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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2018年2月11日 (日)

「お互い様」を受け入れられるかどうか

 ある意味で子育て経験者さんのおかげという風に言えなくもないですが、反復される同じようなパターンの対立状態がどうやって生まれるか、どうしてそれ以降破たんせざるを得ないのかについて、私なりにちょっと理解が進んだ気がしています。それはこういうことです。

 私は性格的に、相手との共感を求める傾向が強いタイプの人間で、可能な限り相手の人の感情を理解しようとする部分があります。その姿勢が伝わることで、相手の人とうまくいく場合もあります。ただ、感情の動き方が人それぞれなので、どうしても相手の人の感情に共感できないことがあります。

 共感できない状態には二種類ありそうです。ひとつは「わけわかんない」と当惑するようなもので、もうひとつは一応「こういう感情だろう」とはわかっても、それが自分の価値観などと正面からぶつかってしまって、その感情をどうしても受け入れられないような場合です。

 前者の場合はああでもない、こうでもない、と自分の経験を手掛かりに、それを深め、想像力を広げることで「こういう形で考えると自分にも共通することがあるな」ということに気づき、そこを足場になんとか共感的な理解にたどり着く、という方向を模索しますし、部分的にはそのやり方はこの場でうまくいくこともあり、一部のアスペの方からは私に「アスペ認定」をいただくようなこともありました(笑) こういう場合は激しい対立関係になる必要もありません。

 後者の場合も、できれば理解をしたいと思いますので、その場合は自分の感情を抑えながら考えることを進めていきます。むつかしいのはこのパターンの時です。

 この時は私の方も自分の痛みをこらえながら、そことまずはいったん切り離して、言ってみれば「頭で考える」という姿勢になります。そうでなければ感情的にぶつかるだけになってしまうことは明らかです。そういう感情的なぶつかり合いを通して共感的な理解に到達できるのならいいのですが、そもそも定型アスペ関係ではそういうことが難しいということが明らかなのですから、その道は歩めません。

 そうやって自分の痛みを一度自分の中に収める状態で、相手の人に「頭で」向き合うことになります。そのやり方がある程度有効になるのは、相手の人も同じように自分の痛みを直接相手にぶつけるのではなく、一度自分の中に収めて改めて自分自身のその姿も含めて見つめなおしてみる、というふうになれるときです。お互いにそうやって「相手は自分にとっては痛みを与える(加害者のような)人だけれど、でも自分も相手にとってはそういう人になっているのだろう」と考えることで、そこから別の視点から問題を考え直すきっかけが生まれるからです。

 ただ、現実的にはさろまさんもアスペの立場から書かれているように、ここがとてもむつかしいわけですね。定型の側はだいたいは多数派になりますから、アスペの方が仮にそういう姿勢を持ったとしても、自分の方は「正しいから変更の必要がない」と考えやすいので、「お互い」の関係にはとてもなりにくい現実があります。

 その中でも一部の定型の人はアスペの方の苦境を見て何とかしたいと考え、いろいろ努力して接近をしようとするのですが、あまりに感じ方考え方が違うので、自分の善意がそのまま善意として通じることがなく、逆に悪意にとられたりして繰り返し拒絶され、傷つきながら、それでもそれに耐えて頑張ろうとしますが、やはりその状態が続けばそのうちに切れてしまうということが起こります。

 その時は「自分は必死に相手のために頑張ろうとしたのに、それを否定された」という思いになっていて、「なぜ否定されたのか」ということをそこでもう一度考え直してみる気持ちの余裕がなくなっていますから、「やっぱりアスペはどうしようもない人たちだ」というふうに思うことで定型的な自分を支えるしかなくなっていきます。その結果、今まで耐えていた分、その反動で激しい攻撃になることもあります。

 アスペの方の多くは、定型社会では基本的にはその特性は否定的にみられてしまう状況の中で生きています。今の定型社会を維持するために大事なやり方にその特性があわないからです。そのシビアな状況の中で、それでも少なくとも一部の方は善意で定型に接しようとしますが、サロマさんも書かれているようにやはりそれも理解されず、拒絶され、傷つき、それでも耐えてなんとか関係をうまくしようと努力しても結局うまくいかないという厳しい現実があります。

 そういうシビアな状況の中でも自分自身のこともとらえなおしながら、なんとか関係の調整に努力し続ける方もあります。そういうタイプの方はここでの「お互い様」の議論の仕方も共有されやすいのだと思います。

 けれども誰もがそうなれるわけではありません。どこでその分かれ目が生まれるのかはまだよくわかりません。ひとつ可能性として考えるのは、どこかで自己肯定感を保てている場合と、そこが根っこから危機的な状態にある場合の違いでしょうか。

 自分自身がもう保てない危機感を持たれている場合には、まずは自分を救うことが大事になりますから、そのためには自分の中に閉じこもるか、あるいは人に自分の苦境を訴えてそれを認めてもらうことが必要になる。相手のことを考えるという余裕は全くなくなります。

