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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年12月 1日 (金)

言葉で表現すること、体で感じること

 記事「プラス派とマイナス派のズレ」へのあすなろさんとのコメントのやりとりの中で、久しぶりに「入れ子」の話を思い出して、その視点で整理してみたのですが、その話はあすなろさんの息子さんが定型社会との自分なりの付き合い方を発見されていく過程にもわりあいよく当てはまるものであったようです。

 つまり、この場合で言えば「人から見られる自分1」と「自分が考えている自分2」という二つにズレがあった時、「あなたは1だよね」と相手から言われても、「『自分1』と見られている自分2」という風に、自分1と2を切り離して入れ子にして考えられればまだいいのですが、それが切り離せずに「相手から自分1と言われた」=「自分が自分1になってしまう」という形になってしまうと、自分が全否定されることになりますから、もう耐えられなくなる。

 二つの自分(1と2)は、入れ子のように理解することで、「どちらの自分にもそれぞれの理由がある」ことになって、その意味で矛盾なく受け入れられることになりますし、そうなればたとえ相手が「お前は1だ」と主張したとしても「まあそう見えるわけだよね。ほんとは2なんだけど」とちょっと余裕を持って受け止めることができるようになるわけです。それができないと「自分1」を認めること=「自分2を否定すること」となってしまって、必死で対抗せざるを得なくなる。

 こういう話は実際は大部分の人が一生繰り返して直面することだと思います。年齢と経験を重ね、いろんなことを入れ子や入れ子の入れ子、入れ子の入れ子の入れ子……のように複雑に組み合わせて考える力がついてくると、その分いろんな見方を組み合わせて考えられるようになりますが、でもどれだけそれができるようになったとしても、その自分の見方を入れ子で考えることがその時にはできないので、やはり上の話と同じ問題がより複雑な形で起こり続けるわけです。

 考えてみると、宗教的な「救い」も同じ構図で理解できる部分がありそうです。世の中から自分を理解されず、否定的にみられ、苦しくて仕方がなかった人が、たとえば「神様」に本当の自分を見て受け入れてもらえた、と感じたとします。そうすると「世間からは自分1と見られているのだけれど、神様にはちゃんと自分2を見ていただいている」という理解が成り立つことで「『自分1』と見られている自分2」が救われ、否定されずに生きられるようになる。

 出家などはさらにそれを推し進めた形かもしれません。世間(家)の見方を離れ(出)て、そういうものに振り回されない自分の世界に生きる場自体を移していくことで、「自分1を見ている世間に振り回されない、本当の自分2」に生きられる、ということなのでしょう。

 それが進んで「無我」の話になったりすると、今度はもう「自分1も自分2も、ぜんぶ無だ」というところまで行って、そういう「誰々が見た自分」みたいな固定的な自分の見方を離れて、あるがままに生きるという境地になっていく。どういう場に生きているかも関係なくなる。ま、私自身が悟っているわけではないので(笑)、あくまで頭で考えた想像の話ですけど……。

 

 また寄り道してしまいましたが、もともと書きたかったことはそこではなくて、とにかく人はいろんな自分を抱えて生きているわけです。いろんな面があると言ってもいいでしょう。そして見る人によってそのどの面が見えているかが異なる。そしてその面が「悪」か「善」かなど、どういう意味で理解されるかは、見る人の価値観によっても変わったりする。

 で、そういう矛盾するような二つの自分を両方とも認めて、入れ子で理解する人から見ると、一つの自分しか認められない人は「このひとは一つしか見られず、本当のことがわかっていない」というふうに見えることになります。まあ自分は二つをちゃんと認めることができて、相手が一つしか認められないということなら、数の上では自分の方が上ですから、「自分の方が正しい」と感じられるのは無理もないことかもしれません。

 ただ、そこで単純に「相手が一つしか見えていない」と理解してしまうと、そこはまた違うんだろうなと思ったんです。たしかに話し合っているときには「一つの面」しか認めないので、全体として理屈に合わないものすごく偏った見方をしているようにも見える。でも、その人がほかの面を全く知らないのかというと、ある意味「体では知っている」というようなことがあるんじゃないか、と思ったわけです。

