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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2018年4月14日 (土)

希望を子どもにつなげられるか

 今朝起きてからふと思ったことです。

 このブログや掲示板などで、発達障がい者は子どもを作るべきでない、という非常に悲しい主張が繰り返し出てきて問題になりました。

 最近ニュースでも問題になっていますが、日本でもかつては優生保護法で断種手術が障害者に対して行われていたわけですね。またヒットラーは今生きている精神障がい者をガス室で殺すということを、ユダヤ人虐殺の前からやっていました。

 それは少なくとも今の「常識」から言うとあってはならないことです。どんな命であっても、他人がそれを奪ってはいけないというのが現代にひろくいきわたった考え方で、例外は戦争と死刑ですが、戦争は侵略はもちろん、普通の戦争も「非合法だ」という考え方もだんだんひろまってきていますし(もちろんその揺れ戻しのような反動の動きも今たくさん起こっていますが大きな流れとして)、死刑は今ではその制度がある国が少なくなってきています。

 でもいくら「いけない」と言っても、繰り返しそういう発想はいろんな人から出て来ます。特に「まだこの世に生まれてきていない命」についてはそこがシビアに問題になります。医療技術が進んで出生前にある種の障がいの有無を診断できるようになると、その結果によって堕胎をする夫婦もたくさん出て来ています。その選択の根っこには同じような葛藤があるでしょう。

 ではその葛藤とは何か。いろんな理由があると思いますが、たぶん一番大きいのは「生まれてきても幸せになれない」という感覚ではないでしょうか。

 親は「自分が受けてきた苦労は子どもに味合わせたくない」と考えるのが普通です。だから、たとえばご自分が発達障がいで苦しんでこられていれば、子どもには同じ思いをできるだけさせないように工夫しようとされる方が多い。

 でも、「どうやったってその苦しみはなくなりはしない」という思いがつよまり、ほとんど絶望的になったらどうでしょうか。ある意味自分だって今生きているからしかたなく生きているだけだという感じだとすれば、自分にとって大事な子どもにそういう思いをさせたくないという気持ちになるのはよくわかります。そういう状態になることは決して避けられないと思えば、そんな気持ちを子どもに味合わせないように、「最初から生まれないほうが良い」という発想になっても当然でしょう。

 そこで気が付いたのですが、問題の本体は大人自身が希望を持てないことにあるのですね。苦労のない人生はありえませんが、でもどこかでそれが報われると感じるのと、絶望的な思いになるのでは雲泥の差があります。報われると実感できれば、その自分の命を子どもにつないでいくという気持ちにもなれます。

 つまり、「子どもを作るべきではない」という考え方の是非を議論しても、それはたぶん問題の本体とは関係ないことなのです。そうではなくて、一番大事なことは今生きている私たちが自分の生に報われ感や希望を持てるかどうかなのだという事です。

 たとえ今大変でも、この先になにか新しい可能性が感じられれば希望は失われません。今のしんどさを乗り切る道を積極的に探せているという感覚があれば、絶望にはなりません。問題の本当の解決は、ですから実はこどもがどうのこうのではなく、今の私たちがどういう生き方ができているか、今後に希望を持てるような模索ができているのかにかかっているのだと思います。


 

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コメント

話が逸れるかもしれませんが。

ナチスがユダヤ人を迫害して、大量虐殺をしたことは有名ですが、ナチス政権が崩壊した後、ドイツ周辺諸国では、ナチスとは関係のないドイツ人を迫害して、強制収容所に送り、同じ目に遭わせたそうです。
今、アメリカでは、ユダヤ人というのは、ヘイトの対象になっているそうです。トランプ大統領は、ユダヤ人なので、逆にユダヤ人の地位を向上させようと躍起になっている。

つまり、人種や出身、性格や性質の違いを理屈に、人を差別することは、いかに虚しいことががよく分かります。

問題なのは、何かの理屈で生きにくいと感じさせる閉鎖的な世の中なのかもしれません。
そして、誰かが生きにくいと感じているのなら、自覚のない人も含めて、多くの人にとって生きにくい世の中なのだと思います。

