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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年7月 8日 (土)

責任と配慮の連鎖

 例えば片耳の聞こえが悪くて、そちら側から話しかけられても気づかず応答できない人に、話しかけた人が「自分を無視している」と怒ったとします。もし片耳の聞こえが悪いことを知らなければ、その人が怒ることも無理はないと言えますが、でも聞こえの事を知った後は、起こるのは理不尽ということになりますし、それ以降は逆に話しかけた人の配慮が足りないということになります。

 もし本人が自分の聞こえが悪いことに気づかないまま、ずっと育ったとして、そうすると周囲から自分がわからない理由で文句を言われ続けたりするかもしれず、そういう周囲に対して不信感や怒りを積み重ねていくかもしれません。その結果、人に対して攻撃的な姿勢を作り上げていくかもしれず、周囲がそのことで不当に傷つくこともあり得ます。

 周囲の人からすれば、自分には何の落ち度もなく、普通に接しているつもりなのに激しく攻撃され続け、傷つくのは実に理不尽なことです。許しがたいと思っても無理はありません。

 他方、本人からすれば、やはりわけもわからず否定され続けてきたのですから、それに対して防衛的、あるいは攻撃的な性格を作り上げたとしても、これもまた無理はありません。

 そういう性格が作られてしまった後で、実は「片耳の聞こえの問題」がそこにあったと本人が知ったとしても、いったん作り上げられた性格や感情の動きは、そんなに簡単に変化するものではありません。だからその防衛的か攻撃的な性格は、誰に対しても発揮されやすい状態が続く。

 一種の性格として定着してしまったそういう防衛的・攻撃的な行動は、相手を選ばず、誰に対しても発揮されやすくなります。だから、そこで攻撃された人は何で自分が攻撃されるのかが全く分からないことになる。本人を不当に攻撃する人に対して反撃することは当然としても、自分にそれを向けることは単なる八つ当たりにしか見えなくなりますし、周囲が見てもそうでしょう。

 そうやってその人はますます周りの人たちから排斥されるようになってきます。そしてその結果として、世の中全てが自分を否定しているという「信念」が固まり、その性格はますます強固になり、そしてその結果また周囲の人を激しく傷つけ、さらに激しく排斥されるようになる、という悪循環が起こります。

 

 そんなたとえ話を考えてみると、本人が防衛的・攻撃的になるのも理解できるし、逆に周囲の人が傷つけられる理不尽さも当然と言えることになるでしょう。どちらも正しいし、どちらも間違っています。

 

 定型アスペ間で、時にそういうことが起こるのだと思います。特に子どものころから周囲に緩やかに自分を受け入れ、あるいは肯定的に見てくれる環境がなかったアスペの方は、そういう防衛的で攻撃的な性格が作られやすいと考えられますが、でもそれはいわば環境のせいですから、本人の努力ではどうしようもない部分があり、それを本人の責任とは言えない。

 ということは、逆に言うと定型の側がそういうアスペの方に激しく傷つけられ、受け入れがたく感じたとしても、そのこと自体を責めることもまたできないことになります。

 その意味では誰にも責任はない。

 でも傷は生まれるのです。どちらにも。その傷については責任はないとは言えない。

 

 こんなたとえを考えてみます。お互いに全く予測できない出会い頭の事故で、二人とも傷ついてしまったとします。どうしたらいいでしょうか。

 傷の深さにもよりますが、傷の浅い人の方は傷の深い人に対して援助することが期待されるでしょう。自分も傷つきながら、でもそうする必要はある。お互いに同じほどの傷であるとすれば、体力が大きい人の方が相手に対するより大きな援助を期待されるでしょう。

 自分が傷ついているのは、半分は相手の責任です。でもこの時に援助を受けている側が援助する側を自分を傷つけたと責めるのはおかしなことです。相手が痛みをこらえて援助してくれていることについては正当に評価すべきです。そのとき、痛みをこらえているのは自分だけだと思うのは自己中心的な全くの傲慢でしかありません。

 問題はその「援助」が的外れで、かえって傷を深くしてしまう場合です。この時は援助される側が「それは的外れ」だということを訴えるしかない。本人が訴えない限り、善意の相手は決して気づかないからです。

 そのことを訴えられた側は、自分の援助の仕方を変える責任が出てくるでしょう。実際には自分の援助のどこが悪いのかを理解すること自体むつかしかったりしますから、簡単ではないにしても、その必要はあります。その必要を無視して、「援助されているのに文句を言うな」と言ってしまえば、それは責任の放棄になりますから、援助をやめるべきです。

 たぶん、問題はそういうお互いの配慮の連鎖の問題なのです。固定的にだれかが責任を一方的に追っていることはない。やりとりのなかで動いていくものです。それを固定して考えてしまうと、問題は永遠に続くでしょう。

  

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コメント

こんにちは。いずれの側にせよ、「自分の認識も相手の認識も間違っているかもしれない」という可能性を忘れずに関りを重ねていけると良いのかもしれませんね。援助や責任にまつわる関係が固定できないことなのも、頷けます。

すみません。記事本文とズレた内容になるかと思うのですが、記事を読んで思ったことを書きますm(_ _)m

私は、どうしてもAS側として視点が偏っているのだろうと思うのですが、丁度先日夫と些細な会話の行き違いをして思ったことがあります。「何故、夫は、常に自分が正しい認識の側、被害を受けた側だと思うのだろう?何故、自分には絶対的に保障されている権利があり、私にそれを不当に傷つけられたという態度を取るのだろう?」ということです。

『「譲歩」のズレ』に書かれているようなことだと思うのですが、私はこの頃、それらの定型発達者の苦痛に対して配慮する必要について考えることがあります。難しいな、と思うのが、「私の苦痛を取り除く為の定型発達者側の配慮」が「定型発達者にとっての苦痛」になるケースが多々あると感じられるところです。

それは、「本来なら必要ない配慮を強いられる」という苦痛であると同時に、「本来ならタブーとなることを許可しなくてはならない」という苦痛なのかなと思っています。パンダさんのおっしゃるところの『本来譲れないことについて、相手のために譲って考えているんだ』というところですね。

なんでしょう・・・こうやって書くと、「それもう既に譲歩のズレで書かれてることやん・・・」と思うのですが、何というか・・・・譲歩という苦痛の積み重ねのストレスではなくて、その一回一回の苦痛の方に注目しているというか。病院通いのストレスではなく、注射など治療そのものの痛みやストレスと言うか?すみません。分かり辛いですね。

防衛的・攻撃的になっている相手と意思の疎通が拗れていく場合に起こる定型発達者の苦痛だけでなく、意思の疎通はある程度できている場合でも起こる定型発達者側の痛みについて考えているというか。

