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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2018年3月 5日 (月)

こだわり?誠実?

 アスペ的な特徴として「融通が利かない」という見方があるように思います。「こだわり」と言われることもあります。「言葉を文字通りに理解して裏の意味を読まない」と言われることもあります。それで騙されやすいと言われることもある。「あいまいな表現を嫌う」というのも同じようなことですね。自閉系の方の特徴として、見方を切り替えることが苦手、というのが挙げられたりすると思うのですが、そのあたりは共通したポイントにも見えます。

 相方と話をすると、やっぱりここでやりとりが躓くことが多いように思います。彼女の話が一面的なように感じて反論すると、何か必死でまた反論される感じになることが多いのですが、その話が私から見ると筋が通っていなくて、ただ反論のための思い付きの反論と感じられたりして、驚くことがよくあります。

 すごく不思議に思うんですが、その理屈の通らなさが彼女に理解できないとも思えないんですね。だから、そういうやりとりで泥沼状態になりそうなときには、一旦時間を置くことが一番いいと、経験でだんだんわかってきたのですけれど、そうするとそんなにめちゃくちゃにはならない。彼女なりにちゃんと筋道を立てて話をしてくれたりします。

 そういうことを考えると、彼女は私に自分の意見が反論されたときに、私がどういう意味で反論をしているのかをその場でさっと読むのがものすごく苦手なんだろうなと感じます。相手の反論を理解するには、一旦自分の見方を離れて相手の見方で考えてみる必要があるのですけれど、その切り替えが苦手なら、反論の反論は結局相手の議論を無視して自分の主張を繰り返すだけになってしまいます。(ああ、このパターン、一部のアスペの方とのここでのやりとりでも非常に安定して繰り返されていましたね。)

 だから、彼女の場合は時間をかけると、たぶん自分の中で整理できて、私にも納得できるような説明をしてくれたりするのでしょう。そういうことができないのではなく、「その場で切り替えてはできない」ということなのかなという気がします。それが私から見ると「自分の一方的な見方に理屈抜きでこだわりつづける」と見えてしまうことになります。


 ……と書いてきたことは、「定型的な理屈」で見たときの話です。でも、少し見方を変えると、そのような姿勢は「純真」とか「裏表がない」とか、「一途」という風にも見える。たとえばアスペ的な方で芸術系に才能を発揮する方もあるような気がするのですが、その場合はこの純真さや一途さがとても大きく役立っているのでは、と思えたりします。周囲の雑音に惑わされず、一途に「純粋な美」を追求できる力を持っているとも言える。自然科学とか数学とか、ITの開発とか、そういうところで才能を発揮される方が多いようなのも、「真実」を追求する世界にあこがれるからだとも考えられそうです。

 それでふと思ったことなのですが、相方は子どものことをものすごく心配します。子どもが心配な状態にあるときはもちろんのこと、いいことが起こっても、私のようにすぐにすごくうれしがるという感じがない。もちろん嫌がりはしませんけど、喜びを表さないで、逆に心配な部分を探す。

 そういう彼女の態度が私には理解できず、過度な心配性だとか、それこそ共感的に人に接することがない人だという風に感じて、反発することが多かったのです。人間って喜びを共有できることで力が出てくるのに、それをしようとしない、と感じてしまうわけですね。



 でも、ちょっとここでも見方を変えてみると、彼女のその態度は、ある意味で本当に相手のことを考え、心配しようとする誠実な姿なのだ、というふうにも思えるようになってきました。そういう目で思い返すと、確かに彼女は本当に子どものことを考え続け、ずっと必死でした。たぶん私なんかより何倍も子どものことを考えようとしてきています。

 逆に私の方は「喜び」を共有しようとする傾向が強いのですが、それは見方によっては「自分が喜びたいから」とも言えなくもありません。自分に都合のいいこともあるから喜んでいる。そこは彼女は考えないような気がするんです。ひたすら子どものことだけで考える。

