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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2018年3月

2018年3月30日 (金)

会話スタイルのズレ

 サロマさんの「ただ自分の思ったことを書いているだけです。」というコメントがとても興味深くて、それをきっかけにいろいろまたイメージが膨らみつつある感じを持っています。

 定型の場合、というか、定型でもとくに理屈っぽい人の場合が特にそうだと思いますが、会話というのはお互いの見方をやりとりして、そこに矛盾があれば「何が正しいのか」を明らかにしようとする、そういう意味がつよくあります。

 だから相手の主張の意味をできる限り理解して、それに対して賛成できなければその主張を踏まえて反論しなければならない、ということが重視されます。もちろん現実問題として議論が紛糾するときはだいたいお互いに相手の言うことをちゃんと理解できていないことが多いわけですが、ただ「相手の議論の理解を踏まえて」ということは「必要だ」とは考えられ、重視します。そうやって「一致」や「共有」を求めるわけですね。

 ただ、定型同士でもそういう「一致」にはかならずしもこだわらない場合もあります。たとえばどんな食べ物が好きかを話し合っているとき、Aさんはお刺身が好きだと言い、Bさんは唐揚げが好きだと言い、Cさんは魚の煮つけが好きだと言い……、おたがいにじぶんが好きなものを語り合う。

 この時はAさんがお刺身が好きだと言っても他の人が「そんなのおかしい」と反論することはありません。「ああ、Aさんってそういう人なのね」で終わります。

 仮にXさんが「私はごきぶりの煮つけが好き」とか言ったとしたら、多くの人は引くでしょう。その時は「Xさんはゴキブリの煮つけが好き」ということを認めたうえで(書いてるだけでも気持ち悪くなる (笑))、「Xさんは変な人」という理解になります。「そんなのおかしい(Xさんがそれを好きという事はない)」という反論にはなりません。

  ただ、「お刺身は(全ての人にとって)おいしいものである」ということを誰かが主張し始めたら、それは議論になるでしょう。そうなると、それは単に個人の好みの問題ではなくなり、「すべての人が認める事実」の話になるからです。だから「そんなことはない」という反論が当然起こります。

  

 つまり、定型の会話には「お互いに共通理解を求めて(あるいはお互いの見方の優劣をつけることを目的として)議論する」場合と、「それぞれの感じ方を語り合う」場合という、ちょっと異なるやりかたがあるということになりそうです。

 どちらのやりとりのスタイルをとろうとしているのか、という事については、話しているテーマによっても違いが出るほか、たぶん言葉の使い方などで決まっていくのでしょう。

 相手の主張を否定するときは、「私は議論で決着をつける戦闘モードです」という宣言をしているものとみなされます。たとえば「私は刺身が好き」といった時に「そんなのはおかしい」と言われるような場合ですね。あるいは「昨日は雨だった」といった時に「晴れてた」と言われる場合もそうです。

 特にクッションなしにいきなり否定が来る場合は、「戦闘モード」と理解されることが多いでしょう。下手をすれば血みどろの戦いになることを覚悟している、というような宣言になることもあります。

 いつもいつも命がけの闘いをしているわけにはいきませんから、定型はそこまでの激しい争いにならないように、いろいろクッションを入れます。たとえば「なるほど。あなたはそう思ったんですね。でも私は~」などといったん相手の意見を受け入れてから話をするとか。あるいはもっと簡単に言えば「へ~。」という一言を最初に入れるだけでも印象が変わります。特に日本でのやりとりはそのへんのクッションの入れ方が二重三重になっていて、定型同士でも相手がどういう立場なのかなかなかわかりにくかったりもします。それを入れないと「血みどろの戦いを覚悟」ということになってしまう。

 

 これに対してアスペの方の会話は、「お互いの感想を言いあう感想交換モード」がメインであるように思います。まあ、ルールが明確で勝ち負けがはっきりするようなやりとりの場合は、最初から「戦闘モード」がはっきりしていますから、そういう明確な基準でもやりとりされると思いますが、特に会話のような場合は「感想モード」がベースになる。

 感想モードですから、相手に対して自分が何を主張したとしても、それはあくまで「私はそう感じた」というだけで、それを責められる理由はありません。あなたはあなた、私は私なので、そこで一致する必要もありません。お互いの主張が全く正反対になったとしても、それは単にそれだけのことで、それ以上でもそれ以下でもない。

