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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2018年2月

2018年2月17日 (土)

命令口調になりやすい訳

 相方の表現でなかなか慣れないもののひとつとして、私に対する意見の言い方があります。意図としては「こうしたほうがいいよ」という提案だったり、「こういうやりかたもある」というヒントだったりという感じもあるし、もうちょっと強く「こうすべきだ」みたいな命令に近い感じのこともあるようなのですが、私にはどれもが「強い命令」のように聞こえてしまう、ということがよくあります。

 なぜなのか、いろんな可能性があるのでしょう。たとえば彼女自身はそのあたりのニュアンスはちゃんと区別して話しているんだけど、私がその区別を理解する能力がなくて全部同じように聞こえてしまうのかもしれません。逆に彼女の方がそのあたりを区別して表現することが苦手か、その必要を感じていないのかもしれません。場合によっては私が気にしすぎているので、もっと気楽にすればいいという見方もあるでしょう(ただ、気楽にすると「私の言うことを無視している」と怒られたりもするので、それだけではなさそう)。

 なんでなのかなあとずっと考えているのですが、ひとつふと思ったことは、彼女は自分自身に対しても同じように「命令」のような言い方をしているのかも、ということです。

 先日も彼女が言っていたのですが、生きていく中で相手の言うことが納得できない場合は多いわけですね。でも我慢して従わざるを得ない。人から「あなたはこうすべきだ」と言われると、とりあえずそれに従ってみる、という風にすることが多い、という話です。当然それは納得はしていないのですから、無理にやるわけです。だからそういう決意でそれをやるときには、自分に対して自分自身で「命令してやらせる」という感じになるのかもしれません。

 人とのコミュニケーションでそうやって「納得できないけど命令されて無理にやる」という形が中心になるとすれば、その中で生きていくためには自分自身に対して厳しく命令して自分をコントロールするしかなくなります。それが人とのコミュニケーションなんだ、という感覚がそこから育っても不思議ではない。

 そうすると、人と付き合うときも、おなじような態度、やりかたでそれをするようになったとしても、それも不思議ではありません。

 まあ、それでどこまで言えるのかはわかりませんが、なんかそんな面もあるかもな、という気がしました。

2018年2月11日 (日)

「お互い様」を受け入れられるかどうか

 ある意味で子育て経験者さんのおかげという風に言えなくもないですが、反復される同じようなパターンの対立状態がどうやって生まれるか、どうしてそれ以降破たんせざるを得ないのかについて、私なりにちょっと理解が進んだ気がしています。それはこういうことです。

 私は性格的に、相手との共感を求める傾向が強いタイプの人間で、可能な限り相手の人の感情を理解しようとする部分があります。その姿勢が伝わることで、相手の人とうまくいく場合もあります。ただ、感情の動き方が人それぞれなので、どうしても相手の人の感情に共感できないことがあります。

 共感できない状態には二種類ありそうです。ひとつは「わけわかんない」と当惑するようなもので、もうひとつは一応「こういう感情だろう」とはわかっても、それが自分の価値観などと正面からぶつかってしまって、その感情をどうしても受け入れられないような場合です。

 前者の場合はああでもない、こうでもない、と自分の経験を手掛かりに、それを深め、想像力を広げることで「こういう形で考えると自分にも共通することがあるな」ということに気づき、そこを足場になんとか共感的な理解にたどり着く、という方向を模索しますし、部分的にはそのやり方はこの場でうまくいくこともあり、一部のアスペの方からは私に「アスペ認定」をいただくようなこともありました(笑) こういう場合は激しい対立関係になる必要もありません。

 後者の場合も、できれば理解をしたいと思いますので、その場合は自分の感情を抑えながら考えることを進めていきます。むつかしいのはこのパターンの時です。

 この時は私の方も自分の痛みをこらえながら、そことまずはいったん切り離して、言ってみれば「頭で考える」という姿勢になります。そうでなければ感情的にぶつかるだけになってしまうことは明らかです。そういう感情的なぶつかり合いを通して共感的な理解に到達できるのならいいのですが、そもそも定型アスペ関係ではそういうことが難しいということが明らかなのですから、その道は歩めません。

