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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年8月

2017年8月26日 (土)

 加害と被害と八つ当たり

 定型アスペ関係を考えるとき,私は基本的に対等な立場で考える,というスタンスを追及しているのですが,そこに加害者と被害者という感覚が入ると,問題はものすごくむつかしくなりますね。

 これまでも少しずつ書いてきたことなので,重複が多いかもしれませんが,改めてそのことのむつかしさを感じます。

 定型の側からいえば,カサンドラ症候群という名前がつくくらいに大変な「被害」を受けると感じられ,被害者の立場からそれでも自分を譲ってアスペの方を理解しようとする,という形になることが多い。逆にアスペの方からすれば,もう日々定型から理不尽な要求をされ続けて,被害者としてしか自分を感じられなくなる,というところから始まる。

 というか,アスペの方については,順序からいうと,まずは「自分が悪いんだ」と世の中から思い込まされる状況があり,そのうちに「自分がうまく定型社会に適応できないのは自分が悪いのではない」という「発見」があって,そうなると今度は「自分は理不尽な接し方をする定型社会による被害者」だという「真実」が見えてくる,といった形でしょうね。

 そうなると,それぞれが自分が被害者だというモードで基本的には向き合うことになるから,ちょっと話がこじれたときにはその「被害感情」がどちらも噴出することになり,相手を加害者だと激しく攻撃する展開になります。

 その不毛な戦いの状態を乗り越える条件はなんなのかなと考えるのですが,ひとつはやはり少し精神的に余裕が持てる状態が必要でしょう。ぎりぎりまで追い込まれてしまった状態では,もう自分の今の見方以外はなにもできなくなりますし。それはひとつには,今現在の余裕のこともありますし,時間をかけられる余裕,ということもあるし,あとは子どものころからの体験で与えられる余裕もある。

 でも余裕だけの問題ではなさそうです。なんとなく思うことですが,自分の中に被害の感覚だけではなく,加害の感覚(自覚)も同時にあることに重要な意味がありそうに思います。

 ガーディナーさんは子どものころに自分がひたすら苦しい思いを続けてこられたことをベースに,でも定型社会の視点から定型の人の被害感情について考えるという視点を失われなかった。なぜそうなれたのかは私にはわかりませんが(よいパートナーとの出会いとかも大きかったのかもとか),複雑な思いを抱え続けられながらも,一方的な決めつけではなく「前向き」な感じで問題を考えようとされていることが伝わってきます。

 あすなろさんの場合は,夫さんとの関係ではほとんど純然たる被害者にみえるような立場を持たれながら,お子さんとの関係では今度は子どもを理解してあげられない加害者的立場も考えざるを得ない,という状況を抱えられています。だから,シンプルに自分をどちらかだけの立場で考えても,何の問題も解決しないという条件で生きていらっしゃる。

 世の中を大きな目で見れば,世の中は結局多数派が力を持ちやすいですから(絶対ではないですが),この被害と加害の関係は,アスペが被害者に,定型が加害者になりやすい条件を持っています。だから世の中の大きな仕組みを考えるときには,少数派である被害者の立場を,力を持つ加害者の側が尊重する姿勢が大事になる。

 でも,個人対個人の関係になると,そういう理屈は単純には成り立ちません。いろんな理由がありますが,家庭内のアスペ夫と定型妻の関係のように,家庭内では「権力関係」が逆転することもありますから,その場合はアスペ側が簡単に純然たる加害者になりやすい。

 このとき,たぶん大事な問題は,その「純然たる加害者」が「なぜ加害者になってしまうのか」を考えるとき,その背景にある理由として「世の中がその人を被害者の立場に追い込んだから」ということが見えてくるということだと思うわけです。

 ここが八つ当たりの話にもつながりますが,その人はそれまでの経験から世の中から激しく迫害され,排除され,苦しめられてきたという実感がある。だからそういうものへの憤りは骨の髄まで染みついているような感じになる。そこから復讐心も育つ。

 復讐のやり方としては,いろんな形が考えられますが,ひとつは「自分がやられたことをそのまま相手にやり返す」という形でしょう。だから自分が理不尽に迫害されたと思ったら,相手をそういう立場に追いやることも「当然」と思うようになる。

 差別を正当化する議論は,私にはこのパターンの一つと思えます。つまり,世の中が差別を当然のことのように成り立っていて,自分がそれに逆らえない状況にある。だからその差別を受け入れて生きざるを得ない。そうすると差別することは世の中の「正当なルール」と考えられるようになるわけですから,自分も人も差別するようになる。

 自分が世の中から否定的にみられて,それを自分も認めざるを得ない状況に置かれた場合,自分と同じような立場にある人間もみんな否定されることが当然だという理解になる。だから自分に権利が与えられていないと思えることについては,人の権利を制限することも当然だと考えるようになる。それは「悲しい平等」の感覚でしょう。本当は自分自身が受けている不当な扱いを認めたくないんだけど,認めざるを得ないから「それじゃあ,みんな同じようにならなければ自分が納得できない」という「公平さ」の感覚になるのだと思います。結果として人の権利を否定するような発言になる。

