2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« コメント公開作業について | トップページ | つながり方のスイッチ »

2017年8月26日 (土)

 加害と被害と八つ当たり

 定型アスペ関係を考えるとき,私は基本的に対等な立場で考える,というスタンスを追及しているのですが,そこに加害者と被害者という感覚が入ると,問題はものすごくむつかしくなりますね。

 これまでも少しずつ書いてきたことなので,重複が多いかもしれませんが,改めてそのことのむつかしさを感じます。

 定型の側からいえば,カサンドラ症候群という名前がつくくらいに大変な「被害」を受けると感じられ,被害者の立場からそれでも自分を譲ってアスペの方を理解しようとする,という形になることが多い。逆にアスペの方からすれば,もう日々定型から理不尽な要求をされ続けて,被害者としてしか自分を感じられなくなる,というところから始まる。

 というか,アスペの方については,順序からいうと,まずは「自分が悪いんだ」と世の中から思い込まされる状況があり,そのうちに「自分がうまく定型社会に適応できないのは自分が悪いのではない」という「発見」があって,そうなると今度は「自分は理不尽な接し方をする定型社会による被害者」だという「真実」が見えてくる,といった形でしょうね。

 そうなると,それぞれが自分が被害者だというモードで基本的には向き合うことになるから,ちょっと話がこじれたときにはその「被害感情」がどちらも噴出することになり,相手を加害者だと激しく攻撃する展開になります。

 その不毛な戦いの状態を乗り越える条件はなんなのかなと考えるのですが,ひとつはやはり少し精神的に余裕が持てる状態が必要でしょう。ぎりぎりまで追い込まれてしまった状態では,もう自分の今の見方以外はなにもできなくなりますし。それはひとつには,今現在の余裕のこともありますし,時間をかけられる余裕,ということもあるし,あとは子どものころからの体験で与えられる余裕もある。

 でも余裕だけの問題ではなさそうです。なんとなく思うことですが,自分の中に被害の感覚だけではなく,加害の感覚(自覚)も同時にあることに重要な意味がありそうに思います。

 ガーディナーさんは子どものころに自分がひたすら苦しい思いを続けてこられたことをベースに,でも定型社会の視点から定型の人の被害感情について考えるという視点を失われなかった。なぜそうなれたのかは私にはわかりませんが(よいパートナーとの出会いとかも大きかったのかもとか),複雑な思いを抱え続けられながらも,一方的な決めつけではなく「前向き」な感じで問題を考えようとされていることが伝わってきます。

 あすなろさんの場合は,夫さんとの関係ではほとんど純然たる被害者にみえるような立場を持たれながら,お子さんとの関係では今度は子どもを理解してあげられない加害者的立場も考えざるを得ない,という状況を抱えられています。だから,シンプルに自分をどちらかだけの立場で考えても,何の問題も解決しないという条件で生きていらっしゃる。

 世の中を大きな目で見れば,世の中は結局多数派が力を持ちやすいですから(絶対ではないですが),この被害と加害の関係は,アスペが被害者に,定型が加害者になりやすい条件を持っています。だから世の中の大きな仕組みを考えるときには,少数派である被害者の立場を,力を持つ加害者の側が尊重する姿勢が大事になる。

 でも,個人対個人の関係になると,そういう理屈は単純には成り立ちません。いろんな理由がありますが,家庭内のアスペ夫と定型妻の関係のように,家庭内では「権力関係」が逆転することもありますから,その場合はアスペ側が簡単に純然たる加害者になりやすい。

 このとき,たぶん大事な問題は,その「純然たる加害者」が「なぜ加害者になってしまうのか」を考えるとき,その背景にある理由として「世の中がその人を被害者の立場に追い込んだから」ということが見えてくるということだと思うわけです。

 ここが八つ当たりの話にもつながりますが,その人はそれまでの経験から世の中から激しく迫害され,排除され,苦しめられてきたという実感がある。だからそういうものへの憤りは骨の髄まで染みついているような感じになる。そこから復讐心も育つ。

 復讐のやり方としては,いろんな形が考えられますが,ひとつは「自分がやられたことをそのまま相手にやり返す」という形でしょう。だから自分が理不尽に迫害されたと思ったら,相手をそういう立場に追いやることも「当然」と思うようになる。

 差別を正当化する議論は,私にはこのパターンの一つと思えます。つまり,世の中が差別を当然のことのように成り立っていて,自分がそれに逆らえない状況にある。だからその差別を受け入れて生きざるを得ない。そうすると差別することは世の中の「正当なルール」と考えられるようになるわけですから,自分も人も差別するようになる。