共感を使って相手の意識に働きかけることは、受けてとしてもやり手としても、定型発達者にとっては重要なことなのですよね?そのことを、私は感覚的にはよく分かっていませんが、重要な要素を相手に合わせて無理やり捻じ曲げる苦痛ということはある程度分かるかなと思います。同時に、自分の社会生活はそんな行為の連続なので、苦痛に対してあきらめも鈍感さもあるのかもしれません。それこそ、譲れないものを譲歩することは、私にとっての「普通」なのかもしれません。

でも、その「普通」を、定型発達の人にストレートに付き合わせるのであれば、多分それは私が日頃耐えている「定型発達社会の普通」に問答無用で付き合わされている状態と同じなんですよね。

今ここまで書いていて思ったのですが、ひょっとしたら私には「援助」という感覚が薄いのかもしれません。だから、定型発達の人が「援助」の気持ちで接してくれると、私は今何をされているのかな?あと、何のお礼を求められているのかな?何を期待されているのかな?ということが、よく分からなくなっている気がします。

「助ける」と「援助」のニュアンスは、私の中で別物になっているようです。助けるは分かるけど、援助は分からない・・・・ような。

援助は、お金とか労力とか何かを、相手に意識的に渡すやりとりというか?「助ける」に何かプラスされているニュアンスがあるように思います。『困っている人を助ける』と『困っている人を援助する』の2つには、何か違う意味があるように感じます。

あと、『問題はその「援助」が的外れで、かえって傷を深くしてしまう場合です。』のというケースの援助について、『相手が痛みをこらえて援助してくれていることについては正当に評価すべきです。』を行うというところが、多分一番の肝になるところであり、一番難しいところでもあるのかな、と感じます。

これ、私は一応理論的には相手にお礼を言うべきなのは分かるのでお礼を言うのですが、感謝の気持ちは感じられないですね。援助してくれているという気持ちや姿勢に感謝するってことかな?と思って感謝を心掛けますが、気持ち的には「何だかよく分かんないな」といったところです。

相手の行動の結果は嬉しくないものであったとしても、自分にとって利益となる方向に動いている相手の気持ちや姿勢に感謝を示すことというのは、感情の労力に対する感情の対価の支払いであると同時に、『共感を使って相手の意識に働きかけること』の一種なのかなと思います。とすれば、それはASの人にとっては「見えないし意味も意義も感じられないし扱えない」という、かなり苦手なジャンルの行為ということになるのかもしれないな・・・と感じています。

更に、『限度がある』という要素もあるのかなと思います。私は、「的外れで要らない援助をされて困ってるのに、痛みを堪えてやってくれてることを正当に評価しろって言われても。」というスタンスは、『援助されているのに文句を言うな』というスタンスと似通っていると思うので、しないようにしています。円満に意志や気持ちを通い合わせてやっていこうという方針において、相手のことを考慮する気持ちは大切かなと思うからです。それでも、多分限度はあります。

そして、限度があるという点においては定型発達の人も同じなのではないかと思っています。「あなたの為と思って」でよく人間関係が拗れるように、定型発達者だって、やはり限度を超えれば

『問題はその「援助」が的外れで、かえって傷を深くしてしまう場合です。』

に対して、

『相手が痛みをこらえて援助してくれていることについては正当に評価すべきです。』

ができないこともあるのではないかな、と思うのです。シンプルに、この構造でもめている部分も、案外あるのではないかと思ったりします。


それでも、感謝の意を示すことは必要ではあるし、できるだけ敵対的な姿勢は避けつつ、そうなりそうであれば距離を置くことが必要になりますね。この、「分かり合えず敵対的になりそうであれば距離を置く必要がある」ということが上手く機能しないことでまた拗れてしまうのかなと思います。

基本的には他者と不要に揉めることを嫌い、揉めそうであればぼかしたり話題を変えたり距離を置いたりしようとするであろう定型発達者が、「あなたの為と思って」の的外れな援助によって揉める時というのは、大体、援助側が離れてくれない場合ですよね。おせっかいな人とか、今流行りの(?)毒親とか。

けれど、定型発達とASの両者で揉める時というのは、「ASの人が援助を求めてきたのに、援助者の姿勢を評価せずに『的外れだ』と言うなど攻撃的なふるまいを見せる。」という場合がしばしばあるのではないかな・・・と感じます。

これも、定型発達者に援助の気持ちがあればあるほど揉めるような気がするのですね。スルーしてしまう、もしくは、「あなたはそう感じているのですね」くらいで終わってしまえば問題化しないような気がするのですが、援助の気持ちや分かり合おうとする気持ちがあると、どうしても「あなたはそう言うけれど、こっちとしてはこうなんだよ。」と言わざるを得なくなり、どうにもこうにも水掛け論になってしまうように思います。


「意思・気持ち・認識」を相互に理解し合うことによる調整を働かせようとするという、パンダさんがおっしゃるところの

『相手の人と理解を調整して、一緒に問題を解決しようとする姿勢を作る』行動

を定型発達の人がしようとすればする程に(そして、それを「AS側の求めに応じて行っている」と定型発達者が思っている程に)、どうにもならない泥沼が発生していくように見えています。

連投すみません。結構こんな単純な要素もあるんじゃないかなと思っているという部分に対して、具体的な例を出しておこうと思います。

カップルがいるとしてですね、彼氏が、彼女との結婚を考えていて、そうなると今より経済力も必要だなぁなんて思ってゆくゆくは昇給もしたいしってことで、出張もバンバン受けてちょっと大変な案件も抱えて頑張っているとします。それで、全然彼女との時間も取れなくなっている。

で、彼女としては、それは多分有難いことなんだろうなぁと分かったとしても別に求めていないことだし独りよがりに見えるし、それはそれとして寂しい訳ですね。というか、寧ろそれによって寂しくなっている訳ですね。

そして、彼氏に対して非常に怒り嘆き悲しんでいると。で、その辛さ具合をやれ寂しいだの私はそんなもの求めていないだのと訴える。

それで、彼氏は自分サイドの気持ちや事情を伝えるのです。「ごめんね。かくかくしかじかで君の為に良かれと思ったんだ。」みたいに言う。すると、彼女が「全然分かってない!」みたいに更に自分の嘆きを伝える。

これにプラスして、彼氏への不信感とか歴代の彼氏が浮気性だったとかの要素があると、いわゆる過去に傷を持ち拗れてしまったASの人ということになるかと思うのですが、それって「理屈じゃねぇんだよ」ってとこなのかなー・・・と思います。