 だから子どもがつらい状態になった時は本当に苦しむわけです。そしてその子どもの状態がアスペ定型のずれから生まれた部分が大きいと理解するようになると、ものすごくショックを受けて激しくそのことで自分を責めるようにもなりました。私の場合はそんなとき、もちろん自分にも問題があるし、でも「お互い様」の部分もあると思ったりするのですけれど、彼女は責任を全部自分でかぶっている感じがします。

 たぶんその「誠実さ」は、一時は彼女を責めていた子どもにも伝わっていっていると思います。「すごくいい人」というのが子どもの彼女に対する評価の一つですが、それはほんとにそうなのだと思います。

 そんなふうに「融通の利かなさ」と言われることを「誠実さ」と見てみることで、彼女の像も相当変わって見えてくることになります。彼女は私には到底およばないような「誠実さ」と、その視点からの「やさしさ」を大事に生きてきた人のようにも感じられるようになります。その「誠実さ」がちゃんと理解されないことで、彼女はますますつらい思いをしてきた部分があるのでしょう。

 もちろん「誠実さ」というのはその人自身の考え方に基づく「誠実さ」になりますから、それが相手とうまくかみ合わない時には不幸な展開にもなるわけですが、だからといってその「誠実さ」自体を否定するのはおかしなことでしょう。大事なことはその「誠実さ」が活きる道を探ることなのだと思いますし。

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コメント

最近、我が家でも、夫の言動がどうしてそうなるのか、何となく分かるようになってきました。
息子が夫に、『アスペルガーの自分は定型社会でうまくやるためにこれだけ努力しているのに、なぜ、人に迷惑をかけるなと言っていたあなた(父親)は、同じ努力をしようとしないのか!』と説教してから、夫が自分の言動に少し(←この少しがポイント!)気を使うようになりました。
すると、彼は、私や家族から何かを言われると、以前は即座に沸騰していたものが、ぐっと黙るようになったんです。
それで、何か考えているんですが、結局そのまま黙ってしまうことが多くなりました。
あれ?もしかして、話の内容の全体が、うまく理解出来ないのかな?と感じました。また、違う話を同時にされてしまうと、どこがポイントか分からなくなってしまうのかな?と。
前はその一部や、本当にちょっとした言葉遣いなどに反応していたものを、もしかしてこれはポイントが違うぞ!と考えるようになったのかな?と。
私や子供達は一緒にいる時間が長いので、だいたい一部からその先の話が想像できるので、会話が成り立つのですが、夫はそれまでの経緯を知らないので、何の話か分からない。以前はそれでも一部だけに反応して怒り出したりしていたのが、息子に言われて、それは一部なのだと気付いたのかな?と感じます。
つまり、わからないながらも、他者目線は自分の主観とは違うものだと意識するようになったのかもしれません。

わからない会話に即座に反応するというのは、不安から来ているものじゃないかと思うんですね。
幼い頃から、誰かが自分を悪く言っているような状況や親が否定ばかりしてきたことを経験してくると、常に自分は悪く言われているのではないかと疑心暗鬼になってしまう。
これは、私自身が長年そうで、今でもこの不安が抜け切れていません。
こういう不安を抱える人は、自分の子供に対して過剰な不安を抱いてしまうことがあります。
私もパンダさんの奥様のように、子供のことになると、目の前が真っ暗になって取り乱してしまうことがよくあります。
自分だけでなく、子供までも悪い方へいってしまうのではないかという、根拠のない恐れがあります。
過剰反応や怒りや焦りは、幼少期から安定した生活を送ることが出来なかった不安からやってくるものなのかなと思います。発達障害があると、こうした不安を抱えてしまうことは、多いのではないかと思いますね。

はじめまして、ぱんださん。ブログをいつも見てます。わたしはアスペです。
いつもぱんださんのブログを読んだ後、続けてあすなろさんのコメントを読むと、なぜかブログに書かれていることの印象が、はじめ読んだ時とまったく違ってしまうんです。
自分でもよく分からないのですが・・・
きょうは、アスペは余計なことを言わずに黙ることが一番の解決なのかなと思ってしまいました。多分、お二人ともそんな趣旨で話していないことは分かっているのですが、頭に残ったのはそれだけです。

