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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年7月 9日 (日)

ルビンの壺と善悪

Rubin

 またまたさとさんのコメントからの引用で失礼します。ここでの定型アスペのやりとりについてこんなたとえを出されています。

  • > ルビンの壺を見ているような感じです。「顔なんですよ!」と言っているのに、「いえ、こちらから見ればそれは壺なんですよ?」と返されるような、間違っていないけど、噛み合っていないやりとりを見ているような気持ちになるのです。

 以前、ガーディナーさんの説明が定型にもものすごくわかりやすくて何度も感動しましたが、さとさんのたとえもまたわかりやすくて、しかも深みがあってすごいですね。

 ルビンの壺というのは上の絵です。黒いところに注目すると向き合った顔に見えるし、白いところに注目すると壺(盃)が見える、という不思議絵の一つです。

 物としてはひとつのものなのに、見え方としては二通り(以上)ある。面白いですよね。同じものを見ていても人によって、場合によってそれが何に見えるかが変わるわけです。

 定型アスペ間でもそういうことが頻繁に起こって、それがトラブルのもとになります。

 じゃあどっちの見方が正しいのか?どっちも正しいんですよね。どこに焦点を合わせるかの違いがあるだけで。

 こういうの「解釈の違い」ということになります。じゃあ解釈が違うもの同士、何も共有できないのかと言えば、実はそうではない。単純に「ルビンの壺」という「絵」を共有することは可能なわけです。そしてそういう「共有可能な議論の素材」をベースに、「どうして解釈にズレが起こるのか」を議論することが可能になる。

 「同じもの」を見ているのだけれど、「解釈にズレが起こる」という関係。

 もうひとつ面白いことがあります。ここに書かれているものは黒か白か、ということを尋ねたとして、そこに顔を見ている人は「黒」と答えることになります。逆に壺を見ている人は「白」と答えることになる。黒を見ている人はもちろん白もみているんだけど、その白い部分はいわば背景として無視される。逆に白を見ている人も黒を見ているんだけど、同様にその黒い部分は背景として無視される。

 ここで白と黒を「よいこと」と「わるいこと」の比喩として考えてみましょう。そうすると人の顔を見ている人はこの絵を邪悪な絵として感じるかもしれません。逆に壺を見ている人は善良な絵として感じることになる。

 見ているものは「物」としては同じものであるはずなのに、そこに何を見出しているかが異なる。そしてそれがいいものなのかわるいものなのかの判断も正反対になる。

 定型アスペ間ではそういうことがしょっちゅう起こっているのだと思います。で、お互いの見え方のズレ(解釈のズレ)に気づいていれば、まだ救いようがありますが、それを気づかない場合に関係がこじれまくる。壺を見ている人に対して「あなたは間違っている」というようなものです。お互いにそういうことをやる。

 
 そういうときは、「たしかに壺にも見えるが、人の顔にも見えますよ」ということをまずはお互いに納得する必要があります。だから自分の見方を相手に押し付けてはいけないのだという自覚を持つこと。

 そしてお互いに見方は違うけれど「壺にも人の顔にも見えるこの絵」を共有しているのだ、というところを自覚するのが次のステップでしょう。

 さとさんのコメントでまだ十分論じていらっしゃらないように感じるのは、それ以降のステップの事です。「いえ、こちらから見ればそれは壺なんですよ?」というのは、その次のステップに進むための準備の言葉にすぎません。お互いに相手の見方が理解できない時には、まずは「違う見方があるんだ」ということを説明するところから始めるしかない。それがお互いに納得されて初めて次があります。だから単に話がかみ合っていないということとは違うわけです。

 この「違う見方がある」という理解を妨げる原因になりやすいのが、「黒か白か」という問題でしょう。つまり、顔を見ている人には「黒=悪」でしかないものを、相手から「白=善」だと主張される。逆の立場からはその逆になります。ここは感情的な問題を含むので、「頭で理解する」というレベルよりはるかにむつかしいことになります。

