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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2018年4月

2018年4月30日 (月)

「痛みの共有」と「仲間への援助」

 

あんこさんの久々の投稿を読んで、ようやくわかってきた感じになってきたことがありました。それはここで繰り返された(私にとっては)謎の炎上の秘密につながることでもあります。

 定型とアスペの大きな違いの一つは「群れたがるか」ということにある、と考えるとわかりやすいことがたくさんあります。定型にしっくりする言い方で言えば、信頼しあえる、たすけあえる大事な人たちのつながり、つまり仲間を求める、ということになるかもしれません。

 多分アスペの方も人とのつながりを大事にしようとする気持ちは同じなんだろうけれど、子どものころから「仲間外れにされる」経験を積み重ねてこられて、「群れる」ことに違和感や嫌悪感を感じることが多くなるのかなと思います。

 で、なんでアスペの方は定型から仲間外れにされやすいのか、という問題ですが、よく言われることには「相手の気持ちを考えない」「身勝手だ」「人と共感しようとしない」「冷たい」といったことでしょう。たしかに定型的な感覚からすると、そう見えてしまうことは間違いなくあると思います。

 けれどもそれはやっぱり定型的な感覚での判断で、アスペの方からすれば「なんでそんな風に言われなければならないんだ」と納得できない方が多いでしょうし、あるいは「定型こそそうじゃないか」と憤りを感じられる方もあるように思います。

 その意味で、そういう定型的によくある見方はやっぱり一面的なもので、そこにはもっと大事な問題があると感じるのですね。


 定型の「善意」が非常に伝わりにくく、その「善意」に基づく「援助」がアスペの方に理解されないどころか、拒絶され、激しく攻撃されるという場合があります。それは定型が自分を犠牲にして普通の関係では行わないようなレベルの「援助」を必死で行う場合にますますそういう展開になることがある。その定型の側の「必死の援助」がアスペの方から「攻撃的なふるまい」とさえみなされることがしばしばあるからです。そうなると定型の必死の援助を受けるアスペの方が逆に定型という「加害者」から「迫害される」「被害者」と理解されてしまうことも起こります。

 なぜそういうことが起こるか。それは定型が相手を援助しようとする場合とアスペが相手を援助しようとする場合の進み方のズレを考えるとわかりやすくなるように思います。

 困っている人を見たとき(困っていることを気づいたとき)、自分にできることがあれば手伝おうという気持ちが起こるのは定型アスペに関わらず、どちらでも同じでしょう。私の相方もそうですが、福祉に関わるアスペの方は少なくないように思いますが、その職を選ぶ理由の一つに「困っている人の役に立ちたい」という思いがあることは間違いないと思います。

 定型アスペで違いが出てくるのはたぶんその次のステップです。

 定型の場合、相手を援助しようとするかどうか、どこまで援助しようとするかについて、たぶん三つのポイントがあります。ひとつは問題の深刻さで、深刻であるほど援助しようとする気持ちは大きくなることが多いでしょう。もちろん自分がそれによって危険になると考えるとブレーキがかかりますので、そのあたりのバランスもありますが、この辺までは定型アスペであまり差はないかもしれません。

 二つ目は「相手が自分に援助を求めているか」で、特に自分に求められている場合は援助しやすくなるでしょう。誰でもいいとなればあまり援助しようとしないかもしれません。このあたりからズレが起こり始めそうです。

 そして三つ目、ここが特に大きいと思うのですが、相手が仲間であるかどうか、あるいは仲間になろうとしているかどうか。

 仲間としてのつながりが強いほど、あるいはそういうつながりを深めようとしているほど、援助しやすくなりますし、その際は自分がかなりの犠牲を払ってでもそうするでしょう。払う犠牲が大きいほど、つながりが深まることにもなります。

 
 相方の話を聞いていると、この三つ目のところで定型は冷たいと感じることがあるようです。つまり「仲間かどうか」によって対応が変わるわけですから、仲間じゃない人には冷たくなる、というわけですし。


 そして、仲間になろうとするかどうかの分かれ目になることの一つに、「相手が<自分に>援助を求めているか」という二つ目が絡んできます。誰でもいいのではなく、自分に求められている、と感じると、つまりは「この人は私と仲間になりたいんだ」と感じることになるからです。

 ではどういうときに「自分に援助を求めている」と感じるかというと、ここで例の「表現」の問題が出て来ます。つまり、相手の人が、通常は他の人には言わないような深い悩みや苦しみを語ってくれた場合、それは単にその事実の説明としてではなく、「私を信頼して私に援助を求めている」という「表現」として受け止めるのです。

 そういう「表現」を向けられたとき、定型はそれに自分が応じるかどうかの判断を迫られます。つまりその悩みや苦しみが大きければ大きいほど、自分の手に負えないような事態になることが考えられますし、それに応じるために自分が払わなければならない犠牲も大きくなる。だからその分の覚悟がないと応じられないわけです。

 応じられないと思えば、相手と距離をとることになります。応じられるとか、あるいは何かの理由で応じなければならないと感じる場合は覚悟を決めて応じることになります。

 そういう覚悟を決めるときは、本当に相手と深い仲間になることを決意することでもあるんですね。そしてその時は「相手もそう考えている」ということが大前提です。そういう「自分を犠牲にする覚悟」に対しては、相手は「感謝してくれる」ということが無意識のうちに当然のこととして感じられています。そこにお互いの「深い信頼関係」が前提になります。

 そして相手もそう考えている、というふうに思う理由は「相手がほかの人には普通言わないような悩みや苦しみを<自分(たち)>にはしてくれた」、という「表現」にあるわけです。相手がそういう「表現」をする以上、それはそういう特別の関係を求めていて、お互いに助け合い、感謝しあう関係に入ることを「誓っている」と理解する。

 もしこの「誓い」を破って、感謝をしなかったりすれば、それは人の信頼を裏切り、「恩知らず」の「ひどい人間」ということになります。あるいは「人をだまして憐れみを乞い、自分を利用したあくどい人間」という評価になる。そうなるとそういう「誓い」を破った相手に対しては「許しがたい人間だ」という理解になって激しい攻撃も起こり得ます。

 ところがアスペの方からすると、それは「表現」ではなくて、単に聞かれて事実を語っただけという気持ちになりやすく、そこに「相手に援助を求めた」という意識がないので、相手が一生懸命に自己犠牲を払って援助をしようとしても、「そんなことは相手が自分勝手にやっていることだ(私には関係ない)」という理解になりやすい。しかもそこで行われる「援助」が的外れで自分には役に立たなかったり、場合によっては逆効果だったりさえするわけなので、むしろ「有難迷惑」になって怒りさえわいてくる。

 そうやって定型が自分勝手に有難迷惑なおせっかいをかけてくるのに、それに対してひたすら感謝することを求め、それがない(足りない)と激しく攻撃してくる。結局定型は親切なふりをして、単に自分たちの思い通りに支配しようとしているだけだ、と感じられるようになる。そしてやがて定型に対する激しい「反撃」が始まる。


 ここで起こった炎上の基本的なパターンはたぶんこれですね。

 一番のずれは、「定型は痛みの共有によって<仲間>になる」という傾向が強いことです。 そして自分の内面的な痛み・悩み・苦しみを語るという事は、相手と「深い仲間になりたい」という事の「表現(意思の表明)」と理解する。そして仲間というのは自己犠牲を払ってでも相手のために努力する、という「善意」の関係で成り立つので、たとえ相手の援助が自分に合わない部分があったとしても、その「善意」には感謝の気持ちを持って応えなければならない義務があると考える。

 もちろんその「善意」のやり方が結果として相手には合わないことである場合もあり、そうであれば援助をした方が自分を反省してそこを直す必要があることは当然ですが、しかしそれは「善意のやりとり」であるということが大前提で、もし相手が自分の善意を否定するような言い方(たとえば「相手は本当は単に自分たちを支配しようとしているだけだ」という攻撃)がされた場合は、それは人としての信頼関係、「仲間」への最大の裏切りになるので、決して許せない、という感情になるわけです。

 結局「仲間」ということの感覚がかなりずれているわけですね。この定型的な仲間づくりの感覚がアスペの方には謎の世界なので、だから「仲間外れ」にされやすいのでしょう。「仲間のルール」を否定する「敵」とみなされてしまうからです。


 そんな風に考えると「アスペルガーと定型を共に生きる」の伸夫さんが、離婚調停の際に示した(私から見ると)とても不思議な振る舞いも理解できるようになります。

 定型にとっては離婚というのは「人生最大の仲間」ではなくなることです。つまり「最大の助け合いの相手」であることを「やめる」という意味になる。だから離婚したら基本的に赤の他人です。対立を経て離婚すれば、むしろ赤の他人を超えた「敵」ですらある。子どもがいれば養育費を払うとか、そういう話はありますが、それは親子という別の仲間関係がそこにあるからとか、あるいは法律上仕方ないからという話になります。離婚した相手との助け合いは基本的におしまいになる。

 ところが伸夫さんは離婚後の経済的な援助についてもいろいろ考えて自分から提案するんですね。これが私には不思議で仕方なかったのですが、つまりは「助け合い」=「仲間」という関係ではないわけです。

 もう少し考えると、伸夫さんにとってはたぶんそこで「家族」という、決して消すことのできないつながりを感じ続けているのだろうと思うのですが、その「アスペ的な家族の感覚」と「定型的な深い仲間=家族の感覚」の違いについては以前少し考えました。さらに丁寧に考えるべきことがいろいろありそうで、特に「好意(善意)のやりとり」の理解の違いが大きく絡んでいそうですが、今はこの程度にしておきます。


 私自身、相当の自己犠牲を払って「援助」を試みたことについて、逆に激しく攻撃された経験があって、ずっとそのことが痛みとして残り続け、謎を抱え続けてきたのですが、なぜそういうことが起こったのか、なぜ私自身がそれで激しく傷つく思いになったのか、だいぶすっきりしてきた感じがあります。

2018年4月15日 (日)

もうひとつの通じ合わせ方はある?

