ある意味で子育て経験者さんのおかげという風に言えなくもないですが、反復される同じようなパターンの対立状態がどうやって生まれるか、どうしてそれ以降破たんせざるを得ないのかについて、私なりにちょっと理解が進んだ気がしています。それはこういうことです。
私は性格的に、相手との共感を求める傾向が強いタイプの人間で、可能な限り相手の人の感情を理解しようとする部分があります。その姿勢が伝わることで、相手の人とうまくいく場合もあります。ただ、感情の動き方が人それぞれなので、どうしても相手の人の感情に共感できないことがあります。
共感できない状態には二種類ありそうです。ひとつは「わけわかんない」と当惑するようなもので、もうひとつは一応「こういう感情だろう」とはわかっても、それが自分の価値観などと正面からぶつかってしまって、その感情をどうしても受け入れられないような場合です。
前者の場合はああでもない、こうでもない、と自分の経験を手掛かりに、それを深め、想像力を広げることで「こういう形で考えると自分にも共通することがあるな」ということに気づき、そこを足場になんとか共感的な理解にたどり着く、という方向を模索しますし、部分的にはそのやり方はこの場でうまくいくこともあり、一部のアスペの方からは私に「アスペ認定」をいただくようなこともありました(笑) こういう場合は激しい対立関係になる必要もありません。
後者の場合も、できれば理解をしたいと思いますので、その場合は自分の感情を抑えながら考えることを進めていきます。むつかしいのはこのパターンの時です。
この時は私の方も自分の痛みをこらえながら、そことまずはいったん切り離して、言ってみれば「頭で考える」という姿勢になります。そうでなければ感情的にぶつかるだけになってしまうことは明らかです。そういう感情的なぶつかり合いを通して共感的な理解に到達できるのならいいのですが、そもそも定型アスペ関係ではそういうことが難しいということが明らかなのですから、その道は歩めません。
そうやって自分の痛みを一度自分の中に収める状態で、相手の人に「頭で」向き合うことになります。そのやり方がある程度有効になるのは、相手の人も同じように自分の痛みを直接相手にぶつけるのではなく、一度自分の中に収めて改めて自分自身のその姿も含めて見つめなおしてみる、というふうになれるときです。お互いにそうやって「相手は自分にとっては痛みを与える(加害者のような)人だけれど、でも自分も相手にとってはそういう人になっているのだろう」と考えることで、そこから別の視点から問題を考え直すきっかけが生まれるからです。
ただ、現実的にはさろまさんもアスペの立場から書かれているように、ここがとてもむつかしいわけですね。定型の側はだいたいは多数派になりますから、アスペの方が仮にそういう姿勢を持ったとしても、自分の方は「正しいから変更の必要がない」と考えやすいので、「お互い」の関係にはとてもなりにくい現実があります。
その中でも一部の定型の人はアスペの方の苦境を見て何とかしたいと考え、いろいろ努力して接近をしようとするのですが、あまりに感じ方考え方が違うので、自分の善意がそのまま善意として通じることがなく、逆に悪意にとられたりして繰り返し拒絶され、傷つきながら、それでもそれに耐えて頑張ろうとしますが、やはりその状態が続けばそのうちに切れてしまうということが起こります。
その時は「自分は必死に相手のために頑張ろうとしたのに、それを否定された」という思いになっていて、「なぜ否定されたのか」ということをそこでもう一度考え直してみる気持ちの余裕がなくなっていますから、「やっぱりアスペはどうしようもない人たちだ」というふうに思うことで定型的な自分を支えるしかなくなっていきます。その結果、今まで耐えていた分、その反動で激しい攻撃になることもあります。
アスペの方の多くは、定型社会では基本的にはその特性は否定的にみられてしまう状況の中で生きています。今の定型社会を維持するために大事なやり方にその特性があわないからです。そのシビアな状況の中で、それでも少なくとも一部の方は善意で定型に接しようとしますが、サロマさんも書かれているようにやはりそれも理解されず、拒絶され、傷つき、それでも耐えてなんとか関係をうまくしようと努力しても結局うまくいかないという厳しい現実があります。