けど、彼女は多分、訴える時には理屈を述べますよね。だから彼氏も理屈を返します。「だって歴代の彼氏はこうだった!私は今までこんな仕打ちを受けた!これは事実だ!」的な彼女の捻じれた訴えには、彼氏も

「仮に過去のそれらが事実だったとしても、それは俺ではない過去の話だろう?俺は、そんなことしていないし、そんな気持ちも持っていない。だからこうして誠実に話し合っているんじゃないか。信じてくれ。」

と返すより他ない訳で、でもこれは「全然私の気持ち分かってくれてない!私のこと愛してないの?」ループだと思うんですよ。彼氏には結婚の意思まであるのに、彼女は「もういい、別れる・・・。」とか言いだしたりして。別れるって言ったけど電話かかってきたりして。

こうなると、「事実ありきの認識とそれに基づく感情」の話じゃなくて、「感情に基づく認識ありきの事実」にすらなりかねない訳で、そんな彼女と別れたくない彼氏が打てる唯一の手は、「そうか・・・お前は寂しかったんだな・・・・。」なのかなと思う訳です。場合によっては、「ごめん」すら不要で、こういう時には『そうか、お前はこう認識して、こう思ったんだな。』こそが必要な言葉で、それ以外の言葉は場を収める言葉として力を持たないということは、こうして恋人関係で考えてみれば結構あるあるな事なのではないかと思うのです。

これは、「共感や理解を求めている」ということよりずっと以前の段階(?)の、「私はこう感じたという事実をそのまま認識して欲しい。」という要求のすれ違いなのかな?と考えます。

陣痛が強いと呻く妊婦に、「まだ子宮口も全然開いてないよ」とか「赤ちゃんだって苦しいのよ」とか「モニターでは全然波形出てないわよ」と言われても、それらが全部事実でも、本人が初産で緊張しているから痛みを拡大しているという『痛みを感じている側の個人的な事情』だったとしても、陣痛が死ぬほど痛いという主観的な痛みの訴えは退けることはできないんですよね。

AS定型問題で起こりがちなのは、AS側が痛みを根拠に「波形の方が間違ってる」と言い出すところもあるからだとも思いますが、少なくとも事実によって痛みを覆せないというところは、似たような構造なのかなと考えています。そして、その覆せない痛みを根拠に展開していく認識の羅列は、受け手を混乱させる。だから、受け手としての定型の人が混乱と困惑を持つのも尤もだと思います。

「〇〇君の足が引っかかって転んだ!」と泣いている子に、「それは〇〇君の足じゃないよ」とか、「〇〇君の足だったとしても悪意ではないんだよ。彼は座っていただけなんだよ。」とか言ってもどうにもならない感じと言うか。すみません。長文を3つも投稿した割に着地点の見えない話になっている気がしますが、これらのことが今回の記事を読んで思ったことでした。何とかして、良い関係を結ぶポイントが見えてくるといいなと思います。定型発達の夫と暮らす私には死活問題です(*´v`*)

先ほど投稿したばかりのコメントに、補足したいところがありましたm(_ _)m

「ASの人が援助を求めてきたのに、援助者の姿勢を評価せずに『的外れだ』と言うなど攻撃的なふるまいを見せる。」というころなのですが、この記述の下で、私は


>「意思・気持ち・認識」を相互に理解し合うことによる調整を働かせようとするという、パンダさんがおっしゃるところの

『相手の人と理解を調整して、一緒に問題を解決しようとする姿勢を作る』行動

を定型発達の人がしようとすればする程に(そして、それをAS側の求めに応じてしていると定型発達者が思っている程に)、どうにもならない泥沼が発生していくように見えています。


と書きました。この中の、『それをAS側の求めに応じてしていると定型発達者が思っている程に』という部分が、とてもややこしい部分だなと思っています。

よく、私が夫に対して行うコミュニケーションに起こりがちな行き違いとして、「出された意図が汲めない」というありがちなパターンの他に、「出したつもりのない意図を汲まれてしまう」というものがあるのですが、そういうケースは私以外のASの方にもちょくちょく現れる出来事なのではないかなと思うのです。


パンダさんの書かれた記事の『ルールの違い』の中に、定型の人にとっては「暑いね」ということが窓を開けることを促すことになるし、そういう風に共通認識を持つことによって相手に『自分の望んでいる状況』に向けて意思決定してもらうことを促すことがルールとして重視されている・・・というような内容のことが書かれていたことがあったと思うのですが、私はその『認識を共有したうえで相手に意思決定してもらう』ということが基本的にとても不得手です。

この不得手さというのは、「理屈的には対人関係・社会運営としての必要性は分かるけど、感覚的な必要性が分からないから上手く実行でない」ということでもあるし、「それを行うことが、受け手としても送り手としても上手くできない」ということでもあります。

(先ほどのコメントでは、送り手もしくは仕手として書くべきところを、やり手と書いてしまいましたが、おかしな意味になってしまいますね。失礼しました。)


相手のそれを汲めない、読めない、自分からの働きかけにクッションを挟めないというだけでなく、「私としては入れたつもりのない言外の意図を相手が汲み取る」ということが起こってくるのです。

例えば、夫がコーヒーにミルクを入れるとします。私は、目の前で動いているものがあるのでボンヤリと眺めているのですが、「欲しいのかな?」と思って私のコーヒーにもミルクを入れられてしまいます。夫からすれば、私のサインに対して善意で行ったことです。

暑いので、そろそろ扇風機を出そうかどうしようか?と思って「暑いね。そろそろ扇風機出しておくといいのかな?」と言えば、夫が出してくれます。催促だと思われるからです。私は自分が出すつもりだったので驚いて、ひとまずそのまま素直に「出してくれたの?ありがとう。」と言いますが、人使いが荒いと思われますね。そりゃそうだな、と思います。

こういうことが続くと、流石に私も「ちゃんと認識や意思を確認した方がいいな」と思うのですが、こうなると、今度は私の言う「私がやるよ」というタイプの言葉が建前だと思われたりするんですね。自分がやろうかと思っているテイで提案して、相手にその真意を汲んでもらうタイプのコミュニケーションを持ち掛けていると思われるのです。

近年では夫が「意図なんて汲まずに言葉通りに受け取ればいいんだな?」と諦めて歩み寄ってくれるお陰でこの手のすれ違いは減ってきてはいますが、未だに何かの拍子に、お互いに「あれ?」と思うすれ違いをすることがあります。

これまた長くなってしまったので、分けます。

『発言に込めたつもりもない意図』が定型発達の人によって見出されてしまうことと、そのすれ違いということは、既にパンダさんの記事やコメントにもちらほらと理解されている様子が見受けられる為、わざわざ書くことではなかったかもしれませんねm(_ _;)m