あすなろさんのコメントについて何か言いたいわけではなく、わたしの認知の問題で、アスペ(?)のご主人やお子さん達についての話にアスペの立場から感情移入してしまうのが原因だと思うんです。
自他の区分をはっきりさせれば、わたしとは関係ない話が心に刺さるようなことはなくなるのでしょうか?自他の区分をはっきりさせるほどに共感からは遠ざかるような気もして、悩ましいところです。

つばめさん

 はじめまして。どうぞよろしくお願いします。

 そういうこと、今まであんまり考えたことがありませんでしたが、なるほどとも思いました。

 同じ問題を考えていても、あすなろさんとちょっと視点は違うし、問題への向き合い方もそれぞれなので、似たようなことを書いていても、ニュアンスが違ってくるんでしょうね。象さんを前から見たときと後ろから見たときで違う見え方がする、みたいなものかも(別に象でなくてもなんでもいいですが (笑))

 自他の区別の話、やっぱりここがほんとに大きな問題なんだなと、コメントを拝見していて思いました。昔カウンセリングの授業を聞いたときには、自他を区別しながら共感する、というのが大事だと、そんなような話をしてましたけど、実際はそこがむつかしんですよね。

 私の相方も、たぶんそこですごくつらい思いを繰り返しているんだと思います。ようやくそういうことが少しわかるような気がしてきました。

 

>つばめさん

確かに、パンダさんの記事は中庸な立場で書かれているのに対して、私のコメントは、全く私目線です。
息子がこう言っていた、夫がこういう振る舞いをした、ということを見聞きして、私はこう思ったと書いているので、本当のところは分かりません。
しかし、そのコメントを見て、つばめさんが、夫や息子の心理が想像できるとしたら、これはすごいことだなと思いました。
私には、何度も何度も息子から説明されたり、夫と長年暮らしていても、理解が出来ないんです。
黙った方が良いと思われたのは、多分私が夫や息子とどうしても分かり合えないと感じているからだと思います。
今朝も息子とやり合ってしまい、どうしても話が平行線になりました。これだけ長年居ても分かり合えないので、お互い黙って、必要なことを紙に書くとか、ポイントだけ話すとか、きっと効果的な方法でコミュニケーションを取る必要があるんだと感じます。
黙るのはお互い様なんですよね。今朝も、あるところで止めておけば良かったんだよなー。どこで止めるべきだったんだろう?
ウチではよく、私が息子に言われます。
『余計なことを言いすぎる!だまれ!』と。(笑)

あすなろ家のやり取りでは私はあすなろさんの意見の方が感情移入します。

もしかしたら定型の母がアスペの父を責め立てている姿と、あすなろさんのご主人があすなろさんの特性を許せない姿が重なっているのかもしれません。
母が父を責めるときに「お父さんだって一生懸命なのにどうして受け入れられてあげないの?お母さんの見方が正しいとは限らないんだよ」と言ったら、母が他の兄弟に「さろまはお父さんに似ちゃった。だからお父さんが正しいと思い込むようになった」と愚痴っていたそうですが。母が正しいときと思った時は父に怒ることもあるんですけどね。
逆にアスペの父が自分の考えを母に押し付けた時には母があすなろさんのご主人とリンクすることがあります。

自分の境遇や価値観などによってそれぞれ捉え方が変わってくるのかもしれません。

私はアスペでありますが、あすなろさんのご主人や息子さんの仰ることの方が分かりにくく、むしろあすなろさんのおっしゃっていることの方が理解しやすいです(あすなろさんと意見が食い違うことも多いですが)。

気分を害したら申し訳ないですが、あすなろさんのご主人が定型的な感覚で、あすなろさんがアスペ的な感覚なのかと思うこともありましたが、他のアスペの方から見ればご主人や息子さんの方に共感できるとのお話であれば、捉え方の違いなのでしょうかね。
それか私もADHDが入っているからでしょうかね。

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