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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年7月

2017年7月27日 (木)

薄皮を一枚一枚

 子どもとパートナーの関係が、永遠にうまくいかないのではないかと思わされる時期がずっと続きましたし、そのことで彼女が子どもに対してまるで原罪を背負ったかのような姿勢になってしまい、子どもへの笑顔もほとんどなく、あるときは無理やりひきつったような笑顔になることもあったりして、私もいったいどうしたらいいのか、痛々しくて仕方なかったのですが、ほんとにこの1年くらいでしょうか、少しずつ変化が見えてきて、今は子どもに対する自然な笑顔がもう何年振り、いや十何年ぶりくらいに見られて、うれしくて仕方なかったです。

 やっぱり彼女の自然な笑顔は、私にとっては本当に大切なものなんですね。それが見られない状態はほんとうにつらい。もう一生その状態が続くのかという思いにもなっていましたが、文字通り薄皮を一枚一枚、ゆっくりとはがすように、ものすごい時間をかけて変わってきました。

 もちろん彼女だけがかわったわけではなく、子どもも私もかわってきたわけです。みんながそこで傷ついてきたわけですね。その傷跡がなくなることはないのかもしれませんが、でもちょっといじればすぐにまた血が流れるような危ういかさぶたの状態からは抜けてきているのかなとも思います。「腫れ物に触るような状態」ではなくなってきているから、自然な笑顔も出るようになっているのでしょう。

 私も、たとえば食事時にテレビを見ていて、わりに最近までは彼女の固い雰囲気が気になって、笑うこともできなかったのが、最近は気にせず馬鹿笑いもするようになってきました。自分が暗くなっていれば、彼女もますますそうなるかもしれないと思って、多少意識的に笑いを「こらえないようにする」という感じもあったりしたのですが、でもなんとなく「笑ってもいいんだ」という感じになってきている事の方が今は大きい気がします。たぶん彼女の中の変化を私がどこかで感じてきたからでしょう。そして私自身も感じ方や考え方が変わってきたのでしょう。

 あきらめないということは、やっぱり大事なのかなと思います。

2017年7月24日 (月)

お互い様のむつかしさ

 定型アスペ問題について、ここでは「お互いの感じ方、考え方、ふるまい方のズレ」に注目し、おかしな誤解で悲劇的な対立が繰り返される状況をなんとかできないか、ということを考え続けてきました。

 そのこと自体は全然間違っていないと確信していますけれど、そこでどうしても繰り返し突き当たってしまう問題は、「お互いに相手方に対して被害感情を持っている」という現実です。

 その深刻さが比較的少なめの場合は、たとえ被害感情があっても、そこを少し引いて考えることもできやすくなりますが、その被害感情がものすごく深刻なレベルまでいっている場合はそう簡単に相手の立場まで考えることは無理になります。

 さらに自分の加害者としての部分にはまったく思いが及ばず、ただただひたすら自分の被害の部分しか見えない状態に陥ってしまっている場合には、とてもではないが相手の立場を考えることなど想像もつかない、という状態になります。

 そういう感情的な部分がからまない問題については、頭で理性的に相手の立場も考えて、「お互い様の状態を考える(相対的に見る)」ことはやりやすいですが、感情的な問題がからむとその「お互い様と考える(相対的に見る)」ことのむつかしさはものすごくなってしまいます。

 人が感情的になるのは、なにか自分が大切にしている部分をだめにされてしまう、と感じたときなのでしょう。そこを譲ってしまったら自分はもう成り立たなくなる、とか、自分の願いが無になるとか、なにか自分の痛みにつながるような問題が深刻に絡んでくる時です。

 利害がからむという言い方もあるかもしれません。特に「害」がからむとき、人はものすごく防衛的になったり攻撃的にならざるを得ないところがある。そのこと自体は無理のないことでしょう。そしてその点では定型もアスペも何の違いもないと私は感じています。もうそうなってしまうと、冷静な理屈の議論はふっとんでしまい、被害感情をひたすら相手にぶつけることしかできなくなってしまいます。

 私自身の場合は、「被害」のレベルはかなり深刻だと思っていますが、たださまざまな葛藤を通して自分の「加害」の部分についてもだんだんと自覚せざるを得なくなってきたという経緯もあって、それ以前から「お互い様」という理解へのこだわりもあったことがベースとなって、定型アスペ問題でも「お互い様」という視点で「頭で考える」ことをやり続けてきました。当然その時には自分の中の激しい痛みの部分はカッコに入れて、アスペ的世界を頭で想像するというかなり大変な作業を続けることにもなりました。

 私のパートナーも被害感情は強いですが、でもやはり子どものことなどを通して自分が意図せずに結果として生んでしまった加害の部分を深刻に見つめざるを得なくなったのですね。そこがたぶん大きな転換点の一つだったろうと思います。

 だから、被害感情が激しい場合でも、そういう「お互い様」という見方の追求が全くできないわけではないと思います。

 と考えてみると、深刻な被害感情を抱え込んでしまった場合は、いずれかの段階で自分の加害性についても気づく、ということが必要になりそうだということになります。

 もちろんそれはものすごくむつかしいことで、自分が痛めつけられ続けて、もう息も絶え絶えだという感じになっているところに、さらに自分の加害性に気づいてしまえば、今度は自分で自分を痛めつけることにもなりますから、到底耐え難いことだとしても無理はありません。

 自分はこんなにも不当にひどい扱いを受け、これほど理不尽に傷つけられ続けているのに、なんでその自分が相手を傷つけてもいるなどと考える必要があるのか。そんなめちゃくちゃな話があるか。という怒りが生じても、それも無理のないことだろうと思います。

 そういう状態になった時、何が「お互い様」へのステップを生むきっかけになりうるのでしょうか?

 ひとつには、上の事から言えば、なんらかの理由で、いやがおうでも自分の加害の部分を直視するように追い込まれる場合でしょう。その場合は自ら「お互い様」へと進まざるを得なくなる。

 もうひとつは相手が自分の痛みを理解したと感じられることかもしれません。相手に自分の痛みを承認されることで、苦しんでいる自分を否定する必要がなくなります。そうすると、自分の苦しみは一応置いておいて、今度は相手の苦しみについても考える余裕が生まれる可能性が出てきます。

 この二つ目のことについてもう少し考えてみると、こういうことが言えそうです。深刻な被害感情を抱え込んでしまった場合、自分の加害性について考えること、ことばを変えると相手の被害の部分について考えることは自分の被害の部分を否定してしまうことになりかねないということです。「自分がこれだけの被害を受け、苦しんでいることが、なにか思い込みのように理解されて否定される」と感じてしまう。

 だから、「相手の被害」について考えることが「自分の被害感情の否定」につながらないような状態が生まれないと、「お互い様」に進むことがとてもむつかしいということになりそうです。

 まだいろいろな問題があるでしょうが、とりあえずそんなことを考えます。 

 

2017年7月22日 (土)

誰を責めることもできない

 今日はパートナーが離れて暮らしている子どものところに遊びに行くのを送っていきました。

 少し離れたところなので、しばらく向こうに滞在する予定ですが、ちょっとうれしそうでした。

 子育ての最中、特に思春期以降はほんとうに大変だったのですが、今はお互いにいい関係になっているという感じがします。彼女は自分がアスペで子どもを理解できなかったために子育てで定型の子どもを苦しめてしまったと思って(そして子どもからも責められたので)、ものすごく彼女自身が苦しんでいた時期が続きました。その最悪の時期を考えると、ほんとによかったという気がします。

 当たり前と言えば当たり前なのでしょうけれど、子どもは親を求める。親は子どもを大事に思う。そのこと自体は子どもの方も彼女の方も何の変りもないんです。ところがそれがうまく通じ合わない。お互いの思いのズレでいろいろなことが裏目に出てしまう。

 そうやってほんとにギリギリの状態まで進んでしまい、私も「この状態はいけない」と思いながら、そこに関わろうとしても全く効果がなく、ただ、定型的な感覚からすれば彼女の方が子どもに対する加害者だというふうには思いながら、なんの解決策も思いつけず、無力感にさいなまれる日々が続いたのでした。

