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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年8月17日 (木)

八つ当たりについて

 定型アスペ間でなくても同じようなことは起こりがちだと思いますが、あるタイプの定型アスペ間では特に起こりやすいことのひとつが「八つ当たり」ということで、そこがとてもむつかしいのだと改めて思いました。

 八つ当たりという言葉は、職場で上司に怒られていらだった思いを、関係ない子どもにぶつけて怒るようなときに使われます。どうしてそんなことをするかと言えば、もしかするとその子どものちょっとしたしぐさが上司を連想させるからかもしれません。

 そうすると八つ当たりをする人から見れば、上司も子どもも同じに見えてしまうのでしょう。

 そうすると、人としては明らかに別の人で、自分が怒られて嫌な思いをした原因は子どもではないので、子どもからすればとんだとばっちりになります。なんで自分がやられなければならないのかが全然わからない。わかるのは、自分の親が「機嫌が悪い」ということだけです。

 あすなろさんが夫さんについて何度か書かれ続けてきて、こちらで説明してくださったことの意味が私にもようやくわかり始めた感じがします。

 八つ当たりをされた人からすれば、自分には何の非もないわけですから、そういう不当な扱いを受けたことに対して傷つき、反発します。そうすると、八つ当たりをする人からすれば、自分の憤りが理解されないと感じてさらに怒りが増す。

 つまり、そこで問題になっているのは、自分の怒りの原因をどこに見て、誰にぶつけて、どうやって解決するのか、という理解の仕方にかなり悲劇的なズレがあるということです。

 八つ当たりをされる人から見れば「関係ない人の事で攻撃された」と感じますが、八つ当たりをしている人からすれば「関係ある人」とか、場合によっては「同じ人」にさえ感じられているわけです。だから話がかみ合わなくなる。

 いくつかのことを思いつきます。昔の刑罰で、だれかが罪を犯すと「一族郎党」がみんな処罰の対象になるようなことがありました。今はそういうことは許されないと考えられています。それこそ罪のない「関係のない人たち」が罰せられるわけです。八つ当たりと同じです。

 でも当時の人たちにしてみると、たぶん「関係のある人たち」なのですね。だから罰せられても仕方がないとも思える。ある人々を「関係ある人」とみて一色単に考えるか、ひとりひとりは「関係ない」別の人と見て個別に考えるかの、見方の違いがそこにあるわけです。

 いじめも同じです。いじめられたから別の人をいじめる。そういうパターンもあります。その意味ではいじめもまた八つ当たりの連鎖と言う見方もできるでしょう。

 そう考えてみれば、八つ当たりはこの世の中の、あちこちに普通にあることです。定型社会にも普通にある。

 そこで悲劇的なことは八つ当たりはそれをされている人から見れば八つ当たりで「関係ないことで攻撃される」と思えるのですが、する人からすればそういう区別がなくて「当然のこと」と思われているという点です。このずれは簡単には解決しません。

 そこには二つの悲劇が生まれています。八つ当たりをされる人から見れば、不当に攻撃されるという悲劇。そして八つ当たりをする人から見れば、自分の正当な怒りが理解されないばかりか、「八つ当たりだ」といって逆に非難される悲劇。

 八つ当たりをする側からすれば、それを八つ当たりだと言われることで、自分の苦しみは永遠に理解されない、というふうに感じられるのでしょう。そして理解されないことの理由は全く見えない。その人にとっては八つ当たりではないからです。だから自分の怒りや苦しみを理解されないことへの怒りが増幅し、攻撃の気持ちが激しくなる。

 そう考えれば、八つ当たりをする人の気持ちはわかる気がします。それがいいことか悪いとかは別として、そうなってしまうことはわかる気がするし、そういう状態で生まれるその人の憤りもわかる感じがします。あくまでもその人の立場に立てば、ということですが。

 アスペの方の中に、その「区別」が特に苦手な方がいらっしゃる、ということがあるのだと思います。だから定型から見れば区別して対応すべきところが全部同じ対応になってしまい、定型から見れば「不当な攻撃」(八つ当たり)とみなされて否定されることになる。