 定型アスペのずれがどうして生まれるのか、ということについて、このところあるポイントから考えると私にとってはかなりわかりやすい感じが出てきました。

 ポイントは「感情の調整の仕方」にずれがある、ということになります。

 定型にとって、感情は自分の中で調整するだけでなく、ある意味ではそれ以上にひととの間で調整するものです。人との間で調整できるのは、「感情のやり取り」を進めやすくする手段があるからです。それは何かというと「表現」です。

 定型もアスペも、自分の感情の状態が「表情」(姿勢とかも含めて)に出てくるというところは同じです。でもそこで定型は「表情をコントロールする」ということをすごくやる。これはほとんど意識もしないレベルで半分自動的にそうしてしまうこともあるし、意識してコントロールすることもあります。それが「表現」ということです。

 「表現」というのは、「相手にどうみられるか」ということを前提にして、その効果を考えて(実際はほとんど無意識的に、が多いですが)それを使う。表現はそれ自体がコミュニケーションの不可欠な道具になります。

 そうやってお互いの感情を調整することをすごくやり続けるんですね。

 それは言葉の時もあれば、視線の動きのこともあれば、そぶりのこともあります。もちろんお互いにそれをやり続けます。そうやって人との関係を作り、調整し続け、相手の感情も自分の感情もお互いに影響しあいながらバランスを探していきます。

 そしてここが少し面白いところだと思うのですが、言葉というのは、あるいは「表現」というのは、相手の人に対して行われるだけじゃなくて、独り言などによくみられるように、自分自身に対して行われるものでもあるということです。「自問自答」みたいなこともよくやる。ですから、ある意味で言うと相手と語り合って自分を調整するように、自分と語り合って自分を調整することもやるわけです。(独り言を言いながら自分で納得できてしまうみたいな)

 もちろんそういうこともアスペの方もするはずですが、ただ違いは、そのやり取りの中に「感情」がどう絡むのか、というところにありそうな気がするわけです。

 そのあたりはスペクトラムでさまざまだと思いますが、以前ここでコメントをくださったアスペの方にも何人か、自分の感情がよくわからない、とか自分には感情がないとか、そんな意味のことを語られている方もありました。私の相方も、自分の感情をつかむのがかなり苦手な部分がありそうです。

 つまり、人との間であれ、自分の中であれ、ことばのような「表現」によって感情をつかみ、やりとりして調整するということを、定型はよくやるんだけど、アスペの方はそこがそうなりにくいということなのかなという気がするのですね。

 あるいは、アスペの方も自分の言葉で自分の気持ちを整理するようなことはある程度されるんだろうけれど、その言葉が人と共有されるようなものになりにくいので、人との間の調整には使いにくいということなのかもしれませんし、そこはまだよく分かりません。

 いずれにせよ、少なくとも定型は自分の表現をコントロールしてひとと感情のやり取りをして、調整するということをやるし、それを必要とする生き方になっていく。それに対してアスペの方は人と通じ合う表現について、特に感情面でそういう表現を獲得するのが苦手で、その結果、自分の感情、自分の悩みは自分で解決するほかない、という感覚になりやすく、その自分の感情の部分についてほかの人から働きかけられるのは逆に混乱を大きくするだけということにもなる。

 ただ、それはあくまで感情の問題が絡むときのことで、いわゆる理性的に考えるといったことについては定型と同じように、あるいは定型以上に力を発揮されることがよくある。


 整理するとこういうことでしょうか。定型は表現を使って感情的な調整を人とやり続ける。それに対してアスペは理性の面では人との調整は十分できるけれど、それが感情との結びつきを持ちにくいので、感情の調整は人との間ではなく、自分の中でやるかたちになる。


 と、ここまで書いてきて、果たしてそれだけで考えていいのだろうか、この考え方がどの程度実際にあてはまるのか、ということも思いました。

 たとばアスペの方でも音楽で人と感情を共有できる世界に入る方のことをいくつか聞きます。音楽で初めて人に思いを伝えられたと感激される方もある。そして音楽もまたひとつの表現なのですから、ここで考えてきた表現ともし一体のものだとすれば、上の理屈はそもそも成り立たないことになります。

 あるいは音楽の表現と、上で考えてきた表現とはかなり性質が違うという可能性もあります。その場合は上に書いてきたことはあながち間違いではなさそうということになりますが、ただその二つの表現がどうちがうのかということはまだよくわかりません。

 また、詩の言葉も感情がふかくかかわる言葉ですが、アスペの方の詩ってどいうものだろう?ということも興味が出てきます。

 もしかすると、「定型は表現、アスペは表情」といった、このところ何度か書いてきた対比のさせ方は、それ自体結構定型的な偏った見方になっている可能性もあって、ほんとうはアスペの方も表現するんだけど、その表現の中身が違うんだ、ということになるのかもしれません。

 もしそうだとすると、定型とアスペが通じいあいにくいのは「表現の有無」ではなく、「表現する内容のずれ」が原因である可能性も出てきます。もしそうなら、そのずれの性質がわかってくれば、もしかすると異なる表現を組み合わせることで、またちょっと違った面白い通じ合い方が見つかる可能性もあります。


 ちょっと頭で先走って考えているので、具体的にそれがどういうことにむすびつくのかはまだ分かんないんですが、そういう視点を持ちながらいろいろ見たり考えたりしてみると、また新しいこと、新しい通じ合わせ方が見つかるかもしれないという気がします。
 

 
 

2018年4月14日 (土)

希望を子どもにつなげられるか

 今朝起きてからふと思ったことです。

 このブログや掲示板などで、発達障がい者は子どもを作るべきでない、という非常に悲しい主張が繰り返し出てきて問題になりました。

 最近ニュースでも問題になっていますが、日本でもかつては優生保護法で断種手術が障害者に対して行われていたわけですね。またヒットラーは今生きている精神障がい者をガス室で殺すということを、ユダヤ人虐殺の前からやっていました。

 それは少なくとも今の「常識」から言うとあってはならないことです。どんな命であっても、他人がそれを奪ってはいけないというのが現代にひろくいきわたった考え方で、例外は戦争と死刑ですが、戦争は侵略はもちろん、普通の戦争も「非合法だ」という考え方もだんだんひろまってきていますし(もちろんその揺れ戻しのような反動の動きも今たくさん起こっていますが大きな流れとして)、死刑は今ではその制度がある国が少なくなってきています。

 でもいくら「いけない」と言っても、繰り返しそういう発想はいろんな人から出て来ます。特に「まだこの世に生まれてきていない命」についてはそこがシビアに問題になります。医療技術が進んで出生前にある種の障がいの有無を診断できるようになると、その結果によって堕胎をする夫婦もたくさん出て来ています。その選択の根っこには同じような葛藤があるでしょう。

 ではその葛藤とは何か。いろんな理由があると思いますが、たぶん一番大きいのは「生まれてきても幸せになれない」という感覚ではないでしょうか。

 親は「自分が受けてきた苦労は子どもに味合わせたくない」と考えるのが普通です。だから、たとえばご自分が発達障がいで苦しんでこられていれば、子どもには同じ思いをできるだけさせないように工夫しようとされる方が多い。

 でも、「どうやったってその苦しみはなくなりはしない」という思いがつよまり、ほとんど絶望的になったらどうでしょうか。ある意味自分だって今生きているからしかたなく生きているだけだという感じだとすれば、自分にとって大事な子どもにそういう思いをさせたくないという気持ちになるのはよくわかります。そういう状態になることは決して避けられないと思えば、そんな気持ちを子どもに味合わせないように、「最初から生まれないほうが良い」という発想になっても当然でしょう。

 そこで気が付いたのですが、問題の本体は大人自身が希望を持てないことにあるのですね。苦労のない人生はありえませんが、でもどこかでそれが報われると感じるのと、絶望的な思いになるのでは雲泥の差があります。報われると実感できれば、その自分の命を子どもにつないでいくという気持ちにもなれます。

 つまり、「子どもを作るべきではない」という考え方の是非を議論しても、それはたぶん問題の本体とは関係ないことなのです。そうではなくて、一番大事なことは今生きている私たちが自分の生に報われ感や希望を持てるかどうかなのだという事です。

 たとえ今大変でも、この先になにか新しい可能性が感じられれば希望は失われません。今のしんどさを乗り切る道を積極的に探せているという感覚があれば、絶望にはなりません。問題の本当の解決は、ですから実はこどもがどうのこうのではなく、今の私たちがどういう生き方ができているか、今後に希望を持てるような模索ができているのかにかかっているのだと思います。


