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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2018年2月 9日 (金)

被害と加害

 定型アスペ間のやりとりでむつかしくなるときは、だいたい被害感情が複雑に絡まっているときのような気がします。

 一般的なことでいうと、だいたい人間というのは自分の痛みはよくわかるけれど、相手の痛みはなかなか実感できません。加害・被害の関係がはっきりしている場合でも、「足を踏んでいるほうは痛くない」というようなことがあって、踏んでいるほうが踏まれているほうの痛みを理解するのはむつかしい、というか、踏んでいることを気付かないことがよくあります。
 それでも「足を踏む」みたいなわかりやすいことなら、相手に「足を踏んでるよ」と指摘され、自分も踏まれた時のことを思い出せば、想像することはできます。ところが自分がそんなことでは全然痛いとは感じないことを痛いと言われる場合はもっとむつかしくなります。想像すらできないのですから。

 さらにアスペの方のうち、たぶんかなり多くの方は周りから「あなたが加害者だ」と言われ続け、そう思わざるを得ない状況に追い込まれ、自分でも自分を加害者として考えて苦しまれている方が少なくない。そうすると自分も相手から傷つけられて苦しいところに加えて、さらに自分自身が加害者だという苦しみを背負うことになりますので、問題がより複雑になる。

 ただ、その複雑な状態で、自分がなぜ加害者と言われなければならないのか、定型の側がそれで傷つくのかについては実際はなかなか実感できない場合がある。みんながそういうのだからそうと認めるしかない、というふうになっても、実感として「ほんとにそうだ」とはなりにくい。だからある意味では仕方なく「頭で」そう思わざるを得ない立場になったりする。これは定型がアスペの方の痛みを実感として理解しにくいことが多いのと同じことですね。ことばでは理解したとしてもピンとは来ない。

 そういう状況の中で改めて「やっぱり自分のほうが痛みを感じているんだ」ということに気付かれると、その我慢していた痛みが噴出することになりますから、それまで必死で我慢している分、それだけ激しい怒りが沸き起こってくることがあります。これは定型でもアスペでも、そういう場合はそうなりますが、この問題についてはアスペの方(立場の弱い方)がそうなる場合が多い。

 同じように、定型も自分の痛みをこらえてなんとか歩み寄ろうとする場合、その痛みが伝わらない状態で相手から攻撃と感じられるふるまいを受けると、「なんで自分がこんなに痛みをこらえて対応しているのに、そういう態度に出るのだ!」という激しい怒りが生じること(あるいは人)があります。これまでの議論の中で、アスペの方の側からすれば、攻撃している意識は全くなかったりということも多いということも分かってきていますが、「攻撃されている」と感じている側からすると、なかなかそれがそこは理解がむつかしい。

 たぶんここで何度か起こった炎上はそういうことだったのだろうと思います。どちらも日常生活の中で激しい痛みに耐え続けてきている。そしてその痛みに耐えながら、それでも相手と話をしようと試みる。ところがいつまでたっても相手は自分の自分の痛みを理解しない。そして相手の加害者としての面が、つまり自分を苦しめる側の人間としての面が強烈に意識されるようになる。その結果、相手に対するぎりぎりの「反撃」というつもりで、「攻撃」が始まる。

 その時、どちらも自分が加害者であるという面についての実感がないので、自分は被害者であるという意識が前面に出てきますから、相手の「反撃」は「攻撃」にしか見えないわけですね。まさか自分のふるまいが相手にとっては「攻撃」になっているとはなかなか思えないからです。

 その状態に入り込んでしまって、その「純粋な被害者」の視点からしか状況を見られなくなる状態になってしまうと、議論が成り立たなくなってきます。発言の目的はただ「お前は加害者だ。私は被害者だ」ということを相手に認めさせることに集中してしまうからです。すべてがその視点からしか見えなくなってしまうので、何を言っても違う話になってしまって伝わらなくなる。そしてお互いにそれをやるから、話がかみ合うわけがありません。


 ここで模索してきたことはお互いどうやったらそういう一方的な見方を超えていけるかということなわけですが、日常場面のものの見方のずれや感じ方のずれの問題であれば、だいぶんそういうことができるところが増えてきましたけれど、いったんこの被害感情が絡む問題になると極端にそれがむつかしくなります。