 たんにどっちに見ても自分には害の及ばない「ルビンの壺」のような例の場合には「見方を切り替える」ことは比較的簡単な作業でしょう。ところがそこに自分の善悪感情や利害が絡んでくると、相手の見方を認めると自分の善がなりたたなかったり、自分の利益が損なわれたりしますから、おいそれとそれを認めることができなくなる。

 定型アスペ間ではアスペの方は定型のやり方に苦しめられ続けてきていますから、それは基本的に悪のイメージでとらえられても無理がありません。逆にアスペの方に苦しめられた定型からすれば、アスペの方のやり方は悪になる。それを否定することは、自分が苦しんできたという最も大事な事実が否定されることにもなりかねない。だからどちらからしても相手の見方を容易には認めたくないわけです。

 ここでずっと問題にし続けてきた「頭ではわかっても気持ちがついていかない」ということは、きっとそういう問題につながっているのでしょう。

 問題は、お互いにそういう「不完全さ」を抱えたもの同士が出会っているとき、どうやってその関係を調整できるかということです。「相手は私の苦しみをわかってくれない」というリアルな現実を受け入れて、なおかつ何が可能なのかということです。

 もちろんわかってくれたらこれ以上いいことはないわけですけどね(笑)、私はそれは望みますが、それを前提にはできないという……
 

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コメント

こんにちは。
私も、さとさんの壺の話はよくわかりました。

自閉の息子が時々、私の話を遮るように「でも僕はこう感じるんだ!」と怒ったように訴えることがあります。
怒ってはいないのでしょうが、必死という感じですかね。
そう言われると、私は「あ、そう、うん、そっか」で終わります。
そう感じている以上、仕方ないですもんね。
まあ、『世間ではこうなんだって』というのは付け足しますが、感じ方を変えろとは言えません。

私(ASD)もそうで、身近な人に「もっと職場の人に相談してみれば?」と言われても「でも言うのが難しいの!!怖いの!」と怒ったように言ってしまうことがあります。
それでも「でも言わないと始まらないでしょ、自分を大切にしなきゃ」とか続けられると、悲しいような気分になる時があります。

あははー、毎度のごとくズレまくってると思いますが(^^;、なんかちょっと、わかりやすいところがあったのでコメントしたくなりまして失礼をば…m(._.)m

壺の話以外は私には難しくて発言できませんでしたー

お褒めに預かり恐縮です。
コメントや掲示板にはあまり目を通していないので詳しくは分からないのですが、2つほど掲示板を見たところ、丁度そこにガーディナーさんがいらっしゃって、人柄も知見も優れた方と感じられていたので、名前を並べられると恐れ多い感じがしますね。

>さとさんのコメントでまだ十分論じていらっしゃらないように感じるのは、それ以降のステップの事です。

のところ、面白く読みました。
私の場合は、「壺にも人の顔にも見えるこの絵」を共有しているのだというところで、ひとまず終わってしまうのではないかな?と思ったのです。「そうなんだね」で終了。次からは、自ずとそれを踏まえた解釈や対応になるだろうと思っているのですが、何か違うのでしょうか?大事にしているところが違うのかもしれませんね。いつか、パンダさんの記事で、そこについて読んでみたいなと思います。

それと、「こちらから見ればそれは壺なんですよ?」という言葉は誤解を招きやすいのではないかな?と思ったりもしました。その言葉には「この絵は人の顔であり壺でもある」という情報が明記されていないので、より「いえ!私から見れば顔なんです!」という言葉を引き出しやすいのかなと感じたのです。

そして、「これって顔の絵で壺の絵で、どっちが見えるかは主観によるけどどっちも本当なんだよね。」となったところで起こる次のステップで何をしたいのか・・・・もしくは、そもそも『次のステップの為に今認識を合わせようとしているのだよ』ということを示すことも、また大事なのかな?と感じたりもしました。

そんなの当たり前でしょ?わざわざ示すことなの?っていうか、そもそもちゃんとそうやって言っているじゃん?と思われてしまうかもしれませんが、ASの人とのコミュニケーションを見ていると思うのが、こちらでも散々言われていることではありますが、『何の為にそれをしているのか分からない』ということが、本当に起きやすいのだということで、そうなると、『何の為にそれをしているのか分からない』状態で「これは壺でもあるよね?」と言うと、より「私の認識が間違っていると言うんですか?!」となりやすくなるのだろうな・・・と。