 そんなようなことで,個人と個人の問題が,もう個人を超えた問題になり,目の前の相手の人が自分に加害をしているひとかどうか,その迫害は不当なものではないのかとか,別の方法はないのかちいうことは関係なくなり,「この人たちは私を迫害している」とか「この人も私と同じように,迫害されて当然の人だ」という見方で,「八つ当たり」の対応が始まります。しかもそういう八つ当たりをする人は全然そういう自覚がないままにそうするわけです。それどころかそうすることに正義感を感じることさえ出てくる。


 この心の動き方は,私は定型もアスペも同じではないかと感じます。どちらにも同じことがみられる。 その意味でもアスペの方が「社会性がない」とは全然思えません。上の話はアスペ的な視点から「正義」とか「公平」という社会的な問題を追及するから出てくる問題なのですから。もし社会性がないのなら,そういう自分の見方を人に訴えたり,強制しようとしたりする必要もなくなりわけですし。
 
 ということで,定型は定型,アスペはアスペという感じで切り離してみても問題は解決しないことも明らかだと思います。この世の中,お互いに関係なく生きることは不可能です。仮に定型国を作り,そこからすべてのアスペの人を追い出し,アスペ国も作り,そこからすべての定型を追い出すという漫画のようなことをやったとしても,アスペ国の中には定型の子どもが一定の割合で必ず生まれ,逆に定型国にはアスペの子どもが一定の割合で生まれ続けます。そこでまた同じことが繰り返されます。


 だからどちらも社会性を持ち,でもお互いにずれた異なるコミュニケーションの感覚を抱えながら,やっぱりそれを調整して生きる道をさぐるしかない。そしてその時に,加害と被害の立場の問題,そこから生まれる八つ当たりの問題をどう考えるかがとても重要になるのだなと思うわけです。 

 

2017年8月22日 (火)

コメント公開作業について

 これから1週間ほど、コメントの公開作業が毎日できない可能性があります。場合によって一日二日が遅れることがあるかもしれませんので、どうぞご了解ください。

2017年8月19日 (土)

アスペ的一生懸命?

 子どもが帰ってくると、パートナー出勤前の朝の忙しいときに必ずお昼ごはんを作っておいてあげます。で、厳しい顔でお昼ごはんの説明をして出て行ったり。

 その表情とかを見て、最初はいやいや義務感でやっているのかなと思い、そこまで無理しなくてもいいのにと感じていました。

 でも、だんだんと、なんか子どものためにそうしたいんだろうな、というふうに私の方が理解するようになっていきました。なんとなくその一生懸命さの方をより強くかんじるようになったからだと思います。

 それで、ふと思ったんですが、例の表情の問題です。

 定型だとそこで昼ご飯の説明をするときに、笑顔になる場合が多くなります。で、それがないから彼女は「義務感でいやいややっているのかな」と私が感じたんだということに気づいたんですね。

 じゃあなんで笑顔になるのか、と考えてみると、そんなこといちいち意識していませんが、結局「私はあなたのために喜んでこれをしているんですよ。義務感じゃなく。あなたが喜んでくれれば私もうれしいから」という自分の気持ちを相手にアッピールしているんだなと思ったわけです。


 そうやって、定型はひとつひとつ自分の行動の相手に対する意味や意図、そこに込められた感情を無意識のうちに伝えることをやっているんですね。だから、当然のように相手の振る舞いもそういう点を気にしながら見ていて、自分と同じ基準で相手の意図を読もうとする。

 なにしろそうやって絶えずお互いにアッピールしながら、関係を調整しようとしているのが定型的な関係づくりなのですから。(それをいちいち頭で考えないで、直感的にやってしまうわけですから、そこをアスペの方が頭で考えて補うのはほんとに大変だと思います)

 そうするとアスペ的なたんたんとした表情は、定型的には「相手のことを考えない」「いやいややっている」「不機嫌だ」などと、否定的なメッセージを伝えているのだ、と直感的に感じ取られてしまうことが起こりやすいわけです。それが実際は誤解のことが多い。

 そんな風に理解されるアスペの方は悲劇でもありますよね。自分自身は相手のためにと思って一生懸命やっているのに、それを「いやいややっている」と誤解されて、評価されないわけですから。

 

 

2017年8月17日 (木)

八つ当たりについて

 定型アスペ間でなくても同じようなことは起こりがちだと思いますが、あるタイプの定型アスペ間では特に起こりやすいことのひとつが「八つ当たり」ということで、そこがとてもむつかしいのだと改めて思いました。

 八つ当たりという言葉は、職場で上司に怒られていらだった思いを、関係ない子どもにぶつけて怒るようなときに使われます。どうしてそんなことをするかと言えば、もしかするとその子どものちょっとしたしぐさが上司を連想させるからかもしれません。

 そうすると八つ当たりをする人から見れば、上司も子どもも同じに見えてしまうのでしょう。

 そうすると、人としては明らかに別の人で、自分が怒られて嫌な思いをした原因は子どもではないので、子どもからすればとんだとばっちりになります。なんで自分がやられなければならないのかが全然わからない。わかるのは、自分の親が「機嫌が悪い」ということだけです。