 今思えば彼女も必死だったんですね。ほんとに子どものことを心の底から心配していた。にもかかわらず自分のその必死さがなぜ伝わらず、報われないのか、逆に事態を悪くしていくのかが全く理解できない状況に陥っていったわけです。絶望的な思いが続いただろうと思います。

 定型の論理から言えば、彼女の「相手のために」は全く逆効果だったとも言えます。勝手な思い込みで逆に相手を苦しめた。ちょうどここでの炎上でアスペの一部の方が定型に対してい激しく攻撃をする、その逆バージョンだったわけです。

 それで私は彼女がおかしいいと言い続けたのですが、それは決して彼女に伝わることはありませんでした。なんで自分がこんなに深く子どものことで悩み、必死で努力しているのに、それを頭から否定されるのか、まったく理解できないわけです。

 その彼女の必死さ、そして彼女なりの誠実さが多少なりともわかるようになった今、私は彼女を責める気持ちは全くなくなりました。また自分に彼女を批判する資格がないことも理解するようになりました。

 今はそれをただ「悲しいこと」として表現するほかありません。お互いに良かれと思って必死に向き合って、それが結果として悲惨な状態を生んだわけですから。その、それぞれの誠実な気持ちを考えれば、誰を責めることもできない。

 そんな地獄のような日々をすごし、何年もたって、でも今は彼女と子どもの関係はほんとに変わったんですね。今では私よりも彼女との方が気持ちのつながりが深いような気がします。ほんとによかったと、心から思います。

2017年7月21日 (金)

なけなしの柔軟性を大事にする

 このところの展開で,これまでここで繰り返されてきた炎上の仕組み,理由のわりあいに重要なものについて,私としてはかなり見えてきたという感じがしています。なにがどう理解され,その理解がどうずれているのかが自分の中ではかなり明確になり,言葉にもなってきています。そしてその理解に基づけば,それぞれの立場の主張を真似して私が再現することもたぶんかなりのところまでは可能になってきていると感じられるレベルまでは来ています。もちろんそれは頭でのことで,被害感情などの感覚的な部分では立場が違いますので理解はできても共有はできないのですが,その限界の中ではまあ結構できてきている感覚があります。

 ただ,むつかしいのは私が私の視点でそれを理解したとしても,それがほかの人に共有可能かといえばそこはやはりそう簡単ではないという現実です。共有できる方もできない方も当然のように出てくるわけです。これもまた十分に理由のある現実だと思います。

 そこで自分の視点から「相手はそれを理解<できない>人間だ」と切り捨てることはある意味簡単で,よのなかそういうことが普通に行われているわけですが,それでは定型アスペ問題への取り組みが先に進まないこともたぶん間違いないことで,その現実を見つめたうえで,何が可能か,ということを考える必要があるのだということになります。

 そこでやはりむつかしいのは,私の視点からみると,いくら説明してもかみ合わない議論を繰り返される方は,明らかに自己の視点の相対化に失敗されているように思えることです。「違う見方がある」という可能性を真剣に考えられずに,ただ自分の視点からの議論だけで突き進まれる。

 もちろんすべての人が自分の視点からしかものを考えられないわけで,私も同じですが,ただひとつ,「自分の視点は自分にとっては絶対だが,人にとっては絶対とは限らない」ということを自覚したやりとりができるかどうかによって,そのさきでずいぶん大きな違いが出てくると思えます。

 これは「視点の相対化」ということになりますが,それがどこまで可能かということについて,どうも二つの面から考える必要があるような気がしてきています。

 ひとつは単純に知的な相対化の「能力」の問題です。これまで入れ子という言葉でも考えてきた話になりますが,「「「……「彼は○○と考える」と私は考える」と彼は考える」と私は考える」……」というような入れ子は無限に作れますが,入れ子が多くなればなるほど話はややこしくなって,だれもがある程度以上は訳が分からなくなります。ただいくつ以上になるとわからなくなり始めるか,というのはその人のいわゆる「知的な能力」によって左右される部分が大きいと考えられます。

(ちょっと横道にそれますが,禅寺のお坊さんから聞いた話で面白かったのが,座禅をしていると,自分が考えていることに気付く,というわけです。で,頭で考えたらいけないというのが座禅の重要なポイントの一つのようなのですが,でもどうしても考えてしまう。そしてその次に「「自分が考えていることに気付く」自分に気付く」ということが起こる。「あ,また自分は頭で考えてしまっている」と反省するわけですね。ところがその反省している自分もまた考えている自分になるわけで,それが繰り返されると「……「「「自分が考えていることに気付く」ことに自分が気付く」ことに自分が気付く」ことに自分が気付く」……」,とこれまた無限にかっこが続くことになる。で,お坊さんは「そういう自分を放っておきなさい」というんです。それが「頭で理解する」ということの無限の繰り返しを超えることに結びつくということなんでしょうね。ま,この話もそれはそれとして限界がありそうですが,とても面白いと思います。それはさておき……)

 でもそれだけでは理解できないものがあると感じられます。それはたとえ自分がそれをよく理解できなかったとしても「相手には自分と違う視点,感じ方,考え方があるんだ」ということを認めてやりとりができるかどうか,ということの違いです。

 たとえば話を分かりやすくするために単純化して,知的には入れ子(かっこ)が三つまでOKという人があったとして,でもその三つ目で絶対視してしまって,四つ目以降の可能性を想定しながら相手と関係がとれない人があるとします。逆に二つまではなんとか行けるんだけど,それ以降は無理という人があったとして,でも自分はわかんなくても三つ目以降もあるんだということは理解してひととやりとりをする姿勢を持っている人とがあるとします。

 そうするといわゆる「知的な能力」としては三つが可能な人が上だということになりますが,でも「自分とは異なるひととの関係を調整して作る能力」という意味では二つしか可能でない人のほうが上だということになりますよね。

 別の言葉で言えば,いくら頭が良くても,ほかの人の見方を自分にはないものとして受け入れる柔軟さがなければ,関係の調整はできにくいということでもあります。で,その柔軟さというのは,いわゆる知的な能力とは別のところで育つものである可能性が高い。

 いままで議論してきたところで言えば,それはある意味で心の余裕みたいなことにもつながりますから,そういう余裕を自分の中に作りやすい環境にあった方は,比較的そこが育ちやすく,そこが厳しい環境にあった方はそこが育ちにくいことになりそうです。もちろん持って生まれた気質みたいなことも影響するはずですが。

 
 この環境の違いというは,特に子どものころは自分では選べませんから,その結果余裕のない生き方になったとしても,その人の責任とは言えません。だれでも同じ状況に置かれれば同じようになる可能性が高いわけですし。ある意味そういう環境に生まれることはその人の運命のようなものです。持って生まれた気質もそうですね。だれも自分の気質を選ぶことはできません。

 だから,その点でその人の「責任」を追及するのは,なんかずれていることになります。

 かといってやはり柔軟性が高まっていかなければお互いを傷つけあう関係は改善しないことも明らかで,その柔軟性をお互いに求めあうことは必要だし,その柔軟性を否定することについては今現在の責任を問う必要はある。

 かといって柔軟性を持つことについて積極的になれるかどうかもまたそれまでのその人の人生経験などの環境的な問題が効いてくるから,それができないことを一方的にその人の責任とすることもむつかしい。

 という堂々巡りの,鶏が先か卵が先かの話になってしまうむつかしさがあります。

 まあ,完全な柔軟性を持つ人なんてありえないわけで,それぞれ自分が持っているなけなしの柔軟性をうまく使って生きるしかないというのはみんな同じわけですが,あとはそのなけなしの柔軟性をお互いにうまく効率的に使う工夫を積み重ねることでしょうか。そこがうまくいけば,少し関係にゆとりが生まれますから,そのなけなしの柔軟性もちょっとずつ増えていくだろうと期待できますし。

 


 

2017年7月17日 (月)

