2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« なけなしの柔軟性を大事にする | トップページ | お互い様のむつかしさ »

2017年7月22日 (土)

誰を責めることもできない

 今日はパートナーが離れて暮らしている子どものところに遊びに行くのを送っていきました。

 少し離れたところなので、しばらく向こうに滞在する予定ですが、ちょっとうれしそうでした。

 子育ての最中、特に思春期以降はほんとうに大変だったのですが、今はお互いにいい関係になっているという感じがします。彼女は自分がアスペで子どもを理解できなかったために子育てで定型の子どもを苦しめてしまったと思って(そして子どもからも責められたので)、ものすごく彼女自身が苦しんでいた時期が続きました。その最悪の時期を考えると、ほんとによかったという気がします。

 当たり前と言えば当たり前なのでしょうけれど、子どもは親を求める。親は子どもを大事に思う。そのこと自体は子どもの方も彼女の方も何の変りもないんです。ところがそれがうまく通じ合わない。お互いの思いのズレでいろいろなことが裏目に出てしまう。

 そうやってほんとにギリギリの状態まで進んでしまい、私も「この状態はいけない」と思いながら、そこに関わろうとしても全く効果がなく、ただ、定型的な感覚からすれば彼女の方が子どもに対する加害者だというふうには思いながら、なんの解決策も思いつけず、無力感にさいなまれる日々が続いたのでした。

 今思えば彼女も必死だったんですね。ほんとに子どものことを心の底から心配していた。にもかかわらず自分のその必死さがなぜ伝わらず、報われないのか、逆に事態を悪くしていくのかが全く理解できない状況に陥っていったわけです。絶望的な思いが続いただろうと思います。

 定型の論理から言えば、彼女の「相手のために」は全く逆効果だったとも言えます。勝手な思い込みで逆に相手を苦しめた。ちょうどここでの炎上でアスペの一部の方が定型に対してい激しく攻撃をする、その逆バージョンだったわけです。

 それで私は彼女がおかしいいと言い続けたのですが、それは決して彼女に伝わることはありませんでした。なんで自分がこんなに深く子どものことで悩み、必死で努力しているのに、それを頭から否定されるのか、まったく理解できないわけです。

 その彼女の必死さ、そして彼女なりの誠実さが多少なりともわかるようになった今、私は彼女を責める気持ちは全くなくなりました。また自分に彼女を批判する資格がないことも理解するようになりました。

 今はそれをただ「悲しいこと」として表現するほかありません。お互いに良かれと思って必死に向き合って、それが結果として悲惨な状態を生んだわけですから。その、それぞれの誠実な気持ちを考えれば、誰を責めることもできない。

 そんな地獄のような日々をすごし、何年もたって、でも今は彼女と子どもの関係はほんとに変わったんですね。今では私よりも彼女との方が気持ちのつながりが深いような気がします。ほんとによかったと、心から思います。

« なけなしの柔軟性を大事にする | トップページ | お互い様のむつかしさ »

コメント

定型の感覚に近い親が、アスペの子どもを育てていく苦労は、おそらく奥様と同じ苦労ではないかと思います。
ここで、アスペの方がアスペのお子さんを育てるとき、多くの事がツーカーで、安心して育てていらっしゃるのが分かって、『なるほど、そういうものなんだな』と思いました。
一時、アスペの方から、私の子育ての姿勢は間違っていると指摘されたこともありましたね。
でも、お陰様で、その行き違いの深刻さを知ることが出来て、本当に良かったと思います。

奥様も、パンダさんを通して、定型の子に接するときの注意点を勉強していらっしゃったのでしょう。そうでなければ、アスペの『良かれ』の感覚の押し付けで、お子さんはもっともっと苦しんでいたでしょうから。

たまたま、なんですね。

定型の親が定型の子を育てることと、アスペの親がアスペの子を育てることは、同じ条件の良さだと思います。
これが、血液型の相性のように、相容れない関係であった時の悲劇は、本当に、たまたまそうなってしまったに過ぎない。

でも、その逆境をどう乗り越えるかという課題は、何物にも代え難い、人生の課題であり、その先には、何物にも代え難い信頼関係ができあがるのではと思っています。

あすなろさん

>奥様も、パンダさんを通して、定型の子に接するときの注意点を勉強していらっしゃったのでしょう。

 そこは、私の記憶ではほとんど無理だったようです。実際に私がこどもとやりとりをして、子どもが生き生きと応じているところを彼女も見ていた瞬間をとらえ、「ここだ」と思って「ほら、こういう風にすればうまくいくでしょう」といった時も、おそろしいほどに全く伝わりませんでした。

