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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年11月27日 (月)

プラス派とマイナス派のズレ

 いろいろここで考えてきて、最近は定型アスペの違いよりも、共通性の方に目が向くことが多くなってきました。つまり、一見ものすごく違うように見えるんだけど、それを掘り進めて考えていくと、どこかで共通する気持ちの動きみたいなものが感じられてきて、ただそれがいろんな条件で大きな違いを生んでいくだけだ、と感じられるような部分が増えてきたということです。

 もちろん、条件の違いがどんなふうに影響するのか、について、そこではそれぞれの特性が効いていると感じることもあります。でも、逆に言えば条件が同じようなものになれば、それほどの違いは生まれないと感じることでもあります。

 私から見てのコミュニケーションの取りやすさの違いということから、アスペの方たちの中での個性やタイプの違いというのも強く感じられるようになりました。その違いは以前は「アスペ度」の強さの違いかとも考えてみました。定型に近い場合には私はコミュニケーションがとりやすいが、遠い場合には困難になる、というように。

 でもどうもそうでないのだ、ということがかなりはっきり感じられるようになってきました。そしてその違いは、実は定型間でも起こりうるようなものだと感じられてきたのです。

 定型アスペ間でお互いに理解がむつかしく、コミュニケーションが困難になることがしばしばあるように、定型間でもそれがむつかしいことはいくらでもあります。その結果、いろんなぶつかり合いが起こるわけで、お互いに相手を全否定するようなことにもなり得ます。

 そして、定型間で私がコミュニケーションをとるのが苦手と感じるタイプと、この場でうまくやり取りがしにくいアスペの方のタイプに、実はある共通性があるのではないかと感じられるようになってきたのですね。どういうところで対立的になりやすいか、その具体的な内容はかなり違うように見えて、根っこのところでは基本的に似ているタイプの違いです。

 そのひとつですが、私の場合はマイナスの面よりプラスの面を探そうとする傾向が強いです。かなりひどい状況に置かれても、あるいはかなりシビアな関係になっても、どこかにプラスの面を探そうとする。そしてそこを足場にプラスを増やそうとする、というかそうしたいのですね。

 それに対して、逆にプラスの面よりマイナスの面を探そうとする傾向が強い方があります。場合によっては状況がよくなるほど逆にマイナスの面を探そうとする。そしてそれを強調したりする。たぶんそれはマイナスを減らそうとする、あるいはそうしたいという思いが非常に強いのかと思います。

 この違いはやはり定型アスペの違いではないように思います。持って生まれた性格の問題なのか、その人が生まれ育った状況によってそうなるのか、その両方なのか、そこはいろいろありそうですが、でも定型でもアスペでも、そのどちらにより傾くかということの違いはある。

 そこが違うと、たとえばお互いの関係を改善しようとするときにも、そのスタイルがすごく違ってきます。プラスを増やそうとするタイプは、マイナスの面はありながらもそこは置いておいて共有できるプラスを増やすことで前進しようとする。逆にマイナスを減らそうとするタイプは、プラスの面はどこか感じながらも、今あるマイナスを強調し続ける。

 そうすると、仮にお互いに関係を改善しようと思っていたとしても、具体的なところでは完全にすれ違ってしまうことになります。プラスを増やそうとするタイプはプラスを確認しようとするのですが、マイナスを減らそうとする側はそれを無視してマイナスを強調する。逆に言えばマイナスを問題と思ってそこを解決しなければ関係が改善しないと考えるタイプはマイナスを強調しますが、プラスを増やそうとする側はそれを無視してプラスを強調する。

 関係を改善するための足場が共有されないということがそこで生じるわけですね。そして相手はむしろ関係改善を不可能にしようとしているように感じられてしまう。

 そういうズレた関係は定型アスペ間でなくてもいろんなところで見られます。そしてその違いを生む一つのポイントは、「被害」の立場に身を置くかどうかの違いということもありそうです(被害の立場で考える人は、二度と被害を受けないためにマイナスをなくそうとする)。とはいえ、私自身を考えてみると、定型アスペ問題では私自身もかなりの「被害」を受けていると感じている部分もあるので、それだけで説明できるものでもなさそうです。やっぱりかなり根っこのところでの生き方のスタイルの違いがありそう。

 そのスタイルの違いの問題を意識しておかないと、定型アスペのズレを話し合うときに、定型アスペ問題とは直接関係ないところで話が混乱することが起こりそうです。

 