アスペに「なる」しくみ

 キキさんとのこのところのやりとり(このコメント以降)で、「ああやっぱりそういうことなんだな」といろいろ腑に落ちてきました。

 ポイントは

 アスペの方は「感情がない」とまで言われたりすることがあるけど、それは絶対にない。人を求めていないと言われることがあるけど、それも嘘だ。共感を求めないこともないし、相手に喜ばれることもうれしかったりする。その意味で、よく聞かれるアスペイメージはだいたい偏った見方に決まっている。そういう「人が必要」というところ、定型と実は何も違わない。

 でも同時にアスペの方は人を避けがちで、定型との間に共感的な関係がものすごく作りにくく、わざとと誤解してしまうほどピンポイントで定型の怒りを招くような表現の仕方をしたり、非常に攻撃的に見えたり、場合によって実際に非常に暴力的だったりする人もある、というのもまた事実で、そこだけ見ると「誤ったアスペイメージ」もそう見えることにも一理あるように思える。そういうところはほとんど理解不能なくらいに定型と違っているように見える。

 この二つの矛盾したことをどう矛盾なく理解できるか、ということでした。そして私が模索してきた理解は、それを一次障がいと二次障がいに分けて考えるということでした。

 まず前提として、人とうまくやりたいと思う気持ちは定型もアスペも一緒と考えます。そして解決が困難な問題に出会ったときに、どう対処しようとするか、その気持ちの動き方も基本は一緒だと考える。これは単なる空想ではなくて、これまでのいろいろなやり取りなどから少しずつ確認を積み重ねてきたことです。

 しかし、そこでなぜか相手との感情的な関係や物の見方の調整という点で、定型とアスペの間に生まれつき大きなずれがあると考える。ここは定型の視点から言えばアスペの方の一次障がいと言われる部分で、周囲の環境や本人の努力によってどうこうなる部分とは違う。

 ここがずれるために、アスペの方がたとえ人を求めたとしても、どうしてもうまくいかずに否定されたり排除されたりする経験が積み重なる。その結果、それへの対応の手段として、①感情的に理解すること(感情的な関係づくり)に早い段階で見切りをつけ、頭で理解するような「知的な対応」を取りやすくなる。②感情的なかかわりを強く求められても混乱する結果になることが多いので、そこでは距離を取ろうとするようになる(と言う意味でも人間関係に感情を絡めないように心がける)。

 そうやってアスペの方には定型と異なる独特のコミュニケーションのスタイルが安定していき、それはアスペの方にとっては定型社会の中でなんとか自分を保つギリギリの工夫であるのだけれど、そうやって安定したアスペ的コミュニケーションスタイルは定型には理解しがたく、定型から否定的にみられることはなくならない。

 その結果、定型アスペ間にいろいろなトラブルが生じやすいという点は一貫して続き、定型的視点からそれらの状態は「障がい」の特徴として語られるようになる。ここは実はその多くが二次障がいと言われる部分で、その具体的な形は実際はその人の過去の経験や性格によって変わるわけです。たとえば極端に攻撃的で人を激しく避ける、という方があったとして、それは「もともとそういう人だ」というわけではなく、それまでの環境や経験によってそういう生き方を作り上げてきたということにすぎないわけです。

 だから、上の前提から考えれば、二次障がいの多くの部分は、定型が同じ状態に置かれたとしたら同じようになるだろう、と想像可能なものになります。実際ここではそういう作業をずっとやってきたわけです。もし自分が周囲の人と感情の動き方が全然ずれていて、自分の意図がなかなか周囲に伝わらず、逆に誤解され、責められ続けたらどうなるだろうか?とアスペの方の身になって考えてみれば、多くのことが「そりゃそうなるわな。私だって同じような状況に置かれればそうなるだろう」と思えるようになっていく。

 この見方をさらに丁寧に進めていって、一次障がいの中身をよりクリアにしていき、二次障害の生まれる仕組みへの理解を進めていけば、定型視点の自己中心的な「アスペルガー対策」とは大きく異なる、お互いの関係調整への工夫がいろいろ見えてくるはずです。

2017年7月13日 (木)

原因と結果を見間違えない大事さ

 定型アスペ問題を考えるとき,その出発点になるのは日常の中でのトラブルということになりますが,そのトラブルの性質,原因を考えていくときに,「生まれながらに持っている感じ方や考え方の特性」のずれによる部分と,「そのずれが積み重なる中で作られる,その困難への対応の仕方」のずれの部分をより分けて考えることの重要さをますます感じています。

 言葉を変えると一次障害と二次障がいの区別,という言い方もありますね。

 たとえば自閉系の特性としてわりあいイメージされやすいもののひとつに「他人とのかかわりをさける傾向が強い」というものがあるだろうと思います。それこそ「自閉」の名前の由来みたいなものですよね。

 でも,実際には自閉症スペクトラムとみなされる方の中には,かなり人とのかかわりを求めるかたも多いわけです。この場に登場されるアスペの方たちも,わざわざほかの人たちとのやりとりを求めていらっしゃるわけですし,その意味では全然「自閉」ではない。(そういう方たちを積極奇異型とかめちゃくちゃなネーミングであらわされたりもしていますが,ひどい話だと思います)

 カサンドラ症候群というのが問題になるのも,そもそもアスペの方がパートナーを求めているからです。「大事な人を求める」ことがなければ結婚も成り立たないという意味で,ここでも「自閉」ではない。

 つまり問題なのは「他人を避ける」ことではなくて,「他人を求める」ときの「求め方」や,「他人と付き合う」ときに必ず生まれるトラブルの「理解と調整の仕方」にずれがある,ということなのでしょう。

 そこがうまくいかないことが繰り返されると,結果として「他人を避ける」しかなくなる場合がある。それは原因というより結果だと考えられます。

 その証拠に,定型のがわっだって,アスペの方とうまくいかずに苦しむことが続けば,結局はそのアスペの方を「避ける」ようになりやすいでしょう。そこは同じだけど,ただ定型の場合はほかの定型の人についてはそういう避け方をしなくて済むことが多いので,「自閉」とみなされないだけとも言えます。

 ということは,「だれだって他人とうまくいかないことが続けば,他人を避けるようになる」ということは共通なわけです。違いは「他人とうまくいかない」ということが起こりやすいかどうかで,アスペの方はそれが起こりやすく,定型はそれに比べると起こりにくいという違いがある。
 
 その一つの理由はアスペは少数派なので,周りは大体自分とは違う理屈や感覚で生きている定型なので,孤立しやすいということでしょう。だから「誰にも理解されないからほかの人たちを避ける」ようになりやすい。その証拠に,この場でもアスペの方同士で共感しあう例が少なくありません。

 でも,たとえばあすなろさんの家族の例を見てもわかるように,それだけではなくて,たとえアスペの方同士が集まっていても,「同じ理屈や感覚を持っているからうまくいく」ということでもなくて,アスペ間の対立もかなりシビアになる例があるわけです。
 そう考えてみると,アスペの方が「他人を避ける」ようになりやすい原因は,「他人とずれたときにそれを調整する仕組み」に独特の性質,特性があって,その特性によって定型より関係調整が苦手な部分があることにある,と考えるとわかりやすくなります。


 アスペの方はそういう「苦手さ」をより多く抱えて成長していくことになるわけですが,そこで環境が厳しいと,周囲から否定され続けたり拒絶され続けたりすることになり,自己肯定感を持ちにくく,他者に対しては強く懐疑的になったり,敵意を持ったりすることで自らを守らざるを得なくなる。

 そしてそういう姿勢を持ち,かつ自分を強く押し出す傾向が強い人が何らかの意味で「上の立場」(妻に対する夫,子供に対する親,部下に対する上司など)に立つと,相手とのずれを調整するのが苦手な分,「力で相手をねじ伏せようとする」形になりやすい。あんこさんのお父さんの例などはその典型でしょう。

 おなじような環境に育っても,自分をあまりつよく押し出さないタイプの方の場合は「相手をねじ伏せる」よりもむしろ自分の中に問題を抱え込んでひとりで苦しむ方向に進むかもしれません。


