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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年5月11日 (木)

考え方のスタイルの違い

 目覚めとともにふと思ったことです。

 私の場合、私のこだわりポイントというのがやっぱりあって、それは矛盾したようなことでもありますし、いつでもどこでもそうだというわけでもないのですが、ひとつにはできるだけ柔軟に考えたいということと、もうひとつは筋の通らない話は苦手だということです。

 あえて言えばそのどちらも「人とのコミュニケーション」にとって大事なことだという感覚があって、柔軟に考えることの大事さというのは、自分の見方だけではなく、相手の見方も可能な限り理解しながら、自分からの一方的な決めつけは避けたいという気持ちにつながる部分があります。(もちろん実際にはそれができないことも多いのですが)

 筋の通らない話については、これも「筋が通る」から「相手にも共有してもらえる」という感じ方がどこかにあるような気がします。自分だけの身勝手な理屈で言うんじゃない、誰でもまともに考えればそう思えるでしょ?というのが「筋が通る」話ということでしょうか。だからここでも「話が矛盾している」とか、そいういうのはおかしいとこだわり続けたりもしたわけです。

 そういう傾向があるので、パートナーの話がその部分で「かちん」と来ることがずっと繰り返されてきたんだ、ということにまずふと気が付いたんですね。私から見て筋の通らない話を一方的に決めつけたように言われるように感じる。それで、「それはおかしいでしょう?」とすぐに反論したくなるわけです。

 けれどもそういう「反論」でうまくいったことはほとんどありません。だいたい泥沼になって終わり。どちらかがいやになって話が途切れたり、彼女からは「何が言いたいのかわからない」と困惑した顔で言われて、私の方が「なんでこんなに単純なことが伝わらないんだ」という気持ちになってがっくりする、ということが何度も繰り返されました。

 子育ての仕方や私に対する要求なども、とにかく「押しつけ」と感じられるものが多くて、全然柔軟性がなくて、息苦しい……と、かつてはそう感じてものすごく憤ったり、しんどい思いが続いたりしていました。なんでこんなにかたくななんだ、筋も通らないことについて、一方的に。という思いになったわけです。自分のことについてはまだ我慢しても、子どものことについては実際に子どもがそれで苦しんでいるように私には見えたので、とてもつらかったのですね。

 このことを、一般的な「自閉理解」で言えば、こんな風に言われることになるのでしょう。自閉の人は「こだわり」が強く、状況に合わせて柔軟に考えたり対処したりすることができない。自分の視点とは異なる他者の視点を考えて、異なる視点を切り替えながら対応することがむつかしい。それで考え方や行動が固くなったり、相手にそれを要求するときは一方的な押しつけになりやすい、という説明の仕方です。

 でも、この説明の仕方は、わかりやすい部分もあるけど、何かどうしてもすっと受け入れられない部分が残っていたのですね。それこそなにか「定型はすばらしい。自閉は困ったものだ」という定型中心の見方になってしまっている感じがして、そこが嫌だったのです。

 それで、寝覚めとともに思ったのは、「これは考え方、納得の仕方のスタイルの違いなんだ」という理解の仕方をすれば、かなりすっきりする。ということでした。どちらが優れているとかいう話ではなく、それぞれが自分の特性に合わせていろいろ理解をしようとするときに、どうやって自分の納得感を作っていくか、その作り方のスタイルの違いなんだと。

 私のスタイルは彼女にはなかなか通用しません。そして同じように彼女のスタイルは私には通用しない。どちらが優れているということではなく、お互いに相手には通用しにくいスタイルを持っているのだ、と考えてみると、結構楽になる感じがしたのです。

 そういう考え方をすれば、改めてそれぞれのスタイルのプラスの面も見つけられる可能性も出てくるし、うまくいけばその組み合わせ方も見つかるかもしれません。まあ、そこはそんなに簡単なことではないでしょうけれど、ちょっと可能性が感じられる。

 「自分で納得する考え方のスタイルを大事にする」ということと、「相手の考え方のスタイルを尊重する」ということと、「お互いの異なる考え方のスタイルの関係を調整する」ということと、そのあたりを考えていくことが重要なのかなという気がします。

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コメント

こんばんは(^^)

記事を読んでいて感じたのが、私は「普通、そうだろう?」「普通それはおかしいだろう?」という感覚を感じたことがほぼありません。
これまでは、人から「KY」とか「頭が悪い、どうして幼稚園の子にでもわかるようなことが分からないのだ」とか「世間知らずのお嬢さん(←今はお嬢さんではないですがf^_^;)、などと言われてきましたが、やっぱり未だに「一般に」がわからないのです。