でも、こんなこと散々ここで言われ尽くしていることなので、これまた私は改めて何言ってるんだろう?感はあるのですが、パンダさんの言葉を言葉通りに受け止めれば、同じことを私の言葉で私が言うことにはそれなりの意味があるということになるかと思いますので、恥知らずのまま続けさせて頂こうかと思いますm(_ _;)m


>たんにどっちに見ても自分には害の及ばない「ルビンの壺」のような例の場合には「見方を切り替える」ことは比較的簡単な作業でしょう。ところがそこに自分の善悪感情や利害が絡んでくると、相手の見方を認めると自分の善がなりたたなかったり、自分の利益が損なわれたりしますから、おいそれとそれを認めることができなくなる。

ここも、私に乏しい感覚なのかもしれません。(ないとは思いません。)
自分の善悪感情や利害が絡んでいても、それは私の事情なので、相手を理解する際には関係ないと考えるからです。

私は熊に食べられたくはないけど、熊が私を見て「コイツ狩りやすそう」「うまそう」「暇だからしばらく遊んでそれからゆっくり食ったろ(笑)」とか思ったとして、それは相当に嫌だけど『熊サイドから見た気持ちや考え』がそうなることは分かるなーと思うのですが、それは定型の人も同じじゃないのかなと感じるのですが、どうでしょうか?

熊は全然違う生き物だから割り切れるけど、だって相手人間じゃん!話が通じて、同じ原理で生きてる筈じゃん!熊じゃないじゃん!となるのでしょうか?だとしたら、熊も人間も同じに見えているところが私の特色であり社会とのズレでもあるということになるのでしょうか。

キキさん

こんにちは。よくわかってもらうことは珍しい体験なのでうれしいです。ありがとうございます(*´v`*)

>自閉の息子が時々、私の話を遮るように「でも僕はこう感じるんだ!」と怒ったように訴えることがあります。
怒ってはいないのでしょうが、必死という感じですかね。
そう言われると、私は「あ、そう、うん、そっか」で終わります。
そう感じている以上、仕方ないですもんね。
まあ、『世間ではこうなんだって』というのは付け足しますが、感じ方を変えろとは言えません。

というのが、私と子供によく起こるやりとりとあまりに似ているので笑ってしまいました。
「そっか。まぁ気持ちは分かるよ。世間ではかくかくしかじかだから、余裕がある時に覚えておくと、今みたいに『損した!』『何で!?』ってならないかもしれない。かな。」という話を、昨日もしたところです。

子供は、『あまり世間では気持ちを分かってもらえない。お母さんは大体分かってくれる。』と思っているようです。親子補正でひいき目に見てもらっている感じがあります(*´ω`*)

>私(ASD)もそうで、身近な人に「もっと職場の人に相談してみれば?」と言われても「でも言うのが難しいの!!怖いの!」と怒ったように言ってしまうことがあります。
それでも「でも言わないと始まらないでしょ、自分を大切にしなきゃ」とか続けられると、悲しいような気分になる時があります。

身につまされてしんみりします。「悲しい気持ち」でなく「悲しいような気持ち」と表現される気持ち、分かる気がします(´・ω・`)

私も毎度のごとくズレまくってる可能性は高いのですが、コメントしたくなったのでしました(*´ω`*)

さとさん

>私の場合は、「壺にも人の顔にも見えるこの絵」を共有しているのだというところで、ひとまず終わってしまうのではないかな?と思ったのです。「そうなんだね」で終了。

 面白いですね。また見えることが増えてきました。

 私の理解では、アスペの方がほかの人の意見を聞くのは「状況を知る」ためのように思えます。それに対して定型の方は相手と意見をすり合わせ、協力関係を作れるか値踏みをし、そして関係を深めていきながら協力関係を実際に展開していくために「相手を知る」ということが重要な意味を持つわけです。

