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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年9月 6日 (水)

つながり方のスイッチ

 昔、中学生とかが荒れていたころだったか、学校で「おはよう運動(?)」みたいのが始まったというようなニュースを何度か見たことがありました。校門で学校の先生が生徒一人一人におはようとか声をかけたりするやつです。

 当時は、何の意味があるんだ、と、なんだかばかばかしい感じで見ていたんですが、自分自身が日常的に朝の挨拶の有無に違和感を感じる状態が続くと、さすがに、なるほどなあと感じる部分も出てきます。

 ここではこの「おはよう」という挨拶は、相手のその日の状態を知る手がかりだ、という話をしてきたのですが、もう一つは単純に相手との気持ちのやりとりのスイッチになる、ということがあるんだと思えてきたわけです。

 夜寝ているときは他の人とも、もっと言えば周りの状況とも、関係をほとんど断って「死んだように(笑)」寝ています。で、目が覚めると、自分が寝ている部屋の状態とか、周りの音とかに気づいて、そういう周りの世界を意識しながら起き上がったり、顔を洗ったり、ご飯を食べたりするわけです。

 まあたとえ話で言えば、死んでる状態から、周りの世界とコミュニケーションをして(意識しながら働きかけたりすること)、活動する生きた状態に入るわけですね。

 で、そこに人がいると、今度は人を意識してその人(たち)とコミュニケーションしながら生活する態勢に入ります。人の間で生きて活躍する状態に入るわけです。あるいは寝る前の状態から言えばそこに「戻る」と言ってもいいかも。

 朝の挨拶は、そういう人の間で生きる状態に入るための、スイッチの一つになるのだ、と考えると、ちょっとわかりやすいなと思ったわけです。

 会社の朝礼などで、場所によっては大声で挨拶をさせるようなところもありますが、あれもそうやってみんなを一斉に一種の活動状態に入れて仕事をさせるためのスイッチなわけですね。気合を入れるとか、そんな言い方もあるのかも。私はそういうのは苦手ですが、まあその会社にとっては効果があるからやっているんでしょう。

 もちろんそんなことをしない会社とか場所だってあるわけです。やり方だって声を張り上げてやらせるようなところもあれば、簡単にあっさりのところもあれば、いろいろです。そこにその会社の「雰囲気」の違いが表れています。

 逆に言えばその挨拶のあるなしや、やり方の違いは、その会社の雰囲気を変える結構大きなポイントの一つになっているということになります。社員間でどんな態度でやりとりして、どんな雰囲気で一緒に仕事をしていくか、その基本的な方向性がそれで作られる。

 だから、人によってその社のやり方があっている人もいるし、合わない人も出てきます。個人的にどういうやりとりの仕方、人とのつながり方が心地よいかと言う、そのパターンが違うからですね。

 もちろん挨拶だけがそのスイッチになるわけではないですが、そこにお互いにどんなつながりを作っていきたいか、というその人の態度が現れるものの一つではあるわけです。

 だから挨拶の有無ややり方で違和感がある状態と言うのは、どういうつながり方が心地よいか、どういうつながり方を求めているか、という感覚の違いがそこにあるということなのでしょう。

 求めている心地よさの感覚がずれているということですね。

 

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コメント

先日、あるシンポジウムで、新しい雇用形態を模索している企業の取り組みを紹介していました。
それぞれが色んな方法を試しているのですが、共通しているのは、『会社は仕事をするところであって、コミュニケーションを取るところではない』ということでした。
極端な例だと、月に3度ほどの上司との面接を行えば、会社に来なくても良い。与えられたノルマをこなせば良い。というもので、会社の人間同士のコミュニケーションをできる限り排除し、『仕事』に集中してもらう。出勤する、定時まで外出しないなどの『儀式』を無くし、家でゴロゴロしながらも、仕事さえ出来上がれば良しとする。という発想で、仕事の質を上げる。個人の能力を最大限に活かすというのを目指すようです。
個人主義が強い外資系はすでにこれに近い形態を導入しているところも多いようですが、日本も徐々にそういう方向に変わっていくでしょう。

コミュニケーションは、人間にとって必要なものですが、それは自発的に取りたい人と取るものであって、取らなくても良い場面もあったり、むしろコミュニケーションを強要することで弊害が出ている場面もある。
使い分けが必要になってくるのでしょうね。