 逆に環境がゆるやかで,周囲から肯定的に見られ,受容されて育った方の場合は,自己肯定感を保ちやすく,他者に対しても比較的信頼を持ちやすく,友好的な姿勢を持ちやすくなるでしょう。

 そうなると,もともと関係の調整が苦手であっても,気持ちにゆとりができやすいので,いろいろな工夫もしやすくなり,仮に問題が起こっても比較的軽くすむ可能性が高まるし,自分なりに楽しく生活する世界を作りやすくなる。


 この理解の仕方がどこまで実態にあって有効かはわかりませんが,仮にそんなふうに考えてみると,アスペの方は「共感性に乏しい」とか,「他人を求めようとしない」とか,そういう単純な決めつけをする必要がなくなります。それはその人が置かれた状況やその人の性格などが合わさって作られる結果なのであって,原因ではない,と考えられるようになるわけですから。

 そうすればアスペの方がほんとに多様だ,ということも無理なく理解できるようになります。アスペの方がしばしば示す純粋さも,優しさも,逆にはげしい攻撃性や場合によっては差別的な姿勢も,そのどれも「その人が置かれた状況によって生み出されうるもの」として無理なく理解ができるようになります。

 そしてここが大事っだと思うのですが,そうやっていろいろなタイプの方があり,場合によっていろいろな姿を示すことがある,ということは,定型だって基本は同じです。


 どんなコミュニケーションも多かれ少なかれずれを含んでいますし,問題の起きない人間関係もあり得ません。だいじなことはそのずれを調整し,問題を修復する工夫です。そうやって調整の仕方を考えるときに,原因と環境によって生み出される結果を取り違えるとうまくいくはずがありません。結果の部分しか見なければ,容易に相手を決めつけるだけの凝り固まった見方になり,それはさらには差別へとつながっていきます。そして調整ではなく,否定と排除の姿勢になっていきます。

 逆に原因と環境の違いから結果への流れを見つめられれば,そこに「別の可能性」を見ることが可能になり始めます。結果で相手を決めつけるのではなく,調整の工夫がそこから模索可能になるわけです。自分だって原因と環境が同じならば,同じような結果になっていた可能性が高いことが実感できるようになりますから,差別的な見方は不可能になりますし,単純な否定や排除もできなくなります。

 私がここで模索し続けているのは,たぶんそういうことなんだろうと思います。
   

2017年7月11日 (火)

矛盾を受け入れる入れ子の自分

 「あなたって困った人だね」という言葉は、一番シンプルに理解すれば「あたな」=「困った人」という断定と言うことになります。そして「困った人」=「自分にとってはマイナスの人」=「できれば避けたい人」という意味を持ちますから、そういう風に相手に言う場合には「あなたとはかかわるのがしんどい」「あなたとはもうかかわりたくない」という意味を持つことにもなりえます。

 けれども、少なくとも定型のコミュニケーションではその言葉の言い方、言うタイミング、状況などの違いによっていろんな意味を持つことができます。

 たとえばその相手の人との関係が深い信頼関係でつながっているような場合、その言葉は相手への愛情の表現であることもあります。なぜそうなるかというと、「あなたは本当に困った人だけど、それでもあなたと私は深い信頼関係でつながっている。そしてこれからもずっとそうだ。あなたのその欠点を私はこれから受け入れて生きていくことを覚悟した。たとえあなたが私を困らせるとしても、そのあなたを受け入れたいと思うほどにあなたは私にとって大事な人なのだ。」という、相手に対する思いの深さを伝えている場合もあるからです。

 「困った人」という言葉を単に「かかわりを避けたい人」という意味だけでとらえると、こういう理解の仕方は生まれようもありません。「かかわりを避ける」ということと「大事につながっていく」ということはもちろん矛盾しているからです。

 ところが定型はその矛盾をそのまま受け入れるような態度をすることがしばしばあります。

 この矛盾した思いを受け入れる、ということと、もしかすると入れ子の話がなにかつながるということを、何か漠然と感じます。

 なぜかというと、「困っていると悩んでいる自分」と「相手を大事に思い、つながっていきたいと思う自分」という二つの「自分」が同時に成り立つためには、その両方の面を見て、その両方の面を受け入れているもう一つの「自分」が必要になるからです。つまり図式化するとこうなるかも。

 「『相手に困っている自分』と『相手を大事に思う自分』の両方を見つめ、その両方を受け入れている自分」

 この時、『相手に困っている自分(a1)』と『相手を大事に思う自分(a2)』は分裂してしまうのではなくて、「その両方を受け入れている自分(A)」の二つの面だ、と言う形で一体化させられるわけです。その意味で自分(a1)と自分(a2)が自分(A)との間で入れ子の関係になっていることになります。

 自分の矛盾した思いを矛盾を含んだまま受け入れる、と言う話は定型の判断がグレーのものになることが多い、という話にもつながっていきます。さとさんが鋭く指摘されていたように、定型のグレーと言うのは「白と黒の間」という意味ではなくて、実は「白もあるし、黒もある」というその両方を認めている、という場合が結構あるわけですね。だからさとさんはそれは本当のグレーじゃないだろう(あるいは自分の考えるグレーではない)、と感じられたようです。

 でも、「『白と感じている自分』と『黒と感じている自分』の両方の自分をどちらも意味のあるものとして認めている自分」というふうに自分を入れ子にしていけば、「両方の面を持ってどちらとも決められない自分」が成り立つわけで、そこが一般的には「グレー」と表現されている中身だということになります。

 定型は、そういう風にどちらかだけに決めてしまわない「もう一人の自分」を入れ子のような形で作ることが多い。そうすると矛盾している両方が「両方ともそうだ」と言う形で受け入れられるようになる。たぶんその見方がアスペの方に理解されないことが多いのでしょう。

 定型はそうやって一見折り合いのつかない矛盾したものを一体化し、対立して分裂してしまうことを避ける、という工夫をやってきたのかなと思います。だからアスペの方のように「白か黒か」どちらかに割り切る、というスタンスに違和感を感じることがある。「そんなに簡単に割り切れないでしょう。どちらもあるでしょう」と思ってしまうわけです。

 人と人の関係は簡単に割り切れないものです。お互いに自分の理屈では割り切れないものを持っていて、どうしても完全には折り合いがつかない。人とのつながりを持続するには、そういう折り合いのつかない部分も含めて相手を受け入れていくよりない。定型はそうやって関係を持続する方向を重視する傾向がある。これに対してアスペの方は自分の理屈に合わないものは割り切ってしまう傾向が強く、そうすると自然と相手との関係は切れていきやすくなります。

 そう考えてみると、一見矛盾した二つの自分を入れ子的にもう一つの自分で受け入れていく、という関係を作るかどうかの違いが、人間関係の作り方の違いに結びついていくのだとも言えそうです。

 一部のアスペの方に非常に伝わりにくいのは、私がAの私としてa1とかa2の私を語っていることについて、Aではなくてa1かa2としてそのまま受け止められるからだろうという気がします。

 

 あすなろさんが「特に良いも悪いも無いメッセージを『責められた』と感じるところは、また別な感覚で、これもまた多くのアスペの人に共通するところなのかな?と感じました。」と書かれているところも、この理屈で言えばA(良いも悪いもないメッセージを発している自分)ではなくてa1(良いメッセージを発している自分)かa2(責めるメッセージを発している自分)としてそのまま受け止められてしまうから、と理解できることになります。もしそうならやはりそれも入れ子の有無にかかわることですね。

2017年7月 9日 (日)

ルビンの壺と善悪

Rubin

 またまたさとさんのコメントからの引用で失礼します。ここでの定型アスペのやりとりについてこんなたとえを出されています。

  • > ルビンの壺を見ているような感じです。「顔なんですよ!」と言っているのに、「いえ、こちらから見ればそれは壺なんですよ?」と返されるような、間違っていないけど、噛み合っていないやりとりを見ているような気持ちになるのです。

