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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 夫婦の「特別さ」のずれ | トップページ | 定型のヴァリエーションとアスペとの違い »

2018年4月 8日 (日)

「変わる」ことと「変える」こと

 引き続き、Tinaさんからいただいたコメントからです。ほんとに刺激的です。
   

 「家族なんだから」という言葉。私も 議論中 よく使った記憶があります(笑) アスペ的には 家族という 特別感があるんですけど なかなか伝わってくれません。家族だから 誰よりも 寛容で あまーーくなっている部分もたくさんあって そういう部分も全て受け入れて文句も言わない。

 
 やっぱり「家族」という言葉は結構キーワードなんですね。定型アスペ関係でどこまで一般的なのかはもちろんわかりませんが、少なくともTinaさんのカップルと私と相方の間では、ほんとに共通するポイントが問題になって来たようです。

 それで、その「家族」という言葉が持つ意味が、どうも定型アスペでずれている可能性がある、と昨日書いて、そして私の感覚からぎりぎり想像すると、アスペの方の「家族」というのは、定型で言えば親子関係のようにもう運命的に決まっていて、変えられないものという感覚なのではないか、と書きました。

 ただ、そう書きながら、もうひとつピンとこないものがありました。そのよくわからない部分が今回のTinaさんのコメントでかなりすっとわかる感じになったのです。

 

結婚前みたいに 気持ちを確かめ合うようなことはしない(必要もないし 逆に していたら不安な証拠)

 
 アスペの方の発想は、いろんな面で「白黒はっきりしている」、という印象があります。別の言い方をすれば中間の「あいまいさ」がない。定型はかなり意図的にも無意図的にもこの「あいまいさ」を生み出し続ける傾向があるのだと思います。

 なぜかというと、たぶん想像するに、それは「調整する」ためです。「ゆずりあい」を極端に重視するように思える日本的な人間関係では特にそれが著しくなって、日本語では主語をはっきりと言わないという、そんなレベルで曖昧にすることをやります。そして相手の意向を「忖度」して、はっきりとしたことを言わないことで、直接的なぶつかり合いを避けてゆるやかに調整しようとする。それが日本では「大人」の態度と考えられているような気がします。

 アスペの方が日々ぶつかるのは、そういう定型的な「あいまいさ」の世界ですよね。

 で、同じことがここにもあるように思えるのです。「結婚」というのはもちろん定型的にも大きな境目ですが、でも決して安定したものではない。安定したものではないからこそ、結婚式ではよくみんなの前で「神様への誓い」みたいなことをやるわけです。単に私とあなたが二人で決めたらそれでOKではないのですね。そうやって世の中で枠をはめないと安定しない。

 逆に言えばTinaさんが言われるみたいにそこにはそういう不安定さへの「不安」が付きまとっているとも言えるのでしょう。それは言ってみれば「調整を重視する」定型的な「あいまいさ」がもたらす代償みたいなものかもしれません。

 ということで、定型的なカップルでは、いつもではないにしてもときどき「表現しあう」ことで絆を「確かめ合う」とか、「強めあう」ことがどうしても必要になるのだと思います。で、そういう「表現」に応えてくれないことが続くと、途端に隠れていた不安が噴き出すことになるわけですね。その意味で、定型にとってはそれは「必要」なのだということになります。

けど、定型が求めるような要求もしないから プレッシャーも与えない(定型は プレッシャーとは思わないのだろうけど、いつか 少しでも面倒くさいとか疲労に変わる)。良し悪しがあると思うんです。求めない分 文句も言わない。それは 興味がないからではなく 好きだからなんですけどね。法に反しない限り許せてしまうんですね。
  
 この「プレッシャー」という表現がすごくわかりやすかったです。なるほど、そういう表現になるのか、ということですね。

 そこで考えてみたんですが、定型はプレッシャーを与えているというより、たぶん「お互いに求めあっている」という感覚に近いんだと思います。求めあって、相手がそれにちゃんと応えてくれること、自分が相手に応えられることを確認して安心する。だからそういう大事な相手からは求められることも大事になります。求められているという事は、必要とされているという安心感にもつながります。

 カサンドラも、この安心感が得られないことから生まれるのではないでしょうか。それはなにしろ定型お得意の「あいまいさ」ゆえの「不安」に根差したことなので、その部分が「白黒はっきりさせる」アスペの方にはなかなかピンとこない部分なのだと思います。

 そして、それを「プレッシャー」と感じるアスペ的感覚についても、その後のお話を読んでまたわかるような気がし始めました。
 
よく 小言をいうイメージがあるのは 定型です。 うちの場合は 彼の 小言がすごかったです。うちの親(母が定型、父がアスペ)の場合 母の小言がすごかった。自分が満たされないと不満も ばんばん言う。= あなたのこの部分は許せない、認められない、変わってほしい。
 
 私の場合、相方が「小言」がすごいと感じ続けてきたので(もちろん彼女にその意識は全くないと思います)、これを読んですごく面白かったです。

 たぶん、「許せない」部分がお互いに違うんです。自分にとってはどうでもいいか、あるいはその人の勝手でひとに口出しされるべきところではない、と感じている部分について、相手から言われるとそれが「小言」と感じられる。だからお互いに「自分にとって許せない」部分ではどうしても口出しをしてしまい、それは相手にとっては「小言」になる、という関係がお互いに成り立ってしまう。そして自分も相手には「小言」を言っていることについてはお互いに気づかない。そんな関係が成り立っていそうです。
 
きっと 定型にとって変わることはそんなに大変なことではないんでしょうね。その部分を変えればそれで済むみたいな。
 
 「変わること」というか、たぶん「調整すること」なんだろうと思いますが、ここが「あいまいさ」を特徴とする定型の本領発揮の部分でしょうね。そしてそれは大変ではない、というより「必要なこと」と感じられているのだと思います。もちろんアスペの方に比べればそのために必要な努力は少ないのかもしれません。