 それはアスペの方すべてに言えることではないと思いますが、あるタイプのアスペの方に起こりやすいことなのだろうと思います。あすなろさんの夫さんの八つ当たりは全てのアスペの方が同じようにするのでは全くないけれど、でもやっぱりそこにはアスペ的な部分も関係している。なにかの条件でアスペの方が陥りやすい状態だ、という言い方はできそうに思います。その条件のありかたがアスペ的と言うか。

 そうすると、ガイドラインに八つ当たりはだめです、ということを書いてあるわけですが、実は何が八つ当たりになるか、と言うことの理解そのものが共有されない場合がある。そうするとその基準は一方の人にとっては意味のないものになりますよね。

 そういう現実があるとき、そこをどう調整することができるのか。むつかしい問題です。

  

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コメント

>八つ当たりをされる人から見れば、不当に攻撃されるという悲劇。そして八つ当たりをする人から見れば、自分の正当な怒りが理解されないばかりか、「八つ当たりだ」といって逆に非難される悲劇

そうです。うちの夫婦喧嘩は、こういう事ばかりです。
私が、『そんなことでそこまで怒ることないでしょ!』と怒れば、『俺は何も怒っていなかったのに、お前から怒り出したから、怒ったんだ!』と言われて、どちらが最初に怒り出したかで、全く噛み合いません。
夫にとっては、当然の指摘をしたまでで、怒って言ったわけではないというのです。
それを怒ったと言われたら心外だ。怒ったのはそっちじゃないか!と。

八つ当たりではなく、例えば、部屋が散らかっていて躓いたから、片付けろと、当然の指摘をしたわけで、そこに怒りは込められていなかった。それを勝手に怒ったというから、こっちも怒り出したんだということのようです。

もしかしたら、「躓いて転びそうになったから、部屋を片付けておいてくれる?」という言い方だったら、事を荒げることなく済んだかもしれません。
けれど、夫は感情の高まりとともに、うまい言葉遣いも見つからず、「どうしてこんなに散らかってるんだ!さっさと片付けろ!」という言葉しか出てこなかった。それは、当然の指摘ではなくて、周囲には、『会社で嫌なことがあったから、どうでも良いことでも腹を立てている!』としか思えないわけです。

息子の、『ああいう人だから仕方ない』という諦めは、『どうやってもそういう表現方法しか知らないのだし、今更変わらないのだから、言っても仕方ない』ということで、でも、その言い方や指摘の仕方は、かなり腹立たしくは思っている。だから、それに対して湧き上がった怒りは、自分なりに解消する。
それが、別の場所に行ってイライラを発散したり、夫に通じなくてもネチネチと嫌味を言ってみるということみたいです。

ちょうどまた、息子から興味深いことを聞きました。息子が幼い頃、夫から厳しく注意を受けたことがありました。
夫からそのことを聞いて、それは命に関わるような危険行為だったので、私も息子に厳しく注意しました。
思い出話で、「あなたはやんちゃで、よく今まで無事に生きていられたなというような危険なことがいくつもあった」と話していて、その出来事にも触れました。
すると、息子が「あれは完全に、父親の誤解だから!」と言い出したのです。
夫が危険だと取ったのは、息子にも分かっていて自分でも注意していたことを、夫が勝手に危険行為をしようとしていると決めつけて見てしまったのだと。

息子は「まあ、あの人のことだから、一度思い込んだら何を言っても無理!それなのに、あんた(私のこと)まで、あの人の言うこと信じちゃって一緒に叱って。あんたはあの場面見てないだろ?」と。

息子は幼い頃から、冷静に夫の性格傾向を分析していたんですね。
自分にも、視野の狭さや、一度思い込んだらなかなか他の視点が持ちにくいという傾向はあるけど、父親は特にそれが強い人なんだなぁという見極めが出来ていて、自分にもその傾向があるからこそ、そこはうまくスルーするのが一番だと、分かっているようなのです。

夫は確かに、子供たちに比べると、極端に視野が狭く、感情の切り替えが苦手な人です。
同じアスペでも、この部分の苦手さの度合いで、ズレ方が大きく変わってくるのを実感します。