 

2018年4月13日 (金)

アスペのタイプの意味

 アスペとか自閉症スペクトラムとか一口に言っても、ものすごくいろんなタイプの方がいるわけですよね。中には「自閉」という言葉からは想像がむつかしいような、「積極的なタイプ」の方もあります(積極奇異型とか、偏見そのままの変な名前までつけられています)。逆に「自閉」の名前がぴったりのような、人とのかかわりをあまり持とうとしないタイプの方もある。

 そういう極端に違う方をどうして同じ「自閉」として括るのか、という事ですけれど、おそらく目に見えるところでの極端な違いは、実はある意味で表面的なもので、根っこのところですごく共通した性格を持っているから、ということになるのでしょう。

 それはやっぱり「白黒はっきり(アスペ)」か「あいまい(定型)」か、という、生き方のスタイルの違いで理解できる部分が大きいのではないかと思います。

 しつこく書いてきていますが、定型が「あいまい」を好むのは、たぶん人間関係をやわらかく調整するときにそれが役立つからです。久しぶりに使う言葉で言えば、そのために定型は自分の立場を「かっこにいれて」相手の言うことを感じ取り、それをもとに考える、ということをよくやる。

 アスペの方でも知的なことで言うと、自分の立場をカッコに入れて相手の視点から考えてみる、ということはされます。そういう力がなければそれこそ数学とか自然科学とか工学とか、理屈で考える理系の分野で力を発揮できるわけがありません。

 問題はそこに感情が絡んだ時です。定型は(これも個人差が大きいですが)、自分とは違う相手の感情についても、自分の感情をいったんカッコに入れてそれを感じ取り想像する、ということがある程度できます。私もそれをここでやり続けてきているわけですね。「『定型から見るとひどいことに感じられる』のだけど、アスペの方は全然違う感じ方をしている『かもしれない』」という形で『 』に入れて考えることで、自分を否定せずに相手の立場に仮に立ってみるということをし続けてきました。

 それは自分の感じ方と相手の感じ方と、その両方の間をうろうろすることですから、「白黒はっきりしない」「あいまい」な状態だとも言えますし、でもそのことでお互いの感情の行ったり来たりしてそのズレを調整しようとすることができるようにもなるわけです。

 私の印象ではアスペの方はここで「相手の気持ちを理解する」と自分もほぼ完全にそれと同じ感情になり(巻き込まれちゃう感じj)、自分の気持ちを理解すると相手の感情が見えなくなる(拒絶する感じ)、という形で「白黒はっきり」になることが多いような気がするのです。

 それは感情レベルでの話なので、冷静になることができれば、感情に突き動かされずに理屈でお互いのことを考えられるようになるので、「カッコに入れる」こともできるようになる。

 そう考えてみると、定型アスペでやりとりがこじれるとき、とりあえずは「時間をおいてみる」ということが大事になることがある、という理由がわかるようになります。時間を置くことで、感情レベルではなく、理屈のレベルでの判断に移ることができやすくなるからです。


 もしそういう事があるとすれば、「時間を置く」ことがむつかしい日常の直接の人間関係では、アスペの方はとても不利な状態に置かれることになります。お互いのやりとりを調整するには、自分の視点からだけではなく、相手の視点からも考える、逆に相手の視点からだけでなく、自分の視点からも考える、ということが重要で、そこがうまくいかないと調整ができないからです。

 お互いの感じ方や主張が対立したときに、両方の立場をさっと考えていい調整法を見つけられればいいですが、そこがむつかしいときには取りうる対処の仕方は三つになるでしょう。ひとつは有無を言わさず自分の立場を相手に押し付ける、というやり方です。二番目はひたすら相手に従う、というやり方。そしてもう一つは相手を避けてかかわらないようにする、というやり方です。

 定型同士でももちろん調整がむつかしくてそうなることはよくあります。でも感情が絡む話では定型に比べてアスペの方はそのむつかしさが非常に大きくなる。
 そうすると、そういうむつかしい状態が繰り返されて、そこでなんとか生きていかなければならないということになると、その人が優先的に使う生き方のスタイルが作られていくことになります。つまり、「相手との調整が苦手なので、自分のペースに巻き込んで状況を乗り切ろうとする」というスタイル、「相手に逆らうことなく、できるだけ従って問題を大きくしないようにしようとする」というスタイル、そして「できるだけ相手とかかわらないようにしようとする」というスタイルです。

 こういうスタイルが、アスペの方の場合、非常に「白黒はっきり」した形で、比較的固定した形で出やすくなる。それがいわゆる「タイプ」の違いになるという事になります。

 そう考えるとどのタイプも原因は共通していることになります。つまり、感情が絡む問題については、余裕がないときはお互いの関係を「カッコに入れて」、「あいまい」な状態で調整することがむつかしいから、という理由です。それで「私を絶対のものとする」か「相手を絶対のものとする」か「関係をとらないようにする」というどれかになっていく。

 そしてその方が強気な競争好きのタイプか、弱気なタイプか、あるいは優しい人か、というような、ある程度持って生まれた傾向によって、どのスタイルが優勢になるかが変わる。また周囲に認められるか否定され続けるかによってもスタイルが変わるでしょう。


 ですから、このタイプというのは同じ一人の人でも、時期や経験の蓄積などでガラッと変化する可能性も出て来ます。最初ものすごく強気に自分を押し出していくタイプだった人が急に内気なスタイルに変わるとか、その逆とか。定型でもそういう「性格が変わる」ということは有る程度ありますけれど、それが極端に出やすくなる。


 そんな風に考えてみると、私と相方のやりとりが「議論」になると、途端に私にとってはわけのわからない、理屈の通らないように見える展開になる理由がわかってきます。そしてしばらくして少し落ち着くと、彼女の方が私よりもすごく客観的に同じ問題を語ってくれることもある、ということのわけもわかってきます。


 こういうブログなどのやりとりでも、一旦自分の古傷が刺激されたりして感情が激しく起こるときには、もう主張が暴走する感じになって激しい炎上になったりしますが、でも距離を置いて冷静にやりとりできるときには、お互いの立場を考えたりしていいやりとりにもなるわけですね。

 ブログなどは直接顔を合わせないし、自分のペースで時間をおいてやりとりすることもある程度可能なので、その意味ではこういう場でのやりとりは、うまくやれば定型アスペ間のコミュニケーションには有利な場にもなるという事でしょう。

 いろんな手段を使って、お互いの関係をなんとか調整しやすくする工夫が必要だし、またきっと少しずつでも可能になっていくのでしょうね。

小さな困惑の仕組み

 朝食の準備をしていて、調味料の穴がつまっていたので、つまようじでほじくっていたら、「例によって」相方が「何をやっているんだ?」という感じで心配そうに(と感じてしまう)寄ってきてじっと見始めました。

 以前は何かいつもと違うことをすると「監視される」という感じで緊張していやだったんですね。なぜそういう印象になるかというと、笑顔も何もなく、どちらかというと硬い表情である程度の時間じっと見つめ、そして何も言わずに去るか、あるいは何かしら文句を言う、という展開が普通だったからです。

 定型的な感覚で言えば、そこは(笑顔か普通の表情で)「どうしたん?」と聞くとか、あるいは見てやっていることがわかったら「あ、詰まってるんだね」という感想を言うとか、何かそこで「交流」があるのが普通でしょう。なぜならいきなり来てやっていることを何も言わずに見つめるというのは「この人は何がしたいんだろう?何が起こるんだろう?」という緊張を惹き起こすと感じるからで、それを弱める必要があるからです。(もちろんそんなこと意識していませんが、ここでいろいろ考えているうちに、そういう仕組みだと考えるとわかりやす事に気づきました)

 でも彼女にはそれがないわけです。だから「一方的にみられている=監視されている」という印象になる。

 ここでも「表情」と「表現」のずれの問題がよく現れているように感じます。つまり彼女としては単に「この、いつもと違う事態はなんなんだ?」と心配になり、その意味で緊張した「表情」になって見に来てじっと見つめる。でも定型的にはそれはこちらに何かを伝えようとする「表現」として受け止め、しかもまずは黙ってですから、そこに「交流」の意図を読み取ることができず、その「表情」から否定的な感情=「表現」を感じ取ってしまうことになります。

 しかもそのパターンで何か文句を言われることが多いので、それは「問題点をチェックされている」感じになり、つまりは「監視」されている感覚になるわけです。

 相手の「意図」がわからない時に緊張するのは定型アスペに関係なく誰でもあることですね。だから彼女なんかも私が気楽に質問したことについて、困った顔をして「なんて答えてほしい訳?」とか「それを聞いてどうするの?」と聞いてきたりすることがあります。

 面白いなと思うのは、彼女がそういうことを言うときっていうのは、私が特に質問に深い意味はなくて、ただなんとなく情報を共有しておきたいというだけの、「興味本位」の質問のことが多いのです。だから「それを聞いてどうする?」と聞かれても、答えがない。ただなんとなくなので(笑)

