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2017年7月 8日 (土)

定型アスペのお互い様理解

 

さとさんから長文のコメントが寄せられて、コメント欄ではお返事しきれなさそうだったので、こちらでお返事をと思います。

 さとさんはアスペの立場から、私がここで問題にし続けてきたことについて、ちょうど裏側から議論を展開してくださっているようで、とても心強く思います。たとえば

  • >難しいな、と思うのが、「私の苦痛を取り除く為の定型発達者側の配慮」が「定型発達者にとっての苦痛」になるケースが多々あると感じられるところです。
  • >意思の疎通はある程度できている場合でも起こる定型発達者側の痛みについて考えている
 この問題、これまでなかなかアスペの方と議論しきれない感じがあったのですが、ズバッとポイントを突いて考えてくださっています。何が心強いかと言うと、これまで私は定型の側からアスペの方の考え方や感じ方を想像する、ということを模索し続けてきたのですが、ちょうどその反対のことをやろうとしてくださっていると思えるからです。そうしてくださることでようやく関係が「お互い様」に近づくことになります。アスペの方とその試みを共有できるということは、本当にありがたいことです。

  • > 「助ける」と「援助」のニュアンスは、私の中で別物になっているようです。助けるは分かるけど、援助は分からない・・・・ような。

 ここは「お互い様」という感覚がどこまで共有可能なのかにもかかわる大問題ですね。さとさんがここで「助ける」と「援助」を区別されているのは、これは私の想像ですが、「助ける」は見返りを想定しないもので、「援助」はなんらかの見返りを想定しているもの、という感じなのかなと。

 定型社会ではこの「見返り」が想定されているというのは社会を成り立たせている基本的な仕組みの一つになっています。「情けは人のためならず」というのはまさにそういうことですね(今は「情けは相手のためにならない」という間違った解釈が広がっているようですが、本来の意味は相手に情けをかければ、それはやがてまわりまわって自分にもどってくる、と言う意味です)。「金は天下のまわり物」というのも似たようなことです。お互いに好意や物を渡しあって世の中が成り立っている。

 ただし、少し複雑なのは、この「見返り」は露骨に期待してはいけないということです。むしろ「これは私の一方的な気持ちで、見返りは期待していません」という姿勢をとることが大事になるし、場合によっては見返りを期待していると相手に理解されることは大変に侮辱になったりもする。それこそ自分の好意を、下心のある「わいろ」と見られたようにも感じてしまう場合があります。

 でも、長い目で見ると、結局なにか相手からお返しが来るんですね。それで結果としてバランスが取れる。「お互い様」が成り立つわけです。お返しが来なければ、その関係は結局だんだんと疎遠になっていくことが多い。一方的な関係は長続きしません。年賀状のやりとりもそうですね。

 「助ける」と「援助」の問題もそういうことでしょう。もしさとさんの使い方について上の私の理解が正しいのであれば、定型は「援助」を「助ける」という構えでお互いにやりあう、というスタイルを重視することになります。


 そういう定型社会を成り立たせている基本的な仕組みについて、どうもアスペの方は感覚的に理解しにくいところがあるようです。たとえばさとさんはこう書かれます。

  • >私は一応理論的には相手にお礼を言うべきなのは分かるのでお礼を言うのですが、感謝の気持ちは感じられないですね。援助してくれているという気持ちや姿勢に感謝するってことかな?と思って感謝を心掛けますが、気持ち的には「何だかよく分かんないな」といったところです。

 なぜそこでずれるのか。さとさんはこう書かれます。
  • >相手の行動の結果は嬉しくないものであったとしても、自分にとって利益となる方向に動いている相手の気持ちや姿勢に感謝を示すことというのは、感情の労力に対する感情の対価の支払いであると同時に、『共感を使って相手の意識に働きかけること』の一種なのかなと思います。とすれば、それはASの人にとっては「見えないし意味も意義も感じられないし扱えない」という、かなり苦手なジャンルの行為ということになるのかもしれないな・・・と感じています。

