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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年12月

2017年12月31日 (日)

人生観のすり合わせ

 ここではみなさんのコメントなどをいただきながら、アスペ的なものの見方や感じ方を想像し続け、定型とのズレを探ってきました。

 今のところは世の中に多い見方は

「 アスペ = 定型 - 障がい部分の能力 」 …… ①

というものですが、ここではそうではなくて

「 アスペ = 人間 + アスペ的特性 」 …… ②
「 定型 = 人間 + 定型的特性 」 …… ③

と考え、

「 障がい = アスペ的特性と定型的特性のズレ」 …… ④

という風に障がいを理解してみよう、という試みをやってきているわけです。

 なぜそういうことをやろうとしているかと言えば、①の見方から考えると、定型アスペ問題は「どうやってアスペが定型に近づけるか」という話になってしまいます。目標は定型であって、アスペは目標に到達するのが困難な人たち、という発想です。

 でも、なんでかわかんないけど、こういう発想は私はしっくりこないんですね。そこに含まれる「私(定型)は絶対に正しい」みたいな感じになじめないし。もちろん私自身にとっては私の見方や感じ方は「正しい」と思っているんだけど、それがほかの人にも正しいとはとても思えない……という、なんかそういう感覚がどっかにあって、そこにひっかかるのかもしれません。

 で、私がさぐっているのは、「お互い様だよね」という話です。私から見れば「あんた(相手)、変!」だし、相手から見れば「あんた(私)、変!」。だから別にどっちが優れているということもないし(もちろんある一部分での得意不得意はそれぞれにあるにしても)、どっちも変なんだから、「お互い変な者どうし、なんとか折り合いをつけていきましょう」という話になる。

 まあ、自分が正しいと思い込んでる方にはなかなか通用しない話ではあります。いや、もちろん自分にとっては自分は正しいということは自己肯定感としてはあって当然なんだけど、それって人に押し付けられるものなの?という話ですけど。

 

 で、ぼちぼちそのずれの部分について見えてくるところがあって、そこで見えてくるアスペの方の感じ方とかはあくまで私の定型的な想像力を使っての話にすぎないんだけど、それでもある程度はアスペの方から共感的に受け止めてもらえる部分もあったり、最近は時々私の方が「アスペ認定」をいただくことがあったり、というふうにはなってきたわけです。私自身は依然として「アスペ=謎」という感覚が一番強烈なんですけどね。でも、たしかに「わかる」感じも少しずつは出てきていますし、定型の中ではすこしだけその部分が多い部類に入るのでしょう。

 そのことがベースになってだと思うんですが、最近はたんにズレを考えるだけではなく、「アスペ的生き方」と「定型的生き方」について考えることが増えてきました。

 たとえば男と女は体のつくりがもともと違います。もちろん個人差もあるけど、でも骨の形とか、筋肉の付き方とか、結構違う部分があるし、ホルモンの出方も違うし、そんなこんなで身のこなしがやっぱり変わってきます。男に得意(不得意)な動き方も、女に得意(不得意)な動き方もある。たしか野球のオーバーハンドの投げ方とか、あれは肩の関節の形が男女で違うので、男は得意で女は不得意になるから、女性はアンダースローのソフトボールの方が向いてるとか、そんなこともあったような。

 ということで、そういう持って生まれた体のつくりの違いで、その身のこなし方が変わってくる。それだけじゃなくて、たとえば「言葉が早く身につく」という点ではたぶん女の子の方が一般的には早いんですよね。で、おままごととか、話をしながら進める遊びは女の子の方が得意だし好きな子が多いでしょう。男の子はもっとメカニックなものに魅力を感じる子が多い。

 そんなこんなで、生まれてその後に興味関心を持って作り上げていく世界がまた違ってくる。喧嘩のしかたや仲直りの仕方もそれぞれの特徴がありそう。

 つまり持って生まれたものが違うと、その後の「生き方」が変わってくるわけです。当然、違う特性を持つ定型とアスペも、その特性に基づいた生き方をそれぞれ作り上げて生きているはずです。

 だから、定型アスペのずれというのは、単に感じ方や考え方のズレなのではなくて、なにを大事に何を目指して生きるか、何に価値を感じるか、といった、「人生観」のずれのようなものにも及んでいるんだと思うわけです。

 男の人生観を女に強制することも、女の人生観を男に強制することも意味がないように(もちろん人によっては男(女)の人生観を男(女)に強制することに無理が出てくるタイプの方もありますが)、違う条件を持って生まれ育った定型とアスペの間で、相手に自分の人生観を押し付けることにも無理が出てくる。