長い間このブログでは、発達障害の親が子供を持つべきか?と言う問題の立て方をしてきましたが、つい最近あすなろさんが、定型の親だって適切な子育てができていない、というような発言をされていました。
私も子供時代は定型の親にどうしても理解されない孤独感をさんざん味わってきました。世間の人達は、私の父母を高く評価していましたから、例えば私がよその人に両親との不仲を訴えたとしても、「あんなに優しいお父さんやお母さんに叱られるなんて、ガーディナーちゃんよっぽど悪いことしたんだね」と言われるので、私の孤独感は増していきました。
孤児願望もあり、崩壊家庭の子どもに対するあこがれも強かったのを覚えています。「孤児院(当時は児童養護施設のことをこう呼んでいました)で生活したいわ」という様な事はよく考えていました。定型の親が必ずしも良い教育ができるというわけでもないということは、小さい時から身に染みて感じています。

現在私は、学習不振の子どもさん達の学習支援もしていますが、そういうお子さんの場合、親が高学歴で高収入なほど、痛々しい状況に置かれているような印象を持ちます。こういった親は、自分の子どもの学業成績が伸びないのは、子どもの努力不足や生活態度が原因だと考えて、かつて自分が子供時代にできたことが、我が子にはできないということが、どうしても納得できません。子どもの現在の発達段階を考えずに、学校の進度に無理やり我が子をはめ込もうとするのです。

中には脳下垂体の病気のために成長ホルモンが不足して、毎晩ホルモン注射を打っているという状態の子どもに、夜中までテスト勉強を強要するお母さんもいます。言うまでもなく、成長ホルモンは、夜ぐっすりと眠ることにより分泌されるわけで、この病気の子どもに夜更かしは禁物なのです。
また、「子どもが『僕、どんな大人になれるのかなあ?』って聞いてきたんで『さあねえ、今のままだとコンビニの店員ぐらいにしかなれないんじゃない?』って言ってやりましたわ」などと、悪びれもせずに笑って言うお母さんもいます。
成長がゆっくりで、小学校の高学年になっても活舌が悪い子どもに、しっかり者の妹と比較しては「喋り方がおかしい」と笑いものにするお母さんもいます。ほんの軽い冗談のつもりでしょうが、そうやって妹の前で母親からからかわれることが、どれほど少年のプライドを傷つけているのかが分からないのでしょう。

今例に挙げたお母さんたちは、決して特別な人ではありません。ごくごく普通に見られる、教育熱心なお母さんたちです。そして(主観的には)心の底から子どもを愛しています。
子どもの学業成績が悪いということは、その分配慮や支援が必要であるという考えには結びつかずに、少しでも我が子を「普通の子」と一緒の学力水準まで引き上げたい、とその思いからくる言動には、何か脅迫的なものを感じます。
こんなお母さんたちの姿を見ていると、とても希望を子どもに繋げいるとは思えません。自信を完全に奪われた子どもたちが大人になった時のことを考えると、背筋にゾッと冷たいものが走るのを感じます。「普通」でなくては生きていけない、という抑圧された考えから抜け出せないでいるという意味では、アスペ定型関係なく、私たち大人が何に価値を置き、どう生きているのかという問題に向き合わなくてはならないと思いました。

発達障害者はではなく、発達障害者や精神障害者「によっては」ということを言われてるんだと思いますよ。
優生保護法からではなく、現実に適性のない親も存在しますからそこを繰り返し言っても、ナチスのしそうと同じだと言われてしまうのは悲しいところです。

そういう私も色々言われてきました。
相模原の事件が起きた時に「おまえも一緒に犯人に殺されれば良かったのにな」とか。
近所の人から言われたのですが、役に立っている障害者は生きる権利はあるけど、私は仕事も出来ないから害でしかない障害者だというのが理由のようです。
「障害者を何で助ける必要があるんだ、障害者は自然淘汰されるべきだ」とか。
子供を産むことはもちろん、障害者は生きるべきではないということだと思います。
口には出さないだけで心の中ではそう感じている人は少なくないです。私の周りだけかは分かりませんが。

母体の中にいる子供に障害があることが分かった場合は子供が可哀想というより、親が受け入れられない、育てられないということなんだと思います。
ガーディナーさんが仰るように普通を望む親が多いからなんだと思いますが、悲しい話、まともな子供を望む本能はなかなか変えられないと思います。

この世の中の偏見も問題であることはもちろんありますが、財政が厳しい日本で(特に自力で生活する程の稼ぎを持てない)障害者の生活や支援を保証することは絶望的ですし、その中で特に障害者が遺伝性のリスクのある子供を作るのは厳しいかと思います。
経済的に潤いがあってこその福祉ですから。