 まあ、世の中の悲惨な対立は、その多くがそういう「被害感情」がらみの問題のようにも思えますから、その解決がむつかしいのは当然と言えば当然と言えるのでしょう。そういうものすごくむつかしい問題ですけれど、でもやっぱり単純に自分を被害者としてだけ見るのでもなく、逆に加害者としてだけみるのでもなく、自分が想像できていないところで相手が被害者で、自分が加害者になっていることに少しずつ気付きながら、お互いの新しい関係を模索していく、ということにこだわって、ちいさな歩みを続けていこうと思います。

 

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コメント

にわとりさんの初期対応に問題があると思えませんし、相手の偏見からから心無い言葉を言われて反論したことが「にわとりさんからの攻撃」とみなされるのですね。。
ましてやあすなろさんは反撃していませんよね。相手から一方的な偏見と攻撃を受けているだけではないですか。

同じことの繰り返しになります。私の書いていることの内、半分しか読み取られていないように私には見えます。アスペの中のある範囲の方たちとの間では、このパターンがこういうやり取りの中ではこれまでもずっと繰り返されてきて、不毛な議論が続いてきました。やはり今回もそのパターンに陥っているようです。

どのように説明しても話の半分しか読み取ってもらえないようですので、その状態である限り、これ以上は私の方から説明すべきことは有りません。非常に安定した展開のパターンが繰り返されていて、これまでの経験からいくら説明してもまた同じ結果になることが十分に予想できるからです。

この不毛なパターンを乗り越えたいといろいろ頑張ってきているのですが、残念ながら今の私の力では及びません。将来は乗り越えたいという願いを維持して、遠回りしながら道を探し続けるというのが今の現実的な状態のようです。

これではいつまで経っても偏見を持たれたまま、一方的に非難されたままで、にわとりさんやあすなろさんのように少数派にいる立場は良くならないわけですね。残念です。

このブログに出会って、家族との行き違いを客観的に見ることができるようになり、この記事のような被害と加害のメカニズムが分かるようになって、あらゆることがクリアになってきました。
たしかに、私とアスペの家族には、物の見方、感じ方の決定的な違いがあり、どうやらお互いにそれを理解しようと頑張っても、想像はできても実感が出来ないということも分かってきました。
では、どうすれば良いのか?
私が気を付けているのは、自分が『被害』と感じるのは、どういう経緯なのかを、分析することです。
確かに、アスペの家族は、私の『良かれ』を迷惑と取るし、私の迷惑を、良かれと取っている。その時、違いがあることを知っていながら、『怒り』が湧いてきてしまう。
どうやら、その怒りは、幼少期から、自分が否定されてきた悔しい思いや、蔑ろにされてきた寂しい思いによって、怒りが大きくなるのではないかな?と。
つまり、きっかけは今起きている意見の食い違いではあるけど、そこからどこまで激しい怒りに発展するかは過去のトラウマに引火するからなのかなと感じています。
同じアスペでも、子どもと夫で反応が大きく違うのも、このトラウマが原因なのでしょう。
夫は家庭内でも、おそらく外でも、怒りが抑えられずにトラブルを起こすタイプで、その怒りの原因が、少数派にしか理解できないので、余計風当たりが強くなってしまうようです。
家でもあちこちで怒りを爆発させるので、アスペの子供達は、夫の感じ方は理解できても、それが激しい怒りに結びつくのは理解できないと言います。
私も、分かってくれないと極端にさびしくなることがあります。前はそのさびしさや苛立ちは『当然、誰もが感じるもの』と信じていましたが、ここに出会って、分かってくれるかどうかなど、それぞれの主観でしかなく、アスペ対定型のように、真逆に捉えることがあるということを発見し、さらにそれが怒りに発展するのはどうやら私のトラウマであるという分析が出来てきました。
怒りが沸き起こるのは、相変わらずです。
その時に、まずは、これは相手の責任ではない!と自分に言い聞かせ、落ち着いた時に『さて、あの怒りはどのトラウマだろうか?』と思い返すようにします。
すると、大抵、幼少期の寂しさや悔しさが思い起こされてきます。
なるほど、あの時の私はこうやって理不尽なことに耐えて、怒りを抑え込んでしまったのね。だから仕方ない。と納得すると、自然と相手の行為はどうでもよくなっています。
一つ一つの事柄に、トラウマの名前を付けていく。それで最近はだいぶ怒りを感じなくなりました。
むしろ、そうした怒りをきちんと収めている子供達を尊敬しますし、子供たちに連鎖させなかった自分を誇らしく思えたりしますね。

