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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年5月 6日 (土)

自閉症研究とはなに?

 2013年に出た「自閉症という謎に迫る:研究最前線報告」という本をぱらぱら見ているんですが、中身についてはとりあえずおいておいて、「自閉症を研究する」ってなんのことなんだろう、ということでちょっと思ったことです。

 自閉症って、定型的な常識が通用しない世界ですよね。たとえば自閉の子が手のひらをずっとひらひらさせてるとか、キラキラしたものをすごく喜んでみているとか、ミニカーを一列に並べているとか、定型的には「なにがそんなこと面白いんだろう?」と共感しにくい世界があります。

 感覚的にわかりにくいから「異常な世界」ということになってしまって、共感的にわかりにくいから「頭で理解しようとする」ということになる。その極端なやりかたが「脳科学」の話です。脳の仕組みで「自閉の子は脳のこの部分の働きが異なる」とか、オキシトシンという物質がどうのこうのとか、そういうことで「説明」しようとする。

 自閉症って、私たちの直接の体験の中では「共感のしやすさ」みたいな「気持ち」の在り方の問題なんだけど、そういう気持ちの在り方の問題はその手の研究ではえてして置き去りにされて、物の世界の理屈で「わかった気持ち」になろうとするわけです。そしてそういうのが「正しい科学的な理解」(もう少し言えば自然科学的な理解ということでしょうけど)と信じられたりもしています。

 医療で、時に発達障がいの子に悲惨な形で薬物を過剰に投与するお医者さんの例を聞いたりもしますが(普通の内科などのお医者さんでも風邪などでかかっても、やたら薬で対応しようとするような人少なくないですけど)、これなんかも典型的に自閉症を「物の世界」で理解して、理解できない子どもの様子に混乱して、どう対処していいかわからないから「物(薬)の世界の理屈」だけでコントロールしようとすることで起こることでしょう。

 もともと心と体は切り離せないものですから、自閉症を物の世界の理屈で理解して対処することにも当然意味はあります。物の世界の理屈でわかる部分があることも間違いありませんし、その対処の仕方にある範囲で効果があることも当然です。でもそれだけになってしまうと、単に「物の理屈」で、人を物として扱う、物理的にコントロールするというおかしな世界になってしまうことになります。

 

 それで、ここでやっぱり面白いことだと思うんですが、なぜそうやって単純な「物扱い」の研究になりやすいのか、というと、つまりは「わかんない」からです。共感的に理解できないからです。気持ちの世界でわかんないから、物の世界でわかろうとする。

 それが悪いとかいう話ではなくて、これって、アスペの方が定型の世界を理解しようとするときにやることと同じではないでしょうか?

 アスペの方も定型的な気持ちの動き方などがとても分かりにくく、定型社会がどうしてそうやって成り立っているのか、定型のコミュニケーションの理屈がピンとこない。そうすると「共感的に理解する」ことはむつかしいので、パターンとして理解する、物のように理解するしかなくなるわけです。

 自閉の子にはパターンを教えるのが有効だとか、目に見える(物の)形で示すのが有効だとか、そういう話をよく聞きますけど、それってその背景にある理解は何かといえば、「自閉の子は気持ちが理解できないから、物の世界で教えたほうがいい」という話になっているような気がします。

 でもそれは自閉だけの特徴ではないと思うわけです。定型だって相手の気持ちがわからなければ物の世界で理解しようとするのは同じわけですから。いわゆる科学的研究みたいのはみんなそれでしょう。で、自閉の子にとって「わからない定型の世界」に対処する上で、その「物の世界の理屈」で対応することがある程度力を持つように、定型にとって「わからない自閉の世界」に対処する上で、同じく「物の世界の理屈」で対処することがある程度力を持つ。基本全く同じことです。人間、定型であろうがアスペであろうが、共感しにくい世界は物の理屈で理解しようとしやすい、というだけのことだとも言えます。もともと自然科学って、共感できない自然を「気持ちの理解」抜きでコントロールするために作られたテクニックですしね。(自然について気持ちの理解で対処しようとすると、雨乞いの儀式とか、天を祭る儀式とか、今でいうと「迷信」とか「呪術」とか言われる形になるわけですが)


