「表情」と「表現」と思いやり
昨日と同じ話なのだと思いますが、思いやりってなんだろう、と思います。
定型アスペ関係では、自分が思いやりと思ったことが相手にはそう感じられない。逆の意味にとられることもある。
でも相手にとって思いやりと感じられることをこちらがしようとすると、それは相手を思いやらない時のやり方になってしまうので、それを「思いやりの気持ち」ですることができない。
そうすると、「相手は思いやりと理解しないけれど、自分が思いやりと思うやり方をすることが思いやりになる」のか、「自分は思いやりとは思えないけど、相手が思いやりと理解することをすることが思いやりになる」のか……。
アスペの方が日常でつらい思いをされることが多いのも、たぶんその問題なのかなと想像します。「このやりかたはおかしい」と感じながら、でもみんなそうしているし、そうしなければならないと言われるから、仕方なしにやる。でもそれは自分にとってはとてもつらいことになる。
仕事の場合はそれでも「お金をもらうのだから、嫌なことでもしなければならない」という形でなんとか自分をごまかすことができるかもしれません。でもそういう思いで無理を続けてくたくたになって、家に帰ってきてそれを相方の人に続ける気持ちにはなれない。
もし家でもそれをやってしまったら、それは家ではなくて、職場になってしまうのですから。それでは自分が自分でいられる場所がなくなってしまいます。
同じことについて定型の側はたぶんこうなります。定型は職場で求められることについて、たとえあまり気が向かないことでも、なぜそれが求められるかはわかる。だからいやでも従ってやることがある。で、その嫌だけれどしかたなくやる分は「お金をもらっているのだから」で自分を納得させます。
ただその自分の感覚と職場で求められることのギャップはアスペの方より格段に小さいので、一日の仕事を終えても「息も絶え絶え」という状況にまではならない。そうではなくて、「我慢していた分、発散して元気を取り戻そう」ということになる。遊びに行ったり飲みに行ったり、そういうことをする。
この、気の合う人と飲みに行ってうっ憤を晴らしたりして元気になる、というのがとても定型的だという事になります。アスペの方にとってはそれは逆にさらに人に気を遣って疲れる場でしかないことが多い。
つまり、「嫌なことをさせられて疲れてしまう」時に、どうやって回復できるか、ということのパターンもずれてしまうのですね。定型はそこでひととのかかわりを求めることが多い。もちろん趣味とかもありますけれど。
そのとき、定型にとって人とのかかわりで大事になるのは、「気を遣わなくてもいい、自分の気持ちに素直になれる人とのかかわり」です。そこで「気持ちを通わせる」ことで元気になる。それが一番可能なのは(というか可能であってほしいと思うのは)、家族という事になります。
ところがアスペの方は「気持ちを通わせる」というよりも、たぶん「自分の気持ちも相手の気持ちも大事にしてそっとしておく」ことが重要と考えるというズレがある。だから定型からすると、自分が疲れをいやすために家族と気持ちを通わせたい思いが、拒否されたように感じてしまうことになる。それは「家族であることを拒否された」という意味になります。
ということで、家族というのは「疲れを癒せる場」という大事な働きがあると思いますが、その「疲れた気持ちをどうたてなおすか」ということでもずれがあるのですから、問題が深刻になります。
そのずれに気づいて、自分の求めるやり方を続けることは相手にとっては負担になるだけだと思うようになると、相手に合わせたやり方をしなければならなくなる。でもそれでは自分は素直に相手のためにやっている気持ちにはなり切れず、言ってみれば「理解できないけど要求されるからしかたなくやる」という「仕事」のようなことになってしまう。そうなると癒しはない。
ここでもやはり「思いやり」ってなんなのかが問題になるわけですね。
「思いやり」は基本的には「相手のために」することです。ですから、多少なりとも自己犠牲の面がある。でもその「相手のためにする」ということの意味は、仕事のそれとは違います。
たとえば商売をしていて相手に笑顔を振りまく時、それは笑顔の方が相手が気持ちがいいからそうするわけですが、でも相手がそれにたいして笑顔で返してくれなくても構いません。お金で返してくれればそれでいいわけです。自分の「思いやり(笑顔)」は基本的にはお金のためにすることで、本当の意味では相手のために自己犠牲を払う事でもない。もしかするとその品物れ相手が買うことは相手のためにならないかもしれない、と思っても、法律違反でない限りは相手が求めればお金儲けのためにそれを売るのが普通です。
でも、家族の場合、「思いやり」は本当に相手のためになると思えるかどうかが大事になる。「思いやり」の対価はお金ではないのです。
