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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年8月10日 (木)

ずれを抱え続けられるか

carryさんとのやりとりなどからふと思ったことです。

 定型とアスペの違いは,どちらも「直す」とか「治す」ようなものではなく,男が男の体を持ち,女が女の体を持って生まれてくるのと同じように,それぞれが生まれながらに持っている特性の違いです。

 定型的な視点からみると,そのアスペの方の特性は定型的な社会を成り立たせるために必要な関係調整の力が「不足している」状態で,その結果周囲と不要な軋轢を生んだり,自分自身も不適応状態に苦しむことになる,と理解されることになりますから,それに対する必要なケアとして,一歩でも多く定型の力を身に着ける努力をしたり,自らの「誤った」特性を治療することが重要なのだ,という理解の仕方になりやすくなります。

 でもそれは完全に定型的な視点を絶対のものとして考えた一面的な見方ということになります。定型が自分の視点を抜けることがむつかしいということと,アスペの方がアスペの視点を抜けて考えることがむつかしいということは,その限りでは対等なことでしょう。お互い様です。

 定型のほうが優れているのだ,という考え方のひとつとして,定型の調整力があるから社会が成り立っていて,その証拠に,アスペ間で関係がうまくいくかといえば,アスペ同士でも対立がひどくなることがよくあり,そもそも調整力の不足するアスペは社会を作れないのだ,という理解の仕方もあると思います。

 けれども,あすなろさんのご家族の中のお話を伺っていたりすると,アスペ同士はアスペ同士の関係の調整の仕方がやはりあって,それが定型的には単なる対立の破たんした関係にしか見えないだけのことだ,という可能性も十分に考えられるはずです。

 実際「相手を理解し,相手を気遣い,そのことで相手との調整を行う」という定型的な生き方は,「おもてなし」が世界的な売りになる日本の社会で特に強烈に要求される能力です。そしてその能力が不足しているとみなされる人は「KY」と言って責められる。

 けれども私の少ない経験からも,日本ほどこのタイプの調整力を芸術的といっていいほどに高め,KY=悪のように考える社会はそうそうありません。もっと自己本位で,がんがん自己主張をしながら他者とバランスをとっている(ように見える)社会のほうが一般的のように感じます。

 そのことを考えても,バランスのとり方,あるいは調整の仕方は,それ自体がいろんなパターンがあると考えたほうがはるかに現実的に思えます。同様にアスペにはアスペ的な調整の仕方がある,という視点でちゃんと考える必要がある。


 ただし,これも繰り返し書いてきましたように,定型の気遣いはアスペの方には気遣いにならないことがしばしばあり,逆にアスペの気遣いも定型には理解されないことがとても多く,つまりはお互いにとって自然な調整の仕方自体がずれてしまい,相手の調整の仕方は
感覚的にはとても受け入れにくい場合が多いわけです。

 で,そのずれは,もともと生まれながらに持ってきた特性に根差すものです。

 つまり,その調整の感覚のずれは,それ自体がなくなることはありえないということになります。

 そういう根深いずれを抱えた者同士が一緒に生きていくということは,その感覚を一致させるというやり方では基本的には無理だということになります。
 仮にそのことを前提として定型アスペ問題の解決の道,ということを考えた場合,お互いの理解や調整の工夫がどんなに進んでも,感覚のずれによる軋轢を「なくす」ことはほとんど非現実的なわけですから,そのずれを「共に生きる」という形を模索するしかなくなります。

 思えば直感的につけた「定型とアスペルガーを共に生きる」という本のタイトルは,そこにつながることだったんですね,きっと。

 定型とアスペが共に生きる,ということは,つまりは常に発生し続けるずれを調整しながら少しでもよく生きていく関係,そのための姿勢をお互いに維持し続ける,ということ以上でも以下でもない,ということなのかもしれません。

 まあ,考えてみればこのことはなにも定型アスペ間に限られたことではなく,すべての人間同士の関係について言えることだという気がします。男女間でも,世代間でも,親子間でも,文化間でもみんな同じ。ただずれがどういうところに生まれやすいかという,そのずれの性質にそれぞれ違いがあるだけなのでしょう。
  

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コメント

まず、キキさんへ、前回のコメントに誤解があったので、補足しておきますが、うちの子供たちが挨拶をよくするのは、全く私が躾けたわけでなく、自然発生的に幼い頃からやっていたということです。もし、私が躾けるとすれば『知らない人には挨拶しなくていいんだよ』ということだったのかもしれませんが、それはどうしても理解できないようでした。これも成長と経験で自然に分かったようです。だから、親の責任は一切取っていません!

そういうことを踏まえて、今回の記事について、書かせていただくと。

>そういう根深いずれを抱えた者同士が一緒に生きていくということは,その感覚を一致させるというやり方では基本的には無理だということになります。

このズレを抱えた者同士が共生する方法を、何と大手企業が本気で考えているということをしりました。
それは、無理にコミュニケーションを取る場を作らない、あるいは自分のペースを乱すような働き方をさせない、ということです。
契約時に、あなたの業務はこれです。と、本人の希望や苦手なことをきちんと聞き取った上で、取り決め、その都度与えられるノルマさえこなせれば良い。極端な話、一週間に数時間しか働かなくてもノルマさえこなせばOKという成果だけを見る。また、仕事をするのは、パソコン上で、どこにいてもOK。
すると、コミュニケーションが苦手でも、身体機能に障害があって移動が難しくても、育児中でも、介護中でも、仕事が出来る。成果さえ上がればちゃんと給料は保証される、ということです。

コミュニケーションは、社会の大切な基盤ですが、その取り方は別に自分のこだわりを捻じ曲げてまで行うことではないし、ましてや仕事上で優先するべきことではない、という考え方だそうで、外資系などでは成果主義が当然なので、徐々にこの働き方にシフトしていくのだろうと。

コミュニケーションを大切に考える人と、コミュニケーションよりも大切なものがある人との違いは、それぞれの個性に過ぎなくて、何が大切かと言えば、そういう個性をありのまま認め合うということなんでしょうね!

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