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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2018年4月30日 (月)

「痛みの共有」と「仲間への援助」

 

あんこさんの久々の投稿を読んで、ようやくわかってきた感じになってきたことがありました。それはここで繰り返された(私にとっては)謎の炎上の秘密につながることでもあります。

 定型とアスペの大きな違いの一つは「群れたがるか」ということにある、と考えるとわかりやすいことがたくさんあります。定型にしっくりする言い方で言えば、信頼しあえる、たすけあえる大事な人たちのつながり、つまり仲間を求める、ということになるかもしれません。

 多分アスペの方も人とのつながりを大事にしようとする気持ちは同じなんだろうけれど、子どものころから「仲間外れにされる」経験を積み重ねてこられて、「群れる」ことに違和感や嫌悪感を感じることが多くなるのかなと思います。

 で、なんでアスペの方は定型から仲間外れにされやすいのか、という問題ですが、よく言われることには「相手の気持ちを考えない」「身勝手だ」「人と共感しようとしない」「冷たい」といったことでしょう。たしかに定型的な感覚からすると、そう見えてしまうことは間違いなくあると思います。

 けれどもそれはやっぱり定型的な感覚での判断で、アスペの方からすれば「なんでそんな風に言われなければならないんだ」と納得できない方が多いでしょうし、あるいは「定型こそそうじゃないか」と憤りを感じられる方もあるように思います。

 その意味で、そういう定型的によくある見方はやっぱり一面的なもので、そこにはもっと大事な問題があると感じるのですね。


 定型の「善意」が非常に伝わりにくく、その「善意」に基づく「援助」がアスペの方に理解されないどころか、拒絶され、激しく攻撃されるという場合があります。それは定型が自分を犠牲にして普通の関係では行わないようなレベルの「援助」を必死で行う場合にますますそういう展開になることがある。その定型の側の「必死の援助」がアスペの方から「攻撃的なふるまい」とさえみなされることがしばしばあるからです。そうなると定型の必死の援助を受けるアスペの方が逆に定型という「加害者」から「迫害される」「被害者」と理解されてしまうことも起こります。

 なぜそういうことが起こるか。それは定型が相手を援助しようとする場合とアスペが相手を援助しようとする場合の進み方のズレを考えるとわかりやすくなるように思います。

 困っている人を見たとき(困っていることを気づいたとき)、自分にできることがあれば手伝おうという気持ちが起こるのは定型アスペに関わらず、どちらでも同じでしょう。私の相方もそうですが、福祉に関わるアスペの方は少なくないように思いますが、その職を選ぶ理由の一つに「困っている人の役に立ちたい」という思いがあることは間違いないと思います。

 定型アスペで違いが出てくるのはたぶんその次のステップです。

 定型の場合、相手を援助しようとするかどうか、どこまで援助しようとするかについて、たぶん三つのポイントがあります。ひとつは問題の深刻さで、深刻であるほど援助しようとする気持ちは大きくなることが多いでしょう。もちろん自分がそれによって危険になると考えるとブレーキがかかりますので、そのあたりのバランスもありますが、この辺までは定型アスペであまり差はないかもしれません。

 二つ目は「相手が自分に援助を求めているか」で、特に自分に求められている場合は援助しやすくなるでしょう。誰でもいいとなればあまり援助しようとしないかもしれません。このあたりからズレが起こり始めそうです。

 そして三つ目、ここが特に大きいと思うのですが、相手が仲間であるかどうか、あるいは仲間になろうとしているかどうか。

 仲間としてのつながりが強いほど、あるいはそういうつながりを深めようとしているほど、援助しやすくなりますし、その際は自分がかなりの犠牲を払ってでもそうするでしょう。払う犠牲が大きいほど、つながりが深まることにもなります。

 
 相方の話を聞いていると、この三つ目のところで定型は冷たいと感じることがあるようです。つまり「仲間かどうか」によって対応が変わるわけですから、仲間じゃない人には冷たくなる、というわけですし。


