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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年5月23日 (火)

蚊の鳴くような挨拶

 「あいさつ」ということについては何度か書いてきていますが、アスペの方は礼儀としての挨拶は理解され、行われる方が多いと思いますが、親しい仲でのあいさつについてはそのあたりが微妙になることが多い気がします。

 ひとつには親しい仲ではあまり必要性を感じなくなるのかなと想像します。定型は例によって「常に相手の状態を気にしながらそのたびに調整しようとする」傾向(こだわりともいう(笑))が強いので、あいさつをするかしないか、どんな声で、どんな表情で、どんな態度でするかは大事なチェックポイント(もちろん無意識的に行う)のひとつになっていて、「いつもと違う」と感じたときには「警戒態勢」に入るわけです。

 「相手が気分が悪いのか、なぜ悪いのか、自分が悪いのか、ほかの原因か、自分はそれに対してどう対応すべきなのか」といったことをそこで考えてしまうのですね。まあ簡単に言うと「気になる」ということですが。

 この点は相手が親しくても親しくなくても同じです。つまり親しくなっても、というかむしろ親しくなるほど感情的な面でのバランスが大事になったりするので、挨拶の状態が変わると、すごく気になるわけです。特にこちらが挨拶をしていて、聞こえているはずなのに相手が挨拶をしないとなれば、それは「関係は非常に危険な状態になっている」という「警告」の可能性を考えなければならないので、ストレスが大きくなります。

 ある意味興味深いです。つまり、アスペの方は「挨拶をしない」ということはもしかすると親しみ(または相手に気遣わなくてもいいと言う安心感の現れ)の結果かもしれず、それにたいして定型は「挨拶をしない」ことは親しみに危機をもたらすことと感じる。もしそうなら、ここでもまあすごいとんちんかんなずれが起こっているわけですね。

 アスペの男性が、結婚前は熱心にプレゼントをしたり、女性を喜ばせるようなことを一生懸命してくれていたのに、結婚後にはぱたっとそれが止んでしまい、その変化はまるで「釣った魚に餌はやらない」ということのように定型女性の側が感じて苦しむ、というのも同じ理屈だと考えられます。

 関連してほかのポイントも思い浮かびます。たとえばアスペの方は定型に比べて「白黒はっきりさせる」という傾向がかなり強いということは、ここでも繰り返し議論されました。境目がはっきりしない状態は非常に嫌で、明確であってほしいという気持ちが強いように思える。だから数字の世界のように、境目がはっきりできるものが気持ちがよく、親しみを持ちやすいのかもしれません。

 このことも上の話につながってきます。結婚すればもう親しい家族なので、それまでとは全く違う状態に入るから、定型のように結婚後も相手の気分にいつも気遣って調整を続けるような中途半端な(と感じられる)ことはあまりしようとされないのかもしれません。もちろん生活上に必要な気遣いはされるわけですが、それは気分の調整とはちょっと違いますよね。

 気分とか感情状態というのは常に揺れ動き続けるもので、その都度バランスを取らないといけない。そこで定型は「親しい相手」にその作業を手伝ってもらいたいと感じるわけです。そこで悩みを聞いてもらったり、意見をもらったり、慰めてもらったり、場合によって叱ってもらったりして、「気持ちを立て直す」ことをしようとする。それがうまくいく間柄が「馬の合う関係」で、「親しい」関係で、そのとてもいい関係が「親友」になる。

 私の印象ではアスペの方も当然気分が揺れ動くわけですが、それをあくまで自分の中で処理しようとされる。これは最初からそうなのか、というと、その傾向がある(たとえば赤ちゃんの時にも泣くことが少なかったりする場合があることを考えると)とはいえるかもしれないけれど、それだけではなくて、誰かに頼っても結局うまくいかないか逆にひどくなることが多いので、早いうちにそれをあきらめて自分で、という風になるのではないかと想像します。

 そういうわけで、アスペの方はあるいみ早期に感情的に「自立」の方向に向かい、定型の方は大人になっても感情的に「依存」しあう関係を作り続ける傾向が強い(もちろん個人差も大きいですが)。

 アスペの方にとってそういう「自立」した状態はもう体の芯までしみこんだものになっていきますから、他人同士の「礼儀」の世界では親しみとは関係なしに「挨拶」をすることが「必要なこと」と理解される。けれども親しい仲では自分にとって自然な状態に戻るわけですから、挨拶には意味をあまり感じなくなる。