 これもたとえて言えば、日本の生活になじみのないアメリカ人に、たくあんの匂いをかがせることはできても、その匂いを「素晴らしいと感じなさい」と強制することはもともと不可能だし、その匂いを嗅いで「おなかがへってきた」ということがないからと言ってそれを「おかしい」と非難することもできない。もちろん「あなたの食生活の中の大事な一部としてたくあんを組み込みなさい」なんていう話は不当な押しつけ以外の何物でもない。なにしろあの匂い、慣れない人には排せつ物の臭いに感じられたりするんですよね。

 こういうたとえ話ならわかりやすいでしょうけれど、でも定型アスペ間では実際はそういうことがたくさん行われていると思うわけです。私も気づかずにそういうことをずっとやってきていて、ずれに気づいて初めてその部分では自分が相手にとっては不当なことをやってきたことに後から気づく程度です。

 

 定型もアスペも、そして細かく見ていけば定型アスペに関係なく、ひとりひとりがそうなのだと思いますが、それぞれ持って生まれた特性をベースに、与えられた環境の中で、いろいろ試行錯誤しながら自分の生き方を作り上げてきている。そうやってそれぞれの人生観も作り上げてくる。そのお互いの人生観をすり合わせる作業も、定型アスペ問題にとっては大事になってくるのだろうと、そんなことを思います。

 ことしもあと半日余りになりましたが、来年はぼちぼちその続きをすることになるのでしょう。また皆さんからもこれまで通りにいろいろな経験や知恵を教えていただけるとありがたく思います。

 ではどうぞよいお年をお迎えください。

 

2017年12月24日 (日)

猫は痛みを伝えない

 いよいよ暮れもおしつまってきました。早いものです。

 家の猫が、ここしばらくなんとなく足を引きずるような歩き方をしていたので、最初は足をくじくか何かで痛めたのかなと思ったのですが、いつまでも治らないので、もう年なので関節が悪くなったとか、そんなことなのかな?とか、そんなことを思っていたのですね。

 そうしたらしばらくぶりに帰ってきた子どもが猫を抱いているうちに、脚の爪を見て、爪とぎができてないんじゃないかと言い始めました。そして爪が伸びすぎて肉球に刺さってきていることを見つけたのです。

 それから猫に文句を言われながら(?)、爪を切ってやったというわけです。

 今朝、歩いている猫を見て、しみじみと「ああ、猫って痛みを表現しないんだなあ」と思いました。考えてみればあたりまえのことなんですけどね。改めてそう思いました。

 人は痛いときは顔をしかめます。別に痛みを人に表現しようとしているわけでも、何かを訴えようとしているわけでもありません。でもその表情を見れば、周りの人は「その人は苦しがっている」と理解します。別に意図してそうしているわけじゃないんだけど、結果としてそれは「人に自分の痛みを伝える」という働きを持っているということになります。

 別にその顔をしたから痛みが消えるわけでも何でもないですし、その表情には自分の中での実用的な働きはなさそうです。とすると少なくともそのメインの役割は「周りの人に自分の痛みを伝える」ということでしょう。だからその表情を見ると、周りは「なんとかしなきゃならない状態」と感じ取ることになります。

 そう感じたうえで、実際にどう対応するかは状況や人によって様々です。「どうしたの?」と話しかけて手助けしようとする人もいれば、面倒だと思って離れていく人もいるでしょう。相手が親しい人なら手助けすることが多いでしょうし、知らない人なら離れていく人が多くなるでしょう。また手助けを考えたとしても、ほかに手助けする人が居たり、すべき人が居たりすればその人に譲って自分は見守るかもしれません。

 そんなふうに痛みの「表情」というのは、自分自身にとってはあんまり意味がないけれど、ほかの人に大きな影響を与え、波紋を広げ、ほかの人を突き動かして事態を変えていく力を持っていることになります。その結果として、自分を助けてくれる人が出てくれば、その時初めてその痛みの表現は自分にとって意味のあるものになります。

 猫は独立独歩の生き方が強いですから、「お互いに協力し合う」ような姿はあまり見られません。自分のことは自分で解決するし、しなければならないのです。そういう猫の人生、いや猫生(笑)にとって、痛みの「表情」は無駄なものです。今回はおせっかいな人間がその痛みの原因を取り除いてくれましたが、そんなことは猫自身は知ったことではなく、爪を切られるときには怒り続け、そのあと痛みが減っただろうに、感謝の気持ちを表すなどということもありません。それが独立独歩の猫的生き方なのだろうということにもなります。