こんにちは(^^)

さっき、テレビで、田舎訪問みたいな番組をやってたんですが、「あ、◯◯さん、ちょっとお宅の縁側貸して、取材やねん」と近所さんの縁側を借り、「ここに座ってたら、道行く人みんなと挨拶できるし、お向かいさんとも挨拶できる。旅人もここ通るしな。縁側言うのは『縁』をつなぐ場所やな」みたいなお話があったんですが…

あー、あたしは絶対田舎住みは無理だーって思ってしまいました(^^;
隣で見ていた息子も「おれ無理」と言ってました(笑)

でも、取材に出ていた方々は本当に楽しそうで。
もし、そういう家に生まれていて、ご近所づきあいが当たり前の社会で育っていたら、どんな感覚の人間に私はなっていたのかなぁ?

相変わらず空気を読まない発言でごめんなさーい!

あすなろさん

 そういう働き方,いいですね!どんどん広がってほしい。

キキさん

 面白い話ですね。古いところはそういう感じでしょうね。昔もアスペの方はいたわけですけれど,どうされていたんでしょうね?
 その時にはその人なりに,なんとなくそういう状況に対応できるように育つんですかね?そういう意味でも興味深いです。

夢を崩す話で申し訳ないですが、当然アスペは浮きます。田舎くらしはアスペには向かないです。
理解力がある方もいらっしゃいますが、そういう人は少ないです。
田舎は暇な人も多いですから、噂や陰口やいじめの対象となってしまいますね(健常者ですら陰口や噂のネタになることもあるくらいなのに)。

父がADHDもあり、買い物に出ると必ず買い忘れがあり、何回も車にスーパーに出掛けると、近所の人から「サロマちゃんのお父さんは出たり入ったりばかりね」と嫌味や陰口を言われていました。
腹を立てて言い返したら、今度は「愛人に何回も会いに行っている」などと勝手に噂されました(父は不倫しておりません)。
どこでそんな話になるのかと疑問でした(本来は陰口や噂話をされてもキレずに相手にしないことが一番だと言われましたが。キレると相手は余計に面白がるので)。

小さな田舎だと噂もすぐに回ります。
アスペではないですが、不倫駆け落ちした人の親戚の人が町内にいたのですが、顔も知らない人から指をさされて色々言われていました。
アスペの場合は何もしていなくても悪目立ちしますから、顔も知らない人からひそひそ言われることもありました(こちらは知らなくとも自分を嫌ってる知人とその人が友人とか)。

ボンビーガールの柴田美咲さんのように濃い繋がりができると、田舎暮らしはむしろ良いのですが、それができない私は実家にいるのも辛くて遠くに引っ越したいです。

アスペが田舎に住むなら隣が何キロも離れているくらいの超田舎でないと難しいと思います。
さすがにそこまで離れると人もなかなか集まれないですから。

田舎でも噂する人ばかりではないですが、田舎は監視システムや結束が強い分、好感を持たれることは難しいので、距離は置かれやすく、おかしな人として見られることは避けられないと思います。

夢を崩す話ですが、テレビは良い一面しかとりあげません。
田舎は干渉されやすいし、暇人は特に他人の噂や陰口が趣味の人もいます。健常者ですら厄介に感じている人もます。
都会以上に田舎は結束が強く、監視システムが強いためにアスペは変な人扱いで警戒されます。
いじめる人もいます。
いじめまではなくとも、悪目立ちしやすいアスペは噂や陰口の的にはなりやすいです。あることないことアスペ本人の事実とは違う噂が流れることもあります。
噂する人ばかりではないですが、少なくとも好感は持たれずに距離は置かれやすいです。
世界が狭いので、あっという間に広い範囲に噂は流れます。

しかし、反面何かあったら近所の人が助けてくれます。
ただそれもコミュニケーションが取れて信頼関係が成立しての話です。
コミュニケーションが苦手なアスペが助けてもらえるかは微妙です(周りが親切な人なら良いですが)。
コミュニケーション障害の人の中には生まれてから何十年も同じ土地に住んでいるのに「よそ者」「変な人」扱いされてなじめない人もいます(うちの父や友人、元彼もその中の一人です)。
私も経済力があったら実家から離れて近所付き合いがない都会に住みたいです。