 あすなろさんが夫さんについて何度か書かれ続けてきて、こちらで説明してくださったことの意味が私にもようやくわかり始めた感じがします。

 八つ当たりをされた人からすれば、自分には何の非もないわけですから、そういう不当な扱いを受けたことに対して傷つき、反発します。そうすると、八つ当たりをする人からすれば、自分の憤りが理解されないと感じてさらに怒りが増す。

 つまり、そこで問題になっているのは、自分の怒りの原因をどこに見て、誰にぶつけて、どうやって解決するのか、という理解の仕方にかなり悲劇的なズレがあるということです。

 八つ当たりをされる人から見れば「関係ない人の事で攻撃された」と感じますが、八つ当たりをしている人からすれば「関係ある人」とか、場合によっては「同じ人」にさえ感じられているわけです。だから話がかみ合わなくなる。

 いくつかのことを思いつきます。昔の刑罰で、だれかが罪を犯すと「一族郎党」がみんな処罰の対象になるようなことがありました。今はそういうことは許されないと考えられています。それこそ罪のない「関係のない人たち」が罰せられるわけです。八つ当たりと同じです。

 でも当時の人たちにしてみると、たぶん「関係のある人たち」なのですね。だから罰せられても仕方がないとも思える。ある人々を「関係ある人」とみて一色単に考えるか、ひとりひとりは「関係ない」別の人と見て個別に考えるかの、見方の違いがそこにあるわけです。

 いじめも同じです。いじめられたから別の人をいじめる。そういうパターンもあります。その意味ではいじめもまた八つ当たりの連鎖と言う見方もできるでしょう。

 そう考えてみれば、八つ当たりはこの世の中の、あちこちに普通にあることです。定型社会にも普通にある。

 そこで悲劇的なことは八つ当たりはそれをされている人から見れば八つ当たりで「関係ないことで攻撃される」と思えるのですが、する人からすればそういう区別がなくて「当然のこと」と思われているという点です。このずれは簡単には解決しません。

 そこには二つの悲劇が生まれています。八つ当たりをされる人から見れば、不当に攻撃されるという悲劇。そして八つ当たりをする人から見れば、自分の正当な怒りが理解されないばかりか、「八つ当たりだ」といって逆に非難される悲劇。

 八つ当たりをする側からすれば、それを八つ当たりだと言われることで、自分の苦しみは永遠に理解されない、というふうに感じられるのでしょう。そして理解されないことの理由は全く見えない。その人にとっては八つ当たりではないからです。だから自分の怒りや苦しみを理解されないことへの怒りが増幅し、攻撃の気持ちが激しくなる。

 そう考えれば、八つ当たりをする人の気持ちはわかる気がします。それがいいことか悪いとかは別として、そうなってしまうことはわかる気がするし、そういう状態で生まれるその人の憤りもわかる感じがします。あくまでもその人の立場に立てば、ということですが。

 アスペの方の中に、その「区別」が特に苦手な方がいらっしゃる、ということがあるのだと思います。だから定型から見れば区別して対応すべきところが全部同じ対応になってしまい、定型から見れば「不当な攻撃」(八つ当たり)とみなされて否定されることになる。

 それはアスペの方すべてに言えることではないと思いますが、あるタイプのアスペの方に起こりやすいことなのだろうと思います。あすなろさんの夫さんの八つ当たりは全てのアスペの方が同じようにするのでは全くないけれど、でもやっぱりそこにはアスペ的な部分も関係している。なにかの条件でアスペの方が陥りやすい状態だ、という言い方はできそうに思います。その条件のありかたがアスペ的と言うか。

 そうすると、ガイドラインに八つ当たりはだめです、ということを書いてあるわけですが、実は何が八つ当たりになるか、と言うことの理解そのものが共有されない場合がある。そうするとその基準は一方の人にとっては意味のないものになりますよね。

 そういう現実があるとき、そこをどう調整することができるのか。むつかしい問題です。

  

2017年8月15日 (火)

ねぎらいの言葉の意味

 ふと思ったことです。

 定型はたとえば病気でつらそうにしている人に「大丈夫?」と聞いたりすることがよくあります。アスペの方がしばしばいうのは「大丈夫じゃないから寝てるんじゃない」という、しごくまっとうなことです。

 そう考えると、定型は何と無意味な馬鹿なことを言っているんだろう、とも言えますけど、もちろんそれにはそれなりの意味があるはずです。

 

 で、そこで「私は私、あなたはあなた」という話とちょっと絡めて思いついたんですが、この「大丈夫?」というのは、「私は私、あなたはあなた」で自分には具体的には何もできないから、「せめて気持ちだけでも使っておく」みたいな部分があるのかなと思ったわけです。

 アスペ的には「それはあなたのことで私には何もできないから私は関われない」となりやすい。で、定型は「何もできないからせめてリップサービスだけでも」という気分が生まれやすい。

 どちらも「あなたはあなた、私は私だから、私は何もできない」というところから出発して、そのあとがずいぶん違う方向に行くことがわかります。

 そういえば私のパートナーは寅さんみたいな人が大嫌いみたいなんですが、要するに人に迷惑をかけながら、共感的なつながりを大事にして、お互いの違いを強調すると「それを言っちゃおしまいよ」みたいなことを言ったりするあたりが嫌なのかなと想像するのですが、その寅さんの名セリフのひとつにやはり私とあなたは違う、というのがあります。