 そうやって自分の痛みを一度自分の中に収める状態で、相手の人に「頭で」向き合うことになります。そのやり方がある程度有効になるのは、相手の人も同じように自分の痛みを直接相手にぶつけるのではなく、一度自分の中に収めて改めて自分自身のその姿も含めて見つめなおしてみる、というふうになれるときです。お互いにそうやって「相手は自分にとっては痛みを与える(加害者のような)人だけれど、でも自分も相手にとってはそういう人になっているのだろう」と考えることで、そこから別の視点から問題を考え直すきっかけが生まれるからです。

 ただ、現実的にはさろまさんもアスペの立場から書かれているように、ここがとてもむつかしいわけですね。定型の側はだいたいは多数派になりますから、アスペの方が仮にそういう姿勢を持ったとしても、自分の方は「正しいから変更の必要がない」と考えやすいので、「お互い」の関係にはとてもなりにくい現実があります。

 その中でも一部の定型の人はアスペの方の苦境を見て何とかしたいと考え、いろいろ努力して接近をしようとするのですが、あまりに感じ方考え方が違うので、自分の善意がそのまま善意として通じることがなく、逆に悪意にとられたりして繰り返し拒絶され、傷つきながら、それでもそれに耐えて頑張ろうとしますが、やはりその状態が続けばそのうちに切れてしまうということが起こります。

 その時は「自分は必死に相手のために頑張ろうとしたのに、それを否定された」という思いになっていて、「なぜ否定されたのか」ということをそこでもう一度考え直してみる気持ちの余裕がなくなっていますから、「やっぱりアスペはどうしようもない人たちだ」というふうに思うことで定型的な自分を支えるしかなくなっていきます。その結果、今まで耐えていた分、その反動で激しい攻撃になることもあります。

 アスペの方の多くは、定型社会では基本的にはその特性は否定的にみられてしまう状況の中で生きています。今の定型社会を維持するために大事なやり方にその特性があわないからです。そのシビアな状況の中で、それでも少なくとも一部の方は善意で定型に接しようとしますが、サロマさんも書かれているようにやはりそれも理解されず、拒絶され、傷つき、それでも耐えてなんとか関係をうまくしようと努力しても結局うまくいかないという厳しい現実があります。

 そういうシビアな状況の中でも自分自身のこともとらえなおしながら、なんとか関係の調整に努力し続ける方もあります。そういうタイプの方はここでの「お互い様」の議論の仕方も共有されやすいのだと思います。

 けれども誰もがそうなれるわけではありません。どこでその分かれ目が生まれるのかはまだよくわかりません。ひとつ可能性として考えるのは、どこかで自己肯定感を保てている場合と、そこが根っこから危機的な状態にある場合の違いでしょうか。

 自分自身がもう保てない危機感を持たれている場合には、まずは自分を救うことが大事になりますから、そのためには自分の中に閉じこもるか、あるいは人に自分の苦境を訴えてそれを認めてもらうことが必要になる。相手のことを考えるという余裕は全くなくなります。

 そうすると、そういう状態にある方にとっては「お互いに傷ついていることを知るところから関係を考え直していこう」というこのブログのスタンスは全くずれてしまうことになります。

 ブログの性格として、定型の感じ方を絶対的なものとはしませんから、アスペの方への理解を、アスペ的な感覚にできるだけ近づきながら進めようとする議論がたくさん出て来ます。けれどもそれは「定型の痛み」も前提にしてなりたつことで、「アスペだけが一方的に苦しめられ、痛めつけられているんだ」という見方とは根本的に違うわけです。

 でもそこがそういう状態にある人にはとても理解できないか、あるいは受け入れられないのですね。そういう方にとっては「自分がどれほど苦しめられているのか」を相手に認めさせることが一番重要になってしまっているからです。だから「あなたが苦しんでいるのはわかるけれど、同時に定型も苦しんでいるという両面を見失わずに考える必要がある」という言葉は何の意味もなく、単に「定型の考え方を絶対のものとして、アスペを頭から否定しているのだ」としか感じられなくなってしまうのだと思います。