特別に拗れたケースや、強い訴えや悩みが絡んでくるようなことでなくても、扇風機を出すか出さないか程度のことで日々それが頻発している状況が伝われば幸いです(´・ω・`)


「発言に込めたつもりもない意図が、定型発達の人によって見出されてしまう」ことを踏まえて考えると、『私は困難を抱えている』という発言に対する返信としての発言がこじれやすいのは、順当な流れなのかなとも感じています。

『私は困難を抱えている』という発言に対してよくあるパターンとして、

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①「問題を認識すること」から発生する「その問題に取り組む姿勢」によって生まれる、「問題の土台となっている認識に対するアドバイスをすることで助けになりたい」というもの

②「発言の土台となる認識の誤りを感じた」ので「それを訂正しよう」と思い、「あなたのここが間違っていますよという指摘をしたいという気持ち」によって「認識に対する誤りの指摘」として行われるもの

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という2種類の発言のタイプがあるように見えるのですが、両者の性質は重なる部分もありつつ、大きく違うところもあるのではないかと感じます。色々なパターンはあるかと思うのですが、例えば

a.友好的な気持ちから発生する①
b.友好的な気持ちから発生する②
c.友好的な気持ちから発生する①により、具体的な解決の方法への真剣な取り組みとして発生する②
d.間違いを正したいという正義感から発生する②
e.敵意から発生する②

などのものを考えてみると、しばしば、ASの人にとっては、abcの意見もdeの意見のように見えてしまい、「私の体験や感情を、勝手な正義感で正そうとしてくる!」「私に敵意を持っているからでは?!」と激しい抵抗をすることとなり、アドバイスを発した側が面食らってしまうのではないかと思います。


アドバイスが通じるのかどうか・・・ということに関しては、多分根本的に「自分以外の視点を想像できるかどうか」みたいな要素が絡んでくるし、

そもそもアドバイスは求められているのか・・・ということに関しても、実際のところ色々ありそうで、

『相手が痛みをこらえて援助してくれていることについては正当に評価しよう』・・・ということに関しては、「アドバイスはもういらないって言っている(アドバイスは既に実行したor実行不可能と考えている)のに、しつこくアドバイスという形で私に駄目出しをしてくる」と思われることもままあるだろうしで、何だか本当に難しい面がありそうですね。


コーヒーにミルクはいらなかったと言う私に「じゃぁ何で見てたの?!Σ( ̄ロ ̄;) 」と言う夫。ありがとう、扇風機は出すつもりだったのだが助かったと言う私に「じゃぁ何でわざわざあのタイミングであんな言い方したの?!Σ( ̄ロ ̄;)」という夫。

それと同じ感じで、「私は困難を抱えています」 に対して、「じゃぁなんでわざわざ(今ここで)それを話したの?!」という突っ込みが発生しているのかな?というのが今の私の理解の限界のようです。


何でわざわざ言うのかに関しては、もう単純に「YES」と思ったとか「NO」と思ったとか言いたい!ということなのかなと思うのですが、言えばそれに対して「YES」とか「NO」とか言われてしまうのは仕方がないんですよね。多分。個人的な体験の話だったとしても、論に加われば論で返される。ましてや、個人の体験から全体に広がるような論であれば、尚更だろうと思います。

発言を、「(私はこうだった。)だからこういうケースもあると言える。」と取られれば、「いや、そのケースは違うんじゃない?」と言われたりもするだろうし、「私はこうだった。(だからこういうケースもあると言える。)」と取られれば、それはアドバイスをもらうことになるだろうと思います。

むしろ、定型発達の人のルールでいけば、「へー、あなたはそうだったんですね。」と返して終わるのは冷たい態度なのかもしれませんね。私は、「へー、あなたはそうだったんですね。」で凄く満足すると思いますし、実際夫に対して「へー、そうだったんだね。」を求めて話をしたのに、アドバイスや慰めを貰って「あれ?」となることは結構あります(笑)。


「じゃぁなんでわざわざ(今ここで)それを話したの?!」

ということは、これからも尽きることはなく、そして私はここで今まさにそれをしているのかもしれないなぁ・・・という心配を胸の片隅に置いて、送信ボタンを押すことにします(*´ω`*)

援助が間違っていたり、苦痛であれば訴えると言っても、その訴えを却下されるから怒りが溜まるのですが。

しかし私はトマトさん達のことは受け入れがたいと感じても、トマトさんのやり方が良いと感じるアスペ当事者もいるのかもしれません。
少なくともトマトさんのお友達はトマトさんを慕い、形式的なものではない心からのお礼をなさったいたのは事実だと思うし、トマトさんを慕っていたアスペ当事者が周りに何人かいらしたようですしね。
社会で迫害されてばかり、反感を買われがちなあすなろさんやにわとりさんや私より、トマトさんの方がアスペ当事者やあらゆる人々の心を掴むのは上手いのかもしれません。

それでもトマトさん達が(友好的な思いからアドバイスしたものであったとしても)一方的な親切の押し売りをして、それに応えない人を批判したのは事実であり、許しがたいものです。
自分の考えが正しい、応えない人は間違っているとの認識があるのは問題だと思っています。

ここは相性の問題なのかと思いました。
トマトさんのやり方や発言が受け入れられない、間違っていると感じれば、当事者の意見を受け入れて、自分が傷つくだけであれば当事者を非難せずに身を引くべきだし、受け入れてくれる当事者と付き合っていった方が良いのではないかと思います。
仮にそれが供依存や優しい虐待だったとしても、お互いが相手を気に入っているのであれば、優しい虐待だというのも価値観の押し付けでしかないのかもしれません。
本人が良ければそれで良いということに気づいてなかったですね。

自分は嫌だと思っていても、他人から見れば良いと思うことだってあるんだから、それは尊重しないといけないのかもしれません。

サロマさん

>自分は嫌だと思っていても、他人から見れば良いと思うことだってあるんだから、それは尊重しないといけないのかもしれません。

 ここは大きなポイントですね。言うは易し、行うは難しでむつかしいけど。(特に問題が自分の身に降りかかってきていると感じられるときには)

なぜでしょうね。面白いなと思うのが、私は、パンダさんとスタンスは近い部分もあると思うのですが、パンダさんの言うことには同意できることが多くても「分かる」にはならないような感じすることです。

しっくり来なかったり、「んー。言葉として私は確かにそう言ったし、その解釈で合ってる筈なのに、違うことを言われている気がするな?」と思うことがままあります。

一方、少しだけ遡って読んだだけなので部分的な理解ではあると思うのですが、何名かの「激しい態度や表現だな、敵対的な関係を作りやすいな。」と感じたASであるらしい方々には、時に同意できない主張もあったりするのに「同意はできないけど気持ちはめっちゃ分かる」「私もそう思うな」と感じることが多いのです。

