対して、それまでよくしていたプレゼントややさしい声掛けなどを急にしなくなってしまう、という話もありました。それで定型の女性の側からすると「釣った魚には餌をやらない」ということなのか、というショックを与えられることになる。カサンドラの始まりですね。

 でもそういう変化の理由としてアスペの方から語られることに、やはり「家族なんだから」というものがあったわけです。恋愛の時は家族になるまでの特別の状態で、だから特別の配慮を相手に対してたくさんする。でも「家族」になってしまった以上、その必要はないわけです。そんなことをしなくても家族は永遠に家族だということですね。


 定型的な感覚から言えば、「親子関係」は比較的それに近い「家族」という部分があるかもしれません。それはもう運命のようなもので、一度親子になってしまったら、その関係はどうやったって切れない。法律的には親子関係を断つことはできても、それは言ってみれば形式的な話です。思いの中の親子関係は断ち切れない。

 だから、もしアスペの方がそういう感覚で「運命的なもの」として結婚を考える傾向があるのだとすれば、ちょっと想像は可能になります。

 でも、定型的な感覚から言うと、それは違うわけですね。たとえ夫婦であろうと、思いを伝えあって絆を確かめ合い続けることが必要だと感じる。もちろん世の中、そうでない夫婦はたくさんあるわけですが、でもそれは言ってみれば「仮面の夫婦」で「夫婦としての実態がもうなくなっていて、あとは惰性か打算で一緒に暮らしているだけ」というイメージになります。そういう「虚構」の関係に耐えられなくなると離婚になる。一時、定年後に奥さんにしがみつく男性を「ぬれ落ち葉」と呼んで、そこから離れて「本当の自分の生き方」を探ろうとする女性の姿が盛んに語られた時期がありましたが、それもそういうことでしょう。

 そういう感覚がベースにあるので、アスペ的な自然体で「運命的なつながり」のように思って「表現」をおろそかにされ続けると、それは(定型的な意味での)思いの共有を断たれたように感じられ、「仮面の夫婦」への道と感じられてしまうことになります。
 
 
 どうもここの定型の感覚が、アスペの方にはわかりにくいようですね。で、定型はその対極のアスペ的感覚がほんとに謎になる。

 「アスペルガーと定型を共に生きる」の伸夫さんが、カレンさんとの離婚協議の中で、離婚後にどうやって生活費を工面しあうか、ということをいろいろ考えて提案しているのですが、これを読んで私は訳が分からずに面食らいました。離婚をするという事は他人になることで、そういう助け合いの関係をもうおしまいにしましょう、ということだという感覚があったからです。

 逆に私の相方などは、離婚したら相手のことはもう考えない、というのは人間としてとても冷たいことだ、と言います。だから定型は冷たいよね、ということになります。

 この感覚のずれはすごく大きいと思えます。

 単純に図式化すると、定型は親子関係の運命的なつながり方と、夫婦関係のつながり方にはかなり大きな差を考えている。夫婦関係はどこまでいっても他人同士の関係というところがあり(桂枝雀の言葉に「夫婦は一番近い他人」みたいな言い方もあったと思いますが(笑))、だからこそ、思いを「表現」して伝えあい、つながりを維持し続けない限り、関係はどんどんマンネリ化し、やがて「仮面夫婦」となってしまうと感じる。

 それに対してアスペの方は夫婦関係を親子関係に近いような運命的な関係と感じ、別に親子では特別の気遣いをしなくてもつながりが基本的には断ち切られないように、夫婦関係でも、ただ「夫婦」であるということでその関係は断ち切られないことになる。だから「表現」などということをするのはむしろわざとらしいことで、不自然で「他人の関係」になってしまう。