定型の場合はそこで「気持ちでお礼を返す」ということをかなり大事にする。そのお礼の仕方は言葉で言うこともあれば、嬉しそうにふるまうことで感謝の気持ちを表現することや、あるいはいつか具体的に何かお返しの品物や行動をするというような、いろんな形があると思いますが、いずれにしても「私はあなたの思いやりがうれしいです」という自分の気持ちをどこかで具体的な形で「表現する」ことが大事になっています。
その反応が返ってきたときに、定型は自分の思いやりが相手に受け取られたことを感じることができ、自分の苦労や自己犠牲が「報われた」と感じられ、元気になるのですね。それがないと、「自分の思いやりが拒否された」とか「無視された」と感じ、報われないまま落ち込む(あるいは場合によって怒りを持つ)ことになります。
もちろん私の相方も、私のためにと思ってやっていることが理解されないと言って嘆き続けていましたので、アスペの方も報われないことはつらいことは間違いないと思うのですが、たぶん「何が報われることになるのか」にずれがあるのでしょう。
そのずれは、たぶん「表現」という問題の重要性にありそうです。これまで「表法」と「表現」のズレとして考えてきたことですね。
これまでもアスペの方が誤解される典型的な場面として、「相手にものを依頼されてしんどそうな顔をする」という場合を考えてきました。アスペ的にはそれは単に「自分にそんなことがひきうけられるのだろうか?責任を持てるだろうか?」などと心配しているだけの「表情」であることが多いのですが、定型はそれを相手から自分に向けられた「表現」として直感的に理解します。ですから、その表情の意味することは「なんであなたはこんなに大変なことを私に要求するの?どうして私をそうやって苦しめるの?」という非難である、と理解するわけですね。
このことは定型が「表現」を重視して人間関係を作るから起こることです。それだけ定型にとっては「表現する」ことが大事なのですね。だから「思いやりへの感謝」も、なんらかの表現が大事になるわけです。
ところがアスペの方はそういう定型的な表現には重要性を感じない。むしろ「形だけの虚飾」みたいに無意味なこととして否定的に感じられたりする。だから「朝の挨拶」も意味ないこととして思われたりすることもある。だから家族の間ではそんな「不自然」なことをしない。そうすると定型の方は自分の思いやりが無視されたようなつらい気持ちになる。
もうちょっと考えるべきことがありそうですが、とりあえずそんなふうにお互いの「思いやり」の感覚がずれているとき、そのずれをどう埋めることができるのか。
ひとつの考え方としては、「このやりかたは自分にとっては思いやりの意味を持たないんだけど、相手はそれを大事にしているのだから、<相手のためにそうしてあげる>」という形でもうひとつ大きな目で見て相手を「思いやる」というのがあるかもしれません。それが本当にその人の思いやりの気持ちになっていけば、そこでひとつ乗り越えられることになるかもしれません。かなりむつかしそうではありますが。
そこでも<相手のためになっている>ことを確かめて自分が満足できるようなことが必要ですし、まだいろいろ考えなければならないことがありそうですが、少し考えるための糸口になりそうなことが見えてきた感じもします。
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コメント
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とても 難しい問題ですよね。思いやりとは 相手のことを思って 行動することですよね。目に見える気づきやすい思いやりと 目に見えない気付かれにくい思いやりがあると私は思っていて、どうやら いつも 私が思っている思いやりは気付かれにくいです(笑)気遣いの話でも同じで、定型の気の使い方は気を使ってくれてありがとうと言わせる気の使い方に見えたりします。そして そう言われたいし、気付いてほしい 気の使い方にみえます (私には)。そう見えた時点で それは 私にとっては 気遣いには 見えないのです。そしてあまり 嬉しくない。
一方 私は ありがとうを期待して 気遣いをしていないので、ありがとうと言われなくても 全く 気にならないです。あなたといると なぜか 楽しい、居心地がいいと 相手が思ってくれているという事実に 嬉しいです。言葉よりも 嬉しそうな 表情をしている限り 私は 満たされます。だから 私は 嬉しい時は ハッピーでいる事が 相手へのお返し(お礼/感謝)だと思っていました。そしたら誰にも感謝していないと思われてしまったりした経験があります(笑)
投稿: Tina | 2018年4月 7日 (土) 10時27分
Tinaさん