① 「色々思うことはありますが、」という出だしでコメントをくださった方、名前が記載されていなかったので保留状態になっています。お知らせくださるか、再度投稿をお願いします。公開します。

②子育て経験者さんは繰り返しの説明にもかかわらず、全く同じ内容の抗議をひたすら投稿され続けていますので、このままですと残念ながら投稿そのものをお断りする措置を取らざるを得ません。

また、子育て経験者さんからサロマさんに対する攻撃的なコメントが寄せられていますが、はっきりとは分からないものの、書き方を見るとサロマさんが「自分とは対立する側(定型側)」と判断されているようにも読めますが、サロマさん(旧やっぱりおかしいさん)はご自分がアスペであることをくり返し表明されていますので、仮に子育て経験者さんのコメントがそうだとすると事実に反します。その場合は事実に基づかない誹謗中傷に当たりますので、これもガイドラインに抵触します。

仮にそうだとすると、すでに事実に基づいた議論が困難な状態になられているとも考えられますので、この状態が続くようであれば、無為な炎上を防ぐための措置を取らざるを得ませんので、ご承知おきください。

あすなろさん

>きっかけは今起きている意見の食い違いではあるけど、そこからどこまで激しい怒りに発展するかは過去のトラウマに引火するからなのかなと感じています。

 これ、自分を思い起こしても思い当たるふしは確かにあります。「被害」というのは、実は今の被害であるということよりも、過去の傷がうずいていることが多いのですよね。そうすると、被害を訴えられても、「今」のこと以外のことが深く絡んでいるので、とても分かりにくくなる。

 ここの炎上でも確かに「この人は誰を非難しているんだろう?」とよくわからないことが何度もありました。なにかその人が自分の中で勝手に作った虚像を攻撃しているような、そんな印象になるんですね。けれども「事実」からそのことを指摘してもほとんど効果がない。場合によっては火に油を注ぐだけに終わります。

 たぶん、自分の中で抱え込んできたいろいろな傷の痛みが、なにかのきっかけで激しく疼きだして、それを目の前の相手にぶつけることで、問題を「解決」しようとされるのかなと思います。でも実際はそれはぜんぜんずれたことなので、さらに傷を深める結果になるだけなんですけどね。

 私自身も含め、多かれ少なかれそういう心の動きかたからは完全に自由になることはとてもむつかしいとも思います。そういう現実を認めたうえで、どうそこを調整していけるのか、というむつかしい問題があるのだろうと思いました。

 あすなろさんの場合はご自分のトラウマにさかのぼってみることでそこにある程度の「ゆとり?」ができるとのことで、確かにそれは大事な一つの方法なのだろうと思います。過去を整理することで、その過去に引きずられない今の自分をある程度作れるのでしょう。

 そうすると問題は、そういう風に自分の過去を整理する、という方向にいったんは進んでみることがどうやったらできるようになるのか、ということなのかも。あすなろさんにとってはこのブログがそのきっかけの一つになられたようですが、このブログのような場でそうなる方も、逆に炎上に突き進まれるタイプの方もあるようです。

 その違いは何なのか。ある程度時間があれば後者の方でもあすなろさんのような転換点を迎える可能性があるのか、あるいはまったく違う発想で調整する必要があるのか。そのあたり、私にとってはまだまだ見えてこない難問です。

>パンダさん

目の前に大根が置いてある。
水分が多くて、甘い。
煮物にする人がいる。
サラダにする人がいる。
切り干し大根にする人がいる。
たくあんにする人がいる。
味付けは様々。
作ってみて、素材が良いから美味しんだ!という人と、
もっと辛い方が良いと言う人と、
水分が多すぎて良くないと言う人と、
調理法が合わなかったのに不味い!と文句を言う人と、
様々ですよね。
不特定多数が寄れば寄るほど、美味しいと言う人と不味いと言う人の人数は増えていきます。割合としては同じでしょうが。

そんなところじゃないでしょうか?

