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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年10月

2017年10月31日 (火)

相手の気持ちがわからない

 アスペの方は定型の気持ちがわかりにくいので、気持ちの理解や共感によってではなくて、パターンによって「こういう場合はこうすることになっているらしい」というふうな理解をし、それでなんとか事態を乗り切ることが多い、という話をしばしば聞きます。

 けれどもそれは定型がそうする理屈はピンときてはいないので、どうしても対応がずれてしまう場合が多く、そこでまた定型から文句を言われたりすることが多くなる。

 とても鋭い方の場合はそこでパターンを小分けにして「こういう場合はこうする、似ているけどここがこう違う場合はこうする」など、どんどん条件を細かく理解していって、それでかなり定型に近い反応をするようになられることもあるし、またそれが慣れてくればいちいち悩みながらでなくても、瞬間的に、半分無意識に近く応答できるようになったりもするから、定型の側もほとんど気づかずに「自然」なやりとりになったりもする。

 でも、それはものすごい努力や観察、工夫の積み重ねのことで、そこでアスペの方は定型には想像もできないようなエネルギーを使ってそれを可能にされているわけですし、しかもかなり基本的なところで定型との着目点や理解の仕組みに違いがあるので、そのズレがなくなることはない。

 たとえて言えば、アナログの世界をデジタルで理解したり再現したりするようなことが起こるのでしょう。写真で言えば「画素数」が荒いときには実物と比べてギザギザが目立ったりするけれど、画素数が多くなると、そのギザギザはよほど拡大してみないと見えなくなる。

 鋭いアスペの方は、その「画素数」が天才的に細かかったりするので、定型の側がギザギザに気づきにくく、とても「自然」に感じるわけですが、でも逆に言えばアスペの方にとってはそれは「意識的なすごい努力の結果」であって、決して「自然」なことではないわけです。

(理屈を言えば、実物の側、物の世界も分子とか原子とかのレベルまで細かく見れば「ギザギザ」だという話はあるでしょうし、物を見るときも網膜の神経細胞で光をキャッチしているわけで、ちゃんと「画素」があるから、結局どっちも同じだという見方もあり得ますし、いや、原子とか素粒子とかは「粒」じゃないんだ、という問題も出てくるし、見たものの理解も「画素」をそのまま素材にはしていないんだという話もありますし、キリがなくなりますが、そこまでの話はおいておくことにして……)

 これもたとえてみれば、こんなふうに言えそうです。姿勢を保つときに私たちはからだの傾きを目や体の中の傾きを感じ取る器官で知っているわけですね。その両方を使っている。だからVRのように、仮想現実で作られた周りの状況を見せられると、実際には自分の体が動いていないのに傾いている錯覚になったりします。逆に目を閉じていても、姿勢が傾くのは感じられたりする。

 で、定型のやりとりは体の中の何かの定型的な感覚(あるいは感情)と、見た目の世界と、両方を使っているのに対して、アスペの方は見た目の世界は定型と共通するんだけど、体の中の何かの感覚(感情)の仕組みが定型とは結構ことなるものになっていて、そこでズレが起こる。それでアスペの方が定型に合わせようとするときには、その自分にとって自然な感覚(感情)をいわば無視する形で、見た目だけに頼って理解して定型に合わせようと努力することになる。だから大変だし、だから定型の世界とはピタッと重なることがむつかしい。

 そんなイメージがあります。この体の中の感覚が、上の比喩で言えばアナログかデジタルかの違いにあたる部分です。

 さて、前置きが長くなって本題が短いのですが (笑)、 昨日、パートナーが私の出張の時の話についてぼちぼち質問をしてくれました。最近そのあたり気を遣ってくれているのかなと思うのですが、「会話を心掛けてくれている」感じがすることがあります。