子供たちは、そもそも父親とは『ズレていること』を大前提とした上で、その中でも取れそうなコミュニケーションだけを選んで取っていると言う感じがします。

あすなろさん

 お父さんと息子さんの関係もとても考えさせられますね。

 息子さんがそこまで自分を客観的に見てコントロールされているのは、息子さんの個性の部分もあるでしょうし、あすなろさんの働きかけもあるのだと思いますが、もうひとつ、おなじようなタイプのお父さんを見て、それを「反面教師にする」という部分が結構あるんだなと思いました。

 つまり、そういうお互いに鏡になるような点では、アスペ間の関係もいろんな可能性があるんだなと。

>パンダさん

息子が夫や自分の行動を客観視するのは、私の働きかけとは真逆なんですよ。

むしろ、私の方が今、『なぜ、冷静に見られないんだ!』と息子に叱られてる状態で。(^^;;

息子は、私のことも『あんたは昔からそういう性格だろ?自分で気付かないの?』と言われてハッとすることが多いです。

感情を交えず、客観的に人を見る、というのは、娘もそういう傾向があるので、アスペ的かもしれません。

では、夫はどうか?

ここは、定型の親によって『気遣いするのが当然。気遣いされるのが当然』と厳しく躾けられたために(しかも夫の両親は、かなり偏った価値観や選民思想を持っていて、私も理解不能だった)冷静に分析する余裕なく、『対人とはこうするべきものだ!こうしておけば間違いない!』と思い込むようになってしまったのかな?と感じます。

ガーディナーです。
記事を読みながら、私の心に微風が吹き、
かすかな揺れを感じました。
普段は改めて感じることもないのに、
何か琴線に触れることがあるたびに、
フッと目を覚ます、いつもの切なさです。
大人になってからの私は、
このような人間の負の感情についての文章を読むと、
ほんの瞬間キュッと胸を締め付けられ、
それに続く軌道修正でその切なさを振り払い
平常心に持っていく、ということを繰り返しています。
多分長年の習性となっていることなので、
普段は意識していませんが。

身に覚えのないことで他人から不当に攻められれば、
私もその理由を聞き質したくなります。
そしてそれに納得がいかなければ憤りも感じます。
また、私の全く気が付いていないところで、何か
とてつもなく大きな過ちを犯してしまったのではないか、
という不安に駆られる時もあります。
というわけで、私も八つ当たりをされれば、
多少は不快な思いをします。
でも、私はそんな時でも、一般に言われるほどは
怒りを感じたり傷ついたりはしないと思います
(状況にもよります。そもそも<怒り>や<傷>などの
度合いを他人と比べることはできませんが)。
相手とのいざこざの中で、
これは向こうが八つ当たりをしているんだ、
と気づいた時から、私の心は軽くなるのです。
八つ当たりをするのはその人の問題だし、
私に非があるわけではない、と感じられるからです。
できれば八つ当たりをしてくる人の誤解を解き、
その怒りは本来誰に向けられるべきものだったのかを、
相手にも考えて欲しい、と願わないわけでもありませんが、
でもそれは私にとってはオプションです。
とにかく相手が八つ当たりをしているんだ、
と私が確信したところで、私の心は一件落着となります。

これには私の中に二つの理由があるように思われます。

ひとつは、私には、何か自分の気付かないところで
人を傷つけているのではないかという不安が
慢性的にあるのだと思います。
だから、そうではないと分かったところで、
もう問題の大方は解決してしまうのです。

それからもう一つの理由は、
私の幼少時体験が大きくかかわっています。
私は子供の頃、家族に対してよく怒っていました。
幼稚園年中から小学3年生ぐらいまでのことです。
一旦怒り出すと平常心ではいられなく、パニックになり、
手の付けられない状態になっていました。
常に私には子どもなりの主張があり、
それをただ伝えたかっただけなのに、
「ガーディナーはどうしていつも急に怒り出すの?」と
咎められるところから私のパニックは始まっていました。
一旦怒り出してしまうと、
もうコントロールが効かない私でしたから、
聴く方にとっては筋の通らないことを
喚いていたかもしれません。

興奮のあまり過呼吸が続き、しまいには酸欠で
手がしびれても、まだ怒りに体を震わせている私がいて、
その向こうには私を困惑した顔で眺める両親や姉が並び、
両者の間には深い溝が彫られているようでした。