 だから、アスペの方が定型の意見を「それは違う」と仮に否定したとしても、それは「貴方のいう事は真実ではない」と主張しているというよりも、「私は違うと思っています」という、自分の「感想」を言っているだけで、別に「相手(の主張)を全否定している」ことにはならないのだと思います。そこでズレが起こる。

 ところが否定された定型の側は、「これは戦闘モードに入るという宣言をされたのだ」と理解するので、「争いを避ける」か「決着をつける」姿勢になります。そこで売られた喧嘩を買わなければならない状況と理解された場合は、どちらの主張が正しいのか、明らかにしようとするやりとりになる。ところがアスペの側は全然そういう意識がなくて、感想モードのつもりですから、なんで相手がムキになって反論してくるのかがわからない。なにか一方的に理不尽に攻撃されている気分になる。それで仕方なく防衛しようとすると、その防衛の仕方がまた定型には攻撃的な物言いに見えるので、ますます闘いがエスカレートしていく。

 そうすると、定型の側から見れば「なんでいきなり戦闘モードでくるだ(なんでいきなり喧嘩を吹っかけてくるんだ)!」という憤りになりますし、アスペの側は「なんで自分が一方的に攻撃されなければならないんだ!」という憤りになる。そういうアスペの側の態度を見て定型は「自分から喧嘩を吹っかけておきながら、自分が被害者のようなことを言って責めてくるというのは、なんというひどいやつだ」という怒りがわいてくる。

 そういう展開の中で、戸惑うアスペの側は「ただ自分の思ったことを書いているだけです。」というしかなくなる訳でしょう。それはアスペ的には素朴に正直な思いなのだろうと思います。

 このパターンがどこまで一般的かはわかりませんが、少なくとも私の相方との間でとてもよく起こった不思議な「議論」の展開の秘密は、これでだいたい説明がつくように思います。そしてこの話は「自分の好きなものを相手にも見せてあげるけど、自分の感想は言わない」という定型的には不思議なアスペ的「共有」のスタイルとも同じ理屈で成り立っていることがわかります。その意味で、結構安定した定型アスペ間のズレのひとつなのではないかと思いました。

 

2018年3月28日 (水)

異なるバランス

 人はなんかかんかバランスを取りながら生きています。暑ければ汗をかいて体温を下げ、寒ければぶるぶる震えて体温を挙げ、お腹がすけば(血糖値が下がれば)ご飯を食べ(血糖値を上げ)、理想的な状態を保とうとしています。体の仕組みが自然にそうなっています。この働きがうまくいかないと、しんどくなって、場合によっては死んでしまいます。

 体の仕組みだけではなく、たとえば寒ければ服を着る、といったように、何かを利用してバランスを保つこともします。火も使いますし、今は暑ければクーラーで部屋の温度を下げちゃうということまでします。

 疲れたら休みます。眠ければ寝るけど、ある程度寝れば自然に目が覚める。退屈すれば何か刺激になることをします。まぶしければ目を細めます。薄暗ければ目を見開きます。そうやってちょうどいい状態を保ちます。

 何のため、といっても特にすごい理由があるわけじゃなくて、ただ生きていくのはそういう事だとも言えます。

  食べる→満腹になる→活動する→お腹がすく→食べる→満腹になる→活動する→お腹がすく→……

 おんなじことの繰り返しで見方によっては馬鹿みたいとも言えますが、まあでも生きるってやっぱりそういうことですよね。で、そういう繰り返しが保てなくなると死んじゃうわけです。

 人との関係もそんな感じでしょう。寂しくなれば人を求め、うっとうしくなれば人を避ける。人に物をもらえばお返しをする。話しかければ答えられる。いやなことをされれば仕返しをする。お店で商品をもらえばお金を払う。やっぱりいろいろバランスを取りながら生きています。そしてそのバランスが崩れると、やっぱりしんどくなる。

 完全に植物状態になってしまうと、人とのそういう関係はなくなりますが、意識があって生きている限り、なんかかんかそういう人との関りが生まれ、そしてその人、その人たちにとっても「適度なバランス」が求められます。

 そのバランスがうまくかみ合った関係は心地よい関係になります。ところがそのバランスがうまく作りにくい関係になると、お互いにしんどくなります。定型アスペの間はそういうバランスの崩れが起こりやすい関係の一つでしょう。

