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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2018年1月

2018年1月30日 (火)

道徳的な感じ方のズレ

子育て経験者さんのコメント

息子が子供の頃は近所の人におばさんシワが多いねとか、太ったね、おじさんはげてきたねなどと言うので、困ったことがありました。……息子は熟女好きとか言う意味ではなく、肌がきれいな若い女性の方が良いとか、痩せている方が良いなどの一般的な感覚がなく、ハゲていようが、肌が劣っていようが、人の中身が一番ではないかという感覚のようです。

と言った話があり、私はとても興味深く思ったのですが、あすなろさんもやはり興味を持たれてご自分の経験を寄せられました。

うちの場合、私がアスペの子どもたちの話を半分に聞いて丁度良いというのも、実は全てがそうでなくて、時々彼らを怒らせることがあるのです。そういう時、『ママって酷い!』『言って良いことと悪いことがあるだろ!』などと、散々言われます。よく芸人やタレントのことや、ニュースの話題などでぼやいて、そうなることが多いんですが。
私は、目の前にいない人のことなので、何を言ってもいいでしょ!と思うのですが、息子たちは、人をそういう風に見る姿勢が許せないと。
例えば『太っている』と、『ブス』は全く違う。『おとなしい』と、『根グラ』は全く違う。『口下手』と『コミュ障』は全く違う。そんなところのニュアンスが、定型は時にごっちゃになっていることがあるんじゃないかと。だから息子は事実でないことを言った時、怒るのかなと。


 よく、アスペルガーの「障がいの特性」として、「相手の立場に立って考えることが苦手」みたいなことが言われ、子育て経験者さんの例はまさにそういわれることの典型みたいな話になりますが、そういう見方だけでは大事なことを見落とされてしまっている事がお二人の話から分かります。

 なぜなら、そういう形での「障がいの特性」の見方では、要するに人間関係で大事な道徳的な感覚がアスペの方には育っていない(あるいは育ちにくい)という話になります。でもお二人の例からわかるように、明らかにそういう話ではないのですね。

 そうではなく、定型的な「道徳」のポイントと、アスペ的な「道徳」のポイントにずれがあるわけです。

 だから、定型的な道徳の目で見れば、アスペの方のそういう発言は単純に「人の事を考えない、道徳的に未熟な話し方だ」という理解になりますが、逆にアスペ的な道徳から見ると、定型の発言が不道徳に見えることがあるわけです。

 一般によく言われるこの「障がいの特性」の見方は、この部分を完全に見落としてしまっています。つまり、それは徹底して定型中心の見方で、「アスペ」=「不完全な定型」という発想を抜け出られていないわけです。アスペにはアスペの生き方があるということに思い至っていないことになります。


 もちろん、「だから定型は不道徳なんだ」ということを言いたいわけではありません。それぞれにそれぞれの特性をベースにした道徳的な感覚が育つので、そこにずれが起こって相手にとっては不道徳に見える振る舞いが起こってしまうことがある、ということです。どっちがいいとか悪いとかいう話ではありません。
 
 むつかしいのは、相手の道徳的な感覚は自分には不自然だったり良く無いことだったりするので、単純に相手にあわせればいいというものではありません。アスペの方が社会で苦労するのはそういう形で一方的に定型の基準に合わせさせられるからで、納得のいかない生き方をそこで強いられるから苦しくなります。

 逆にカサンドラ症候群のような状態に陥る定型は、家庭という閉じられた別の場で、今度はアスペ的な基準を強いられたりするわけですね。だからその場合は今度は定型の側がものすごく苦しむことになります。

 どちらから言っても、自分を否定して解決することはない。あとはどう折り合いをつけるかという事だけでしょう。そういう折り合いをつける道を探すためにも、まずはそういう道徳的な感覚のレベルでもずれが生まれていることをちゃんと見つめる態度が大事になると思います。

2018年1月24日 (水)