 

 独立独歩の人生観を作っていく、という点ではアスペの方たちもそういう傾向がより強いわけですよね。風邪をひいて寝込んでいるときも、薬を飲むといった手立ては必要ですが、基本的には自分の力で治すしかない、という考え方をされる方が多い。定型は「病は気から」という言葉がありますし、そしてその「気(持ち)」は他の人の働きかけによって変わりますから、ほかの人の働きかけ(なぐさめなど)によって気分が変わると、病にも対抗しやすくなるという感じがある(そんなこといちいち意識しているわけではないですが)。まあたぶん免疫力もそれでアップしているはずです。

 ここでアスペの方が持ちやすい「独立独歩」型の人生観や生き方のスタイルと、定型の方が持ちやすい「頼りあい」型の人生観や生き方のスタイルを考えてみることができそうです。もちろん「独立独歩」か「頼りあい」かはこれもスペクトラムで、完全にどちらか一つということはないし、アスペの方でも「頼りあい」の姿勢が比較的強い人もいるし、「独立独歩」の姿勢が強力な人もいるし、定型も同じようにそのレベルはさまざまでしょう。一人の人もその両方の要素を持っていて、ただバランスとかどの面でそれを発揮するかに個性的な違いがある。

 ただ、そういう細かいことはとりあえずおいておいて、でも大きな傾向としてはアスペ=「独立独歩」型、定型=「頼りあい」型という両極を考えてみると、人がみんなその両極の間のどちらにより傾いているか、ということでわかりやすくなる部分がありそうです。

 

 さて、そうだとして、独立独歩ということではアスペの人生観と猫の生き方には共通するものが感じられます。でも実際にはものすごい違いがあって、その違いが定型アスペ問題を生む大きな要因になっていると考えられます。

 それは何かというと、アスペの方も、基本的な体のつくりは定型と共通していて、痛みなどの自分の状態が表情などによって現れる、というところは一緒なわけです。そしてその表情を見て、周りの人が影響され、反応してしまう。つまり「頼りあい」の関係をそこから作り出すきっかけを無意識に生むわけですね。

 ところが私のパートナーがそのタイプですが、その表情が相手に及ぼす影響、ということはあまり意識しない。これまでも何度か書いたように、たとえば相談事を持ちかけたとき、彼女は「どうしたらいいだろう?」と自分の中で考え込み、戸惑い、それが「苦しそうな表情」として現れます。その表情は定型的に見れば「なんで私をこんなに苦しめるの?」という「非難の表現」に見えたり、時には攻撃的な表現に見えたりするのですけれど、彼女にはまったくそういう表現の意図はありません(そのことを私がある程度納得するまでにものすごく時間がかかりました。今も反射的にはそうなれません)。そこで定型との間にトラブルが起こるのです。

 定型は「頼りあい」型の生き方を成長させていきますから、そこでは相手の表情の読み取りも大事になるし、自分も表情によって表現する力を育てることが必要になる。そこでは自分の表情は、相手への表現になるんだ、ということが大前提になっていて、だから表現の仕方にはとても気を遣うことになるわけです。「表情」=「表現」という関係はもう何も考えるまでもなく当然のこととして定型は全く疑いもなくそう思っている。

 ところがアスペの方の場合、体の仕組みとしては無意識に自然に表情を作るわけで、そこは猫とは全く違うわけです。ところがその表情を「相手への表現」として理解するということが少ない。だから自分の表情が相手にどういう影響を与えるか、ということを考えずに素直に自分の状態が表情に現れることになります。定型がそこで半ば無意識に表情をコントロールして相手との「頼りあい」をうまくやろうと工夫するような、その部分がとても薄くなるわけですね。

 そこでこの「表情」のほとんど無意識のレベルで成り立つ「理解」のところで定型アスペ間でものすごいずれが起こります。定型はそれを相手への「表現」と理解してその後の対応が決まる。ところがアスペは自分の「表情」と理解されてそこに相手のことは入ってこない。そしてその「表情」をめぐってお互いの誤解が生まれ、その後のやりとりがちんぷんかんぷんになっていく。お互いに相手の反応がなんのことかわからなくなる。そして混乱が生まれ、お互いに傷ついていったりする。