だから、パンダさんの言う「筋の通る話」もわからないんです。
何がどうなったら「筋が通る」のか。
(自分の言っていることは筋の通らない話なんだろうな、と感じることはありますが、「通る」のはどういう考えかはわかりません)

きっと、任侠の世界では生きていけないと思いますf^_^;
いや、その世界でなくても今現在やっとこさ生きてる状態ですがね…

教えてもらえば、知識として蓄積はできます。「そういうのが筋ってものなのか」と。ピンとくるわけではないので、応用はほぼききませんが…

関係ないかもしれませんが、J-POPとか演歌とか、歌詞の意味はほぼわかりません。だから堂々と歌えたり作ったりできる歌手の人って、「普通」なんだろうな〜と思うんです。
ロックとかはまたチョット違うかもしれませんが…
だから私は音楽、特に「歌詞がいい」と言われるものには殆ど共感ができず、「へぇー、この歌詞が皆はいいんだー」という感じです。

またズレちゃったかな、ごめんなさい(笑)

あ、でも、奥さんは、パンダさんだから(家族だから)無茶っぽいことまで要求するというのは大いにあると思いますよ。
多分、外ではそんなことはされてないでしょう。
甘えの気持ちというのは確かに家族にはありますねー。

キキさん

 なるほど。普通がピンとこない。なかなかすごいポイントだなあという気がしました。

 定型って「普通」ってふつうに言いますものね(笑)
 つまり「共通の基準」みたいなことでしょう?
 「みんなそう思うよね?」みたいな。

 でもアスペの方はそこが「みんな違うよね」ということがそもそものベースなのだとすれば
 「普通」と言われてわかんないというのは「なるほど~」という気がしました。

 たとえばこういうのはどうなんでしょうか?
 「ラビット」っていう言葉がありますよね?これって普通「うさぎ」のことだよね、とか
 そういうときの「普通」って違和感ないでしょうか?

パンダさん

>「 たとえばこういうのはどうなんでしょうか?
 「ラビット」っていう言葉がありますよね?これって普通「うさぎ」のことだよね、とか
 そういうときの「普通」って違和感ないでしょうか?」

うーん、「普通」という言葉に違和感を感じます。
ラビットは「普通に」うさぎなのではなく、「確定で」うさぎだからかな。

役に立たない答えかもですf^_^;

ちなみに「ラビットとは?」と聞かれたら、私だったら「ん?ピーターラビット?」とか「なんかの会社のマーク?」とかを先に連想しますー。
「ラビットの日本語は?」と聞かれたら、もちろん「うさぎ」と出てきますけど(^。^)
沢山説明してもらうのが必要なんですかね(笑)

おはようございます、昨日の訂正なんですが…

もし、誰かが私に「あいつ、ラビットっていえば犬だろって言うんだぜ」と言ったとしたら、
その時は私も「えー?普通はうさぎだよね?」と答えます。

なんていうか、やっぱり詳細な説明があると自分はわかりやすいんだなーと思います。
つまり面倒くさい奴だと思います(笑)

毎度の「何度もすみませんー」f^_^;

えっと、診断を受けた先生は「診察の時には貴方が『これ、普通はどうなのか?一般的にはどうなのか』を聞いてもらったらいいですよ、答えますよ」と言っていて、
その後その先生は移動したので長年お世話になってる心療内科の先生に「あの移動になったから、じゃあ今度から先生に『普通はどうなのか』を聞いていいですか?」と聞くと
「もちろんいいですよ、そうしてください」と言われて、まあ、そうしてるんですが…

内心、『なぜこの人たちは、"自分は普通の意見を知っている、教えることもできる"という自信があるんだろうか』と思ってました。

もし私に誰かが「ねえ、普通はどうするの?」と聞いてきたら、「えー、普通はチョットわからないけど、私ならこうするなー」という答え方しか出来ません。

「普通」があらかじめセットされてるの?
不思議不思議でございます(笑)

キキさん

> その時は私も「えー?普通はうさぎだよね?」と答えます。

 はあ、やっぱりそうなんですね。だから「この場合、多くの人はそうする(言う)よね」という判断の仕方も場合によってはちゃんとされるわけですね?

 ということは、「(多くの人がそうする・言うという意味で)普通」という言葉で表現すると、違和感を感じる場合とない場合とがあるということですから、その境目がどこなのかが興味があります。

> 内心、『なぜこの人たちは、"自分は普通の意見を知っている、教えることもできる"という自信があるんだろうか』と思ってました。

 これ、すごくリアルに「キキさんの世界」が伝わってくるような感じがしました!