 それで、ややとぎれとぎれな感じの会話を続けながら、「もしすごく気を遣わせているのなら、こちらがあんまり期待して長く続けても疲れてしまうかな」などと思うこともあって、話が一段落した(かもしれないと思った)時に、ちょっとすることもあってその場をいったん離れたんですね。

 で、そのあとまた戻ってみると、彼女から「なにか気に障ることを言った?」と聞かれたのです。私がその場を離れたのは、彼女が私の気に入らないことを言ったから、気分を悪くして何も言わずに去ったのではないかと心配したらしいのですね。

 ふだん会話しているときに、彼女の方がすっと何も言わずに行ってしまうことがよくあるので、私の方はそういうのが彼女には自然なのかなと思って、特に何も言わずにその場をいったん離れたのですが、それがどうもそうではなかったようです。

 すっと離れる場合と、相手に断っての場合と、どこがどう違うのか、彼女の基準が私にはよくわからないんですね。それで彼女に尋ねてみても、たぶん彼女も特に意識せずに感覚的にそういう判断をしているからでしょう、説明できるわけではないわけです。

 つまり、定型の基準にアスペの方が合わせようとするとズレが起こってアスペの方が定型から「どうしてその違いが判らないんだ」と不思議に思われたり、状況によっては責められたりする。ところが逆に定型の側がアスペの基準に合わせようとすると、やっぱり同じことが起こるわけです。

 「相手の気持ちを理解できない」とか「空気(文脈)を読めない」とか、アスペの方の「障がい」として言われることがよくありますが、まあそれは定型基準で考えたときの話で、その基準を外して考えれば、どっちもどっち、お互い様ということですね。

 

 

2017年10月25日 (水)

嫌な顔のわけ

 しばらく頭が別の方に行っていて、こちらに書くことが思いつきませんでした。また別の方に行くかもしれませんが、今朝思ったことがあったので。

 パートナーに何かを頼むと、嫌な顔(に見える)をされることがよくあります。ほんとに迷惑そうな感じで、頼むことに罪悪感が生まれてしまいます。だから基本的には、ほんとに簡単なことか、あるいはどうしようもないときにしか頼まないようにしていました。

 で、今回もそのどうしようもない場合だったので、あることのチェックをお願いしたんです。やはりいやな顔(に見える)をされました。

 これまでの経験から、頼む内容をできるだけ簡潔に、絞り込んで説明するようにして、引き受けてもらいましたが、その時、彼女が言ったことは、自分は小さなところは必ずのように見落とすから、というようなことでした。

 それでこう思ったわけです。

 彼女は私に頼まれること自体が嫌でそういう顔になっていたのではなさそうだと。そうではなくて、自分の苦手さを知っている分、「本当に自分にできるのか」を苦しそうに考えているのがその表情なのだと。

 そう考えてみると、彼女の完ぺき主義や責任感の強さからかなり納得できるのですね。頼まれたことは手を抜かずにベストを尽くしてやる。無責任なことはできない。だからできないかもしれないことは安易に引き受けることはしない。そういう姿勢がたしかにある気がするわけです。

 その「本当に自分が引き受けられるか?」ということを考えている表情が、あの「いやそうな顔」だということになります。

 

 翻って考えてみると、私なんかは人から頼まれたことについて、結構いい加減に引き受けることが多いです。完璧は無理でも、多少でも相手の役に立つならいいという感じですね。そしてその結果失敗があったとしても、自分なりに頑張ったうえでのことなら相手も理解してくれるだろうという気持ちがあります(もちろん相手や内容にもよりますが)。そのあたりのいい加減さの感じが彼女にはないのでしょう。

 子育てでも私から見て彼女は子どもに完璧を求める傾向が強かったように思います。「遊び」を感じられないんですね。それで私が息苦しくなってそこがまた対立の原因にもなったわけですが、それは彼女自身がそうやって完璧を求めて生きてきた(あるいは生きざるを得なかった?)からなのだろうと、そう考えるとわかりやすい気がします。

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