 以前、ガーディナーさんの説明が定型にもものすごくわかりやすくて何度も感動しましたが、さとさんのたとえもまたわかりやすくて、しかも深みがあってすごいですね。

 ルビンの壺というのは上の絵です。黒いところに注目すると向き合った顔に見えるし、白いところに注目すると壺(盃)が見える、という不思議絵の一つです。

 物としてはひとつのものなのに、見え方としては二通り(以上)ある。面白いですよね。同じものを見ていても人によって、場合によってそれが何に見えるかが変わるわけです。

 定型アスペ間でもそういうことが頻繁に起こって、それがトラブルのもとになります。

 じゃあどっちの見方が正しいのか?どっちも正しいんですよね。どこに焦点を合わせるかの違いがあるだけで。

 こういうの「解釈の違い」ということになります。じゃあ解釈が違うもの同士、何も共有できないのかと言えば、実はそうではない。単純に「ルビンの壺」という「絵」を共有することは可能なわけです。そしてそういう「共有可能な議論の素材」をベースに、「どうして解釈にズレが起こるのか」を議論することが可能になる。

 「同じもの」を見ているのだけれど、「解釈にズレが起こる」という関係。

 もうひとつ面白いことがあります。ここに書かれているものは黒か白か、ということを尋ねたとして、そこに顔を見ている人は「黒」と答えることになります。逆に壺を見ている人は「白」と答えることになる。黒を見ている人はもちろん白もみているんだけど、その白い部分はいわば背景として無視される。逆に白を見ている人も黒を見ているんだけど、同様にその黒い部分は背景として無視される。

 ここで白と黒を「よいこと」と「わるいこと」の比喩として考えてみましょう。そうすると人の顔を見ている人はこの絵を邪悪な絵として感じるかもしれません。逆に壺を見ている人は善良な絵として感じることになる。

 見ているものは「物」としては同じものであるはずなのに、そこに何を見出しているかが異なる。そしてそれがいいものなのかわるいものなのかの判断も正反対になる。

 定型アスペ間ではそういうことがしょっちゅう起こっているのだと思います。で、お互いの見え方のズレ(解釈のズレ)に気づいていれば、まだ救いようがありますが、それを気づかない場合に関係がこじれまくる。壺を見ている人に対して「あなたは間違っている」というようなものです。お互いにそういうことをやる。

 
 そういうときは、「たしかに壺にも見えるが、人の顔にも見えますよ」ということをまずはお互いに納得する必要があります。だから自分の見方を相手に押し付けてはいけないのだという自覚を持つこと。

 そしてお互いに見方は違うけれど「壺にも人の顔にも見えるこの絵」を共有しているのだ、というところを自覚するのが次のステップでしょう。

 さとさんのコメントでまだ十分論じていらっしゃらないように感じるのは、それ以降のステップの事です。「いえ、こちらから見ればそれは壺なんですよ?」というのは、その次のステップに進むための準備の言葉にすぎません。お互いに相手の見方が理解できない時には、まずは「違う見方があるんだ」ということを説明するところから始めるしかない。それがお互いに納得されて初めて次があります。だから単に話がかみ合っていないということとは違うわけです。

 この「違う見方がある」という理解を妨げる原因になりやすいのが、「黒か白か」という問題でしょう。つまり、顔を見ている人には「黒=悪」でしかないものを、相手から「白=善」だと主張される。逆の立場からはその逆になります。ここは感情的な問題を含むので、「頭で理解する」というレベルよりはるかにむつかしいことになります。

 たんにどっちに見ても自分には害の及ばない「ルビンの壺」のような例の場合には「見方を切り替える」ことは比較的簡単な作業でしょう。ところがそこに自分の善悪感情や利害が絡んでくると、相手の見方を認めると自分の善がなりたたなかったり、自分の利益が損なわれたりしますから、おいそれとそれを認めることができなくなる。

 定型アスペ間ではアスペの方は定型のやり方に苦しめられ続けてきていますから、それは基本的に悪のイメージでとらえられても無理がありません。逆にアスペの方に苦しめられた定型からすれば、アスペの方のやり方は悪になる。それを否定することは、自分が苦しんできたという最も大事な事実が否定されることにもなりかねない。だからどちらからしても相手の見方を容易には認めたくないわけです。

 ここでずっと問題にし続けてきた「頭ではわかっても気持ちがついていかない」ということは、きっとそういう問題につながっているのでしょう。

 問題は、お互いにそういう「不完全さ」を抱えたもの同士が出会っているとき、どうやってその関係を調整できるかということです。「相手は私の苦しみをわかってくれない」というリアルな現実を受け入れて、なおかつ何が可能なのかということです。

 もちろんわかってくれたらこれ以上いいことはないわけですけどね(笑)、私はそれは望みますが、それを前提にはできないという……
 

2017年7月 8日 (土)

聖人君子でなく問題に向き合う必要

 引き続きさとさんのコメントについての応答です。

  • >「〇〇君の足が引っかかって転んだ!」と泣いている子に、「それは〇〇君の足じゃないよ」とか、「〇〇君の足だったとしても悪意ではないんだよ。彼は座っていただけなんだよ。」とか言ってもどうにもならない感じと言うか。すみません。長文を3つも投稿した割に着地点の見えない話になっている気がしますが、これらのことが今回の記事を読んで思ったことでした。何とかして、良い関係を結ぶポイントが見えてくるといいなと思います。定型発達の夫と暮らす私には死活問題です(*´v`*)

 つまり、さとさんがここで問題にされているのは、「事実がどうであったか」ではなく「どういう痛みを感じたか」ということへの理解が現実の人間関係では重要だし、定型アスペ関係も同じだ、ということかなと思います。

 それについてはほんとにその通りとしか言いようがないですね。たしかにそうなんです。にもかかわらずそれがむつかしいのはなぜか、ということが問題になります。

 私についていえば、それがむつかしいのは、自分の中にどうにも癒しがたい痛みを抱えているからです。その痛みを抑えてかからなければ、相手の気持ちを想像し理解するということは不可能です(あくまで私の場合ですが)。だからそこは理性的に乗り越えるしかない部分になる。

 これは多くの人で言えると思うのですが、こちらの切実な痛みを相手が全く無視して、そのくせ自分の痛みだけを相手が激しく主張してこられたとしたら、その主張に共感的に対応できるでしょうか?そこまで人間ができてくれば、もう聖人君子の世界でしょうね。とても凡人の及ぶところではない。

 でも定型アスペ問題は聖人君子のレベルで解決してはならないのだと思うわけです。

 ということで私がなんとかたどりついたのは「お互いさま」という相対化の仕方だということになります。お互い様と思えること自体がなかなか大変なことであることも間違いないですが、聖人君子になる必要まではありません。

 そしてもうひとつとても大事だと思うことが「何とかして、良い関係を結ぶポイントが見えてくるといいな」という、その思いをお互いに大事にすることです。たくさんの困難を抱えながら、それでもどこまでその思いを維持できるかにすべてがかかっている、そんな気すらします。

 幸いこの場には、破壊的な言動をする方はときどきありますが、だいたい去っていかれますので、残る方の多くは多少なりとも「希望」を捨てない方です。悪く言えば「諦めが悪い人」ということになるかもしれませんが(笑)、とにかくそういうしつこい根性を持った人たちです。

 そういう人が一定程度いらっしゃるということが、私には希望です。問題が一挙に解決することはありえないし、ある意味では永遠に解決しないとも思いますが、これも達観していえば、もともと人が生きるというのはそれ以外ではないでしょう。いろんな矛盾を抱えながら、それでもなんとかその都度やりくりをしながら次をめざしていく。その過程でしかない。そこで希望を持って進むか、絶望して後ろ向きになるかの姿勢の違いはありますが、「解決しきれない問題を抱え続ける」という点ではどちらでも五十歩百歩でしょう。あとはある意味趣味の問題と言うか、前向きな生き方が好きか、後ろ向きがいいかということなのかも。

 ただ、たとえ亀の歩みだとしても、このブログを始めて6年余りになるその経過の中で、私自身はとても大きな進歩があったと実感しています。発達障がいに関するどんな解説書にも全く書いていないことを、ここではたくさん発見もしてきました。それは意味のあることだと思っています。