 たとえて言えば、大けがをして血を流している人に、となりのけが人の心配もしなさい、ということを要求するようなものですから、そう簡単にできることではありません。けがをした者同士、お互いに励ましあう関係になれれば理想ですが、ただ自分のけがはとなりのけが人のせいだと感じてしまえば、とてもではないがその人の心配をするなどできることではない。「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」という言い方がありますが、そんなことが完全にできるとすれば、それこそ「神様」レベルの対応になってしまいますね。凡人には簡単にできることではない。

 

 そう考えてみると、このブログは、けがのレベルがそれでもまだ軽めですんでいるか、どこかで自己肯定ができていて、そこでの深刻な危機状態を免れていてその分相手の立場も考えるゆとりがあるか、もともと「体力」のある人か、あるいは神に近い人(?)か、そういう人にとっては意味のある場になる可能性が高くなりますが、その逆の人にとっては結局自分を受け入れない、自分を否定する場にしか見えなくなってきてしまう可能性が高い、ということになるかもしれません。

 後者の方にこのブログの姿勢を受け入れていただくことは簡単なことではなく、その姿勢を強調するほどに、そういう方は自分が否定され、攻撃されたと理解されますから、どんどん炎上への道を進むことになります。そういう方にとっては「反撃」しなければ自分が完全に崩壊してしまう危機感を懐かれても不思議ない状況があるからです。

 最初のころは「この方はそもそも人の視点から考えることが<知的な問題として>不可能なのだろうか」といぶかったこともありましたが、やはりそういう問題ではないと思います。自分を必死で守る必要のないところではそれはできる方たちだろうと思います。ただ、状況がそれを許さないのでしょう。

 私は最初に書いたように、できれば共感的に理解したい方で、でもそれが無理な場合は感情を抑えて頭でまずは理解しようとする傾向が非常に強く、そういうコミュニケーションの取り方をしようとします。けれどもそういうやりかたがそもそも適さない状況に置かれている方もあるわけで、そういう方がぶつかってこられたときにどう対応するのがお互いにとっていいのか。今は炎上に向かいそうになったら発言を遠慮していただくような対処しかできてませんが、何か工夫が必要だと感じています。

 

2018年2月10日 (土)

自立と依存の価値観の調整

 またふと思ったことです。

 定型とアスペでは、もともと持っている特性が違うだけでなく、そのことをきっかけに周囲に作られる環境も変わっていきます。そして定型は他の人とつながりながら自分の生きる場を作る努力を続ける、という方向に進みやすくなり、他者との間に共感を求めるというような傾向が一層強まっていきます。それに対してアスペの方は共感を求める気持ちがないわけではないが、無理なことや逆に求めて傷つくことが多いので、つながりの中で生きるよりも自分の力で生きる道を見つけようと努力を続ける、という方向に進みやすくなる。

 そうやって特性の違いがきっかけになって、生き方やそれにかかわる価値観がかなり違う方向に進んでいく、といったことが起こっているのだろうと思います。

 それで、アスペの方は「自立」しているように見えることがある。アスペの男性に惹かれる定型の女性は、その「自立した姿」にあこがれをもったりということが結構あるようです。男らしさとかかっこよさを感じるのかもしれません。ただ、その生き方は「共感を求めない」という姿勢ともセットになるため、そういう女性にとっては今度は共感してほしい部分がいつまでたっても満たされず、苦しんでカサンドラになったりするのでしょう。

 それはさておき、そうやって持って生まれたものと、それをきっかけに作られる環境の違いによって、その後の人生の方向が変わっていくことになります。単純な形で言えば「人を頼ってひととのつながりの中で生きる」方向と「人を頼らず自分の力で生きる」方向の違いです。

 人が生きて行く時、そのどちらかだけで生きられるわけはありません。どんなに「自立」したひとであっても、生活のすべてを一人で成り立たせることは不可能です。かならず人とのやり取りの中で生きていく必要がある。逆に人に頼りたい人でも、頼りたい自分から逃れることはできません。どうしたって自分は他の人と違う自分として生きていくしかない。

 そう考えれば、どちらも必要なわけですね。

 そうすると、アスペの方は社会性に乏しい、ということで「社会的なスキル」みたいなものを身につけなければならないと考えられることがあると思いますが、そこがちょっと違うんじゃないかという風に思えてきます。