言葉や態度や主張そのものはともかく、全体的に「言ってることは分かるし気持ちは共感できるな。」「私も同じ状況だったら内心では同じ反応をするだろうし、かなり嫌だろうな。」と思ったりもします。ジレンマにスムーズに共感できる気がするし、「何でもういいって言っているのに、まだアドバイスされているのだろう?」と感じる時もあったりするんですね。

ただ、ASではないらしい方々としては『言葉が捻じれて受け取られている』という思いを持つであろうことも、それがとても苦しいだろうことも推察できるように思うので、何とも複雑な思いになるのですが。

荒れつつも一生懸命主張をしているASの方は、皆が同意できる正しさという後ろ盾もなく必死に「私の言いたいことが伝わっていない!」と訴えているのに、「あなたが感じている捻じれは誤解なんですよ」となることの噛み合わない感じと言うか・・・そこで起こっていることが身につまされるのです。「私の話」をしているのに、それが何か違う話になっていく感じというか・・・・・説明しきれないのですが。

強い嘆きの態度自体はコメント欄には望ましくないものなのだろうとは思うし、ASの方の認識に捻じれている部分もあるかもしれませんが、どちらかというとそれに対するASではない人の対応の方が、「?」となることが多いのです。ASであるらしい強い態度の方々の言うことには「それ分かる感じするな」と共感めいたものが発生するし、ASではないらしい方々の言うことは「言っていることは分かるけど、その受け取り方は共感できないし、噛み合っていないように見えてしまうな・・・」という思いになったりするのです。


>援助が間違っていたり、苦痛であれば訴えると言っても、その訴えを却下されるから怒りが溜まるのですが。

というサロマさんのコメントは、私にとってすんなり同意できるものに感じられます。私にも、訴えが却下されているように見えることが多々あるからです。サロマさんの真意は掴めないまま、勝手に共感しているだけなのかもしれませんが。

人名を覚えることが苦手なので、それぞれの個人名の誰がどんな発言をしたのかということは分からず、私が盛大な勘違いをしていることも大いにあるだろうと思いますが、『自分の考えが正しい、応えない人は間違っているとの認識があるのは問題だと思っています。』という発言が出ることも、「え?何で?」とはなりません。私にもそう見えているところがあるからです。

「ASではない人達からすれば、アドバイスや認識の誤解を解こうとする行動には〇〇という意図があってのことで、××を△△して□□したいからなんだろな。」

ということも何となく分かる(気がする)私ですが、じゃぁ、ASではない人達のように感じたり見たりすることができるかというと、それはまた別の話なのかな?と改めて思います。

ルビンの壺を見ているような感じです。「顔なんですよ!」と言っているのに、「いえ、こちらから見ればそれは壺なんですよ?」と返されるような、間違っていないけど、噛み合っていないやりとりを見ているような気持ちになるのです。

さとさん

たとえば

>「何でもういいって言っているのに、まだアドバイスされているのだろう?」
>援助が間違っていたり、苦痛であれば訴えると言っても、その訴えを却下されるから怒りが溜まるのですが。

 というのは少なくともこう表現されればよくわかります。その点は食い違いはない。問題は「もういいって言っている」ということの伝わり方ではないでしょうか?その表現が「遠慮」ぶくみなのか、「本気」なのか「めちゃくちゃ真剣」なのかの伝わり方にズレが起こる。あるいはそもそも「もういいと言っている」こと自体が伝わっていない可能性もある。

 記事に書きましたが、もともと定型的な感覚からすると「強烈に救いを求めてきている」と考えざるをえない状況があった、という前提がそこにあるので、「もういいという」場合にも、定型的にはかなり丁寧に、相手を気遣いながら(なにしろ「自分から要求したこと」とみなされているわけで)、根気よく相手に断ることが必要と考えられるわけで、ちょこっというだけではまさかそこまでのこととは思われない可能性が高いわけです。

 扇風機の話にもつながりますが、定型の要求はしばしばとても間接的です。それはクッションとしてそうする。そのことが「相手の主体性を尊重する」ことにもつながることが多いわけです。(特に日本の人間関係はここがきつい)。またクッションを作ることで「むき出しの対立」を避けようとする意図が(といってもほとんど無意識的に)働く。

 そういう理解の仕方がほとんど常識になっているので、アスペの方の発言に対してもそういう枠で理解することは、もう「反射」レベルのことになってしまいます。「窮状を述べる」ことは多くの場合まさに「切実に救いを求める」ことになる。

 たぶんこういうたとえなら伝わるのではないかと思いますが、ある人が「荷物重いので、運ぶの手伝ってください」と言ってきたとして、自分も重い荷物を背負っているんだけど、でもそうやって訴えてこられて、きっと大変なんだろうし、少しでもお役に立てばと思ってその荷物を手に取ろうとしたら、いきなり「なんで人の荷物に手を出すんですか!」といって激しく非難された。まあそんな感じになりやすいわけですね。

 最近「○○としてお願いします」と明言したことについて「私の意図が伝わっていない。私は○○としてお願いしますということを言いたかったのではない」と強弁する人がいて話題になりましたが、まあ同じようなレベルの事として強い不信感を持って受け取られてしまうわけわけです。

 つまり、そもそものやりとりの構えそのものがずれている、前提がはげしく食い違っているわけですよね?だからそこで発せられる言葉の意味の受け取りも大きくずれてくる。そのあたりの伝わりづらさがそこでやりとりのねじれを生む原因の一つになると思います。

>強い嘆きの態度自体はコメント欄には望ましくないものなのだろうとは思うし

 という点についても、だから違う理解の仕方になります。強い嘆きの態度は構わないんです。それが「ここで一緒に問題を考えてほしい」という訴えとして出されるのであれば。問題はそうするつもりや覚悟がないのに、強い嘆きの態度を示される(と定型的には感じられる)場合なのですね。それは(あくまで定型基準でですが)相手の真摯な応答に対する裏切り行為になるわけです。アスペの方にその意図が全くないということはさすがに私もわかってきていますが、ただそのことをわかること自体、定型にとっては大変な困難を伴うことが多い、ということもたぶん確実だと思います。逆に言えばそういう問題がそこにあるということを理解されているアスペの方の議論にはまだ出会いません。さとさんの議論がそこにぐっと食い込んでこられているので、それで私としてはとても(いい意味で)驚いているわけですね。