 この直前に書いたことにつながりますが、以下の話もまたそういう模索の中で見いだされてきたことの一つです。

  • >『発言に込めたつもりもない意図』が定型発達の人によって見出されてしまうことと、そのすれ違いということは、既にパンダさんの記事やコメントにもちらほらと理解されている様子が見受けられる為、わざわざ書くことではなかったかもしれませんねm(_ _;)m 特別に拗れたケースや、強い訴えや悩みが絡んでくるようなことでなくても、扇風機を出すか出さないか程度のことで日々それが頻発している状況が伝われば幸いです(´・ω・`)

 そしてさとさんが書かれている「扇風機を出すか出さないか程度のことで」という部分が、私もずっとこだわり続けてきたことの一つでもあります。

 ちょっと今は理屈が先に立った書き方になっていますが、これまで基本的にはそういう書き方はできるだけしないようにしてきました。なぜならほんとに素朴な生活の一コマの中に定型アスペ問題の本質が見えると思うからです。そういう小さなずれの積み重ねが深刻な定型アスペ問題を生む。そこをしっかり見なければ、「脳のしくみがどうのこうの」とか「薬がどうのこうの」とか、「定型社会に適応するための効果的な訓練法がどうのこうの」といったレベルの議論でとどまってしまう。それではだめだと私は思うのですね。じゃあ何が必要かと言うと、めちゃくちゃ素朴に「扇風機を出すか出さないか」ということにこだわって考え続けることだと思うわけです。幸いそれでかなりうまくいっていることが多いと感じています。

  • >コーヒーにミルクはいらなかったと言う私に「じゃぁ何で見てたの?!Σ( ̄ロ ̄;) 」と言う夫。ありがとう、扇風機は出すつもりだったのだが助かったと言う私に「じゃぁ何でわざわざあのタイミングであんな言い方したの?!Σ( ̄ロ ̄;)」という夫。
  • >それと同じ感じで、「私は困難を抱えています」 に対して、「じゃぁなんでわざわざ(今ここで)それを話したの?!」という突っ込みが発生しているのかな?というのが今の私の理解の限界のようです。
  • >むしろ、定型発達の人のルールでいけば、「へー、あなたはそうだったんですね。」と返して終わるのは冷たい態度なのかもしれませんね。私は、「へー、あなたはそうだったんですね。」で凄く満足すると思いますし、実際夫に対して「へー、そうだったんだね。」を求めて話をしたのに、アドバイスや慰めを貰って「あれ?」となることは結構あります(笑)。
 という例なんかも、私にはすごくわかりやすいですし、 すごく問題の深いところを突いている例のようにも感じます。こういうのが大事なんだと思います。

痛みを語ることと援助要求と

 さて続きです。さとさんはこういうことを書かれています。

  • >定型発達とASの両者で揉める時というのは、「ASの人が援助を求めてきたのに、援助者の姿勢を評価せずに『的外れだ』と言うなど攻撃的なふるまいを見せる。」という場合がしばしばあるのではないかな・・・と感じます。

 これはものすごく重要なポイントだと私は思います。いつか改めて整理して書こうと思っていたことですが、定型同士の関係では、「自分の内面の深いことを相手に語れば語るほど、関係が深まる」というかなり安定した傾向があります。ここで内面の深いことと言うのは、だれにでも言えることではない、ごく信頼できる親しい人にしか言えないこと、であったり、さらに深くなれば、誰にも一生言えないこと、だったりするわけです。

 その深い内面的なことは喜びに関することもあり得ますが、最も重要なのはむしろその人が抱え込んでいる傷、苦しみです。

 これも昔取った杵柄の知識ですが、定型的な関係では、ここでも「お互い様」の関係を大事にします。つまり、相手が深く自分のことを打ち明けてくれれば、自分もそれへの「お返し」として自分の深いことを語らなければならないような気持になる。そうやってお互いに少しずつ自分の内面を相手に語っていくことで、お互いの関係を深めていくのです。もし相手と会わないと思えば、そのどこかでそれ以上深めるのをやめてしまいます。それがしにくければ相手と距離をとるようにします。

 お互いに打ち明けるだけではありません。相手から深刻な悩み、深く抱えた傷を打ち明けられた場合、なんらかの形で援助しなければならないという気持ちが自然と起こる。たとえば今起こっている自然災害などについても、その悲惨な状況を見たり、被災者の声を聞くと、何かそれに対して自分がしなければならないという感情が生まれることが多い(絶対とは言いません)。災害時に全国からボランティアが集まったり、支援物質が送られたりするのは、そういう気持ちの仕組みによってです。そうやって定型社会は「お互いに支えあう」仕組みを作り上げ、ここまで発展してきたわけです。ほかの動物にはほとんど見られないことです。

 ことばを変えると、もし相手の人が、普通は他人には言わないだろうような個人的な深い悩みや傷を語った時には、ほとんど自動的にそれは「援助を求めていること」だと理解します。これは強烈なしくみで、もしそこで援助しないとなれば、その人は「冷たい人」として非難されるでしょうし、援助しないことについて本人も自責の念を持つ。

 定型アスペで起こりやすい悲劇の根がここにあります。例えばにわとりさんが自分の悲惨な体験を次々に語られた。それは定型的な感覚では、普通人には言えないようなことです。内面の非常に深い傷です。それを読む定型は強くそこに痛みを感じます。あたかも自分自身が傷つくかのように、定型的な共感ですね。

 その激しい内面の痛みを「打ち明けられた」。だからそれに答えなければならないという気持ちをごく自然に持ちます。そしてなんとかそれに援助できないだろうかと真剣に考える。トマトさんが必死でアスペの方にかかわろうとされたのも同じことが根っこにあります(もちろんその感じ方の強さは人さまざまで、いたたまれなくなってしまうタイプの人も、比較的冷静に対処する人も、それこそスペクトラムですが)。

 それだけ悲惨な内面を打ち明けたのに、相手になんの援助も求めていない、ということは定型にはおよそ想像不可能なことです。ですからそうやって援助を求めていながら求めていない、迷惑だなどと言われれば、完全に相手に騙された、自分は相手に意図的にふりまわされ、利用されたという怒りがわいてきます。それは「人の同情心を利用して相手をもてあそぶ行為であり、人間として決して許されない行為」になります。

 ところが、どうもこの定型の心の動きがアスペの方にはまた非常に理解しにくいものであるようです。だから自分の振る舞いがどれほど定型を深く傷つけているのかについて全く気付いていないように見える方がとても多い。

 そうやってお互いに相手の感じ方が全く理解できていないし、想像すらできない状態にある、ということが悲劇の発端になります。お互いになぜ自分が責められなければならないのか、まったく理解できない状態に置かれるわけですし、そこでのやりとりはますますお互いの傷を深めていく方向に発展しやすい。

 この点についてさとさんはこういうことを書かれています。

  • >「意思・気持ち・認識」を相互に理解し合うことによる調整を働かせようとするという、パンダさんがおっしゃるところの『相手の人と理解を調整して、一緒に問題を解決しようとする姿勢を作る』行動を定型発達の人がしようとすればする程に(そして、それを「AS側の求めに応じて行っている」と定型発達者が思っている程に)、どうにもならない泥沼が発生していくように見えています。

 ここは少し私は見方が違います。私はお互いのズレを明らかにすることで、これまで少しずつ調整の仕方がわかるようになってきました。そしてその方向で、いま上に書いたような、これまで何度もコントロールしがたい炎上を生み続けてきた問題のレベルについてまで、お互いのズレの在り方を理解することができてき始めています。ですから別に「どうにもならない泥沼が発生していく」とは考えていません。むしろその方向が不徹底で中途半端で、自分の視点で一方的に相手をとらえようとする枠を抜けられない場合に、泥沼になるのです。

 ということで、「傷を語ること=援助を求めること」について、さとさんの見方と私の見方がちょうど裏表の関係でぴったりかみ合っているだろうということを確認したうえで、ここでまたいったん切ります。

定型アスペのお互い様理解

 