怒りに震えながら、幼い私は
「隣人」のいない自らの立場に絶望していました。
できれば私もこちら側にいるのではなく、
溝の向こう側で誰かと一緒に困惑している私でいたい。
できれば私も「あの子、八つ当たりしているのね」と
隣にいる誰かとささやき合う立場にありたい。
独りぼっちで溝のこちら側で体を震わせている自分が
みじめで仕方がありませんでした。

その一方で、私のことを勝手に「八つ当たりしている」と
決めつけてくる周囲の人達には決して降伏したくないという、
私の守るべき最後の砦(とりで)の様な自尊心もあり、
最終的には怒り疲れて眠っていきました。
寝顔に残った涙の跡をタオルでそっと拭い、
布団を掛け直してくれる母の温もりを微かに感じながら、
私は敗北の眠りにつくのでした。
本質的な主張は何ひとつ伝えられないまま、
私は「困った子」として、
それでも家族の保護なくしては生きていけませんでした。

そんなみじめな感情が体に染みついている私ですから、
八つ当たりを向けてくる相手の心情は十分わかります。
それに至る怒りの道筋は理解できないにしても、
その時の悔しさだとか、孤独感だとかは
よくよく伝わってきます。
もちろんだからと言って、そんな彼らと心通わせられるか
と問われれば、それはとても難しいことなのですが。
だから冒頭にも書いたように、これは相手の問題なんだ、
ということで、私は一旦自分を解放するのです。

とは言え、
「もしかしたら、私は相手の主張と向かい合うことから
逃げているだけかもしれない。
八つ当たりをされたというのは私の思い込みではないか」
と、一度は自分を疑ってみる姿勢も大切だと思います。

追記:というように、私の態度はある程度自己完結の方向に向かいます。パンダさんがこのブログの中で追求しようとされていることは、その先のことなのでしょうか?つまり、勘違いにしろ八つ当たりにしろ、とにかく自分に向かって何かを激しく訴えてくる相手とどのように対等に向き合い、理解を深めていくか、という様な・・・?
>なにかの条件でアスペの方が陥りやすい状態だ、
と、おっしゃっているように、「なにかの条件」を調整するための環境とか・・・?

>ガーディナーさん

お久しぶりです^ ^
ガーディナーさんのお話、息子が言いたかったのはこういうことか!と、すごく腑に落ちました!
ガーディナーさんと同じ経緯があって、何やら自分が感情を爆発させることで(本人にはそういうつもりが無いのに)定型の友達を怒らせてしまうと悩んでいた時期があって、『俺はそれで自分を抑えることにしてんだ!』と自慢げに話してましたが、ガーディナーさんのような苦痛を辿って、その解決法を見つけ出したんでしょうね!
息子の言いたいことが手に取るようにわかりました!
ありがとうございます!

ここでこういうご意見を聞かないと、息子が何を言っているのか、さっぱり分かりませんでした。
それでも、細かいところの感覚はさっぱり分かりません。それでも受け入れられるかどうかなんでしょうね!

ガーディナーさん あすなろさん

お邪魔じゃまじゃましますー。

自己完結、そうですね、私もそうです。
(定型の)相手に「何か怒ってる?」「私何かした?」または「何かあったの?」と、聞けない自分なので、勝手に自己完結します。
なので、理由はわからないまま…当然ですね(^^;
でも聞くのも怖いしなー。
歩み寄りとは、やはり聞かなくちゃいけないんですかね。

あすなろさんへ。

ご無沙汰しました。久しぶりに書いたので、文の長短感覚が弱まってしまったようで、やたらと長いコメントになってしまいました。あんな長文誰も読んでくれないだろうな、と後悔していたところなので、そんな風に読んで下さり、コメントまで頂き、嬉しい限りです。
そうですか、やっぱり息子さんと重なる部分があるんですね。みじめだった幼少期の話をすることは、恥ずかしいという思いがあります、カッコ悪かったな、という様な。でもおもてに出すことで理解や共感を得られると、逆にそれを乗り越えた自分を誇らしく思えるようにもなりますね。
私が書いたことで、あすなろさんが何かを得たと感じて下さる。それをコメントとして返して下さることで、今度は私の自尊心が立て直される。そういうプラスの循環を、久し振りのこのブログで感じさせて貰いました。