 
私の場合は その小さな部分も私の一部で そのままを受け入れてもらえないんだと 悲しくなり、私じゃなくてもいいんじゃないかなと思ったりします。そんなに文句があるなら なぜ私といるんだろう?と思ったり、変わって欲しいと思われることは それは私じゃなくなるくらい大変で、自分が変わりたいと思っている部分ならもちろん変われるし 努力も出来るけど 自分が 良しとしていない部分で要求されても 無理ではないけど それは 本当の自分ではなくなって 相手といる意味さえわからなくなってしまうかもしれません。
 
 私には「なるほど!」の連続です。こうやって説明していただくことで、いろんな謎が解けていく感覚があるんですね。

 定型がアスペの方の特徴の一つに「こだわり」というのを挙げることがよくあります。診断基準にもそういうような内容がありましたよね。あれ、完全に定型基準だと思います。定型はアスペの方よりも「調整のためのあいまいさ」を重視していて、その意味で「柔軟さ」が求められています。「自分」というものも、その意味でゆるやかに変化する必要がある。

 でも、「白黒はっきり」型のアスペの方の場合、一部が変化すると、全体が崩れてしまうとう印象になるのでしょう。それは「あいまい」な世界になり始めることで、「はっきりさ=完全さ」が失われるからです。

 自閉的な子がしばしばおもちゃをきれいに並べることに一生懸命になり、定型から見ると何が面白いのかわからないので「奇妙なこだわり」と考えたりするわけですけれど、あれもそういう「白黒はっきり」の感覚とつなげて考えるとわかりやすくなります。明確な形、はっきりした輪郭、安定した構図によって安心感が生まれる。それが崩れると不安になる。

 定型の場合、不安になるポイントはそれとは違い、「あいまいさ」を前提にして「表現」しあうことで安心感を作ろうとする、そこが崩されることで起こる。アスペの場合、「白黒はっきり」を前提にして明確なことに安心感を感じ、それが崩されると不安が起こる。そういう対比がありそうに思えます。

 そしてそこはたぶんそれぞれの「美意識」にもつながるのかなと。

 そういう風に考えると、Tinaさんの葛藤も私には理解しやすくなります。Tinaさんにとって、自分を成り立たせている大事な部分(たとえそれが「小さなもの」とみえるものであってさえ)が崩される、否定されるという事は、自分の全体を否定されることにつながる。それは耐え難い事だとかんじられても当然かと。

  
私は 相手を変えようとすることに すごく抵抗があります。良いところも悪いところも 全て認めて好きだから相手を選んだのに 悪いところを変えて 100%良い人になれと言われているように感じてしまいます。= 私ではない 別の素晴らしい人。それを言い出したら キリがないし、私は言いたくないのです。
 
 ここもよくわかる気がします。

 Tinaさんの目からは「100%良い人になれと言われているように感じ」られるわけですが、定型はそういうことを求めているわけではなくて、「お互いに少しずつ変わって調整しましょう」と呼び掛けているわけです。でもこの「少しずつ」というところが「白黒はっきり」スタイルでは「全部変える」ことにつながってしまい、それは一方的で不当な要求だとかんじられてしまう。

 私の相方からも、なぜ自分を受け入れてくれないのか、ということを時々言われて戸惑うのですが、たぶん同じことですね。私が「お互いに調整しあおう」という姿勢で臨むときに、その内容が「一部の否定=全否定」として受け止められてしまう。だから「お互いに変わろう」とする私の働きかけが、彼女にとっては「自分を受け入れてくれない」こととして感じられるのでしょう。そう考えると私にはかなりわかりやすくなります。たしかにそういう観点から見ると、私は彼女を「受け入れていない」ことになるのですね。ほんとに「なるほど!」です。


 と、こんな風に考えてみると、定型にとって「お互いを大事にする」ということと、アスペにとって「お互いを大事にする」ということの意味のずれが私にはかなりわかりやすくなります。

 共通する部分は「相手を大事にする」ということは「相手にとっての自分」を大事にすることだ、ということです。ただ、そこで「相手にとっての自分」の中身に大きなずれがある。

 アスペの方にとっては良い部分も悪い部分も含めて、今ある私の感じ方や生き方の全体が大事な自分です。それは何かで大きく変わることがあるかもしれないけれど、もしそういうことがあるとすればそれは世界が変わるくらい大きな変化で、そう簡単に変わることではない。お互いにそういう自分を抱えて生きているのだから、お互いにそれを大事にすることが理想的な人間関係になる。

 定型にとってはお互いに良い部分も悪い部分もあるのだから、お互いに調整しあって生きることで自分が成長し、また支えられる、という感覚がある。だから自分自身にも変化を求めるように、相手にも変化を求める。そうやって「お互いに」変化していくことが理想的な人間関係になる。

 もちろんかなり単純化した図式化ですけれど、そういう視点で定型アスペ間の葛藤を考えてみると、そのパターンに入るものが相当多そうな気がします。

 
定型が満たされていないのは 本当に相手のせいなんでしょうか。と ちょっと疑問に思ったりします(笑)
 
 はい、そうですね。ただ、ここで大事なのは「相手のせいではない」=「自分のせい」ということではないということだと思います。定型的には「相手のせいではない」=「お互いのせい」になります。だから定型的には「お互いが変わる」ことが必要になる。(もちろん、アスペの方から見ると、「とんでもない、定型は自分が変わろうとしないで、自分たちのやり方をひたすら押し付けてくるじゃないか」という反論が出てくるだろうこともよくわかります。それについてはまた少し説明が必要になるのですが、長くなるので今日は控えておきます)