 ことばで説明してもわかりにくいときは、ほんとに具体的なことで実際に例を見てもらって説明を試みるのですが、「これならだれでも明らかにわかるだろう」と当時私が確信していたような具体的なことも、まったく伝わらなかったんです。あのショックは大きかったですね。ほとんど絶望的な思いになりました。

 というようなことで、みんな崩壊するところまで苦しんで、ようやく転機が訪れた感じですね。その伝わらなさ(お互いの)の壮絶なことについては、もう骨の髄まで思い知らされた感じがしています。

 だから彼女はそのあと、もう子どもに対する激しい罪悪感で子どもと会うことや話すことすら緊張し、笑顔も見せられないような状況がずっと続いていたのですが、ほんとにここにきて、子どもとの会話を楽しんでいるような、そんな場面が少しずつ出てきて、そして今回、子どもと会うのを楽しみにできるようなところまで来たことになります。

 ほんとにうれしいことです。
 

>パンダさん

>「ここだ」と思って「ほら、こういう風にすればうまくいくでしょう」といった時も、おそろしいほどに全く伝わりませんでした。

この状況を、私に当てはめてみました。
はじめアスペのことを何も知らずに、私が良かれと思ってアスペの子供に接してきて、悉くうまく行かず。
次にアスペのことを勉強して、根底から発想の転換をして、だいぶうまく出来るようになった。それが最善と思っていたら、子供が自己主張するようになったとき、衝突するようになった。
その時、このサイトでアスペの方に『その方法はお子さんのためにならない』と言われて、愕然とした。けれど、それこそ、子供が言いたいことだった。
つまり、定型感覚に近い私がどんなに反省して工夫しても、アスペの子に合う子育ては出来ない。分かっちゃいるけど出来ない。

今、子供との関係が良くなったのは、躾の時期が終わったことと、必要以上に近づかなくなったことが原因だと思います。

お子さんとパンダさんは、感覚的に同じなので、それが自然に出来るけど、奥様は、どんなに頑張ってもうまくはできない。
それは私が、アスペの子を育ててきて、どんなに頑張っても出来なかったジレンマと同じ質ではないかと思います。

パンダさんの奥様の子育ての話と、久しぶりに目の当たりにした私の親の価値観から、『優しい虐待』が生まれる原因が見えてきた気がします。

定型の親は、アスペの子の感覚を、
アスペの親は、定型の子の感覚を、

どんなに頑張っても理解することは出来ない。

この点に気付かずに、親の感覚を押し付ければ、自然と『優しい虐待』になってしまうのでしょう。

私も、奥様も、自分は一所懸命なのに、一所懸命になればなるほどズレていき、優しい虐待を行なっていた。
解消するには、『一所懸命』にならずに、『静観』するしか無かった。
けれど、日本社会では、子供の躾は親の責任とされていますから、一所懸命にならないわけにはいかない。静観していると『親としての責任を果たしていない!』と袋叩きに遭うのです。

私の行動を振り返ると、子供を躾ける時、この子が将来困らないようにという理屈の裏に、世間からちゃんとした親として認めてもらいたいという承認欲求があったように思います。

電車で子供が泣き出して、子供を必死に泣きやませようとするのは、子供目線から見れば訴えていることを感じ取って欲しいだけですが、親の側の事情は、他の人に迷惑を掛けられない。掛けると自分が非難されるという一心です。
子供の側に立ってみれば、周りがどんな目で見ていようと、自分の訴えを聞いてくれよ!という思いしかありません。

もちろん、これが社会性を身につけさせるために必要な躾でもあるのですが、まだ2、3歳の子に、自分の欲求を脇に置いて、他人に気遣うなんてことはできないのですから、本来親は子供側に味方しなくてはならないでしょう。

しかし、社会はそれを許してくれない。保育園の声がうるさいと怒鳴り込む人がいるくらい狭量な社会ですから。

そうした価値観一つ一つが、発達障害のあるなし、またはどれだけ親が社会に気遣って生きているのか、といったことで、子供目線と親の事情に開きが生まれてきてしまう。

それをやはり、立場が弱く、自己主張が出来ない子供に押し付けた時、子供の側は不満を溜め込んでいてもうまく表現できず、我慢するしかなくなり、それを繰り返していくうちに、一体自分が何を望んでいたのかさえ、分からなくなっていく。