あすなろさん

 これも本筋ではないですが、トランプ大統領自身はユダヤ教徒ではないようですね。
 https://toyokeizai.net/articles/-/173824
 娘の方はユダヤ教徒と結婚して改修したらしいので、そういう話が流れているのでしょうか。

> つまり、人種や出身、性格や性質の違いを理屈に、人を差別することは、いかに虚しいことががよく分かります。

 人間というのは多かれ少なかれ「群れ」て生きる動物ですよね。定型はそれが特に著しく、アスペは比較的そこが薄い、というヴァリエーションはありますが、それでもアスペの方も「家族」を大事にするという方が多かったり。

 この「群れ」て生きようとする部分が、「対立」や「支配」ということに結びつくと差別が生まれてくる。人は相手より優位に立つことで安心しようとする傾向がけっこうありますから、自分の群れを相手より優れていると考えることで、自分を安心させたり、えらいと勘違いしたりする、そういう傾向が私も含めて誰にもあるんだと思います。

 そんなふうに群れないと生きられないというかなり人間の本質みたいなものに根差した問題なので、その虚しさが繰り返し明らかになったとしても、でも繰り返しいろんな形で現れるのだろうという気がします。むつかしい問題だと感じます。

ガーディナーさん

> 定型の親が必ずしも良い教育ができるというわけでもない

 その通りだと思います。最近思いますが、定型とかアスペとかいう大雑把なくくりをしますけれど、それはそれぞれいろんな特徴を持って生きている人たちのある一部のポイントについて、とても目立つ特徴的なずれ方がある、ということだけのことで、その他の点についてはどちらもほんとに多様なんだと思うんですね。

 当然定型同士、あるいは定型アスペの親子の組み合わせの、どのパターンでもいろんな問題が起こる。その中の定型アスペ間の親子の場合(親がどちらであっても)、定型アスペに特徴的なずれがすごく大きな影響を持つ事が多くある、ということなのかなと。

> こんなお母さんたちの姿を見ていると、とても希望を子どもに繋げいるとは思えません。

 たぶんお母さんの方は希望を持っていて、それが繋がるとほとんど意識することもなくあたりまえのように思っているんだと思います。希望はそれが脅かされたとき、あるいは失われたときに強く意識されるものですから。

 それで、そのお母さんは自分が当たり前のように持っている「希望」を、単に子どもに押し付けているだけなのでしょう。そうなると、その希望は子どもにとっての希望ではなくて、親のエゴになると思います。自分(親)と相手(子)のずれに気づかないと、そんなふうに勝手に親が自分の理屈だけで子どもを「支配する」ということが起こりやすいですね。


さろま(サロマ)さん

> 発達障害者はではなく、発達障害者や精神障害者「によっては」ということを言われてるんだと思いますよ。

 ああ、それはそうでしょうね。特に当事者の方がそれを言われるときはそうかもしれません。

> 優生保護法からではなく、現実に適性のない親も存在しますからそこを繰り返し言っても、ナチスのしそうと同じだと言われてしまうのは悲しいところです。

 ここはちょっと舌足らずの書き方でした。すみません。

 出生前診断や死刑やナチスの思想と繋がる部分は「ある価値観から見て否定的にみられる人の命を許さない」という発想があることで、その価値観の具体的な中身は多様ですけれど、いずれにせよ「殺す」ということを肯定する発想があります。

 ただ、ここで何人かの方から繰り返し主張されてきたことはナチスの話とは二つ大きな違いがあります。それはナチスの精神障がい者抹殺は、「現に生きている人を対象にした」ということと、もうひとつは「当事者以外の人間がそれを行った」ということです。

 現に生きている人に対する話かどうかの違いは大きいですよね。それは「殺人」なわけで、「予防」とは全く違う。

 もちろんこの「予防」も許されないという考え方もあって、厳格なカソリックなどは避妊も許されないという話を聞いたことがあります。カソリック(?キリスト教?)では自殺が厳しく禁じられていて、その禁を侵すと教会内に遺体を埋葬することもできなくなる、ということがある(あった?)らしいですが、その理屈は同じで、「生命の運命は全て神が定められたことで、人がその意思でかかわってはならない」という強い倫理観がそこにあるらしいです。

 私はそういう感覚までを持ったことは有りませんが、そこまでいかなくても、現にある命を殺す場合と、ある特定の命を生み出さないように予防する、ということの間には大きな違いを感じる、というのは多くの人が共有する感覚かなと思います。その点で、子どもを産まないという判断は後者なので、ナチの精神障がい者、抹殺とは大きく異なります。