 猫と定型を両極において考えると、猫は表情もないし表現の読み取りもしない「表情×」&「表現×」の傾向が強く、アスペは表情はあるけど表現としては理解しない「表情〇」&「表現×」の傾向が強く、そして定型は表情もあって表現としても読み取る「表情〇」&「表現〇」の傾向が強い。そんな風に理解ができるかもしれません。

 人間の世の中は、だれしも、そしてどこでもつねに「独立独歩」と「頼りあい」の両方が必要です。その両方がうまくかみ合ったときに人も世の中全体も一番うまく回るようになる。ただし、ほかの動物と比べてみれば、人間は「頼りあい」の部分をものすごく進歩させてきたとも言えるので、世の中の仕組みの中でその部分が閉めるウェイトが大きくなっています。そして定型はそこがある意味得意な人々なのですね。だから定型はこの世の中で主流になりやすく、それが苦手なアスペは傍流として「障がい」と言われたりすることになる。

 人の世の中は「頼りあい」を進めるために表情を表現として理解する、という「頼りあい」型の人間関係をものすごく発達させています。そして自分の表情が相手に及ぼす影響を考えながら相手との関係をうまく作ろうとする。そこに衝突を避けるために「ストレートに表さない」という「クッション」の工夫も複雑に作られていくことになります。だからクッションを使わずにストレートに表すことが多いアスペの方はその中でうまくいかなくなり、「クッションを使わない」ということで「掟破りの人間」とみなされてみんなから袋叩きの目にあったりする。

 アスペ的人生観からすればそれはとんでもないことになります。自分の思ったことをすなおに表情に表すという「正直」な生き方をしているのに、定型は常に裏がある。嘘をつく。正直に話をしない。人をだます。そして正直に生きようとする自分をみんなでよってたかって攻撃し、排除する。そうしておいて、自分のことを「人の事を考えない、思いやりのないやつだ」などと言う。……アスペの方にそんな風に定型の世の中が見えたとしても、まあ当然かなと言う気もします。

 定型的には「クッション」は相手への配慮だったり思いやりだったり、お互いの関係をよくするための工夫です。ところがアスペ的にはそれは不正直なことで相手に嘘をつくことであり、関係を悪くするものになります。だからお互いに信頼関係が作りにくく、相手への不信感が募りやすくなる。

 その大元の一つが、たぶん表情はするが表現とは見ないアスペ的な傾向と、表情を表現として見て関係を作る定型的な傾向の差なのではないでしょうか。それがアスペ的人生観や「独立独歩」型の生き方を作ったり、定型的人生観や「頼りあい」型の生き方に結びついていく。そしてその異なる人生観の間のぶつかり合いを繰り返すことにもなる。

 もちろん、クッションは実際にお互いの衝突を減らす役割を持っていますから、「助け合い」型の関係を作っていく上では有利に働くことが多い。アスペ的な生き方はそのようなクッションが少ないので、どうしてもぶつかり合いが生まれやすくなる。だからアスペ同士ならうまくいくかと言えば、決してそうは言えないという結果になる。アスペ的な生き方から生まれやすいクッションは相手と「距離をとる」ことです。そして人との関係で安定するのではなく、自分の世界の中で安定する、という方向に向かうことが多くなる。

 まあ、「積極奇異型」とかいうめちゃくちゃな名前が付けられている(ほんとにどういう人がこういうめちゃくちゃなネーミングを思いついたんでしょう?その人の方がよほど「奇異」に思えます)、より人とのかかわりを求めるタイプの方だと、そこはまたちょっと違う工夫を積み重ねられているんでしょうね。そのあたりがどういうことかも興味深いです。

2017年12月 7日 (木)

ネットという「クッション」

 

キキさんのコメントで改めて思ったのですが、この場は少なくとも一部の方にとっては「「自分」は変わってないんですが、そこを別に変えなくても、自分を知れば、もっとうまくやっていける、と前向きに考えられる」場として育ってきているということで、それはとてもありがたいことです。で、なぜそうなれているのか、ということについて少し考えたことです。

 これまでここで考えてきたことで、関連しそうなキーワードを拾ってみると、「クッション」「時間」を思い起こします。

 「クッション」は定型のやりとりで多用される方法で、「あついですね!(=窓を開けてくれない?)」といった間接的な要求とか、「ちょっと考えておきます(=受け入れはむつかしいですね)」といった婉曲な拒否とか、相手に直接言わず人を介して言うとか、いろんなタイプのクッションを使って、直接相手にぶつけることを避け、柔らかくして対立を減らそうということを実にたくさん、しかもほとんど無意識でやっています。