異文化間よりむつかしい定型アスペ関係

 前の記事にいただいたあすなろさんのコメント が、私の中ではとてもヒットしました。

 もうしつこく言い続けてきていることですが、基本的な表現とその受け取り方のところで定型(ADHDの方も含んで)アスペ間で大きなずれがある。「ああそこもそうなのか」「ここもそうなのか」とそのたびにある意味おどろくんですね。いつまでたってもばちっと理解できずに、個別にひとつひとつの「場合」を理解していくしかない。

 考えてみるとアスペの方が定型社会に適応しようとすると、「パターン」で理解するしかなくなる、というい話がありますよね。なぜかはわかりにくいので、「この場合はこうするものだ」というようなパターン化された理解で乗り切るしかなくなる。でも立場を変えて定型がアスペ的関係に適応しようとすると、同じことが起こるわけです。

 今回のあすなろさんのコメントに書かれていた家庭の中で繰り返される風景は、アスペの兄妹と、定型側の母姉の間でマイナスの表現の理解が全然ずれてしまうという話でした。その仕組みはよく分かりませんが、とにかくこういうところでも基本的な感覚にずれがあって、それは個性の差のレベルを超えているらしい。

 そしてあすなろさんはそのパターンを読み取って、「話半分」に聞くような形でバランスを取ろうと工夫されているわけですが、それは自然な感覚ではないわけですよね。頭で理解してやっているということで。

 もしそれが自然な感覚になってしまうと、今度はあすなろさんが定型社会でうまくやり取りできなくなってしまう可能性があります。だからその意味でも完全に感覚を切り替えるのはむつかしい。

 もしかしてバイリンガルのように、状況で表現の理解や表現の仕方を自由に切り替えられる人がいれば、そこはほとんど無理なくきりかえられるのかもしれません。でも言葉なら生まれた時から二つの言葉が周りにあれば、どちらも母語になって違和感なく自然に使えるようになりますけれど、定型アスペの感覚のずれはたとえ生まれた時から両方の親に育てられたとしてもそれで身につくわけではない。
 つまり定型アスペのずれは、言葉の違いや、文化の違いなどよりも、もっと深いところで起こるのだということがこういうところからも想像されるわけです。


 そんなふうに考えてみると、文化や言葉の違いでも人間はものすごい摩擦を起こしているわけですから、定型アスペ関係で摩擦なしに進むなんて、ほとんど奇跡のようなものかもしれません。それほどむつかしい課題にここでは取り組んでいるわけでしょうね。

 ABAとかはそういうことは抜きに、わかりやすくパターンを学び続けるみたいな発想でしょうから、その限りでは即効性を持つでしょうけれど、それだけじゃねえ、と思うし。

2018年1月21日 (日)

闘うか耐えるか

 定型アスペ問題を考え、議論するときに、話がかみ合わなくなる場合の原因の一つに、プラス派とマイナス派の視点のずれがあるのでは、という話を前に書きました。このずれは定型だからプラスで、アスペだからマイナスだというゆうものではなく、定型にもアスペにもどちらにも両方のタイプがありますし、一人の人でも場合によってプラスになったりマイナスになったりしますから、単純な分け方はできないのですが、ただ状況から言ってアスペの方はマイナス派になりやすく、それに比べると定型はプラス派になりやすいと思えるので、そのずれが定型アスペ問題を考えるときにも話のかみ合わなさで出てくることがある、と思えたわけです。

 ここで考えてみようとしている闘うか耐えるかという姿勢の違いも、似たようなものだと思います。

 いろいろな困難にぶつかった時、たとえば理不尽な扱いを受けたり、そうされる人を見たとき、「それはおかしいことだ、変えなければならない」と闘いの姿勢になりやすい人と、「そんな世の中でどうやって生きていくかを考えなければならない」と耐えの姿勢になりやすい人があるように思います。