 「人間みんな別々よ。早い話がよ、俺が飯を食ったらお前がクソをするか?しねえだろう。」

 まあ、寅さんも今でいえば発達障がいと言うことになるのかもしれませんが、あのような定型的な人情、共感を追求するタイプの人のセリフとしても、面白いなと思います。

 

工夫の副次的な効果

 パートナーはいつもと違う状態があると途端に緊張が高まり、「これはなんなの?」と私を問い詰めるように(と聞こえてしまう)言われる傾向があるのを減らしたくて、そうなりにくいような工夫を考えるのですが、今のところわりといいかなと思うのは、彼女が自分でその変化を見る前に、なるべく先立ってこちらから伝えておく、ということです。

 そうすると気持ちの準備をする時間が増える分、いきなりその状態にぶつかって混乱する、ということが少なくなるような気がします。

 最近は100円ショップで小さなホワイトボードを買ってきて、それに私が気づいたことを早めに書いておく、ということを始めました。

 実際に彼女に対してどこまで効果があるかはしばらく見てみないとわかりませんが、ただ私の方で「これはまた彼女が混乱するんじゃないか」とか心配になる気持ちが、こうやって書いてしまうことで軽くなるという、副次的な効果がどうもあるみたいで、これは自分にとっていいと思っています(笑)

2017年8月11日 (金)

不機嫌の理由

 パートナーがかなり不機嫌な感じがしたので、小心者の私としては(笑)、また何か気に障ること、特に家事などの失敗とかしたのだろうかと不安になっていたところ、案の定スケジュールの伝達を間違えていたことを指摘され、「それでか!」と思ったのですね。

 それで、「昨日不機嫌だった」という話を仕向けたらそれには気づいていなかったようでした。それでその伝達の失敗の話をして、「それが原因だったんじゃないの?」と聞いたら、その失敗に気づいたのは今日なので、それはありえない、と説明された後、「不機嫌な時の9割はだいたい仕事のことだから」と慰められ(?)て、ほっとしました。

 でも考えてみると1割はそうじゃないんだ(やばい (笑))。

2017年8月10日 (木)

ずれを抱え続けられるか

carryさんとのやりとりなどからふと思ったことです。

 定型とアスペの違いは,どちらも「直す」とか「治す」ようなものではなく,男が男の体を持ち,女が女の体を持って生まれてくるのと同じように,それぞれが生まれながらに持っている特性の違いです。

 定型的な視点からみると,そのアスペの方の特性は定型的な社会を成り立たせるために必要な関係調整の力が「不足している」状態で,その結果周囲と不要な軋轢を生んだり,自分自身も不適応状態に苦しむことになる,と理解されることになりますから,それに対する必要なケアとして,一歩でも多く定型の力を身に着ける努力をしたり,自らの「誤った」特性を治療することが重要なのだ,という理解の仕方になりやすくなります。

 でもそれは完全に定型的な視点を絶対のものとして考えた一面的な見方ということになります。定型が自分の視点を抜けることがむつかしいということと,アスペの方がアスペの視点を抜けて考えることがむつかしいということは,その限りでは対等なことでしょう。お互い様です。

 定型のほうが優れているのだ,という考え方のひとつとして,定型の調整力があるから社会が成り立っていて,その証拠に,アスペ間で関係がうまくいくかといえば,アスペ同士でも対立がひどくなることがよくあり,そもそも調整力の不足するアスペは社会を作れないのだ,という理解の仕方もあると思います。

 けれども,あすなろさんのご家族の中のお話を伺っていたりすると,アスペ同士はアスペ同士の関係の調整の仕方がやはりあって,それが定型的には単なる対立の破たんした関係にしか見えないだけのことだ,という可能性も十分に考えられるはずです。

 実際「相手を理解し,相手を気遣い,そのことで相手との調整を行う」という定型的な生き方は,「おもてなし」が世界的な売りになる日本の社会で特に強烈に要求される能力です。そしてその能力が不足しているとみなされる人は「KY」と言って責められる。

 けれども私の少ない経験からも,日本ほどこのタイプの調整力を芸術的といっていいほどに高め,KY=悪のように考える社会はそうそうありません。もっと自己本位で,がんがん自己主張をしながら他者とバランスをとっている(ように見える)社会のほうが一般的のように感じます。

 そのことを考えても,バランスのとり方,あるいは調整の仕方は,それ自体がいろんなパターンがあると考えたほうがはるかに現実的に思えます。同様にアスペにはアスペ的な調整の仕方がある,という視点でちゃんと考える必要がある。


 ただし,これも繰り返し書いてきましたように,定型の気遣いはアスペの方には気遣いにならないことがしばしばあり,逆にアスペの気遣いも定型には理解されないことがとても多く,つまりはお互いにとって自然な調整の仕方自体がずれてしまい,相手の調整の仕方は
感覚的にはとても受け入れにくい場合が多いわけです。