>ASであるらしい強い態度の方々の言うことには「それ分かる感じするな」と共感めいたものが発生するし、ASではないらしい方々の言うことは「言っていることは分かるけど、その受け取り方は共感できないし、噛み合っていないように見えてしまうな・・・」という思いになったりするのです。

 これはある意味で単純なことかと思います。つまり自分がどの点で痛みを感じながら生きてきたかのベースがお互いに異なる。自分の痛みにつながることはそれだけリアルに実感できるし、逆の場合は「頭ではわかっても実感できない」状態になる。当然実感できることの方がその人にとっては大きな問題なわけですから、相手の言うことは単に理屈上の問題として軽く処理されてしまう。

 お互いにそういうことをやるんだと思います。


 というふうに私なら考えるわけですが、もしかするとこのような書き方自体「 「私の話」をしているのに、それが何か違う話になっていく」という風に感じられるのかもしれないですね。パートナーとの間でもそういうことがときどき起こります。

 この点については、私は「私の話」なんてわかるわけないじゃん!という一種の信念がベースになっているのかもしれません。お互いに相手の言っていることは実感としてはわかりきらないんです。そのことを大前提にして何が可能なのかを考える。

 ひとつは「たとえ困難でも少しでも理解できることを広げていく」という努力をすることです。それは自分の体験をベースに、それを広げて想像力を働かせて、「もしかしたらこういうことに近いのかもしれない」と考えてみることです。そうするとよりよく感覚的にもわかった気持ちになることがある。(そして実際にアスペの方から「その通り」と言ってもらえることもある)

 もうひとつは「自分がわからないことをわかる」努力をすることです。「ここはどうしても私にはわからない」という部分を明確にしていく。このことは次のことにつながっていきます。

 「相手は自分と異なる感覚で、異なる考え方でものを見ていて、そこに生み出される倫理的な感情も異質なものになる。だから自分の倫理観をそのまま相手に押し付けることはできない。」という理解が成り立つわけですね。

 そこで次のステップが生まれる。それはこういうことです。

 「どうしようもなく感覚が違う人間同士、相手を否定することなく折り合いをつける方法を見つける必要がある。」という認識を持って、そういう努力をすることです。

 これはあくまで私の理解ですが、そういう私の発想からすると、「激しい態度や表現」で語られる方たちは、どうもその辺の「相手はわからないんだ」ということの踏ん切りがないような気がする。そしてそれ以上に「私には相手がわかっていない」ということの、深いレベルでの理解が欠けている感じがして仕方ないのです。だから「理解されない」ことに激しく怒りを表現される。「私が相手をわからないように、相手も私をわからないんだ」という理解になりにくい。

 そういう方の場合、「相手はわからないんだ」という踏ん切りをつけられることは、同時に相手とのやりとりを拒否することにつながります。「わからないことを前提にどう関係を作るかを模索するか」につながらないんですね。「あいつらにはいくら言っても仕方ない。無駄だ。」という判断になる。これじゃあ真の対話が成り立つことは不可能です。(もちんこのことはアスペサイドの方にのみ言えることではなく、定型サイドの方にもしばしば見られたことです。その点では完全に同じです。どちらも「自分には理解しがたい相手」を認めて対話する姿勢がない)


 もちろんこういう私のスタンスは、それを良しとする方も何らかの理由でおかしいと考える方も、また何を言われているのか全然ピンとこない方も、いろいろいらっしゃるでしょう。それ自体当然のことです。私はそれが大事だと思うからこういう試みを続けていますし、それに多少なりとも可能性を感じてお付き合いくださる方もいらっしゃいますし、私としては大変さがありつつもとても大きく学べる場なので、これからもぼちぼちそういうことを続けていきたいと思っています。

一方、私は前のコメントで書いたように、『円満に意志や気持ちを通い合わせてやっていこうという方針において、相手のことを考慮する気持ちは大切かなと思う』という考えを持っているので、先のコメントでも書いたように『パンダさんとスタンスは近い部分もあると思う』になります。

一晩寝て、私がこの辺りの何にひっかかりを覚えて興味を持っているか、少し分かったような気がします。


「意思・気持ち・認識」を相互に理解し合うことによる調整を働かせて、それにより次の新しい意思決定をする(と私は思っている)定型の人の理論・・・から拡大した表現した言葉で言うと、「一般的な理論」というものからすると、私は、

・「気持ち」としてはAS寄り

・認識は、感覚的・直観的にはAS寄り

・できる範囲で相手に沿いたいし、それが無理であればせめて距離を置くことで傷つけることを避けたいという意思。

みたいな内訳になるのかなと思います。自然に発生する「気持ち」としてはAS寄りで、その解釈や考察、言葉にする際の表現としては定型の人の気持ちにもできるだけ想像力を働かせたいと思っている状態です。


そこが、普段私が気を抜いて(定型的段取りの会話をしようとせずに)会話をする時に起こる現象と、何やら似通っているように思うのです。


「暑いね。」
「そうだね。」
「クーラーつけようか?」
「いや、暑いけど平気だしクーラーはいいや。」
「えっ?」


「カレーって不味い!」
「そうかな?私は好きだけど。」
「この世から消えてほしい!!」
「カレーは好きだし『消えてほしい』は言い過ぎだけど、嫌いなものに消えてほしい気持ちは分かるわ。」


気を抜いている時の私は上記のような流れの会話をしがちなのですが、これが、よく定型発達の人に「え?何で?」「今までの流れは何だったの?!」と思われるようなんですね。

心理学を応用したテクニックに、『5回同意した後では6回目の言葉にも同意しやすく拒否や否定をしにくくなる』という有名なもの(営業術とかナンパ術とかでよく見かける印象です)がありますが、私にはどうもそれが効きにくいようなんですね。

だから営業やナンパを断ることは、私にとっては難しくありません。葛藤や抵抗が起きないのです。予防接種前に書く同意書の質問一覧に連続で「はい」を答えても、「現在妊娠していますか?」と聞かれて妊娠していなければ「いいえ」ですよね。私からすれば、それと同じなのです。相手の気持ちより自分にとっての事実を優先しがちなASの性なのかもしれませんね。


そこからすると、私のふるまいというもの、思考の流れというものは、『AS寄りの気持ち・感覚的・直観的にはAS寄りの認識』という前提を持ちながら、突然最後の結論で『定型発達者の気持ちの方を向く』という感じで、

「同じ気持ちと認識なら、大体同じ結論になるよね?」
「同じ結論を持っているということは、大体同じ認識や結論なんだよね?」

という理論や、それに基づく推察が当てはまらないということになってしまうのではないかと思い、そういうところが、普段定型の人に「え?何で?」を言わせてしまう原因の一端なのかもしれないな・・・・と思いました。