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コメント

こんにちは、ガーディナーです。

面白いですね。
コミュニケーションを考える座標が、アスペ・定型軸から、プラス・マイナス軸に移ったような。

読み初めの頃は、私は自分もパンダさんと同じ「プラス派」だと思っていました。

>かなりひどい状況に置かれても、あるいはかなりシビアな関係になっても、どこかにプラスの面を探そうとする。そしてそこを足場にプラスを増やそうとする、というかそうしたいのですね。

というあたりですね。特に「そうしたいのですね」という部分が、とても分かります。例え今はできていなくても、そうしたいっていう様な・・・。ところが、読み進めていくうちに例えば、

>今あるマイナスを強調し続ける。

などと書かれていると、ちょっと「あ、私にもある、それ」という様な気がしてくるのです。そして

>マイナスを問題と思ってそこを解決しなければ関係が改善しないと考えるタイプはマイナスを強調します

あ、それ私も身に覚えがあるな、と感じてしまうのです。
いえ、毎日そうだというわけではないのですよ。いつもは、先ほども書きましたように、私もどちらかと言えばパンダさんと同じような、プラス派のメンバーに座していると思います。ただどうもそれがレギュラーではないらしい。時々マイナス派に移行するようです。だから、マイナス派に移行している私を前にし、

>プラスを増やそうとする側はそれを無視してプラスを強調

してくる相手に対し、こちらが絶望的になる、という様な場面も何度か経験しています。なぜ相手はマイナスの考えから目を背けるのか。マイナスの中にこそ、問題の本質があるのに…、と歯ぎしりをしたくなる時すらあるのです。

普段はプラス思考で、ニコニコと生活できている私ですが、時として、マイナスのベクトルに急発進してしまうのは、いったい何がそのきっかけになっているのか?
考えるまでもなく、パンダさんがその答えを出して下さいました。

>「被害」の立場に身を置くかどうかの違いということもありそうです(被害の立場で考える人は、二度と被害を受けないためにマイナスをなくそうとする)。

その通りだなと思いました。
私は若い頃なんでもまずはマイナスの方向からじっくりと考える癖がありました。それを「暗い」とか「慎重すぎる」と笑う多くの人たちのことを、本当に軽薄で、物を考える力のない人たちだと感じていました。
そして、ちょうど40代になった頃から、そのような考え方よりも、プラス方向に考える癖ができ、それに伴って、友人関係がしっかりと結べるようになりました。

↑と、このようにずっと思っていたのですが、今日の記事を読んで、もしかしたら、これは逆なのではないかと考え始めました。

私は40代に入った頃から、仕事や家庭、友人関係の中で、ことさら対立しなくても済むような環境を作ることができるようになり、毎日が落ち着いて過ごせるようになりました。つまり、このころ自分の中で被害者意識を持たなくなったことで、プラスの考え方が主流になったのではないかと。

とは言え、今でも「どうしても許せない」という思いに駆られる時があり、そんなときには、プラス派の人の提案する意見が、どうしようもなく能天気で浅いものに感じてしまうことがあります。また、「もっと明るく考えましょうよ」的な意見がとても暴力的に聞こえることもあります。本質的に考えようとしている私の姿勢を否定されたように感じてしまうのかも知れません。
実は現在、私はある一人の女性と、まさにこのような葛藤の中にいます。

>そうすると、仮にお互いに関係を改善しようと思っていたとしても、具体的なところでは完全にすれ違ってしまうことになります。

こういう構図が見えてくると、少し私も余裕を持って彼女のことを考えられるようになれそうです。・・・・・・本当かな?いえ、やっぱり難しいかも知れません。

感情が絡んでくると、特に被害感情だった場合、なかなか理性通りにはことが進まず、何の得にもならないと分かっていつつ、気が付くと怒ったり悩んだりしている私です。というわけで、

>とはいえ、私自身を考えてみると、定型アスペ問題では私もかなりの「被害」を受けていると感じている部分もあるので、それだけで説明できるものでもなさそうです。

と書かれるパンダさんの記事を見て、「そうか…、『被害意識』は理由にはならないんだ…」とため息をついてしまいました。

ご無沙汰しています。
プラス派と、マイナス派の違いというところで、私とアスペの娘とのやりとりで、いつも感じるズレだなと思ったので、コメントさせていただこうかと・・・。