 自分が世の中から否定的にみられて,それを自分も認めざるを得ない状況に置かれた場合,自分と同じような立場にある人間もみんな否定されることが当然だという理解になる。だから自分に権利が与えられていないと思えることについては,人の権利を制限することも当然だと考えるようになる。それは「悲しい平等」の感覚でしょう。本当は自分自身が受けている不当な扱いを認めたくないんだけど,認めざるを得ないから「それじゃあ,みんな同じようにならなければ自分が納得できない」という「公平さ」の感覚になるのだと思います。結果として人の権利を否定するような発言になる。

 そんなようなことで,個人と個人の問題が,もう個人を超えた問題になり,目の前の相手の人が自分に加害をしているひとかどうか,その迫害は不当なものではないのかとか,別の方法はないのかちいうことは関係なくなり,「この人たちは私を迫害している」とか「この人も私と同じように,迫害されて当然の人だ」という見方で,「八つ当たり」の対応が始まります。しかもそういう八つ当たりをする人は全然そういう自覚がないままにそうするわけです。それどころかそうすることに正義感を感じることさえ出てくる。


 この心の動き方は,私は定型もアスペも同じではないかと感じます。どちらにも同じことがみられる。 その意味でもアスペの方が「社会性がない」とは全然思えません。上の話はアスペ的な視点から「正義」とか「公平」という社会的な問題を追及するから出てくる問題なのですから。もし社会性がないのなら,そういう自分の見方を人に訴えたり,強制しようとしたりする必要もなくなりわけですし。
 
 ということで,定型は定型,アスペはアスペという感じで切り離してみても問題は解決しないことも明らかだと思います。この世の中,お互いに関係なく生きることは不可能です。仮に定型国を作り,そこからすべてのアスペの人を追い出し,アスペ国も作り,そこからすべての定型を追い出すという漫画のようなことをやったとしても,アスペ国の中には定型の子どもが一定の割合で必ず生まれ,逆に定型国にはアスペの子どもが一定の割合で生まれ続けます。そこでまた同じことが繰り返されます。


 だからどちらも社会性を持ち,でもお互いにずれた異なるコミュニケーションの感覚を抱えながら,やっぱりそれを調整して生きる道をさぐるしかない。そしてその時に,加害と被害の立場の問題,そこから生まれる八つ当たりの問題をどう考えるかがとても重要になるのだなと思うわけです。 

 

« コメント公開作業について | トップページ | つながり方のスイッチ »

コメント

先日、ASDの人は、同じASDの人には共感することが出来る。という研究結果が出たというニュースを見ました。
つまり、空気が読めないと言われてしまうのは、あくまで周りが定型ばかりであるとき、認識の仕方が大きくズレてしまうので、共感できないのだ。周りがASDばかりで、定型が一人だったら、定型が逆に空気が読めない人となる。
ということでしょう。

そんな記事を目にした後、アスペの子供達二人と、私で、たわいもない会話から、娘が『ママの言っていることはおかしい!』となり、私が『そんなつもりじゃなく!』と言い訳したら、息子が『もうやめなよ。(お母さんは)根本的に分かってないから、それ以上言わないほうがいいよ』と私を諭しました。
私が『別にそういうつもりじゃ……』と食いさがったら、『分かってないなー』と娘と息子で呆れたように言われて、なんだかモヤモヤした気持ちを抱えながらも、黙るしかありませんでした。

あれ?これは、もしかしたら、多くのASDの人が、定型社会の中で抱える理不尽かな?とふと思いました。
2対1でも、伝わらないことに悔しさを抱えて黙るしか無かったのに、これが10対1、40対1だったら、どうだろう?

