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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2018年1月24日 (水)

異文化間よりむつかしい定型アスペ関係

 前の記事にいただいたあすなろさんのコメント が、私の中ではとてもヒットしました。

 もうしつこく言い続けてきていることですが、基本的な表現とその受け取り方のところで定型(ADHDの方も含んで)アスペ間で大きなずれがある。「ああそこもそうなのか」「ここもそうなのか」とそのたびにある意味おどろくんですね。いつまでたってもばちっと理解できずに、個別にひとつひとつの「場合」を理解していくしかない。

 考えてみるとアスペの方が定型社会に適応しようとすると、「パターン」で理解するしかなくなる、というい話がありますよね。なぜかはわかりにくいので、「この場合はこうするものだ」というようなパターン化された理解で乗り切るしかなくなる。でも立場を変えて定型がアスペ的関係に適応しようとすると、同じことが起こるわけです。

 今回のあすなろさんのコメントに書かれていた家庭の中で繰り返される風景は、アスペの兄妹と、定型側の母姉の間でマイナスの表現の理解が全然ずれてしまうという話でした。その仕組みはよく分かりませんが、とにかくこういうところでも基本的な感覚にずれがあって、それは個性の差のレベルを超えているらしい。

 そしてあすなろさんはそのパターンを読み取って、「話半分」に聞くような形でバランスを取ろうと工夫されているわけですが、それは自然な感覚ではないわけですよね。頭で理解してやっているということで。

 もしそれが自然な感覚になってしまうと、今度はあすなろさんが定型社会でうまくやり取りできなくなってしまう可能性があります。だからその意味でも完全に感覚を切り替えるのはむつかしい。

 もしかしてバイリンガルのように、状況で表現の理解や表現の仕方を自由に切り替えられる人がいれば、そこはほとんど無理なくきりかえられるのかもしれません。でも言葉なら生まれた時から二つの言葉が周りにあれば、どちらも母語になって違和感なく自然に使えるようになりますけれど、定型アスペの感覚のずれはたとえ生まれた時から両方の親に育てられたとしてもそれで身につくわけではない。
 つまり定型アスペのずれは、言葉の違いや、文化の違いなどよりも、もっと深いところで起こるのだということがこういうところからも想像されるわけです。


 そんなふうに考えてみると、文化や言葉の違いでも人間はものすごい摩擦を起こしているわけですから、定型アスペ関係で摩擦なしに進むなんて、ほとんど奇跡のようなものかもしれません。それほどむつかしい課題にここでは取り組んでいるわけでしょうね。

 ABAとかはそういうことは抜きに、わかりやすくパターンを学び続けるみたいな発想でしょうから、その限りでは即効性を持つでしょうけれど、それだけじゃねえ、と思うし。

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コメント

>パンダさんへ

>あすなろさんが定型社会でうまくやり取りできなくなってしまう可能性があります。

そうなんですよ!私は最近、アスペの子供たちとのやり取りの方が楽になってきたので、何もかも『話半分』のクセが染み付いてしまいました。
すると、これに長女が怒るんですね。怒るというか、信用しないという感じ。(もともと信頼されていないんですが(^^;))

面白いことに、仕事上で、アスペや自閉の子だけでなく、ダウンや知的障害の子と接する時、この話半分の方が信頼関係が築けるんです。子供は、あんまり真剣に受け止められてしまうと怖がるところがありますから。しかし、職員としての対応は、これではマズイわけで。あんまり度を越すと、上や同僚や親から『大丈夫か?』と思われて信頼を失うことになります。

もともと深く考えることが苦手なタイプなので、定型社会の信頼を得るには、これと真逆のことをしなくてはいけないわけで。
そうすると、もしかしたらアスペの人が社会に馴染めなくなる原因も、この辺りにあるのかもしれません。

そうすると、ふと思たんですが、
もしかするとアスペ的な表現のほうがむしろ生き物としての原型なのかも。
で、そういう表現の仕方だとクッションが少なくなって関係が作りにくくなるから
定型はそこでいろいろ回りくどい表現とかを工夫するようになって
そうやって定型社会を作ってきた。

なんかそんな可能性をふと思いました。

原始的というか、実利主義という感じがしますね。
コメの補足をしようと思っていたところです。

長女が私を信用しなくなる……と書きましたが、3人の子供の中で、実は長女が一番いい加減なのです。家の手伝いなども『仕事』として見ると、最も信頼出来るのは長男です。しかも完成度が高い。一度頼んだことは忘れません。長男をよく知っている人は、彼を信頼しています。
次に完璧なのは次女で、ADHDもあるため頼んだことをよく忘れてしまうんですが、習慣になっていることや覚えていることは完璧にこなしてくれます。
テキトーに言ってテキトーに済ませてしまうのが長女。態度が大きいのとコミュニケーション能力が高いので、世渡りはうまいです。