さとさんから長文のコメントが寄せられて、コメント欄ではお返事しきれなさそうだったので、こちらでお返事をと思います。

 さとさんはアスペの立場から、私がここで問題にし続けてきたことについて、ちょうど裏側から議論を展開してくださっているようで、とても心強く思います。たとえば

  • >難しいな、と思うのが、「私の苦痛を取り除く為の定型発達者側の配慮」が「定型発達者にとっての苦痛」になるケースが多々あると感じられるところです。
  • >意思の疎通はある程度できている場合でも起こる定型発達者側の痛みについて考えている
 この問題、これまでなかなかアスペの方と議論しきれない感じがあったのですが、ズバッとポイントを突いて考えてくださっています。何が心強いかと言うと、これまで私は定型の側からアスペの方の考え方や感じ方を想像する、ということを模索し続けてきたのですが、ちょうどその反対のことをやろうとしてくださっていると思えるからです。そうしてくださることでようやく関係が「お互い様」に近づくことになります。アスペの方とその試みを共有できるということは、本当にありがたいことです。

  • > 「助ける」と「援助」のニュアンスは、私の中で別物になっているようです。助けるは分かるけど、援助は分からない・・・・ような。

 ここは「お互い様」という感覚がどこまで共有可能なのかにもかかわる大問題ですね。さとさんがここで「助ける」と「援助」を区別されているのは、これは私の想像ですが、「助ける」は見返りを想定しないもので、「援助」はなんらかの見返りを想定しているもの、という感じなのかなと。

 定型社会ではこの「見返り」が想定されているというのは社会を成り立たせている基本的な仕組みの一つになっています。「情けは人のためならず」というのはまさにそういうことですね(今は「情けは相手のためにならない」という間違った解釈が広がっているようですが、本来の意味は相手に情けをかければ、それはやがてまわりまわって自分にもどってくる、と言う意味です)。「金は天下のまわり物」というのも似たようなことです。お互いに好意や物を渡しあって世の中が成り立っている。

 ただし、少し複雑なのは、この「見返り」は露骨に期待してはいけないということです。むしろ「これは私の一方的な気持ちで、見返りは期待していません」という姿勢をとることが大事になるし、場合によっては見返りを期待していると相手に理解されることは大変に侮辱になったりもする。それこそ自分の好意を、下心のある「わいろ」と見られたようにも感じてしまう場合があります。

 でも、長い目で見ると、結局なにか相手からお返しが来るんですね。それで結果としてバランスが取れる。「お互い様」が成り立つわけです。お返しが来なければ、その関係は結局だんだんと疎遠になっていくことが多い。一方的な関係は長続きしません。年賀状のやりとりもそうですね。

 「助ける」と「援助」の問題もそういうことでしょう。もしさとさんの使い方について上の私の理解が正しいのであれば、定型は「援助」を「助ける」という構えでお互いにやりあう、というスタイルを重視することになります。


 そういう定型社会を成り立たせている基本的な仕組みについて、どうもアスペの方は感覚的に理解しにくいところがあるようです。たとえばさとさんはこう書かれます。

  • >私は一応理論的には相手にお礼を言うべきなのは分かるのでお礼を言うのですが、感謝の気持ちは感じられないですね。援助してくれているという気持ちや姿勢に感謝するってことかな?と思って感謝を心掛けますが、気持ち的には「何だかよく分かんないな」といったところです。

 なぜそこでずれるのか。さとさんはこう書かれます。
  • >相手の行動の結果は嬉しくないものであったとしても、自分にとって利益となる方向に動いている相手の気持ちや姿勢に感謝を示すことというのは、感情の労力に対する感情の対価の支払いであると同時に、『共感を使って相手の意識に働きかけること』の一種なのかなと思います。とすれば、それはASの人にとっては「見えないし意味も意義も感じられないし扱えない」という、かなり苦手なジャンルの行為ということになるのかもしれないな・・・と感じています。

 定型は相手の「気遣い」が結果的には自分にとっては逆効果である場合も、(それがよほどひどくていくら言っても治らない場合は別として)その相手の「気持ち」についてはうれしいと思う、という心の動き方を持っています。だから「結果として自分にはよくない結果」であることを一方的に責めることは極めてよくない行動だと理解されやすい。相手を責めるにしても、相手の好意については感謝をしながら、でもそのやりかたを批判する、という態度が求められるわけです。(あすなろさんはたぶんそういう定型的なやり方そのものが問題なのだと言われ続けているように私は思いますし、なるほどとも思いますが、他方で実態としてはそれで世の中が成り立っていることも否定できない事実です)

 もちろんそうできるのは、実際にそういう相手の「気持ち(好意)」について、うれしく感じる心があるからです。だから自分にとって困ったことでも、怒りだけではなく、喜びも同時に感じるという風になりやすい。

 ドラマなんかを見ていると、そういうシーンはよくあります。たとえば子どもが親のことを心配して一生懸命助けようとするのだけれど、結果として子どもの「浅知恵」のせいでかえって親を困らせたり窮地に追いやるようなことをしてしまうような場面。親はその子どもの行動に怒りを持ちますが、同時にその気持ちを受け止めて喜んだりする。こういう場面で子どもの気持ちを受け止めずにただ行動を責めるだけの親はダメな親だと評価されます。

 で、さとさんはそれを「感情の労力に対する感情の対価の支払い」という形で理解するところまでは同じなのですが、ただそれは頭で考えられることで、感覚的にはピンとこないと言われる。「対価の支払い」という言い方にもそこがよく表れています。支払いという言葉には、相手から受けた「負債」を「返済」する、という義務的な行為のニュアンスが強くありますが、相手の好意を喜ぶという気持ちはそういうものではありません。素朴にうれしさ、感謝の気持ちがわいてくるのですし、義務感ではなく、「そうしたいからそうする」という積極的な意味があるわけです。さとさんはたぶんその部分についてアスペの方の場合はそこが「見えないし意味も意義も感じられない」という形で表現されているのかなと。

 つまり、人間関係を作る基本的な動機の部分で、かなり大きなずれがある。定型はごく自然にそういう「欲求」が生まれて主体的にそうしたくなるのに対して、アスペの方はやるとしても頭で理解して「義務」としてやらされる感じになる。この違いは大きいです。ということで、お互いに相手のやり方に合わせると、どうしても気持ちがついていかないということが起こる。そのことを前提に考えたとき、その問題にどう対処するかということの一つとしてさとさんはこういうことを言われる。

  • > 私は、「的外れで要らない援助をされて困ってるのに、痛みを堪えてやってくれてることを正当に評価しろって言われても。」というスタンスは、『援助されているのに文句を言うな』というスタンスと似通っていると思うので、しないようにしています。円満に意志や気持ちを通い合わせてやっていこうという方針において、相手のことを考慮する気持ちは大切かなと思うからです。

 私にとってこの意見が画期的に感じられるのは、アスペの方の立場から、「定型に対して自分たちが抱きやすい否定的な見方や行動」と「アスペに対して定型が抱きやすい否定的な見方や行動」がちょうど裏表になっていて、「どっちもどっち」だと理解されているという点です。私はずっとそういう考え方にこだわってきたのですが、もしかするとそういう考え方は定型的に偏った考え方で、アスペの方とは共有できないのでは?という不安を持っていたのですね。ところがそうではないことが分かった。これは大きいです。引用は繰り返しませんが、そのあとの文章も同じです。

 とうことで、「お互いの立場を入れ替えて考えてみる」という作業が定型アスペ間でも可能なのだ、ということをさとさんのコメントで確かめたうえで、長くなるので、ここで一度切ります。


 
 
 

責任と配慮の連鎖

 例えば片耳の聞こえが悪くて、そちら側から話しかけられても気づかず応答できない人に、話しかけた人が「自分を無視している」と怒ったとします。もし片耳の聞こえが悪いことを知らなければ、その人が怒ることも無理はないと言えますが、でも聞こえの事を知った後は、起こるのは理不尽ということになりますし、それ以降は逆に話しかけた人の配慮が足りないということになります。