理不尽な思いは、自分は被害者であるという思いを抱かせます。
たまたま、身内の何気ない会話だから、それ以上は引きずりませんでしたが、これが他人で、しかも議論の題材が非常に重要なことだとしたら、深刻なトラウマになるんじゃないかなと。
そんな風に感じました。

そんな娘は、ある面接で、自分の短所は何ですか?と聞かれて『周りに合わせられないことです』と答えていました。
合わせたい気持ちはとてもあるのに、誠意を尽くしても合わない。娘の切実な思いなんでしょうね。

こんばんは、ガーディナーです。

私は長い間、加害者だとか被害者だとかいう軸では、
アスペ定型問題を捉えていなかったと思います。
そもそも加害者だとか被害者という様な意識が希薄なのだと思います。
若い頃は父に対して多少は被害者意識を持っていました。
でも、社会的には、被害者加害者というよりも、
自分が力を持っていないコンプレックスと、
力の弱い自分を認めてくれない社会からの疎外感と、
「普通の」人たちへの憧れと、「普通でない」自分への羞恥心・・・、
そんなものが入り混じっていました。

今にして思えば、いっそのこと自分は被害者だ、という意識を持てた方が、
本当に楽だったと思います。
自分がみじめなのは、全部自分の弱さが原因であると考えていたので、
私自身のことについていえば、決して
「何が悪い」だとか「誰のせいだ」などとは考えられなかったのです。

一方で、具体的な理論は持てないままに、
日本社会に対する漠然とした不信感、敵意は持っていました。
だから社会運動をしている人たちには、高校生の頃から強く憧れていました。
高校を卒業してから東京に出た私が、一番初めに出かけた場所は、
台東区山谷のドヤ街(安宿に泊まって日雇労働をしている方や、
路上生活をしている方たちが多く集まる街)でした。
最底辺と言われている彼らと一緒に、社会への怒りをぶつけることで、私は、
自分を被害者だと思えなかった心の鬱屈を晴らそうとしていたのかも知れません。

それからずいぶん経って、子育てをしている時に
「発達障害」という新しい障がいの概念を知り、
自分が今まで他人と上手く繋がれなかった理由が分かりました。
それと同時に、今まで私は知らず知らずのうちに、
どれほどたくさんの人を傷つけてきたんだろうと思と、
恐ろしく、この身が疎ましくも思い始めました。
この時になっても私はまだ、自分が被害者であるという意識は持っていませんでした。
とにかく障がいが分かった以上は、
一般の人たちにこれ以上迷惑を掛けてはいけない、
自分を立て直すのなら今だ、とばかり、自己改革を始めました。
つまり、初めに持ったのは加害者意識だったのです。
そうやって徹底的に自分を見つめ直す作業を続けられたことは、
それができたこと自体幸せでしたし、その環境に感謝もしていました。

私が初めてそんな自分の加害者意識に疑問を持つようになったのには、
二つのきっかけがありました。
ひとつは自分が診断を貰ってから、地元の当事者会に参加するようになったこと。
そしてもう一つがこのブログに出会い、
パンダさんの文章に触れるようになったことです。

特にこのブログで教えられた、
アスペと定型は、どちらが劣っているとか勝っているとかいうものではない。
それぞれの感覚の違い、生き方の違いであるという、
今考えれば当たり前の考え方が、信じられないくらいに新鮮だったのです。
それからしばらくの間、私の心は大きく揺れ続けました。
今まで誇らしいと思っていた自分の生き方が本当の誇りであったのか、
ストイックで自罰的な考え方が、自分の存在を否定しては来なかったか…。
そう考え出すと、遅まきながら私の中にも被害者意識の様なものが芽生えてきました。
でもそれはそれで苦しいものでした。
なぜならば、そういう考え方は、
30代以降必死で生きてきた自分自身を否定することになるからです。
それは全く心に沿わない考え方でした。
結局何が本当の私なのかが分からなくもなってきました。

・・・・・・・・・・・・・

それから2年近くがたち、迷いは今でも私の日常にまとわりついてきます。
例えば定型のAさんが言う、何の悪気もない一言にグサッと引っ掛かり、
ここは反論すべきか、笑って過ごすべきか、心の中で葛藤が起こります。
Aさんは私の仕事を一番近くで支えてくれている、私の大切な人です。
長年の訓練で、どんな言葉でも笑って受け流すことができるようになりました。
でもそうやって、譲ってはいけない真実までもが、笑顔に流されていくのです。
加害者の私と被害者の私が、激しく対立しています。
戦いは常に自分の心の中にあるのです。

自分を常に被害者意識で見ている方たちの心が、決して幸福でないのは分かります。
でも、傷つきながら育った自分のことを、
被害者として憐れむことすらできなかった私が、さして健全だったとも言い難く、
私の迷いに今しばらくは結論が出せそうもありません。

そんな私でも確かに言えることは、
相手が傷つくと分かっていることだけは敢えてしないようにしよう、という、
小学校の道徳の時間に習ったようなお題目だけです。
自分の思いを、怒りでも笑いでもなく、
ただただ素直に相手に届けることができるようになった時が、
私の迷いに終止符が打たれる時なのかも知れません。