 で,そのずれは,もともと生まれながらに持ってきた特性に根差すものです。

 つまり,その調整の感覚のずれは,それ自体がなくなることはありえないということになります。

 そういう根深いずれを抱えた者同士が一緒に生きていくということは,その感覚を一致させるというやり方では基本的には無理だということになります。
 仮にそのことを前提として定型アスペ問題の解決の道,ということを考えた場合,お互いの理解や調整の工夫がどんなに進んでも,感覚のずれによる軋轢を「なくす」ことはほとんど非現実的なわけですから,そのずれを「共に生きる」という形を模索するしかなくなります。

 思えば直感的につけた「定型とアスペルガーを共に生きる」という本のタイトルは,そこにつながることだったんですね,きっと。

 定型とアスペが共に生きる,ということは,つまりは常に発生し続けるずれを調整しながら少しでもよく生きていく関係,そのための姿勢をお互いに維持し続ける,ということ以上でも以下でもない,ということなのかもしれません。

 まあ,考えてみればこのことはなにも定型アスペ間に限られたことではなく,すべての人間同士の関係について言えることだという気がします。男女間でも,世代間でも,親子間でも,文化間でもみんな同じ。ただずれがどういうところに生まれやすいかという,そのずれの性質にそれぞれ違いがあるだけなのでしょう。
  

2017年8月 7日 (月)

単なる我慢を超えられるのか

 ふと思ったことで、これもほんとかどうかはわかりません。

 アスペの方は家族とか、身内になると必要最小限の事しか言わなくなり、朝の挨拶とか、出かけるときや帰ってきたときに挨拶も必要を感じなくなる、という話がありました。

 定型の場合は身内になっても親しさを保ったり深めたりするには、相手のこと(特に気分など)を気にしていることが大事で、挨拶などは、相手のその時の気持ちの状態を知る大事な手掛かりとして使われています(ただしほぼ無意識で自動的に。「あれ?なんか変だ」と言うときだけ意識されます)。

 つまり、お互いに気分を調整しあうということが、親しい関係でも重要で、それが相手に対する気遣いであったり、思いやりであったりする。そのレベルは人によってかなり違って、比較的あっさり系の、淡白な付き合い方の人もあるし、相当相手の中に入り込みあう人もあるし、そこはスペクトラムだと思いますが、ただいずれにしてもそこに大事なアンテナを張っていること自体は基本的に共通している部分と思います。

 ですから、挨拶とか、挨拶でなくてもいいですが、それに類することで、相手の気持ちの変化を知ろうとする姿勢を相手が示しているかどうかは、相手との関係が維持されているのか、崩壊に向かおうとしているのか(したがって修復が必要か)を判断する重要な手掛かりの一つになっています。

 自分のちょっとした変化を相手が気づいてくれるということは(場合によっては自分でもまだ気づかない変化を気づいてくれる)、定型的にはとてもうれしいことになります。それがうれしくなくなる時は、相手との関係が薄くなったり、距離を取ろうとしていたり、あるいは破たんに向かっているときです。

 というわけで、たとえば挨拶をしてくれなくなったという変化は、定型的には「相手が自分と関係を断とうとしている」という方向に理解する可能性が高いことになります。

 で、アスペの方の話を聞く限り、アスペの方にとってはこれは正反対の意味を持っていて、身内になったからこそ、そういうやりとりは不要になると感じられるようです。むしろ外の世界では必死でそのような「気遣い」をしなければならずにへとへとになるので、そういう気遣いを必要としない世界こそが自分にとって心地よい世界になるわけですから、家族はそういう場であってほしい(あるいは当然そうだろう)と思う、というのもわからないではない。

 ということで、ここで「挨拶をしなくなる」ということが定型とアスペで真逆の理解を生んでいくことになるわけですよね。

 アスペの方にとってはそういう「形ばかりの気遣い」(というか気遣いの意味があるとも思われないでしょうが)はなくすほど、自分が生きやすい世界になり、そのような世界を安心して享受できるほど、いい家庭だということになる。その意味で、夫婦関係もいい方向に深まっているという評価になる。

 逆に定型の方は、親しさが増すほど相手の気分の変化などがよくわかるようになり、そこに気遣いあうことがいい関係の深まりを示すという感覚が強くあるので、そういう気遣いが感じられなくなると、関係が終わりに向かっていると感じる。挨拶もその一つになりえます(人や場合によっては挨拶はどうでもよくて、ほかのポイントが同じような意味を持つこともあると思いますが)

 というようなことはこれまで書いてきたことでだいたい見えてきたことのように思うのですが、それを前提にした話です。

 そういう真逆の理解の仕方、感じ方をする定型アスペ関係を調整するにはどうしたらいいのか、ということが大きな問題になります。そうとう基本的なところで感じ方が真逆なので、相手の感じ方に従えば、自分の感じ方が否定されることになり、自分の感じ方を貫こうとすれば相手を否定することになる、という状況がすぐに生まれる。

 そうすると、それでも何らかの理由で関係を維持しようとすれば、相手に対する関心をあきらめて、形だけの家族を維持する、ひたすら我慢する、といった、対処しかなくなるのではないか、という考え方が出てきます。実際そうなっている家族も相当多いのではないかと思います。

