2018年6月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 被害と加害 | トップページ | 「お互い様」を受け入れられるかどうか »

2018年2月10日 (土)

自立と依存の価値観の調整

 またふと思ったことです。

 定型とアスペでは、もともと持っている特性が違うだけでなく、そのことをきっかけに周囲に作られる環境も変わっていきます。そして定型は他の人とつながりながら自分の生きる場を作る努力を続ける、という方向に進みやすくなり、他者との間に共感を求めるというような傾向が一層強まっていきます。それに対してアスペの方は共感を求める気持ちがないわけではないが、無理なことや逆に求めて傷つくことが多いので、つながりの中で生きるよりも自分の力で生きる道を見つけようと努力を続ける、という方向に進みやすくなる。

 そうやって特性の違いがきっかけになって、生き方やそれにかかわる価値観がかなり違う方向に進んでいく、といったことが起こっているのだろうと思います。

 それで、アスペの方は「自立」しているように見えることがある。アスペの男性に惹かれる定型の女性は、その「自立した姿」にあこがれをもったりということが結構あるようです。男らしさとかかっこよさを感じるのかもしれません。ただ、その生き方は「共感を求めない」という姿勢ともセットになるため、そういう女性にとっては今度は共感してほしい部分がいつまでたっても満たされず、苦しんでカサンドラになったりするのでしょう。

 それはさておき、そうやって持って生まれたものと、それをきっかけに作られる環境の違いによって、その後の人生の方向が変わっていくことになります。単純な形で言えば「人を頼ってひととのつながりの中で生きる」方向と「人を頼らず自分の力で生きる」方向の違いです。

 人が生きて行く時、そのどちらかだけで生きられるわけはありません。どんなに「自立」したひとであっても、生活のすべてを一人で成り立たせることは不可能です。かならず人とのやり取りの中で生きていく必要がある。逆に人に頼りたい人でも、頼りたい自分から逃れることはできません。どうしたって自分は他の人と違う自分として生きていくしかない。

 そう考えれば、どちらも必要なわけですね。

 そうすると、アスペの方は社会性に乏しい、ということで「社会的なスキル」みたいなものを身につけなければならないと考えられることがあると思いますが、そこがちょっと違うんじゃないかという風に思えてきます。

 たしかにひとりで生きていけるわけじゃないから、多少なりともほかの人とうまくつきあえる力は必要にはなります。だからそれがなくていいという話にはならない。でも「それが生きていく上で一番大事な目標だ」みたいな感じで考えられてしまうと問題が起こる。

 人との付き合いの中で自分を作り上げ、その中で自分の価値を実現していく、といった価値観を持つ場合にはそれでもいいわけですが、でも「人は関係なく自分らしく生きていく」ことに大きな価値観を感じる場合には、それは目標にはならない。

 これはあくまで「傾向」の話ですが、定型は人から見た自分の姿をとても気にしている。だからその中で自分がよい姿になりたいという欲望が強い。それに対して、たとえば私の相方(パートナーという言い方をcarryさんに習って変えてみました)はそれには揺るがされない印象が強い。そうではなく「自分にとっての真実」に足場をおいて揺るがない感じがするわけです。生きていくために相手に適当に合わせる場合もありますが、それはあくまで表面的なことです。

私も定型の中では比較的「他の人がどういおうと自分にとっての真実を追求しようとする」という傾向が強い方だと思っていますが(だからこそ、ここでもアスペルガーについてのよくある見方、型にはまった見方から考えることを全然していません。あくまでも自分が見たこと、感じたことから考え続けています)、でももうそのレベルが全然彼女とは違う感じがするんですね。

 定型とアスペと、どうやってお互いに折り合いをつけて生きていけるのかを考えるとき、この「生きるうえでの中心となる価値観」の違いを前提にして考えていく必要を改めて思ったという事です。

« 被害と加害 | トップページ | 「お互い様」を受け入れられるかどうか »

コメント

境遇の問題だけでなく、超えるハードルのラベルも違うからでしょう。
例えばにわとりさんや息子のように世間から役立たず認定を受けて絶望をしている時、やりたかった仕事があっても能力が足りないだけでなく、基礎的なことで足を引っ張るためにクビになった、好きな人ができても脳の障害者は恋愛対象外になることも多い(嫌われることはなかったとしても)。これは定型優位の社会とか相手のせいとかではなく、そういう扱いを受けても仕方ないれべるにまであるわけですから。
ここまで酷いと共感し合って励まされるレベルではないです。本人が一人で立ち直るしかないのです。