 最近は「ただ情報を共有しておきたくて」と「説明」したりするのですが、この二つのパターンを比べてみると、ちょっと面白ことがわかりそうです。

 まず、「相手の意図がわからない時に困惑する」というのはどちらも同じです。それで「理解しようとする」わけですが、その時定型は「相手と話をして、情報を共有する」という方向に向かいやすい。それに対して彼女の場合は「自分の中で答えを見つけようとする」という傾向が強い。もちろん彼女も聞かないとわからない時には聞くわけですけれど、その優先順位は低い。私の方はどっちかというと自分で考える前に相手に聞くことも多い。

 そうすると、「どうでもいいこと」に思えることを私に尋ねられて、彼女はその意図(単に情報を共有しておきたいという感覚)がわからずに緊張する。逆に私の方は彼女がなにかを共有しようともしないでただ自分を見ている、という状況に緊張する。そういう裏表の関係があるんですね。

 定型:「いろんな情報をいつもなんとなく伝えあう」→「なにかあれば一緒に対処する足場づくりを普段からしておく」

 アスペ:「いろんな情報を自分で収集する」→「なにかあれば対応できる情報を自分一人で貯めておく」


 という基本的な姿勢のずれがあって、それをベースに必要に応じて「自分でも考える」(定型)、「相手にも聞く」(アスペ)という展開になると考えてみると、わりとわかりやすくなる感じがします。アスペの方が「報連相」が苦手と定型から言われる理由もこれで説明がつきます。

 で、この基本的な姿勢の違いが、相手の行動に「意図がわからない」という感じを生むのでしょう。そして小さな緊張がそこから生まれる。




 今回面白かったのは、そこで彼女はいつもと違って「○○使ってるの?いいにおいがした」という「感想」を言ってくれたことです。つまり自分が見に来た理由を説明してくれたわけです。

 この理由が本当に彼女が見に来た理由なのかはわかりません。むしろ印象としては後付の感じもしました。でもその一言で、すっと小さな緊張がなくなるんですね。これがすごく面白かったのです。

 もしかすると彼女もそこで感想を言うと状況が変わる、ということをなんとなく感じたのかもしれないですね。

 

2018年4月10日 (火)

「定型アスペ語」の誕生?

 最近、このブログがひとつ新しい段階に入った感じがしています。サロマさんの「知る」VS「理解する」という区別の仕方で言えば、「理解する」という状態がかなり生まれ始めているような。私がこれまで書いてきた言い方だと「頭で理解すること」VS「気持ち(体・感覚)で理解すること」の「気持ちで理解」のほうですね。

 そしてそこで大事なことは、そういう私が「気持ちで理解」する中身を書くと、実際にアスペの方たちとそこが共有されるようになってきていることです。それは私の「定型的な視点」からの勝手な決めつけではないという事ですね。

 アスペの理解しがたさは「宇宙人のよう」という表現が、当のアスペの方からも語られ続けましたが、今の私はそういう感じがなくなりつつあります。「いや、あすぺだって同じ地球人」ということになるのか、あるいは逆に「いや、実は定型だって同じ宇宙人じゃない」ということになるのかはわかりませんけど。

 そしてそういうところで話をすると、定型サイドからもアスペサイドからも、それぞれ自分の中の結構深い感覚から、お互いに通じ合える感じで話が出てくるようになったと感じられます。その意味で、結構深いところでやりとりできる「共通のことば」=「定型アスペ語」が作られつつあるような感じもするんですね。

 ようやくこのブログが目指していたことが現実化し始めたかもしれません。

2018年4月 9日 (月)

定型のヴァリエーションとアスペとの違い

 昨日の記事「「変わる」ことと「変える」こと」をめぐるTinaさんとのコメントのやりとりの中で、私が例の「あつくない?」=「窓を開けてくれない?」という定型的な間接的な要求の話を例に出したことについて、Tinaさんが定型の「彼」やアスペの息子さんを含んだこんなやりとりを紹介してくださいました。


お部屋の温度のくだり、、うちでも問題になったんです(笑)息子と彼の問題でした。うちの場合、ちょっと解釈が違いました。。
息子「なんか暑くない?」
私「暑い?そーね、ちょっと暑いかも。窓開ける?」
息子「うん 開ける」
(私が動く)
彼「ちょっと暑いから 窓を開けてくれる?って言えば よくない? 」
息子「窓を開けてほしいなんて思っていない。暑くない?って聞いただけ。」
彼「そういう言い方をすると 相手は 窓を開けてって言われてるように 取るんだよ」
私 「え? そうなの? 私は そうはとらないよ?暑くない?って聞かれたから そーだねーちょっと暑いねって答えただけ。窓を開けようと思ったのは私で、頼まれたわけじゃないよ?」
彼「世間では そう捉えられてしまう事があるよ、だから気をつけてね」

息子「そうなの? 開けてって言ってないよ?ママが 窓を開ける?って聞くまで 窓のこと全然 頭になかった。」 


 この話がすごく面白いなあと思ったのは、そこに定型の中のタイプの差と、それからどういう定型男性がアスペ女性に惹かれやすいか、ということが見えるように感じたことでした。

 まず、アスペのTinaさんと息子さんの会話の中で、Tinaさんは「暑い?そーね、ちょっと熱いかも。窓開ける?」と尋ねられていて、これは一見すると定型的な「間接的な要求の読み取り」とも見えます。ところが実際はこの後の方でTinaさんが説明されているんですが、それとは全然違うわけですね。

 つまり、息子さんはほんとに単に「暑い」と言っただけで、それに対してTinaさんが自分も暑いと思われたので同意した。そして、Tinaさんは自分が暑いと思ったので、「じゃあ窓を開けたほうがよさそうだな」と思い、開けるかどうかを息子さんに確認して、同意されたので開けた。

 そこでTinaさんは別に息子さんの「暑い」という言葉に要求の意味を全然くみ取ってはいないわけです。

 これに対してTinaさんの相方さんは「その言い方は要求になる」と受け取ったわけです。

面白いのは、そこで相方さんは「そういう間接的な言い方はよくない」と考えられていることです。つまり、定型によくあるやり方について、相方さんは嫌だとも感じられているわけです。

 この「間接的な言い方」がどの程度重視されるかは、定型社会の中でも場所によっても様々だと思います。思い出すのは京都の「お茶漬けどうですか?」という話。

 知り合いの家に遊びに行って話し込んで、ずいぶん長い時間がたった。その家の主人は何かの理由でそろそろお客に帰ってほしいと思っている。でも「帰ってくれない?」と直接言うのは失礼になる(と考える)。それで「お茶漬けでも食べませんか?」という「もてなし」の言葉を言う。それを聞いた側は「いえ、お腹すいていません」とか「ありがとうございます、いただきます」と答えるとアウトです。「あ、もう帰らなければならないんだな」と察して帰る。

 これが京都の1000年も続いた町の人たちの中に作られた、クッションを使ってやりとりする「洗練された」やり方だという事になります。だからそれを理解できない人は文化程度の低い「田舎者」扱いになる。

 でも「田舎者」から見ればそういうもって回った言い方は鬱陶しく感じたり、あるいはものすごく嫌味に感じたりすることがあります。「気を遣うっていったって、やりすぎだろう」と感じたりもする。過ぎたるは猶及ばざるが如しというやつですね。

 その点、全国の「田舎者」が急に集まって作った江戸の下町文化では、そんなまどろっこしいことはやはり嫌われる。威勢よくぽんぽんという事が粋でかっこいいわけです。

 育った場所だけでなく、個性の差もあります。とにかくクッションを大事にするタイプの定型もあれば、そういうのは少ない方がいいと感じるタイプの定型もいる。後者の人は前者のやり方をうっとうしく思うわけです。もっとストレートにさばさばしたほうがいいと思う。

 Tinaさんの相方さんはそのタイプのようですね。

 実は私もどっちかというとそちらのタイプなのです。自分の思っていることはストレートに言いたい方で、相手を気にして本音を言わないように見える関係はしんどくなる。もっとさばさばやればいいじゃんと思う。だから相方さんの言い方はよく理解できます。

 それで、そういうさばさばが好みのタイプは、女性に対してもさばさばした人に魅力を感じたりします。女性の中にも演歌歌手なんかによくみられるように、ほんとにお互いに察しあう関係の中で「女の情念」みたいなものを思いっきり体中から発散させる「色気たっぷり」の人もいますし、逆にさらっとした感じの「清潔感」のある人もいます。多分Tinaさんの相方さんも私もその後者の女性がタイプなのです。

 このさらっとした、「女の情念」を強烈に発散していない感じが徹底しているのが、アスペの女性に多いような気がします。少なくとも私が相方に惹かれたのは、そのさらさらした感じだったんですね。私の場合は母親が演歌タイプとはまたちょっと違いますが、激しい「情念」で人に迫るタイプで、それに苦しめ続けられたので、その対極のタイプにすごく惹かれ、そして救われたわけです。

 そうやって確かに救われるんだけど、だんだん月日を重ねるうちに、そこで見えていなかった問題が浮かび上がってきて、苦しむようになります。それはそういうさらさらとした感じを生み出しているアスペ的な人間関係のスタイルとのずれです。

 そのずれが上の窓の例によく出ていると私は感じます。

 つまり「間接的な要求」をしようとしない、という傾向はお互いに共有されていて、そこで共感できる部分があります。Tinaさんの相方さんはそういうのを嫌っています。でも相方さんの方は「それが間接的な要求だ」と感じて、それを否定するのに対して、Tinaさん親子はそもそもその発想自体がないわけですね。これはかなり決定的な違いです。