2人の独立した人間のコミュニケーションですから、定型の人も当然「同じ気持ちと認識」があれば「大体同じ結論」になるとは限らないので、そこでいわゆる調整を行っていくのだと思うのですが、その調整の結果

『よし、こいつは大体自分と同じ結論を持っているな!』
『うん。この結論やあの結論が同じってことは、大体自分と同じ認識や気持ちでいるようだね!』

という確信が持てた辺りで私が突然「ううん?私はこうだよ?」と言い出すので、何だかおかしなことになるのだろうな?という考えが出てきました。手始めに、まずは夫とのコミュニケーションで意識してみたいと思います。

さとさん

>だから営業やナンパを断ることは、私にとっては難しくありません。葛藤や抵抗が起きないのです。予防接種前に書く同意書の質問一覧に連続で「はい」を答えても、「現在妊娠していますか?」と聞かれて妊娠していなければ「いいえ」ですよね。私からすれば、それと同じなのです。相手の気持ちより自分にとっての事実を優先しがちなASの性なのかもしれませんね。

 またまたわかりやすいたとえ話で感激します(笑)……カレーのはなしはちょっとぴんときませんでしたが(笑)

 つまり、定型同士のやりとりでは、ひとつひとつの合意を積み重ねることで相手との関係を深める、ということが重視されているのに対して、アスペの方はひとつひとつの事実関係(自分にとっての)の確認であって、そこで「相手との関係」は基本的には関係ないということになるわけですね?

 そう考えるといろんな疑問が解けてくる感じがします。定型的な感覚で言えば「信頼の積み重ね」と思えるプロセスが、まったくそのように働かず、ガクッとさせられる。賽の河原の石積みのような「砂漠に水を撒く」ような「徒労感」を持たされることがある、というのも、そういう視点の違いから考えれば「無理のないこと」に見えてきます。逆にアスペの方から見て何が定型から問題とされているのかが理解できない理由もわかる気になります。

 人との関係の組み立て方の理屈がお互いに全然異なっているわけです。それではトラブルが起こらないほうが不思議ですよね(笑)

>定型発達の夫と暮らす私には死活問題です(*´v`*)

 とさとさんが書かれているように、まあ、それでもお互いに付き合って生きていくしかないわけですから、ぼちぼちやるしかないでしょう。

すみません。コメントのお返しを読む前に投稿してしまいました。話が前後してしまうことをお許し下さいm(_ _)m


内容は、全体的に分かると思いました。

>その表現が「遠慮」ぶくみなのか、「本気」なのか「めちゃくちゃ真剣」なのかの伝わり方にズレが起こる。あるいはそもそも「もういいと言っている」こと自体が伝わっていない可能性もある。

>もともと定型的な感覚からすると「強烈に救いを求めてきている」と考えざるをえない状況があった、という前提がそこにあるので、「もういいという」場合にも、定型的にはかなり丁寧に、相手を気遣いながら(なにしろ「自分から要求したこと」とみなされているわけで)、根気よく相手に断ることが必要と考えられるわけで

> そういう理解の仕方がほとんど常識になっているので、アスペの方の発言に対してもそういう枠で理解することは、もう「反射」レベルのことになってしまいます。

という辺りは、常々気を払わなくてはいけないな、と思っているところです。


>問題はそうするつもりや覚悟がないのに、強い嘆きの態度を示される(と定型的には感じられる)場合なのですね。

ということも、ちゃんと理解できているか自信はありませんが、多分分かっているところもあると思います。レベルは小さいですが、「夫に扇風機を出してもらうつもりや覚悟もないのに強い要望と取れる態度を示すこと」と、構造的には似ているように思うからです。

『相手の真摯な応答に対する裏切り行為になる』ということも、一応理解しているところはあるかな?と思うので、日常の会話では誤解を招かないよう努めると同時に、「常に誤解が生まれている可能性はある」という感覚を持って会話をしている部分もあります。

>これはある意味で単純なことかと思います。つまり自分がどの点で痛みを感じながら生きてきたかのベースがお互いに異なる。

ということも、本当にそうだと思います。


ちょっと面白いなと思ったところは、

> たぶんこういうたとえなら伝わるのではないかと思いますが、ある人が「荷物重いので、運ぶの手伝ってください」と言ってきたとして、自分も重い荷物を背負っているんだけど、でもそうやって訴えてこられて、きっと大変なんだろうし、少しでもお役に立てばと思ってその荷物を手に取ろうとしたら、いきなり「なんで人の荷物に手を出すんですか!」といって激しく非難された。まあそんな感じになりやすいわけですね。

というところですね。そういう現象がよく起きているのは、日常的に見聞きするので分かります。ところが、その心の動きや感覚は、多分私は違うものを持っているんですね。

『きっと大変なんだろうし、少しでもお役に立てばと思ってその荷物を手に取ろうとしたら』までは、多分私も同じ感じです。(内面に起こる感情的な温度の違いはあるかもしれません。)

その後、

>いきなり「なんで人の荷物に手を出すんですか!」といって激しく非難された。

という時の反応は、定型の人とは違う感じになるかもしれません。多分、「あ、すみません。」と言って、『何でいきなり怒ったのだろう?また何か私が間違えたのかな?それかエキセントリックな人なのかな?荷物に触られるのが嫌だったのかな?台車とか持ってきて欲しいとかそういことかしら?』と思いながら、「運ぶの手伝って下さいとおっしゃったので手伝おうとしたのですが、違っていましたか?どうするといいですか?」みたいに聞くと思います。

書いていて思ったのですが、これは、私が今まで仕事中などで定型の人とトラブルになる時のやりとりと全く同じなんですね。「~~なので==して下さい。」と言われて、分かりましたと動くと、「やめて下さい!」「違うでしょ!」と言われ、「さっきから~~って言ってるのに何で分からないんですか?!」となり、何か私が間違ったんだろうなと思って謝り、私には何が分からないのか教えを乞うと「だから、~~って言ってるじゃないですか!」みたいな過程を経て「いい加減にして下さい!」「話を聞こうって気がないんですね?もういいです・・・」という展開になっていくという。


> これはあくまで私の理解ですが、そういう私の発想からすると、「激しい態度や表現」で語られる方たちは、どうもその辺の「相手はわからないんだ」ということの踏ん切りがないような気がする。そしてそれ以上に「私には相手がわかっていない」ということの、深いレベルでの理解が欠けている感じがして仕方ないのです。だから「理解されない」ことに激しく怒りを表現される。「私が相手をわからないように、相手も私をわからないんだ」という理解になりにくい。

というところも興味深いです。『私が相手をわからないように、相手も私をわからないんだ』ということの理解の仕方が、結論は同じでも私とパンダさんの間に違いがあるような気がしたからです。