 もし本人が自分の聞こえが悪いことに気づかないまま、ずっと育ったとして、そうすると周囲から自分がわからない理由で文句を言われ続けたりするかもしれず、そういう周囲に対して不信感や怒りを積み重ねていくかもしれません。その結果、人に対して攻撃的な姿勢を作り上げていくかもしれず、周囲がそのことで不当に傷つくこともあり得ます。

 周囲の人からすれば、自分には何の落ち度もなく、普通に接しているつもりなのに激しく攻撃され続け、傷つくのは実に理不尽なことです。許しがたいと思っても無理はありません。

 他方、本人からすれば、やはりわけもわからず否定され続けてきたのですから、それに対して防衛的、あるいは攻撃的な性格を作り上げたとしても、これもまた無理はありません。

 そういう性格が作られてしまった後で、実は「片耳の聞こえの問題」がそこにあったと本人が知ったとしても、いったん作り上げられた性格や感情の動きは、そんなに簡単に変化するものではありません。だからその防衛的か攻撃的な性格は、誰に対しても発揮されやすい状態が続く。

 一種の性格として定着してしまったそういう防衛的・攻撃的な行動は、相手を選ばず、誰に対しても発揮されやすくなります。だから、そこで攻撃された人は何で自分が攻撃されるのかが全く分からないことになる。本人を不当に攻撃する人に対して反撃することは当然としても、自分にそれを向けることは単なる八つ当たりにしか見えなくなりますし、周囲が見てもそうでしょう。

 そうやってその人はますます周りの人たちから排斥されるようになってきます。そしてその結果として、世の中全てが自分を否定しているという「信念」が固まり、その性格はますます強固になり、そしてその結果また周囲の人を激しく傷つけ、さらに激しく排斥されるようになる、という悪循環が起こります。

 

 そんなたとえ話を考えてみると、本人が防衛的・攻撃的になるのも理解できるし、逆に周囲の人が傷つけられる理不尽さも当然と言えることになるでしょう。どちらも正しいし、どちらも間違っています。

 

 定型アスペ間で、時にそういうことが起こるのだと思います。特に子どものころから周囲に緩やかに自分を受け入れ、あるいは肯定的に見てくれる環境がなかったアスペの方は、そういう防衛的で攻撃的な性格が作られやすいと考えられますが、でもそれはいわば環境のせいですから、本人の努力ではどうしようもない部分があり、それを本人の責任とは言えない。

 ということは、逆に言うと定型の側がそういうアスペの方に激しく傷つけられ、受け入れがたく感じたとしても、そのこと自体を責めることもまたできないことになります。

 その意味では誰にも責任はない。

 でも傷は生まれるのです。どちらにも。その傷については責任はないとは言えない。

 

 こんなたとえを考えてみます。お互いに全く予測できない出会い頭の事故で、二人とも傷ついてしまったとします。どうしたらいいでしょうか。

 傷の深さにもよりますが、傷の浅い人の方は傷の深い人に対して援助することが期待されるでしょう。自分も傷つきながら、でもそうする必要はある。お互いに同じほどの傷であるとすれば、体力が大きい人の方が相手に対するより大きな援助を期待されるでしょう。

 自分が傷ついているのは、半分は相手の責任です。でもこの時に援助を受けている側が援助する側を自分を傷つけたと責めるのはおかしなことです。相手が痛みをこらえて援助してくれていることについては正当に評価すべきです。そのとき、痛みをこらえているのは自分だけだと思うのは自己中心的な全くの傲慢でしかありません。

 問題はその「援助」が的外れで、かえって傷を深くしてしまう場合です。この時は援助される側が「それは的外れ」だということを訴えるしかない。本人が訴えない限り、善意の相手は決して気づかないからです。

 そのことを訴えられた側は、自分の援助の仕方を変える責任が出てくるでしょう。実際には自分の援助のどこが悪いのかを理解すること自体むつかしかったりしますから、簡単ではないにしても、その必要はあります。その必要を無視して、「援助されているのに文句を言うな」と言ってしまえば、それは責任の放棄になりますから、援助をやめるべきです。

 たぶん、問題はそういうお互いの配慮の連鎖の問題なのです。固定的にだれかが責任を一方的に追っていることはない。やりとりのなかで動いていくものです。それを固定して考えてしまうと、問題は永遠に続くでしょう。

  

2017年7月 6日 (木)

がさつく心

 このところのやりとりのいくつかでは、どうしても心ががさつく、という感覚が生まれてしまいます。ものすごく深い不信感や積み重なったいらだち、怒りが相手の心をやすりですり下ろすように、あるいはキリでもむように突き刺さってくる。

 以前ならこういう展開はすぐに「炎上」に結びついていたところ、私もだいぶんそういうやりとりへの「耐性」はできてきたので、ある意味「自分の感覚をマヒさせる」ことで感情的にならずになんとかやりとりは持続させられるように「成長」はしてきましたが、ただその代償として心ががさつく状態になることは残念ながら今は解消できません。普通に(?)日常を送っている方たちにはこの攻撃的な姿勢をベースにしたやりとりは、かなり耐え難い状態ではないかとも思います。

 別に誰かが悪いということを言いたいわけではありません。これもまた定型アスペ問題の一部で、単純にどちらのせいというわけではなくお互いの関係の結果であることは間違いないと思います。ですから、この問題を避けてしまうと、定型アスペ問題に向き合うことができなくなってしまう部分がある。その意味で、どこかで乗り越えなければならないところだと思いますし、そのプロセスとして考えれば、以前ならすぐに炎上していたところがそうではないやりとりが一応は続くようになっただけで大きな進歩だと思います。

 私のこれまでの経験から言うと、人がそんな風に攻撃的になる場合は、だいたい自分がそういう攻撃を受けていると感じられている場合が多いように思います。だからその意味で「自分がやられていることを相手にやり返している」という感覚になりやすく、攻撃することに「正当性」が感じられたりする。その際に相手が柔らかく構えようとしたりすると、それが今度は「自分を見下している」とか「バカにしている」、あるいは「本性を隠している」と感じられて怒りに火をそそぐ結果になったりする。

 これは定型であろうがアスペであろうがだれもがそういうことが起こりえると私は思っていますし、私自身もそういうパターンに陥ることがありました。その意味では定型アスペ問題ではないのですが、ただ状況によってそういうところに追い込まれやすいのはアスペの方である、という意味では定型アスペ問題の一つだと思うわけです。

 定型社会がクッションを多用するのは、そういう形での衝突を減らそうとする工夫でもあります。アスペの方から見るとそれが「本音を隠している」とか「嘘をついている」などと見えることが多く、そして実際にそういう場合もあるので、アスペの方の見方が全く外れているわけではないのですが、ただそういう見方だけでは割り切れない大事な働きがそこにはあるわけですね。それがあるから定型社会はこれだけ複雑で巨大な社会を、たとえ問題だらけだとしてもなんとかぎりぎり動かすことができているともいえるわけです。

 ネットの社会は顔の見えないことで無責任が放置されやすい社会でもありますから、そういうクッションが簡単に無視されて、激しい憎悪や攻撃のやりとりが展開しやすい性格を持っています。それは形骸化した「建前」を崩して「本音」をぶつけあうという意味では必ずしも否定できない意味を持っていると思いますが、ただそこでなんのために本音をぶつけ合うのか、ということがものすごく大きな問題だと思うわけです。

 しばしばみられることは、単に日ごろ自分に鬱積したマイナスの感情を人を攻撃することで発散させているだけのやりとりです。それは関係を作ろうとする働きかけではなく、単に相手を破壊することで自己満足を得るだけに終わります。その結果、実際には何の解決にもならず、相手を傷つけるだけで、実は自分の人格も傷ついていくことになります。それは破壊を生みますが、新しいものを生み出す力を持ちません。

 破壊はある意味簡単ですよね。問題は新しいものを生み出すことです。

 私が心ががさついても応答する場合は、多少なりともそこから何かが生み出される可能性を感じる場合です。単に自己満足の攻撃をするだけのことと感じられる場合は基本的にあまり応じないようにしています。これもまたお互い様だと思います。お互いにその可能性を感じつつやりとりができるかどうか、そこが大事なのでしょうね。

 
 

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