 私もそうですし、たぶん相方さんもそうだったのではないかと想像しますが、この決定的な違い、ずれに気づかないまま、「間接的な要求で相手に察することを強いる」みたいな関係をしようとしない、という点で「理想」が共有されたと嬉しくなるわけです。

 ところが定型ですから、「間接的な要求」の姿勢が「ない」わけではなく、「少なめがいい」という事にすぎない。だから自分も「察してほしい」部分がないわけではないのです。その部分がアスペの彼女との間で常に否定され続けるという現実に突き当たり、そのことの意味が分からず、苦しみ続けるということが起こります。あるいは「察してほしい」部分は「少ない」からこそ、その部分の重要さはむしろ大きいとさえ言えます。その大事なところを受け止めてもらえないことのショックはさらに大きくなるわけです。

 でもそれをいくら訴えても、アスペの彼女は理解してくれません。そもそもの発想が違うので、そう簡単には理解できないわけです。だから彼女の方は何を要求されているのかがわからず、なんで自分が責められなければならないのかもわからない。そこでお互いに苦しむことになります。

まあ、とりあえず定型の中のいろんなバリエーションのひとつから考えてみましたので、アスペの方の側についてはかなり単純にひとまとめにして考えましたけれど、実際はアスペの方にもいろんなタイプがあるでしょうし、そのあたりはまた丁寧に考えていく必要があるでしょう。でもごく大づかみに言うと、そんな対比の仕方をすることで、かなりいろいろ見えてくるように思います。

2018年4月 8日 (日)

「変わる」ことと「変える」こと

 引き続き、Tinaさんからいただいたコメントからです。ほんとに刺激的です。
   

 「家族なんだから」という言葉。私も 議論中 よく使った記憶があります(笑) アスペ的には 家族という 特別感があるんですけど なかなか伝わってくれません。家族だから 誰よりも 寛容で あまーーくなっている部分もたくさんあって そういう部分も全て受け入れて文句も言わない。

 
 やっぱり「家族」という言葉は結構キーワードなんですね。定型アスペ関係でどこまで一般的なのかはもちろんわかりませんが、少なくともTinaさんのカップルと私と相方の間では、ほんとに共通するポイントが問題になって来たようです。

 それで、その「家族」という言葉が持つ意味が、どうも定型アスペでずれている可能性がある、と昨日書いて、そして私の感覚からぎりぎり想像すると、アスペの方の「家族」というのは、定型で言えば親子関係のようにもう運命的に決まっていて、変えられないものという感覚なのではないか、と書きました。

 ただ、そう書きながら、もうひとつピンとこないものがありました。そのよくわからない部分が今回のTinaさんのコメントでかなりすっとわかる感じになったのです。

 

結婚前みたいに 気持ちを確かめ合うようなことはしない(必要もないし 逆に していたら不安な証拠)

 
 アスペの方の発想は、いろんな面で「白黒はっきりしている」、という印象があります。別の言い方をすれば中間の「あいまいさ」がない。定型はかなり意図的にも無意図的にもこの「あいまいさ」を生み出し続ける傾向があるのだと思います。

 なぜかというと、たぶん想像するに、それは「調整する」ためです。「ゆずりあい」を極端に重視するように思える日本的な人間関係では特にそれが著しくなって、日本語では主語をはっきりと言わないという、そんなレベルで曖昧にすることをやります。そして相手の意向を「忖度」して、はっきりとしたことを言わないことで、直接的なぶつかり合いを避けてゆるやかに調整しようとする。それが日本では「大人」の態度と考えられているような気がします。

 アスペの方が日々ぶつかるのは、そういう定型的な「あいまいさ」の世界ですよね。

 で、同じことがここにもあるように思えるのです。「結婚」というのはもちろん定型的にも大きな境目ですが、でも決して安定したものではない。安定したものではないからこそ、結婚式ではよくみんなの前で「神様への誓い」みたいなことをやるわけです。単に私とあなたが二人で決めたらそれでOKではないのですね。そうやって世の中で枠をはめないと安定しない。

 逆に言えばTinaさんが言われるみたいにそこにはそういう不安定さへの「不安」が付きまとっているとも言えるのでしょう。それは言ってみれば「調整を重視する」定型的な「あいまいさ」がもたらす代償みたいなものかもしれません。

 ということで、定型的なカップルでは、いつもではないにしてもときどき「表現しあう」ことで絆を「確かめ合う」とか、「強めあう」ことがどうしても必要になるのだと思います。で、そういう「表現」に応えてくれないことが続くと、途端に隠れていた不安が噴き出すことになるわけですね。その意味で、定型にとってはそれは「必要」なのだということになります。

けど、定型が求めるような要求もしないから プレッシャーも与えない(定型は プレッシャーとは思わないのだろうけど、いつか 少しでも面倒くさいとか疲労に変わる)。良し悪しがあると思うんです。求めない分 文句も言わない。それは 興味がないからではなく 好きだからなんですけどね。法に反しない限り許せてしまうんですね。
  
 この「プレッシャー」という表現がすごくわかりやすかったです。なるほど、そういう表現になるのか、ということですね。

 そこで考えてみたんですが、定型はプレッシャーを与えているというより、たぶん「お互いに求めあっている」という感覚に近いんだと思います。求めあって、相手がそれにちゃんと応えてくれること、自分が相手に応えられることを確認して安心する。だからそういう大事な相手からは求められることも大事になります。求められているという事は、必要とされているという安心感にもつながります。

 カサンドラも、この安心感が得られないことから生まれるのではないでしょうか。それはなにしろ定型お得意の「あいまいさ」ゆえの「不安」に根差したことなので、その部分が「白黒はっきりさせる」アスペの方にはなかなかピンとこない部分なのだと思います。

 そして、それを「プレッシャー」と感じるアスペ的感覚についても、その後のお話を読んでまたわかるような気がし始めました。
 
よく 小言をいうイメージがあるのは 定型です。 うちの場合は 彼の 小言がすごかったです。うちの親(母が定型、父がアスペ)の場合 母の小言がすごかった。自分が満たされないと不満も ばんばん言う。= あなたのこの部分は許せない、認められない、変わってほしい。
 
 私の場合、相方が「小言」がすごいと感じ続けてきたので(もちろん彼女にその意識は全くないと思います)、これを読んですごく面白かったです。

 たぶん、「許せない」部分がお互いに違うんです。自分にとってはどうでもいいか、あるいはその人の勝手でひとに口出しされるべきところではない、と感じている部分について、相手から言われるとそれが「小言」と感じられる。だからお互いに「自分にとって許せない」部分ではどうしても口出しをしてしまい、それは相手にとっては「小言」になる、という関係がお互いに成り立ってしまう。そして自分も相手には「小言」を言っていることについてはお互いに気づかない。そんな関係が成り立っていそうです。
 
きっと 定型にとって変わることはそんなに大変なことではないんでしょうね。その部分を変えればそれで済むみたいな。
 
 「変わること」というか、たぶん「調整すること」なんだろうと思いますが、ここが「あいまいさ」を特徴とする定型の本領発揮の部分でしょうね。そしてそれは大変ではない、というより「必要なこと」と感じられているのだと思います。もちろんアスペの方に比べればそのために必要な努力は少ないのかもしれません。

 
私の場合は その小さな部分も私の一部で そのままを受け入れてもらえないんだと 悲しくなり、私じゃなくてもいいんじゃないかなと思ったりします。そんなに文句があるなら なぜ私といるんだろう?と思ったり、変わって欲しいと思われることは それは私じゃなくなるくらい大変で、自分が変わりたいと思っている部分ならもちろん変われるし 努力も出来るけど 自分が 良しとしていない部分で要求されても 無理ではないけど それは 本当の自分ではなくなって 相手といる意味さえわからなくなってしまうかもしれません。
 
 私には「なるほど!」の連続です。こうやって説明していただくことで、いろんな謎が解けていく感覚があるんですね。

 定型がアスペの方の特徴の一つに「こだわり」というのを挙げることがよくあります。診断基準にもそういうような内容がありましたよね。あれ、完全に定型基準だと思います。定型はアスペの方よりも「調整のためのあいまいさ」を重視していて、その意味で「柔軟さ」が求められています。「自分」というものも、その意味でゆるやかに変化する必要がある。

 でも、「白黒はっきり」型のアスペの方の場合、一部が変化すると、全体が崩れてしまうとう印象になるのでしょう。それは「あいまい」な世界になり始めることで、「はっきりさ=完全さ」が失われるからです。

 自閉的な子がしばしばおもちゃをきれいに並べることに一生懸命になり、定型から見ると何が面白いのかわからないので「奇妙なこだわり」と考えたりするわけですけれど、あれもそういう「白黒はっきり」の感覚とつなげて考えるとわかりやすくなります。明確な形、はっきりした輪郭、安定した構図によって安心感が生まれる。それが崩れると不安になる。

 定型の場合、不安になるポイントはそれとは違い、「あいまいさ」を前提にして「表現」しあうことで安心感を作ろうとする、そこが崩されることで起こる。アスペの場合、「白黒はっきり」を前提にして明確なことに安心感を感じ、それが崩されると不安が起こる。そういう対比がありそうに思えます。