 その違いがあるから、私にとっては「次のステップ」が重要になり、さとさんはそこでとりあえず終わりになるのでしょう。「状況が分かった」らそれでOKなわけですから。

 たとえば私がこのブログをやっているのは、まずは相手を知り、自分を知るためですが、何のために知るのかと言えば、どうやって定型アスペ間のトラブルを減らし、逆に協力関係を作り上げ、「共生」できる仕組みを作るれるのかを考えたいからです。その意味では別に個人の趣味でやっているわけではありません。私が納得してそれでいいわけではなく、それによってあちこちで起こっている悲劇が少しでも減ることが目的なのです。

 それを個人的なレベルで説明しなおせば、他の多くの定型側の「当事者(アスペの方と深いかかわりを持つ人)」と同じように、自分がこれまでに定型アスペ問題でものすごく傷つき、命も職も失うところまで行った。その経験を無駄にしたくないという思いでもあります。その苦労を無駄にしない道は、同じ悲劇をほかの方たちが繰り返さなくて済むような方法を、自分の経験を踏まえて見出すことだと感じるからです。

 そういう意識を持ちやすい人と持ちにくい人は定型の間でも違いがありますが、いずれにせよ、やはり自分の問題をほかの人とつなげて考えようとする視点はすごくはっきりしているわけですね。

 
 そのことと関係しそうに思うことですが、私は誰かとこうやってやりとりしているときにも、常に「第三者はこのやりとりをどう理解するだろうか」ということを意識しています。そしてその第三者の人にも伝わる道を考える。けれどもアスペの方の場合、どうやらその感覚が希薄な方が多いような気がするわけです。このあたりも「次のステップ」を考えやすいかどうかに絡んでいそうな気がしています。

 もちろんアスペの人が自分の事ばかりでほかの人の事を考えようとしない、と言いたいわけではありません。私のパートナーも福祉関係をやっていますし、ほかの人の役に立つことが彼女の喜びにもなっています。そして変に共感的にならずに、適当な距離をとった客観的な判断で対応できるので、下手に「共感」優位なかかわりよりも実際に効果的な援助にもなる。

 だから、たぶん、他の人の事を考えるというときの、基本的な視点のところで大きなずれがあるんだと思います。

>熊は全然違う生き物だから割り切れるけど、だって相手人間じゃん!話が通じて、同じ原理で生きてる筈じゃん!熊じゃないじゃん!となるのでしょうか?だとしたら、熊も人間も同じに見えているところが私の特色であり社会とのズレでもあるということになるのでしょうか。

 クマと人間の違いは、やっぱり協力関係をどこまで作るかの違いだと思います。クマのやり方では人間の社会は崩壊します。クマの社会には福祉もないですしね。だから定型とアスペの違いはクマと人間の違いではない。アスペの方にもアスペの方なりの協力はあると思えるからです。ただその中身がずれているので、定型アスペ間でうまくいかないのでしょう。

パンダさん

ああ、だから私の話は(このブログや掲示板だけでなくリアルでも)次々飛んでしまうのかもしれません。
次のステップを考えず話し、相手の話は「そうなんだー」で終わり、話の中で興味のある単語が出てきたらそっちに話が飛び…

割と、発達障害のある人とは、この「飛び飛び」のリズムでお互い楽しく話せるような気がします。

さとさん

わあ、同じです!
私が息子にしてやれることは、できるだけ沢山「世間の常識 引き出し」を聞かせてやることと、息子の気持ちをわかって寄り添うこと…ですかねぇ…(^^;

ま、私の話す「世間の常識 引き出し」もアヤシイものですが…(^^;


さとさんと、キキさんのお話を伺った後で、面白い経験がありました!