 たしかにひとりで生きていけるわけじゃないから、多少なりともほかの人とうまくつきあえる力は必要にはなります。だからそれがなくていいという話にはならない。でも「それが生きていく上で一番大事な目標だ」みたいな感じで考えられてしまうと問題が起こる。

 人との付き合いの中で自分を作り上げ、その中で自分の価値を実現していく、といった価値観を持つ場合にはそれでもいいわけですが、でも「人は関係なく自分らしく生きていく」ことに大きな価値観を感じる場合には、それは目標にはならない。

 これはあくまで「傾向」の話ですが、定型は人から見た自分の姿をとても気にしている。だからその中で自分がよい姿になりたいという欲望が強い。それに対して、たとえば私の相方(パートナーという言い方をcarryさんに習って変えてみました)はそれには揺るがされない印象が強い。そうではなく「自分にとっての真実」に足場をおいて揺るがない感じがするわけです。生きていくために相手に適当に合わせる場合もありますが、それはあくまで表面的なことです。

私も定型の中では比較的「他の人がどういおうと自分にとっての真実を追求しようとする」という傾向が強い方だと思っていますが(だからこそ、ここでもアスペルガーについてのよくある見方、型にはまった見方から考えることを全然していません。あくまでも自分が見たこと、感じたことから考え続けています)、でももうそのレベルが全然彼女とは違う感じがするんですね。

 定型とアスペと、どうやってお互いに折り合いをつけて生きていけるのかを考えるとき、この「生きるうえでの中心となる価値観」の違いを前提にして考えていく必要を改めて思ったという事です。

2018年2月 9日 (金)

被害と加害

 定型アスペ間のやりとりでむつかしくなるときは、だいたい被害感情が複雑に絡まっているときのような気がします。

 一般的なことでいうと、だいたい人間というのは自分の痛みはよくわかるけれど、相手の痛みはなかなか実感できません。加害・被害の関係がはっきりしている場合でも、「足を踏んでいるほうは痛くない」というようなことがあって、踏んでいるほうが踏まれているほうの痛みを理解するのはむつかしい、というか、踏んでいることを気付かないことがよくあります。
 それでも「足を踏む」みたいなわかりやすいことなら、相手に「足を踏んでるよ」と指摘され、自分も踏まれた時のことを思い出せば、想像することはできます。ところが自分がそんなことでは全然痛いとは感じないことを痛いと言われる場合はもっとむつかしくなります。想像すらできないのですから。

 さらにアスペの方のうち、たぶんかなり多くの方は周りから「あなたが加害者だ」と言われ続け、そう思わざるを得ない状況に追い込まれ、自分でも自分を加害者として考えて苦しまれている方が少なくない。そうすると自分も相手から傷つけられて苦しいところに加えて、さらに自分自身が加害者だという苦しみを背負うことになりますので、問題がより複雑になる。

 ただ、その複雑な状態で、自分がなぜ加害者と言われなければならないのか、定型の側がそれで傷つくのかについては実際はなかなか実感できない場合がある。みんながそういうのだからそうと認めるしかない、というふうになっても、実感として「ほんとにそうだ」とはなりにくい。だからある意味では仕方なく「頭で」そう思わざるを得ない立場になったりする。これは定型がアスペの方の痛みを実感として理解しにくいことが多いのと同じことですね。ことばでは理解したとしてもピンとは来ない。

 そういう状況の中で改めて「やっぱり自分のほうが痛みを感じているんだ」ということに気付かれると、その我慢していた痛みが噴出することになりますから、それまで必死で我慢している分、それだけ激しい怒りが沸き起こってくることがあります。これは定型でもアスペでも、そういう場合はそうなりますが、この問題についてはアスペの方(立場の弱い方)がそうなる場合が多い。

 同じように、定型も自分の痛みをこらえてなんとか歩み寄ろうとする場合、その痛みが伝わらない状態で相手から攻撃と感じられるふるまいを受けると、「なんで自分がこんなに痛みをこらえて対応しているのに、そういう態度に出るのだ!」という激しい怒りが生じること(あるいは人)があります。これまでの議論の中で、アスペの方の側からすれば、攻撃している意識は全くなかったりということも多いということも分かってきていますが、「攻撃されている」と感じている側からすると、なかなかそれがそこは理解がむつかしい。