 そしてそこはたぶんそれぞれの「美意識」にもつながるのかなと。

 そういう風に考えると、Tinaさんの葛藤も私には理解しやすくなります。Tinaさんにとって、自分を成り立たせている大事な部分(たとえそれが「小さなもの」とみえるものであってさえ)が崩される、否定されるという事は、自分の全体を否定されることにつながる。それは耐え難い事だとかんじられても当然かと。

  
私は 相手を変えようとすることに すごく抵抗があります。良いところも悪いところも 全て認めて好きだから相手を選んだのに 悪いところを変えて 100%良い人になれと言われているように感じてしまいます。= 私ではない 別の素晴らしい人。それを言い出したら キリがないし、私は言いたくないのです。
 
 ここもよくわかる気がします。

 Tinaさんの目からは「100%良い人になれと言われているように感じ」られるわけですが、定型はそういうことを求めているわけではなくて、「お互いに少しずつ変わって調整しましょう」と呼び掛けているわけです。でもこの「少しずつ」というところが「白黒はっきり」スタイルでは「全部変える」ことにつながってしまい、それは一方的で不当な要求だとかんじられてしまう。

 私の相方からも、なぜ自分を受け入れてくれないのか、ということを時々言われて戸惑うのですが、たぶん同じことですね。私が「お互いに調整しあおう」という姿勢で臨むときに、その内容が「一部の否定=全否定」として受け止められてしまう。だから「お互いに変わろう」とする私の働きかけが、彼女にとっては「自分を受け入れてくれない」こととして感じられるのでしょう。そう考えると私にはかなりわかりやすくなります。たしかにそういう観点から見ると、私は彼女を「受け入れていない」ことになるのですね。ほんとに「なるほど!」です。


 と、こんな風に考えてみると、定型にとって「お互いを大事にする」ということと、アスペにとって「お互いを大事にする」ということの意味のずれが私にはかなりわかりやすくなります。

 共通する部分は「相手を大事にする」ということは「相手にとっての自分」を大事にすることだ、ということです。ただ、そこで「相手にとっての自分」の中身に大きなずれがある。

 アスペの方にとっては良い部分も悪い部分も含めて、今ある私の感じ方や生き方の全体が大事な自分です。それは何かで大きく変わることがあるかもしれないけれど、もしそういうことがあるとすればそれは世界が変わるくらい大きな変化で、そう簡単に変わることではない。お互いにそういう自分を抱えて生きているのだから、お互いにそれを大事にすることが理想的な人間関係になる。

 定型にとってはお互いに良い部分も悪い部分もあるのだから、お互いに調整しあって生きることで自分が成長し、また支えられる、という感覚がある。だから自分自身にも変化を求めるように、相手にも変化を求める。そうやって「お互いに」変化していくことが理想的な人間関係になる。

 もちろんかなり単純化した図式化ですけれど、そういう視点で定型アスペ間の葛藤を考えてみると、そのパターンに入るものが相当多そうな気がします。

 
定型が満たされていないのは 本当に相手のせいなんでしょうか。と ちょっと疑問に思ったりします(笑)
 
 はい、そうですね。ただ、ここで大事なのは「相手のせいではない」=「自分のせい」ということではないということだと思います。定型的には「相手のせいではない」=「お互いのせい」になります。だから定型的には「お互いが変わる」ことが必要になる。(もちろん、アスペの方から見ると、「とんでもない、定型は自分が変わろうとしないで、自分たちのやり方をひたすら押し付けてくるじゃないか」という反論が出てくるだろうこともよくわかります。それについてはまた少し説明が必要になるのですが、長くなるので今日は控えておきます)

 定型的には「お互いが変わる」ことで満たされる、というのが理想なわけですね。
 
トピズレになってしまってたら ごめんなさい。アスペと定型で話をしているつもりだけど、私だけかもしれないので 的外れだったら申し訳ないです。
 
 いえいえ、私にとっては定型アスペ問題のど真ん中に感じられます。ただ、もちろん定型と言っても、アスペと言ってもほんとにいろいろですから、この話がどこまで一般的に言えるのかは当然わからないわけですが、ただこの場でこれまでいろいろ考えてきた事については、そのかなり多くの部分に共通している問題なのだろうと感じています。

2018年4月 7日 (土)

夫婦の「特別さ」のずれ

 またTinaさんから頂いたコメントに触発されての話です。Tinaさんはこう書かれています。

定型が求めているのは エクストラ感(特別感?)ですかね。アスペが求めているのは 自然体(気付かない心地良さ?)ですかね。
だから 定型は エクストラに行動も起こすし、表す分、普段以上の見返りも求める。アスペはエクストラ感は出さずに 極力 相手が自然体で心地良くいられる空間を提供したい=干渉しない、そのままを受け入れる、相手を変えようとしない。= 何もしてくれているようには見えない。= 冷たく見える。
そして エクストラの行動を起こさないアスペは 文句を言われてしまう。

 たしかにエクストラ感というのは言える部分がありそうです。なぜかというと、定型の人間関係では、突き放してドライに見れば、基本的に「仲間づくりをする」「徒党を組む」ということ、よく言えば助け合いの関係づくりがとても重要です。だから「あなたには特別な思いでこのことをしている」ということの表現と、「私はそれを受け入れた(または拒否する)」ということの相手からの表現を貰えることがとても大事なわけです。

 普通の人にはしてあげないことを、あなただからしてあげるんだ、という関係をものすごく重視するんですね。お互いにそれが成り立つ関係は「親しい関係」で、それはつまりお互いに多少自分のことは犠牲にしても、相手のために何かをしてあげる「特別な関係」(きずな)なわけです。「表現」というのはそのことをお互いに確かめ合うことだと考えることができます。

 もちろん定型がいつも意識してそれをやっているわけではありません。意識的にコントロールしてやるのは「政治」の世界ですね。あまりに露骨に政治的な人はだいたい嫌われますし、普通はそこまではあんまりやらない。ただ、はっきり意識はしていないけど、実はそういう気持ちの動き方があって、ごく自然にほとんど無意識にそうやっている。「自然体」という意味ではそれが定型の「自然体」で、そういう意味では「特別」なことではありません。

 そういうふうに「自然体」で「特別」なつながりを一生懸命作って生きるのが定型だから、だから相手から期待した「表現」が得られないと、それは自分の大事な思いが拒否されたことになり、その「暗黙の期待」が裏切られてすごく傷つくわけです。「あなたにとって私はどうでもいい人なのね?」という傷つき方をする。


 もちろん定型は特別な関係を作るが、アスペはそれをしない、というふうに単純に割り切って考えることは無理で、アスペの方にももちろん「特別な関係」はありますよね。たとえば「家族」という関係。私の相方はよく私のことを「家族なんだから」と表現します。それは「家族でない人」とは全然違う人間だ、ということなわけですよね。

 ところが「家族ならこうするだろう」というところがずれてしまうわけです。

 今までに考えてきた典型的な例で言えば、アスペの男性が結婚後に定型の女性に対して、それまでよくしていたプレゼントややさしい声掛けなどを急にしなくなってしまう、という話もありました。それで定型の女性の側からすると「釣った魚には餌をやらない」ということなのか、というショックを与えられることになる。カサンドラの始まりですね。

 でもそういう変化の理由としてアスペの方から語られることに、やはり「家族なんだから」というものがあったわけです。恋愛の時は家族になるまでの特別の状態で、だから特別の配慮を相手に対してたくさんする。でも「家族」になってしまった以上、その必要はないわけです。そんなことをしなくても家族は永遠に家族だということですね。


 定型的な感覚から言えば、「親子関係」は比較的それに近い「家族」という部分があるかもしれません。それはもう運命のようなもので、一度親子になってしまったら、その関係はどうやったって切れない。法律的には親子関係を断つことはできても、それは言ってみれば形式的な話です。思いの中の親子関係は断ち切れない。

 だから、もしアスペの方がそういう感覚で「運命的なもの」として結婚を考える傾向があるのだとすれば、ちょっと想像は可能になります。

 でも、定型的な感覚から言うと、それは違うわけですね。たとえ夫婦であろうと、思いを伝えあって絆を確かめ合い続けることが必要だと感じる。もちろん世の中、そうでない夫婦はたくさんあるわけですが、でもそれは言ってみれば「仮面の夫婦」で「夫婦としての実態がもうなくなっていて、あとは惰性か打算で一緒に暮らしているだけ」というイメージになります。そういう「虚構」の関係に耐えられなくなると離婚になる。一時、定年後に奥さんにしがみつく男性を「ぬれ落ち葉」と呼んで、そこから離れて「本当の自分の生き方」を探ろうとする女性の姿が盛んに語られた時期がありましたが、それもそういうことでしょう。

 そういう感覚がベースにあるので、アスペ的な自然体で「運命的なつながり」のように思って「表現」をおろそかにされ続けると、それは(定型的な意味での)思いの共有を断たれたように感じられ、「仮面の夫婦」への道と感じられてしまうことになります。
 