 すごく単純化して言うと、アスペの方は自分の中でのバランス重視で、必要最小限なところでほかの人に関わり、そこに小さなバランスを作ろうとする。それに対して定型は人との間に作るバランス重視で、その中で自分のバランスを保とうとする。

 そうすると、その定型とアスペがかかわると、定型は自分のバランスを保つために相手に積極的にかかわろうとするのだけれど、アスペは自分のバランスを保つために相手から距離をとろうとする、という形になります。そしてそのずれがお互いに辛い結果を生む。

 自分の中のバランスを中心にする場合は人に話しかけるときも「ひとり言」的になり、人とのバランスを中心にする場合は相手の「ひとり言」も自分に向けられた主張に聞こえる。そのズレがあるから、お互いに相手の反応が意味不明になり、そこから相手への不信感が生まれることもある。

 違うバランスのとり方をする人間同士の間で、どんなバランスのとり方が可能なのか。そこが大きな問題なんでしょうね。関わらないようにする、というのは一番簡単な対処の仕方ですが、世の中それだけでは生きていかれませんし。 

 
 

2018年3月27日 (火)

炎上の仕組みと予防の可能性

 記事「折り合いのつけ方の違い?」から始まった議論で、これまでの炎上で繰り返されてきた、よくわからないズレがなんとなく形が見え始めてきた印象が私にはあります。その炎上は定型アスペ問題をきっかけにしながら、実は少し違う要素が噛んでいる、という印象は前からありますが、そこはかなりはっきりしてきました。では何が噛んでいるのか、もう少し考えてみたいと思います。

 あらかじめお断りしますが、これはサロマさんを批判するために書いている記事ではなく、なにがずれているかを理解して、調整の仕方を考える素材とするためのものです。

 きっかけはサロマさんのコメントになります。私が

 「最近、さろまさんが掲示板の方であすなろさんとやりとりしながらこつこつとその作業をやられたりしているのかな、と感じることもあります。さろまさんのようなタイプの方がどんなふうに自分なりの納得を見つけて折り合いをつけられていくのか、気になるところです。」

 と書いたことについて、サロマさんのコメントはこういうものでした。

「私は折り合いをつけるためにやり取りはしていませんよ。誰とも折り合いをつけられるとは思いません。ただ自分の思ったことを書いているだけです。」

 これは私の感覚から言うといろんな意味で不思議なコメントなのですが、その不思議さが何かなと考えてみると、結構そこに大事な秘密があるように思うのです。

 なぜ不思議と感じるかというと、その理由は次のようなものです。ただし、このパターンの説明はこれまでもなんどか繰り返しているのですが、そこがあるタイプのアスペの方には一貫して伝わらないような部分でもあるので、今回も果たして伝わるかどうかはわかりませんが、でも書いてみます。

 会話というのは独り言ではありません。相手に対して何かを伝えます。それに対して相手の人が答えるというのは、これも独り言ではありません。それは話した人が伝えてきたことについて、その話し手に対して自分の考えを伝えるということです。

 さらにそこに質問が入っている場合は、当然相手になにかをお願いしていることですから、お願いに対して相手が誠実にちゃんと答えてくれた場合には感謝の気持ちが生まれます。人に何かを頼んだのにお礼も言わないという事は、私の感覚では失礼なことですし、そうすることは相手を無視することになります。

 自分から頼んでおいて応えてくれた相手を無視するという事は、「自分は相手を一方的に利用して、相手のことは考えなくてもいい」という意味になりますし、「自分はそういうえらい人間だ」ということを主張する意味を持ちますから、非常に傲慢な態度だという事になります。

 さて、そこで私が「最近、さろまさんが掲示板の方であすなろさんとやりとりしながらこつこつとその作業をやられたりしているのかな」と書いたのは、さろまさんがあすなろさんに対してかなり丁寧にやり取りをされようとしているように感じたからです。そしてやりとりの中では相手への質問と答えの連鎖が当然あるわけですね。

 それをやられているという事は、私の感覚から言うと会話の礼儀を守っているという意味を持ちます。一方的に自分の見方で決めつけるのではなく、繰り返し相手の真意を確かめようとされているという姿勢がそこに感じられるからでもあります。