 そして、仲間になろうとするかどうかの分かれ目になることの一つに、「相手が<自分に>援助を求めているか」という二つ目が絡んできます。誰でもいいのではなく、自分に求められている、と感じると、つまりは「この人は私と仲間になりたいんだ」と感じることになるからです。

 ではどういうときに「自分に援助を求めている」と感じるかというと、ここで例の「表現」の問題が出て来ます。つまり、相手の人が、通常は他の人には言わないような深い悩みや苦しみを語ってくれた場合、それは単にその事実の説明としてではなく、「私を信頼して私に援助を求めている」という「表現」として受け止めるのです。

 そういう「表現」を向けられたとき、定型はそれに自分が応じるかどうかの判断を迫られます。つまりその悩みや苦しみが大きければ大きいほど、自分の手に負えないような事態になることが考えられますし、それに応じるために自分が払わなければならない犠牲も大きくなる。だからその分の覚悟がないと応じられないわけです。

 応じられないと思えば、相手と距離をとることになります。応じられるとか、あるいは何かの理由で応じなければならないと感じる場合は覚悟を決めて応じることになります。

 そういう覚悟を決めるときは、本当に相手と深い仲間になることを決意することでもあるんですね。そしてその時は「相手もそう考えている」ということが大前提です。そういう「自分を犠牲にする覚悟」に対しては、相手は「感謝してくれる」ということが無意識のうちに当然のこととして感じられています。そこにお互いの「深い信頼関係」が前提になります。

 そして相手もそう考えている、というふうに思う理由は「相手がほかの人には普通言わないような悩みや苦しみを<自分(たち)>にはしてくれた」、という「表現」にあるわけです。相手がそういう「表現」をする以上、それはそういう特別の関係を求めていて、お互いに助け合い、感謝しあう関係に入ることを「誓っている」と理解する。

 もしこの「誓い」を破って、感謝をしなかったりすれば、それは人の信頼を裏切り、「恩知らず」の「ひどい人間」ということになります。あるいは「人をだまして憐れみを乞い、自分を利用したあくどい人間」という評価になる。そうなるとそういう「誓い」を破った相手に対しては「許しがたい人間だ」という理解になって激しい攻撃も起こり得ます。

 ところがアスペの方からすると、それは「表現」ではなくて、単に聞かれて事実を語っただけという気持ちになりやすく、そこに「相手に援助を求めた」という意識がないので、相手が一生懸命に自己犠牲を払って援助をしようとしても、「そんなことは相手が自分勝手にやっていることだ(私には関係ない)」という理解になりやすい。しかもそこで行われる「援助」が的外れで自分には役に立たなかったり、場合によっては逆効果だったりさえするわけなので、むしろ「有難迷惑」になって怒りさえわいてくる。

 そうやって定型が自分勝手に有難迷惑なおせっかいをかけてくるのに、それに対してひたすら感謝することを求め、それがない(足りない)と激しく攻撃してくる。結局定型は親切なふりをして、単に自分たちの思い通りに支配しようとしているだけだ、と感じられるようになる。そしてやがて定型に対する激しい「反撃」が始まる。


 ここで起こった炎上の基本的なパターンはたぶんこれですね。

 一番のずれは、「定型は痛みの共有によって<仲間>になる」という傾向が強いことです。 そして自分の内面的な痛み・悩み・苦しみを語るという事は、相手と「深い仲間になりたい」という事の「表現(意思の表明)」と理解する。そして仲間というのは自己犠牲を払ってでも相手のために努力する、という「善意」の関係で成り立つので、たとえ相手の援助が自分に合わない部分があったとしても、その「善意」には感謝の気持ちを持って応えなければならない義務があると考える。

 もちろんその「善意」のやり方が結果として相手には合わないことである場合もあり、そうであれば援助をした方が自分を反省してそこを直す必要があることは当然ですが、しかしそれは「善意のやりとり」であるということが大前提で、もし相手が自分の善意を否定するような言い方(たとえば「相手は本当は単に自分たちを支配しようとしているだけだ」という攻撃)がされた場合は、それは人としての信頼関係、「仲間」への最大の裏切りになるので、決して許せない、という感情になるわけです。