 ああ、なるほど。そういう感覚になるんですね?ほんとにおもしろい(いや、興味深いという意味で)。

 そういわれてみれば、定型はみんな自信過剰で、思い込みの激しい人々だということになりますね。たしかにそういうところはあると思う。で、その思い込みが外れると、往々にして相手のせいにして「裏切られた」とか言ったりする。

 うーん、これは深い (笑)

 これまで繰り返しアスペの方たちから語られてきて、もうひとつピンと来なかったことが、またここでなんとなく「すとんと落ちる(感覚的にわかる)」感じになりました。

 そりゃ、「普通」不思議に思うよな!って。(笑)

こんばんは。
私は一応普通という概念や定義は分かっているつもりのアスペですが、感覚的にその基準をつかむことは難しいと感じます。

経験からデータを探って判断している感じです。「この人の普通はこれ」「この場所の普通はこれ」「この人は、こっちのグループにいる時はAを普通として発言し、あっちのグループにいる時はBを普通として発言する」といった具合です。

でも多分、ここで取り上げられている普通は、もっと感覚的に処理できて、根拠なく信頼に足る自信の感覚を得るものなのかな?と想像してみたり・・・。『普通がピンとこない。なかなかすごいポイントだなあという気がしました。』という言葉から推測すると、多くの人は、普通がピンとくるものなのですよね?

私は、普通というものを、「多くの人が『そうだね』と言えること、そうしている約束のこと」だと思っているのですが、この認識は合っているのでしょうか・・・?

キキさんの、『なぜこの人たちは、"自分は普通の意見を知っている、教えることもできる"という自信があるんだろうか』は、同じことを子供の頃不思議に思ったので、分かる気がします(笑)
大人になったら分かるのかな?と思っていたのですが、中年となった今でも、何だかよく分かっていないような感じがしますね。中々分からないことだらけです。

さとさん

 はじめまして。どうぞよろしくお願いします。

> 私は、普通というものを、「多くの人が『そうだね』と言えること、そうしている約束のこと」だと思っているのですが、この認識は合っているのでしょうか・・・?

 そういう言い方でもある程度は言えると思いますが,私はもう少し意味が加わるような気がします。

 単に「多くの人」がいうことだけではなく,それは「正しいこと」だというニュアンスが加わることも多いと思うんですね。だから「そうでないことはおかしい」という,一種の強制的な力が加わることも多い。

 次の二つの例で伝わりますでしょうか?

1.ほんとは健康のためには一日4Kmは歩いたほうがいいんだけど,普通はそれはむつかしいよね。

2.朝に顔を合わせたら「おはよう」と挨拶をするのが普通です。

 1の方は「多くの人」がやっていることだけどそれは事実としてそうだというだけ。2のほうは常識として誰もがすべきこと。という意味で普通という言葉が語られています。

 定型アスペ間で問題になりやすいのは2のほうかなと思うんですね。「そんなの普通でしょう」「それは当然でしょう」「それは常識でしょう」…といった言葉で苦しめられるアスペの方が多いと思うのですが,それは定型のほうがある種の強制力を持つ基準として,それに従わない相手を責める意味で使うからなんだと思います。けれどもアスペの方にはなんでそうでなければならないのかがわからないから困惑するか反発することになる。

> キキさんの、『なぜこの人たちは、"自分は普通の意見を知っている、教えることもできる"という自信があるんだろうか』は、同じことを子供の頃不思議に思ったので、分かる気がします(笑)

 たぶん定型は自分の意見がどれだけ有力なものかについて,常に周りの人やテレビや新聞などを見て判断し続ける性格があるんだと思います。ひとつには多数派か少数派か,もうひとつは何かの権威ある基準にあっているかどうか。それで定型は「井戸端会議」みたいなのが好きなんでしょうね。そうやって情報交換しながら,自分が多数派か少数派か,権威の側かそうでないかを無意識にチェックしている。

 実際にみんなに意見を聞いてみて多数派であることを確かめてからとか,権威ある人に確認してからそう判断するということはまれだと思うので,その「普通」という判断は実際は単なる思い込みであることもよくあるわけですが,でも人に対して自分の意見を主張するときは,自分のほうが「正しい」ことを主張することになりがちですし,そういう根拠の怪しいことも「普通(=正しい)」と言ってしまいがちになるのかも知れません。