 定型は相手の「気遣い」が結果的には自分にとっては逆効果である場合も、(それがよほどひどくていくら言っても治らない場合は別として)その相手の「気持ち」についてはうれしいと思う、という心の動き方を持っています。だから「結果として自分にはよくない結果」であることを一方的に責めることは極めてよくない行動だと理解されやすい。相手を責めるにしても、相手の好意については感謝をしながら、でもそのやりかたを批判する、という態度が求められるわけです。(あすなろさんはたぶんそういう定型的なやり方そのものが問題なのだと言われ続けているように私は思いますし、なるほどとも思いますが、他方で実態としてはそれで世の中が成り立っていることも否定できない事実です)

 もちろんそうできるのは、実際にそういう相手の「気持ち(好意)」について、うれしく感じる心があるからです。だから自分にとって困ったことでも、怒りだけではなく、喜びも同時に感じるという風になりやすい。

 ドラマなんかを見ていると、そういうシーンはよくあります。たとえば子どもが親のことを心配して一生懸命助けようとするのだけれど、結果として子どもの「浅知恵」のせいでかえって親を困らせたり窮地に追いやるようなことをしてしまうような場面。親はその子どもの行動に怒りを持ちますが、同時にその気持ちを受け止めて喜んだりする。こういう場面で子どもの気持ちを受け止めずにただ行動を責めるだけの親はダメな親だと評価されます。

 で、さとさんはそれを「感情の労力に対する感情の対価の支払い」という形で理解するところまでは同じなのですが、ただそれは頭で考えられることで、感覚的にはピンとこないと言われる。「対価の支払い」という言い方にもそこがよく表れています。支払いという言葉には、相手から受けた「負債」を「返済」する、という義務的な行為のニュアンスが強くありますが、相手の好意を喜ぶという気持ちはそういうものではありません。素朴にうれしさ、感謝の気持ちがわいてくるのですし、義務感ではなく、「そうしたいからそうする」という積極的な意味があるわけです。さとさんはたぶんその部分についてアスペの方の場合はそこが「見えないし意味も意義も感じられない」という形で表現されているのかなと。

 つまり、人間関係を作る基本的な動機の部分で、かなり大きなずれがある。定型はごく自然にそういう「欲求」が生まれて主体的にそうしたくなるのに対して、アスペの方はやるとしても頭で理解して「義務」としてやらされる感じになる。この違いは大きいです。ということで、お互いに相手のやり方に合わせると、どうしても気持ちがついていかないということが起こる。そのことを前提に考えたとき、その問題にどう対処するかということの一つとしてさとさんはこういうことを言われる。

  • > 私は、「的外れで要らない援助をされて困ってるのに、痛みを堪えてやってくれてることを正当に評価しろって言われても。」というスタンスは、『援助されているのに文句を言うな』というスタンスと似通っていると思うので、しないようにしています。円満に意志や気持ちを通い合わせてやっていこうという方針において、相手のことを考慮する気持ちは大切かなと思うからです。

 私にとってこの意見が画期的に感じられるのは、アスペの方の立場から、「定型に対して自分たちが抱きやすい否定的な見方や行動」と「アスペに対して定型が抱きやすい否定的な見方や行動」がちょうど裏表になっていて、「どっちもどっち」だと理解されているという点です。私はずっとそういう考え方にこだわってきたのですが、もしかするとそういう考え方は定型的に偏った考え方で、アスペの方とは共有できないのでは?という不安を持っていたのですね。ところがそうではないことが分かった。これは大きいです。引用は繰り返しませんが、そのあとの文章も同じです。

 とうことで、「お互いの立場を入れ替えて考えてみる」という作業が定型アスペ間でも可能なのだ、ということをさとさんのコメントで確かめたうえで、長くなるので、ここで一度切ります。


 
 
 

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