まさに私がお聞きしたいことでした。
やっぱりそうなんですね。定型はある意味「恩着せがましい」とも言えるのでしょう。
そうやって「表現」のレベルでやりとりしないと、落ち着かないんですね。
それに比べるとTinaさんが言われるアスペ的気遣いは、もっと「純度が高い」という風にも見えます。見返りを期待していない、という感じがあるので。というか、見返りの質が違うわけでしょう。
定型は「表現」で確認されて見返り感が生まれることが多いのに対して、アスペは「うれしそうな表情」が感じられたときに見返り感が生まれる。うーん、やっぱりここでも「表情」と「表現」のずれの問題があるんですね……
いや、もちろんかなり単純化して言っていますから、実際には定型でも「表情」で満足できる場合や人もあるんだと思います。ただ、「ここは表現が欲しい」というところで得られないことが多いという事でしょう。そこで落ち込むわけです。
投稿: ぱんだ | 2018年4月 7日 (土) 10時58分
定型が求めているのは エクストラ感(特別感?)ですかね。アスペが求めているのは 自然体(気付かない心地良さ?)ですかね。
だから 定型は エクストラに行動も起こすし、表す分、普段以上の見返りも求める。アスペはエクストラ感は出さずに 極力 相手が自然体で心地良くいられる空間を提供したい=干渉しない、そのままを受け入れる、相手を変えようとしない。= 何もしてくれているようには見えない。= 冷たく見える。
そして エクストラの行動を起こさないアスペは 文句を言われてしまう。。
投稿: Tina | 2018年4月 7日 (土) 11時58分
私はアスペですが、何かした時には見返りを求めます。アスペ的な純度はないと思います。
こちらが何かをして、ありがとうの言葉すらないときにはこちらを嫌ってる、軽視されてるんだなと受けとります。
>「相手にものを依頼されてしんどそうな顔をする」という場合を考えてきました。アスペ的にはそれは単に「自分にそんなことがひきうけられるのだろうか?責任を持てるだろうか?」などと心配しているだけの「表情」であることが多いのですが、定型はそれを相手から自分に向けられた「表現」として直感的に理解します
私の場合はですが、「自分に責任があることを頼まれて大丈夫かしら?」との心配の表情と、「なんであなたはこんなに大変なことを私に要求するの?どうして私をそうやって苦しめるの?」という非難の場合と両方あります。
後者の場合、定型側が嫌な仕事を当事者に押し付けてくるといったことをされる場合もあるので、それに対する非難となります。
そうでない場合はパンダさんがおっしゃるように自分にできるのか?という心配や困惑ですね。
投稿: さろま | 2018年4月 8日 (日) 22時52分
私の気の使い方も相手に気を使ってくれてありがとうと強要するような気の使い方で、純粋な気持ちではできていませんね。
アスペでも純粋な思いでやっている方もいれば、私のように見返りを求めるタイプもいます。
投稿: さろま | 2018年4月 8日 (日) 22時54分
さろまさん
>私はアスペですが、何かした時には見返りを求めます。アスペ的な純度はないと思います。こちらが何かをして、ありがとうの言葉すらないときにはこちらを嫌ってる、軽視されてるんだなと受けとります。
たしかにそういうこともあるでしょうね。話しかけて無視されたら不快な気持ちになるというのは定型アスペのかかわりなくそうでしょうし。
ひとつはさろまさんが言われるように、アスペの中の個性の多様性みたいな部分もあるでしょうし、あともうひとつは、定型もアスペもどっちもあるんだけど、そのバランスが違うとか、どういうときにどっちを使うかのパターンに違いがあるとか、そんなこともありそうな気もします。ちょっと具体的にはまだ言えないので、まだ漠然とした印象ですけれど、考えてみると面白そうです。
投稿: ぱんだ | 2018年4月 9日 (月) 01時05分
私が定型的な感覚が部分的にある(例えば風邪の時は看病するもの)のは母の影響、アスペ的な部分は障害特性で変えようがない(空気が読めない、含み言葉が分からない、あれそれなどの言葉が通じない)ものだと思います。
パンダさんのおっしゃるように、アスペでも育った環境は影響することもあるのでしょうね。
ただ脳障害を育った環境で全て改善するのは厳しいと思います。
投稿: サロマ | 2018年4月 9日 (月) 17時50分
もともと歌詞はあまり自分の中には入ってこないのですが、昔の歌手や歌詞の表現の仕方が自分の中にはまだ入りやすいとの話をしたのですが、今の歌手や歌詞を否定したわけではないので、今の時代の歌手のファンの方がいらしたら申し訳ないです、
投稿: サロマ | 2018年4月18日 (水) 18時59分