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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年7月31日 (月)

対立する「正しいこと」が生まれる道筋

 昨日の記事で整理してみた考え方について、キキさんからもお墨付きをいただいたので(笑)、引き続き少し考えてみます。

   なんで定型アスペのコミュニケーションがここまでずれてトラブルを生み出すのか、ということについて、「ことばで作る世界の違い」みたいなことから説明してみようとしたわけでした。

   ことばにはいろんな働きがあると思いますが、ひとつは人とコミュニケーションを行うための手段ですよね。そのほかに自分の中で考えるという、ひとり言の世界を生む力もあります。この独り言と言うのは、言ってみれば自分で自分に話すようなことですから、広い意味では「自分とのコミュニケーション」という意味で、人とのコミュニケーションの一部ではあります。違うのは「誰と話すか」といことです。

 それで、定型の場合はことばは「相手との関係をうまくやっていく」ための手段という意味が強く、アスペの場合は「自分の思いを確かめる(自分の世界を作る)」ための手段と言う意味が強いので、おなじことばでもこの両者の間で交わされると、そのニュアンスや目的に大きなずれが起こって、トラブルが起こりやすいことになります。

 定型の場合は「相手との関係をうまくやる」ことを優先することが多いので、そうすると「自分の思いを正直に言う」ということを控えなければならない時が出てきます。いわゆる「本音と建て前」のズレの世界ですね。

 たとえば相手の人が自分自身コンプレックスを持っているようなことについて、それを自分もそう思っても相手には言わない、ということをしたりする。それは「本当のこと(本当に思ったこと)を言わない」という意味では「嘘」をついていることにもなります。でもそれは定型的には「正しいウソ」ということになる。なぜなら、自分の利益のためではなく、「相手が傷つかないように」という「思いやりの嘘」と理解されるからです。

 実際はそれが誰の利益なのかについてはいろんな見方が可能なので、そんなに簡単には割り切れない話になりますけど、でも少なくとも「この嘘は自分の利益のためについた嘘だ」と理解されればそれは悪いことだし、「相手のために、場合によっては自分を犠牲にしてまでついた嘘だ」というふうに理解されれば同情されたり、場合によっては正しいことと考えられることもある。そういう世界観があります。

 「嘘も方便」とか「優しいウソ」とか、そんな言葉もあるくらいですね。「本音を言わない」ことが道徳的だ、と考えられる場合も出てくることになります。相手を傷つけず、お互いの関係を維持するということを優先する場合とかですね。このところでその感覚がピンとこないアスペの子どもなんかよく怒られたりするわけです。そこでは「本音=正直」を言うことが「悪いこと」と考えられている。

 ただ、当然のことながら、建前だけでは人間は生きていかれないわけですし、建前だけが暴走してしまって本音との折り合いがつかなくなってしまったら、それはそれで大きな問題が起こります。だから定型もときどき本音をぶつけ合うことが必要になるし(昔ならお酒を飲んだ席では生の本音をぶつけ合っても「酒の席の事だ」と許される、というのもありました)、相手のことばを聞いても、それをそのまま受け取るのではなく、「建前の部分もあるかもしれない」ということを前提に聞く、という態度も育っていきます。

 もちろん親しい関係になるほど、本音を言いあう割合が増えていくわけですが、それでも「親しき中にも礼儀あり」という言葉にもあるように、完全に本音だけの世界にはならない。特に「相手への思いやり」に関する部分では、本音を言うことは許されないという感覚がある。「相手が嫌がること」でも本音を言うべきだということになるのは、あくまでも「今は嫌な思いをするだろうけれど、そのことが結果として将来は相手のためになる」という理由がつくときに限られそうです。

 そんな風に徹底して「本音と建て前」を使い分けて、それで人との関係をうまくいかせようとする傾向が定型はものすごく強くて、そうすること自体が「人として正しいこと」と考えられたりして、それに縛られまくるわけです。

 その結果、自分の中で本音と建前の関係がうまくいかなくなっちゃって、建前に振り回されて自分がつぶれそうになる人も出てくる。そういうときに活躍するものの一つがカウンセリングと言う場なわけですね。カウンセリングの場では普段は建前で語らなければならないことについて、本音で語りなおすということをやるわけです。そうやって本音と建前のバランスを作り直すことで、生きやすい状態を作る、という意味がある。(アスペの方への定型的なカウンセリングが時に失敗するのは、この部分に関係するでしょう)

 そういう形で成り立っている定型社会の仕組みが、アスペにとっては受け入れがたい部分が大きいのですね。アスペの方にとってはことばは「自分の思いを確かめる」ことが大事で、そこから離れたことを言うのは「嘘」をつくことで、正直ではなく、だからそうすることにはものすごく気が咎める。ひどいことをしているような感じになる。私のパートナーなんかもそうですね。

 アスペの方が定型のやりかたにショックを受ける典型的な場面は、「陰口を言う」ような場面です。その人がいない場ではぼろくそにその人への文句を言いあってた人たちが、その人が現れると手のひらを返したようににこにことその人と接したりするのを見て、ものすごく不信感を持ったりするわけです。もちろん私もそういうのは個人的には好きでないですし、そういうことばっかりやっているような人とはあまりお付き合いしたくないですが、そこで受けるショックのレベルがアスペの方は全然違うと感じます。

 そんな定型社会で生きるには、しかたなく定型に合わせて「嘘」を言わなければいけないこともあるから、そこはアスペの方にはとてもしんどくなるわけですね。そのところを自分の感情をかかわらせずに「これが礼儀なんだ」とか思えればまだ楽になりますが、感情がかかわってしまうとそこは大変になる。

 と言う感じで、ことばの「人とのコミュニケーションの手段」という面をものすごく重視している定型と、「自分とのコミュニケーションの手段」という面を大事にしているアスペでは、そこから作られていくその人の世界にとって「何が正しいことなのか」ということの道徳観とか倫理観からして異なっていくことが考えられるわけです。

 そうすると、定型にとってはアスペの言葉はものすごく人の道に外れる、とい感じられることがあるし、逆にアスペから見れば、定型の言葉は嘘ばっかりでひどい、ということにもなる。お互いに相手を非道徳的と考えてしまうことが生まれるわけです。そしてこのズレにはなかなか気づかないのが実態でしょう。

 
 

 

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