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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2018年4月 2日 (月)

次の課題:折り合いのつけ方

 ここまでで、アスペの方がなぜ病気の時に必要最小限の世話以外は放っておいてほしいと感じることが多いか、自分の感動したものを大事な人に見せてあげるときに自分からは何も感想を言わないのはなぜか、自分の悩みを聞いてくれた人が「自分もつらくなった」と共感してくれた時に逆に自分のつらさが倍になると感じるのはなぜか、あるいは久しぶりに「アスペルガーと定型を共に生きる」の例で言えば、病気療養中の奥さんが家族に負担をかけていることなどをつらく思い「こんな私でもいたほうがいい?」と聞かれて「どっちでもいい」と答えるなど、定型的な感覚からするととても分かりにくいことについて、それらに共通する心の動きについて少しずつ理解を深めてきました。

 そして最近になって、そういう気持ちの動き方、あるいは人生観になる理由を、その生い立ちの特徴から理解する、という道筋が見えてきました。それによって、上のようなことは定型的な想像力がなんとか及ぶ範囲のことになり始め、さらにそういう理解はアスペの方からしても納得いくものというコメントをいくつかいただいています。

 そういうひとつの足場が見えてきたところで、次の課題、つまり違う感覚を持つ人どうしの調整の仕方、折り合いのつけ方をどうするか、という問題に進むために、またいろんなことについて考えてみる必要がありそうです。

 前の記事でも書いたように、アスペの方の「自分のことは自分で」といった、ある意味非常に自立した、また同時に他者とのかかわりを拒否するようにも見える人生観が作られる道筋は、定型でもある程度想像可能です。ただ、もっと具体的なところに戻って考えたとき、「お互いに意図が伝わりにくいからそうなる」ということまではわかっても、「なぜそこが伝わりにくいか」という問題はまた別で、そこはとてもむつかしい。

 つまり、「感じ方や理解の仕方が違って、わけのわからない状況に苦しめられるから、人に頼らなくなる」ということは一般的には想像できても、「なぜどのように感じ方や理解の仕方が異なるのか」という具体的なことはそれだけではわかりません。

 そのレベルの違いになると、これは例えば赤緑色盲の方の見え方の違いを想像力で理解するのはむつかしく、網膜の生理学的な仕組みから「客観的」に理解することが必要になるように、脳の神経の仕組みなどでそういう違いが生まれる理由を理解するよりなくなるかもしれません。赤緑色盲の人は緑と青、緑と赤の区別がむつかしい、ということは、話としては理解できても、特別な装置でも使わない限りはその見え方を実感として追体験し、想像することはできない、というようなものです。

 もちろんアスペの方は人間関係の理解などの中で定型が見えるもの、区別できるものがそうできない、という言い方だけではちゃんとした理解にはなりません。「感覚過敏」と名付けられているようなことがありますが、それはその「過敏」を持つ方は定型が区別しないような、あるいは気づけないような小さな違いを非常にはっきりと感じ取ることができる、というふうに見ることもできます。

 いずれにせよ、お互いに見え方にずれがあるわけで、そしてそのようなずれの部分はたぶん想像力だけでは及ばない面があると想像されます。

 もしかすると、赤緑色盲の世界を理解するには、特殊なメガネを使えばたぶんその見え方を体験できるように、あるいは聴覚過敏と言われる世界を理解するには、一定の範囲の音を拡大して聞かせるヘッドフォンなどを使えばその世界を体験できるように、何かの工夫である程度まではお互いの世界を追体験できる可能性はありますが、それも限界があるでしょう。

 「違う」ことはわかっても、どうしてもその違い方が自分には実感できないような場合、しかも「自分にとっては心地よいことが相手には心地悪い」(またはその逆)ということがそこで起こる場合、どうやってお互いの折り合いをつけられるかはまた別の問題です。

 どちらかに合わせるという方法をとると、合わせている側はだんだんつらくなっていきます。ずれ方がいずれ慣れて気にならなくなるレベルならいいですが、必ずしもその範囲に収まるとも言えません。どうしても無理が積み重なってくるかもしれない。そうすると長続きしません。