 そうすると、そういう状態にある方にとっては「お互いに傷ついていることを知るところから関係を考え直していこう」というこのブログのスタンスは全くずれてしまうことになります。

 ブログの性格として、定型の感じ方を絶対的なものとはしませんから、アスペの方への理解を、アスペ的な感覚にできるだけ近づきながら進めようとする議論がたくさん出て来ます。けれどもそれは「定型の痛み」も前提にしてなりたつことで、「アスペだけが一方的に苦しめられ、痛めつけられているんだ」という見方とは根本的に違うわけです。

 でもそこがそういう状態にある人にはとても理解できないか、あるいは受け入れられないのですね。そういう方にとっては「自分がどれほど苦しめられているのか」を相手に認めさせることが一番重要になってしまっているからです。だから「あなたが苦しんでいるのはわかるけれど、同時に定型も苦しんでいるという両面を見失わずに考える必要がある」という言葉は何の意味もなく、単に「定型の考え方を絶対のものとして、アスペを頭から否定しているのだ」としか感じられなくなってしまうのだと思います。

 たとえて言えば、大けがをして血を流している人に、となりのけが人の心配もしなさい、ということを要求するようなものですから、そう簡単にできることではありません。けがをした者同士、お互いに励ましあう関係になれれば理想ですが、ただ自分のけがはとなりのけが人のせいだと感じてしまえば、とてもではないがその人の心配をするなどできることではない。「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」という言い方がありますが、そんなことが完全にできるとすれば、それこそ「神様」レベルの対応になってしまいますね。凡人には簡単にできることではない。

 

 そう考えてみると、このブログは、けがのレベルがそれでもまだ軽めですんでいるか、どこかで自己肯定ができていて、そこでの深刻な危機状態を免れていてその分相手の立場も考えるゆとりがあるか、もともと「体力」のある人か、あるいは神に近い人(?)か、そういう人にとっては意味のある場になる可能性が高くなりますが、その逆の人にとっては結局自分を受け入れない、自分を否定する場にしか見えなくなってきてしまう可能性が高い、ということになるかもしれません。

 後者の方にこのブログの姿勢を受け入れていただくことは簡単なことではなく、その姿勢を強調するほどに、そういう方は自分が否定され、攻撃されたと理解されますから、どんどん炎上への道を進むことになります。そういう方にとっては「反撃」しなければ自分が完全に崩壊してしまう危機感を懐かれても不思議ない状況があるからです。

 最初のころは「この方はそもそも人の視点から考えることが<知的な問題として>不可能なのだろうか」といぶかったこともありましたが、やはりそういう問題ではないと思います。自分を必死で守る必要のないところではそれはできる方たちだろうと思います。ただ、状況がそれを許さないのでしょう。

 私は最初に書いたように、できれば共感的に理解したい方で、でもそれが無理な場合は感情を抑えて頭でまずは理解しようとする傾向が非常に強く、そういうコミュニケーションの取り方をしようとします。けれどもそういうやりかたがそもそも適さない状況に置かれている方もあるわけで、そういう方がぶつかってこられたときにどう対応するのがお互いにとっていいのか。今は炎上に向かいそうになったら発言を遠慮していただくような対処しかできてませんが、何か工夫が必要だと感じています。

 

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コメント

ぱんださんのおっしゃること、よくわかります。

私が最初にここを訪れた時のことを考えると、「藁をもつかむ気持ち」「溺れそう」というほどではなかったように思います。
ただ、ひたすら「知りたい」という気持ちが大きかったです。

もし初めて訪れる時に、ここが「最後の砦」のように思えるくらい切羽詰まっていたら、「知りたい」より、「知ってほしい」になったかもしれません。

その余裕が何故自分にあったのかはまだわかりませんが、その頃はまだ引きこもっていて、状態としては最悪な感じだったけど、どこかで自分を信頼しているというか、「知れば何とか立ち直れる!」と思っていたように思います。
その自己信頼は、これまでも七転び八起きしてきたこととか、周りに理解しようとしてくれる人が幸いいたとか、そんなことが考えられますが、もっと大きなものもあるのかもしれません。

危機的状況にある方にとっては、まずは全てを受け入れてくれる医療機関などが必要かもしれません。
私もその昔、20代の頃はカウンセリングをかなり長く受けて、聞いてもらいましたから…
(その頃は危機的でした。未遂などもおこしていましたし)

そしてその頃、たまたま同じように危機的状況にあった幼馴染と交流を再開していたのですが、お互いに悪影響だとそのうち感じてきて、いったん関係を終了したこともあります。
(その時のカウンセラーには、「それ(終了させる)を待ってたのよ」と言われました)

とても納得のいく記事だと思いました。

キキさん

 この話を共有してもらえるということは私には大きな希望です。そこは定型アスペの差ではなく、お互いにこの問題を考えていく上での共通の基盤になる可能性を感じるからですね。

 ただ、どんなときにもそれが通じるわけではなく、その方の状態によってはかえって問題をむつかしくしてしまう場合もある、ということをしっかりと理解して、その場合の対応を考えておく必要がある、ということですよね。

私の場合は背景や事情はどうでも良いです。私が知りたいのは多数派と上手くやっていく方法です。
こちらが相手のことを受け入れて歩み寄っても、自分の人間性を変えても、多数派から理解されなかったり、関係が上手くいかない場合はどうしたら良いのでしょうか?