 そこが仮に共通だとして、異なる部分は何かといえば、定型の場合は定型同士の間では気持ちの共有とか気持ちの調整とかがやりやすい、なにかの特性を持っているのに対して、アスペの方はその調整(共有)の仕組みに独特の性格があって、定型との間にそれが作りにくいし、アスペ同士でもそれぞれに独特の世界を作りやすいので調整がむつかしくなることが多い、というあたりだと思うわけです。

 で、定型の場合はそんな風に定型同士で「気持ちの理解・調整」がうまくいく場合が多く、その工夫もいろいろ身に着けていきやすいので、コミュニケーションをとるときにますます「気持ち」に注目しやすくなり、「気持ち」の理解がさらに深まりやすい。それに対してアスペの方はそこがずれてうまくいかないことが多いから、あまりそこに注目しなくなり、「気持ち」の理解が進まなかったり、そもそも「気持ち」とか「感情」というもの自体が全く分からなくなったり、それに気づけなくなったりする。

 そんな風に考えてみると、これまでいろいろ考えてきた定型アスペの謎がわりと説明がつくような気がしています。

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コメント

この話を読んで、ふと思ったことがあります。
私はピスタチオを食べるときに、割った殻をティッシュの上に並べるのですが、それがどうも定型の人たちからすると興味深いようで、何故そうするのか、どんな意味があるのかと良く聞かれます。
私の中ではピスタチオの殻はティッシュに並べて置く事が自然で、特に考えて置いている訳では無いのです。もちろんグシャグシャに置くことも出来ますが、毎回なんの考えもなく、並んで置いています。
そして、定型の人たちは大概、並んだ殻を見て笑うか、グシャグシャにしてこちらの様子を伺う、というようなことをします。
今まで、何で定型の人たちはピスタチオの殻にそんなに興味を持っているのか分かりませんでしたが、このブログの記事を読んでいくうちに
なんとなく解ってきた気がしました。

めがねさん

 面白いですね。

 考えてみると、たとえば小学校の運動会の時とか、みんなで整列させられることがありますけど、あのとき、列をぴちっとそろえてないとおこられたりします。校長先生の話をきくだけなら別に多少ずれてたって全然問題ないだろうし、場合によっては整列しなくてもかまわないかもしれません。でも「ぴちっとそろえる」ということに「こだわる」ということを定型がやりますよね。

 人をぴちっとそろえることには熱心でも、ピスタチオの殻をぴちっとそろえることには関心を持たない。面白い違いだなと感じます。

 まあ、ひとをぴちっとそろえることについては、ひとつには「人を個性的でない状態にして、組織的に効率よく動かす」みたいな「効果」があるのかもしれませんが、それだけではなくて、人でも物でも、実用以上に整理してぴちっとそろえることにはなにか「その方が気持ちがいい」みたいな「美的な感じ方」がからんでいるような気がします。

 整理整頓された家の中とか、机の上とか(私は苦手ですが(笑))、見ると「きもちがいい」と感じたりもしますし。(堅苦しさを感じることもありますが)

 そうすると、ピスタチオの殻だって、並べる方がなんとなく美しい、という見方もあり得ますよね。別にそんなことになんかの実用的な意味があるわけじゃないんだけど、でも感覚的にそのほうが美しく見えたり、落ち着いて見えたりする。

 この美的感覚というのは、必ずしも誰にでも共有できるものではなくて、たとえば同じ「芸術品」を見たってそれを「美しい!」と感激する人もいれば、「なんだこれ?」と困惑したり、場合によっては嫌悪したりする人もいる。それが普通の事でしょう。

 ただ、定型の場合はこの美的感覚についても、なんとなくすり合わせをして共通部分を増やそうとする傾向が強いと思います。でも、アスペの方はたぶんその傾向が薄いので、「個性的な美的感覚」にますます磨きがかかってきて、定型からはわかんなくなる。

 またちょっと記事でも書いてみたくなりましたが、「こだわり」というのはようするに「美の追求」で、その美しさを理解できない人間から見たときに「わけのわかんないこだわり」に見える、ということなのかも。

