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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年8月 7日 (月)

単なる我慢を超えられるのか

 ふと思ったことで、これもほんとかどうかはわかりません。

 アスペの方は家族とか、身内になると必要最小限の事しか言わなくなり、朝の挨拶とか、出かけるときや帰ってきたときに挨拶も必要を感じなくなる、という話がありました。

 定型の場合は身内になっても親しさを保ったり深めたりするには、相手のこと(特に気分など)を気にしていることが大事で、挨拶などは、相手のその時の気持ちの状態を知る大事な手掛かりとして使われています(ただしほぼ無意識で自動的に。「あれ?なんか変だ」と言うときだけ意識されます)。

 つまり、お互いに気分を調整しあうということが、親しい関係でも重要で、それが相手に対する気遣いであったり、思いやりであったりする。そのレベルは人によってかなり違って、比較的あっさり系の、淡白な付き合い方の人もあるし、相当相手の中に入り込みあう人もあるし、そこはスペクトラムだと思いますが、ただいずれにしてもそこに大事なアンテナを張っていること自体は基本的に共通している部分と思います。

 ですから、挨拶とか、挨拶でなくてもいいですが、それに類することで、相手の気持ちの変化を知ろうとする姿勢を相手が示しているかどうかは、相手との関係が維持されているのか、崩壊に向かおうとしているのか(したがって修復が必要か)を判断する重要な手掛かりの一つになっています。

 自分のちょっとした変化を相手が気づいてくれるということは(場合によっては自分でもまだ気づかない変化を気づいてくれる)、定型的にはとてもうれしいことになります。それがうれしくなくなる時は、相手との関係が薄くなったり、距離を取ろうとしていたり、あるいは破たんに向かっているときです。

 というわけで、たとえば挨拶をしてくれなくなったという変化は、定型的には「相手が自分と関係を断とうとしている」という方向に理解する可能性が高いことになります。

 で、アスペの方の話を聞く限り、アスペの方にとってはこれは正反対の意味を持っていて、身内になったからこそ、そういうやりとりは不要になると感じられるようです。むしろ外の世界では必死でそのような「気遣い」をしなければならずにへとへとになるので、そういう気遣いを必要としない世界こそが自分にとって心地よい世界になるわけですから、家族はそういう場であってほしい(あるいは当然そうだろう)と思う、というのもわからないではない。

 ということで、ここで「挨拶をしなくなる」ということが定型とアスペで真逆の理解を生んでいくことになるわけですよね。

 アスペの方にとってはそういう「形ばかりの気遣い」(というか気遣いの意味があるとも思われないでしょうが)はなくすほど、自分が生きやすい世界になり、そのような世界を安心して享受できるほど、いい家庭だということになる。その意味で、夫婦関係もいい方向に深まっているという評価になる。

 逆に定型の方は、親しさが増すほど相手の気分の変化などがよくわかるようになり、そこに気遣いあうことがいい関係の深まりを示すという感覚が強くあるので、そういう気遣いが感じられなくなると、関係が終わりに向かっていると感じる。挨拶もその一つになりえます(人や場合によっては挨拶はどうでもよくて、ほかのポイントが同じような意味を持つこともあると思いますが)

 というようなことはこれまで書いてきたことでだいたい見えてきたことのように思うのですが、それを前提にした話です。

 そういう真逆の理解の仕方、感じ方をする定型アスペ関係を調整するにはどうしたらいいのか、ということが大きな問題になります。そうとう基本的なところで感じ方が真逆なので、相手の感じ方に従えば、自分の感じ方が否定されることになり、自分の感じ方を貫こうとすれば相手を否定することになる、という状況がすぐに生まれる。

 そうすると、それでも何らかの理由で関係を維持しようとすれば、相手に対する関心をあきらめて、形だけの家族を維持する、ひたすら我慢する、といった、対処しかなくなるのではないか、という考え方が出てきます。実際そうなっている家族も相当多いのではないかと思います。