娘がよく、『誰々が、〇〇と言った!(やった!)』と、学校での出来事を怒りをまじえて話すのですが、私から見ると、色々な状況を想像できるので、それが悪いこととは思えないことが多いのです。
だから『それは、××という見方もできるし、△△という見方もできる(だから悪いこととはいえない)』と解説するのですが、娘は〇〇自体が面白くないので、原因などどうでもよいと、相変わらず怒っています。
酷い時は、私がそう解説したことそのものが、『ママは私の方が悪いって言うの!』と捉えて卑屈になってしまうときも。

娘の中には、とにかく○○が不快だったことが許せないんですよね。

最近は、どうして〇〇が不快に感じたか、という分析をするようにしています。
すると、どうやら体調が悪いみたいだ。寝不足みたいだ。疲れている。など、自分の側の体調の悪さが原因していることに気付いてきました。

娘にはADHDの傾向もあるので、低覚醒という酔っ払いのような感覚になるときがあります。そういう時には、どうしても苛々しやすくなって、普段なら特に気にしない〇〇が、非常に不快になって、自分への攻撃に思えてしまうことが分かってきました。

発達障害でなくても、体調の悪さや、疲れやすさ、過度のストレスを抱えている人は、マイナスに考える傾向があるのではないかと思います。ストレスを抱えている人が多い現代ですから、ストレスマネジメントの身に付け方も、この差に大きく影響するのではないかなと、娘の言動を見ていて思います。

ガーディナーさん

>なぜ相手はマイナスの考えから目を背けるのか。マイナスの中にこそ、問題の本質があるのに…、と歯ぎしりをしたくなる時すらあるのです。

 これは私にもよくあります。特に自分がそこで苦しんでいるのに、あるいはそこがものすごく重要だと考えているのに、相手が全然そのことが理解できないような場合ですね。この人はなんてお気楽な人なんだろう、と、そのことにいら立つことは以前はかなりよくありました。「まあ、この人の世界の中ではそこは別に気にならないんだろうな」と割り切って感じられるようになったのは比較的最近です。

 たとえて言えば、自分の足を踏んでいる相手に対して、「痛いじゃないか!」と言ったら「別にたいしたことないんじゃない?」とお気楽に答えられるような感覚が生まれる場合とかもそうですね。

>「そうか…、『被害意識』は理由にはならないんだ…」

 被害者意識も重要な理由の一つなんだと思います。「足を踏まれている」ように思える場合ですね。でもそれだけではなく、他にもいくつかの要素が絡んでいそうな気がします。まだよくわかりませんけど。

 ということで、ガーディナーさんの感覚は私もかなりわかる気がするので(私もアスペ?)、単純にプラス派マイナス派と別れるのではなく、一人の人でもプラス派になるときとマイナス派になるときがあって、それによって同じことが起こるのかも。ただ、どちらが多いかというあたりは人によって違うかもしれません。中には私から見てこの人はプラス派になることがあるんだろうか?と思ってしまう位の人もあるわけですし。


あすなろさん

>発達障害でなくても、体調の悪さや、疲れやすさ、過度のストレスを抱えている人は、マイナスに考える傾向があるのではないかと思います。ストレスを抱えている人が多い現代ですから、ストレスマネジメントの身に付け方も、この差に大きく影響するのではないかなと、娘の言動を見ていて思います。

 このあたりはほんとにおっしゃる通りの感じがします。とにかくストレスがたまると攻撃的になりやすくなるし、またその攻撃の矛先が自分に向けば激しい自己否定になったりもしますよね。

 つまりマイナスの原因を外に見れば攻撃になるし、内に見れば自己否定になる。

 発達障がいの方はここでそういうストレスを特に抱えやすい状況に置かれているのだろうと思います。だから、その人が何らかの形でストレスマネージメントの工夫を身に着けているかどうか、そのレベルによってどの程度のマイナスになるかに非常に大きな違いが出てきてしまうのでしょう。ガーディナーさんの話を読んでもそんな気がします。

あすなろさんが書かれている

「酷い時は、私がそう解説したことそのものが、『ママは私の方が悪いって言うの!』と捉えて卑屈になってしまうときも。」

という娘さんの話、これも身に染みて感じることがありますね。原因を考えて対策を探ろうとすることが、単に非難をしようとしていることとして理解されてしまう。ここでもそういうことが繰り返されました。