 結局「仲間」ということの感覚がかなりずれているわけですね。この定型的な仲間づくりの感覚がアスペの方には謎の世界なので、だから「仲間外れ」にされやすいのでしょう。「仲間のルール」を否定する「敵」とみなされてしまうからです。


 そんな風に考えると「アスペルガーと定型を共に生きる」の伸夫さんが、離婚調停の際に示した(私から見ると)とても不思議な振る舞いも理解できるようになります。

 定型にとっては離婚というのは「人生最大の仲間」ではなくなることです。つまり「最大の助け合いの相手」であることを「やめる」という意味になる。だから離婚したら基本的に赤の他人です。対立を経て離婚すれば、むしろ赤の他人を超えた「敵」ですらある。子どもがいれば養育費を払うとか、そういう話はありますが、それは親子という別の仲間関係がそこにあるからとか、あるいは法律上仕方ないからという話になります。離婚した相手との助け合いは基本的におしまいになる。

 ところが伸夫さんは離婚後の経済的な援助についてもいろいろ考えて自分から提案するんですね。これが私には不思議で仕方なかったのですが、つまりは「助け合い」=「仲間」という関係ではないわけです。

 もう少し考えると、伸夫さんにとってはたぶんそこで「家族」という、決して消すことのできないつながりを感じ続けているのだろうと思うのですが、その「アスペ的な家族の感覚」と「定型的な深い仲間=家族の感覚」の違いについては以前少し考えました。さらに丁寧に考えるべきことがいろいろありそうで、特に「好意(善意)のやりとり」の理解の違いが大きく絡んでいそうですが、今はこの程度にしておきます。


 私自身、相当の自己犠牲を払って「援助」を試みたことについて、逆に激しく攻撃された経験があって、ずっとそのことが痛みとして残り続け、謎を抱え続けてきたのですが、なぜそういうことが起こったのか、なぜ私自身がそれで激しく傷つく思いになったのか、だいぶすっきりしてきた感じがあります。

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コメント

こんばんは、ガーディナーです。

「人間は時折、愚にも付かないことで悩む生き物である」と言われて久しいですが、
ここ数年間の私の悩みは「私はもしかしたら本当はアスペルガーではないのではないか?」というものでした。

ところがちょっと前のこと、思わぬところで自分が本物のアスペであることが実感でき、なんだか浮き浮きとした気分になりました。そんなことを、今日の記事とあんこさんの投稿を読み思い出したので聞いてください。

・・・・・・・・・・・・・

私の次女セカンド(仮名)は21歳の大学生。近所のドラッグストアでアルバイトをしていました。春休みに入ったある日、いつもに増して息巻いて帰って来たセカンドは、食卓の席に着くなり「もう、本当に信じられない!」と話し始めました。彼女が何やら息巻いて話題にしたのは、新しくバイトに入ったばかりの男の子、酒井君(仮名・18歳)のことでした。
娘から聞かされる酒井君は、あんこさんの会社のアスペルさんと一緒で、周囲の気遣いが全く分からなく、ほかの従業員さん達とは2テンポも3テンポもズレていて、失敗して迷惑をかけても悪びれもせず、謝らない、挨拶もしない・・・(以下略)、というツワモノでした。
私はセカンドの話す一つ一つの酒井君エピソードが面白くてクスクス笑いながら聞いていました。
「お母さん、何で笑うの?本当に疲れてるんだから」とセカンドは本気です。もともと友人に対して不満を持つことの少ないセカンドがそこまで言うのだから、酒井君という青年はよっぽどの人物なのでしょう。