 定型的には「お互いが変わる」ことで満たされる、というのが理想なわけですね。
 
トピズレになってしまってたら ごめんなさい。アスペと定型で話をしているつもりだけど、私だけかもしれないので 的外れだったら申し訳ないです。
 
 いえいえ、私にとっては定型アスペ問題のど真ん中に感じられます。ただ、もちろん定型と言っても、アスペと言ってもほんとにいろいろですから、この話がどこまで一般的に言えるのかは当然わからないわけですが、ただこの場でこれまでいろいろ考えてきた事については、そのかなり多くの部分に共通している問題なのだろうと感じています。

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コメント

トピズレになりますけど…
私の仕事先では、ある仲の良いグループがいて(私は入ってないです)、すごく仲がいいのに、毎日のようにお菓子交換をしてるんです。
なんで仲いいのにそんなにしないといけないんだろう?と不思議だったんですが、表現の仕合いを毎日やって、関係を維持発展させてるんでしょうね。

だからそれに乗ってこない私なんぞは、排除されるんでしょうが…でも仮に仲間にしてもらっても、私はそんな維持表現がしょっちゅうあると苦しいから、仲間にならないほうが良い、と判断しています。

あれー、関係ないなー (^^;)

パンダさん 改めて 定型側から 分析していただいて 有難うございます。 パンダさん夫婦との共通点がいろいろありそうですね(笑)

正に パンダさんがおっしゃることは 私の彼も同じように語っていました。だから 今となっては 定型の感じ方も歩み寄り方も アスペが 極端に受け取るということも 理解をしているので 最近は 自分の意見を言った後に 「こういう時 定型は こう思うんだろうね」とか 「あ 今 アスペ 出たって 思ったよね?」とか 自分の意見を伝えると同時に アスペ的な考え方だと自覚していることも 伝えます^^ 彼が 私を変えようとしているのではないことも今はわかります。

パンダさん 改めて 定型側から 分析していただいて 有難うございます。 パンダさん夫婦との共通点がいろいろありそうですね(笑)

正に パンダさんがおっしゃることは 私の彼も同じように語っていました。だから 今となっては 定型の感じ方も歩み寄り方も アスペが 極端に受け取るということも 理解をしているので 最近は 自分の意見を言った後に 「こういう時 定型は こう思うんだろうね」とか 「あ 今 アスペ 出たって 思ったよね?」とか 自分の意見を伝えると同時に アスペ的な考え方だと自覚していることも 伝えます^^ 彼が 私を変えようとしているのではないことも今はわかります。

あ、一つ付け足しです。

小言のことですが、アスペ側から言うと(私 視点)、
もし アスペが 小言を言っているように 感じられたとすれば それは ただの疑問や意見ではないですか?「なんでこうするの?」「どうしてこうするの?」「こうした方がよくない?」と 言った場合、本当に 言葉の通りの意味です。 たぶん 定型は その後に 「こうしてよ」と言われているように 聞こえるんだと思います。でも これは 本当に 間違いで、、言葉以上の意味が アスペにはないんです。「こうしてよ」とは 1ミリも思っていないし、言っていない。ただただ 疑問と理由が知りたかったり 相手の意図が知りたかったりなのです。責めてるわけでも 変われと思って言っているわけではないのです。 でも 定型の世界では そうとるのは ごく自然な 流れというのはもう重々承知しているので 気を付けています。ただ 定型がいう小言は 変わろうとする(調整する)目的で 小言を言っているので アスペの小言とは 違うと思うのです。私が言っていた小言というのは 相手に要求することや 文句みたいなもので そこには 相手に対して 嫌味だったり どうにか変わってという要求(不満)のようなものだと思っています。ネガティヴなんです。
相手の受け取り方で変わってくるのはもうし方がないので そこは注意をするしかないですね。
ただ 言っている本人の 意図が 定型とアスペでは 随分 違うなあと 私は思います。

キキさん

> あれー、関係ないなー (^^;)

 え、そうですか?すごく関係あると思って読んでました(笑)
 
> すごく仲がいいのに、毎日のようにお菓子交換をしてるんです。

 これ、すごく面白いです。定型なら「すごく仲がいい<ので>、毎日のようにお菓子交換をしている」と言いそうです。<のに>と<ので>の違い、たった一字違いなのに、そのずれの大きさはすごいですね !

 ほんとにそういう小さなところに、定型アスペの関係の作り方のものすごく大きな違いが現れていて、で、その小さなことの積み重ねが、定型アスペ関係を悲劇的な対立にまで持っていくのだと思います。


Tinaさん

> 正に パンダさんがおっしゃることは 私の彼も同じように語っていました。

 すごいですね!ほんとに全然違うところで全然知らない方が自分と同じことを感じて話している。定型アスペのずれ方がどれだけ「普遍的」かということをまた感じさせられます。

> もし アスペが 小言を言っているように 感じられたとすれば それは ただの疑問や意見ではないですか?「なんでこうするの?」「どうしてこうするの?」「こうした方がよくない?」と 言った場合、本当に 言葉の通りの意味です。

 たしかにそういう場合もあります。ただ、ここで私が小言と言ったのは、やっぱり「そうしてもらわないと困る」という感じがありました。また子どもに対するしつけも「なんでそこまでそのやり方を無理強いしなければならないのだろう?もっと自由にさせてあげたほうがいいのに」と感じてすごく息苦しかったです。彼女の「型」に無理にはめられているという感覚がありました。

 私の印象ですけれど、少し距離を置いて見られるときは、ほんとに相手が感じたまま、思ったままを大事にしてくれるけれど(ただしそれは定型的には「無関心」とも見えることがある)、自分(彼女)が相手のことをものすごく心配するときに、何か自他の区別がなくなってしまって、自分の中に飲み込んでしまうようなかかわりになってしまうような印象があります。だからそこも「白黒はっきり」な感じなんです。

 そういうことで、定型はそこでどちらでもない、中間的なかかわり方を結構することがあると思います。相手の主体性を尊重しつつ、でも自分の要求をそこに重ねていくような、そんなことをやろうとする。

