2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 2017年5月 | トップページ | 2017年7月 »

2017年6月

2017年6月26日 (月)

 強者VS弱者

 最近なんだか慌ただしくて、記事を書くゆとりがなかなか取れませんでした。また次はいつになるのかわかりませんが、まあぼちぼちと。

 このところちょっとずつその思いを深めているのですが、定型アスペに関係なく、非常に厳しい環境に置かれ、自分を否定され続けてきた人の感覚は、そうでない人の感覚とものすごく深いところで違いが生まれてきてしまうのではないかという気がするのです。

 定型でも、たとえば戦争などの悲劇的な事態で親を失ったり、あるいは身体的な障がいを負ってひどい差別を受け続け、誰も本当には自分の味方にはなってくれず、むしろ迫害者の側、差別する側に回られたり、よくても「あわれみ」をかけられるだけだったりするような世界で生きざるを得なかった場合、その大変さは私の想像を超えます。

 そういう経験を避けられた人間は、いくらその大変さを語られてもなかなか本当には実感しにくいことですから、どうしてもその受け止め方が表面的になってしまいます。そしてそういう表面的な受け止め方、理解の仕方のレベルで応答すると、相手からすれば「全く理解していない!」と感じられることがあってもある意味当然でしょう。

 カサンドラも同じことですよね。アスペのパートナーを持った定型が体験する想像を絶するような苦しみを、その経験がない定型の人はピンとこない。そして自分の経験の範囲でそれを理解するから、実に浅い表面的な理解になって、当人の苦しみの深さに全然届かない。その結果、周りの人から自分の苦しみを理解されなくてカサンドラになったりするわけです。

 私も私なりに、ほかの人とはまた違ったかなりの苦労を重ねてきている部分がありますが、そのしんどさはなかなか人には伝わりません。たとえ話しても、とても表面的な受け止め方しかされずにかえってしんどくなることも多くなります。

 アスペの方の抱えるしんどさも、やはり同じような状態になることが多いのだろうと思います。そしてその深刻度が非常に深まりやすい。

 定型アスペ間に生まれがちな対立には、「定型とアスペの違い」から生まれるということ以前に、経験内容のシビアさが共有されにくいということが一般的に大きく効いてくる部分があるのではないか、ということを思うわけです。

 たとえば原発事故で故郷を追われた方たちが、異郷で暮らさざるを得ず、ところがその地でまた差別を受けたり、将来に絶望して自殺をされたりする悲劇があるわけですが、それもその苦しさを知らない人からすれば、なんだか甘えだとおもわれてしまったりすらすることがあります。

 たとえば鬱になった人が仕事ができなくなった時、それを「なまけている」としか感じられない人たちがいます。

 そういう風に言われると、当事者はみんな本当につらいわけです。

 これはですから定型アスペ問題と言うよりも、もっと一般的なことですね。いわゆる強者と弱者の間に起こりやすい対立のような。ただそういうことが定型アスペ問題ではよくおこりやすい、とは言えますが。

 このあたりの区別をうまくしながら、ごちゃごちゃにしないで整理しつつ考えていくことが、定型アスペ問題にはかなり重要なのかなと思うのでした。

 

2017年6月 7日 (水)

ルールの違い

 あることについて,私がだいぶ頑張って解決しようとしてきたのですが,そのことをパートナーに話してもなかなか理解してもらえない,という状態が続いていました。

 今回もまたそういうやりとりがあったのですが,私のわからない説明に業を煮やしたのか,彼女が「それであなたはその(解決の)ために何をやったの?!」というようなことを問い詰めるような口調で(と聞こえてしまう)言うんですね。

 で,私はまたもやショックを受けるわけです。今まで説明してきたことは何だったのか?私が努力をしている姿を全然見ていなかったのか?という,ちょっと愕然とする思いです。


 それから少しして,「ああ,これも<あれ>だよな」と気づくんですね。

 彼女にとってその言葉の意味はたぶんこういうことです。私の努力は人間関係の調整に関係する部分がとても大きいので,そこで私が何をどう調整しようとしているか,ということについては彼女はまずわかりにくい。そういうやりかた,見方は彼女のレパートリーの中にはなくて,彼女は違うやり方で解決しようとするからです。

 だから,私がどれほど一生懸命説明しても,何をしているのかがぴんと来ない。できるだけわかりやすいようにとたとえ話などをしても,そのたとえの意味が伝わらない。だからごくシンプルに「何をやったのかわからない」ということになります。

 ここまでは私もそういうこともあるだろうとは思えるので,「そのやりかたの意味が分からない」というような形で言われれば,「ああ,ここはやっぱり見方や考え方がすごく違うんだな。だから伝わりにくいんだな」と思ってそれでOKになるわけですね。そしてもう少し伝わりやすい説明はないだろうかと考える。



 でも,彼女の言い方はそうではなくて,「何をやったの?」ということでした。このことばは定型的には全然違う意味を持つことが多い。とくに強い口調で言われるときはそうです。つまり,「何をやったの?」=「何もやってないじゃない!」という強い非難の意味が相手に伝わるのです。

 定型アスペの間でよく問題になるエピソードの一つとして,部屋が暑いときに「暑いね」と相手に言うと,アスペの相手が「暑いね」といってそれでおしまいになって,コミュニケーションがうまくいかないという例があります。このとき定型の言う「暑いね」には「だから窓をあけない?」とか「クーラーをつけない?」という問いかけとか依頼の意味が入っていて,むしろそちらのほうが言葉の主な意味になっているわけです。