私「え、だって、別にセカンドちゃんがこの酒井君に直接意地悪されたとか、陰で一人だけネチネチ嫌がらせを受けたとか、そんなわけじゃないんでしょう?」
セカンド「そんなことはされていない」
私「嫌な思いをしているのは、他のみんなも一緒なんでしょう?」
セ「店長がスッゴイ迷惑している」
私「なんか好きだな、そういう子」
セ「なんで~?!」
私「多分私たちのお仲間だと思う、その子」
(言い遅れましたが、彼女にも診断は下っているのです)
セ「アスペなの?そうは思いたくないなあ、あの子が仲間だなんて」
私「輪を乱す子って面白いじゃない、セカンドちゃんは嫌いなの?アスペの癖に」
セ「お母さんは何でそういうのが好きなの?」
私「うん、実をいうとね、私、全員が定型さんっていう場所は、たとえその人達がすっごく良い人達であったとしても、なんか息苦しくなって動悸がしてくるのよ。自分の落ち度を指摘されそうな気がして」
セ「そんなに落ち度なんかないじゃない、お母さん」
私「あるんです。だから酒井君みたいな人がいると、本当にホッとするのよねえ」
という私の説明を聞きながら、セカンドはまだ腑に落ちない様子です。

ま、傍で見ていればイライラするのでしょうね。でも、店長さんは大変そうだけれども、とりあえず自分に直接被害は無いわけだし、もうちょっと視線を離して身を引いた位置で構えていれば良いのに・・・。と思いました。
セカンドはその点定型に近いのかも知れません。新人バイトの青年に対し、イライラしているみんなと自分の感情を共鳴させているのでしょか?

・・・・・・・・・・・・・

というようなことがあったのですが、今日の記事と、あんこさんの手記を読ませてもらい、ちょっと反省をした私です。「そうか、みんなそういうことで傷つくんだ。私みたいにクスクス笑うのは不謹慎だったんだ」と。
とは言え、私はやっぱり酒井君やアスペルさんにエールを送りたい気持ちです。彼らとて内心本当に辛いんだと想像できるからです。
「独りぼっちは辛いよね、苦しいよね」と、私の心も少し切なくなりました。

あんこさんへ

始めまして、こんばんは。
こんな内容なので「ご教示ください」と書かれた掲示板には書き込めませんでした。掲示板は過去も含めてとても興味深く読ませて頂いてます。

再びガーディナーです。

たびたびすみません。
先ほどのコメントを送った直後の感想です。

書き出した初めは、次女と私のやり取りを面白おかしく思い出しながら、本当に軽い気持ちでスタートしました。そして、最後まで比較的楽しい気分で書き終えることができたのですが・・・。

「比較的」楽しい気分というのは、最後に、アスペルさんや酒井君もきっと辛いんだと思う、という様な事を書いた時、キュッと小さく胸が締め付けられるような気持ちになったからです。でもそれはよくあること、アスペの私がアスペ当事者の辛さに思いを馳せる時の、私のお約束の様な感覚なのです。


言いようのない寂しさに襲われたのは、コメントを送った後のことです。

あんこさんの会社の「仲間たち」の視線が、私の背中に迫ってきたのです。
みんながおんなじことで一緒に傷ついて、困惑のまなざしを一斉に向けてくる。
私はみんなから困惑されていることだけは分かっても、
その筋道や原因が理解できない。
分からないけど、意地悪な人は一人もいない。
むしろ「頑張って」とか、励ましの言葉さえ掛けてくれている。
だから、自分が被害者になって誰かに助けを求めるわけにもいかない。
どうやらいけないのは自分の方らしい。

みんなが「困った人」である私のために、協力して助けてくれようとしている。
でもそれに応えることが出来ない私がいる。


私はいつしか幼児に戻り、膝を抱えて身動きが出来なくなりました。
癇癪を起こして寝転んで暴れている私を、父と母と姉が困惑して見ている。
並んで立って、床に転げた私を見下ろしている。
声が嗄れてもまだ泣き止まない、胸が張り裂けそうな5歳の私。


母は4年前に他界し、父は要支援状態で、私を一番頼りにしている、姉は他都市で私の心強い味方になった現在、もう誰も私を「困った子」だという人はいなくなった。
毎日幸せな生活を送らせてもらっていると感謝していながらも、ふとしたきっかけで蘇ってくる孤独な幼少の私。

これは誰が悪いわけでもない、誰を責めても解決はできない、私が自分で乗り越えなければならない心の問題です。言ってみれば心の《癖》の様なもので、この癖を友として、一生抱えていくのかな、と思ったりもしました。