 定型の側は逆に感情的に「依存」しあう状態が続き、それを深くできることが親しい状態だというふうにもなるので、その調整のためにも「挨拶」が重要になる。それは形ばかりの「礼儀」のあいさつではなくて、ほんとうに感情的なバランスに直結するような重要な意味を持ちます。

 そう考えると、パートナーが韓ドラとかがすごく嫌いなのもわかります。韓ドラの世界は私もびっくりするくらい、感情をストレートに表現しあうことが多い。喜びも悲しみも怒りも憎しみも、あらゆる感情を(私から見て)ほとんど隠すことなく相手に直接ぶつける。親しい関係や深い関係ではそれはさらにそうです。そうしないと親しい関係ではないみたい。

 この点では日本の人間関係の方が「よりアスペ的」な部分があるような気がしますが、とにかくそうやってどろどろと感情をぶつけ合うような関係は、アスペ的に言えば自立していないとうことになるのかもしれません。

 で、なぜ「どうでもいい」のではなく「嫌い」になるのかと言えば、そういう形で感情的にぶつけ合うような関係は、もしそれをされたらたまらないと思うからでしょう。たぶん。なにしろ相手とのやりとりで感情を調整しようとするのではなく、相手と切り離された自分の世界で調整しようとするという生き方を追求してきているので、そこに相手の感情を持ち込まれたら対処のしようがなくて困るわけです。たぶん。

 

 この違いは感情のあるなしでは決してないわけです。ただその感情をどう処理するかの方法の違いです。彼女は韓ドラ的な、あるいは演歌のようなどろどろとした情愛の世界が嫌いですが、でもたとえば演歌にあるような「恨み節」がないわけでは決してない。昨日も話をしていて昔私の言動に深く傷ついたときのことを、今もリアルに恨んでいるような感じがひしひしと伝わってきてびっくりしたところでもありますが、ただそれを自分の中に抱え込んで自分の中で処理しようとする傾向がすごく強いのでしょうね。

 まあ、定型同士の間でも、似たような問題は起こるとは思いますし、ひとつにはレベルの違いということなのかもしれません。その差が非常に大きくて、お互いに理解がすごく困難なレベルにまでなるのか、なんとなくわかるけど違う、というレベルに収まるのかといった。ここでもスペクトラムの話になります。 

 あ、そうだ、もともと書こうと思っていたことはそれではありませんでした (笑)
 朝の挨拶を彼女がしなかったときに、私も蚊の鳴くような、相手には聞こえないような声で挨拶をする、という状態になったのが面白かったという話を書こうとしたのでした。

 

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コメント

あいさつという行為がチェックポイントとなるという発想が全くなかったので、とても意外な内容でした。
定型発達者たちは挨拶をすると「気持ちがいい」みたいに思っていて、とても挨拶が「気色が悪い」私に対してまで「気持ちがいいことなのにしないなんて、ひねくれている!」みたいな非難をしてくるっていう「非常にタチの悪いもの」という認識でいました。
多くの発達障害者は「言っている内容」は意識しても、その時のノンバーバールな面に対しては意識しづらいものなので、そういう「チェックポイント」として使うというのは難しいことでしょうね。

あいさつ一つするにしても、とっさに言葉が出ないし、何とか声にしても小さな声を絞り出すので精一杯。
そして「声が小さい!」とお叱りを受ける。
ただただ、つらいだけのもの、この世から無くなって欲しいものですね。
今はコツをつかんだので、それなりにやれるようにはなりましたが「100%意識して」やっていてもご注意を受けることがあって「これ以上どうしろと?」ということもあります。

ひとさん

>あいさつという行為がチェックポイントとなるという発想が全くなかったので

 定型でもそういうふうに意識している人はそんなに多くないと思いますが、でも「挨拶をされないとショックを受ける」という「事実」からいろいろ考えてみると、やっぱりコミュニケーションの中の大事な手掛かりになっていると思うとすごくわかりやすくなるんですね。そこからアスペの方とのずれも理解しやすくなる気がしています。

>あいさつ一つするにしても、とっさに言葉が出ないし、何とか声にしても小さな声を絞り出すので精一杯。

 これ、「もしかしたらそういう感じなのかな?」と想像していたことそのまんまでした。やっぱりそうなんですね?