大根農家は、そこまで責任とれませんよね?(笑)

相手への怒りは自分の過去のトラウマも絡んでいることもあると思います。
私も相手の責任ではないと思い、自分の過去のトラウマと向き合ってきました。
攻撃してくる相手を受け入れ、思いやりを持って接すると相手も変わってくると言われました。
定型間でならそれで上手くいくようになるのかもしれません。しかしアスペ定型間での付き合いはそれだけでは上手くいきませんでした。
どんなに自分と向き合っても相手はさらに攻撃してくる。相手が退職するまでに追い込んでくる。地域に居づらくさせられる。

仮ににわとりさんやにわとりさん擁護している人が過去のトラウマで攻撃、反撃してきたのであれば、にわとりさんへの親切と励ましてきた方達、つまり障害を盾にして甘えていると言ったり、にわとりさんの仕事ができないのは嘘だ(本当はやりたくないだけだ)と言ってきたり、にわとりさんが定型の励ましに応えようとしないなどと多数で叩いてきた方達もまたご自分の心の中にトラウマがあるからだと思います。
何もなければにわとりさんを叩くことなく素直に受け入れたでしょうから。
私はこのいさかいにコメントする気はありませんが、片方だけがとんなにトラウマと向き合っても相手がいさかいを起こしてくる以上は意味がないということです。
私自信の体験で嫌というほど思い知らされました。

子育て経験者さんからまたコメントがありましたが、再び議論が全くずれています。そのことが伝わらないことが問題のむつかしさをよく表しています。残念ながら管理人としての対応を取らせていただきますが、その理由について、ここでは次の点だけ指摘しておきます。

>同じことの繰り返しになるのはにわとりさんやあすなろさんを傷つけた人達は何も歩み寄ろうとはしてないじゃないですか。

 これはどなたに対する批判なのかがよくわかりません。おそらく子育て経験者さんが想定する過去の発言者の方はもうこちらにはいらしていないのではないかと思います。少なくとも投稿はありません。ここに登場されない方についてひたすら批判を続けられても応答がないのは当然で、歩み寄りようがなく、全く不毛な議論です。

 また現在子育て経験者さんが何度も投稿された内容も、同じ趣旨の発言を繰り返されているだけで、そういう主張の存在を前提にしたうえで、別の見方の可能性を指摘し、そういう一面的な見方を乗り越えるべきという意見に対しては、ご自分の見方が一面的でない、という形での反論もなく、あるいは子育て経験者さんの主張以外の別の見方はありえないのだという議論もなく、ただ「自分の意見が一方的に否定されている」という趣旨の主張を繰り替えされるだけで、議論が全く先に進みません。これもまた結果として場を荒らす行為にしかなりません。

 ご自分の主張が受け入れられないと感じたときに、その主張をひたすらに繰り返すだけの子育て経験者さんの議論の仕方は、これまで炎上を生み出された方と全く同じパターンになっています。このタイプの議論を始められた場合、それは場を壊す以外の意味が見いだされていません。管理人としてはそれを避けることが求められています。

 以上について、全くご理解いただけないままに同じ書き込みが続くことがわかりましたので、残念ながらこれで議論を打ち切らせていただきます。

 なお、さろまさんから「子育て経験者さんは私に何を言いたかったのかわざわざふ伏せることはせずに公開していただきたいです。」というご意見があり、おっしゃることは私なりにわかる気がするのですが、上記の趣旨ですので、ご理解いただければと思います。

さろまさん

>  片方だけがとんなにトラウマと向き合っても相手がいさかいを起こしてくる以上は意味がない

 全くその通りと思います。そのお互い様の状態をどうやったら作れるのか、そこが一番大事だし、同時に一番むつかしいところだと思っています。

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