こちらが友好的、たとえどんなに一方的な理不尽な攻撃を受けてもこちらも攻撃的にならずに相手を受け入れる気持ちが持てたら人間関係は良くなるのだと思っていました。
しかしそんなものは幻想でした。
アスペと定型の問題は永遠のテーマですね。
確かにアスペ定型間でもこちらが友好的な態度であれば相手の態度も柔らかくはなりますが、やはりアスペ定型間のズレがあると衝突が起きます。
上手くいっていたとしても片側だけの譲歩であれば譲歩している側の気持ちが犠牲になるだけです。
定型の感覚を心から受け入れられたとしても定型側から見て基準に達しなければ排斥されます。
にわとりさんの時も決してにわとりさんの攻撃性だけが原因ではなく、相手側もにわとりさんの話を受け入れられなくて攻撃、非難した。
片方がどんなに友好的に歩み寄っても相手も友好的に歩みよらなければ何の効果ももたらさないのですよね。
共感の姿勢は大事なのは当たり前。
そこには同じ経験、同じ価値観があって分かち合える。
それまでに会話をしてコミュニケーションが取れて、お互いに信頼関係が取れた上で共感されたと感じられる。
どちらも欠けていたら理解や共感してもらえた、分かち合えたとはならないのだということがわかり、私自身ももうのびしろが残っていないことに気づいてお手上げです。

さろまさん

> 片方がどんなに友好的に歩み寄っても相手も友好的に歩みよらなければ何の効果ももたらさないのですよね。

 はい、おっしゃる通りだと思います。そしてほんとにむつかしいなと思うのは、お互いに自分だけが歩み寄っているという一面的なとらえ方になりがちで、それがどう説明してもどちらも受け入れられない状態に陥ることがあるという事です。

 そしてさらにむつかしいと思うのは、そういう状態に陥ってしまっているから、もう一度両面を見たほうがいいのではないか、自分が一方的に譲歩していると感じているように、実は相手も同じように感じているのではないか、という問題提起をしても、それが全く伝わらないというシビアな現実です。いくらその点を指摘しても、結局「自分だけが譲歩させられ、自分だけが攻撃されている」という一面的な見方からの発言が繰り返されるだけなのですね。

 だれでも自分の視点からしか見ることがむつかしいことはその通りなのですが、そこをなんとか超えないと次がありません。でもほんとにそこがむつかしいのですね。定型間でもそういうことはよくおこりますが、定型アスペ間はそれがとても激しくおこりやすいと感じています。

色々思うことはありますが、もうこちらの双方のトラブルについては触れるつもりはありません。二度と交わることはないでしょうから。

さらに私事の反対の立場からの意見を無理矢理聞かせることとなりますが、一方的に理不尽な攻撃をしてくる人がいたり、障害を理解しようとしない人がいても、友好的な態度、相手を恨まずに許す心、相手を受け入れ、相手に寄り添い、共感の態度を示してきました。
怒りがあれば怒りを感じる自分の心理にもトラウマがあり、そことも向き合ってきました。
しかし多数派の方とは分かり合うことはありませんでした。中には理解者もいましたが、ほんのわずかでした。
私の人間性の問題であればそこを直せば良いですが、どうしたら良かったのでしょうね…

>サロマさん

私も現在、本当の意味で、怒りを自分のトラウマだと捉えられる人は、周りに皆無だと思います。
しかし、理不尽なことや、一方的な怒りをぶつけてくる人は、自分と闘っているんだな、と思うようになったら、どのようなことにも冷静に受け止められるようになりました。
以前なら本当に傷つけられ、二度とこの人とは接したくない!と思うような人とも、(多くはそういう相手が現れて仕事を転々としてきました)心の距離を置いて付き合えるようになってきました。
それでも、酷い人は沢山いて、怒りも湧き、面倒になることはあります。一度は心が乱されて、二度とこんな奴の話を聞くもんか!という感情も湧き上がってきますが、あの人も親にプレッシャーをかけられてきたんだろうな、という見方をすると、一人でわめき散らしている情けない子供のすがたが見えてきて、滑稽に思えます。
言える人に言ってみると、『私もそう思ったよ。一人でグルグルしているよね?』なんて反応も返ってくることも。
社交の上手い人とは、話半分に聞ける人のことなのかなと、最近思います。いくら定型が相手の気持ちを察したいという願望が強くても、人間なら相手の心を透視することなんて絶対に出来ないのですから、察することができたような錯覚に陥っているだけ。アスぺの人が人の心がわからないなどと揶揄したとしても、だいたい人の心がわかる人はいないので、そういう人はわからないのに分かっているように見せているか、わかっていないのに周りの忖度でわかった気になっている憐れな人ではないかと思います。
『社長!素晴らしい!』と拝み祀られていた社長が、年をとってただの老人になったとき、誰も素晴らしいと言ってくれる人がいなかった、なんてことはザラにあります。
人の評価など、ただの妄想。最後に残るのは自分の揺るがない信念のみ。世界の価値観も大きく変わってきて、今定型と言われて順応している人も、付いていけなくなる可能性は大いにあります。
自分のやっていることの責任が取れない人は淘汰される時代が来る。その時強いのは、どんなに相手の理不尽な意見を押し付けられようとも、自分が揺るがなかった人なのかなと感じます。