 アスペ的理解の展開
   定 「暑い(と私は感じるけど)ね。(あなたはどうなの?)」
   ア 「(私も)暑い(と感じる)ね。」

 定型的理解の展開
   定1 「暑い(と私は感じるけど)ね。(あなたはどうなのかな?もしあなたも暑いのなら,窓を開けたほうがいいのじゃない?あなたは近くにいるから窓を開けてくれると嬉しいんだけど)」
   定2 「(たしかに暑いと私も思う。だから)窓を開けようか」
 
 というような違いが生じやすいわけです。たぶん。で,なんで定型がストレートに「開けて」と言わないことが多いかというと,それはこれもたぶん「相手の気持ちに働きかけようとする」からです。

 「暑いね」という言葉は,最初にまずお互いに「暑いと感じている」というところは共通だという確認の意味があります。(だからもし「いや,そんなに暑くないけど」と言われればその後の展開は変わる) 

 そして,もしそこで相手が否定しなければ,「問題が共有された」ことになりますし,「じゃあ一緒に問題を解決するにはどうしたらいいか」という課題が生まれることになる。

 で,どうやって解決をするかといえば,窓を開けるとかクーラーをつけるなどがあるわけですが,そこで状況からみて話した側がそれをするより相手にしてもらったほうが何かの意味でよかったり便利だったりする,ということが分かると,相手の人が自分でその判断をしてそうする。という展開になる。

 つまり,定型のこの言い方には「相手のひとと理解を調整して,一緒に問題を解決しようとする姿勢を作り,そのうえで,その役割を相手の人に自主的に判断してやってもらおうとする」というような意味があると考えられます。

 これに対してダイレクトに「開けて」というときには,直接的な命令ですから,相手の人に判断をゆだねるというクッションがないわけですね。


 似たようなことがカナータイプの自閉の子がしばしば見せる「クレーン現象」というのにも見られます。

 たとえば相手にドアを開けてほしいとき,相手の腕をつかんでそれをドアのノブにポンと置いたりする,というあれです。これをされるとされたほうは何となく自分が物のように扱われた気分になります。

 なぜかというと,一般的なやり方では相手に「ドアを開けて」と言葉で要求するわけですが,それは言葉で相手の気持ちとか意図に働きかけて,その人に自分の意志で開けてもらう,ということをやるわけですが,そういう言葉での要求抜きで腕をつかまれて「強制的に」あることをさせられた,という感覚になるからです。つまり自分の意志が無視されたように感じるわけですね。人は物を扱うときには物の意志など考えませんから,それと同じような扱いを受けた印象になるわけです。


 ということで,定型的な発達では「相手の意志に働きかけることで自分の要求を実現しようとする」ということをどんどん複雑化させていきます。そうやってクッションを何重にもしていく。その先に「暑いね」という言葉のような「間接的な要求」みたいなことが生まれてくることになります。

 これに対してアスペ的な発達ではそういうクッションを発達させるのではない形で,もう少しストレートなやり取りの仕方を重視する方向にいくのだろうなと思います。そうすると定型的なクッションはますます意味が分からなくなり,定型のやり取りを見て「本心を隠している」「本当のことを言わない」という否定的な理解がそこから生まれてくることもある。


 で,彼女の「何をやったの?」という言葉はそのストレートバージョンなわけですね。それは私のやっていることの意味が説明を受けても分からないので,「(それはつまり)何をやった(ことになる)の?」と素朴に尋ねているだけなのです。でも定型の私はその同じ言葉に「何もやっていないじゃない!」という裏の意味を感じ取ってしまうし,そして実際彼女の表情が相手を非難するときの表情に近い(実際は困惑の表情)なので,そこはもう間違いないと思えてしまうことになります。頭で考えるのではなく,自動的にそう理解してしまうわけですね。

 ようするに,お互いにコミュニケーションのルールが違うわけです。だからお互いに相手のやりかたは「反則」に見えてしまって,困惑したり,ショックを受けたり,怒りを覚えたりすることになります。
 

2017年6月 3日 (土)

ぼくが発達障害だからできたこと

 星さんが紹介してくださったぼくが発達障害だからできたこと」という本を読みました。

 著者の市川拓司さんは、「いま、会いに行きます」の原著者でもあります。

 
 なんというのか、これを読んで、これまでずっとこのブログでこだわって探り続けてきたことについて、ひとつの答えがでたような気がしました。

 ある意味で私の模索に、ひとつの終わりが来たような。


 最後に星野さんという精神科医が精神科の知識をフル動員してとんちんかんな解説を丁寧にされていますが、それもまた市川さんの文章との対比の中で、ある種の精神科医の人に典型的な見方をよく表していて、問題を面白く示してくれているとも言えそうです。

 もちろん星野さんも精神科医として長年の経験に基づいて誠実に解説をしていることは間違いなく、そして最後にその自分の視点の限界を「神のみわざ」を持ってきて告白せざるをえなくなる、という意味でもほんとにまじめな方だなとも思いましたが。

 
 市川さんのおかげで、「定型とアスペがひととひととして対等に生きていく」ということのリアリティが、実感として得られた気がします。それは当事者研究などを(ほんの少しですが)読んでも得られなかった感覚です。そしてたぶんその感覚がこのブログで私が求め続けてきたことなんだろうと思います。

 みなさんとのやりとりで少しずつ予感できてきたことが、市川さんの本である種の確信になったということでしょうか。


 とりあえずなんかすっきりと卒業の感覚。 星さん感謝!

« 2017年5月 | トップページ | 2017年7月 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