 アスペの方はこの「多数派を作る」といった感覚が非常に薄い方が多いような気がするのですが,そうだとすると,ますます定型的な「普通」の使われ方でぴんと来ないものが多くなるのかもしれません。

コメントありがとうございます。改めて、はじめまして。よろしくお願い致します。

興味深く読みました。普通というものについて、アスペと定型とされる人達の間にある違いは、「普通」の持つ力?みたいなものを、実存するものとして扱うかどうかというものもあるのかな?と思いました。

私も、「多数派を作る」ということの必要性は多分多少は分かっているのではないかと思います(実際は怪しいものですが)。ただ、それは『便宜上そうなっているものとして皆が扱うもの』という範囲に留まっているのかな?と感じます。

多数派の方が強いので、多数派を作る意義や必要が大きい。みたいな理解ですね。意識的な損得による判断のできるものというか。

無理やり例えてみると、「スクールカーストが虚構であると分かっていても、それが力を持つことは間違いなく、その場のルールは正しさを持つものとして力を得ている。」という感じのイメージです。定型の人であっても、スクールカーストの力を信じて従う人もいれば、信じていないけれど「力として存在し機能している」ことは分かった上で、それに従う人もいるのではないかと思います。

一方、「常識でしょう」とか「当たり前でしょ」とか「普通そうでしょ」という言葉で語られるものは、ある種聖性を帯びた正しさなのかなと、私には見えています。犯してはならない、理論で語ってはならない正しさのような印象です。

「多数派を作ったから正しい」という正しさではなく、「正しいから多数派になったのだ」と処理されるような正しさです。

この中にも、更に2種類の普通があるように、私には見えています。

・意識のどこかで「この普通さ正しさは便宜上のルール的なものであって、本当のものではない」と理解されているもの。扱いとしては、それは隠され「不可侵の正しさ」として表現され行使される。

・疑うことなく「この普通さの正しさは真から本当である」とされているもの。その「普通」を理解しない者や、この普通さの正しさに従わない者は、人の心や道理を持たない者であるし、どうかしていると感じられる。強い嫌悪を感じる。


無意識では「これは本当ではないものだ(便宜的なもの・都合的なものによるものだ)」と理解されているのではないかな?というケースに思えるものは・・・・・例えば、母親が子供に理由を問われて狼狽えるような「普通」です。矛盾を突かれると「そういうものなの!いいからそうしなさい!」と言い切りつつも、焦りや狼狽が出てしまうような「普通」です。

一方、本当に芯から信じている「普通」というものもあるのだろうと思っています。それが、前述した「この普通さの正しさは真から本当である」とされている「普通」のことです。
相手が「普通」を共有しなかったり準じなかったりした時、逆上したり『相手の頭や心がおかしい』と思って疑わないような「普通」が、それに相当するのではないかと思います。

便宜や都合の為のものとして使われる「普通」は「ルール的な普通」なのかなと思うのですが、芯から信じられている「普通」もあるのだろうと推測しています。

「彼氏なら心配するのが普通でしょ?私のこと本当に好きなの?!」
みたいなシーンで使われている普通は、

・便宜上の、自分の意見を通すための普通である場合
・「普通、好きならそうする。彼氏ならそうする。」と芯から信じて言っている場合

の2つのケースがあるのではないかと思うのですが、前者なら理屈や根拠となる材料を使った交渉の余地があっても、後者はそういう方向からの交渉の余地はなく、そもそも後者の場合は彼女の「普通」を動かそうとした時点で「私を分かってくれていない!」みたいなことになる場合が多いように思います。

そういうところから考えると「普通」は理屈じゃない部分が力の源なのではないか?と感じられるのです。見えたり理解できたりはしないのですが・・・。意見の有力さとして「普通度数」みたいなのがあるとして、それは「理論としてのまとまり度数」ではないんですよね。

あれこれ考えつつも、「普通」を理屈で捉えようとしていることが、既にズレた歩み寄り方なのではないのか?と思ったりします。意味がないとは思っていません。神話とか呪いとかを実存するものとして扱っている集落で定住して暮らそうとしたら、それらについて詳しくなることは、多分大きな意味のあることです。精霊や悪鬼が見えるようにはならなくても、それが社会の運営にどのような役割を果たしているのかをある程度推測し、それに合わせることはできるのかなと思います。

でも、集落の人にその理屈を言っても、「そういうことじゃない」と言われるだろうし、時に無礼なこととして怒られるだろうし、そして実際確かにそういうことじゃないのだろうと思うのです。糖度の高さは、イコール「甘くておいしい」の感覚ではない。