アスペの娘との行き違いです。

私は娘に、自分の洗濯物は自分で洗うことを教えました。
明日から自分でやらせるつもりなのですが、昨日体操服の汚れが落ちなくて、漂白剤に浸けておいたんですね。で、昨日の汚れ物と一緒に今朝洗ったら、今朝着ていくものが無くなってしまった。

とりあえず、早く洗濯して登校するまでには乾いたんですが。

娘が自分でやる時に、油断して忘れると、こういうことが起きるよ、という意味で『毎日洗濯しないと、こういうことになるからね』と言ったのです。
すると、娘は自分が叱られたと思ったのか『違うよ!汚れが落ちなかったんだから仕方ないじゃない。それに私が洗濯したんじゃない!』と怒り出した。
『これがいけないというわけじゃなくて、洗濯を忘れると困ったことになると言いたかっただけだよ』と言うと、
『私はちゃんと毎日、洗濯物は出しているでしょ!(以前出し忘れて洗えなかったことがあったので注意された)』と。
もしかしたら?と思って、
『あのね、明日から自分で洗濯するでしょ。だからこれからうっかりして洗濯し忘れると、後で困るから気をつけてねって言いたかったの!』
と、ここまで説明したら、『あ、そういうこと!』と。
なるほど。ルビンの壺が壺に見えるか、人に見えるか以前に、私は壺の全体像が見えていて話をするのに、娘は壺の脚の部分しか見えていないということなんだなーと。
さとさんのお話が無かったら、私はそこまで説明せず、相変わらず娘は朝は機嫌が悪いな、で終わっていたかもしれません!

あすなろさん、その娘さんとのやりとり、私と母のやりとりと全く同じです!
昔から私は、母の言葉を「責められた!」と感じるところがあり、急に怒り出す、ということが頻繁でした。
母はそのたび訳がわからないようで、「あんたとは長く話すとあかんわ…」みたいにつぶやいていたものです。

例えば昔の話ですが、息子のことを「おぼっちゃんだからねー」と言われたら、「ちゃんと育ててる!躾もちゃんとしてるのに、なんでそんな言い方するの!」とか怒ったりしてました。
『あなたが甘やかすから、こんな甘々のおぼっちゃんになるのよ』と言われていると、咄嗟に反応してしまうんです。
ほんと、急に話の途中で怒ってしまう、そんなことが多々多々ありました。

入れ子の話なんでしょうね、これも…

人の話はゆっくり聞かないといけませんねー。

>キキさん

おお。娘の行動とキキさんが重なり、お母様の実感がよくわかります。

入れ子の理解(認識の仕方)が大きく違うということの他に、特に良いも悪いも無いメッセージを『責められた』と感じるところは、また別な感覚で、これもまた多くのアスペの人に共通するところなのかな?と感じました。

あのKatzさんでさえ、「昔はよく怒ってました」とおっしゃっていたくらいですからね。

毎度娘のことで申し訳ないですが、娘は保育園の頃から、『嫌いな人』というのがはっきりしていて、けれどその人がずっと『嫌い』ではなく、ターゲットが一年おきくらいに変わっていました。

娘の話を聞くと、さも酷いことをされたように言うのですが、実際には大したトラブルで無かったことが多々。
娘自身も小学校に上がってから『怒ってしまう自分』が嫌だと自分で言っていました。

中学に入って、一年おきに、友達の一人を『憎む』んです。その憎い友達は、次の憎い友達が出来ると何も感じなくなる。

娘に話を聞くと、色々被害を訴えるのですが、『それってお互いに悪いでしょ?』というような事や、どうしても矛盾していることがありました。
相手のことを何とも思わなくなって、『どうしてあんなに嫌っていたの?』と聞くと、『分からない。やきもちをやいていたのかも?』と言っていました。

これは理屈ではなくて、感情のコントロールの難しさなのかな?と感じます。

多分、キキさんはその辺りがコントロールできるようになったから、過去を振り返ることができるんでしょうね。

何で喜怒哀楽の怒なのかな?
怒じゃなければ、娘もトラブルを抱えなくて済むのに、と思いますが、もっとも自分を守る感情は、怒なのかもしれませんね。

キキさん

 もしよろしければ教えていただきたいことがあります。

 キキさんはこれまで定型(または定型という)人の発言で傷ついたこともきっとあったと思うのですが、でも私が思い出す範囲では(って思い出せないことが多いんですが ('◇')ゞ)、キキさんが定型(あるいはほかの人)を傷つけるような発言はぜんぜんなかったんじゃないかと思えるんですね。逆にいつも気遣いに満ちている感じがします。