 これがアスペの方が定型社会になじみにくい大きな原因の一つですね。アスペの方から見ると、それは「本当のことを言わない=嘘をついている」とか「ごまかそうとしている」などの否定的な感じを受けることがしばしばになるようです。(もちろん定型間でもそういう否定的な印象を与えることはいくらでもありますが、そのレベルが強い)

 でも、クッションは定型に限らず、定型アスペ間でも、アスペアスペ間でも必要です。たとえばあすなろさんの息子さんは同じアスペのお父さんとの葛藤を避ける工夫の一つとも思うのですが、「あの人はそういう人だ(=自分とは違う)」という形でお互いを切り離し、気持ちの上で距離を置くことでいろいろな衝撃をかわすことができているように感じられます。これも言ってみればクッションの一種でしょう。

 またここで定型アスペ間でも効果が高いと考えられてきたことの一つには「時間」があります。すぐに反論せずに時間を置く。すぐに答えを求めずに待つ時間を置く。

 気持ちの上で、とか、物理的に時間や場所で、距離を置く、という方法が定型アスペ問題(アスペアスペ問題も含め)では重要になることが多いようです。

 夫婦関係など、実生活上ではこの距離の取り方が結構難しいんですね。そういう距離を置けるためには何かの余裕が必要になりますが、それが実生活上ではそう簡単に行かないことが多い。私もここでは「こういうふうにやればもっといい」ということがわかってきても、それを実生活上でパートナーと実現できるかというと、そう簡単ではありません。

 でも、逆に言えばこういう場ではそれが実現しやすいのだということにもなります。なぜならこういう場は見たくない時は見なければいいし、発言したいときだけすればいいし、自分が全部さらけ出されてぶつかることもないわけです。その意味でもともと距離を取りやすい場とも言えます。しかも自分のペースを守りやすい。

 もちろん別の意味で距離が作れずに炎上ということもあるわけですが、そこがある程度うまくコントロールできるようになれば、自分のペースで「距離を取りやすい」というこういうネットの性格は、それ自体が「クッション」として働くことになります。

 キキさんが指摘してくださったそういうこの場のいい性格は、そういう「クッション」としてのネットの使い方がうまく働いた部分も結構あるのかなと、そう思いました。

 

2017年12月 1日 (金)

言葉で表現すること、体で感じること

 記事「プラス派とマイナス派のズレ」へのあすなろさんとのコメントのやりとりの中で、久しぶりに「入れ子」の話を思い出して、その視点で整理してみたのですが、その話はあすなろさんの息子さんが定型社会との自分なりの付き合い方を発見されていく過程にもわりあいよく当てはまるものであったようです。

 つまり、この場合で言えば「人から見られる自分1」と「自分が考えている自分2」という二つにズレがあった時、「あなたは1だよね」と相手から言われても、「『自分1』と見られている自分2」という風に、自分1と2を切り離して入れ子にして考えられればまだいいのですが、それが切り離せずに「相手から自分1と言われた」=「自分が自分1になってしまう」という形になってしまうと、自分が全否定されることになりますから、もう耐えられなくなる。

 二つの自分(1と2)は、入れ子のように理解することで、「どちらの自分にもそれぞれの理由がある」ことになって、その意味で矛盾なく受け入れられることになりますし、そうなればたとえ相手が「お前は1だ」と主張したとしても「まあそう見えるわけだよね。ほんとは2なんだけど」とちょっと余裕を持って受け止めることができるようになるわけです。それができないと「自分1」を認めること=「自分2を否定すること」となってしまって、必死で対抗せざるを得なくなる。

 こういう話は実際は大部分の人が一生繰り返して直面することだと思います。年齢と経験を重ね、いろんなことを入れ子や入れ子の入れ子、入れ子の入れ子の入れ子……のように複雑に組み合わせて考える力がついてくると、その分いろんな見方を組み合わせて考えられるようになりますが、でもどれだけそれができるようになったとしても、その自分の見方を入れ子で考えることがその時にはできないので、やはり上の話と同じ問題がより複雑な形で起こり続けるわけです。