あすなろ家を晒して、お恥ずかしいですが、世の中のアスペ定型の確執の縮図のような気がしますね。

ちなみに、ADHD一色の私は、忘れっぽい上に、仕事も杜撰という救いようのない感じで、アスペとは違う世渡りの難しさを抱えています。(^^;)

こんばんは^_^

あすなろさんの長女さんの、
「テキトーに言ってテキトーに済ませてしまうのが長女。態度が大きいのとコミュニケーション能力が高いので、世渡りはうまいです。」
これができる人が大半なんです、うちの職場。

いま、子供の体の事情で一ヶ月休んでるんですが、復帰が嫌で嫌で憂鬱でたまらない!

長男さん、次女さんタイプの人たちと働いたらどんなに気持ち楽だろう。
あすなろさんがリーダーで(笑)

復帰した時のはじめの一言は何て言えばいいんだろう、2月も休みをとりたいが、交渉できるかなあ、など、テキトーに考えられないので、ほんっとにまじで憂鬱なんです…

>キキさん

ツィッターで、そんな議論がありました。子供関係のことで長期休みを取らざるを得なくて、職場への気遣いに悩む母親。
キキさんの分をフォローした人は、たしかに心情的に面白くないかもしれませんが、それはキキさんのせいでもお子さんのせいでもなく、本来はそういうイレギュラーに対応できない職場環境に原因があるんですよね。
アスペだからではなく、子育てしながら仕事をする母親全ての悩みですよ。
立派に子供を育てているのだから、堂々としましょう!
職場が理解しなくても、子育ての大変さを知っている人はほとんど理解できますよ!

別記事の子育て経験者さんのコメントから、ハッと気付きました。
息子さんが、太っていても、シワがあっても、ハゲでも、人の価値をそんなところで判断しないというところ!
うちの場合、私がアスペの子どもたちの話を半分に聞いて丁度良いというのも、実は全てがそうでなくて、時々彼らを怒らせることがあるのです。
そういう時、『ママって酷い!』『言って良いことと悪いことがあるだろ!』などと、散々言われます。
よく芸人やタレントのことや、ニュースの話題などでぼやいて、そうなることが多いんですが。
私は、目の前にいない人のことなので、何を言ってもいいでしょ!と思うのですが、息子たちは、人をそういう風に見る姿勢が許せないと。


例えば『太っている』と、『ブス』は全く違う。
『おとなしい』と、『根グラ』は全く違う。
『口下手』と『コミュ障』は全く違う。
そんなところのニュアンスが、定型は時にごっちゃになっていることがあるんじゃないかと。
だから息子は事実でないことを言った時、怒るのかなと。

ただ、息子にも色々と見方があって、例えば一人でいるのが好きだよね、というと、どうせコミュ障だって言いたいんだろ?などと飛躍することもあり、これは個人の経験とかこだわりの問題なのかもしれません。
そのこだわりの強さも関係しているのかなと。

あすなろさん

>私がアスペの子どもたちの話を半分に聞いて丁度良いというのも、実は全てがそうでなくて、時々彼らを怒らせることがあるのです。

 この辺もアスペの方がよく体験することですよね。つまり、定型から「こういう風にやりなさい」と言われて、その通りにやって居るつもりなんだけど、実は微妙にずれていて、却って怒られたりする。自分は言われた通りにやっているつもりなのに、なぜか認めてもらえない。

 感じ方や考え方の基本的なところでずれがあると、「こうやればいい」と理解しても、それがまたずれてしまうという事がよくおこるんだと思います。そういう意味では別に「アスペの人は応用が利かない」という話でもないんだと私は思うんですね。そういう場合もないとは言わないけど、結構多くの場合は応用できないのではなく、応用の仕方が違うということがあるんだと思います。

>私は、目の前にいない人のことなので、何を言ってもいいでしょ!と思うのですが、息子たちは、人をそういう風に見る姿勢が許せないと。

これもアスペの方が定型の世の中でショックを受けやすいポイントのような気がします。いわゆる「陰口」ですよね。もちろんこの例の場合はテレビの人だから陰口とは言いにくいけど、でも目の前にいない人について、という点は一緒だし。

そう考えてみると「人と付き合うときにどういうことが大事なのか」という、言ってみれば道徳観みたいなものが定型とアスペではかなり違う形で作られていくのだろうと思えてきます。

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