 で、私は性格がしつこいので(笑)、第三の道はないかなと思い続けているのですが、たとえば今朝ちょっと思ったんですね。それが今書こうとしていることです。

 彼女が挨拶をますますしなくなっていく状況と言うのは、彼女が自分の感覚を「大事にできている」状態だと考える。彼女が自分でいられる状態を深めていると考える。私との関係を「それができる関係だ」という理解を深めていると考える。

 もし本当にそうだとすれば、の話なのですが(逆にほんとにもうどんどん関係を切られているという可能性もありますから ('◇')ゞ)、それは「彼女が彼女らしく生きられる」ということを望んでいる私としては、うれしいことでもあるわけですね。

 積極的に相手への気遣いを示しあう関係(もちろん程度にもよりますが。あまりしつこすぎると嫌になります(笑))を求めている自分の感覚から言うと、それは同時につらいことでもあるわけですが、以前ならそこは「一方的に我慢する」というだけになってしまうところ、他方で上のようなことだとすれば、「私にとってもうれしいこと」という別の面が表れてきていることになります。

 つまり、単なる我慢の話とは違う可能性が出てきているのかもしれません。

 まあ、たんに自分の都合のいいように考えて、自分を慰めようとしているだけと言う可能性も否定できないのですが ('◇')ゞ

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コメント

挨拶の必要性については、我が家はまた、さらに複雑なことになっています。
私はもともと、あまり挨拶を重視していない人なんですね。人見知りが強かったこともあり、中学校から社会人になって数年間は、挨拶というのが恐怖にも等しい時期もありました。
だから、本当に義務として恐怖を押し殺してやるといった感じだったので、親しい人にはぽっかりとそれが抜けてしまったり、仕事上でもうっかりしていると時候の挨拶抜きで本題に入ってしまい、後で失礼なことをしたなと気付くということが多々あります。

対して夫は、挨拶が心から自然に出るというより、しなくてはならないものという意識が強く、そこには絶対に例外は許されないし、挨拶が無いことが自分への侮辱だと捉えます。どんなに親しい間柄であっても!です。

だから、家族への挨拶の強要が凄くて、私も何度か『そんなことでそこまで怒ったら、逆に信頼関係が壊れる!』と反論し、それに対して『一番重要な挨拶を忘れるなんて、もともと俺への信頼が無い証拠だ!』と夫が反論。噛み合わない議論を
繰り返したことも多々ありました。

『挨拶』という儀礼が、信頼の象徴であるとこだわり過ぎる人と、儀礼など省いても人を信頼できるのだとする人。
その中間がベストなのですが、どちらか極端に傾いてしまうと、とんでもない誤解を招く、良い例だと思います。

この極端な思考というのが、そもそも、発達障害者が、物事の全体像を掴みにくいために、どれを判断材料にして良いのか、生育歴の中で学んで積み上げた結果なんだと思います。

本来なら、信頼の置ける人同士の会話は、すべての要素がバランス良く含まれているのでしょうし、私も他人のやり取りを見ていて、よく、あんなに全ての要素が淀みなく通じ合うものだなあと感心することが多々あり、ここが定型と呼ばれる人との大きな違いなんだろうなと思い知らされます。

私の手がかりは、挨拶ではなくて、他のことなんですよね。 漠然としていて、自分でも分からないけど、挨拶をそれほど重要視していないのは確か!
でも夫の手がかりは『挨拶』なんです。挨拶の有る無しで、またその挨拶が自分に伝わるようにされたかされないかで、自分が相手に受け入れられているのかを判断しているので、何十年も暮らしている家族でさえ、そういう物差しで信頼度を測っているのが、よく分かります。

あすなろさん

えっ、挨拶の強要ですか。
それって、家族以外の人にも挨拶の有る無しで「侮辱された」とかの判断基準になるほどですか?
お子さん達にも強要を?
ごめんなさい、ここだけ(挨拶のことだけ)聞くと、典型的なモラハラ夫に思えてしまいますが…
アスペは他人にあまり関心がないイメージでしたので…。
こういうこだわりもあるんですね?