 つまり、独り言ではない、「やりとり」がそこに成立しているという事になります。それこそが私がこの場で求め続けてきたことでもありますし、ようやくさろまさんとその立場が共有されてきたかなと感じて書いたのが上の文章になります。

 ところがサロマさんのコメントは「ただ自分の思ったことを書いているだけです」というものでした。

 上の説明から考えてみていただけるとわかるのではないかと期待するのですが(ただ、そこがむつかしい可能性も感じます)、このサロマさんの言葉は「私は『独り言』を言っているだけだ」と改めて主張していることになります。

 そうすると、ここでまた私の視点から言うと逆戻りになっているのですね。相手に質問して答えさせておいて、答えたのはあなたの勝手であって、私は関係ないことだ、と言っているように感じられるからで、それはやりとりを否定した態度に見えるからです。

 そう感じたので、私は次のように書きました。

 「相変わらず定型的な基準から言うと攻撃的で失礼なコメントという事になりますが、でも面白いです。」

 前半は昔からそう感じていたことが繰り返された、ということの表明ですが、後半は、でもサロマさんにとってはそういう意図はないんだろうな、という想像力が私の中に働き始めているために付け加えられた言葉です。またそのずれの意味に興味を持ったので「面白い」と書きました。

 その上で、「折り合いをつけようとはしていない」というサロマさんの主張に対して、それは理屈の上で成り立ちませんよね、という話を書きました。それに対するサロマさんの答えが以下のようなものです。

 「自分自身とも他者とも折り合いをつけようとは思っていません。自分の思ったことを書いただけであり、共感を求めるとめとか何もなかったらここには書き込まないというのは、パンダさんご自身の固定観念ではないでしょうか?」

 私の書いた理屈についてはうまく理解されていないようで、その理屈については結果として(つまり意図せずに)無視された応答になっていると私には見えます。まあ、それはいいと言えばいいのですが、なぜそこが伝わりにくいのか、という点にずれの大事なポイントがあるように感じられたことになります。

 私の理解では、サロマさんの主張の意味はこういうことです。「自分はここでほかの人の意見について、自分の思ったことを書きこんでいる。それは自分の意見を書いているだけで、それをどうほかの人が受け取るかはその人の問題で、自分には関係のないことだ。ましてや相手と意見を一致させようとか、共感させようとするなどということは考えてもいないし、そんなことができるわけもない。そして自分自身の中でもなにかまとまった意見に落ち着くなどという事は期待していない。」

 仮にそうだとして、そういうサロマさんの考え方の背景には、多少拡大していえば以下のような感覚があるのではないかと想像します。「人は誰も自分の意見を勝手に言いあっているだけで、相手のことをちゃんと理解などしてやりとりしておらず、それどころがひどい誤解をして自分を責めてくるのが普通だ。会話が共感や合意を目指しているなどというのは全くの幻想にすぎないし、そもそもそんなことが成り立つわけがない」

 この感覚をベースに人とやりとりをする場合は、やりとりは基本的にはお互いに自分が思ったことを言うだけのことで、たまたま偶然お互いの意図が一致して通じ合うこともあるし、理解しあうこともあるが、それは結果に過ぎない、という理解に基づいて、事実上の独り言を言う形になります。

 もちろん、意図して相手を傷つけたりしてはいけない、ということはたぶんサロマさんも考えられていて、キキさんのコメントに対して

 「アスペだから何を言っても許されるとは思いませんし、言っていませんよ。」

と反論されています。それはたぶんサロマさんの考え方としてはそうなのだろうと思います。だからこそ、トマトさん(ここではサロマさんはトマトさんを代表として扱われていますので)に対して「アスペを傷つけた」と非難し続けているわけですよね。「傷つけることを言ってはいけない」とは考えられているのは間違いないでしょう。

 問題は多分その次にあります。ここでサロマさんは「相手を傷つける」ということと「相手を傷つける意図を持っている」ということを、事実上区別しないで考えているように見えます。

 その結果何が起こるかというと、「自分に相手を傷つける意図はない」=「相手は傷つかない」という判断になりやすいか、あるいは少なくとも「自分に相手を傷つける意図はない」=「私に責められる理由はない」という感覚になられているように感じられます。

 そうだとすれば、その結果として、ご自分の意見について、相手の事を考えていないと批判された場合に「自分の思ったことを書いているだけ」という反論になるのが理解可能になります。なぜそういう答えになるかというと、「自分には相手を傷つける意図はない」=「自分は相手を傷つけていない」という判断になるからです。傷つくのは相手の勝手だという事になりますね。