 その時に、たとえば「この部屋、ちょっとあつくない?」といった間接的な要求の仕方をしたりするわけです。

 この言葉は定型的には単に物理的にこの部屋の温度が高いという事を言っているわけではなくて、「あなたもそう感じるのなら、窓をあけてくれない?」という、ちょっと相手の意思も尊重した形で相手に要求する、というスタイルになっています。

 逆に言えばアスペの方はそういうあいまいさが苦手なんですよね。

 で、「なんでこうするの?」という言い方も、ストレートにそれだけ言うと、たとえ「そうしないのはおかしいじゃない」とは言っていなくても、そういうあいまいさを含んだ要求や非難として理解しやすくなります。だから定型間ではそこでなにかクッションの言葉を入れて、そういう誤解が生まれないように工夫する。たとえば「へえ、そういうやりかたをするんだ。面白いね」と入れて、そのあとで「なんでそうするの?」と言うとか。これだと最初に相手のやり方を肯定した感じがあるので、そのあとの言葉は純粋に好奇心から聞かれているという事に受け取られやすくなります。あるいは声の調子をやわらげるとか、笑顔で面白そうに聞くとか、なんかそういうのがある。真面目な顔で「なんでこうするの?」と聞かれると、やっぱり非難されているという受け取り方になりやすいと思います。

 なにをまどろっこしいこと、回りくどいことをやっているんだ、無駄なことを、という見方もできるんですが、でもそういうクッションを入れることで、できるだけぶつかり合いを避けようとしているんだと思います。もともと人間関係って、激しい競争だとか、闘いだとかいう要素がたくさんあるので、それでもなんとか一緒にやっていくには、どうしてもクッションが必要なんでしょうね。

 そういうクッションがない形で話をされると、攻撃的と受け止められ、それが続くと、自分たちの「和」を乱す奴だ、と反感や怒りを持つようになり、警告し始め、その警告が効果ないと思われると、今度は排除しようとする。というのが定型がアスペの方を排除していくプロセスになっていそうです。

 そうすると、アスペの方はぜんぜん攻撃の意図がなかったりするわけですから、なんでそんな否定的に言われなければならないのかが全然わからない。ただひたすら理不尽に排除されるという感じになるのだという気がします。

 だから、ほんとにお互いにコミュニケーションのスタイルが違うだけなんだとも言えるんですよね。それで意図がお互いにおかしな形で理解されてしまい、お互いに相手に理不尽に攻撃的に接してこられたと思い、そして対立関係になる。不幸と言えばほんとに不幸な展開だと思います。

パンダさん

お部屋の温度のくだり、、うちでも問題になったんです(笑)息子と彼の問題でした。うちの場合、ちょっと解釈が違いました。。

息子「なんか暑くない?」
私「暑い?そーね、ちょっと暑いかも。窓開ける?」
息子「うん 開ける」
(私が動く)

彼「ちょっと暑いから 窓を開けてくれる?って言えば よくない? 」
息子「窓を開けてほしいなんて思っていない。暑くない?って聞いただけ。」
彼「そういう言い方をすると 相手は 窓を開けてって言われてるように 取るんだよ」
私 「え? そうなの? 私は そうはとらないよ?暑くない?って聞かれたから そーだねーちょっと暑いねって答えただけ。窓を開けようと思ったのは私で、頼まれたわけじゃないよ?」
彼「世間では そう捉えられてしまう事があるよ、だから気をつけてね」
息子「そうなの? 開けてって言ってないよ?ママが 窓を開ける?って聞くまで 窓のこと全然 頭になかった。」

とまあ こんな感じで、、その後 議論に発展するわけです(笑)私と息子は とても仲が良くて 息子は私のことを 一番の理解者だと思っているそうです。同じアスペだったから いい関係が築けたのだろうと思います。息子がアスペで本当に良かったと思っています。もし 定型だったら こんなにうまくはいっていなかったと思います。ちなみに いつも私が動いているわけではなく 息子が動くこともいっぱいあります。やらされてる感はお互い全くありません。むしろ喜んで動きます。もし「ちょっと暑いから窓を開けてくれない?」と言われたら 「いいよ」とは言うけど、なぜ私が開けなければいけないんだろう?とちょっと嫌な思いになるかもしれません。選択肢が 私にあれば それは私の意思で喜んでするのに、お願いごとをされると 選択肢がないように感じてしまって 嫌ではないけど なぜか やらされている感がしてしまう 私です。彼が言うには 定型的には 逆だといいます。周りくどく 相手を動かそうとするのは 嫌なヤツで、ちゃんとお願いをされて 感謝される方が 嬉しいと。だから 〜してくれる?という言い方を 定型はする。そして それに対しお礼をいう。アスペは 誰にもお願いはしないけど 結果 相手の罪悪感を誘って 動かそうとするのに 頼んでいないと言って さらに 腹が立つということらしいです(笑) でも アスペ同士の私と息子の間では罪悪感も起こらないし 動かされている感も起こらないのが不思議です(笑)

Tinaさん

>私と息子は とても仲が良くて 息子は私のことを 一番の理解者だと思っているそうです。同じアスペだったから いい関係が築けたのだろうと思います。息子がアスペで本当に良かったと思っています。もし 定型だったら こんなにうまくはいっていなかったと思います。

 これ、とても大事なはなしと思いました。
 というのは、アスペの人は定型との関係でうまくいかないだけでなく、
 アスペ同士でもうまくいかないんだ、という考え方もあります。
 だから結局アスペはみんな孤立するしかないので、
 アスペ的な文化なんて成り立たないんだ、という見方にもなっていきます。

 でもそういう単純な決めつけはできないという事ですよね。
 定型同士でもうまくいかない関係はいくらでもあるわけですし、
 逆にアスペ同士でもうまくいく関係もいろいろある。
 そのことの大事な例の一つになると思うからです。

