「痛みの共有」と「仲間への援助」
あんこさんの久々の投稿を読んで、ようやくわかってきた感じになってきたことがありました。それはここで繰り返された(私にとっては)謎の炎上の秘密につながることでもあります。
定型とアスペの大きな違いの一つは「群れたがるか」ということにある、と考えるとわかりやすいことがたくさんあります。定型にしっくりする言い方で言えば、信頼しあえる、たすけあえる大事な人たちのつながり、つまり仲間を求める、ということになるかもしれません。
で、なんでアスペの方は定型から仲間外れにされやすいのか、という問題ですが、よく言われることには「相手の気持ちを考えない」「身勝手だ」「人と共感しようとしない」「冷たい」といったことでしょう。たしかに定型的な感覚からすると、そう見えてしまうことは間違いなくあると思います。
けれどもそれはやっぱり定型的な感覚での判断で、アスペの方からすれば「なんでそんな風に言われなければならないんだ」と納得できない方が多いでしょうし、あるいは「定型こそそうじゃないか」と憤りを感じられる方もあるように思います。
その意味で、そういう定型的によくある見方はやっぱり一面的なもので、そこにはもっと大事な問題があると感じるのですね。
定型の「善意」が非常に伝わりにくく、その「善意」に基づく「援助」がアスペの方に理解されないどころか、拒絶され、激しく攻撃されるという場合があります。それは定型が自分を犠牲にして普通の関係では行わないようなレベルの「援助」を必死で行う場合にますますそういう展開になることがある。その定型の側の「必死の援助」がアスペの方から「攻撃的なふるまい」とさえみなされることがしばしばあるからです。そうなると定型の必死の援助を受けるアスペの方が逆に定型という「加害者」から「迫害される」「被害者」と理解されてしまうことも起こります。
なぜそういうことが起こるか。それは定型が相手を援助しようとする場合とアスペが相手を援助しようとする場合の進み方のズレを考えるとわかりやすくなるように思います。
困っている人を見たとき(困っていることを気づいたとき)、自分にできることがあれば手伝おうという気持ちが起こるのは定型アスペに関わらず、どちらでも同じでしょう。私の相方もそうですが、福祉に関わるアスペの方は少なくないように思いますが、その職を選ぶ理由の一つに「困っている人の役に立ちたい」という思いがあることは間違いないと思います。
定型アスペで違いが出てくるのはたぶんその次のステップです。
定型の場合、相手を援助しようとするかどうか、どこまで援助しようとするかについて、たぶん三つのポイントがあります。ひとつは問題の深刻さで、深刻であるほど援助しようとする気持ちは大きくなることが多いでしょう。もちろん自分がそれによって危険になると考えるとブレーキがかかりますので、そのあたりのバランスもありますが、この辺までは定型アスペであまり差はないかもしれません。
二つ目は「相手が自分に援助を求めているか」で、特に自分に求められている場合は援助しやすくなるでしょう。誰でもいいとなればあまり援助しようとしないかもしれません。このあたりからズレが起こり始めそうです。
そして三つ目、ここが特に大きいと思うのですが、相手が仲間であるかどうか、あるいは仲間になろうとしているかどうか。
仲間としてのつながりが強いほど、あるいはそういうつながりを深めようとしているほど、援助しやすくなりますし、その際は自分がかなりの犠牲を払ってでもそうするでしょう。払う犠牲が大きいほど、つながりが深まることにもなります。
相方の話を聞いていると、この三つ目のところで定型は冷たいと感じることがあるようです。つまり「仲間かどうか」によって対応が変わるわけですから、仲間じゃない人には冷たくなる、というわけですし。
そして、仲間になろうとするかどうかの分かれ目になることの一つに、「相手が<自分に>援助を求めているか」という二つ目が絡んできます。誰でもいいのではなく、自分に求められている、と感じると、つまりは「この人は私と仲間になりたいんだ」と感じることになるからです。
ではどういうときに「自分に援助を求めている」と感じるかというと、ここで例の「表現」の問題が出て来ます。つまり、相手の人が、通常は他の人には言わないような深い悩みや苦しみを語ってくれた場合、それは単にその事実の説明としてではなく、「私を信頼して私に援助を求めている」という「表現」として受け止めるのです。
そういう「表現」を向けられたとき、定型はそれに自分が応じるかどうかの判断を迫られます。つまりその悩みや苦しみが大きければ大きいほど、自分の手に負えないような事態になることが考えられますし、それに応じるために自分が払わなければならない犠牲も大きくなる。だからその分の覚悟がないと応じられないわけです。
応じられないと思えば、相手と距離をとることになります。応じられるとか、あるいは何かの理由で応じなければならないと感じる場合は覚悟を決めて応じることになります。