パンダさんは、自分のわからなさという理解を相手に重ねて、相手の分からなさを分かろうとしているように見えるのですが、私は「相手を見て」→「相手の言動からそのまま」
→「あぁ、相手は私を分からないんだな。」と思う感じですね。なので、最終的には

「相手は私を分からない」+「私は相手を分からない」なんだな。同じ構図のことが起きているんだな。

と思います。

それは、『私が相手をわからないように、相手も私をわからないんだ』とは、似ているけれど何か違う気がするんですね。「ように」と「も」の感覚が分からないのかもしれません。サザエさんの歌じゃありませんが、「あなたと私は同じね」的感覚が重要なポイントになってくるのではないかな?と思います。私は、「あなたと私は同じ構造のものを持っているようだね」という理屈で、そこににじり寄ろうとしているのかもしれません。


私には、多分いくつか同じようなことがあって、私はアスペルガーなのにグレーの感覚があって凄いねなんて思われやすいのですが、多分そう見える私のグレー感覚は、定型の人の持つグレー感覚とは違うものなのですね。

定型の人は「白とも黒ともつかぬ、もしくは混じり合ったグレー」という感覚をお持ちのように見えるのですが、私の「グレーを理解していると他人に見えているところ」は、「Aもある。Bもある。」というだけの感覚で、何と言うか混ざらないんですよね。「そうかもしれない、そうじゃないかもしれない、どっちも本当だと思う。」と言うと、言葉はすごくグレーっぽいと思うのですが「白かもしれない、黒かもしれない、どっちも本当だと思う。」と言うと、それって全然グレーじゃないじゃんって感じになると思うのですが、すみません、この話伝わるでしょうか?


ここ一連の私に対するパンダさんの言葉をずっと読ませて頂いてきて、「ひょっとしたら、私にはお互い様という感覚がよく分かっていないのかもしれないな?」と思うようになりました。そこは、また該当記事のコメント欄に書けたらと思います。(空気を読まない長文に問題があったら、是非教えて頂けると助かります。その際は自粛したり、許されれば掲示板に書いたりしたいと思います。)

お邪魔でございます…(^^;

私も、さとさんと似ているのか、定型の方々の言うことは頭では理解できる、という感じですがピンとは来ないです。
難しすぎると感じます。

逆にアスペさんの方々の言うことは、同じ意見でなくても「シンプルだな」という点でわかりやすかったりすることが多いです。

さとさん

いろいろありますけど、長くなるので('◇')ゞ とりあえず以下について。

>定型の人は「白とも黒ともつかぬ、もしくは混じり合ったグレー」という感覚をお持ちのように見えるのですが、私の「グレーを理解していると他人に見えているところ」は、「Aもある。Bもある。」というだけの感覚で、何と言うか混ざらないんですよね。「そうかもしれない、そうじゃないかもしれない、どっちも本当だと思う。」と言うと、言葉はすごくグレーっぽいと思うのですが「白かもしれない、黒かもしれない、どっちも本当だと思う。」と言うと、それって全然グレーじゃないじゃんって感じになると思うのですが、すみません、この話伝わるでしょうか?

 面白いポイントだと思うのですが、現実の色についてはグレーというものを「黒でもなく白でもない」ものとして理解されるわけですよね?

 で、人の評価についてグレーと言うのはその話とは少し違うのでしょう。つまり、ある視点から見ると黒(悪い)と見えるけど、別の視点から見ると白(良い)と見える、というような話が普通に成り立つと思えるわけです。

 それはおっしゃるように「グレー」という色がそこにあるわけではなく、「視点によって見え方が異なるものがそこにある(だから単純に白黒はつけられない)」という意味なので、色のグレーとは違うじゃん、と言われればその通りと言うことになります。ルビンの壺が顔でもあるし同時に壺でもある、どちらか一つには決められない、というのと同じ意味でのグレーという話です。

 実は世の中にはそういうことはいくらでもあるわけですよね。生兵法のたとえ話ですが、光は粒であるし同時に波でもある、というのは今の物理学では常識とされているようですが、日常の感覚では波なら波、粒なら粒で、どっちかでしょう!という感じになる。

 つまりこの時に問題になるのは、日常の感覚で理解している粒とか波といった考え方では光は理解できない、ということなわけです。粒でもないし波でもないし、ある面から見れば粒の性質を表し、別の面から見れば波の性質を表す、そういう「別のもの」だということになります。だから粒の見方、波の見方のどちらかにこだわっている限り、永遠に光の性質は理解できないことになる。

 定型アスペ問題は、理詰めで考えていくと、最終的にはそういう種類の問題にたどり着くのだと思います。つまり普通の社会常識だけでとらえようとしても、とてもとらえられない多面的な性格を持っている。見る視点によって異なる姿を現すものなんだということです。だから「白か黒か」という二分法で理解しようとしても、そりゃ無理だよね、と言う話になる。ルビンの壺の絵を、顔なのか壺なのか決めろというのはご無体な要求だ、というのと同じになります(笑)

 もちろん定型アスペのトラブルの話は物理の話とは性質が違いますけれど(そこはここではあまりつっこまないことにしますが)、でもごく荒っぽく言えばそんなことになるのだと思います。また「関係ない話」と感じられる方も多そうな気がしますが ('◇')ゞ、まあ理屈から言うとそうなるでしょう。


キキさん

>難しすぎると感じます。

 ごめんなさい m(. .)m

 最終的にはシンプルな話になると思うんですが、なにしろ問題自体がとても複雑なので、どうしてもいろんなことを考えないと追いつかないし、その複雑なことをつなげて考えようとすると、どうしても話の抽象度が高くなってしまいます。でも、実際のことから出発して本当にちゃんと抽象度を上げた議論ができれば、最終的にはすごく素朴でシンプルな話に戻るんだと思うんですね。

 なんにしても具体的なことを語れない抽象論は意味がないと私は思っているので、これからも具体的なことをできるだけ丁寧に考えつつ、抽象的な話と行ったり来たりしていくことになると思います。あくまでも最終的な目標は具体的なことをシンプルに語りあうことなのですが、そのための修行の過程くらいに大目に見ていただければ感謝です。
 

 

パンダさんへ

わざわざ書かなくてもパンダさんはわかっているとは思うんですが念のために丁寧なコミュニケーションを心がけるという意味で書いておきます(^^;

ごめんなさい、とパンダさんが謝ることじゃないんです、「難しすぎて困る」ということじゃなくて、私の理解力が足りないという意味ですよー。

きっと必要な過程だとは感じるので、大いにやってくださいね!
そう思ってなかったら、基本ここには来ないですから〜

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