優しく虐待とは、こうやって、双方が無自覚なうちに行われていくものなのだと思います。

私は、このサイトのアスペの方たちからも教えていただいて、結局、子供たちの価値観はどうやっても理解できないし、将来どのような道を選ぶのかも全く想像できないことが分かったのと、ある程度の年齢になっていたので、『静観』することにしました。
なので、最近はお互いに『へえ、そういうもの?』という全面的受け入れができるようになって、関係が良くなりました。

ところが、久しぶりに母がやってきて、私のそういう姿勢が躾を放棄していると見えたようです。娘の仕草を見ていて、娘がいない時に私に言いました。
『あの行動は良くない!今のうちに直さないと、社会に出て恥をかく!親としてちゃんと躾ないとダメよ!』
何度も何度も、気になる、私だったらああいう社会人を軽蔑する、と繰り返すので、最後には
『娘が恥をかいたら、本人がそれに気付いて直すでしょ!』と言いました。
娘もその行動に関しては小さい頃から指摘されてきて、(おそらく障害も影響していて)改善できず、半分トラウマになっているのです。

母の思いは、孫娘が社会に出て恥をかくのは可哀想というものでしょうが、その根底には、「私の孫娘が、世間に笑われるようでは私のプライドが許さない」という意図があります。
けれど、母は、その根っこの欲望に気付いていない。

アスペと定型の価値観は、一見表裏のように違ったものになりがちで、それをどちらかのやり方に従わせる形にしなくてはならないと思い込むとき、優しい虐待が生まれるのではないかと。

だから、定型側が正しいとか、アスペ側が正しいとかいうことでなく、違った価値観を持つもの同士、どのように協調していくのか、その『やり方』が重要なのではないかと感じました。

はじめまして。アスペと定型の娘を持つ母です。私自身もアスペルガーの診断を受けています。

アスペは定型の子供の感覚が分かりにくいとの話でしたが、私は定型の娘はおろか、アスペの娘ともまったく分かり合えませんでした。

定型の娘は中学生になってから私と口をきかなくなり、定型の娘自ら叔母(主人の妹)の家に行くと言い出し、家を出ていきました。
主人の妹、親戚や児童相談所が仲介したり、定型の娘と何度も話し合おうとしました。
定型の娘は私が頼りないし、馬鹿だから親とは思えない、一緒にいたくない、一緒にいるだけで精神的におかしくなりそうだと言われ、私の元にはかかわろうともしなくなりました。

アスペの娘も中学2年生になってから私に暴力を振るうようになりました。
アスペの娘は学校生活がうまくいかず、私に相談をしてきたのですが、私自身が社会で上手く人と関われず、仕事も家事もうまくできないため、娘にうまくアドバイすができずにいました。
アスペの娘がイライラし、私に暴力をふるうようになってきました。
アスペの娘も自ら叔母(主人の妹)のところに行くと言い出しました。
理由は定型の娘と同じく、私がばかで頼りないから一緒にいるだけでストレスがたまるとのことでした。

二人とも義妹の家に行きだしてから精神的にも安定したらしく、私から見ても周囲から見ても娘たちの顔は自宅にいた頃より生き生きしていました。
アスペの娘は特に周囲との関係のうまくいくようになってきて、義妹のおかげだと言っています。私のおかげではなく。
周囲も娘を義妹のところに預けて正解だった、私のところにいたら娘は悲劇だったと言います。

娘たちは成人していますが、義妹のところには顔を見せているようですが、私のところには全く顔を見せに来ません。
娘たちからは「社会でうまくやっていけなかったあなたが子供を産んだことが間違いだった。でもあなたが生んでくれなかったら私は今の幸せはなかったから生んでくれたことだけは感謝する。でも勘違いしないで。私が幸せになれたのはおばさんのところに行ったからであって、あなたのおかげではないから。あなたは母じゃない。ただの頼りない障がい者でしかない」と言われてしまいました。
二人とも私のことをお母さんと言ってくれなくなりました。

ちなみにたたいた、暴言を吐いたといった虐待はしていません。
娘からは「馬鹿で頼りないから母として尊敬できなかった。母と感じられなかった」と。

奥様は介護の仕事をなさっているくらいですし、子供さんと仲直りできたのは私よりもずっと賢くてしっかりしていて頼りがいがあるからだと思います。
本当の馬鹿は介護の仕事もできません。