そういう覚悟を決めるときは、本当に相手と深い仲間になることを決意することでもあるんですね。そしてその時は「相手もそう考えている」ということが大前提です。そういう「自分を犠牲にする覚悟」に対しては、相手は「感謝してくれる」ということが無意識のうちに当然のこととして感じられています。そこにお互いの「深い信頼関係」が前提になります。
そして相手もそう考えている、というふうに思う理由は「相手がほかの人には普通言わないような悩みや苦しみを<自分(たち)>にはしてくれた」、という「表現」にあるわけです。相手がそういう「表現」をする以上、それはそういう特別の関係を求めていて、お互いに助け合い、感謝しあう関係に入ることを「誓っている」と理解する。
もしこの「誓い」を破って、感謝をしなかったりすれば、それは人の信頼を裏切り、「恩知らず」の「ひどい人間」ということになります。あるいは「人をだまして憐れみを乞い、自分を利用したあくどい人間」という評価になる。そうなるとそういう「誓い」を破った相手に対しては「許しがたい人間だ」という理解になって激しい攻撃も起こり得ます。
ところがアスペの方からすると、それは「表現」ではなくて、単に聞かれて事実を語っただけという気持ちになりやすく、そこに「相手に援助を求めた」という意識がないので、相手が一生懸命に自己犠牲を払って援助をしようとしても、「そんなことは相手が自分勝手にやっていることだ(私には関係ない)」という理解になりやすい。しかもそこで行われる「援助」が的外れで自分には役に立たなかったり、場合によっては逆効果だったりさえするわけなので、むしろ「有難迷惑」になって怒りさえわいてくる。
そうやって定型が自分勝手に有難迷惑なおせっかいをかけてくるのに、それに対してひたすら感謝することを求め、それがない(足りない)と激しく攻撃してくる。結局定型は親切なふりをして、単に自分たちの思い通りに支配しようとしているだけだ、と感じられるようになる。そしてやがて定型に対する激しい「反撃」が始まる。
ここで起こった炎上の基本的なパターンはたぶんこれですね。
一番のずれは、「定型は痛みの共有によって<仲間>になる」という傾向が強いことです。 そして自分の内面的な痛み・悩み・苦しみを語るという事は、相手と「深い仲間になりたい」という事の「表現(意思の表明)」と理解する。そして仲間というのは自己犠牲を払ってでも相手のために努力する、という「善意」の関係で成り立つので、たとえ相手の援助が自分に合わない部分があったとしても、その「善意」には感謝の気持ちを持って応えなければならない義務があると考える。
もちろんその「善意」のやり方が結果として相手には合わないことである場合もあり、そうであれば援助をした方が自分を反省してそこを直す必要があることは当然ですが、しかしそれは「善意のやりとり」であるということが大前提で、もし相手が自分の善意を否定するような言い方(たとえば「相手は本当は単に自分たちを支配しようとしているだけだ」という攻撃)がされた場合は、それは人としての信頼関係、「仲間」への最大の裏切りになるので、決して許せない、という感情になるわけです。
結局「仲間」ということの感覚がかなりずれているわけですね。この定型的な仲間づくりの感覚がアスペの方には謎の世界なので、だから「仲間外れ」にされやすいのでしょう。「仲間のルール」を否定する「敵」とみなされてしまうからです。
そんな風に考えると「アスペルガーと定型を共に生きる」の伸夫さんが、離婚調停の際に示した(私から見ると)とても不思議な振る舞いも理解できるようになります。
定型にとっては離婚というのは「人生最大の仲間」ではなくなることです。つまり「最大の助け合いの相手」であることを「やめる」という意味になる。だから離婚したら基本的に赤の他人です。対立を経て離婚すれば、むしろ赤の他人を超えた「敵」ですらある。子どもがいれば養育費を払うとか、そういう話はありますが、それは親子という別の仲間関係がそこにあるからとか、あるいは法律上仕方ないからという話になります。離婚した相手との助け合いは基本的におしまいになる。
ところが伸夫さんは離婚後の経済的な援助についてもいろいろ考えて自分から提案するんですね。これが私には不思議で仕方なかったのですが、つまりは「助け合い」=「仲間」という関係ではないわけです。
もう少し考えると、伸夫さんにとってはたぶんそこで「家族」という、決して消すことのできないつながりを感じ続けているのだろうと思うのですが、その「アスペ的な家族の感覚」と「定型的な深い仲間=家族の感覚」の違いについては以前少し考えました。さらに丁寧に考えるべきことがいろいろありそうで、特に「好意(善意)のやりとり」の理解の違いが大きく絡んでいそうですが、今はこの程度にしておきます。
私自身、相当の自己犠牲を払って「援助」を試みたことについて、逆に激しく攻撃された経験があって、ずっとそのことが痛みとして残り続け、謎を抱え続けてきたのですが、なぜそういうことが起こったのか、なぜ私自身がそれで激しく傷つく思いになったのか、だいぶすっきりしてきた感じがあります。
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