あすなろさんの書かれているのはとても分かりやすく感じました。

バランスの良さと言うのはしばしば独創性のなさとかたいくつさとか臆病であることでもありますから、単純に善し悪しは言えないと思いますが、自分の信念や原則に生きる、みたいな感じでイメージすると、夫さんのことなどもよく理解できますね。

キキさんの疑問も、「他人に関心がない」というより、もう少し広く、「自分の視点に集中して、他人の視点をあまり取り込まない傾向」くらいに考えると、「自分の視点に集中する」から他人に関心が薄くなることもあれば、「他人の視点をあまり取り込まない」から他人に自分の原則を押し付けやすくなることもある、というふうに両方を同じ原因からくるものとして、あとはその人の性格やそれまでに経験から作られた人生観などでバリエーションが生まれるという感じで理解できそうな気がします。

パンダさん

おはようございます、ちょっと難しくてわからなかったんですが、上のコメントは、オブラートにかなり包んでます?(^^;

あすなろさん

モラハラなんて言ってごめんなさい。
あくまでも挨拶へのこだわりの部分だけ聞いたら、という意味で、その他のご主人の様子はわからないので、ちょっと、思ったことを口にしちゃいました、ごめんなさい。

私の昔お付き合いのあったDVさんとか、友人のモラハラ旦那さんとか、ふと浮かんでしまったんです、オブラートに包むことなく発言してしまってごめんなさい!

キキさん

 オブラートには全然包んでないです(笑)

 抽象化はしてますね。

 この場合抽象化と言うのは、たとえて言えばOとDと、一見違うように見えるけど、一筆書きで書けたり、糸で作った輪っかでどっちの形にもできる、と言う意味では同じもののバリエーションだよね、みたいに「共通の仕組み」を考える、というような感じですね。

 あすなろさんの夫さんの姿と、キキさんのイメージするアスペの姿は一見正反対のように見えるけど、それが生まれる仕組みを考えたら、根っこのところは同じじゃないかな、というようなことでした。ただその人の性格や環境が違うから見た目が正反対の形になっただけで。

 という説明でいけます?

パンダさん

ほんと私は国語?がダメだー(°_°)

例えば、「同じキリスト教徒」でも、すごく戒律に厳しくて人にもそれを求めるタイプと、「神様はゆるしてくださる」と、誰にも優しく接する人とは、根っこは同じだけどタイプが別れたのは性格や環境がかかわる、みたいなこと??
全然違う??(^^;

「我慢を超えられるのか」
最初から最後までため息交じりに頷きながら読み進めました。わたしたちはかなりの高齢で、パートナーとは知り合ってから20年以上、同居し始めてから2年になります。彼は30代半ばで離職し(数学の教師でした)海外で20年近く暮らしていました(無職のままですが物価が安い国ではそれができるのですね)。2年前に帰国してそれから同居しています。最初の1年間はわたしを自分の思い通りに変えるのに一生懸命(そのため月1くらい大ゲンカしていました)、今はそれが不可能と悟ったのかほぼ無関心です。食事は彼の好きな時に一人ですませるようになりました。喧嘩をしていたころはそれなりの会話があったのですが、今は彼が話すことと言えば、いつも同じことの繰り返しで私への質問ばかりです。それも一問一答で終わるようなもので、例えば「君の名前は何でキャリーなの?誰がつけたの?」とか「お墓参りはいつ行くの」とかです。以前から同じことを何回も繰り返し聞くことが多かったので、「この人は同じ答えが返ってくることで安心感を得ているのだな」と思っていました。・・・私は仕事で被虐待、発達障がい、集団への不適応がある子どもを対象とする仕事をしていたので分かっていたつもりなのですが、相手は子どもではなくいい年の大人なので相当きついものがあります。でもこれって彼が見つけ出した平和な人間関係づくりへの手立てなのかもしれませんね。

身近な人とふれあい癒されたいなどと思うことがたまにあっても我が家の場合はそれはとんでもない高望みです。話が情緒的な方向へ向かうと、彼は耳をふさいだりお腹が痛くなったりとかその場からいなくなったりしてしまいます。

取りとめのない話になってしまいましたが、「我慢を超えられるのか」は今の私にぴったりな話題です。そしてちょっと悲しくなっています。

キキさん

>みたいなこと??
>全然違う??(^^;