>ただただ、つらいだけのもの、この世から無くなって欲しいものですね。

 ここがほんとにむつかしい。

 アスペの方にとってはつらいだけのものが、定型にとっては欠かすことができないものになっている場合のむつかしさです。どちらの基準に合わせても相手にとってはとてもつらい状態になる。

 まずは自分の基準を相手に押し付けてはならない、ということを<お互いに>頭で理解することでしょうけれど、そのあと、気持ちをどうするか。そのままだと関係が切れていくだけになりそうに思うのですが、それでは問題が解決しないし……むつかしい。

ADHD的挨拶の困難さは、アスペの人とはまた違います。
情緒のやり取りとして、挨拶をすると気持ちが良い!というのはあります。
でも、状況と挨拶の言葉が混乱することがあるんです。
夜なのに『こんにちは!』と言ってしまうとか!

家だと気が緩むので定型でも、おはようと言おうとしていただきますと言ってしまった、というような間違いはありますよね。
でもADHD的間違いは、気が張っていても『あれ、この時間だとこんばんはになるよな』と心の中で確認しないと、正しい挨拶が浮かんできません。
確認している間にタイミングを逃して『挨拶のできない人』と思われたり、トンチンカンな挨拶をして笑われたり軽蔑されたりしてしまうことが多い。だから挨拶は怖いというのがありますね。

何にしても、定型が無意識でできるパフォーマンスをパターンで暗記しておかないと正しくできないことが多いです。

こんばんは^_^

私の息子(軽度知的ありの自閉症)は、10代半ばになっても「おかえり」と「ただいま」をいつも間違えるくらい挨拶に興味がありませんf^_^;

「おやすみ」も返してきたりこなかったり、「おはよう」は眠いし、我が家では相手が言わなくてもいいルールに勝手になっていたり…

でも社会で必要なので、とりあえず「必要なのよー残念ながら」と教えながら、グダグダと練習がてら挨拶をかわしてる、という感じです。

私はといえば、家族には挨拶を忘れてしまうこともありますが、社会ではそれなりに、知識や経験をたよりに挨拶して生きてますが…。
偉い人にはより丁寧に挨拶したり、目下にはうなづきぐらいで返す人がいたり、憎く思いながらも笑顔で挨拶してきたり、ほんと、パターンが数えられない、というかパターン化されるものではないのでしょうね、細かく考えると本当に難しいですね!

パンダさんの細やかさが伝わります。
そして、その細やかさと、奥様の細やかさの種類が違うから理解に時間がかかるのですかね。

あすなろさん

>ADHD的間違いは、気が張っていても『あれ、この時間だとこんばんはになるよな』と心の中で確認しないと、正しい挨拶が浮かんできません。

 なんか緊張感が伝わってきます。
 人って緊張するといつもできることもできなくなったりしますよね。
 もともとADHDの特性から起こる部分もあるのかもしれませんが、それに加えて状況に対して常に緊張しなければいけないので、それが極端になる、ということもあるかもなあと思いました。


キキさん

>我が家では相手が言わなくてもいいルールに勝手になっていたり…

 これ、なんか納得しました。やっぱりそれぞれにあったルール、楽なルールがあるんですよね。お互いにそこが自然に共有できる場合はそれで十分にいける。

 だから、やっぱり、アスペだからルールが理解できない、という単純な話ではなくて、アスペの方に使いづらいルールだから身に付きにくい、という話なのでしょう。

 こういう「アスペ間では共有しやすいアスペ流のルール」みたいなのがもっとわかってくるといいですね。

>パンダさんの細やかさが伝わります。そして、その細やかさと、奥様の細やかさの種類が違うから理解に時間がかかるのですかね。

 私がこまやかということには疑問符もありますが(笑)、種類が違う、というところはほんとにそうだと思います。だからお互いに理解にすごく時間がかかるんですね。

パンダさん

無理やり定型発達者に要求されるので仕方なくやりたくないのにやるものである「あいさつ」ではありますが、定型発達者が時折あいさつをしてこないとか、こちらがあいさつをしても無視するということがあり、それに対して「ふざけやがって」と思っていましたが、定型発達者にとってはそれ自体が「意思表示」的なものなんでしょうね。
あいさつに限らず、そういう「定型に合わせてやってやってんのに定型の側がやらない」ことって大量にあって、釈然としない日々を送っているワケですけど。