アスペと定型の感覚の違い以前に、あまりに馬鹿な人が育てると、どの子供を育てても上手くいかないです。

アスペと定型の母さん

 はじめまして。よろしくお願いします。

 うんと時間がかかったとしても、娘さんがさらに人生を積み重ね、いろいろなことを考えて、いつかお母さんのことを受け入れられる日が来てほしいと、ほんとにそう思います。

 馬鹿だと子育てがうまくいかないというお話、そういう考え方もあるのかなと思います。でも、本当は子育ては一人でするものではなく、夫婦や周りの人たちも一緒にするもののはずだと私は思います。だから、自分に苦手な部分は他の人が補ってくれれば、それはそれで「馬鹿」でもうまくいくんだと思います。

 ただ、ではどうやってほかの人といい関係を作って補い合って子育てができるのか、その具体的な方法が今はまだ見つけるのがむつかしいですよね。定型とアスペがどうやって協力し合えるか、その方法をこのブログでも考え続けているのですが、ほんとにむつかしいし時間がかかります。

 私の方からアスペと定型の母さんにお礼を言いたいことは、ご自身がずっと抱えてこられたそういう苦しい状況を教えてくださったことです。教えていただいても、私がアスペと定型の母さんに実際にお役に立てる力はなくて申し訳ないわけですが、ただ、そうやって教えていただくことで、定型アスペ問題の何がむつかしくて、何を考えていかなければならないかのヒントをいただけます。そのことが必ず将来役に立つと私は感じているので、ありがたく思います。

 どうもありがとうございました。また何か書きたいことができましたら教えてください。

 

 

投稿ガイドラインに抵触するコメントが2通あったため、非公開といたします。

抵触のポイントは以下の点です。

ご自身の体験からの判断を、投稿者が自分と同じと判断する他者一般にすべて妥当するものとして主張し、それらすべての人に対して自分の判断と同様の権利の制約を行うべきだという主張を含んでいます。

これまでもこのような投稿で炎上が繰り返された歴史がありますが、ご自身のつらい体験から自分の権利を制約するべきであると、自分自身の行動についての判断として書かれることは問題がありませんが、それと同じことがすべての人に言えるという根拠がありません。それぞれの方はそれぞれの条件の中で、それぞれの生き方を自ら選択して生きていらっしゃいます。そのそれぞれの方の生き方の具体的な内容や、それぞれの工夫、それぞれの努力、周りの努力を無視して、一方的にその権利を制約する資格は誰にもありません。

そのようなステレオタイプ的な判断の主張は、ご本人の自覚のあるなしに関係なく、差別として社会的には影響力を持ってしまうものです。このため、そのような主張をここで公開することはできません。

繰り返して強調しますが、ご自身がご自身の体験の結果として、自らの苦しい選択としてある行動をとること自体はその方の問題で、それが否定されることではありませんし、そのことについて語り合うことも大事だと思います。そのことは一切否定されることではありません。

問題は非常に乱暴な仕方で見ず知らずの人たち一般に自分のそのような個人的判断を押し付け、その方の人生を勝手に否定することです。そのような権利は誰にもありません。

以上については投稿ガイドラインにも同趣旨の事を書いてありますのでよくご覧ください。

父に頼れないから、うちは母が一人で子育てをしていました。母はうつになりました。
その間、祖父母は自分の生活で一杯なのに、さらに母のサポートを強いられたことがありました。
さらに父が失業し、その後の転職先も上手くいかず、生活ができなくなり、叔父や叔母達に頭を下げて生活費を借りていました。
私の給料では返せず、母も働けず、借りたおかねは兄弟が働いて返しています。

母親がアスペで、父親が定型だと、父親が家庭から目をそむけ、ただでさえでも困惑している母親が旦那の援助も受けられず、周りも自分の家庭があるからサポートも望めず、子供が苦しんでいる、なんてケースもありましたね。

サポートを受けられる環境での子育てなら良いですが、家族のサポートを望めない場合は、障害者自身が自分の手で子育てに対応できるのかは考えるべきかと思います。
決して私が特殊な環境で育ったから歪んだ考えになったとか、他人に自分の考えを押し付けてるなんて言わないでください。子育てしたことないくせに指図するなと言わないでください。差別発言だと言わないでください。
障害者の子育てを全て否定しません。まずは自分が子供を育てられるのか考えて頂きたいということです。