 話し合いという「頭で知っている」ところで見ると「一つしか見えてない」ということになるけど、頭で理解するような、言葉で理解するような世界ではないところで、もっと素朴な体の感覚のところで、実はいろんな面を感じてはいる。

 これ、パートナーとのやり取りの中でいつも引っかかるところの一つなんですね。私は基本的に「頭でっかち」の部分があって、言葉にして理解する世界をすごく重視しています。ですから、いろんな面について、ちゃんと言葉にして考えられなければならない、という感覚があります。ちょっと極端に言えば、言葉にして語れないのは、わかっていないこと、見えていないことだ、と否定的に見る傾向もあります。

 その癖が体の芯まで染み付いてしまっているので、彼女と話をすると、「話がとても一面的だ」「言うことが矛盾している」といった、言葉の世界での「不完全さ」が気になってしまって、そこですぐに反論してしまうんです。で、そのやりかたは必ずと言っていいほどに失敗します。ここでも同じことが起こりましたけど。

 なんでなのかですが、彼女が言葉の上では「aだ」と表現したとします。で、私は「aだけではなく、bも大事だ」と考えている。それで私は「彼女はaしか見ていない。bを無視している」と考えるわけですね。で、「bもあるでしょう。aだ、という決めつけはおかしいでしょう」と反論する。ところがこれが彼女にとっては私の方からの不当な決めつけに感じられるわけです。なぜなら実際は言葉にはならないところでbについても感じていて、ただそれがうまく表現できずに言葉にするとaしか出てこないだけだからです。

 言葉の世界で表現することを a b
 体で感じていることを      A B
 
 という風に表したとすると、頭でっかちの私はaとbで話をしようとして、AとBは無視しがちになる。で、彼女の方は私に合わせてaで話をするけど、実際はAとBを重視している。というズレが起こっていることになります。

 私から見た彼女の話  a そして bはない
 彼女の言いたいこと  a=A ただし Bもある

 そして「あなたはaと言ったでしょう?」という私の問いかけは、彼女にとっては不当な問い詰めになってしまうことになります。そうやってお互いに「この人には話が通じない」と感じることになる。


 うーん、この話は男女間のズレでもよくおこることのように思うし、いろんなところでありそうですが、この視点から「アスペ的な生き方」について考えると、結構面白いことが見えてきそうな気がしてきました。

 

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コメント

こんにちは^_^

やっぱり入れ子の話になると、ほんとに何が何だかさっぱりわからなくなる私です(・∀・)

だけど、色んな自分を作って生きてきたのは事実だなぁと思います。
素でいられるのは家族、親友、恋人くらいで、あとは全て何らかのイメージを演じてます。

だから私のイメージは、違う場面で見ると私と認識できないくらいに違うのではないかと思うくらいです。

関係あるかないかわかりませんが、私は筆跡が安定しません。
右上がりになったり左上がりになったり、平行になったり、上手かったり下手だったり、これは演じてるのではないんですが、自分ながら「多重人格かっ」と思うほどです。
乖離などはないですけどね。

だから筆跡の安定してる人をみると、安心します。
アイデンティティがしっかりしてるんだろうなぁと思うからです。
いつも同じ字、とても安心感がありますねー。

と、毎度のトピズレですいませんでございます^_^;
関西人としては、いっちょ噛みしたいんです(笑)

キキさん

>関西人としては、いっちょ噛みしたいんです(笑)

 噛んだら痛いやん。あかんやん。

 と礼儀上一応一発ボケをかまさせていただきました (笑)

>関係あるかないかわかりませんが、私は筆跡が安定しません。

 これ、面白いですね。筆跡による性格判断みたいのあるじゃないですか。あながちでたらめなことでもなさそうな気がします。なんか文字にはその人の内面の状態が現れるんでしょうね。
 私も気分で文字が変わることがあります。

>いつも同じ字、とても安心感がありますねー。

 なるほどね。そうするとパソコンの文字とか、めっちゃ安定してる?

こんばんは、ガーディナーです。

パンダさんへ。

>いろんな面について、ちゃんと言葉にして考えられなければならない、という感覚があります。

これ私と一緒ですよ、特に若かった頃の。

>言葉にして語れないのは、わかっていないこと、見えていないことだ、と否定的に見る傾向もあります。

いや、私以上かもしれません(-_-;)。

>言葉の世界での「不完全さ」が気になってしまって、そこですぐに反論してしまうんです。

これ、立派なアスペルガーの特質ではありません?