 キキさんご自身の考えでは「入れ子」の話は苦手と言ことですけれども、「気遣いをする」ということについてはある意味では定型とも通じる、あるいは平均的な定型以上かもしれないと感じたりもします。

 ほかにも何人かのアスペの方で同じように感じる方があるのですが、キキさんのそういう姿勢はどんなふうにして身につけられたり、保たれたりしているのでしょう?もしかすると定型アスペ問題の解決にとって、なにか大事なヒントがそこに隠れているかもしれないと思うので、よろしければ教えてください。

パンダさん

えへへ、なんだか照れますが…

ちょっと考えてみますね、今のところ、「ここで嫌な思いをしたことがないから」しか思いつかないという体たらく(^^;

あまり期待しないでお待ちくださいませm(_ _)m (笑)

パンダさん

昨日今日の考えで浅はかですけど、忘れないうちに書いておきます。

畏れ多くも、「気遣いに満ちている」と書いていただきましたが、その字の通り、「気遣いをする(ことができる)」なのだと思います。

決して私は思いやりには溢れてないどころか、思いやりは「ない」と言ってもいいくらいです。
けど、気遣いは意思で「する」ことができるので、ある程度距離のある人には「している」状態です。
もしかしたら、昔イジメにあったこととかが影響して、「気遣いする」ことで最低限自分を守れる、と思ったのかもしれません。

けれども、近しい人(家族、恋人)には気遣いしないのです!
元々思いやりもないから、家族や恋人が例えば「今日は病院にいく」とか言っていても、次に話すときに自動的に『病院どうだった?』とは出てこないんです。
無関心なのかな、多分そうでしょう。

そして、ふと思い出して『そうだ、これ聞いてあげなきゃ』という感じで聞くのです。
そんな聞き方だから、その次に話す時にはスッカリ忘れてしまってます。
母や恋人はいつも思いやりに溢れ、気にかけてくれるのですが…

私の父は、典型的なアスペですが、それこそ思いやりもなければ気遣いもしない、とーってもマイペースなオヤジです。
しばらく会わなければ、私の名前も忘れてしまう(認知症ではない 笑)くらいなので、家族の健康や悩みにはとんと無関心で、言っても「話しがまとまってないから何のこっちゃわからん!」とイライラされたり、わからないもんだから綺麗に忘れられたりはもう、私が生まれてからずっと経験していることです。
なので、そこまでにはなりたくないなー、という気持ちも私の中にあるかもしれません。

とにかく、私は意図して(今となっては身についているところもあるので、なかば自動的にですが)、気遣いを「する」が正しいと思います。

だから、パンダさんの奥さんが、パンダさんに気遣いをしばしばしないのは、やはり距離が近いから、なんではないかと思うんです。
お仕事では頭で気遣いをされているので優秀なのではないかと…

「気遣いをする」と「思いやりに溢れる」とはエライ違いだなあ、とちょっと思ったもので…

って、パンダさんは「思いやり」の話なんてしてないっていう、これまた入れ子がゴチャッてますが、毎度すみません(^^;

キキさん

>決して私は思いやりには溢れてないどころか、思いやりは「ない」と言ってもいいくらいです。

 ということですけれど、キキさんにとって思いやりってどういうことなんでしょう?
 あと、それとも関係しますが

>母や恋人はいつも思いやりに溢れ、気にかけてくれるのですが…

 ということですけれど、そうされることはキキさんにとってはうれしいこと、あるいは必要なことでしょうか?特にどういうこともなく不要なことでしょうか?