 で、私は性格がしつこいので(笑)、第三の道はないかなと思い続けているのですが、たとえば今朝ちょっと思ったんですね。それが今書こうとしていることです。

 彼女が挨拶をますますしなくなっていく状況と言うのは、彼女が自分の感覚を「大事にできている」状態だと考える。彼女が自分でいられる状態を深めていると考える。私との関係を「それができる関係だ」という理解を深めていると考える。

 もし本当にそうだとすれば、の話なのですが(逆にほんとにもうどんどん関係を切られているという可能性もありますから ('◇')ゞ)、それは「彼女が彼女らしく生きられる」ということを望んでいる私としては、うれしいことでもあるわけですね。

 積極的に相手への気遣いを示しあう関係(もちろん程度にもよりますが。あまりしつこすぎると嫌になります(笑))を求めている自分の感覚から言うと、それは同時につらいことでもあるわけですが、以前ならそこは「一方的に我慢する」というだけになってしまうところ、他方で上のようなことだとすれば、「私にとってもうれしいこと」という別の面が表れてきていることになります。

 つまり、単なる我慢の話とは違う可能性が出てきているのかもしれません。

 まあ、たんに自分の都合のいいように考えて、自分を慰めようとしているだけと言う可能性も否定できないのですが ('◇')ゞ

2017年8月 5日 (土)

性格の差の大きさ

 定型には定型の、アスペにはアスペの、それぞれの特性を踏まえた生き方や人生観、世界観が作られていく、ということを考えてきているわけですが、それって、男には男の、女には女の、それぞれの特性を踏まえた生き方や人生観、世界観が作られていく、ということと基本同じなのかなと思います。

 男とは何か、といったって、固定的なものはありません。大雑把に言えば体が女性より大きくて、骨っぽくて、力が強くて、闘争心が強く、持久力はそれほどでもなく、命は短くて、みたいな傾向はあるでしょうけれど、個々のケースでは男女逆転することもいっぱいあります。

 男らしさとは何か、といったって、それこそ時代や社会によって全然違う。光源氏なんて、マッチョな見方からすればぜんぜん「めめしい」と馬鹿にされる男でしょう。

 しばらく世の中のトップは男性と言う時代が続きましたが、最近は女性がトップになることも多く、テレビのニュースとかのキャスターを見ても、女性がメインでちょっと年下の男性がサブになる、と言う組み合わせが目立っています。男女の権力関係も変化しています。

 LGBTとかいう言葉が割と最近急速に広まりましたけれど、性差を固定的に考えない思想が今のはやりですよね。テレビもお姉が大活躍です。「お兄」はどうなんでしたっけ?(笑)

 定型とアスペの関係も、今やスペクトラムと言われるほどですから、常に相対的なものでしかありません。定型の特徴、アスペの特徴と言われるものたちも、個々の人の個々の部分を見れば、そうだったりそうでなかったり。いろんなバリエーションがある。

 当然時代や社会によってもその扱いは全然変わっていくわけです。

 そして男にも女にもいろんな性格の人間がいるように、定型にもアスペにもいろんな性格の人間がいる。当たり前と言えば当たり前なんですが、だんだんとそのことの意味をリアルに感じられるようになってきました。

 定型アスペ問題と言えば、「定型」VS[アスペ」と言う話になりますが、でも現実に自分が向き合っている定型アスペ問題は、そういう大雑把な話では対応しきれません。お互いの個性の部分がそこにすごく効いてくる。だから定型アスペ問題への対処は、ほんとにそれぞれに個性的になるのが当然なわけです。

 ちょうどそれは夫婦関係の問題を「男」VS「女」の問題としてだけ理解するのが不可能であるのと同じですね。そんな大雑把な見方では夫婦間の具体的な問題は解決しません。

 ようやくそのあたりのことが、たんなる頭での抽象的な理解ではなく、もっと具体的な問題として見えてき始めた気がします。そうなったのも、定型アスペの差の問題について、多少自分なりに安定した見方ができ始めたからかなと思います。大雑把な話が見えてきたから、より具体的な問題に目が向き始めたということかも。

 あるいはこんな風に言えるかもしれません。男女差と性格の差ははたしてどちらの方が大きいだろうかと言うと、何とも言えない感じがします。ある面では男女が、ある面では性格の差の方がはるかに大きく感じる。

 ところが定型アスペの差と性格の差は果たしてどちらが大きいかというと、これは定型アスペの差の方が大きいと思えたりするわけですね。なにしろアスペの方自身が自分を「火星人」と言ったりするくらいに、お互いにわけのわからない世界に生きていたりするのですから、定型が持っている性格の差についての理解の物差しが全然役立たなくなって、「アスペ」という大雑把なくくりでしか見られなくなってしまうわけです。

 昔猫にそれほど関心がなかったときは、猫の個性なんか気づかなかった。顔が一匹一匹違うことも見分けがつかなかった。だからまとめて「猫」でしかなかったのが、だんだん慣れてきて、知ってくると一匹一匹の特徴がわかってきて、付き合い方も変わってくるんですね。定型アスペ間でもそういうことが起こるのかもしれません。

 そうやって個性の差が見えてくると、その大きさにも気づき始めるのでしょう。

 

2017年8月 4日 (金)