 お互いに少しずつ譲り合う、という形の方が対等な関係でいいのかもしれませんが、それができるためにも何がどう違っているのかをうまく理解できることが前提になるでしょう。でも、なかなか相手の感覚が想像しずらいので、そこもいろいろむつかしい問題がありそうです。

 またおいおい具体的な問題からそのあたりを探っていくことになりそうです。

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コメント

一つ一つ学んでいくしか 今のところ 方法が見つかっていません。この場合はこういう解釈をすると学んでも、アスペの場合(私の場合)、それが ほかの場合 状況に応用が出来るわけではないので そこが 定型にとっては 大変な作業になるのかなとも思います。

Tinaさん

 ほんとにひとつひとつですね。その積み上げの中からポイントが見えてくるといいのですが……

 いずれにせよばっちり理解するなど無理で、ずれはずっと続くと思うので、どっかで「いい加減さ」も身に着けて行かないといけないのかなとも思ったりします。ひとつひとつに細かくこだわりすぎると疲れちゃうでしょうし (笑)

 うーん、でもアスペの方は大雑把も嫌いかもしれないし。なんかむつかしい ('◇')ゞ

夫婦の場合、一つ一つ学ぶのは お互い様なので、どちらも大変ですよね。どちらの言動行動も 相手にとっては 愛情がないように思えたり、残酷に見えたりするのですが、、悪気があるわけではないということを お互いが まず信じることが 第一歩なのかなと思います。 そう思えたことで、嫌な思いや、憤りをあまり感じなくなりました。「これも 愛情あってのことなんだ」と いつも 自分に言い聞かせています(笑)

Tinaさん

 ☆ 悪気があるわけではないということを お互いが まず信じること
 ☆ 「これも 愛情あってのことなんだ」と いつも 自分に言い聞かせ

 これ、なんか身に沁みますね。「愛情って何?」ということでもありますね。

パンダさんの仰るようにこれまでの境遇から一人で解決するようになった人がほとんどかもしれませんが、中には本当に一人が好きで、自分の住みなれた家でならむしろ孤独死も大歓迎という当事者もいます。
彼の家庭環境が悪かったとか、それまでの境遇で一人の生活をするようになったのではなく、もともと一人が好きだから孤独を満喫しているようです。
彼の家族含めて誰も彼の感覚を理解できずにいますが。

サロマさん

 古いですが、ビートルズの The fool on the hill という歌を思い出しました。

 そういう方は結婚して家族を持とうともされないのでしょうか。もしそうならそれはそれで完結した生き方で、ある意味それで幸せなのでしょう。周りがとやかく言うべきものでもなさそうですね。

 ということは、ここで考えようとしている定型アスペ問題はアスペ側も人を求めている場合、という事になるのかもしません。

そうですね。その人は結婚して家族を持つことへの願望すらありません。友達も望んで作っていません。
それどころか人と関わったり、一般社会で働くことを嫌っています。
しかし生きていくためには働かざるを得ず、仕事も客商売で人と関わっていますが、類は友を呼ぶのでしょうか。お客さんも彼と似たようなタイプの人も多いようです。
人から嫌われても「変わり者としての証だからむしろ誇りだ。むしろ普通人として好かれることは望まない」と言っています。彼の名誉のために言っておきますが、彼の人格には問題はないです。感覚が違いすぎてアスペ当事者でも戸惑う人がいるというだけです。
しかし彼のようなタイプであれば、アスペでも開き直れて、幸せを感じられるのかもしれませんね。

>ここで考えようとしている定型アスペ問題はアスペ側も人を求めている場合、という事になるのかもしません。
少なくとも彼は興味ないと言っていました。
変わり者として生きていけば良いじゃないかとのスタンスでしたね^^;

さろまさん

 なるほど。それを伺って改めて気づきました。

 問題は「アスペ」であることではない。
 アスペ的に人を求めるとき、定型的な求め方とズレがあり、そこでお互いに苦しむ。
 それが問題なのだと。

 その方が人を求めないのであれば(そして周囲もそのことで困っていなければ)、
 そこには「定型アスペ問題」は無いのだという事になります。

 この区別、結構大事なことのように思いました。

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