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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年8月 2日 (水)

アスペ的倫理観?

 ことばが人に対して持つ意味の感覚が違うと、「何が正しい生き方なのか」の考え方が変わってきてしまう。一昨日はそんなことを考えてみたのですが、そこでさらに腑に落ちることがありました。

 以前、「自分がとてもいいと感じ、自分にとって大事な人にそれを教えてあげたい」ということがあったときに、定型とアスペでは伝え方がかなり違う場合がある、ということを、不思議なこととして書いたことがあります。

 全てのアスペの方がそうかどうかはわかりませんが、少なくとも私の経験では、複数のアスペの方が「自分の感想は言わずに、ただ見せてあげる」ということをするわけです。定型ならそれを見せて「ね?すごくいいでしょう?」などと共感を求めることがよくあるのですが、それをしない。

 私はそれがとても不思議で、なんでなのかと思ったのですが、アスペの方の説明では「相手がどう感じるかは相手の問題だから、自分がそこで評価を押し付けるようなことはしてはいけない」ということのようでした。

 まあそういう考え方もあるのかなと頭では思う一方、なんだか変な考え方だという気持ちは抜けませんでした。「これいいよね!」と自分の気持ちを表し、相手の意見を聞くのは、相手と共有する世界を広げ、相手との関係を深める大事な意味があるし、そして定型的なやりとりではとても普通のことだからです。

 もちろん「人に押し付けるのはよくない」ということ自体はそうだと思うし、相手があきらかに嫌いだと推定できる場合はそんなことは言わないし、関係が薄いときにもあまり断定的には言わないのが基本だと思います。そういうときにあえて押しつけ的に言うのは、相手との関係を悪くしたいときでしょう。

 でも自分の気持ちを素直に表現できる関係では積極的に言うわけです。そこで自分の好みを伝えたり、相手の好みを知ったり、お互いの好みをすり合わせることもできる。お互いの関係をさらに深め、絆を築いていくうえで大事なことなのですね。だから「ただ見せるだけで何も言わない」というのは、感覚的によくわからないことになる。


 それが今回、さらに一歩踏み込んで、「ああそういうことか」という感じで受け止められ始めたのですね。なるほどよくわかる、という感じで。

 ことばが基本的に自分の思いを確かめる、自分の世界を作る手段だというイメージがあって、人との世界を作る手段だというイメージは薄い場合、自分の世界を大事にする気持ちを相手とも共有しようとすれば、相手の世界を大事にしなければならないことになります。だから自分の評価を押し付けることは、「してはならない」ことになる。それは相手を大事にしていないことになるからです。

 だから、相手のことを大事だと思うほど、むしろ相手に自分の評価を伝えない、という態度が生まれる。もちろん結果として評価が共有されることはうれしいことでしょうが、そこは自分がどうこう左右するべき問題ではない。

 
 まあ、同じアスペの方でも、かなり自分の考えを一方的に人に押し付けるタイプの方もありそうなので、そこは性格の違いも絡んでくるとは思いますが、少なくとも言葉のイメージが「自分の世界」中心で、しかも自分をあまり強く押し出さず「相手を気遣う」タイプのアスペの方はそういう傾向が強く出るのだろうと想像できます。押しつけタイプの人とアスペ的に共通するのは、「相手との積極的な調整をあまりしない」という部分です。調整せずに自己主張をする人は強烈な押しつけになるし、押しつけを嫌って自己主張を控える人は「相手が感じるに任せる」ことを大事なこととする。


 自分のことばが他人や自分にとって持つ意味の感覚が違うことで、「どういう人間関係が大切なのか」のイメージが変わってきてしまう。つまり、人と人の間の「倫理」、道徳観に違いが出てきてしまうことになります。だから「気遣い」の方向が逆になる。

 病気をしたときにどう相手を気遣うか、どう気遣ってほしいかが定型とアスペの間で正反対になる、ということもこれで説明ができます。


 あと、その先に、「じゃあなんで言葉のイメージがそれだけ違ってくるのか」という問題が出てきますし、そこがさらに根っこの部分になってきますが、とりあえずことばで作る世界についてはそういうことがかなり言えそうに思いました。

 

 
 

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コメント

はじめまして。
アスペ側の人間ですが、ブログ拝見して参考にさせていただきました。
お礼というわけではありませんが「アスペ的倫理観?」の記事についてのアスペ側の考えです。
自己の経験からくることなので、皆様が接していらっしゃるアスペの方とは異なる場合がありますのでその点ご留意いただき、何かの足しになればと思います。