上記の私のコメをもう少し突き詰めて、考えてみました。
ガーディナーさんが、被害者という意識がないとおっしゃることにも通じるかと思います。

認識の仕方の違いが、大きな行き違いになり、それは同じ家族だからとか、共同体で育ったからというような経験によるものではない。

ということについて、何故、アスペと、定型だけとは限らない非アスペの間に起きるのだろう?
とずっと不思議で、考え続けています。

経験や生活様式が影響するなら、私の家族はみな、似たような考え方やこだわりの方向を持つはずなのに、実際には、何かにつけて正反対の捉え方をする。
しかし、ここで私が短いエピソードを語っただけで、多くのアスペの方が、子供達の気持ちに共感できる。

例えばよく、異文化で育った者同士では、認識の仕方が異なるように、アスペと定型も異文化で育った者同士だと思った方が良いと言われますが、それも何かしっくり来ないんですね。

それなら、パンダさんご夫婦も、うちの家族も、多少考え方の違いがあっても、長いこと生活を共にしているのだから、似たような方向に向かうのではないかと考えてしまうので。

また、私のような
ADHD傾向が強い人と、ASD傾向が強い人では、同じ発達障害ということで、共感できるのではないかと考えたくなります。

しかし、そこにもまた、大きな隔たりがある。

では、ASDの人と、他の人との大きな違いは何だろう?
そこが不思議でなりませんでした。

これはあくまで私の考えですが……。

よく視覚的な錯覚を試すクイズがありますよね。
真っ黒な地の中に、白い四角形がある図と、グレーの地の中に、白い四角形がある図では、白い四角の大きさが同じでも、背景がグレーの方が、白い四角が大きく見えるとか、くすんだ色に見えるとか。
美術やファッションの視覚効果などにも使われますが。

そういった、本当に原始的な部分で、認識が違っているんじゃないかと。
これは、グレーの地の四角の方が小さく見えたからおかしいというわけではなく、多くの人がそう見えるだけのことで、全く同じ大きさに見える人も、黒い地の方が大きく見える人もいていいわけです。
そして、真実は、同じ大きさなのですが、何故か多くの人がグレーの地の方が大きく見えることから、『分かる分かる!そういう錯覚が起きるよね!面白い!』となるわけですし、視覚効果を使って、細く見えるスタイルなどが流行したりするわけです。

しかし、多数派とは違う認識の人には『何それ?』という話になるし、意識したスタイルをしている人を見ても、別にスマートには見えない。

そこで、『別にいつもと変わらないよ』と言ってしまえば、相手は怒り出すわけです。
それは思ったことをストレートに言ってはいけないという問題ではなく、もっと原始的に、そもそも多数派のようには認識していないという問題がある。
多数派が逆に、効果を感じないとすれば、効果を感じて『違うよ!』と言った少数派の人たちが、多数派から『おかしいんじゃないの?』と言われてしまうわけです。

以前、パンダさんが紹介されていた【ルビンの壺】と同じことですが、それよりももっと、圧倒的な認識の違いと言えるでしょうか。

多数派の認識が、一般常識なのだと受け止めるには、小さい頃から、家族や身内に『そうだよ。その通りだね』と言ってもらえる経験が大きいと思います。
そこからまた、幼稚園や学校の友達、会社の同僚などに広がっていきますが、一般常識として認識するには必ず、どれほどの他人が同意してくれたか?が重要になります。
そして、一旦自分の中で一般常識として認識されてしまうと、それが間違っていると言われた時、混乱してしまうのです。
親は正しいと言ってくれた、学校の友達も正しいと言ってくれた、同僚もみな正しいと言ってくれた、なのに、それを間違っているという人が現れた。
その時、何が起きるかというと、相手の方こそ間違っているという証明をせずにはいられなくなります。
そうしないと、これまで自分が認識してきた世界が崩されてしまいそうな恐怖心を持つからです。

私が家で、アスペの子供二人に対して、『それは違う!』と言い張ったのも、こういう恐怖心からではないかなと。
逆によく、子供と1対1で議論になると、私は『普通はそう思うの!世間ではそう言われてるの!』なんて言い張っている時があります。
すると、子供の方が『世間のほうがおかしいんだ。真実はこうでしょ?』なんて主張する時があって、実際には、どちらが真実かなど分かっていなくて、永遠に噛み合わない。