コミュニケーションができない人は、隣が何キロも離れているくらいの田舎なら大丈夫だと思います。人が簡単には集まれないからです。

さろまさん

 そういうこと、ありそうだなと思いながら読ませていただきました。

 一般的には都会はいい意味でも悪い意味でもお互いに無関心で、田舎は深いところまでお互いに知り合い、探りあって生きている感じがします。

 特にさろまさんの地域ではそういうことがマイナスに働いているわけですね。

さろまさん

こんばんは。
やっぱりそうなんですね。
仕事なら仕方なくても、本来くつろぐべき家がリラックスできない状態であるのはどんなに苦痛だろうかと思います。

互助、というのも私にはあまり縁がなさそうだと思っていたんですが、やっぱり日頃から密にコミュニケーションを取って気遣いをし合う仲だからこそなんですよね。
そもそもどこを気遣っていいのか、どこまでお返しすればいいのかわからないため、やはり人との繋がりを避けてしまう傾向にあります。
(職場でも、仲良しグループの人達は、本当に気遣い合戦というか、うまくバランスを取ることが一番大事なんだろうなと感じます。コロっと何かでつまづくと、たちまち仲間から外されそうですもんね。私はもちろん、どのグループには属してませんが…というか属せません(^^;
羨ましい気持ちもないわけではないですが、とてもうまくやっていけそうにないので…)

田舎暮らしの実態、教えていただきありがとうございます。

うちの地域は特に田舎の特性がマイナス面にに働いているというわけではないと思います。
どこに行っても田舎はうるさい人、干渉や噂が趣味の人は少なからずいます。
でもそんな人ばかりではないのですし、(コミュニケーションが取れる人たちにとっては)何かあった時には助けあったり、野菜をもらえたりもするので、田舎のコミュニティは良いところもあります。

ただコミュニケーションは大事なので、コミュニケーションが取れない人には田舎はお勧めできないところです。
役員や町内会の行事など、アスペが苦手なものとすることも多いです。
そうなると周りの理解が必要になるわけですが、理解を得るにも普段からコミュニケーションをとって信頼関係を築いているのが前提になるわけで、そこがうまくできていないアスペがフォローや理解を求めると、反感を買うこともあると思います。

昔もアスペ的な人は必ず一定の割合で生まれていたでしょうから、そんな人たちはどうやってその状況を生き抜いてこられたのか、そこが気になります。

ADHDについては、大昔、アフリカから人類が世界に急速に広がっていったときに、先頭に立って活躍した人々ではないか、という話を聞いたことがあります。

アスペの方の場合は、たぶん社会が滅ぶかもしれないような危機的な状態のときに、感情に流されずに事態を判断して行動する力で、そこを乗り切るためのリーダーシップをとった人たちではないかと言う気がしています。

大きな目で見るとそういう「役割」があるから、常にある程度の割合でそういう人たちが生まれるようにできているのだろうと思うのですが、ただ、変化の乏しい時代や地域などでは活躍しにくいので、そういうときはどうしていたんだろう、どういうバランスのとり方があったんだろう、ということに私は関心があるんですね。そこになにか定型アスペ問題を考えるためのヒントがあるのかないのか。どっちかわかりませんが。

わたしのパートナーは大学卒業後10年あまり中学で数学の教師をしていました。でも仕事に馴染めず苦しみ、30代半ばで退職して、移住した東南アジアの国で20年近く暮らしていました。現地で仕事はしませんでしたしまわりの人とのお付き合いもほとんどなしでした(ネットが普及してからはSNSやメールで日本と繋がれるようになったのでよかったと言ってます。彼は生身の人間との付き合いは苦手ですがウェブ上だと水を得た魚のようになります)。
豪遊するわけでもなく(経済的にできなかったという方が適切かも)日本円で年間15~20万円くらいの生活費で細々と生活していました。この生活費は現地の人にとっても相当厳しいレベルだそうです。
結局日本が懐かしくなって2年前に帰国したのですが(タイ滞在中も1~2年に一度くらいは帰国していました)、よく外国で長期間そういう生活ができたなあと思います。彼に言わせればそういう生き方は得意分野だということ。ちょっとわたしには無理な感じですが、ASPな人ならではではないかと思います。