>で、そのやりかたは必ずと言っていいほどに失敗します。

そりゃ、そうでしょうよ。奥さまが、というよりも、一般に世間の人はこういうの大抵は苦手でしょう?私も若い頃それでずいぶん痛い目にあいましたよ(p_-)。

その後に続くパンダさんの、A・Bのお話の展開のさせ方も、なんだかとてもアスペチックな香りを含んでいるようで興味深く読めました。
失礼でなければ私は今日ここで、パンダさんにアスペルガーを認定したいと思います。もちろんお嫌であれば、即刻辞退して下さってかまいませんが。

というわけで、私はますますパンダさんに親近感を持ってしまったのですが・・・。
とは言え正真正銘アスペの私に言わせてもらうと、まだまだこれは素人の域ですね。

それでは生粋のアスペルガーのパーフェクト・トークを再現いたしましょう(何か今日は嬉しい!)

私は「○○なんですか?」と尋ねた時に
「はい、そうです」「いいえ、違います」以外の言葉で返されると、気持ちが悪くなります。例えば…。

私「あの件は、結局反対意見の方が多くて、実現できなかったんですか?」
相手「まあいろいろあったけど、でも考えようによってはね、あれでよかったと思うよ」
という答え方。

これが私にとっては気持ちが悪いのです。
もちろんこの相手の言った内容から、「あの件は実現できなかった」という事実は伝わってきます。でも私としては
「ああ、実現できなかったんだよ」と、まずは第一声目に答えて欲しいと思うのです。そのあと
「まあ、いろいろあったけど…」と繋げてくれるのは、何ら問題ないのですが。

もっとも、私がどんなに気持ちが悪くても、相手には一縷の悪気が無いことは百も承知なので、「気持ちが悪いなあ」と思った時ほど、ことさら「気持ちが良いわあ」という様な顔をして、笑顔で乗り切ることにも慣れてきました。プロ級です!(^^)!

なんだか記事のテーマからは大きく外れててしまいましたが、これが私の言葉への、なかなか解放されないこだわりです。

キキさんへ

「入れ子」の話を初めて読んだ時、私もその概念がさっぱりわかりませんでした。
私なりに「こういうことかな?」と考えていると、次の日の記事で、パンダさんがまた別の説明をされて、それが前日までの解釈と矛盾していたりして、本当に「入れ子」の文字を見かけるたびに途方に暮れていたものです。
ところが、ここ数か月、私にも分かって来たんです。「入れ子」の意味が。きっかけは忘れました。だから説明はできません。何でしょうね、年と共に少しだけ賢くなったのでしょうか?
もっとも、私の解釈がパンダさんの意図するものとはズレている可能性も、大いにあるのですが。

あはは。キキさんと同じく、私も『入れ子』苦手です。微分・積分と聞くだけで、もう理解できないと思ってしまうような…。
多分これ、アスペ定型の感覚の差ではなくて、論理的思考の得意な人とそうでない人の違いじゃないかな?
私、普段の会話でも、その裏に色んな意味が隠されていることが読み取れないので、トンチンカンなことを言ったり、理解したつもりでやると、とんでもない失態をおかしたりします。

ただ、今回のお話は、多分、社交辞令として相手に見せる姿と、本音の部分をうまく区別出来ている人という意味ですよね?
ガーディナーさんが『大人の対応ができる』とおっしゃっているような具体例が、入れ子が理解でき、使い分けられるということなんだと思いましたが。

これも、苦手な人は、ソーシャルスキルトレーニングで身につけなくてはいけない一つの事柄なんだと思います。

我が家は、息子がこれを一番理解出来ていて、私は実はほとんど出来ていなかったということが最近になって分かりました。
そして、一番できていないのが、夫。
子供たちは、父親にムカつきながらも、うまーく感情を出さずに対応している。
非常に有効的な『反面教師』だったわけです。

この感情の使い分けは、これが出来る以前に、『自分とは何者か。その自分は唯一無二の存在であって、誰にも揺るがされることはない』という信念が必要になるのではないかなと思います。
これが出来るには、幼少期に、親か、教師か、その他の大人で、『あなたは正しい』と信じてくれる存在が必要なんだと、最近つくづく思います。
つまり、自己肯定感ですよね。