 当事者がそれを言うのか、「他人」がそれを言うのかもものすごく大きな違いです。「他人」(たとえば定型)がそれを言ったら、それはもう差別そものもだと思うので、仮にそういう書き込みがあったとすれば、私は管理人の立場でガイドラインにそった対処をします。けれども当事者が自分の苦しみの中でそれを語るときには、それは別の問題のように思えるのです。

 これももちろん突き詰めていくと「子どもといっても他人じゃないか」という理屈も成り立たないわけではないのですが、まあでも「たんに生まれる前の、可能性としてある他人」なので、上の「現に生きている人かどうか」の話にも絡んで、そこまでのことは私は思いません。

 それよりも、私にとっては当事者(アスペの一部の方)が、そこまで思い詰めて考えざるを得ない「状況」の悲劇、ということに思いが向くのでした。それが今回の記事の趣旨になります。

> 口には出さないだけで心の中ではそう感じている人は少なくないです。

 たしかにそういう人はいますね。だからこそ、いろんな差別や他人を抹殺しようとするような主張が繰り返しいろんなところで出てくるし、またそれに共感する人たちも少なからずいるのだと思います。

 あすなろさんへの応答でも書きましたが、それはかなりの部分「群れて生きる」人間のサガに根差して生み出されているところもあると思うので、「良い群れ方」を見つけて実現していかない限り、その問題は繰り返し出現して、そして時に暴走し始めるのだと思います。

> 母体の中にいる子供に障害があることが分かった場合は子供が可哀想というより、親が受け入れられない、育てられないということなんだと思います。ガーディナーさんが仰るように普通を望む親が多いからなんだと思いますが、悲しい話、まともな子供を望む本能はなかなか変えられないと思います。

 そういう場合もあると思います。何かの意味でその子を受け入れられない親の価値観がある。「普通」とか「五体満足」を願うこと自体はある意味で動物としての人間の自然の傾向だと思うので、私は頭から否定できないのですが、五体満足(普通)の基準自体はいろいろありうるので、その点で考えるべきことも多いような気がしています。

> 財政が厳しい日本で(特に自力で生活する程の稼ぎを持てない)障害者の生活や支援を保証することは絶望的ですし、その中で特に障害者が遺伝性のリスクのある子供を作るのは厳しいかと思います。経済的に潤いがあってこその福祉ですから。

 ここは私は意見が違います。福祉は人間の本能の一部なんですね。しかも人間にだけ特異なものではなく、サルでも身体に障害を持つ子どもに特別に親が手をかけるという事をやったりするみたいです。もちろん自然の厳しい状況の中ではそれで生き延びられない可能性が高くなるわけですけれども、そういう「普通」の基準を「満たせない」場合は周囲がそれを補おうとするのは、動物の進化の流れで見てもそれ自体とても自然な展開で、その延長上に人間の社会が成り立っています。

 ですから、先史時代の人たちも、身体障がい者をケアし続けた例が確認されていますし、今でいえば精神障がい者に該当する人を、預言者などの特別な地位を与えてむしろ尊重するような、そんなケースもあります。

 さらに言えば、年老いて「障がい」状態になった親をケアする、というのは、人間以外の動物には聞いたことがありません。ドライに考えれば、社会のお荷物なのだから、抹殺すべきだ、という主張もありうるのですが、まずそういう議論は出たとしても即座に否定されるでしょう。でもそれは他の動物を基準に考えれば、実際ある意味異常なことなわけです。その異常なことを守らないと成り立たないのが人間の社会なんですね。そうでなければ社会が崩れてしまうからです。

 いずれも現在の日本の財政状況がどうのこうのということが問題になるようなレベルとは桁がいくつもちがう経済状況でそうなるわけです。

 福祉は経済的に余裕があれば手厚くすることに社会的な同意も得られやすい、ということは事実ですが、福祉自体は人間のサガなので、経済状況とは関係ありません。それが私の理解の仕方になります。

>パンダさん

ご指摘ありがとうございます。
ニューヨークに住んでいた知人から、トランプ氏はユダヤ人(ユダヤ派?)として有名で、ニューヨーカーには良い印象を持たれていないという話を聞いていたので、勘違いしていました。ただ、アメリカ国内では、日本でいう極右に近い印象があるのかもしれませんね。