アスペ的共感

 なんとなくそうかなと感じることで、単なる思い込みの話でしかないのかもしれません。

 パートナーは猫が好きなんですが、私も特別に好きと言うことはないですが、まあ普通に好きというか、居たら居たで面白いしかわいがる、程度の感じです。

 猫は唯我独尊みたいに言われることも多い動物で、犬と違って飼い主を強く求めることはありませんが、でもたまに甘えてくる感じもあります。それで猫のリクエストに応えて私が体をなぜてやっていたりすると、なんとなくですが、それを見た彼女の気持ちも少し和らいでいるのかな、と思えることがあるんですね。

 定型同士だと、もしそうなら「ねこ気持ちよさそうだよね」など、なんか感想を言ったりして、気持ちの共有をしてお互いの絆を確かめたり強めたりすることがよくあるんですが、もちろんそういうことは一切ありません。

 だから定型的には「この人は人と気持ちを共有したくないんだ」と理解してしまうことになります。

 でも、もしかすると、お互いに確認しなくても、お互いの状態が和らいでいるのなら、それがアスペ的な共感のひとつになるのかもしれないと、そんなことを思ったわけです。

 まあたぶんアスペ的にはわざわざ共感などと言う言葉をそこに持ってくる必要も感じられないのかもしれませんが、定型語に翻訳するとそういうことになるのかなと。

2017年8月 3日 (木)

あきらめと尊重

 おいしいお菓子があったので、パートナーにも食べてほしくて渡しておいたのですが、そのあとなくなっていたので食べたのだろうと思います。

 定型的には多くの場合はここで「おいしかったでしょう?」などと言って「一緒に喜びを語り合い、楽しみを共有する」ことが自然で、大事な展開パターンの一つになるのですが、彼女に対してはそれはしないほうがいいのかな、と思うようになってきて、していません。

 かなり前から私はそういう「共感を求める」ようなかかわりを彼女に対してやらなくなってきていたのですが、それはどちらかというと「あきらめ」の感覚でした。どうせ拒否されるんだからとか、言っても意味がないからとか、そんな感じですね。

 そこは今少し変化が起こりつつあるように感じます。あきらめではなく、尊重という感覚が少し生まれつつある気がするからです。

 共感を求めないということは、共感を大事にしたい自分の感覚を抑圧することですし、それ自体大変に苦しいことなので(人生の意味を半分以上否定されたような感覚になります)、「あきらめ」の形でしか対応できなかったのでしょうが、彼女の価値観、世界観が前より少しリアルに見えてくるようになったことで、そこに変化が起こりつつあるのかなと思ったりします。

 もしかするとこの感覚、自閉のお子さんを育てる親御さんの直面する感覚にもつながるのかもしれません。定型的に共感的なかかわりをしようとしても、子どもの方からそれを避けられ続ける。だからあきらめて距離を置いてみるしかなくなる。そしてそのうえで新たに子どもとのつながり方を考え直さなければならなくなる。そんな展開とも共通するものがありそうです。

2017年8月 2日 (水)

アスペ的倫理観?

 ことばが人に対して持つ意味の感覚が違うと、「何が正しい生き方なのか」の考え方が変わってきてしまう。一昨日はそんなことを考えてみたのですが、そこでさらに腑に落ちることがありました。

 以前、「自分がとてもいいと感じ、自分にとって大事な人にそれを教えてあげたい」ということがあったときに、定型とアスペでは伝え方がかなり違う場合がある、ということを、不思議なこととして書いたことがあります。

 全てのアスペの方がそうかどうかはわかりませんが、少なくとも私の経験では、複数のアスペの方が「自分の感想は言わずに、ただ見せてあげる」ということをするわけです。定型ならそれを見せて「ね?すごくいいでしょう?」などと共感を求めることがよくあるのですが、それをしない。

 私はそれがとても不思議で、なんでなのかと思ったのですが、アスペの方の説明では「相手がどう感じるかは相手の問題だから、自分がそこで評価を押し付けるようなことはしてはいけない」ということのようでした。

 まあそういう考え方もあるのかなと頭では思う一方、なんだか変な考え方だという気持ちは抜けませんでした。「これいいよね!」と自分の気持ちを表し、相手の意見を聞くのは、相手と共有する世界を広げ、相手との関係を深める大事な意味があるし、そして定型的なやりとりではとても普通のことだからです。

 もちろん「人に押し付けるのはよくない」ということ自体はそうだと思うし、相手があきらかに嫌いだと推定できる場合はそんなことは言わないし、関係が薄いときにもあまり断定的には言わないのが基本だと思います。そういうときにあえて押しつけ的に言うのは、相手との関係を悪くしたいときでしょう。

 でも自分の気持ちを素直に表現できる関係では積極的に言うわけです。そこで自分の好みを伝えたり、相手の好みを知ったり、お互いの好みをすり合わせることもできる。お互いの関係をさらに深め、絆を築いていくうえで大事なことなのですね。だから「ただ見せるだけで何も言わない」というのは、感覚的によくわからないことになる。