息子に関しては、親が両方ともこんな風だったので、療育に関わってくれた先生と、中学校の担任が、これをやってくれました。何をしようと、息子の個性を尊重してくれたのです。

だから、『親は両方ともどうしようもない。だから親が何と言おうと自分は正しい。意見の合わない人は適当に聞き流しておけば良い』と分かったんだと思います。

私の方が、只今、訓練中です。(笑)

この度ガーディナーさんからめでたくアスペの仲間入りを認めていただいたパンダですhappy01

 ガーディナーさんから理屈で考えることへのこだわりについて書いていただいて、またひとつ気づいたことがありました。

 私の場合、定型的な感性を理解することはしないわけではありません。相手の人とのかかわりによってはそこを優先することもありますし、そこで相手の人が「話が通じた」と感じられることもわりと多いみたいです。そんなこともあって、ほかの人からは聞き上手と褒められることもあります。

 たぶん、この点は、母親に鍛えられたんだと思います。というのは母親は理屈も何もなくひたすら感情の人だからです。そして激しく揺れ動くその感情への共感を子どもである私に求め続けた人でした。子どもの頃はそれに必死で答えようとしましたから、そういう感情への「共感的理解」の力が超早期教育の結果として鍛えられたように思います。

 けれどもそれは結局母親が自分の感情の激しい揺れの都合で勝手に周囲を振り回すことでもあり、振り回される側としては大変に混乱することでもあります。そのままではとても自分を保てなくなり、自分自身が不安定になります。

 そこで私が追求し続けたのが、感情で振り回されない理屈の世界だったのでしょう。理屈の世界では偏った独りよがりの話は認められません。あらゆる見方を取り込んで、誰にでも納得されるような普遍的な話の仕方を追求することが必要です。もちろん実際には完全には達成できない目標ですが、しかしそれを追求する姿勢は常に保たれなければなりません。独りよがりで相手の言うことを無視した話は、それはむしろ軽蔑の対象になるのです。そしてこれも理想的に言えば相手がどうしても理解しない時は、「なぜ理解できないのか」を自分の視点から一貫性を持って説明できなければなりません。

 つまり、母親のように自分の時々の感情で周りを勝手に振り回すことは許されない世界なのですね。常に一貫性が求められますし。そういう世界で私は自分の安定を作ろうとしたのでしょう。

 私自身は数学は苦手ですけれど、数学も感情には振り回されない世界ですよね。そして(実際はそうではないけど)一応ちゃんと順を追って理解すれば、すべての人がそれを理解できるはずだ、ということになっていますし、実際世界中どこでも1たす1は2という理屈は通用します。ほかのことでは全然意見が一致しなくても、また感情の世界では全く対立する人とでも、同じようにその理屈は共有できるわけです。

 だから、アスペの方の中に数学系が好きな人が多いということは私なりにわかる気がします。定型的な感情は謎で、そこでは分かり合えないのに、数学では分かり合えるからです。

 音楽で救われるアスペの方もありますが、「音楽は世界の共通語」みたいに言われたりしますけど、そのことを考えるとやはりわかります。定型的な感情では共有できない世の習いの世界を音楽では超えて、感覚的に共有できると感じられるでしょうから。

 ああ、そうすると、「人に自分がいいなと感じたものを見せるとき、自分の方から相手に感想などを聞いてはいけない」というスタイルをとられるアスペの方のことももうひとつ理解が深まる感じがあります。なぜならそれは言葉にならない感性の世界のことで、そこをことばでやりとりしてはならないという、一種の人生の美学のような思いがあるようにも思えるからです。

 
 で、私の場合はその感情で振り回されない世界として、理屈へのこだわりが育ったのですね。たぶん。で、パートナーも私とは違う理由からだけれど、感情に振り回されない世界を大事に考えた。そこが私には大きな安らぎを与えてくれる部分で、とても魅力的だったのでしょう。
 