記事の「自分の感想を言わず、ただ見せてあげる」という行為は認知の問題ではないかと思われます。
視覚が優位で聴覚がそれにともなっていない場合、先天的もしくは後天的に定型の人へものを伝えるのが困難になります。
※平均値を基準に考えた場合の視覚優位、聴覚不利です、あくまで相対的なものです。また逆のタイプのアスペもいます。

視覚情報は聴覚情報に比べ非常に情報が多くなります(写真と手紙を想像してください)。そのことから視覚優位で聴覚とバランスが取れていない人がコミュニケーションを取る場合、以下2点で定型の方を戸惑わせるのではないでしょうか。

1.非常にことばが少ない
同じ視覚を共有していればそれで伝わるという認知が働いていてそれ以上のことばが不要と考えています。(アスペ同士であれば信じられないかもしれませんが、本当に伝わる時があります)
あるいは情感などを伝えることは諦めて事実だけを伝えています。

2.非常に言葉が多い
視覚情報が持ついろいろな側面を言葉にしようとする(いろいろな側面からの情報がないと視覚情報を構成できない)ため、定型な方にとっては不要な情報がたくさん含まれています。

※補足として文字なども視覚化してから、もしくは自分の体験に置き換えて認識します。

自閉症としてのアスペの場合は
a.伝わらないにも関わらずしつこくコミュニケーションを取ろうとする→積極奇異型
b.諦める→受動型・孤立型
になると思われます。


また視覚優位な方の場合は「ことばが基本的に自分の思いを確かめる」という解釈もあるかと思いますが、どちらかと言うと「ことばがそこまでの意味を持つと思わない」という解釈のほうがしっくりきます。
なぜなら、視覚優位な場合、ことばで伝えられるのは認知のごく一部の側面だからです。
そのごく一部の認知の情報を持って共感や意味を見出すことに価値を感じることがありません。
(余談ですが定型の方はここの「価値を感じることがない」を、「感じることができない」と表現しますが、これについて意識的かどうかわかりませんが、アスペのこだわりを持つ方から見ると蔑視している表現に見られがちですのでアスペと(仕方なくでも)付き合わないといけない方は気をつけたほうがいいかもしれません。)

ことば自体に価値を感じていないわけではありません。例えるならことばは標識に近いかもしれません。標識は事実だけあれば良いもので、そこに裏の意味などがあっても混乱させるだけで困るものです。
定型の方が言葉に対して持つ共感性と同様ことばの持つ事実を大切にすると言えるかもしれません。
そのため、「ことばの意味を読めないこと」に定型の方がアスペに対し不信感を持つように、アスペも定型の方に対し、「皮肉などことばの事実を変えること」に不信感を持ちます。

最後にこれはアスペの話か私の話かわかりませんが、ことばというごく一部の認知を持って共感を伝えるやり方は不誠実で実行速度の遅いコミュニケーション手段であると感じてしまいます(失礼な言い方かと思いますが感じるだけなためご容赦ください)。そのため親しい人とは体験(視覚情報の共有)そのものを通じて共感を得たいと考えてしまいます。
共感できる・できないについてはアスペでも個人差がありますが、これは定型の方も同じだと思われます。ただその共感の方法が異なっているだけで、定型の方が多数派であるゆえに方法に多様性があることを知らず、アスペはアスペでそれを伝えることができないといったジレンマがある気がします。

長い文になってしまいすいません。
定型の方っぽい文になっているのではないかと期待しコメントかかせて頂きました。

金曜日さん

 どうもありがとうございました。定型っぽく書いてくださっていたこともあるのかもしれませんが、大変刺激的な説明でした。

 「あまりの美しさ(驚き、怒り、喜び……)にことばを失う」という表現や、「言葉にすれば嘘になる」といった言い方がありますが、そこから考えるととても分かりやすかったです。

 あるいは、芸術家が自分の作品をことばで説明することに価値を感じない(ことが多い)ように、本当の共感が成り立つのは、無言でその対象(景色、作品、ものなど)を見る・聞く・味わう体験を共有するときだと、そういう考え方もできますね。

 そう考えると、無言の意味がものすごく膨らんで感じられるようになります。それは相手の感じ方への尊重である以前に、まずはその感動の対象への尊重とも言えるかもしれません。

 この「無言の世界の静かな共有」ということの価値の感覚、定型アスペ間の共感関係の模索を考えるときに、かなり重要なポイントの一つになるような気がしてきました。

 引き続きまた教えていただけることがあればよろしくお願いします。

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