「普通」の持つ力が作用した結果は(表面上)私にも観測できたとしても、「こういう風に作用するから、こういう力がこう動いたんだろうな」という私の予測や理解めいたものは、そこ止まりなんですよね。

寂しいから人と一緒にいたい。ということは、人と一緒にいないと不利だから一緒にいたい。ではないんですよね。寂しさには苦痛があるんですよね。

一般的に、普通を汲まないことや沿わないことは、何かしらの不安や苦痛を伴うもので、だから力があるんじゃないかと思っています。普通を汲めることや沿えることには、感情的な恩恵がある筈だと感じられます。

「火傷するから、熱いヤカンに触りたくないんだよね。分かるよ。火傷すると困るもんね。」って、ズレてるよな、と。「火傷すると、痛いよね。手もしばらく使えなくなるし、辛いよね。」みたいな、感情にウエイトを置いた対応を心掛けると、少しは定型発達者のことが理解できるのだろうか?と思うこの頃です。

まとまりなく、とんでもない長文になってしまいました。申し訳ございませんm(_ _)m
しかも、まだ過去記事を全て読み込んでいないので、重複したことをお話させてしまったかもしれません。これから、少しずつ読ませて頂きたいと思います。夫との関係のこと、子供との関係のこと、参考になることがたくさんありそうで楽しみです。

さとさん

 刺激的なコメントをありがとうございます。

>普通というものについて、アスペと定型とされる人達の間にある違いは、「普通」の持つ力?みたいなものを、実存するものとして扱うかどうかというものもあるのかな?と思いました。

 実存という特別の言い方をされているようなので,ニュアンスが取り切れていないかもしれませんが,まあ素朴に言えば確固として実在するものと考えるかどうか,みたいなことですよね?そこ,大変に大きなポイントだと思っています。

>「スクールカーストが虚構であると分かっていても、それが力を持つことは間違いなく、その場のルールは正しさを持つものとして力を得ている。」という感じのイメージです。

 よくわかります。この視点が重要になりますね。

>「常識でしょう」とか「当たり前でしょ」とか「普通そうでしょ」という言葉で語られるものは、ある種聖性を帯びた正しさなのかなと、私には見えています。

 これもよくわかります。ただし私の場合,スクールカーストの実在性の話と常識の聖性の話は連続するものと考えています。おそらく発生的には前者から後者が生まれるのでしょう。続く「二種類の普通」のお話も,私の理解ではその前者から後者への移行(または深化)があるという理解です。

>そういうところから考えると「普通」は理屈じゃない部分が力の源なのではないか?

 ここは私の理解では次のようになります。比喩で公理系を考えてみていただきたいのですが,あるシステムはその何を公理として置くかは一義的には決まりません。可能性としてはいくつもの公理のセットを作ることができる。そのいずれもが有効です。

 そうすると,その公理系の内部にいて「なぜこれが公理でなければならないのですか?」と問われても,答えはないわけです。ただそれを公理とすれば全体が産出可能になるというだけのことで。

 「普通」という「問答無用」の感覚は,そういう背景を持って生まれると考えています。実際には他の形もありうるんだけど,今自分が生きている生き方ではそれを「公理」としておかないとうまく世の中が回っていかない。うまく生きられない。それを否定すると自分が成り立たなくなる。だからその系の内部にいる限り,理屈抜きに「当然」というしかなくなるわけです。

 そこでその系の外部に立つことが問題になりますが,当然のことながらさとさんが書かれているように,そこでは今度は「糖度の高さは、イコール「甘くておいしい」の感覚ではない。」という問題が発生しますよね。

 私がここで追求し続けてきたことは,「甘くておいしい」という体験事実を,糖度の高さに還元してしまわずに,自己の体験を拡大したり,比喩的に見たりすることで多少なりとも追体験しようとすることです。

 それを完全に行うことは誰にとっても原理的に不可能ですが,しかしあらゆるコミュニケーションはそういう原理的に不可能なことを含んで理解と誤解の両極の間を揺れ動く運動それ自体のことだと私は考えています。(当然のこととして,完全な理解とか完全な誤解というものが実体として存在することはありえない,という前提もそこには成り立っています)

>まだ過去記事を全て読み込んでいないので、重複したことをお話させてしまったかもしれません。

 ここに書いたような書き方での説明は初めてになります。こういう形での議論もアスペの方との間で成り立つのだとすれば,私にとっては大変に大きな意味があります。 

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