 また、この理解で次のこともわかりやすくなります。

 サロマさんは繰り返し「トマトさんたちが一方的に傷つけた」という主張をされていて、たしかに「傷つけられた」ことについては私も理解が可能ですが、ただ「相手には傷つけようとする意図はなかった」という可能性については決して認めようとされません。また逆にトマトさんたちも傷つけられたのだ、という可能性についても一切認めようとされません。

 この点については、このブログでは一貫して「自分の善意が相手には悪意の意味を持ち、相手の善意が自分には悪意の意味を持ってしまう、というずれが起こりやすいのが定型アスペ間の関係なので、どちらかに決めつけてしまわずに、お互いに相手がどういう意図でそうやっているのかを理解する努力をしましょう」というスタンスを持ち続けていますので、私は繰り返しその点で「立場を変えて考えてみる必要」を言い続けるのですが、ほんとに見事なほど、そこが伝わらないということが繰り返されてきました。

 なぜそういうことが起こるかというと、「自分には相手を傷つける意図はない」=「自分は相手を傷つけていない」という理解と、その裏返しとしての「自分は相手に傷つけられた」=「相手は自分を傷つける意図があった」という理解ですべてを判断しているためだ、と考えるとよくわかります。

 その判断に固まってしまうと「自分には相手を傷つける意図はない」が「相手は傷つき、自分は相手を傷つけた」という理解や「自分は相手に傷つけられた」が「相手には自分を傷つける意図はなかった」という理解ができなくなるからです。

 私の誤解であれば、そのように指摘してくださればそれでいいですが、今の段階ではこれが私には一番筋が通った理解になりますし、それで炎上の意味も分かりやすくなります。

 再度確認しますが、私の理解では、あの炎上は、対立する当事者間では「お互いに」、「自分は傷つけられている」=「相手に傷つける意図がある」という理解でぶつかり合ってしまったことから起こっており、このブログに対する攻撃は「傷つけられた」=「傷つける意図はなかった」というズレの可能性を「お互いに」考えましょうという呼びかけを「相手が自分を傷つけたことを否定している」と理解されることから生まれたと考えられることになります。

 このあたり、かりにそういうズレがあるとすれば、どうすればそのずれをうまく調整できるかが次の課題になるでしょう。

 そこでひとつヒントになるかもしれませんが、今のやりとりでもサロマさんもそうされていますが、「自分には攻撃の意図はない」ということをくり返し伝えることに意味があるかもしれません。実は私の相方との間でも、考えてみるとそういう伝えあいがお互いにわりと頻繁に起こっています。で、そのことで少し距離が取れて、調整の可能性が広がるんですね。

 

 

2018年3月21日 (水)

折り合いのつけ方の違い?

 

つばめさんからいただいたコメントを拝見していて、なにか、ようやくアスペの方の悩みに話が届きつつあるような気がしました。

 私自身が同じような悩みをそのまま持っているというわけではないのですが、でも「そういうことならつらいよなあ」という感覚が割合すっと気持ちに入ってくる感じです。頭で理解している、ということを少し超えて、感覚的にわかる感じになる。自分とは違うことは理解していながらです。

 「頭でわかる」というのとは違う部分は、「でもなあ、そうはいっても……」という、自分の感覚から反発する部分がなくなっている感じなんですね。言ってみれば素直にそれを受け入れられる感じがするんです。受け入れるというのは、別に自分がそうなることでもありません。

 この感じ、コメントでも書きましたが、カウンセリングなんかでは大事にされるもののように思います。たとえばクライエントが「あいつが憎くて殺してやりたい」と言ったとして、「そんなことはいけないことだ」と否定するのでも「うんそうだね!そうしたほうがいいね」と賛成するのでもなく、ただ「(私は違うけど)あなたがそういう気持ちになることはよくわかります」と言える、そんな感じです。

 もしこういうわかり方がこれからも広げていけるのなら、少なくとも定型の側からはそんなやり方で定型アスペ間のコミュニケーションを調整していけるところが広がっていくかもしれません。

 ただ、そこで問題になりそうなのは、この「自分と他人とを区別する」ということと「相手と同じ感情を持つ(共感する)」ということと、その二つを同時に行うわけですが、アスペの方にはそもそもそこがとてもむつかしい場合が結構ありそうだということです。