海外の価値観は、背景や歴史が全く違うので、正しく理解は出来ませんが、実体のないもので差別する意識は、太古から人間に備わっているのかもしれません。

しかし、人間は進化とともに、そういう本能を理性でカバーできるようになってきたんじゃないかと思います。

保守が悪いわけではありませんが、元来持っている群れることで安心する意識に甘んじて、自分の集団に強い帰属意識を持つことは、そういう人間の進化を阻害するものではないかと、思います。

サロマさんに対して書かれた、パンダさんのコメントにも、少し疑問があります。
人間には元来福祉の精神が宿っているとしても、その漠然とした『人の役に立ちたい』という意識を、自己分析せずに相手にぶつけた時、それは単なる強引な価値観の押し付けになることは、とても多いです。毒親などが、その最たる例です。
本当の意味で相手の役に立つ福祉というのは、強力な理性で統制されるべきものではないかと、福祉の世界にいると、強く感じます。
各人の良識から、自然と経済が生み出されるという漠然とした期待では決して改良されませんし、今現在、本来福祉に割くべき予算が別のことに流れていってしまっている現実があります。
福祉とは、人間の『良識』から自然と進展することを期待するものではなくて、しっかりとした根拠に基づいて、時に自分の良識とは違うことになったとしても意識的に価値観を変えていかないと、絶対に進歩しないものだと痛感しています。

良心に委ねていたら間違いをおかしやすいことは、アスペ定型間で『良かれ』の意味が逆になることからも、よく分かると思います。

あすなろさん

 理性的に考える必要について、特に異論はなのですが、
 そこで問題になるのは、「なぜ理性的に考える必要を感じるのか?」ですよね?
 理性ということばをどういう意味で使うかにもよりますけれど、
 自分の思いで相手に親切にするのは、結果として相手を苦しめることもある
 という話なのだと思いますし、そこで問題になっているのは
 「相手を苦しめる」からということでしょう。

 ではそこで何が問題になるかというと、「なんで相手を苦しめてはいけないのか」
 ということです。

 ドライに考えれば、相手を苦しめたって、自分が得をすればいい
 という「理性的」な「計算」だって可能です。
 人は自分のために利用すればいい、いらなくなれば、都合が悪くなれば
 捨てればいい、という発想が目立つ人たちもいます。

 でも、「それじゃいけないよ」と思う人もいるわけです。
 そんなのおかしい、と怒る人たちもいます。

 じゃ、なんでそういう感情を持つのか、ということが重要だと思うんですね。
 そこには「自分の利益だけでかんがえちゃいけないんだ」とか
 「相手のことを考えなければいけないんだ」とかいう感覚があることになります。
 でもなんでそういうものが?

 ということを考えてくと、やっぱりそいう気持ちを持てなければ
 助け合って生きる社会ができないから、としか考えられないわけです。
 それがあるから、人間はほかの動物では考えられないようなことをする。
 この間、動物保護のことを頑張ってやっている人たちのことを
 テレビでやっていましたけれど、
 人間って、そういう不思議なことをする動物なんですよね。
 別に直接それで利益があるわけでも何でもないのに、
 「動物のため」にそれを保護する。
 犬が猫の子を育てたりとか、ほかの動物でも少しはありますけど、
 まあ人間ほどはてっていしていません。

 もちろん、いらぬおせっかいということも十分にあり得ます。
 でも問題は相手に対して援助の気持ちを持つことにあるのではなくて、
 それが「意に反して」違う結果になることにあります。

 だから問題を分けて考えるべきだと私は思います。
 悪いのは援助の気持ちではなく、それがずれることなんだと。
 そのずれがよくないと感じる心自体、援助の気持ちから生まれるわけです。
 援助の気持ちを否定して「理性」だけを強調したら
 根っこを失ってしまいます。

 あすなろさんは、これまでの生い立ちから、お母さんの「善意」の
 独善性に傷つき続け、その支配から逃れるために、
 その「正しさ」を否定することが大事だったので、
 そこを強調されてるのだと私は思っていて、
 それはその文脈の中ではまっとうな、そして必要な主張だと思います。

 でもそれは逆に言えばその文脈を超えた一般性は持たず、
 すべての人に当てはまるとは思えません。
 そこだけを強調しすぎると、もともとの出発点、足場自体が崩れ、
 あすなろさんの望まない結果に結びつく場合もあると思います。
 そういう両面を見ながら考える必要のある問題ではないでしょうか。
 