 たぶんなにかの条件が揃うとうまくいくんだと思います。
 それが何なのか、興味深いです。

 窓の話についてはまた記事の方で。

アスペ同士で上手くいくかどうかはお互いに相手を思いやる気持ちがあることが前提の上に、価値観が似ているかどうかだと思います(価値観の違いは定型同士でも同じですよね)。
アスペ父は洗濯物の干し方にこだわりがあり(バスタオルなどは地面につくような干し方をする)、私や母が干したものをわざわざ自分のやり方で直すので、喧嘩になります。
今のアスペの彼はこだわりが少なく、思いやりがあるので上手くいっています。
こだわりが強い相手とは同じ当事者でも厳しいですが、それが許容範囲であったり、相手が歩み寄って落としどころがつけるかどうかだと思います。

定型の友人もいますが、彼女が私のアスペ的なものを許容してくれているのかもしれませんね。

定型の友人がいますが、彼女は私と話している限りでは私がアスペかどうかは分からないと言います。
しかし同じアスペの彼は私が当事者だと見た目からしてすぐ分かると言います。

しかし彼女のように好感を持ってくれているのは稀なので、彼女が私のアスペ的なものを許容できるのかもしれません。

家族についてのお話でしたね。別の話をしてしまいました。

はじめまして。セリと申します。
私は定型、夫がADD持ちのアスペです。
ずっとROMっていたのですが、情報提供は多いほうが理解は早く進んで当たり前だなぁと思ってしまったので、書き込ませていただきます。
後半の、「全否定」というキーワード、アスペな夫が何度か怒りながら伝えて来ました。
改めて聞いたことも何度かありますが、「どこかを注意されただけでも、存在自体の全否定と受け止める傾向がある」のだとか。
「そうではないんだ」と頭ではわかってるけど、反射的にそう思うし、何度も言われると「そうではない」という否定も難しくなるのだそうです。
とはいえ注意しなければならない時もあるわけで、難しいところですよね^^;

>「一部の否定=全否定」
これは育った環境が大きいように感じます。
同じ失敗を繰り返したり、察することができなくて怒られ、何を怒られているのかわからなかったり、わかっていても障害特性で直せずに理解してもらえない。
アスペ的な部分(人には害は加えないけど定型には受け入れられない感覚)を否定され続けてくる。
感情的に怒られる。

こういったことが続くと、アスペ側に悪い部分があっても受け入れられなかったり、注意されるたびに逃げ腰になることもあると思います。 
頭ではわかっていても、怒られるたびに昔の苦い過去がフラッシュバックするのかもしれません。
ちょっとしたことで傷つき、全否定されると感じるのは、全否定された、それに近い状態の扱いを周りから受け続けてきたということもあると思います。

アスペ皆がそうではないかもしれませんが、大人になってからの修正やトラウマを克服するのは至難の業で、幼少期からの療育や受け入れられ体験、家庭環境は重要だと感じます。

サロマ(さろま)さん

> アスペ同士で上手くいくかどうかはお互いに相手を思いやる気持ちがあることが前提の上に、価値観が似ているかどうか

 こういう風に説明される範囲では、定型でもアスペでも違いはなさそうですね。
 定型アスペ間ではその「思いやる気持ち」の中身とか、表し方にずれがあって
 うまくいかないことがよくあるわけですが、
 アスペアスペ間ではそのあたりはずれたりしないのでしょうか?
 そこがちょっと興味があります。

>  定型の友人もいますが、彼女が私のアスペ的なものを許容してくれているのかもしれませんね。

 ということについては二つの可能性を考えました。

 ひとつは夫婦関係など程には深い関係ではないので、ある程度距離をとって接することができるから、そのお友達もさっぱりした関係が好きな方なので、その部分で相性があって友達でいられる、という可能性です。

 もうひとつはその方が、あんまり定型アスペ間のずれについて、気にならないタイプの方であるという可能性ですね。ここは私はまだよくわからないのですが、定型の中にも定型アスペ間のずれでうけるダメージの大きさに個人差が結構ありそうな気がするからです。

 その個人差についてひとつ考えられるのは、「人と共感的な関係を作ることにどのくらい熱心か」というあたりの違いが関係するかもしれません。私は結構共感的な関係を深く、広く求めるタイプなので、ずれのダメージが大きいのだと思います。でも同じ定型でもそこは比較的あっさりの方もあるような気がするので、その場合はあまりダメージが大きくならなくて済むのだとか、そういう可能性はありそうな。

セリさん

 初めまして、よろしくお願いします。

 久しぶりにアクセス解析というのを見て見たのですが、最近は一時より減って、一日100人ちょっとくらいの方が訪れて、5~600ページくらいを読んでくださっているようです。コメントをくださる方はその中の数人ですが、くり返し訪れてくださるROMの方は数百人かもしれません。せりさんもそのうちのおひとりだったということですね。

> 情報提供は多いほうが理解は早く進んで当たり前

 そうですね。特に最近はわりあい議論するポイントが絞れてきている部分もあるような気がしますし、さらにそうなっていくのかもしれません。そうなると、私個人が応答するキャパを超える可能性もあるので、すこしやりかたを工夫する必要もあるかもしれません。まあ、基本的には掲示板を活用していただければいいのでしょうけれど。

> 「どこかを注意されただけでも、存在自体の全否定と受け止める傾向がある」

 ふたつのことを思いました。ああ、そういう受け止め方はやっぱり結構ありがちなことなんだなということと、もうひとつはセリさんの夫さんはそういう自分の傾向を冷静に把握されているんだなということです。

 ただ、把握していればそれでそこが根本的に変わるということではないのでしょうね。けれども自覚することでお互いにちょっとクッションができるかもしれません。そのあたりどうなのか。