 
 どうもここの定型の感覚が、アスペの方にはわかりにくいようですね。で、定型はその対極のアスペ的感覚がほんとに謎になる。

 「アスペルガーと定型を共に生きる」の伸夫さんが、カレンさんとの離婚協議の中で、離婚後にどうやって生活費を工面しあうか、ということをいろいろ考えて提案しているのですが、これを読んで私は訳が分からずに面食らいました。離婚をするという事は他人になることで、そういう助け合いの関係をもうおしまいにしましょう、ということだという感覚があったからです。

 逆に私の相方などは、離婚したら相手のことはもう考えない、というのは人間としてとても冷たいことだ、と言います。だから定型は冷たいよね、ということになります。

 この感覚のずれはすごく大きいと思えます。

 単純に図式化すると、定型は親子関係の運命的なつながり方と、夫婦関係のつながり方にはかなり大きな差を考えている。夫婦関係はどこまでいっても他人同士の関係というところがあり(桂枝雀の言葉に「夫婦は一番近い他人」みたいな言い方もあったと思いますが(笑))、だからこそ、思いを「表現」して伝えあい、つながりを維持し続けない限り、関係はどんどんマンネリ化し、やがて「仮面夫婦」となってしまうと感じる。

 それに対してアスペの方は夫婦関係を親子関係に近いような運命的な関係と感じ、別に親子では特別の気遣いをしなくてもつながりが基本的には断ち切られないように、夫婦関係でも、ただ「夫婦」であるということでその関係は断ち切られないことになる。だから「表現」などということをするのはむしろわざとらしいことで、不自然で「他人の関係」になってしまう。

 そんな風に対比させてみると、私には結構わかりやすい感じになります。

「表情」と「表現」と思いやり

 昨日と同じ話なのだと思いますが、思いやりってなんだろう、と思います。

 定型アスペ関係では、自分が思いやりと思ったことが相手にはそう感じられない。逆の意味にとられることもある。

 でも相手にとって思いやりと感じられることをこちらがしようとすると、それは相手を思いやらない時のやり方になってしまうので、それを「思いやりの気持ち」ですることができない。

 そうすると、「相手は思いやりと理解しないけれど、自分が思いやりと思うやり方をすることが思いやりになる」のか、「自分は思いやりとは思えないけど、相手が思いやりと理解することをすることが思いやりになる」のか……。

 アスペの方が日常でつらい思いをされることが多いのも、たぶんその問題なのかなと想像します。「このやりかたはおかしい」と感じながら、でもみんなそうしているし、そうしなければならないと言われるから、仕方なしにやる。でもそれは自分にとってはとてもつらいことになる。

 仕事の場合はそれでも「お金をもらうのだから、嫌なことでもしなければならない」という形でなんとか自分をごまかすことができるかもしれません。でもそういう思いで無理を続けてくたくたになって、家に帰ってきてそれを相方の人に続ける気持ちにはなれない。

 もし家でもそれをやってしまったら、それは家ではなくて、職場になってしまうのですから。それでは自分が自分でいられる場所がなくなってしまいます。

 同じことについて定型の側はたぶんこうなります。定型は職場で求められることについて、たとえあまり気が向かないことでも、なぜそれが求められるかはわかる。だからいやでも従ってやることがある。で、その嫌だけれどしかたなくやる分は「お金をもらっているのだから」で自分を納得させます。

 ただその自分の感覚と職場で求められることのギャップはアスペの方より格段に小さいので、一日の仕事を終えても「息も絶え絶え」という状況にまではならない。そうではなくて、「我慢していた分、発散して元気を取り戻そう」ということになる。遊びに行ったり飲みに行ったり、そういうことをする。

 この、気の合う人と飲みに行ってうっ憤を晴らしたりして元気になる、というのがとても定型的だという事になります。アスペの方にとってはそれは逆にさらに人に気を遣って疲れる場でしかないことが多い。

 つまり、「嫌なことをさせられて疲れてしまう」時に、どうやって回復できるか、ということのパターンもずれてしまうのですね。定型はそこでひととのかかわりを求めることが多い。もちろん趣味とかもありますけれど。

 そのとき、定型にとって人とのかかわりで大事になるのは、「気を遣わなくてもいい、自分の気持ちに素直になれる人とのかかわり」です。そこで「気持ちを通わせる」ことで元気になる。それが一番可能なのは(というか可能であってほしいと思うのは)、家族という事になります。

 ところがアスペの方は「気持ちを通わせる」というよりも、たぶん「自分の気持ちも相手の気持ちも大事にしてそっとしておく」ことが重要と考えるというズレがある。だから定型からすると、自分が疲れをいやすために家族と気持ちを通わせたい思いが、拒否されたように感じてしまうことになる。それは「家族であることを拒否された」という意味になります。

 ということで、家族というのは「疲れを癒せる場」という大事な働きがあると思いますが、その「疲れた気持ちをどうたてなおすか」ということでもずれがあるのですから、問題が深刻になります。

 そのずれに気づいて、自分の求めるやり方を続けることは相手にとっては負担になるだけだと思うようになると、相手に合わせたやり方をしなければならなくなる。でもそれでは自分は素直に相手のためにやっている気持ちにはなり切れず、言ってみれば「理解できないけど要求されるからしかたなくやる」という「仕事」のようなことになってしまう。そうなると癒しはない。

 ここでもやはり「思いやり」ってなんなのかが問題になるわけですね。


 

 「思いやり」は基本的には「相手のために」することです。ですから、多少なりとも自己犠牲の面がある。でもその「相手のためにする」ということの意味は、仕事のそれとは違います。

 たとえば商売をしていて相手に笑顔を振りまく時、それは笑顔の方が相手が気持ちがいいからそうするわけですが、でも相手がそれにたいして笑顔で返してくれなくても構いません。お金で返してくれればそれでいいわけです。自分の「思いやり(笑顔)」は基本的にはお金のためにすることで、本当の意味では相手のために自己犠牲を払う事でもない。もしかするとその品物れ相手が買うことは相手のためにならないかもしれない、と思っても、法律違反でない限りは相手が求めればお金儲けのためにそれを売るのが普通です。

 でも、家族の場合、「思いやり」は本当に相手のためになると思えるかどうかが大事になる。「思いやり」の対価はお金ではないのです。

 定型の場合はそこで「気持ちでお礼を返す」ということをかなり大事にする。そのお礼の仕方は言葉で言うこともあれば、嬉しそうにふるまうことで感謝の気持ちを表現することや、あるいはいつか具体的に何かお返しの品物や行動をするというような、いろんな形があると思いますが、いずれにしても「私はあなたの思いやりがうれしいです」という自分の気持ちをどこかで具体的な形で「表現する」ことが大事になっています。

その反応が返ってきたときに、定型は自分の思いやりが相手に受け取られたことを感じることができ、自分の苦労や自己犠牲が「報われた」と感じられ、元気になるのですね。それがないと、「自分の思いやりが拒否された」とか「無視された」と感じ、報われないまま落ち込む(あるいは場合によって怒りを持つ)ことになります。

 もちろん私の相方も、私のためにと思ってやっていることが理解されないと言って嘆き続けていましたので、アスペの方も報われないことはつらいことは間違いないと思うのですが、たぶん「何が報われることになるのか」にずれがあるのでしょう。

 そのずれは、たぶん「表現」という問題の重要性にありそうです。これまで「表法」と「表現」のズレとして考えてきたことですね。

 これまでもアスペの方が誤解される典型的な場面として、「相手にものを依頼されてしんどそうな顔をする」という場合を考えてきました。アスペ的にはそれは単に「自分にそんなことがひきうけられるのだろうか?責任を持てるだろうか?」などと心配しているだけの「表情」であることが多いのですが、定型はそれを相手から自分に向けられた「表現」として直感的に理解します。ですから、その表情の意味することは「なんであなたはこんなに大変なことを私に要求するの?どうして私をそうやって苦しめるの?」という非難である、と理解するわけですね。

 これに限らず、アスペがたんに自分の素直な気持ちが表情に自然に現れているだけ、と思っていることを、定型が「自分に対する表現」として理解するためにお互いに訳が分からない展開になる、ということがいろんなところで見られるわけです。

 このことは定型が「表現」を重視して人間関係を作るから起こることです。それだけ定型にとっては「表現する」ことが大事なのですね。だから「思いやりへの感謝」も、なんらかの表現が大事になるわけです。

 ところがアスペの方はそういう定型的な表現には重要性を感じない。むしろ「形だけの虚飾」みたいに無意味なこととして否定的に感じられたりする。だから「朝の挨拶」も意味ないこととして思われたりすることもある。だから家族の間ではそんな「不自然」なことをしない。そうすると定型の方は自分の思いやりが無視されたようなつらい気持ちになる。



 もうちょっと考えるべきことがありそうですが、とりあえずそんなふうにお互いの「思いやり」の感覚がずれているとき、そのずれをどう埋めることができるのか。

 ひとつの考え方としては、「このやりかたは自分にとっては思いやりの意味を持たないんだけど、相手はそれを大事にしているのだから、<相手のためにそうしてあげる>」という形でもうひとつ大きな目で見て相手を「思いやる」というのがあるかもしれません。それが本当にその人の思いやりの気持ちになっていけば、そこでひとつ乗り越えられることになるかもしれません。かなりむつかしそうではありますが。

 そこでも<相手のためになっている>ことを確かめて自分が満足できるようなことが必要ですし、まだいろいろ考えなければならないことがありそうですが、少し考えるための糸口になりそうなことが見えてきた感じもします。 

 

 

2018年4月 5日 (木)

愛情とはなに?