パンダさん

うーーーん、ずっと考えてるんですが、的確な表現がなくて。
言えることは、「思いやり」は備わったものであり(発達していきどんどん深くなるものだろう)、心が関係していて、湧いてくるもの、すなわち意図的にやるものではないという感じ。
「気遣い」は、意図的にやるもののような気がしてます。

わからないのは、自分にその回路が備わってないからなのかも。

もちろん「思いやり」を示してくれる相手は必要です(ん?思いやりが必要というより相手が必要なのかな?)。
前にパンダさんがおっしゃっていたように、人を求める気持ちはあるので…。そして、思いやりのある人しか、私と永くやってはいけないと思ってます(自分勝手だからね(^^; )

ちなみに、パンダさんは、もともと思いやりに溢れるタイプとお見受けします。
気遣いは、ちょうど適度な感じで実行されているイメージで、過度すぎたり少なすぎたりすることは一貫してないイメージですね、その意味では安定してる感じがします。
(私の場合は頭で考えてやってるから、過度すぎたりするんです)

なんかまとまらなかったですけど…

今日も映画を観にいって思ってたんですが、泣くべきシーンで全然感動しないんですよね…
多分、泣くべきシーンには、思いやりの心が関係していて、相手を思うからこその喜怒哀楽が表現されているんでしょうが、残念ながら殆どの映画でわかりません。

キキさん

>「思いやり」は備わったものであり(発達していきどんどん深くなるものだろう)、心が関係していて、湧いてくるもの、すなわち意図的にやるものではないという感じ。
「気遣い」は、意図的にやるもののような気がしてます。

 むつかしいですが、感情が伴うかどうか、というような話なのでしょうか?あるいは義務感でやるのか、やりたいからやるのかの違い?

>今日も映画を観にいって思ってたんですが、泣くべきシーンで全然感動しないんですよね… 多分、泣くべきシーンには、思いやりの心が関係していて、相手を思うからこその喜怒哀楽が表現されているんでしょうが、残念ながら殆どの映画でわかりません。

 これはどんなシーンであっても泣けない、感動しない、ということでしょうか?
 たとえばここに来られたアスペの方にも、アスペについて書かれた内容に共感して涙が出そうになった、みたいなことを書かれている方も何人かあったように思うので、どんなことにも感情が動かないということはもちろんないだろうと思っているのですが。

 ただ、定型的な感動のポイントには反応しにくい、ということであれば今はなんとなくわかる気はします。


 相手のことを心配することはない、というのともたぶん違いますよね?私のパートナーの場合はときどき過剰なくらい子どもや私のことを心配していましたから。それがあまりに強烈で、心配がこちらからみて必要な援助に結びつかないので、かえってこっちがしんどくなってとても困ることが多かったのですが。

 そう考えると、彼女の場合は心配してもうまくいかないからそういう感情的なかかわりはだんだん避けるようになった、という感じもしています。

パンダさん

こんばんは(^^
直感でお答えします!(こらこら?)

>むつかしいですが、感情が伴うかど
>うか、というような話なのでしょう
>か?あるいは義務感でやるのか、や
>りたいからやるのかの違い?

出来るだけ友好的にしたいから、ですかね。義務感はあまりないと思います、なぜかというと、義務感を持って気遣いすべき家族や恋人には、リラックスしすぎて「やらない」「やることを忘れる」傾向にあるからです。

> ただ、定型的な感動のポイントに
>は反応しにくい、ということであれ
>ば今はなんとなくわかる気はしま
>す。

これこれ!これです、まさに!
私が泣くとしたら、責められて、とか、自分を責めて、とか、悔しくて、とかですかねぇ…
自分勝手なポイントで泣いてるような気がします。

> 相手のことを心配することはな
>い、というのともたぶん違いますよ
>ね?私のパートナーの場合はときど
>き過剰なくらい子どもや私のことを
>心配していましたから。

私の場合は思い込みが激しいため、心配し出すと止まらなくなって、『もう、相手を失ったら私も後を追う!』みたいなトンチンカンな心配の仕方になってきます。
これもやはり、自分勝手に心配をしていて、相手を思いやっての心配とはまたちょっと、ズレる気がするんですよね。