 ただそこで一つの誤解が生まれます。彼女にとって感情に振り回されない世界は、決して私のいう理屈の世界のことではなかったわけです。だから、私は彼女との間にいろいろ理解できない矛盾が起こった時、自分のやり方で理屈の世界でバランスを取り戻そうとし続けました。ところがそれは彼女にとっては説得力を持てない世界だったわけです。彼女の求めているバランスはそういうことではない。では何かということは私にはまだわかりませんが、違うということはわかります。

 だから、私が定型アスペの問題について一生懸命話そうとしても、全然通じないということが起こります。そして彼女の意見について筋が通らない、と私が反論することは、彼女にとっては意味がない反論だったことになります。そしてお互いに自分が大事に考えている世界が共有されないことに疲弊するのですね。

 なんかちょっと整理されてきたような気になりました。

 
 

 

ぱんださん、認定おめでとうございます〜o(^o^)o

いや、実は私も、アスペなのかどうかは別として、ぱんださんの、この根気の良さ(アスペ定型問題を考えてる月日の長さ!)には脱帽していて、まさに常人らしからぬ所があるなぁ、とは常々思っていたんです。

ライフワークなのだと思いますけど、それにしても奥さまと協力してやってる雰囲気でもないし、どちらかといえば奥さまは「ふーん」という感じのような雰囲気で傍観されてるような感じだし(今は、です。過去はもっと違ったのだと思いますが)、不思議だなぁーと思ってました。

もちろん私たちにはとっても有難いことで、この場所はずっとあってほしいものですが、ぱんださんの根気と集中力にはスゴイものを感じます…^_^

このたびめでたくキキさんから変人認定をいただいたパンダです happy01

>この根気の良さ(アスペ定型問題を考えてる月日の長さ!)には脱帽していて

 そうですか?私の感じではまだようやく定型アスペがお互いを否定することなく議論できる足がかりが得られ始めたという感じにとどまっていて、定型アスペが共同で問題の乗り越えに進めるようになるにはまだまだ時間がかかるなあと思っています。まだブログがはじまって7年弱にしかなりませんしね。問題の大きさに比べたらほんとにわずかなものだという気がしています。……変人の実感(笑)

>私たちにはとっても有難いことで、この場所はずっとあってほしいものですが、

 さらにいい場所に育てていくうえでも参考にも教えていただけたらと思うのですが、たとえばキキさんにとってはどういうところがお役に立つんでしょう?私自身は好き勝手にいろいろ書いてますが、それでいろいろみなさんから学ばせていただけてありがたいのですが。

ぱんださん

> さらにいい場所に育てていくうえでも参考にも教えていただけたらと思うのですが、たとえばキキさんにとってはどういうところがお役に立つんでしょう?

はい! それは、楽しいからです!!((o(^∇^)o))
真面目に言えば「自分を知るため」にとても役に立ちますが、実は「楽しい」というのが1番かも!
色んな変人な皆さんと、素を隠さずに話し合えるのがとっても楽しいです!

キキさん

 これまでも何度も炎上したり、息苦しいやりとりが展開することは多かったと思うんですが、それでもキキさんにとってそんな風に楽しいと感じられる場になっていて、良かったなあと思います。楽しいって、元気が出ていいですよね!

 せっかくなので質問の追加なんですが、「自分を知るため」に役立ったというのは、例えばどんな自分に気づかれたんでしょうか?

最近思うのは、今流行りのインクルージョン(共生)とは、自分とは合わない、極端に言えば嫌いという人でも、相手の考えや感じ方はあって良いと尊重すること、けれど相手があって良いからと言って、自分の考えやあり方は否定しないという姿勢なのかな?と思います。

パンダさんが、強烈な個性のお母様と向き合ってきて、そうすると、どうしても自分のあり方が分からなくなって、奥様に出会われたけど、奥様とも合わない部分があって……。

その独特な過程で、合う人の中で何となく過ごしてしまった人より、考えなくてはならないことが続いて、ここを開かれた。
そしたら、もっともっと合わない人がいた。
本当は世の中に自分と合う人などいないのかもしれません。

でも、多数派というのは、何となく合うように思える人と過ごしているから、楽なんですよね。
みんな所詮変人なんだし、それ隠して頑張ってきたけど、ここでは堂々と変人と言えるから、心地よいのかもしれないなと思いました!^ ^

ぱんださん

> せっかくなので質問の追加なんですが、「自分を知るため」に役立ったというのは、例えばどんな自分に気づかれたんでしょうか?