そういうシビアな状況の中でも自分自身のこともとらえなおしながら、なんとか関係の調整に努力し続ける方もあります。そういうタイプの方はここでの「お互い様」の議論の仕方も共有されやすいのだと思います。
けれども誰もがそうなれるわけではありません。どこでその分かれ目が生まれるのかはまだよくわかりません。ひとつ可能性として考えるのは、どこかで自己肯定感を保てている場合と、そこが根っこから危機的な状態にある場合の違いでしょうか。
自分自身がもう保てない危機感を持たれている場合には、まずは自分を救うことが大事になりますから、そのためには自分の中に閉じこもるか、あるいは人に自分の苦境を訴えてそれを認めてもらうことが必要になる。相手のことを考えるという余裕は全くなくなります。
そうすると、そういう状態にある方にとっては「お互いに傷ついていることを知るところから関係を考え直していこう」というこのブログのスタンスは全くずれてしまうことになります。
ブログの性格として、定型の感じ方を絶対的なものとはしませんから、アスペの方への理解を、アスペ的な感覚にできるだけ近づきながら進めようとする議論がたくさん出て来ます。けれどもそれは「定型の痛み」も前提にしてなりたつことで、「アスペだけが一方的に苦しめられ、痛めつけられているんだ」という見方とは根本的に違うわけです。
でもそこがそういう状態にある人にはとても理解できないか、あるいは受け入れられないのですね。そういう方にとっては「自分がどれほど苦しめられているのか」を相手に認めさせることが一番重要になってしまっているからです。だから「あなたが苦しんでいるのはわかるけれど、同時に定型も苦しんでいるという両面を見失わずに考える必要がある」という言葉は何の意味もなく、単に「定型の考え方を絶対のものとして、アスペを頭から否定しているのだ」としか感じられなくなってしまうのだと思います。
たとえて言えば、大けがをして血を流している人に、となりのけが人の心配もしなさい、ということを要求するようなものですから、そう簡単にできることではありません。けがをした者同士、お互いに励ましあう関係になれれば理想ですが、ただ自分のけがはとなりのけが人のせいだと感じてしまえば、とてもではないがその人の心配をするなどできることではない。「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」という言い方がありますが、そんなことが完全にできるとすれば、それこそ「神様」レベルの対応になってしまいますね。凡人には簡単にできることではない。
そう考えてみると、このブログは、けがのレベルがそれでもまだ軽めですんでいるか、どこかで自己肯定ができていて、そこでの深刻な危機状態を免れていてその分相手の立場も考えるゆとりがあるか、もともと「体力」のある人か、あるいは神に近い人(?)か、そういう人にとっては意味のある場になる可能性が高くなりますが、その逆の人にとっては結局自分を受け入れない、自分を否定する場にしか見えなくなってきてしまう可能性が高い、ということになるかもしれません。
後者の方にこのブログの姿勢を受け入れていただくことは簡単なことではなく、その姿勢を強調するほどに、そういう方は自分が否定され、攻撃されたと理解されますから、どんどん炎上への道を進むことになります。そういう方にとっては「反撃」しなければ自分が完全に崩壊してしまう危機感を懐かれても不思議ない状況があるからです。
最初のころは「この方はそもそも人の視点から考えることが<知的な問題として>不可能なのだろうか」といぶかったこともありましたが、やはりそういう問題ではないと思います。自分を必死で守る必要のないところではそれはできる方たちだろうと思います。ただ、状況がそれを許さないのでしょう。
私は最初に書いたように、できれば共感的に理解したい方で、でもそれが無理な場合は感情を抑えて頭でまずは理解しようとする傾向が非常に強く、そういうコミュニケーションの取り方をしようとします。けれどもそういうやりかたがそもそも適さない状況に置かれている方もあるわけで、そういう方がぶつかってこられたときにどう対応するのがお互いにとっていいのか。今は炎上に向かいそうになったら発言を遠慮していただくような対処しかできてませんが、何か工夫が必要だと感じています。
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