抵触したのはサロマさん名のコメントではありません。
何に対してご批判なのかが不明です。

仮にサロマさんが別のハンドル名で投稿されていたのだとすれば
そのこと自体がガイドラインに抵触します。

いずれの場合でも、この状態が続くようであればガイドラインに抵触することになりますので、ご注意ください。(後者の場合はすでに抵触しています)

管理人様

削除されたコメントがどなたのかは存じ上げませんが、私は書いていません。

私が書いた昨日のコメントは、パンダさんの
(2017/08/02 23:35:52)
>本当は子育ては一人でするものではなく、夫婦や周りの人たちも一緒にするもののはずだと私は思います。

の部分について書いたものです。
周りのサポートが得られない現実があったり、障害者が子供を生んだ尻拭いのために定型の配偶者や家族が苦しむ現実もあるというお話をさせていただきました。

パンダさんのコメントを批判したいわけではなく、パンダさんのコメントを全面的に賛成したい気持ちもあります。
パンダさんのコメントには大方は賛成です。
しかし周りにかける迷惑と負担という現実もあるので、障害者自身が子供を産むのは健常者以上にリスクが高いのも現実で、自分の現実を踏まえたら子作りを諦める選択をした方が良いという人も残念ながら存在するのも現実だと思います。

サロマさん

 そういうことなら了解です。

> しかし周りにかける迷惑と負担という現実もあるので、障害者自身が子供を産むのは健常者以上にリスクが高いのも現実で、自分の現実を踏まえたら子作りを諦める選択をした方が良いという人も残念ながら存在するのも現実だと思います。

 現実問題として、そういうシビアな状況があるということは事実だと思いますし、そこで判断を迫られることもあるでしょうね。そのこと考えること自体は大事な問題のひとつだと思います。

 そこで区別すべきなのは、自分自身が自分自身の問題として考え、判断することと、人に対してその判断に従うことを要求することなんだと思います。後者になってしまうと、それが権利の侵害だったり、差別になったりするわけですよね。

 一人一人の状況に合わせて、一緒に考えるということならありかもしれません。一般論は無理な部分だと思います。

> パンダさんのコメントには大方は賛成です。

 それはよかったです。

 ひとつ提案なのですが、コメントを書かれるときに、賛成の部分と反対の部分を両方書くというスタイルをもう少し意識的に取り入れて見られてはどうでしょうか?

 サロマさんご自身はそうされているという感じなのかもしれないので、その場合は賛成の部分の比率をもう少し意識的に増やしてはと思うのです。私の印象としてはむしろ否定的な評価だけが先行しているように感じられることが多いので、そうなるとそれは誤解と言うことですから、不必要な誤解を避ける方法の一つとして、検討されてもいいかもしれません。

 もちろん心にもない賛成を言い立てる必要は全くないと思います。

削除の基準がいまいちわかりません。

にわとりさんを傷つけた方、にわとりさんにあることないこと発言なさったアスペ男さんのコメントなど、どうして削除されないのかも疑問です。


一方で、別のコメントは削除されている。
別のコメントに何が書かれていたのかはわからないから何とも言えませんが、判断基準がフェアでないようなきがします。

サロマさんのコメントは遠回しにあすなろさんを非難なさっているのでしょうか?

あすなろさんを叩くのはおやめになった方がいいと思いますが。

あすなろさんを非難していませんよ。
書き込みを見る限りではあすなろさんは息子さん達と色々行き違いはあるものの、親としての責任は果たされていると感じます。
私が非難していたのはうちの父母や周りにあった事例です。
お間違えのないように。

パンダさん

アドバイスは有りがたいのですが、賛成の部分ない場合は正直難しいかも…です。

ガイドラインに抵触するために先に非公開としたコメントを投稿した方から以下のような投稿がありました。

「不適切な発言をしてしまって申し訳ありませんでした。」

ご理解いただき、ありがとうございます。
大変に苦しんでのコメントであったことは感じています。
繰り返しですが、大事なのは、人に対する主張としてではなく、ご自分の問題として語られることだろうと思います。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/71205288

この記事へのトラックバック一覧です: 誰を責めることもできない:

« なけなしの柔軟性を大事にする | トップページ | お互い様のむつかしさ »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