コメントする毎に、文字にして自分を見直せてるし、他の方々のコメントを見て「自分もそんなとこあるなぁ」と思ったり。
そして、ズレの問題では、いままで気づかなかった定型発達の方の感じ方を教えてもらえば、人と接する時に気をつけることができるようになったし。
(ただし、まだ勉強段階なので、気をつけて『余計なことを言わない、聞き上手にまわる』に徹してますし、親しい間柄の人とは全然変わってないですけど^_^;)

それに、これ結構ポイント高いんですが、コメントしてみて、それに対してぱんださんが「おもしろいですね」とか「なんかストンときました」とか、そう言ってもらえる時って自己肯定出来るんですよ。

あと、私は自分の感覚を書くだけですけど、それに対してぱんださんやあすなろさんはじめ、色んな方々が意見を下さるので、自分を客観的に見ることができる点とか。

「自分」は変わってないんですが、そこを別に変えなくても、自分を知れば、もっとうまくやっていける、と前向きに考えられるんです。

なんか、答えになってないかもですが^_^;

ちなみに、息のつまるようなやりとりは、私は分からないから参加してないので、全くダメージ受けません。
ぱんださんは答えなくちゃいけないからキリキリとする瞬間がおありでしょうけど、私は読んでも面白いとこしか入ってこないので(理解に到達できないので)、ノーダメージですよーo(^o^)o
お気楽でほんと、すいませんでございます。

キキさん

>「自分」は変わってないんですが、そこを別に変えなくても、自分を知れば、もっとうまくやっていける、と前向きに考えられるんです。

 これ、私にとってはベストアンサーでした。
 7年間いろいろ考えてきましたけど、
 究極の目標は結局シンプルにこの状態なんだと確信できました。

 もちろん目標であって完全な実現はむつかしいわけですが、
 でも完全に実現することが重要なのではなくて、
 何を目指して右往左往したらいいのか、という「目のつけどころ」を知ることですね。
 いい目標がわかれば、現実がうまくいかないときにも努力を続けられます。

 キキさんのこの答えは私にはそんな感じのものに思えます。

 さんくすべるまっち でした。

>キキさん

実は私、キキさんはソーシャルスキルが高いなと尊敬しているんです。
誰も、自分の意見って、他人に左右されるものではないし、『ああ、そうか』と思って、自ら変えようとするときもあるけど、基本は変えられないと思うんですね。

私はそれでも、誰かの参考になればと、しつこく意見してしまうことがあるんですが、初めから変える気のない人にこれを繰り返せば、相手は頑なになるだけです。
反対に自分自身だったら、そうなると思うのに、逆の立場になると傲慢になるんですよね。

そんな時、キキさんは、自分には関係ないとちゃんと区別出来る。キキさんのその姿勢に、救われたり、学んだりしたことがたくさんあります。

キキさんは性格だからとおっしゃるかもしれませんが、大人の社会って、まさにそこに尽きるんじゃないかと。

キキさんは、ご自分のことをお話されているだけなのに、それこそ人を変える力を持っていると思います。

なるほどな。対話ってそういう方法もあるのかと、思いました。
実際、実生活でもキキさん流ソーシャルスキルを実践しようと奮闘中なんですよ^ ^
これまた、基本は変えられないのですが、意識することで無用なトラブルを防ぎたいなと。
ということで、キキさんも十分影響力のある方だとお伝えしたくてコメントしましたー!

あすなろさん

いや、ほんと、まったく全然、ソーシャルスキルなんでダメダメなんですよー^_^;
上のぱんださんの新記事へコメントしましたが、ネットだからこそなんです、きっと。
実生活の生活スピードには付いていけてませんーっ(´ー`)

普段は反応の鈍さ鈍さにきっと陰で笑われてるに違いありませんし、いや、陰でなくても目の前で笑われてても気づいてないくらいニブニブですよー。
(今日もクスっと2人が目配せして笑ってたけど、私のことだと思うけど、よくわからないから、ま、いいや、という感じです…^_^;)

でも、褒めていただいてありがとうございます!
こんな感じで実生活でやっていけたら良いってことですよね、落ち着いて生活しよう(笑)

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