 キリスト教の理解としてそれがいいのかどうかは私にはわかりませんけど、まあそういう感じじゃないでしょうか。

 これもたとえがいいかどうかわかんないけど、バッタとか、同じバッタなのに、育った環境で長距離移動型になったり、定住型になったりするのがあるんですよね。小さい頃の環境で全然行動パターンも、そして体のつくりまで違ってくる。そんなたとえとか。

 「アスペは他人にあまり関心がない」=「自分に関心がある」 だとして、
 その自分を守るために、「他人にあまりかかわらない」という方向もあるし、
 「他人のことを考えずに相手に対して自分を押し通す」という方向もある。
 他人とのかかわり方については現れ方は一見正反対に見えるけど、
 「自分に関心がある」(視点が自分に常に向きやすい)というところでは共通とか。
 そんな話です。

 という説明ですこしはましになりますか?私の(説明の)国語力が問われます('◇')ゞ

carryさん

>最初から最後までため息交じりに頷きながら読み進めました。

 そうなんですね。やっぱり定型アスペ間はかなり同じ状況になるわけですね。

 20年間は物理的にも距離があったから、それが結果としてクッションの役割もして持続できたけど、この2年間は距離とれない状況になってクッションが失われてしまったので、シビアになった。そういうことなんでしょうか。

 自分自身の経験からしても、ここでのいろんな方のコメントなどを拝見しても、そのズレからくる心のきしみを和らげていくのは、ほんとに大変だし、時間がかかるし、ある意味一生ものですよね。

>私は仕事で被虐待、発達障がい、集団への不適応がある子どもを対象とする仕事をしていたので分かっていたつもりなのですが、相手は子どもではなくいい年の大人なので相当きついものがあります。

 うん、そうだと思います。「ケアする」立場で接する場合と、対等に一緒に生きるという立場で接する場合は全く違いますし、親子と夫婦も全然違う。

 発達障がいへの取り組みを説明する本とか、基本的には「ケア」の視点ですよね。でも夫婦間で「共に生きる」というのはそれとは全然違う話なので、それとは別の発想がどうしても必要になるんだと思います。

 でもそういうことちゃんと説明する話って、ほとんど聞かない(知らない)し、結局私たち当事者が地道に模索していくよりどうしようもないのだろうと思います。お互い様ですけどほんとに大変です。

>でもこれって彼が見つけ出した平和な人間関係づくりへの手立てなのかもしれませんね。

 たしかにそういう面があるだろうと思います。別れたいと言われないのであれば、なんとかそこでバランスを保とうとされている可能性がありますよね。

>パンダさん

はい。おっしゃる通りです!
ただ、バランスの良さが、臆病さに繋がるというよりは、意識しないうちにある程度の恐怖を克服しているので、それでいいのか?みたいな、先の恐怖を抱いていると言いますか……。
バランスの悪い人は、定型が意識しないレベルで恐怖を抱いている。例えば、本当に何気ない談笑の場面で、突然周りを凍りつかせるような発言をしてしまったり。『どうして、ここで、こんな行動を取るの?』と言われるようなレベルの行動にまで、何が相手の地雷になるか分からずに恐怖を抱いているといえるでしょう。

私も、夫も、本来、挨拶などには全く関心が無かったんだと思います。関心がないことを、やらなくてはいけない。まあ、社会性を学ぶというのはそういうことなのですが、おそらく定型だと、そうやって社会性を身につけていくうちに、何となく自分自身も気持ちが良くなり、挨拶っていいなと感じ始めて自分なりの作法として身に付けていくんだと思いますが、私も夫も、『気持ちいいな』という感覚を覚えないうちに義務として厳しく躾けられた。もともと、挨拶という動作自体が面倒だった上に、やらなくてはいけないことという義務感で、拒絶反応を示したんだと思います。

私は中学生くらいからとても反抗的だったので、逆に親の言うことだからやらない、やりたくないという意識が強くなったんですが、夫は厳格な父親によって反論は許されなかった。だから、自分が苦労して身に付けた社会性を、平気な顔で裏切る奴が許せない。
そういう風に違った捉え方になったのではないかと、分析しています。