 
サロマさん

 また新しいのが入っていましたので追加です。

> これは育った環境が大きいように感じます。
> ちょっとしたことで傷つき、全否定されると感じるのは、全否定された、それに近い状態の扱いを周りから受け続けてきたということもあると思います。

 うーん、やっぱりそうですか。私もなんとなくそういう部分も大きいかもということを思わなくもなかったんです。否定される厳しい環境に生きていると、どうしても余裕がなくなりますものね。

> アスペ皆がそうではないかもしれませんが、大人になってからの修正やトラウマを克服するのは至難の業で、幼少期からの療育や受け入れられ体験、家庭環境は重要だと感じます。

 同感です。ほんとにそうだと思います。
 

サロマさん

ご指摘、とても的確だと思います。
とくに「何を怒られてるのかわからない」という部分と、「感情的」が夫には大きなキーワードです。
言われていることが理解できなくて混乱しているのに、重ねて責められるという経験が非常に多かったようです。
それゆえか、「相手が感情的であるほど、すっと冷める自分がいる」と言っていました。

>幼少期からの療育や受け入れられ体験、家庭環境は重要だと感じます。

私も多いに同感です。
考え方の仕組みの違いで起こることが、「=悪い」という短絡的な解釈で決めつけられるのは悲しすぎます。


ぱんださん

>セリさんの夫さんはそういう自分の傾向を冷静に把握されているんだなということです。

そうですね。
興味本位でしつこく聞いたせいかな?(笑)
思い返せば、のような形で、数年かけて自分を客観視してそれを説明してくれるようになりました。
夫は、いわゆる典型的なアスペではなく、たとえば「サリーアン課題」なんかは、両方の視点で見れるそうです。
素ではアスペ的に捉えるけど、よく考えると定型的に理解できて、だから回答としては定型の答えになるのだとか。
だからこだわりレベルのものでない限り、時間があれば定型よりの反応をします。
咄嗟とか感情的な場面だとアスペ脳になりますね。
私なんかは非常に「面白いなー」と思ってしまうのですが^^;

Tinaさんの息子さんと彼氏さんのやり取り、すごく納得できました!
我が家のズレも、まさにこういう事だったのか、と。

夫が帰ってきて、「この部屋、汚い!」と言う。
私は『だから、さっさと掃除しろ!』と受け取る。
渋々掃除をする。
掃除をしたのに、(私がズボラなので、完璧にはできない)夫は「まだ、汚い!」と言う。
私が「一所懸命掃除したのに、何でそういうこと言うの!」とキレる。
夫が「何を急に怒り出すんだ!」とキレる。

夫は単に、部屋が汚いという事実を口にしたまでで、私に掃除しろとは要求していない。
しかし、私はそれを掃除の要求と受け取る。

こう解釈すると、殆どの喧嘩の理屈が分かるような気がします。

そして、部屋がきれいか汚いかという感じ方の度合いには、アスペとか定型に関係なく、潔癖症かズボラかの性格の違いが現れるのかもしれません。

サロマさんのお父様や夫のように、性格上、何かに強いこだわりを持っている人もいれば、割と感じない人もいて、感じたことを口にするだけの人がアスペ的で、その先に相手への要求まで推測してしまうのが、定型的なのかもしれません。

こんばんは、ガーディナーです。
サロマさんのおっしゃった「受け入れられ体験」で考えたことを綴ります。

私は小さい時、両親から間違いなく愛されていたと、今なら確信できます。でも残念ながら、その愛を実感することがどうしてもできませんでした。「愛」というものが、本当に分からなかったのです。
そのメカニズムを自分なりに考えてみました。

私は小さな頃、手を繋がれることや、抱っこされることが極端に嫌いな子どもでした。また、ちょっとしたことで大泣きをすることもよくありました。そんなとき、泣いている私をなだめるために、母は私を抱いたり背中をさすったりするのですが、当の私が体に触れられることが嫌いだったため、余計にひどく泣いたりして、結局母は泣いている私を放っておくしかなかったと言います。
ところが、体に触れられることは嫌いでも、放っておかれれば見捨てられたと感じるものです。そこが一番難しいところで、では、母はあの時どうすればよかったのでしょうか?

自分が親になって分かったことですが、子どもがよくわからない原因で大泣きをしている時、親の自分も動揺するものです。そんなとき、分からないながらに、抱き上げて背中をさすって「ヨシヨシ」などと言ってあげれば、そうすることで子どもも親も落ち着くことが出来ます。こんな風にして親と子が、共に動揺し、共に落ち着く、という体験を積むことで、親は子への愛しさが増しますし、子どもは受け入れられ体験を積むことになります。子どもが自閉症の場合、その経験が決定的に少なくなります。
子どもが抱っこを拒否することで、親は親としての自信を奪われたような気になるかも知れません。子どもが泣くたびに何もできない自分に対し、慢性的な苛立ちを抱えるようになるかもしれません。
特に知的障がいのない子どもの場合、口は達者で大人を容赦なく批判するようなことも平気で言うわけです。自閉症だという認識が無い場合、「どうしてこんなかわいげのない子どもなんだ」と親としても考えてしまうし、教師や姑などから小言を言われることも十分あり得ます。
当然のことですが、それは愛情が足りないとか、親の責任放棄とか、躾が悪いとかの問題ではなく、子どもが生まれ持った生理的な感覚の問題なのです。だからこそ自閉症の子どもの「受け入れられ体験」の難しさを、親としても当事者としても感じています。

セリさん

> 興味本位でしつこく聞いたせいかな?(笑)

 私の場合、真剣に聞き続けすぎて、逆に嫌がられてしまいました ('◇')ゞ

>素ではアスペ的に捉えるけど、よく考えると定型的に理解できて、だから回答としては定型の答えになるのだとか。だからこだわりレベルのものでない限り、時間があれば定型よりの反応をします。咄嗟とか感情的な場面だとアスペ脳になりますね。