 もしそうだとすれば、アスペの方から定型に折り合いをつけて行く時には、それとはまた少し違ったやり方が必要なのかもしれません。

 最近、さろまさんが掲示板の方であすなろさんとやりとりしながらこつこつとその作業をやられたりしているのかな、と感じることもあります。さろまさんのようなタイプの方がどんなふうに自分なりの納得を見つけて折り合いをつけられていくのか、気になるところです。

2018年3月 7日 (水)

否定の肯定

 相方は何かについて話をする時、そのマイナスの面を語ることが多いし、私がどんな話をしてもその否定的な面について語ることが多く、私には「それって単に難癖をつけてるだけじゃない」と感じられてしまったわけですね。もし公平に判断しているのなら、いいところも悪いところも話に出てくるはずですが、まあほとんどと言ってもいいくらいの印象で、悪いところばかり話に出てくる。

 私の方もそのことについて同じように悪い評価をしているときは「共感」みたいな感じでいいわけですけれど、私の場合どちらかというとプラスの話をすることが多いので、結果としていつも私の話は頭から否定される、という印象になります。だから共感を拒否しているような感じを受けてしまうわけです。そんなふうにいつも私の話が否定されるという体験が積み重なると話を拒否されているのではなくて、「私」を拒否しているのではないか、という気分にもなってくる。

 私もいろいろ彼女には苦労を掛けていますから、もう私にはほとほと愛想が尽きて、拒否しているという可能性はもちろんゼロではないのですが('◇')ゞ、ただ彼女は私のことを認めていると言いますし、どうしたらそれを理解されるのかという事を言ったりもしますので、たぶんそれも嘘ではないだろうと感じます。だからますます訳が分からなくなる。

 それがごく最近、私の受け取り方が少し変わりました。考えてみるとこれも以前から書いている「相手に対してどうこうではなくて、自分の気持ちを素直に表現しているだけ」という話の一部なのですけれど、彼女は単に出てきた話題のマイナスの面、危険な面、注意すべき面を最初にチェックしているだけで、「それを話した私の気持ち」に対して反応しているのではない、ということです。

 定型の場合は相手が「○○はとてもいいよね」と話しかけてきたとしたら、「○○」についてではなくて、その「○○」を「いい」と評価した相手の気持ちに応答しなければならないと考えるのが普通です。だから「○○はよくない」という答え方はたんに「○○」についての評価にとどまらず、「○○をいいと評価したあなたはおかしい」という、相手に対する非難になる場合がある。

 だから定型は相手の意見と反対のことを言う場合はかなり気を遣って、遠回しの言い方をしたり、賛同できる部分とできない部分をバランスをとって伝えようとしたり、あるいは相手を否定していない、純粋にその「○○」についてだけの話なんだ、ということをわざわざ強調しようとしたり、いろいろ工夫するわけです。逆に言えばその工夫をせずにストレートに相手の意見を否定するときは、半ば喧嘩モードになっているという宣言にもなる。

 そういう定型的な感覚をベースに見れば、彼女の言い方は常に喧嘩モードだ、という話になってしまうわけですね。だから私も最初はそれに対してまた答えるときには最初はできるだけおだやかにと思うのですが、その私の応答にまた否定的にということが繰り返されると、いよいよ「彼女はけんかを売っているのだ」と思ってしまい、こちらも議論の姿勢になっていきます。

 ところが彼女はなんで私がそうやってムキになって反論してくるのかがまたわからなくなる。自分の言い方がその引き金になっている、という理解はぜんぜんなくて、ただ「○○」について、まずは危険な部分がないかどうかをチェックしているだけという気持ちなので、それに反論されることの意味が分からず、逆に「自分が理不尽に攻撃されている」という理解になる。

 たぶんそんなことが起こっているんです。なんとなくそんな気がして、そう考えたら少し私の気持ちに余裕が出てきたのか、彼女の否定的な反応にもわりに「ああそう」という感じでそのまま受け止めたりし始めたんですね。そしたら彼女もなんとなく嬉しそうにしている感じがあったんです。