ちなみに、アスペの息子も娘も、自然によく挨拶をするので、『礼儀正しいわね』と言われます。
幼い頃から、逆に知らない人にまで挨拶してしまうくらいでした。
挨拶をすると、みんなが反応してくれるのが嬉しいようでした。
自閉症の中にはうちの子たちのようなタイプと、受動型のタイプの子がいて、受動型の子は、挨拶をすること自体が恐怖で、挨拶は苦痛だけどやらなくてはいけないものとして無理に身につける感じがありますね。
中には場面緘黙の子もいますし。そうなると知らない人と言葉を交わすこと自体が大きな課題ですから。
本当に、性質や性格で、挨拶が必要かどうかは大きく変わってくると思います。
本来は挨拶の有無で人を判断するのが間違っているんだと思いますが、ひと昔前の子育ては、そういう多様性は全く考えず、一律のルールに縛り付けてしまうものでしたから、その弊害はとても大きいと、実感として感じています。


>キキさん

あはは。キキさんは、私がここに出入りし始めた頃を知りませんものね!
もともと、夫のモラハラに悩んで、でも普通のモラハラじゃないぞ?ということで、夫のアスペ的な面から、いろいろ探ってみようとしたのが始まりでして。
それで『素直なアスペの方』とは、夫はやっぱり違うと感じて、あまり夫について書いていなかったんです。
でも、また最近、やっぱり根底にアスペの感覚があって、その上に生育歴とか複雑な問題が絡んでいるのかなと思い始めました。
だからといって、夫におもねるつもりはありませんけどね!
キキさんが感じられたことは正しいですよ。

パンダさん

> 他人とのかかわり方については現れ方は一見正反対に見えるけど、
 「自分に関心がある」(視点が自分に常に向きやすい)というところでは共通とか。
 そんな話です。

これはすごく分かりやすかったです!
そうですね、よく考えると、私と父と息子、それぞれ同じ自閉圏にいながらも他人への対処の仕方は違います。
私と父は正反対、息子は真ん中、という感じです。
丁寧に教えてくださってありがとうございましたー!

あすなろさん

そうなんですねー、一応過去記事は目を通してたんですが、旦那さんの表記の覚えがあまりなかったのは、そういうことだったんですね。
でも挨拶は良かったですね、私はその点、失敗してしまって、「ああ、小さい時から普通のこととして躾してれば良かった、サボったツケは大きいなぁ」と感じているところです。
いま躾し直ししてるんですが、まだ「挨拶受けたら返す」ところまで行ってなくて、「自分から挨拶する」段階まで遠いなぁ!という気分ですので、その点は結果的には良かったですよね。(と、またKYなこと言ってるかもです、すいません(^^;

あすなろさん

> バランスの悪い人は、定型が意識しないレベルで恐怖を抱いている。例えば、本当に何気ない談笑の場面で、突然周りを凍りつかせるような発言をしてしまったり。『どうして、ここで、こんな行動を取るの?』と言われるようなレベルの行動にまで、何が相手の地雷になるか分からずに恐怖を抱いているといえるでしょう。

 これ、地雷を踏むということについては、ほんとにお互い様なんだなと改めて思いました。アスペは定型の地雷を踏みまくる。でも逆に定型はアスペの地雷を踏みまくる。この場でも私は自覚できないまま、一部のアスペの方の地雷を踏みまくっているのでしょう。

 お互いに相手の地雷は見えないわけですよね。下手をするとそれが地雷だと指さされても、「見えない」ということが起こる。

> 自閉症の中にはうちの子たちのようなタイプと、受動型のタイプの子がいて

 これはなんでその違いが生まれるんでしょうね?まあ定型でもどんどん積極的に外側に向かう子と、慎重だったり引っ込み思案だったりする子がいるし、うちの猫も一匹はどんどんいくけど、もう一匹はものすごく慎重。これは持って生まれた性格の差がベースなのかな。もちろん経験も左右するでしょうけれど、ベースとしては。

キキさん

> これはすごく分かりやすかったです!

 おお、よかった!
 私の国語力も少しアップしたようです。
 今後とも精進してまいりますので、よろしくご指導のほどお願い申し上げます m(. .)m

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