 このあたりの整理の仕方は、とりあえずここで分かってきたことのまとめの一つ、という感じがします。


あすなろさん

> 「まだ、汚い!」

 この言葉なんか、少なくとも定型的に読めば「まだ」=「(あなたが掃除したけど)まだ」ということですから、当然「あなたの掃除の仕方が悪い」という非難の意味に思うし、それ以外の理解の仕方などなかなか思いつかないわけですけれど、もしかするとそれも夫さんからすると「あすなろさんが掃除をした」けれども「まだ汚れは残っている」という「事実」を述べただけで、そしてその「汚れ」に対しては不快感を持つからいらだった言い方になるけれども、そのいらだちは「汚れ」に対するもので、別にあすなろさんに何か文句を言っているわけではない、という感覚になるのでしょうか。もしそうだとすると、その定型アスペのずれの大きさはほんとに根深いんだなと感じます。


ガーディナーさん

>  だからこそ自閉症の子どもの「受け入れられ体験」の難しさを、親としても当事者としても感じています。

 受け入れられ体験が得られにくいのは、別に周囲の理解が悪いというだけではなくて、そもそも周囲が理解することがむつかしいからですものね。そして当事者のガーディナーさんから見ても受け入れがたさを感じられるのであれば、「受け入れる」ことの困難さの大きさが改めて感じられます。

>パンダさん

本当に霧が晴れるように理解できるような気がしますし、そういう視点で見ていると、夫の行動にあまり腹が立たなくなりました。
あくまで夫がそういう性格のアスペであると想定しているだけで、アスペの人が皆そうだと誤解させる意味で言っているわけではないことを前置きしておきますが。

夫とは今、居住スペースを別にしていますが、彼の使っている空間は、整然としていて乱れることがありません。
定型の潔癖症と違って、アスペ的潔癖症は、その状態を維持することが安定するということなのかもしれません。
夫の母親が潔癖症で(義母も独特の生活ルーティンを持っていた)夫は母親が母親なりのやり方で整えてきた環境で、安定して暮らしてきたんだと思います。
しかし、夫自身は、何もしてこなかったので、その安定した暮らしを維持する方法を知らなかった。
夫が一人暮らしをした時、結局生活が維持できずに実家に戻りました。
次に一人暮らしをした時には、私が片付けに行ったりしていたのですが、目に見える部分は整然としているのに、目に見えない部分はカビが生えたり大変な状態でした。
彼が幼少期から安定した生活を送ってきたのは、母親のこだわり行動ゆえ、で、その状態には慣れているけれど、日々母親がどうやってその状態を維持しているのかは、分からなかった。
結婚して、私の維持する家の状態が、あまりにも母親とかけ離れていたために、日々不安定になるが、自分で何から手を付けて良いのか分からなかったんだと思います。
私が文句を言うことで、反論や反発はするけど、このやり方ではいけないんだ、このやり方もあるんだ、と学んできたようなことが多々あります。
そこで、今、彼が自分のスペースを整然と保てるのは、私が行ってきたやり方を、かなり取り入れて維持できるようになった感じがします。

どうしても不安定で、苛立ちをぶつけずにはいられない性格だけど、彼なりに何とか今の家庭の状態で安定を保とうとしていたのかもしれません。

私の方は、ADHDゆえに、私のやり方では全く足りない部分が多いのですが、あまり同じやり方にこだわらずに、色んな方法を試してみる方なので、行き当たりばったりで家庭を維持してきたような感じです。
そういう危なっかしさが、安定を好む夫のアスペ的部分にはとても不安だったのかもしれないと思います。

あすなろさん

> 本当に霧が晴れるように理解できるような気がしますし、そういう視点で見ていると、夫の行動にあまり腹が立たなくなりました。

 なんかすごいですね。特にそういうふうな新しい見方ができるようになると、「あまり腹が立たなくなる」というところがとても大きなことかなと思います。それってたんに頭で作った理屈でごまかしているのではなくて、ほんとに納得できるものがそこにあるという事になるのでしょう。それもある程度「お互いに」両方の立場でそう感じられるところもあるみたいですし。

 もしそれがいろんな人や場面でも同じような形で力を持つのだとすれば、定型アスペ間のズレの調整にとって、大事な一歩になりますよね。

パンダさん
アスペ同士で思いやるズレに関しては定型間よりは少ないと思います。
しかし同じアスペの人が相手でも自分にない感覚は全くわからないことも多いです。これはアスペ同士でも私が感覚が違うことが理由もあれば、私が察する機能が弱いことが原因の場合もあります(むしろ定型の奥さんの方がアスペのご主人のことを推測できていると感じることの方が多いです)。
例えば狸穴猫さんの風邪のくだりに関してはアスペの感覚におどろきました。むしろうちでは定型型のやりとりが主流です。
狸穴猫さん宅の言い方で言われたらグサッときそうです。
ただアスペ語を理解できれば、定型間のズレよりは上手くい来やすいかもしれません。
ちなみに今の彼は感覚が近いのでズレはあまり感じません。アスペによると思います。

話は違いますが、他にもあすなろさんのアスペをお持ちであるご家族の感覚は理解できないことの方が多いです。あすなろさんの仰ることの方がピンと来ることが多いです。なぜご家族はあすなろさんに怒るのか?そこもピンと来ないです。
私もあすなろさんの立場であれば、あすなろさんのご家族と衝突していたかもしれません。
さらに私はあすなろさん以上に察する機能がないので、ご主人のことはいつまで経っても性格の悪い人とかモラハラ気質な人と思うと思います(申し訳ございません)。
例えば掃除のくだりで、汚いと言われたなら、汚い部屋との嫌味を言われた上に掃除しろと言われているように、私も受けとると思います。
おそらく父がそういった言い方をしていたので、少なくとも私の場合は育った環境も影響しているのかもしれません。