今ふと思い出したことなんですが、小さな子どもが劇で「悪役」になるのをすごく嫌がるという話を聞いたことがあります。「これは役なんだ」という割り切りがむつかしいらしく、本当に自分が悪役になってしまうような感じを持つらしいんですね。それが成長すると「役としてやっているだけで、本当の自分には関係ない」と「役」と「自分」を切り離して考えられるようになって、逆に面白がって悪役をやる子も出てくるらしいんです。

こういう話をすると、娘さんを子ども扱いするようにもなってしまうので、気が引けるところがあるんですが、あえて「客観的」に見ると、やはり似たような構図を上の例には感じてしまいます。つまり「原因を探る」というときに、否定的な面も考慮していく必要があって、それはその人を否定するためではなく、否定しないためにそうするわけですけれど、ところがその人にとってはそのまま単に否定されているだけに感じられてしまう。

「否定的な面を克服しようとする肯定的な試み」というそのちょっとややこしいような関係が伝わりにくいんだと思います。前半が出てきた段階でもうアウトになって、後半は意識から消えてしまって伝わらない。

しばらくぶりに言ってみれば、「入れ子」の関係がここでも成り立ちにくいのでしょう。「『否定的な面』を克服するための肯定的な試み」という入れ子の関係が伝わりにくいということなわけですから。「『悪役』をやっているいい子の私」というのが小さい子どもに理解されにくいのと同じ形ですよね。

>パンダさん

いやー。ここは相変わらず素晴らしい発見が出来ます。というか、パンダさんの発想から、目からウロコの発見が出来ます。

悪役のお話、それで、色々なことがストンと腑に落ちました。

以前にも、息子が、相手に怒らなくなったことを自分で『全て俺が悪いんだと割り切った』と言った話をしましたが、彼は悪役を全面的に引き受けることで、心が落ち着いたと考えれば納得できます。

息子がなぜそういう境地に至ったのか。
思い返せば、息子が定型の子との行き違いで揉めるようになったのは、幼稚園の頃に遡ります。まだ発達障害などほとんど知られていなくて、私自身も知らなくて、どうしてそんな行動を取るのかな?というようなことばかりでした。

一番覚えているのは、ある子が、友達の上靴を隠してしまい、それを先生が見つけて叱っていたんです。
息子はその事件に直接関係なかったのに、何故か、その子に冷たく厳しく当たるようになり、顔を合わせれば嫌味を言うようになりました。
それで流石に先生に呼び出され、息子が相手の子をいじめているという話になりました。息子にも謝らせたのですが、彼にはいじめたという意識がない。

その子とは、中学までずっと一緒で、しかも同じ部活。何がどうというわけではないけれど、確執はずっと続いていました。
しかし、相手の方が交友関係が広いので、相手の味方がたくさんでき、息子は孤立して、軽いイジメのようなものにまで発展してしまいました。

これは、両方の視点から交互に見ると、どちらも悪く無いんですね。
はじめに嫌がらせをしたのは息子なんですが、息子にとっては、先生に叱られていたことが、その子は悪い子というイメージが付いてしまい、正義のために相手に何かを言っていたはずなんです。幼いので自分と相手の境界が全く分かっていなかったのでしょう。

ところが相手の子にとっては、先生に叱られた上に、全く関係のない息子にまで嫌味を言われて、しかも事が済んでもまだネチネチと嫌味を言い続ける息子は、自分をいじめる悪い奴でしかありません。息子が悪いと思うのは当然。

もし彼が発達障害だと診断されていたとしても、やっぱり第三者から見れば悪いのは息子なので、息子の方が謝らなければいけません。

こういう感覚の違いで、息子が意図せずに悪役にならざるを得なかったことが、その後の小学校生活でも、中学校でも続きました。
こうなってしまうと、自分が正しいと思うことは、全く通用しないのだと観念するしかありません。
定型にとって、何が良いのか、何が逆鱗に触れることか、その区別も分からない。
なら、相手が怒り出したら、悪役を買って出てしまった方が、その後取り返しのつかないことにならずに済む。

そう割り切ったのだと思います。

息子の自慢は、『俺は数年間、怒っていない』
アスペの自分はどうやら定型にとっては悪役だけど、それは定型に対して演じているだけであって、別に自分を否定するものではない。という割り切りなのかなと思いました。

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