「自分の基準を相手に押し付けない」ってのは相手が障害者だろうがなかろうが、人間関係の基本としたいことかなと思います。

ひとさん

>定型発達者が時折あいさつをしてこないとか、こちらがあいさつをしても無視するということがあり、それに対して「ふざけやがって」と思っていましたが、定型発達者にとってはそれ自体が「意思表示」的なものなんでしょうね。

 そうなんだと思います。気づかない場合は別ですけれど、気づいているのに挨拶をしないというのは、定型的な感覚ではかなり強烈に相手に対する否定的な態度を表明したことになりますね。

 それは第一段階では「警告」の意味になり、「あなたがこのまま変わらないのなら、もう関係はおしまいだよ」とか「報復を覚悟しなさい」ということをそれとなく伝えて、「自主的な改善を促す」手段になります。それでも通用しない時には第二段階として「宣告」の意味になり、「もうあなたとは縁を切った。他人だ」「これ以上私にはかかわらないように」といったことになります。

 ここに至るにはお互いの間に相当のズレがあって、その意味が分からない定型の側にかなりの怒りが蓄積されてきたことを意味していますね。もちろんそれは誤解によるものだということになるわけですが、それが誤解だと気づくのはとてもむつかしいことだと感じます。

 というわけで、逆にアスペの方がそういう気持ちがなくて「挨拶をしない」時には、その意味を定型側は全く取り違えるわけです。関係に深刻な危機が訪れたのだと理解して、大変に緊張したりショックを受けたりすることになります。

>「自分の基準を相手に押し付けない」ってのは相手が障害者だろうがなかろうが、人間関係の基本としたいことかなと思います。

 ここは大事なところですよね。「言うは易し行うは難し」ですけれど、模索し続けなければならない基本だと私も思います。

ひとさんのコメントに、ちょっと疑問を持ちました。

>定型発達者が時折あいさつをしてこないとか、こちらがあいさつをしても無視するということがあり、それに対して「ふざけやがって」と思っていましたが、定型発達者にとってはそれ自体が「意思表示」的なものなんでしょうね。

これがもし、定型発達者に見える発達障害者だったら、どうでしょう?
相手が定型発達という確証はありません。
例えば、聴こえ方に問題がある人、私のような手順が混乱するADHD、アスペ的傾向があって相手を意識しているようで実は他のことに意識が向いていた……。

自分は無理して合わせて『やっている』から、相手が(できるはずだとこちらが思っていることを)やらないことに腹を立てる。

このこと自体が、相手の条件を勝手に判断して自分の価値観を押し付けていることにはならないでしょうか?

あすなろさん
そういう感じの相手ではなくて、選択的に挨拶をする相手としない相手を選んだりとか、以前は普通に挨拶してくれていたけど、途中から私のことが気に喰わなくて挨拶をしないとかそういう感じです。
最初から挨拶が苦手だったり視線を合わせるのがつらい感じのタイプの人に対して「定型のくせに!」みたいなことはありませんので。
自分自身、全く発達障害に見えない発達障害者でもあるので当然、自分と同様の人が大勢いるのは承知していますよ。

>ひとさん

はい。おそらくそういう視点であろうことは承知のうえですし、ひとさんを責めるつもりはないのですが、少し別視点から見てみることもできるかな?ということです。

>最初から挨拶が苦手だったり視線を合わせるのがつらい感じのタイプの人に対して「定型のくせに!」みたいなことはありませんので。

この部分。『最初から挨拶が苦手だったり視線を合わせるのがつらいタイプ』だと判断しているのは、あくまでひとさんの目線で、本当にそうかそうでないのかは分かりません。

>選択的に挨拶する相手を選んでいるのか?

それもひとさんがそう感じたということです。

定型の中には底意地が悪くてわざと無視するタイプも残念ながら多いので、そういう気質の人に警戒するお気持ちはすごくよく分かります。

ただ、あまりその警戒心が強いと、実は相手も障害を抱えてそう見えているだけだったということに気づけませんし、もしかしたらひとさんがそういうタイプだと、誰かから見られる可能性もあるということになります。

他人の行為に対して、こちらがその根拠を判断することは絶対にできない。嫌なら近づかないか、はっきり言うか、その二択で自分を守ることが第一なのかな?と感じます。

その想定によって自分が救われるのなら良いのですが、疑心暗鬼に陥って疲弊してしまう方が多いかなと思うのです。

あすなろさんごめんなさい。
公開したつもりになって、今ようやくまだだったと気づき、ずいぶん遅れてしまいました。
他意は全くありませんでした。すみません m(. .)m

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