 もちろんこれも固定したものではなくて、闘いの姿勢の人も破れ続けていつか闘い続けることをあきらめ、耐えの姿勢に変わることもあるし、耐えの姿勢の人が、「これではいけない」と闘いの姿勢に変わることもある。ただ人によってどちらになりやすいかの傾向の違いはありそうな気がするし、またその人が置かれた状況で、どちらにされやすいかの違いもあると思います。

 ものすごく大雑把に言えば、定型社会の中ではアスペの方は不利な立場に置かれることが多く、そして定型の理屈に苦しめられて定型からの要求に理不尽さを感じることも多いはずです。けれどもどれほどそれに理不尽さを感じたとしても、巨大な定型社会の仕組みが簡単に変わるわけもなく、個々人でそれに闘いを挑んだとしてもつぶされてしまう可能性が大きい。

 もちろん定型でも今の世の中に理不尽さを感じる場合には同じようなことは起こるわけですが、そうなる可能性がたぶんアスペの方は定型より圧倒的に大きそうな気がする。そうすると、多くのアスペの方は、闘うよりも耐えて生き延びる道を選ばなければならない、という形になりやすそうです。

 私は子どものころ比較的早い時期から親の影響もあって闘う姿勢の方になり、それ以降破れ続けながら(笑)も基本的にはその癖が抜けないのですが、そうすると、「耐えて生きる」というものの見方を理解することがむつかしくなったりするのですね。

 人が生きていく上では、耐えることも必要だし、でも闘うことも必要だし、どちらか一つだけで生きられることはない、と冷静に考えればまあそうなんだろ思いますが、闘う姿勢をとるという事は「耐えない」という決意でもありますから、耐える姿勢を理解する、ということになりにくい。とくにずっと耐え続ける、ということを認められなくなります。

 パートナーが子どものいじめ問題に直面したとき、彼女はいじめからどう逃れるか、という方法を子どもに一生懸命伝えようとしたようです。例によって報連相はありませんから、私には具体的には何も伝わらないのですが、断片的に聞くところからするとそういう感じがしました。

 で、それは私は理解できない、というか納得できなかったわけです。いじめに対しては正面から闘うべきだ、という発想にすぐなってしまうからです。

 こどものいじめ問題に限らず、いろんなところでそういう姿勢のズレを感じ続けてきたのですね。

 けれども、最近だんだんと実感するようになってきたことは、彼女のこれまでの人生で、彼女が置かれてきた状況を考えると、彼女がそういう姿勢を選んできたことは当然ではなかったか、ということでした。私が私に与えられた条件や私の気質の中で闘いの生き方を選んできたように、彼女は彼女に与えられた条件や気質の中で、そうでない生き方を作り上げてきた。

 当たり前といえば当たり前の事なんですけど、なかなかそういうことは実感として理解しにくいことでもありました。でも少しずつそのあたりについて見えてくると、そこがお互いの関係の変化にも結びつきそうな予感もしています。

2018年1月 2日 (火)

並びあう

 なんとなく思うことです。

 定型アスペ間の共感関係というのは、向き合って語り合う中で生まれるよりも、並びあって同じものを見つめる形での方が生まれやすいのかなあと。

 並びあっていても、お互いに少し位置が違う(目の位置が完全に重なることはむりですもんね)から、ちょっと見え方はずれているんだけど、でも同じものを見ているわけだし、それを見て感じていることもずれているかもしれないんだけど、でも同じものを見ているその場を共有している。

 向き合うとある意味強烈に相手を意識しながらの関係になるので、それってアスペ的にはすごい緊張が高くなってしまって、共感どころではなくなるのかもしれません。でも並びあって前を向いているのなら、そういう緊張は生まれにくいでしょう。

 相手をなんとなく感じながら、でも自分なりにものを見つめることができて、そうやって相手も自分なりにものを見つめている場を共にする。

 なんかそういう静かな、ほっとできる関係が定型アスペ間では特にいいのかもしれないと、そんなことをふと思うのでした。

2018年1月 1日 (月)

2018年 年賀

   

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