 つまり、私の方は私のいう事を「頭から否定された」と感じ、それが繰り返されることで「共感を拒否された」と感じるようになっていき、さらには「共感を求めない人だ」という理解になっていったわけですが、実はそうではなく、彼女には相手(私)を否定した意識がなく、ただ素直に自分が気になることを話して、そして「その自分の心配に共感してほしい」と思っていたわけでしょう。だから彼女の方は逆に私のことを「自分を否定ばかりする」と感じることになる。

 そういうふうに改めて書いてみると、こういうパターンは何も定型アスペ関係だけで起こることではないなあとも思えてきます。定型同士だって似たようなことは起こります。ただ、定型同士のそういうずれ方は何がずれたのかをわりと気づきやすいのに対して、定型アスペ間ではそのずれに気づくこと自体がかなりむつかしいのだという印象があります。

 そのずれかたのポイントの一つは「素直な気持ちの表れ(アスペ的感覚)」と「相手に対する表現(定型的受け取り方)」のずれだろうという気がしてきているのですが、このあたり、これからさらに考えてみたいところです。


 
 

 

2018年3月 5日 (月)

こだわり?誠実?

 アスペ的な特徴として「融通が利かない」という見方があるように思います。「こだわり」と言われることもあります。「言葉を文字通りに理解して裏の意味を読まない」と言われることもあります。それで騙されやすいと言われることもある。「あいまいな表現を嫌う」というのも同じようなことですね。自閉系の方の特徴として、見方を切り替えることが苦手、というのが挙げられたりすると思うのですが、そのあたりは共通したポイントにも見えます。

 相方と話をすると、やっぱりここでやりとりが躓くことが多いように思います。彼女の話が一面的なように感じて反論すると、何か必死でまた反論される感じになることが多いのですが、その話が私から見ると筋が通っていなくて、ただ反論のための思い付きの反論と感じられたりして、驚くことがよくあります。

 すごく不思議に思うんですが、その理屈の通らなさが彼女に理解できないとも思えないんですね。だから、そういうやりとりで泥沼状態になりそうなときには、一旦時間を置くことが一番いいと、経験でだんだんわかってきたのですけれど、そうするとそんなにめちゃくちゃにはならない。彼女なりにちゃんと筋道を立てて話をしてくれたりします。

 そういうことを考えると、彼女は私に自分の意見が反論されたときに、私がどういう意味で反論をしているのかをその場でさっと読むのがものすごく苦手なんだろうなと感じます。相手の反論を理解するには、一旦自分の見方を離れて相手の見方で考えてみる必要があるのですけれど、その切り替えが苦手なら、反論の反論は結局相手の議論を無視して自分の主張を繰り返すだけになってしまいます。(ああ、このパターン、一部のアスペの方とのここでのやりとりでも非常に安定して繰り返されていましたね。)

 だから、彼女の場合は時間をかけると、たぶん自分の中で整理できて、私にも納得できるような説明をしてくれたりするのでしょう。そういうことができないのではなく、「その場で切り替えてはできない」ということなのかなという気がします。それが私から見ると「自分の一方的な見方に理屈抜きでこだわりつづける」と見えてしまうことになります。


 ……と書いてきたことは、「定型的な理屈」で見たときの話です。でも、少し見方を変えると、そのような姿勢は「純真」とか「裏表がない」とか、「一途」という風にも見える。たとえばアスペ的な方で芸術系に才能を発揮する方もあるような気がするのですが、その場合はこの純真さや一途さがとても大きく役立っているのでは、と思えたりします。周囲の雑音に惑わされず、一途に「純粋な美」を追求できる力を持っているとも言える。自然科学とか数学とか、ITの開発とか、そういうところで才能を発揮される方が多いようなのも、「真実」を追求する世界にあこがれるからだとも考えられそうです。

 それでふと思ったことなのですが、相方は子どものことをものすごく心配します。子どもが心配な状態にあるときはもちろんのこと、いいことが起こっても、私のようにすぐにすごくうれしがるという感じがない。もちろん嫌がりはしませんけど、喜びを表さないで、逆に心配な部分を探す。

 そういう彼女の態度が私には理解できず、過度な心配性だとか、それこそ共感的に人に接することがない人だという風に感じて、反発することが多かったのです。人間って喜びを共有できることで力が出てくるのに、それをしようとしない、と感じてしまうわけですね。



 でも、ちょっとここでも見方を変えてみると、彼女のその態度は、ある意味で本当に相手のことを考え、心配しようとする誠実な姿なのだ、というふうにも思えるようになってきました。そういう目で思い返すと、確かに彼女は本当に子どものことを考え続け、ずっと必死でした。たぶん私なんかより何倍も子どものことを考えようとしてきています。