私もパンダさんと同じように思います。
自閉症の研究は、定型からどう見えるか?
自閉症の診断は、定型からどれほど行動がズレているか?
それが主流で、ご本人の声が反映されることはほとんどありません。

しかし、このブログで、ご当人がご自分の感覚を書かれること、そのものが『自閉症の本質』なんですよね。
このブログと出会って、同時に我が子たちも自分の感覚を自分で表現したり訴えたりするようになって、共通するものがあることが、私なりに見えてきました。

同時に、私や、定型に馴染んできた人たちは、自分の感覚について、しっかり分析することがあるだろうか?ということです。
定型にしたって、様々な個性特性や、定型⇔発達障がいという分類ではない分類での共通項があるはず。
しかし、それぞれが正しく自分を語って、そこから客観的に分析しない限り、分類はできません。
たまたま発達障がいの人の特徴が目立っていて、そこから当事者が自分研究をせざるを得なくなって、分析してみた結果、大きな分類ができた。
そこの違いではないかな?と。

だから、本当なら定型なんてひとくくりにすることはできず、様々な分類の上に人間が成り立っているんじゃないかな?と、思います。

でも、なんとなく分類しなくても楽に暮らせているから、わざわざやらない。それが『定型』という大きなくくりではないかと。

あすなろさん

> なんとなく分類しなくても楽に暮らせているから、わざわざやらない。それが『定型』という大きなくくりではないかと。

 これはちょっと面白いですね。

 だいたい人間って「徒党を組む」というか、味方づくりをしたいときは、まず「共通の敵」を設定して、みんなでその「敵」に対して「私たち」という意識を作り、団結する、というテクニックをよく使います。そうすると、本当はそれぞればらばらな、いろんな人たちだったにもかかわらず、「同じ敵を持つ仲間」という意識がそこで作り出されていく。

 政治家なんかそういうの好きな人多いですね。
 
 いじめなんかも典型的にそのパターンで「いじめの対象」VS「自分たち」を作って「仲間」の中に自分を入れて安心しようとするわけですし。

 とはいうものの、いじめや敵対という形は好ましくないとしても、「私たち」という感覚もだいじなことは間違いなくて、たとえばアスペの方は「アスペという私たち」という理解の中で自分を受け止めているわけで、そういう形で「定型とは違う私の生き方」を模索するわけですから、そのことは否定的に見ることは私はできません。

 このあたりはむつかしい問題だなと。両刃の剣ですね。

>パンダさん

厳しい言い方かもしれませんが、そもそも『定型』と呼ばれる人たちのカテゴライズが、あまりにも乱暴でいい加減なのでは?と思います。
定型という認識は、もしかしたら、日本独特のものではないかと。
言い換えればその他大勢ってことで、この定型の中には、症状がそれほど深刻でないから割と順応出来てしまっている発達障害者も多くいると思います。
すると、『アスペ』対『定型』というのは、『アスペの中でもその他大勢からかなり遠い人』対『その他大勢』と言い換えることができるかもしれません。

しかし、アスペ、または、自閉スペクトラムであることを自覚することは、すでにある部分で自己モニタリングが出来ている状態であって、定型として何となく暮らしているアスペの人よりは、よほど建設的なことを行なっていると言えるのではないかと。

定型として暮らせているアスペの人も実は何となく居心地の悪さや劣等感を抱えているのに、気付かなければ一生そのモヤモヤを抱えて生きていかなくてはいけない。

どちらにしても、全体主義的な傾向が強い日本の社会でやっていくには不具合を抱えてしまうわけです。

なので、自己モニタリングが出来るかどうかはとても重要で、それをするには、『私たち』というカテゴライズに自分を当てはめることが必要になってくると思います。

私も、ADHDという名目はどうだっていいけれど、『ADHDの私たち』というカテゴライズに自分を当てはめることが出来たのはとても大きいです。
自分の生き方の指標が見つかったと言ってもいいかもしれません。

イジメや排除が目的で『私側』という集団を作ることとは、全く趣旨が違うと思います。

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