>ここはちょっと舌足らずの書き方でした。すみません。
こちらこそ勘違い失礼しました。

>いずれにせよ「殺す」ということを肯定する発想があります。
胎児に障害があると分かって中絶することを激しく正当化する意見には当事者としては嫌悪感を持つこともあります。
しかし障害児によっては育てるのが大変なのも事実で、(日本の福祉に問題があったり、偏見が強いことが問題なのはいうまでもないですが)今の福祉では経済的にも物理的にも親に負担がのし掛かるのも事実で、障害児への虐待や施設に預ける(殺すくらいなら施設に預けることを正当化する人が多いことには疑問があります)くらいなら、中絶の選択をする人達を責められないなと思います。
さすがにナチスの優勢保護法は行きすぎだと思う人も多いとは思いますが、お腹の中の子供に障害があるとすれば別問題なのだと思います。

>福祉は人間の本能の一部なんですね。
おっしゃるようにそういった側面があることも否定はしません。助け合いの精神が福祉や社会を発展させてきたこともあるでしょうし、人間だからこそできるものでもあるのかもしれません。
しかし現状を見れば、生活保護の引き下げ、介護制度の改悪、どうでもいいことには税金を湯水のごとくに使うのに、福祉は切り捨てられています。
国民もその政策を支持している人も多いということではないでしょうか?
生活保護を受けて生活している人や障害者が生きていることに嫌悪感を持っている人も多く(もしくは無関心)、さらには今の世の中では自分達も辛いのに、障害者の生活、生活保護や障害年金を受けられる人が優遇されることは許せないと思う人も多いです。
日本の福祉はお先真っ暗で、国民が福祉を大事にしているとは思えません。

漠然とした『思想』のような話なので、あまり引っ張るのは、良くないと思うので、さらっと。(^^;

善意の押し付けというのは、まさにここで起きた定型対アスペの『思い』の行き違いだと思いますよ。

私が理性で見なくてはいけないと思い至ったのは、ここでアスペの人のご意見を伺ったからです。
そういう目で見てみると、福祉の世界はまさにそのズレが起こす悲劇で溢れているなと感じました。
実際にそういう福祉問題を本に著している方もいます。

身近な一例を挙げますと。

職場の研修で、画期的な福祉事業を立ち上げた方の話を聞きました。その方は、どうしても障害のある方を救ってあげたいと思い、さまざまなシステムを導入して、障害のある方が過ごしやすい場を提供できるようにしました。
話を聞いていて、すごいなぁと感じていたのですが。

後日、娘の友人が、その施設に実習に行ったそうです。彼は知的障がいのあるアスペで、本当に素直な受動型です。
彼はその場では素直に従っていたそうですが、後日母親に、あそこは嫌だ、と漏らしたそうです。

障害のある人をサポートしようという思いが強すぎて、彼の自発性を無視されたことが不快だったそうです。

どちらの思いも正しいのですが、定型者の『こうしてあげたい』という思いが強すぎると、当事者との対話が疎かになります。
当事者との対話は、理性の部分で進めていくものではないかと思うのです。

 私の基本的な発想では、「今」の状態とそれが生まれる「流れ」を両方見ようとします。

 今が悲惨な状態であったとして、あるいは悲惨になろうとする状態であったとして、それはそういう流れの一つの状態なので、かならずそのあとの動きが出てくると思っています。

 世の中常に揺れ動きながら進むわけで、これは永遠にそうであるはずです。

 もうひとつ大事だと思っていることは、今が悲惨であるとして、それを乗り切る(あるいはその悲惨さをできるだけ小さく乗り切る)足場は何かを探すことです。それは口先で唱える理想でもないし、頭でこねくりまわす理屈でもなく、人がこれまでたくさんの悲劇を乗り越えて生きてきた、その姿の中に必ずあるはずだと思っています。

 定型アスペ問題でも、この問題の当事者(定型もアスペも)が経験してきた悲惨なできごとと、その中でもがいてきた私たちの姿の中に、それを超えていく足場が必ずあります。ここでずっと考え続けてきたのもその苦しみから学び、それを乗り越える足場です。

 福祉もそういうものだと思います。福祉なしには、人間は人間として生きてこれなかったんです。ただそれがその時その時の状況で比較的うまくいくか、冬の時代になるかの違いはありますが、そういう波をへて、それでもたとえば50年前と比べれば、大変に前進しています。500年前と比べればまるで別世界です。5000年前と比べれば……。

 人間は誰もそれほど賢くもないし完璧でもあり得なのですが、揺れ動きながらちょっとずつは前に進んでいる。その前に進む力を見つけ出すことが大事なのだと私は考えています。

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