 逆に私の方は「喜び」を共有しようとする傾向が強いのですが、それは見方によっては「自分が喜びたいから」とも言えなくもありません。自分に都合のいいこともあるから喜んでいる。そこは彼女は考えないような気がするんです。ひたすら子どものことだけで考える。

 だから子どもがつらい状態になった時は本当に苦しむわけです。そしてその子どもの状態がアスペ定型のずれから生まれた部分が大きいと理解するようになると、ものすごくショックを受けて激しくそのことで自分を責めるようにもなりました。私の場合はそんなとき、もちろん自分にも問題があるし、でも「お互い様」の部分もあると思ったりするのですけれど、彼女は責任を全部自分でかぶっている感じがします。

 たぶんその「誠実さ」は、一時は彼女を責めていた子どもにも伝わっていっていると思います。「すごくいい人」というのが子どもの彼女に対する評価の一つですが、それはほんとにそうなのだと思います。

 そんなふうに「融通の利かなさ」と言われることを「誠実さ」と見てみることで、彼女の像も相当変わって見えてくることになります。彼女は私には到底およばないような「誠実さ」と、その視点からの「やさしさ」を大事に生きてきた人のようにも感じられるようになります。その「誠実さ」がちゃんと理解されないことで、彼女はますますつらい思いをしてきた部分があるのでしょう。

 もちろん「誠実さ」というのはその人自身の考え方に基づく「誠実さ」になりますから、それが相手とうまくかみ合わない時には不幸な展開にもなるわけですが、だからといってその「誠実さ」自体を否定するのはおかしなことでしょう。大事なことはその「誠実さ」が活きる道を探ることなのだと思いますし。

2018年3月 4日 (日)

「違う」が「自己肯定」に結びつく大事さ

 掲示板の方であすなろさんがすごいことを書かれていました。


『痩せている自分を肯定する』のと同じように、『発達障害である自分を肯定する』ことが防衛策になるのではないか


 「お互い様」という視点をここでは考え続けてきているのですが、その視点をあすなろさんは「主観的見方」に対する「俯瞰的見方」という言葉で表現されています。「客観的見方」という言い方もあるでしょうが、たぶんあすなろさんは「俯瞰的」という言葉の方がしっくりこられるのでしょうね。「客観的」という言い方は誰が見ているのかわからない感じもありますが、「俯瞰的」なら「主観的」に見ている人が、少し視点をずらしてみた、というニュアンスも生まれますから。

 それで、どうやったらその「俯瞰的」な見方が可能になるのかというのが私にとってはものすごくむつかしい問題であり続けてきたわけです。そこであすなろさんが出された答えが「自己肯定」でした。

 このブログでは「違いを知る」、ということが大きな課題でした。そしてその違いの内容を理解する試みを続けてきたわけです。そうやって「お互い様」の視点を模索してきたわけですね。

 でもこの議論がなかなか通用しない方たちがくり返し一定程度現れて、しばしば激しい攻撃的な態度(として見えるもの)を示してこられた。そこがどうしても乗り越えられない部分であったわけです。

 その部分についてあすなろさんは私から見てかなり決定的な答えの手掛かりを出されたように感じたのです。


 多くのアスペの方は社会的には否定的な目線の中に生きざるを得ない状況があります。だから自己肯定が非常に困難な状況に陥りやすくなる。その方たちが苦しんでいるのは「違い」自体ではなく、そこから生まれる「否定的な目」であるわけですね。

 だとすれば「違いを理解する」ということは、それ自体では全然問題を解決しないわけです。「違う」=「価値が低い」という見方がありうるからです。もしそうなら「違う」と言われること自体も自分の苦しみを固定化することにしかならないかもしれません。

 けれども「違う」を否定して問題を解決しようとすると、今度は定型的な生き方にアスペの方が従属するか、逆に定型がアスペ的な生き方に従属するしかなくなります。これでは何の問題解決にもならない。

 そうすると「違う」=「価値が低い」と受け取られる状況を乗り越えなければならない。それは「違う」=「価値がある」という理解になることによってのみ可能になることになります。


 なんかすっと自分の中の長年のもやもやが晴れてきた感じがします。

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