パンダさん
アスペ同士で思いやるズレに関しては定型間よりは少ないと思います。
しかし同じアスペの人が相手でも自分にない感覚は全くわからないことも多いです。これはアスペ同士でも私が感覚が違うことが理由もあれば、私が察する機能が弱いことが原因の場合もあります(むしろ定型の奥さんの方がアスペのご主人のことを推測できていると感じることの方が多いです)。
例えば狸穴猫さんの風邪のくだりに関してはアスペの感覚におどろきました。むしろうちでは定型型のやりとりが主流です。
狸穴猫さん宅の言い方で言われたらグサッときそうです。
ただアスペ語を理解できれば、定型間のズレよりは上手くい来やすいかもしれません。
ちなみに今の彼は感覚が近いのでズレはあまり感じません。アスペによると思います。

話は違いますが、他にもあすなろさんのアスペをお持ちであるご家族の感覚は理解できないことの方が多いです。あすなろさんの仰ることの方がピンと来ることが多いです。なぜご家族はあすなろさんに怒るのか?そこもピンと来ないです。
私もあすなろさんの立場であれば、あすなろさんのご家族と衝突していたかもしれません。
さらに私はあすなろさん以上に察する機能がないので、ご主人のことはいつまで経っても性格の悪い人とかモラハラ気質な人と思うと思います(申し訳ございません)。
例えば掃除のくだりで、汚いと言われたなら、汚い部屋との嫌味を言われた上に掃除しろと言われているように、私も受けとると思います。
おそらく父がそういった言い方をしていたので、少なくとも私の場合は育った環境も影響しているのかもしれません。

せりさんはじめまして。よろしくお願いします。

いきなり本題に移りますが。
>それゆえか、「相手が感情的であるほど、すっと冷める自分がいる」と言っていました。
私の場合はパニックになったり、おどおどしてしまう傾向にあるのですか、ご主人のように冷めている自分がいると感じるパターンもあるのですね。
どちらのパターンも昔の傷が癒えていないのだなとは感じます(ご主人にお話を伺わないと分からないので断定できませんが)。

>考え方の仕組みの違いで起こることが、「=悪い」という短絡的な解釈で決めつけられるのは悲しすぎます。
私がいうのもなんですが、当事者の対応をしている周りも大変なんだと想像します。同じ当事者として申し訳ないです。

配偶者や家族が正しいことを言ってくれている。
しかし昔の記憶が同時に蘇り(子供の頃に周囲から定型的な考えを強要されたと私の心の中では捉えてられている)、「私はもうあなたの言いなりにはならないわよ!」と防御反応が出てしまうこともあります。
冷静に考えたいけど、昔の記憶が妨害してきます。当時の記憶が延々とループします。
なかなか難しいことですが、昔の傷を癒すことが先決なのかなと思います。

>サロマさん

サロマさんのご意見は、娘の言っていることと似ています。
思春期なので、特に父親嫌いする時期なのでしょうが、それを差し引いても娘は父親を毛嫌いしています。

それは何となくという理由ではなく、父親が自分の権利を侵害し続けてきたからだそうです。
夫は娘を可愛がるあまり、何でもかんでも先回りしてやってやるということを繰り返してきました。
娘は、小学生の頃から自立心が強く、別のコメントにも書きましたが、大人を非常にシビアに観察してきました。
夫は、アスペ的傾向から、とにかく自分が出来ることを相手にぶつけ続けるということを繰り返してきたので、娘にとって苦痛だったようです。
ようやくそのモヤモヤが言語化できるようになって、父親が嫌いだ!父親のような人間は嫌いだ!とまで言うようになってしまいました。
いや、これは親子の一時の感情ではないなと私には思えます。

つまり、夫は特に周囲の様子が見えにくいアスペであって、さらに親が強引なしつけをしてきたために、その習い性でしか子供に接することが出来ない。
しかし、自分の領分を侵されることに抵抗を感じるアスペの娘には、最大の天敵になってしまったわけです。

ただ、夫が定型であったと考えると、彼が意図してこういう行為を繰り返しているとしたら、犯罪とも言えると思うのですが、アスペで自分自身がどう振る舞って良いか分からないから、そうなってしまうのだと考えると、彼自身の苦しみなんだなという見方ができます。

もちろん、やっていることが極端すぎて、家族にとって許されないことがとても多いのですが。

前コメを補足しますね。
アスペの人が、夫のようになる可能性がある、と言いたいのではなく、アスペ+最悪の生育歴が絡むと、ここまでこじれてしまう、という、特異例です。
おそらく、それで夫の話を出すと、アスペの方には不快に感じられるという誤解を生み出していたかもしれません。

最悪の生育歴とは、虐待もさることながら、夫の両親が高学歴で、世間的には非常に地位の高い職に就いていたため、世間からは一目置かれていたのです。両親を批判する人は誰もいませんでした。
しかし、家庭内では父親が毎晩飲み歩いていつ帰ってくるのか分からない、帰って来れば躾と称して激しい虐待をする。母親は全くマイペースで、自分のことしか考えていない、といった状態でした。
だから夫は、人に対して、徹底的に非難したり攻撃するか、ベタベタに持ち上げるか、どちらかという極端な接し方をします。
これまでは夫のそういう態度を不快にしか見ていなかったのですが、彼がアスペ的目線で、全く訳が分からないけど、世間的に許されている両親の行動が絶対なのだと信じて育ってきたとしたら、その意味もわかるなと感じられるようになりました。

虐待があっても、世間の常識という範囲で躾けられていたのなら、常識というものを知ることが出来ますが、夫の両親は、高学歴で、誰も異論を唱えなかったために、常識から外れる行為すら容認されていて、それを見て育った夫は、世間レベルの常識が分からないのだと感じています。

子供たちは、私が『庶民』だったために、色々ありつつも、世間レベルの常識だけは、身についているんだと思います。

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