 そんな風に対比させてみると、私には結構わかりやすい感じになります。

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コメント

「家族なんだから」という言葉。私も 議論中 よく使った記憶があります(笑) アスペ的には 家族という 特別感があるんですけど なかなか伝わってくれません。家族だから 誰よりも 寛容で あまーーくなっている部分もたくさんあって そういう部分も全て受け入れて文句も言わない。結婚前みたいに 気持ちを確かめ合うようなことはしない(必要もないし 逆に していたら不安な証拠)けど、定型が求めるような要求もしないから プレッシャーも与えない(定型は プレッシャーとは思わないのだろうけど、いつか 少しでも面倒くさいとか疲労に変わる)。良し悪しがあると思うんです。求めない分 文句も言わない。それは 興味がないからではなく 好きだからなんですけどね。法に反しない限り許せてしまうんですね。よく 小言をいうイメージがあるのは 定型です。 うちの場合は 彼の 小言がすごかったです。うちの親(母が定型、父がアスペ)の場合 母の小言がすごかった。自分が満たされないと不満も ばんばん言う。= あなたのこの部分は許せない、認められない、変わってほしい。きっと 定型にとって変わることはそんなに大変なことではないんでしょうね。その部分を変えればそれで済むみたいな。私の場合は その小さな部分も私の一部で そのままを受け入れてもらえないんだと 悲しくなり、私じゃなくてもいいんじゃないかなと思ったりします。そんなに文句があるなら なぜ私といるんだろう?と思ったり、変わって欲しいと思われることは それは私じゃなくなるくらい大変で、自分が変わりたいと思っている部分ならもちろん変われるし 努力も出来るけど 自分が 良しとしていない部分で要求されても 無理ではないけど それは 本当の自分ではなくなって 相手といる意味さえわからなくなってしまうかもしれません。 私は 相手を変えようとすることに すごく抵抗があります。良いところも悪いところも 全て認めて好きだから相手を選んだのに 悪いところを変えて 100%良い人になれと言われているように感じてしまいます。= 私ではない 別の素晴らしい人。それを言い出したら キリがないし、私は言いたくないのです。

定型が満たされていないのは 本当に相手のせいなんでしょうか。と ちょっと疑問に思ったりします(笑)トピズレになってしまってたら ごめんなさい。アスペと定型で話をしているつもりだけど、私だけかもしれないので 的外れだったら申し訳ないです。

詳しく書くとまた誤解を受けそうなので、避けますが、私も今回の記事と同じことを感じてきました。
『家族』は決して解散するものではなく、絶対的にそこに存在するもの、という感覚が、夫からは感じられます。
しかしその『絶対的な家族像』は、夫が育った家庭像であって、私のものとは合致しない。
私も夫も、そのズレた感覚を維持したまま、家族を築いてきて、子供たちはそのズレを含めた家族像が、家族像になっている。
そして何かギクシャクとしながらも、そのままの状態を維持していたいという思いが強い。
そんな感じがします。

これは何も、アスペ定型の感覚の違いによるものではなく、誰もが持っているものじゃないかと。
しかし、私自身にも身に覚えがありますが、発達障害者は、社会の中に拠り所が出来にくい(友達同士の関係とか、職場や自治体などの繋がり)ために、より家族という拠り所を重要視しているんじゃないかと思います。

あすなろさん

>これは何も、アスペ定型の感覚の違いによるものではなく、誰もが持っているものじゃないかと。

はい、たしかに人間関係の中ではどこでも起こる可能性のあるズレだとも思います。ただ、定型アスペ関係ではそれがとても極端な形で、そしてその場合にアスペはどちら側、定型はどちら側ということが比較的固定化されやすい形で生じるのかなと思います。その意味で定型アスペ関係に特徴的なことの一つなのかなと。

>私自身にも身に覚えがありますが、発達障害者は、社会の中に拠り所が出来にくい(友達同士の関係とか、職場や自治体などの繋がり)ために、より家族という拠り所を重要視しているんじゃないかと思います。

 これ、すごく大事なポイントだなと思いました。相方の「家族」への思いの切実さもわかる気がします。

こんにちは ^_^

Tinaさんのコメント、私にはすごくわかりやすい、そうそう、と思いながら読ませてもらいました。
うちの父もアスペです。思い返しても、父が私を変えようとしたり要求したりしたことは思い出せませんが、定型の母とはよく気持ちのぶつかり合いがありました。

私はいまシングルですが、お付き合いしてる人と結婚を考えられないのは、相手をそのまま受け入れる自信がちょっとなくなってきてるからだと思います。

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