 たぶんここで何度か起こった炎上はそういうことだったのだろうと思います。どちらも日常生活の中で激しい痛みに耐え続けてきている。そしてその痛みに耐えながら、それでも相手と話をしようと試みる。ところがいつまでたっても相手は自分の自分の痛みを理解しない。そして相手の加害者としての面が、つまり自分を苦しめる側の人間としての面が強烈に意識されるようになる。その結果、相手に対するぎりぎりの「反撃」というつもりで、「攻撃」が始まる。

 その時、どちらも自分が加害者であるという面についての実感がないので、自分は被害者であるという意識が前面に出てきますから、相手の「反撃」は「攻撃」にしか見えないわけですね。まさか自分のふるまいが相手にとっては「攻撃」になっているとはなかなか思えないからです。

 その状態に入り込んでしまって、その「純粋な被害者」の視点からしか状況を見られなくなる状態になってしまうと、議論が成り立たなくなってきます。発言の目的はただ「お前は加害者だ。私は被害者だ」ということを相手に認めさせることに集中してしまうからです。すべてがその視点からしか見えなくなってしまうので、何を言っても違う話になってしまって伝わらなくなる。そしてお互いにそれをやるから、話がかみ合うわけがありません。


 ここで模索してきたことはお互いどうやったらそういう一方的な見方を超えていけるかということなわけですが、日常場面のものの見方のずれや感じ方のずれの問題であれば、だいぶんそういうことができるところが増えてきましたけれど、いったんこの被害感情が絡む問題になると極端にそれがむつかしくなります。

 まあ、世の中の悲惨な対立は、その多くがそういう「被害感情」がらみの問題のようにも思えますから、その解決がむつかしいのは当然と言えば当然と言えるのでしょう。そういうものすごくむつかしい問題ですけれど、でもやっぱり単純に自分を被害者としてだけ見るのでもなく、逆に加害者としてだけみるのでもなく、自分が想像できていないところで相手が被害者で、自分が加害者になっていることに少しずつ気付きながら、お互いの新しい関係を模索していく、ということにこだわって、ちいさな歩みを続けていこうと思います。

 

2018年2月 2日 (金)

コミュニケーションスタイルのズレ

 パートナーとのやりとりで、どこがいつも「感情的」にずれるのかがなんとなくわかってきた気がしました。

 私の場合、自分のことを理解したいし、理解してほしいし、また話したい、という「欲望」が強いタイプです。それが一方的なものだとそれこそ傍若無人な「支配欲」みたいにもなり得ますけれど、私の場合はそういうのもいやで、相手の言うことも理解したい、聞きたいという「欲望」も強いんですね。なぜかはわかりませんが。

 そういうことで、お互いに「理解しあう」という状態を求めるスタンスがかなり強くあります。

 もちろん相手を理解するなんて至難の業で、完全に理解するなんていうことは最初から不可能ですから、自分の感覚で相手を理解できる範囲はほんとにちょっとだということも、経験を通してどんどんわかってきます。だから、無自覚な自分の感覚や考え方をできるだけ整理しながら、「そうでない(自分とは違う)相手」のことをできるだけ相手に合わせて理解したいというスタイルになっていきます。

 ということで、相手と話をするときは、まずはできる限り相手の人の言いたいことを、相手の人が感じている感覚に近い状態で理解したいと思うのですね。そうできるというのではなくて、そういう姿勢を保とうとします。どのレベルまでいくととりあえず自分として一段落したと思えるかというと、相手に「あなたはこんな感じ方・考え方をしてるんじゃないですか」と説明して、相手の人が「その通りだ」と納得してくれるレベルまでです。そこまでいくと、ようやくちゃんとしたコミュニケーションが取れるようになったかな、と感じるわけです。

 この場でもそれをやろうと努力して来ているわけですが、もちろんそんなことが完全にできるわけではなく、ただある種の「理想」としてそういう姿勢を保とうとしているということですね。実際そのことで、少しずつ見えてくるものがあるわけです。そしてその見えてくるものには、今までのアスペや定型についての見方では見えてこなかったものがたくさんある。だからそれは必要だと思えます。