 

Tinaさんからの次のコメントで、改めて「愛情」ってなんだろう?と考え始めています。

夫婦の場合、一つ一つ学ぶのは お互い様なので、どちらも大変ですよね。どちらの言動行動も 相手にとっては 愛情がないように思えたり、残酷に見えたりするのですが、、悪気があるわけではないということを お互いが まず信じることが 第一歩なのかなと思います。 そう思えたことで、嫌な思いや、憤りをあまり感じなくなりました。「これも 愛情あってのことなんだ」と いつも 自分に言い聞かせています(笑)

 もともとは愛情というのは「感じる」ものであって、「頭で理解する」ものではありません。その「感じる」部分で定型アスペ関係は困難に突き当たるわけです。自分の愛情が伝わらない。相手の愛情が感じられない。お互いに自分では相手に愛情を持っていると思っているのにかかわらず。

 このブログでは、そういう現実を前に、ある意味仕方がないので「頭でまずは理解する」という方法をとっています。その結果、Tinaさんの書かれるように「まず信じる」ことの可能性が出て来ます。そして「嫌な思いや、憤りをあまり感じなく」なる、という変化が起こります。もちろん完全には無理ですが、レベルが変わる。

 でも、そこで「愛情」を「頭で認める」というのは、ある意味つらいことでもあります。Tinaさんは「いつも自分に言い聞かせてい」ると書かれています。

 一番問題になるのは、単に相手の愛情がピンとこないだけではなく、そのやりかたが自分にとっては辛く感じられるときでしょう。

 その状態でも相手に「愛情がある」と認めるには、「私がどう感じるか」で判断することができません。「相手はどう思っているのか」で判断しなければならないわけです。

 「自分が愛情と思うだけではなく、それが相手にとっても愛情と感じられるものでなければ本当の愛情ではないんだ」、という考え方をすれば、そこには愛情は無いことになります。

 逆に自分には愛情はないんだけど、勝手に相手がそこに愛情を感じている、ということもありうるわけですが、そうするとそれは愛情になるのでしょうか。

 私の思いとあなたの思い、私の受け止め方とあなたの受け止め方、それらがややこしく絡まってしまう問題です。一体愛情ってなんなのでしょう。

 

2018年4月 2日 (月)

次の課題:折り合いのつけ方

 ここまでで、アスペの方がなぜ病気の時に必要最小限の世話以外は放っておいてほしいと感じることが多いか、自分の感動したものを大事な人に見せてあげるときに自分からは何も感想を言わないのはなぜか、自分の悩みを聞いてくれた人が「自分もつらくなった」と共感してくれた時に逆に自分のつらさが倍になると感じるのはなぜか、あるいは久しぶりに「アスペルガーと定型を共に生きる」の例で言えば、病気療養中の奥さんが家族に負担をかけていることなどをつらく思い「こんな私でもいたほうがいい?」と聞かれて「どっちでもいい」と答えるなど、定型的な感覚からするととても分かりにくいことについて、それらに共通する心の動きについて少しずつ理解を深めてきました。

 そして最近になって、そういう気持ちの動き方、あるいは人生観になる理由を、その生い立ちの特徴から理解する、という道筋が見えてきました。それによって、上のようなことは定型的な想像力がなんとか及ぶ範囲のことになり始め、さらにそういう理解はアスペの方からしても納得いくものというコメントをいくつかいただいています。

 そういうひとつの足場が見えてきたところで、次の課題、つまり違う感覚を持つ人どうしの調整の仕方、折り合いのつけ方をどうするか、という問題に進むために、またいろんなことについて考えてみる必要がありそうです。

 前の記事でも書いたように、アスペの方の「自分のことは自分で」といった、ある意味非常に自立した、また同時に他者とのかかわりを拒否するようにも見える人生観が作られる道筋は、定型でもある程度想像可能です。ただ、もっと具体的なところに戻って考えたとき、「お互いに意図が伝わりにくいからそうなる」ということまではわかっても、「なぜそこが伝わりにくいか」という問題はまた別で、そこはとてもむつかしい。

 つまり、「感じ方や理解の仕方が違って、わけのわからない状況に苦しめられるから、人に頼らなくなる」ということは一般的には想像できても、「なぜどのように感じ方や理解の仕方が異なるのか」という具体的なことはそれだけではわかりません。

 そのレベルの違いになると、これは例えば赤緑色盲の方の見え方の違いを想像力で理解するのはむつかしく、網膜の生理学的な仕組みから「客観的」に理解することが必要になるように、脳の神経の仕組みなどでそういう違いが生まれる理由を理解するよりなくなるかもしれません。赤緑色盲の人は緑と青、緑と赤の区別がむつかしい、ということは、話としては理解できても、特別な装置でも使わない限りはその見え方を実感として追体験し、想像することはできない、というようなものです。

 もちろんアスペの方は人間関係の理解などの中で定型が見えるもの、区別できるものがそうできない、という言い方だけではちゃんとした理解にはなりません。「感覚過敏」と名付けられているようなことがありますが、それはその「過敏」を持つ方は定型が区別しないような、あるいは気づけないような小さな違いを非常にはっきりと感じ取ることができる、というふうに見ることもできます。

 いずれにせよ、お互いに見え方にずれがあるわけで、そしてそのようなずれの部分はたぶん想像力だけでは及ばない面があると想像されます。

 もしかすると、赤緑色盲の世界を理解するには、特殊なメガネを使えばたぶんその見え方を体験できるように、あるいは聴覚過敏と言われる世界を理解するには、一定の範囲の音を拡大して聞かせるヘッドフォンなどを使えばその世界を体験できるように、何かの工夫である程度まではお互いの世界を追体験できる可能性はありますが、それも限界があるでしょう。

 「違う」ことはわかっても、どうしてもその違い方が自分には実感できないような場合、しかも「自分にとっては心地よいことが相手には心地悪い」(またはその逆)ということがそこで起こる場合、どうやってお互いの折り合いをつけられるかはまた別の問題です。

 どちらかに合わせるという方法をとると、合わせている側はだんだんつらくなっていきます。ずれ方がいずれ慣れて気にならなくなるレベルならいいですが、必ずしもその範囲に収まるとも言えません。どうしても無理が積み重なってくるかもしれない。そうすると長続きしません。

 お互いに少しずつ譲り合う、という形の方が対等な関係でいいのかもしれませんが、それができるためにも何がどう違っているのかをうまく理解できることが前提になるでしょう。でも、なかなか相手の感覚が想像しずらいので、そこもいろいろむつかしい問題がありそうです。

 またおいおい具体的な問題からそのあたりを探っていくことになりそうです。

2018年4月 1日 (日)

7年がかりの達成

 以前私の相方には、ここでの私の議論が自分にはわかりにくいということで、なかなか共有してもらえず、もう長い事見てももらえなかったのですが、なぜアスペの方が人に頼らず自分で問題を解決すべきと考えられるようになるかについて、改めて私の理解を説明したら、今度はとてもよくわかると言ってもらえました。同様の話はここでこれまで時々書いてきましたが、概略次のようなものです。

 アスペの方は共感を求める気持ちはあるし、理解されたい気持ちもあるが、なかなか自分の気持ちを人に理解してもらえず、また定型の気持ちは理解しずらく、そして定型からいろいろサジェスチョンされても自分には理解できなかったりあわなかったりして、「人に助けてもらえる」という実感が乏しく、さらにはそれらのことを定型から叱責されたり攻撃されたりする経験が積み重なる。

 それで人生のかなり早い時期から、「問題は自分自身で解決するしかない。人に解決をしてもらうことなどできない。また人に頼るべきでないし、頼っても意味がない」という信念を作るようになる。その結果、そのような生き方を自分の人生観にしていく。

 

 こういう風に言葉にしてみると、とてもシンプルな話です。たぶん定型が読んでも、多くの方はそれほど不思議感なく「なるほど」と思える説明の仕方になっていると思います。そしてその説明の仕方でようやく相方も私が理解していることを納得してくれたのですね。

 思えばこのシンプルな説明にたどり着くまでに、ああでもないこうでもないとぐちゃぐちゃ考え続けて7年以上かかったことになります。その説明は「脳のここの働きが弱い」とか「感情のこういう働きがおかしい」とか「こういう共感能力に欠けている」とか「ミラー細胞の問題だ」とか、そんな説明とは全く質が異なるものです。

 むしろ定型的な感覚をもう一度深く掘り下げてみることで、自分がある条件に置かれたときにはアスペの方と同じような考え方になるだろう、と「定型的にも想像可能になる」という形での理解です。その理解の仕方が相方にも通じたのだ、という事になります。

 その限りで、アスペ的な世界が、定型にとっても理解が可能になる部分が確実にあるということになります。

 もちろんすべてが理解可能になるとは絶対に思いません。そんなことは定型間だって無理です。ましてや定型アスペ間で完全に可能になることなどありえないでしょう。

 でも、わからないなりにわかる世界も見出していけるわけですね。今ようやくそのことに確信に近いものを得ることができました。

 なにかちょっと肩の力が抜けるような感じもします。

 

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