 それが今回、さらに一歩踏み込んで、「ああそういうことか」という感じで受け止められ始めたのですね。なるほどよくわかる、という感じで。

 ことばが基本的に自分の思いを確かめる、自分の世界を作る手段だというイメージがあって、人との世界を作る手段だというイメージは薄い場合、自分の世界を大事にする気持ちを相手とも共有しようとすれば、相手の世界を大事にしなければならないことになります。だから自分の評価を押し付けることは、「してはならない」ことになる。それは相手を大事にしていないことになるからです。

 だから、相手のことを大事だと思うほど、むしろ相手に自分の評価を伝えない、という態度が生まれる。もちろん結果として評価が共有されることはうれしいことでしょうが、そこは自分がどうこう左右するべき問題ではない。

 
 まあ、同じアスペの方でも、かなり自分の考えを一方的に人に押し付けるタイプの方もありそうなので、そこは性格の違いも絡んでくるとは思いますが、少なくとも言葉のイメージが「自分の世界」中心で、しかも自分をあまり強く押し出さず「相手を気遣う」タイプのアスペの方はそういう傾向が強く出るのだろうと想像できます。押しつけタイプの人とアスペ的に共通するのは、「相手との積極的な調整をあまりしない」という部分です。調整せずに自己主張をする人は強烈な押しつけになるし、押しつけを嫌って自己主張を控える人は「相手が感じるに任せる」ことを大事なこととする。


 自分のことばが他人や自分にとって持つ意味の感覚が違うことで、「どういう人間関係が大切なのか」のイメージが変わってきてしまう。つまり、人と人の間の「倫理」、道徳観に違いが出てきてしまうことになります。だから「気遣い」の方向が逆になる。

 病気をしたときにどう相手を気遣うか、どう気遣ってほしいかが定型とアスペの間で正反対になる、ということもこれで説明ができます。


 あと、その先に、「じゃあなんで言葉のイメージがそれだけ違ってくるのか」という問題が出てきますし、そこがさらに根っこの部分になってきますが、とりあえずことばで作る世界についてはそういうことがかなり言えそうに思いました。

 

 
 

2017年8月 1日 (火)

倫理観のズレのつらさ

 またいろいろと腑に落ちる感覚が続いています。

 昨日も少し書きましたが、パートナーは自分の気持ちと異なることを言うことについて、私から見てものすごく抵抗感が強いと感じることが時々ありました。もちろん私も抵抗感はありますが、その時の状況ではまあそうしたほうがいいかな、と思えれば、抵抗感は減ることがあるし、そもそもそんなに大きな問題と感じなくて、気楽な時もありますが、彼女はどうもそうでない。

 それは今思えば彼女の大事な倫理観なのかなと。

 人との調整を重視すれば、自分の感覚にこだわっていられないことがありますし、むしろこだわらないことの方が倫理的に感じられるという場合もあり得ます。

 でも自分の思いに誠実であることを重視し、人に対してもそういう意味で「嘘」をつかないことが相手に対しても誠実なことだ、ということを強調すれば、彼女の倫理観になるでしょう。

 このあたりは誰もどっちかひとつということはたぶんなくて、ただ人によってそのバランスが違うのかもしれません。定型は「関係を保つ=思いやり=倫理」(A)の割合が多く、アスペは「自分に誠実=他者にも誠実=倫理」(B)の割合が多い。

 ここでも炎上が起こるときには、激しい怒りが表現されることがよくありました。それは「なんでこんなあたりまえのこと(正しいこと)が無視されたり否定されたりするのか」という、いわば義憤ともいえる憤りのように感じられます。

 ところがお互いが重視するその「あたりまえ(正しいこと)」のポイントがずれてしまうので、大変なことになるわけです。Aを重視する人はBの点で多少問題があっても、そこはそれほど騒ぎ立てるほどの事ではなく、Aこそが重要だと考えるし、Bを重視する人はその逆になります。

 私自身「なんで自分はあんなにひどいことを人に言っておきながら、そのことについては知らんぷりしたかのように相手のことばかり攻め立てるのか?」と不思議に思うことがよくありました。その理由も上のように考えればわかります。

 違う条件(特性とか環境とか)があると、その人の生き方が変わりますから、その中で育つ倫理観も様々になります。で、人間誰でも自分の倫理観は体に染みついていて当たり前に思っていますが、違う倫理観を「倫理」として感じることはとてもむつかしいことです。

 だから違う倫理観で動く相手は自分からすると「ひどい奴」と見えたりする。そして許しがたく思えたりするわけです。そういうことが定型アスペ間では普通に繰り返されている。ここでの炎上もそのひとつの典型的なものでしょう。

 そんな風に考えてみると、彼女もこの世の中で、ほんとうに大変なんだということが改めて感じられるようになってきます。たんに自分の「やりかた」を否定されるわけじゃなくて、その「倫理観」まで否定され続ける状態になるわけです。

 生きるうえで自分が大事にしたい倫理観を否定され続け、そして周りや世の中はみんなそうやって生きているように見える。たとえ自分が嫌でも、その力は圧倒的ですから、結局自分をごまかして生きていくしかなくなるわけです。そうすると、そういう自分自身のことも嫌になってくる。

 まじめな人であればあるほど、そういうつらさが募るのは当然でしょう。

 改めて彼女の大変さ、生きづらさがわかる気がしてきました。

 

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