 考えてみると、宗教的な「救い」も同じ構図で理解できる部分がありそうです。世の中から自分を理解されず、否定的にみられ、苦しくて仕方がなかった人が、たとえば「神様」に本当の自分を見て受け入れてもらえた、と感じたとします。そうすると「世間からは自分1と見られているのだけれど、神様にはちゃんと自分2を見ていただいている」という理解が成り立つことで「『自分1』と見られている自分2」が救われ、否定されずに生きられるようになる。

 出家などはさらにそれを推し進めた形かもしれません。世間(家)の見方を離れ(出)て、そういうものに振り回されない自分の世界に生きる場自体を移していくことで、「自分1を見ている世間に振り回されない、本当の自分2」に生きられる、ということなのでしょう。

 それが進んで「無我」の話になったりすると、今度はもう「自分1も自分2も、ぜんぶ無だ」というところまで行って、そういう「誰々が見た自分」みたいな固定的な自分の見方を離れて、あるがままに生きるという境地になっていく。どういう場に生きているかも関係なくなる。ま、私自身が悟っているわけではないので(笑)、あくまで頭で考えた想像の話ですけど……。

 

 また寄り道してしまいましたが、もともと書きたかったことはそこではなくて、とにかく人はいろんな自分を抱えて生きているわけです。いろんな面があると言ってもいいでしょう。そして見る人によってそのどの面が見えているかが異なる。そしてその面が「悪」か「善」かなど、どういう意味で理解されるかは、見る人の価値観によっても変わったりする。

 で、そういう矛盾するような二つの自分を両方とも認めて、入れ子で理解する人から見ると、一つの自分しか認められない人は「このひとは一つしか見られず、本当のことがわかっていない」というふうに見えることになります。まあ自分は二つをちゃんと認めることができて、相手が一つしか認められないということなら、数の上では自分の方が上ですから、「自分の方が正しい」と感じられるのは無理もないことかもしれません。

 ただ、そこで単純に「相手が一つしか見えていない」と理解してしまうと、そこはまた違うんだろうなと思ったんです。たしかに話し合っているときには「一つの面」しか認めないので、全体として理屈に合わないものすごく偏った見方をしているようにも見える。でも、その人がほかの面を全く知らないのかというと、ある意味「体では知っている」というようなことがあるんじゃないか、と思ったわけです。

 話し合いという「頭で知っている」ところで見ると「一つしか見えてない」ということになるけど、頭で理解するような、言葉で理解するような世界ではないところで、もっと素朴な体の感覚のところで、実はいろんな面を感じてはいる。

 これ、パートナーとのやり取りの中でいつも引っかかるところの一つなんですね。私は基本的に「頭でっかち」の部分があって、言葉にして理解する世界をすごく重視しています。ですから、いろんな面について、ちゃんと言葉にして考えられなければならない、という感覚があります。ちょっと極端に言えば、言葉にして語れないのは、わかっていないこと、見えていないことだ、と否定的に見る傾向もあります。

 その癖が体の芯まで染み付いてしまっているので、彼女と話をすると、「話がとても一面的だ」「言うことが矛盾している」といった、言葉の世界での「不完全さ」が気になってしまって、そこですぐに反論してしまうんです。で、そのやりかたは必ずと言っていいほどに失敗します。ここでも同じことが起こりましたけど。

 なんでなのかですが、彼女が言葉の上では「aだ」と表現したとします。で、私は「aだけではなく、bも大事だ」と考えている。それで私は「彼女はaしか見ていない。bを無視している」と考えるわけですね。で、「bもあるでしょう。aだ、という決めつけはおかしいでしょう」と反論する。ところがこれが彼女にとっては私の方からの不当な決めつけに感じられるわけです。なぜなら実際は言葉にはならないところでbについても感じていて、ただそれがうまく表現できずに言葉にするとaしか出てこないだけだからです。

 言葉の世界で表現することを a b
 体で感じていることを      A B
 
 という風に表したとすると、頭でっかちの私はaとbで話をしようとして、AとBは無視しがちになる。で、彼女の方は私に合わせてaで話をするけど、実際はAとBを重視している。というズレが起こっていることになります。

 私から見た彼女の話  a そして bはない
 彼女の言いたいこと  a=A ただし Bもある

 そして「あなたはaと言ったでしょう?」という私の問いかけは、彼女にとっては不当な問い詰めになってしまうことになります。そうやってお互いに「この人には話が通じない」と感じることになる。


 うーん、この話は男女間のズレでもよくおこることのように思うし、いろんなところでありそうですが、この視点から「アスペ的な生き方」について考えると、結構面白いことが見えてきそうな気がしてきました。

 

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