あんこさんのお話を伺っていたらあんこさんに共感できます。周囲は大変なんだと思います。
だけど私はあんこさんの同僚のアスペルさんやガーディナーさんの娘さんの同僚の酒井君と同じ立ち位置、、、

ガーディナーさんのように笑ったり、娘さんのように文句を言える立場というのは、もともと定型に近い、仕事ができる方だからなのかなと思います。
私も文句言える立ち位置だったらどんなに良いだろうなと思います。疲れはするのかもしれませんが、少なくともこんな立ち位置よりはずっとマシ。
仕事ができればアスペも一つの個性であり、誇れることでもあるけど、私や酒井くんやアスペルさんのような立場では個性でも何でもなく、しょうがいや生き恥、足を引っ張るだけの存在でしかでしかないんですよね、、、
アスペであることは決して誇りではなく、定型であったらどんなに良かったかと思います。

定型的な感覚はところどころ理解できるし、そうでありたいけど、そこを妨害する自分の障害特性を呪うばかりです。

あんこさんのご経験を読ませていただいて、社会の中で何故、発達障害者が『合理的配慮』を得にくいか、よく分かるような気がしました。
そもそもの根底には、パンダさんがおっしゃる定型同士の仲間意識、その中で生まれる助け合いの意識が、社会の中で当然のようにあり、それがアスペの人の意識と大きくズレていることがあるのだと思いますが、それが学校などの、利害が絡まない集団の中であるのだとしたら、その場から逃げる、あるいは利害が絡まないので、担任や先生など、大人が介入して、集団そのものの意識を変えていくということも、不可能ではないかもしれません。
しかし、仕事というのは、自然と出来上がった仲間ではなく、さらに利害が絡む集団なので、当然の大前提として、定型的仲間意識が無くてはならない、そうでないと業務が滞る状態で出来上がっている。
すると、一人にその大前提が通用しないとなると、その一人のために、業務内容を根底から変えなくてはならない事態になってくる。
そういう崖っぷちの状態で出来上がっているものなのでしょうね。
以前、障害者雇用枠で採用された発達障害者が、上司の厳しい叱責で自殺してしまったという悲しいニュースがありましたが、障害者と知っていて、何故そんなに叱責したのだろうか?とずっと疑問でした。
もしかしたら、その上司は、逆に障害者だからこそ、『親切のつもり』でアレコレ細かく指示して『あげた』のかもしれません。しかし、そもそもの職場体制が、障害者には合わなかった。いくら丁寧に指示してもらっても、出来ないこと、分からないことが多過ぎた、という風にも考えられるのかな?と。

発達障害者には、そもそも無理があり過ぎる業務を、定型が『親切に』指導することは、無駄ではないにしても、どちらにも負担になって、大きな軋轢を生む。そういう状況で、『合理的配慮』を導入しようとしても、とても難しいことになってしまうのかなと、そんな風に感じました。

ガーディナーさんの言葉に反応して、自分への恨みつらみを書いてしまいましたが、ガーディナーさんへの非難ではありません。
失礼しました。

あすなろさんのおっしゃることは 二通りあると思います。
あすなろさんがおっしゃるように本当に発達障害者に定型流のやり方があっていない場合。

もう一つは定型流のやり方があっているのだけど、自分の技量だけでは限界があり、他の人の力を借りないと仕事ができない人。
ちなみに私はこのケースです。

炎上したことについて、定型の方がにわとりさんの気持ちを楽にしてあげたい善意から言葉をかけたことやその好意を否定されたり、労力や時間を割いたことを否定されたことに傷ついたことも理解できますが、それでも障害を盾に甘えていないか?本当に仕事ができないの?努力が足りないだけでは?なんて言われたら、アスペ当事者が傷ついて自分は自殺するしかないのか?と言う気持ちも分からなくはないです。