この記事と、前回の記事の内容を考えていて、面白い例えを思いつきました。
わたしは化学が大嫌いなので、おかしいところがあったら許していただきたいのですが。
分子と原子の構造です。
手をいくつも持っている原子は、手を繋げる原子と結合して分子を形作らないと安定しません。
一方、手を持たない原子(ってありましたっけ?)は、単体で安定します。
手を持つ原子はそのままでは不安定なので、単体で存在する原子に不安を覚えますし、単体で安定している原子は、結合して(見た目不安定な形になって)安定する分子に違和感を感じる。分子は、自分は結合しないと不安定なために、形だけでも結合していた方が良いと考える。単体で存在する原子がいくら他の分子と結合しようとしても、もともと手を持っていないので結合できない。分子になれない原子は、もともと個で安定しているのに、分子から『不安定扱い』されて混乱する。

いずれにしても『質』の違いに気づかずに、相手を自分の質で判断するところに大きな問題が生じるのではないかと。
分子を形作ることのできる原子でも、手の種類によって結合できない、あるいは反発する原子がたくさん存在するのですから、質の違いを知らないことは非常に危険なことに繋がるのではないかと思います。
現在、社会には、そうやって化学反応を起こしてしまっている分子がたくさん存在していて、大混乱に陥っているような感じがしますね。

あすなろさん

相手には相手の背景がある。それを受け入れて、相手に思いやりの心をもったら相手も優しくなるよと言われ、私も気持ちの上では冷静さを取り戻せるようになりました。
仰るように人の評価なんて妄想もあるでしょうし、その時その場だけのものもあると思います。
しかし人間関係がない場所はなく、生きていく上では避けられないものです。
今実際に排斥を受けていたら生活ができません。仕事しないと生きていけませんから。

>サロマさん

>相手に思いやりの心を持ったら相手も優しくなる

実は、私はある時から、なるべく思いやりを持たないようにするようにしました。
それまで、何に対しても気遣って、察して、先回りして、ヘトヘトになったにも関わらず、その気遣いが的外れで非難されるということが続き、嫌になりました。
それなら、最初から思いやりなんて持たなければ良い。大事なのは今、ここで、自分が出来ることは何かを考えることだ、と割り切ったら、意外にも動きやすくなり、関係性も良くなってきました。
仕事などでは、表面的には仲間に入らないと居られないように見えますが、最終的には不当に解雇することはできません。ほとんどが自分で居づらくなって自主退職に追い込まれるんですよね。思いやりを持っても受け入れてもらえないなら、自分のできることをすれば良い。仲間に入れなくても、黙々と仕事をこなせば良い。そして、それが許される職場であれば、辞める必要はなくなります。
結局仲間など、その場の雰囲気で作られるものですから、無理して仲間に入っても、流れが変わればまた新しい関係性を築かなくてはいけない。それなら最初から一匹狼で、誰にも文句は言わせない仕事をやればいいじゃないか。
そう割り切ってみたら、とても楽になりました。

>思いやりを持っても受け入れてもらえないなら、自分のできることをすれば良い。仲間に入れなくても、黙々と仕事をこなせば良い。それなら最初から一匹狼で、誰にも文句は言わせない仕事をやればいいじゃないか。
あすなろさんは同僚の方との関係は上手くいっているのですか?
私のいた職場は残念ながら仕事ができていたとしても人間関係が上手くいかなければクビになったり、仕事を干されて与えてもらえなくなったり、嫌がらせを受けたりするのです。
誰かにどこかに相談しても私がトラブルメーカーのような形で扱われてしまいました。

>サロマさん
私も仕事を転々とし、ほとんどがサロマさんの前職場のような雰囲気で辞めざるを得ませんでした。いくら解雇権は無いと言っても、仕事を干されて、居ても居なくても良いという雰囲気に持って行かれれば辞めざるを得ませんよね。
むしろ一つの職場に固執しないで、転々としたことが良かったかもしれません。この問題はどこに行っても付いて回りますが、開き直りが出来ると、あまりにも理不尽ならいつでも辞めてやるという覚悟で働けます。
今のところは不思議なくらいうまくいっていますが、やはりあまり良い関係を築けない上司がいて、今後この人と周囲の関係がネックになるだろうなと。あまりにも酷い時はまた次を探せば良いという覚悟です。転々とした分、キャリアも積めたので、それを武器にできるなという感じです。職場は従業員のスキルを発揮してもらうほうが助かるはずなのに、今は何でも場の雰囲気に合わせるような方向に行ってしまう。そのうちそういう職場は淘汰されていきますよ。辞めたところが、経営があまりうまくいっていないような話を聞いて、やっぱりな、早いうちに辞めて良かったと思ったこともあります。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/72886430

この記事へのトラックバック一覧です: 自立と依存の価値観の調整:

« 被害と加害 | トップページ | 「お互い様」を受け入れられるかどうか »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