会話スタイルのズレ
サロマさんの「ただ自分の思ったことを書いているだけです。」というコメントがとても興味深くて、それをきっかけにいろいろまたイメージが膨らみつつある感じを持っています。
定型の場合、というか、定型でもとくに理屈っぽい人の場合が特にそうだと思いますが、会話というのはお互いの見方をやりとりして、そこに矛盾があれば「何が正しいのか」を明らかにしようとする、そういう意味がつよくあります。
だから相手の主張の意味をできる限り理解して、それに対して賛成できなければその主張を踏まえて反論しなければならない、ということが重視されます。もちろん現実問題として議論が紛糾するときはだいたいお互いに相手の言うことをちゃんと理解できていないことが多いわけですが、ただ「相手の議論の理解を踏まえて」ということは「必要だ」とは考えられ、重視します。そうやって「一致」や「共有」を求めるわけですね。
ただ、定型同士でもそういう「一致」にはかならずしもこだわらない場合もあります。たとえばどんな食べ物が好きかを話し合っているとき、Aさんはお刺身が好きだと言い、Bさんは唐揚げが好きだと言い、Cさんは魚の煮つけが好きだと言い……、おたがいにじぶんが好きなものを語り合う。
この時はAさんがお刺身が好きだと言っても他の人が「そんなのおかしい」と反論することはありません。「ああ、Aさんってそういう人なのね」で終わります。
仮にXさんが「私はごきぶりの煮つけが好き」とか言ったとしたら、多くの人は引くでしょう。その時は「Xさんはゴキブリの煮つけが好き」ということを認めたうえで(書いてるだけでも気持ち悪くなる (笑))、「Xさんは変な人」という理解になります。「そんなのおかしい(Xさんがそれを好きという事はない)」という反論にはなりません。
ただ、「お刺身は(全ての人にとって)おいしいものである」ということを誰かが主張し始めたら、それは議論になるでしょう。そうなると、それは単に個人の好みの問題ではなくなり、「すべての人が認める事実」の話になるからです。だから「そんなことはない」という反論が当然起こります。
つまり、定型の会話には「お互いに共通理解を求めて(あるいはお互いの見方の優劣をつけることを目的として)議論する」場合と、「それぞれの感じ方を語り合う」場合という、ちょっと異なるやりかたがあるということになりそうです。
どちらのやりとりのスタイルをとろうとしているのか、という事については、話しているテーマによっても違いが出るほか、たぶん言葉の使い方などで決まっていくのでしょう。
相手の主張を否定するときは、「私は議論で決着をつける戦闘モードです」という宣言をしているものとみなされます。たとえば「私は刺身が好き」といった時に「そんなのはおかしい」と言われるような場合ですね。あるいは「昨日は雨だった」といった時に「晴れてた」と言われる場合もそうです。
特にクッションなしにいきなり否定が来る場合は、「戦闘モード」と理解されることが多いでしょう。下手をすれば血みどろの戦いになることを覚悟している、というような宣言になることもあります。
いつもいつも命がけの闘いをしているわけにはいきませんから、定型はそこまでの激しい争いにならないように、いろいろクッションを入れます。たとえば「なるほど。あなたはそう思ったんですね。でも私は~」などといったん相手の意見を受け入れてから話をするとか。あるいはもっと簡単に言えば「へ~。」という一言を最初に入れるだけでも印象が変わります。特に日本でのやりとりはそのへんのクッションの入れ方が二重三重になっていて、定型同士でも相手がどういう立場なのかなかなかわかりにくかったりもします。それを入れないと「血みどろの戦いを覚悟」ということになってしまう。
これに対してアスペの方の会話は、「お互いの感想を言いあう感想交換モード」がメインであるように思います。まあ、ルールが明確で勝ち負けがはっきりするようなやりとりの場合は、最初から「戦闘モード」がはっきりしていますから、そういう明確な基準でもやりとりされると思いますが、特に会話のような場合は「感想モード」がベースになる。
感想モードですから、相手に対して自分が何を主張したとしても、それはあくまで「私はそう感じた」というだけで、それを責められる理由はありません。あなたはあなた、私は私なので、そこで一致する必要もありません。お互いの主張が全く正反対になったとしても、それは単にそれだけのことで、それ以上でもそれ以下でもない。
だから、アスペの方が定型の意見を「それは違う」と仮に否定したとしても、それは「貴方のいう事は真実ではない」と主張しているというよりも、「私は違うと思っています」という、自分の「感想」を言っているだけで、別に「相手(の主張)を全否定している」ことにはならないのだと思います。そこでズレが起こる。
ところが否定された定型の側は、「これは戦闘モードに入るという宣言をされたのだ」と理解するので、「争いを避ける」か「決着をつける」姿勢になります。そこで売られた喧嘩を買わなければならない状況と理解された場合は、どちらの主張が正しいのか、明らかにしようとするやりとりになる。ところがアスペの側は全然そういう意識がなくて、感想モードのつもりですから、なんで相手がムキになって反論してくるのかがわからない。なにか一方的に理不尽に攻撃されている気分になる。それで仕方なく防衛しようとすると、その防衛の仕方がまた定型には攻撃的な物言いに見えるので、ますます闘いがエスカレートしていく。
そうすると、定型の側から見れば「なんでいきなり戦闘モードでくるだ(なんでいきなり喧嘩を吹っかけてくるんだ)!」という憤りになりますし、アスペの側は「なんで自分が一方的に攻撃されなければならないんだ!」という憤りになる。そういうアスペの側の態度を見て定型は「自分から喧嘩を吹っかけておきながら、自分が被害者のようなことを言って責めてくるというのは、なんというひどいやつだ」という怒りがわいてくる。
そういう展開の中で、戸惑うアスペの側は「ただ自分の思ったことを書いているだけです。」というしかなくなる訳でしょう。それはアスペ的には素朴に正直な思いなのだろうと思います。
このパターンがどこまで一般的かはわかりませんが、少なくとも私の相方との間でとてもよく起こった不思議な「議論」の展開の秘密は、これでだいたい説明がつくように思います。そしてこの話は「自分の好きなものを相手にも見せてあげるけど、自分の感想は言わない」という定型的には不思議なアスペ的「共有」のスタイルとも同じ理屈で成り立っていることがわかります。その意味で、結構安定した定型アスペ間のズレのひとつなのではないかと思いました。
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