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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2018年1月21日 (日)

闘うか耐えるか

 定型アスペ問題を考え、議論するときに、話がかみ合わなくなる場合の原因の一つに、プラス派とマイナス派の視点のずれがあるのでは、という話を前に書きました。このずれは定型だからプラスで、アスペだからマイナスだというゆうものではなく、定型にもアスペにもどちらにも両方のタイプがありますし、一人の人でも場合によってプラスになったりマイナスになったりしますから、単純な分け方はできないのですが、ただ状況から言ってアスペの方はマイナス派になりやすく、それに比べると定型はプラス派になりやすいと思えるので、そのずれが定型アスペ問題を考えるときにも話のかみ合わなさで出てくることがある、と思えたわけです。

 ここで考えてみようとしている闘うか耐えるかという姿勢の違いも、似たようなものだと思います。

 いろいろな困難にぶつかった時、たとえば理不尽な扱いを受けたり、そうされる人を見たとき、「それはおかしいことだ、変えなければならない」と闘いの姿勢になりやすい人と、「そんな世の中でどうやって生きていくかを考えなければならない」と耐えの姿勢になりやすい人があるように思います。

 もちろんこれも固定したものではなくて、闘いの姿勢の人も破れ続けていつか闘い続けることをあきらめ、耐えの姿勢に変わることもあるし、耐えの姿勢の人が、「これではいけない」と闘いの姿勢に変わることもある。ただ人によってどちらになりやすいかの傾向の違いはありそうな気がするし、またその人が置かれた状況で、どちらにされやすいかの違いもあると思います。

 ものすごく大雑把に言えば、定型社会の中ではアスペの方は不利な立場に置かれることが多く、そして定型の理屈に苦しめられて定型からの要求に理不尽さを感じることも多いはずです。けれどもどれほどそれに理不尽さを感じたとしても、巨大な定型社会の仕組みが簡単に変わるわけもなく、個々人でそれに闘いを挑んだとしてもつぶされてしまう可能性が大きい。

 もちろん定型でも今の世の中に理不尽さを感じる場合には同じようなことは起こるわけですが、そうなる可能性がたぶんアスペの方は定型より圧倒的に大きそうな気がする。そうすると、多くのアスペの方は、闘うよりも耐えて生き延びる道を選ばなければならない、という形になりやすそうです。

 私は子どものころ比較的早い時期から親の影響もあって闘う姿勢の方になり、それ以降破れ続けながら(笑)も基本的にはその癖が抜けないのですが、そうすると、「耐えて生きる」というものの見方を理解することがむつかしくなったりするのですね。

 人が生きていく上では、耐えることも必要だし、でも闘うことも必要だし、どちらか一つだけで生きられることはない、と冷静に考えればまあそうなんだろ思いますが、闘う姿勢をとるという事は「耐えない」という決意でもありますから、耐える姿勢を理解する、ということになりにくい。とくにずっと耐え続ける、ということを認められなくなります。

 パートナーが子どものいじめ問題に直面したとき、彼女はいじめからどう逃れるか、という方法を子どもに一生懸命伝えようとしたようです。例によって報連相はありませんから、私には具体的には何も伝わらないのですが、断片的に聞くところからするとそういう感じがしました。

 で、それは私は理解できない、というか納得できなかったわけです。いじめに対しては正面から闘うべきだ、という発想にすぐなってしまうからです。

 こどものいじめ問題に限らず、いろんなところでそういう姿勢のズレを感じ続けてきたのですね。

 けれども、最近だんだんと実感するようになってきたことは、彼女のこれまでの人生で、彼女が置かれてきた状況を考えると、彼女がそういう姿勢を選んできたことは当然ではなかったか、ということでした。私が私に与えられた条件や私の気質の中で闘いの生き方を選んできたように、彼女は彼女に与えられた条件や気質の中で、そうでない生き方を作り上げてきた。

 当たり前といえば当たり前の事なんですけど、なかなかそういうことは実感として理解しにくいことでもありました。でも少しずつそのあたりについて見えてくると、そこがお互いの関係の変化にも結びつきそうな予感もしています。

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コメント

闘うか、耐えるかというお話から、もう少し発展して。
私がアスペの家族と日々接していて思うのは、アスペの子たちは、何か発言するとき、(私から見て)マイナス的な表現をすることが多い。けれど、実際にはそれほどマイナスに思っていない、というズレです。
例えば、私は息子の言動にショックを受けて『どうしてそんな悲しいことを言うの?なんでそう卑屈に取るの?』と言うのですが、息子からは『は?何でそういう捉え方をするの?あんたの方が卑屈だろ?』と言われ、『だってその言い方ではそう感じるよ』と言うと、それを聞いていた娘が『ママの方が変だよ。お兄ちゃんそんな風に思ってないよ』と言って、二人して呆れている、というような図になることがしょっちゅうです。
こんな風に、二人の言動は、時々定型の長女を逆上させます。
長女は『なんでいつもあんな悪く考えるんだよ!』と言って怒っている。息子と次女は『お姉ちゃんは、なんか言うとすぐに怒るよね』と言って気を使っている。
完全に、表現のクセと、物事の感じ方、対処の仕方が違うんだろうなーと。
だから最近の私は、息子や次女の言動は、私が感じるほどは深刻ではない!と言い聞かせるようにして、話半分に聞くようにしていて、ちょうど良い感じです。

あすなろさん

 すごく興味深いエピソードですね。
 なんか核心をついているような気がしました。
 時間がないので、とりあえず。

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