キキさんへ。

相変わらずお元気そうですね。「それでは今日も戦場へ行ってきます」という様なコメント、どこかで書かれていましたね。とても印象に残りました。毎日頑張ってらっしゃるんだな、と。さて・・・。
自己完結してしまう自分には、そうやって身を護って生きて来た私なりの半生があるので、それはそれでいいのですが・・・。やっぱりもう一歩踏み込んで相手に向き合わないと、大切なことって伝わらないと思うこともありますよ。でも、伝えるだけが人生じゃない、私は私でいいじゃないの、と考えたり、イヤ、でもやっぱり言うべきことは言った方が・・・、と思い直したり、相変わらずウダウダと生きています。またお話しさせてくださいね。

ガーディナーさん

> パンダさんがこのブログの中で追求しようとされていることは、その先のことなのでしょうか?つまり、勘違いにしろ八つ当たりにしろ、とにかく自分に向かって何かを激しく訴えてくる相手とどのように対等に向き合い、理解を深めていくか、という様な・・・?

 八つ当たりなら相手のせいだから、自分には責任がない、というふうに割り切って問題をとりあえず解決する、というのは私も同じです。

 実際このブログのガイドラインもそういう割り切りを入れています。ただそれは私としては「仕方のないこと」という感覚があります。そうしないと身が持たないというか。

 なんで仕方がないと思うかと言うと、ガーディナーさんの子どもの頃の体験を読んで改めて思いましたが、他から見ると八つ当たり以外の何物でもない、ということが、やっぱり本人にとってはつらいことなわけですよね。自分でもどうにもコントロールできないような葛藤を抱え込んでいる。

 表現の仕方は間違っていると思いますし、それが特にほかの人を理不尽に傷つけるような場合はそのままにすることもできません。やはりきちっとした対応も必要になります。たとえば差別的な主張とかもそうです。だいたい差別的な主張をする人は、自分自身がひどく傷ついていることが多いですよね。その自分を支えるために人を巻き込むわけです。巻き込まれる側からすればたまったものではありません。

 でも、それを否定して切り捨てるだけではやっぱり解決しない問題が残り続けるわけですよね。

 ガーディナーさんの子ども時代も、ほかの人に自分の悔しい思い、憤りをうまく伝えるすべがなかったのかなと思うんですね。だから憤りの中身そのものは相手にとっても大事な問題を含んでいるのだけれど、表現がうまくいかずにどんどん泥沼になっていってしまう。一種のパニック状態ですよね。

 もし、そこで子どものガーディナーさんの気持ちを、すっとくみ取れる大人がいて、そこを受け止めてくれたら、そこはずいぶんかわっただろうとも思います。もちろん現実にはそんなことができる人はほんとにまれだと思いますけど、理想的な状態を考えた場合の事です。

 で、人間関係のトラブルって多かれ少なかれそういうところがあるんだろうという気がするんです。これは定型アスペに限らずですが。で、定型アスペ間は独特の通じ合いにくさがあるために、どうしてもそこが深刻になりやすい。

 だから、コミュニケーションの問題を考えるというのは、言ってみればそういうトラブルを少しでも軽減する方法を考えていくことと言ってもいいくらいのところがあるような気がしています。

 そうすると、今ある状態を少しずつ改善していくためには、それまで「八つ当たり」で切り捨てていた部分を、少しずつ見つめなおして、「八つ当たりしている人がうまく表現できていない中身」の理解の仕方や「八つ当たりしている人がうまく表現できるような方法」を模索することで、「八つ当たりの必要がなくなる状態」を多くしていくしかないように思います。

 ただ、自分自身を守りながらでないとコミュニケーションの改善どころではなく、それもまた別の意味で崩壊してしまいますから(コミュニケーションすべき自分の方が崩れてしまうというわけで)、そのバランスのとり方がすごくむつかしいですけれども。

 だから、できる範囲で少しずつ自己完結をゆるめて通じ合える部分を増やし、八つ当たりをしなくてもいい状況を広げていくことなのかなと思います。一挙に解決する方法なんかありませんしね。

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