好きで同僚の足を引っ張りたいわけではありませんから。チームでお互い助け合いながら仕事していきたいです。
でも現実は努力してもできない、工夫してもできない、いつも助けてもらってばかりで自分は誰も助けることはしていない。人に迷惑をかけているだけ。
そこで無理解な言葉を言われるのも辛いけど、周りが優しかったとしても、他人の理解と協力がなければ何もできないのもつらい。むしろ自分が辞めて新しい人が入った方が効率も良くなるわけですから自分がいない方がメリットになるわけです。
この時点で自殺したい気持ちで一杯ですからね。自分の存在はいらないけど怖くて死ねない。そんな自分に嫌悪感を感じる。
死んだ方が一番の社会貢献だと世間の人から言われなくても重々自覚しています。
私も助け合いながらチーム一体となって仕事したいですが、いつも妨害するのは自分の発達障害。
発達障害を言い訳にしたくて使っているわけでもないし、努力を怠るために障害を盾にして甘えているわけでもないです。
努力して治るなら発達障害なんてものも存在しません。
そういった背景を理解しろというのが無理があるのかもしれませんが、簡単に言われたくない言葉だから一部のアスペから反発も来たのだと思います。
どちらが悪いのかは言うつもりはないですが、一番言われたくない言葉なんだと思います。

>サロマさん

ふた通りあるとのこと、おっしゃる通りです。
そして私が『合理的配慮が難しい』と言っているケースは、サロマさんのおっしゃる二つの場合の、むしろ後者の方に当てはまると思います。
さらに、一人の人についても、状況によって、どちらにもなる事があると思います。

あんこさんが紹介されていた、アスペルさんの例は、仕事に関しては定型のやり方は分かっている。言われていることも分かっている。しかし時間的にも空間的にも、管理する事が難しく途方に暮れている状態なのではないでしょうか?
しかし、飲み会の席で先輩の頭を叩いてしまった件は、定型のコミュニケーションの取り方そのものが分かっていないのだと思います。
定型のやり方が分からない場合は、合理的配慮を考える余地がありますが、(アスペルさんの例だと、本人が診断を受けて暗黙のルールが分からないことを自覚した上で、こういう場合は、こうするのが適切と解説してもらうなど)
分かっていてもできない場合は、本人が自分のキャパシティを正しく認識して、できないものはできない。できるものはできると、宣言すること。それを周りの人や環境が、受け入れられるかどうかという問題になってくると思います。

にわとりさんのお仕事についても、ずっとその部分が謎でした。にわとりさんのお話を伺っている限り、にわとりさんが、やり方がわからなかったり、流れを汲み取れていないということは無かったように記憶しています。
むしろ、にわとりさんは家で掃除の練習をするなど、とても熱心で前向きでした。
しかし、与えられた業務内容の多さや複雑さを『管理』できないことで、彼女の努力は誰にも認めてもらえなかった。
そういう行き違いだったのではないかと思います。

(その後の、ここでの炎上については、話が複雑になるので想定しません)

あすなろさん

定型流のやり方はわかっていてやりやすいのだけど、キャパ越えしている人に親切に指導しても、できない人にはできないというのはそうだと思います。
これは指導している多数派側にも負担が来たり、指導の仕方が悪いという検討違いな評価を下されることにもなるので、発達に対する正しい理解を企業側がする必要が求められると思います。

キャパ越えをしている人には、仕事を半分の量にするとか簡単な仕事をしてもらうといった以外にはなく、これも会社に雇う余裕がなければ難しいと思います。

私も掃除の仕事をやったことがあるのでわかるのですが、掃除は単価が安く、皆が自分の持ち場の掃除で忙しいので、付きっきりで面倒を見るわけにもいかないし、できない人のフォローも他の社員の肉体への負担が大きくなるので、無理があります。
掃除なんて、本当に誰でもできる仕事なので、にわとりさんが掃除の仕事ができないことについて、職場でもこちらでも理解されなかったのだと思いますが、不器用さんにとっては掃除の動き一つも器用にこなせないんですよね。
意外と細かなところの掃除もあるし、そもそも不器用さんには掃除の道具もまともに使いこなせない。
定型さんが実践を兼ねて使い方を丁寧に教えてくれても、そのとおりに不器用さんの手が動かない。
そこまでくると、会社側の配慮も難しく、やめてもらうしかなかったのだと思います。

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