田舎暮らし都会暮らしについてのコメントになるほどなあと思いましたのでコメントさせていただきました。

刺激が強いので、興味のある方だけ検索していただければ、と思いますが、横溝正史の『八つ墓村』の題材になった『津山事件』など、田舎の異常なコミュニティが犯人を凶行に走らせた良い例だと思います。
追い詰めた村人は、自分たちが原因とは思っていない。被害を受けて犯人を『空前絶後の異常者』とすることで、解決してしまう。
日本の異常性をよく表していると思います。

上記のイノベーション企業の人事が、外国人で、日本の企業のあり方が謎だらけだと言っていました。

田舎は、その異常性が連綿と色濃く残っていますが、都会でも、この異常なコミュニケーションの強要が基本にあるので、意識を変えるのが大変だそうです。

改革は、新しく何かを始めることでなく、染み付いた意識を根底から変えていくことをしなければ、同じところに戻って新たな問題を生むのではないかと思います。

ぱんださんに対する答えの一つでしかありませんが、うちの父方家系はおそらくアスペだと思います。
全て曾祖父母から聞いた話なので、どこまでが事実かはわかりませんが、いじめられたり、下っ端やパシリのような扱いを受けていたようです。
「おまえのようなバカでノロマな奴でもおまんま喰わせてやってるんだから何があっても逆らうな(パシリ扱いされたり、バカにされても逆らうな)」ということなのでしょうかね。
昔の農家は今のような複雑な作業はなく、今ほど空気を読むことを求められてなかったのもあったのかもしれません。
皆が学力が低い時代でしたから勉強ができなくてもおかしいとは思われていなかったし、変わり者や頭が悪いということで嫌われることはあっても、村八分レベルまでではなかったのかもしれません。

狩りの時代であったら協調性が保てない上にのろまな人であれば、村八分の対象とはされたかも?皆で命がけで狩りをするのにそこで足を引っ張る存在は邪魔でしかありませんよね。
障害者は村八分の対象とされやすいから寿命は短かったのかもしれません。
勝手な推測ですけどね。

昔の産婆さんは障害者が生まれたらすぐに死なせる話もあったので(長年の経験で障害者と見分けられるのだったかな?詳しくはわかりません)、障害者自体が少なかったのでしょうかね?

サロマさんが狩猟採集民について書かれたことを拝見して思い出したのですが、
もうずいぶん昔に読んだことです。

ある研究者がアフリカの狩猟採集民の研究をしていて、いつもお世話になっている家族のところに自閉症の息子さんを連れて行ったことがあるそうです。

その時、息子さんが何かの理由でその家族の水をぶちまけてしまったか何かしたんだそうです。水は彼らにとっては大変貴重なもので、その研究者はさすがに怒り、その息子さんを激しくしかったそうです。

そうしたらその採集民の家族の人が、必死になって「この子は決して人を殺せないようなやさしい子なんだ。そんなふうに怒っちゃだめだ!」止めたんだそうです。

障がい者がケアをされて長い間生き残っていた証拠は人類ではその初期から見いだされるようですね。ぎりぎりの状況で助け合って生きる姿は、人間の社会ではずいぶん昔から一貫して見られるようです。もちろんいじめなども同じでしょうけれど。

サロマさん

関係ない横レスとなりますが、パンダさんやあすなろさんに対してひどいことをおっしゃっていましたよね。

理由はともかく、そこはサロマさんに非があるのではないでしょうか?
そこを認めて謝罪するべきだと思うのですが。

偉そうなことを言っているのは承知の上ですが、サロマさんのコメントがいくら正しくても、それがネックとなって素直に入ってこないのです。

トマトさんやココチさんなど、他の定型の方がにわとりさんに放った言葉は障害に対する理解は感じられないものでしたし、トマトさん達が正しく、にわとりさんが意味不明な主張ばかりを繰り返してると言われ、一人悪者になっていたのがおかしいと言ったのが始まりなのですが。
私が一方ではその方達と同じことをしているとのご指摘をうけたので、それは違うと言ったのですが、不快にさせたなら申し訳ありませんでした。

ただ私の考えは変わることはありません。

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