サロマさん

>こちらが相手のことを受け入れて歩み寄っても、自分の人間性を変えても、多数派から理解されなかったり、関係が上手くいかない場合はどうしたら良いのでしょうか?

「多数派」は基本的にそれで安定していますので、その状態を自分から崩そうとすることは稀だと思います。そして多数派として一番楽な方法は少数派を排除することになります。

その状態を変えるには、「その状態が多数派にとってもよくない」という部分を見出したり、あるいは「こちらの方がより優れたものになる」という代案を見出して、そのことへの理解をひろめていくしかないだろうと思います。

その前提には少数派の人が沈黙せずに「私は異質である。あなたの議論では私は理解できない」ということを語り続けることが必要でしょう。そうでなければ多数派はみんな同じだという思い込みから抜けられません。

問題が「多数派VS少数派」の対立に絡んでしまっているので、根本的に解決の方向に向かうにはそれしかないような気がします。もちろん「少数派が多数派を支配する」みたいなことがあれば、また違う展開でしょうが、仮にそれができたとしたら今度は多数派が犠牲になるだけのことで、何の問題も解決しません。

ただ、そういう大きな転換は簡単に起こることではありませんから、日々の現実の中では、周囲にひとりでも理解者を増やして、少しでも生きやすい場を作っていくことが大事なのだろうと思います。そのためにどういう工夫が必要かという事は、ここでもずっと議論し続けてきていることで、今後も長い模索が続くところだろうと思います。

生活に困るので今すぐ改善したいのですが、やはり今すぐには無理なのですね。

もう一つお聞きしたいのですが、にわとりさんのような人は一般的には努力不足とか仕事ができないのは言い訳だと言われるのでしょうか?
ここでもにわとりさんは不正受給している?そういった言い合いもありましたよね。
にわとりさんのような状況の方は周りでもいますが、私もそうなのですが決して怠けているわけではないのですが。

サロマさん

>にわとりさんのような人は一般的には努力不足とか仕事ができないのは言い訳だと言われるのでしょうか?

 一般論ですが、どうしてできないのかが理解できない場合は、そうなりがちではないでしょうか。たとえば数学が得意な人は、数学ができない子どもがどうしてできないか全く理解できず、「なまけているのか」と勘違いしたりすることがありますよね。そういうことは起こりやすいことだと思います。いまだにうつ状態の人について「怠けている」と考える人が結構いますしね。そういうものだと思います。

 診断名がつくと「そういう障がいだから仕方ないのか」というふうな「理解」が成り立つこともありますね。そう理解したうえでどう対応するかは人によっていろいろだと思いますが。

 結局、「そういうものだ」という理解が広まらないことには「言い訳だ」という見方は減らないと思います。以前に比べるとだいぶ理解は広まりつつあるとは思いますが、でもこの場でもいろいろな意見をくり返し聞いてようやくわかってくることが多く、ほんとにむつかしいと思います。

はじめまして パンダさん。
私とパートナーが今までしてきた数々の議論のほとんどをここでパンダさんが文字にして下さっていて、驚きのあまり、2011年の記事から順番に読み漁っています^^

私と息子(17歳)はアスペルガーと診断されています。パートナーはパンダさんそっくりの諦めないとってもしつこい(いい意味で)性格で 6年間の議論を乗り越えて 昨年 再婚しました。

すごく共感?(定型アスペ 問題に対して)出来ることが多くて 感動しているということを 挨拶と共に伝えたくて コメントしています。

実際に 会ったりはしないのですか?私は海外在住ですが、もしこのブロクを通しての集まりがあったなら 絶対に 参加したいと思います! 同じような思いや経験をして、お互いに理解しようと努力している方達がいるとわかってとても嬉しいです😃

Tinaさん

 初めまして、よろしくお願いします。

 そうですか。それはとてもうれしいです。お二人の葛藤に通じるものがあって、そしてお二人はその葛藤を乗り越えてこられたんですね。それ自体また励みになるお話です。

 オフ会といった集まりは、ブログとしては考えていません。もちろん掲示板などでみなさんが自主的に呼びかけをされて集まられたりとか、そういうことはあるかもしれませんが、今のところはまだそういうことはなかったですね。

 Tinaさんの経験もぜひここでも教えていただいて、共有できればうれしいです。

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