とにかく自己中ってことが、書きながらよく分かってきました(^^;
あくまでも私は、ですよ!
言わずもがなですが…。

相手が怒ってるから一緒に怒る、とか、一緒に泣く、とかも少ないです。
一緒に喜ぶはありますが。
親友には、「(冷静で)視点の違う意見を言ってくれるから重宝する」と言われたりします。
いいのか悪いのかわかりませんが、親友の役に立てているなら嬉しいという気持ちです。

ちなみに愛情深い母からは「あんたは可愛げがない(から、周りから距離を取られるんじゃないの?)」と言われてます(°_°) 笑

パンダさん

…と、気づいたら全然違う話になってるような(笑)
これ、母にいつも言われるんですよね、「あんたと長く話すと、違う話になってそのうち私(母)が何か気に触る言葉を言って貴方の機嫌を損ねてしまうから嫌だ」と…

えっと、気遣いは、周りを見て学んできたものです!
だから一見、定型的に、またはそれ以上に見えるかもしれませんが、いわばテンプレートをあれこれ使ってるだけだと思います。
けれど、義務感や仕方なく、というよりは、友好的にしたいからというような前向きな気持ちで使っています。

キキさん

 なるほど。「友好的にしたいからというような前向きな気持ち」というのがポイントですね、きっと。

 そして「親友の役に立てているなら嬉しいという気持ちです。」ということで、人に喜んでもらえたらうれしいという。

 しかも「トンチンカンな心配の仕方になってきます。」ということで、頓珍漢ではあれ、でもやっぱり「心配し出すと止まらなくな」る位にその気持ちは強いわけですね。

 それらは「人を求める気持ちはある」ということと結びついている。


 なんか少しわかり始めてきたような気がするんですが、基本的に人に対する気持ちはたっぷりあって、人の役に立つことがうれしい気持ちもしっかりとお持ちなわけですよね。

 ただ、それが相手の事情に合わせて調整されていく、というところにちょっと難点があり、一種自分の思い込みで突っ走ってしまうことがある。その結果、相手からすると「思いやってもらった」と実感できない場合がしばしばあって、逆にマイナスの印象を持ってしまったりもする。

 そうするとアスペの方からすると、相手のためにという気持ちを否定されるわけですから、自分の思いに素直にやったことは「これは思いやりじゃないのか」と考えざるを得なくなる。

 それで、自分の素直な思いや気持ちはとりあえずおいておいて、「こういうときにはこう気遣うべきだ」というパターンを冷静に観察して理解する、というやり方で問題を解決するようになる。

 そうすると、そのやり方は自分の自然な心の動きではなく「頭で考えたもの」なので、そういう意味で「思いやり」とは別物だと思うようになる。

 で、もともと人への気持ちはベースにあるわけですから、多少無理して「頭で理解し、考えたこと」で「気遣い」をして、それで相手に喜ばれたとしても、それはそれでうれしいことには変わりはない。ただ、相手と感情を共有する、という感じにはなりにくい。

 
 だいたいそんなことかなと、ちょっと想像してみました。
 

 

パンダさん

概ねそんな感じなんだと思います。
多分、もっともっと小さい頃は、他の子供と同じように人を求めていた(一緒に遊ぶ、とか)ように記憶しています。

ところが近所の仲良し子供グループでも弾かれるようになったり、学校に上がればもっとそんな経験があったりで、自然と人との交流を避けるようになった可能性は大です。
何が悪いのか、自覚できないモンですから、とりあえずは周りを観察し始めたのかもしれません。

昔からとってる杵柄で(笑)、私、めちゃくちゃ観察力すごくて、人の真似とか超上手いんです。記憶力もめちゃくちゃいいです。
(真似する人の中身は理解していない。表面上の話し方とか姿勢とか口癖など)。
今の職場でも真似できそうな人、たくさんいるんですけど、真似されるのが嫌だバカにして、と思う人もいるだろうから、しないように心がけています…

ちなみに…私は自分の息子が自閉で良かったと思ってます、ほんとのところ。
健常な子供をきちんとしっかり育てる自信は皆無です…(^^;

あれ?また余計な話してる〜(汗)
こうして人と喋るのも実は好きなんですね、きっと。

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