はっきり言って、どちらも真実ではなく、自分の方こそ正しい認識をしているという『妄想』でしかありません。
もちろん、どちらかが限りなく真実に近かったり、ほとんど妄想であったりすることはあるでしょうが、人間同士で話している限り、それを証明する手立ては無いに等しい。
私たちの認識は、あくまで、周りの反応や状況から、正しいと認識しているに過ぎません。

では、とことん真実を追究しようとし出したらどうなるか?
おそらく人間の社会ではやっていけないでしょう。

例えば、真実は、【戦争など不毛な行為である】と言っても、敵から攻められた時、家族を守らないのか?と言う人が必ず出てくる。
戦争には、悪い面と良い面があり、時には必要な場合がある。と考えているのが、今の世の中のほとんどの人間です。その良い面の認識が大きく違うことで議論になる。
でも真実は、【戦争に理屈はない。不毛な行為である】なのでしょう。その真実を主張したとしても、相手も同じように考えられなければ争いになるわけです。

話が飛びましたが、戦争のような大それた話でなくても、私たちが生きる社会は、ほとんど、自分たちの『妄想』を摺り合わせながら生きていることになります。
もし議論を無くしたいと思えば、共感も手放さなければならない。
真実は【一人として同じ意見、同じ認識の人はいない】のですから、話し合う余地も、共感する余地もないことになります。
それぞれが好き勝手に生きて、干渉しない。それがベストでしょう。
しかし、【一人で生きていけないのが人間である】のもまた真実です。
すると、共感を求める心、協力を求める心は否定できない。
その心が強ければ強いほど、どれほどの共感を得られたか、協力者を得られたか、がとても重要になってきます。

アスペの人は、多数派との認識の違いが大きいため、その経験が、幼い頃から極端に少なく、どうしたら共感を得られるかを真剣に考えざるを得なくなる。そのための工夫を、我が子たちや、ここに来られているアスペの方は、若いうちから必死に模索しなくてはならなかったのではないかと。

逆に、定型や非アスペの人たちは、多数派の認識に沿うことが多いため、真実よりも、同意を得られた事柄の方を重要に考えるようになる。
真実を追究しなくても、多くの同意を得られたものを優先し、同意こそが真実の証明であると考えるので、同意を得られない人を『間違っている!』と認識してしまうのではないかと。

そんな違いなのではないかと思いました。


僕は被害者意識はあまりなかったですね。
定型社会に上手いこと溶け込んでいる自信があります(会話の急な緩急には対応できませんが:例えば唐突な冗談など)
↑でもこれもこちらからの会話の時に唐突な冗談を挟むようにすることで、表面上は同じような振舞いが出来ていると思っています。
昔から変わった子供として扱われることには慣れていましたし、今も友人たちは少し個性的な人との認識にとどまっています。
これは、僕のスペクトラムの程度が定型に近い(アスペ度が薄い)からかもしれません。
妻は大学で介護系の勉強をしていたので、一発で見抜かれましたが。。。
なんにせよ、今までの人生で不当な扱いを受けて憤慨する場面はあまりなく、どうやったら同じように振舞えるのかを考えて生きてきました。
気配りとか、察するとかは、全然できませんが、インプットがあって、それに対応するアウトプットが決まっているようなことに対しては
問題なく行えます。
僕の場合は、被害者と言うよりは、見習い生といった感覚の方が近い気がします。

めがねさん

 アスペルガーの基準を「社会で適応できているかどうか」というところで分けたとすると、めがねさんはアスペではない、という判断をする人もあるのだと思います。ただ私はここでは社会に適応しているかどうかではなく、アスペ的な感じ方や考え方、定型的な感じ方や考え方のズレの問題を考えようとしていますので、いろいろ教えていただけるとうれしいです。 

>これは、僕のスペクトラムの程度が定型に近い(アスペ度が薄い)からかもしれません。

 たぶん、そういうことと、あとはパターンを読むことが得意、ということもあるかもしれません。定型社会で活躍されるアスペの方は総じてそうなのだろうという気がします。

 被害者=加害者の問題は、要するにその人が力の弱い立場に置かれるかどうかがで変わってきますので、たとえアスペの方でもそこをうまくこなす方なら被害者の意識はなくなるでしょう。逆に定型でも被害者になることも当然あるわけです。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/71528296

この記事へのトラックバック一覧です:  加害と被害と八つ当たり:

« コメント公開作業について | トップページ | つながり方のスイッチ »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