 

 そういうやりかたを大事にするので、そこで問題が起こります。お互いにそういう姿勢でやり取りをしたいと思っているのに、そこが相手とずれてしまう場合です。そういう私のやりかたや姿勢は私の性格や、これまでの経験の中で作られてきたものですから、私にとっては大事でも、相手の人はまた別の生き方や姿勢を持っていても全然おかしくありません。それがずれたときに私は困ってしまうわけです。

 彼女とのやりとりも結局そのパターンに落ち込んでしまってうまく進まないことが多いようです。私が自分にとって大事な発見や大事な思いがあった時、それを彼女に対しても話したくなるのですが、まずそれが肯定されることは珍しいと言えます。だいたいがその私の話を否定するような方向で意見が出て来ます。

 もちろん意見が違うことは全然問題ではないのですが、私が言いたい事とは全然関係ないところで否定的な意見が出てくることがほとんどなのです。だからほんとに話がかみ合わず、説明を続けてもその状態がますますひどくなることがよくあります。そういうときの私の素朴な感覚は「こちらの言うことをもう少し理解してから反論してよ」というものです。そんなにでたらめにわかりにくい話をしているつもりはなくて、普通に聞けば「なるほどそういうことも言えるよね」という程度の話だと思うので。

 ということでなんでそういう風に自分が話したことにそういう否定のされ方をするのかがわからずに苛立たしい思いが募ったりするのですが、ただ、時間をおいて考えてみると、私が言いたかったところとはずれたところで、彼女が私の言葉をきっかけに何を感じたのかがわかることがだんだんでてきました。

 つまり、彼女は「私がいいたかったこと」とやりとりしているのではなく、私が言ったことのある部分に刺激されて「自分がいいたかったこと」を言っていると理解すると、ちょっとわかりやすくなるのですね。それは私の言いたかったことを否定しようとしているという風な意識はたぶん彼女にはなくて、ただ素朴に自分が普段感じていることの中の、私の話で引っかかってきた部分を語っているのではないか、という気がしたわけです。

 ただ、私の方はそれを私の話、私が伝えたかったことに対する「反論」として受け取ってしまうので、それに対して説明を加えたり、その「反論」の内容が「おかしい」という説明をしようとすると、今度は彼女の方が「自分の言っていることを理解しない。頭から否定しようとする」と感じて、ますます話がかみ合わなくなっていきます。

 

 この話、コミュニケーションの基本的なスタイルのずれと考えるとわかりやすくなる気がします。彼女は自分がいいと思ったものを私に見せてくれたりするとき、自分の感想もあまり言わないし、私にそれを求めることもありませんでした。最初はその意味が分からなかったけれど、今ではそれは「自分の感覚を押し付けず、その人の感じるままを大事にする」姿勢だったという事がわかります。

 この感覚の延長で考えてみると、ここでも同じことが起こっているのかもしれませんね。私はお互いの考えていることのズレを議論で「調整する」ということをめざすタイプです。でも彼女にとってそういうことはあまり問題にならない。それをやるのは場合によっては「自分の意見を相手に押し付ける」こととして感じ取られてしまうのかもしれません。だから、私の意見に対して彼女が意見を言うときは、それはいってみれば「感想を述べあう」というスタンスで、そこから議論を展開する、というスタンスではないということですね。

 だからそこで言っていることのズレをかみ合わせようとして私が話を「議論」として進めようとすると、「なんで?」という受け止め方をされることになる。そして「また私の言うことが否定された」と感じられることになる。

 お互いに知らず知らずに相手を否定しているのでしょう。彼女は私の「議論」のスタイルを理解しないことで私の意見を「否定」することになる。私は彼女の「感想」のスタイルを理解しないことで、彼女の意見を「否定」することになる。どちらも「自分の言いたいことが否定された」と感じてしまうことが起こります。

 
 ネット上のやりとりだと、お互いに時間的にも距離をとってズレを考えられますから、そのあたりもある程度調整できたりしますが、面と向かってやりとりしているときは、そういう「余裕」も作りにくいので、ずれたまんま話がおかしな方向に展開してしまいやすくなるのでしょう。

 

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