2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 時間が大事な理由 | トップページ | 自閉症研究とはなに? »

2017年5月 6日 (土)

「いい加減」=「良い加減」

 

 ひとさんのコメントにあった次の文章から思ったことです。

今はほとんど他人と関わり合うことがないので、自分でもびっくりするほど短絡的でいい加減だなと思うし、こういういい加減な性格の方が本来の自分だろうと思います。

 本来の自分てなんなのか、むつかしい問題ですけれど、「気楽にいられる」状態の自分というのは割合「本来の自分」というイメージでとらえられるものなのでしょうね。自然体とか、素直な自分とか。別の言葉で言えば「他の人の目を気にしなくてもいい状態」とか「人の要求や基準に従わされている感じではない状態」ということかもしれません。

 人は感じ方も考え方もみんなそれぞれ違いますから、人付き合いをするにはどうしても関係の調整が必要になります。対等な関係ならば<お互いに>ということになりますし、何かの力関係があればどちらかが相手に<従う>、あるいはどちらかが相手を<従わせる>という上下関係で調整されることになります。

 ITとかネット関係では、ビルゲイツやスティーブジョブスなどの例にあるように、アスペの側が超エリートになって定型を従わせる形になることもありますし、周囲を見渡しても、権力的な立場に立ったアスペの方の中には、時に暴力的なまでに周囲の人を強制的に従わせようとする方もあるように私には思えますが(たとえば家庭の中で言えば一部の権力を持つアスペ夫と定型妻や、職場の中で言えば一部の強権的なアスペ上司と定型部下の関係のように……もちろんあくまでの「一部の」、です。アスペだから必ずそうなるというのでは絶対にありません)、けれども定型多数派社会の中では多くの場合は定型が支配的な位置に立って、アスペの方が一方的にそれに従わなければならない、という場面が多い。

 発達障がい児への支援というのも、「如何にこの(定型優位な)社会で生きられるように援助するか」というところから発想が始まることが多いですから、その発想にとらわれている限り、アスペの方が定型に<従わされる>という場面が多くなるわけです。

 そうするとアスペの方は定型に比べて「本来の自分」でいられない場面がものすごく多くなります。常に自分を殺して生きなければならない、という感じになりやすい。

 で、なぜかはよくわからないのですが、私個人の好みとしては、そういう上下関係ではなくて、可能な限り<お互い様>の状態に近づいてほしいのです。パートナーとの関係ではどうしても私は定型的な感覚で彼女を見て判断してしまいますし、彼女に合わせると今度は定型としての私の自然な姿が否定されてしまうので、それはすごくむつかしいことであることは身に染みていますが、でも、なんとかそこを乗り越えて<お互い様>の状態に近づきたいわけです(なんでなのか、ほんとに謎ですが、なんかそういう<欲望>があるんですね)。

 

 で、その<お互い様>がどうやって実現できるかが気になるわけですが、そこでひとさんの書かれたことで素朴に思ったことが、まずはお互いに相手の「本来の自分」を知ることかなと。私にとって自然で気楽な「本来の自分」と、相手のそれは違う、ということに<お互いに>気づく。これ、口で言うのは簡単ですが、身についた自分の「自然な」感覚を超えて相手の違う「感覚」に気づかないといけないし、それを「相手にとっては自然なこと」として納得しなければならないので、相当大変なことです。でもそれが第一歩でしょう。

 そのうえで、お互いに相手にとっての「本来の自分」を尊重する。これも実際にはむつかしいことで、尊重するという意味が、「相手に合わせる」ということになってしまうと、今度は自分の「本来の自分」が否定されてしまうので、そうならない形で「尊重する」やりかたを見つけなければなりません。でもそれが第二歩かなと。

 そしてそうやって「本来の自分」を確保した者同士が、それを前提にしてお互いに「相手にも合わせる面を作る」。

 アスペの方が自閉的と言われるのは、「本来の自分」を守ろうとして、他の人との関係の調整を拒絶せざるを得ず、結果としてほかの人から切り離されて自分の世界に閉じこもるような形になるからじゃないかと、そういうふうに私は思うのですね。でもそこにとどまっていては定型アスペ問題が解決するわけではないと思えます。そしてアスペ的な関係の調整の仕方がきっとあるだろうとも思うわけです。同様に定型の側も、定型の論理の押しつけというかたちではなく、定型アスペ関係を調整するやりかたがきっとあるだろうと思う。

 

 ひとさんは「自分でもびっくりするほど短絡的でいい加減」と、否定的な言い方で表現せざるをえない状況なのでしょうけれど、同じことお互いにもっと肯定的に表現できるような関係が見つかると、すごくいいのになと、そういうことを思ったのでした。

 

« 時間が大事な理由 | トップページ | 自閉症研究とはなに? »

コメント

「定型アスペ関係を調整するやりかた」ってあるんでしょうかね。
ここ数年、ずっとそれを探し続けて、一向に何の糸口も見つからず、もう疲れました。

私自身「本来の自分」っていうものの全体像は全く見えていません。
40年以上かけて「定型に叩かれ続けて、無理をして『普通の人間のふり』をするテクニックを身に着けた『定型モドキ』」みたいなものに仕上がっていました。
それは明らかに「本来の自分」ではない。
私は自閉度も非常に高いし「本来の自分」を完全に取り戻したら、もうまともに会話もできない状態かも知れないですが、それでも仕方がないかなと。
今の「定型モドキ」は常に無理をしている状態なので、他人からは「今のまま、普通にしてていいじゃん」という反応で、自分は無理をしまくっているのだからもう辛くてどうにもならないっていう。
あと何年生きられるのかもわからないので、死ぬまでに完全に「本来の自分」を取り戻すことができるかわからないし、「本来の自分」はおそらく社会生活など成立しないだろうけど、私はこの先誰も助けてくれる人はいないので、生きていられるんだろうか?という感じでもいますけど。

最近本当に行き詰まっているんですよね。
空気を読む能力に欠けるので、素の状態では「気がきかない」「自分勝手」「わがまま」と叩かれる。
叩かれないように神経を使えば「気を遣いすぎ」「細かいことを気にしすぎ」と叩かれる。
ほどほどという能力がないので「ほどほどのように見せかける」という、定型発達者には想像するこができないでしょうけど深刻なレベルの無理をしても「ほどほどにできるくせに、わざとやらなかった」と叩かれる。
何をやっても叩かれるので「じゃあどうすれば?」という状態です。
こうなると「極力、定型発達者とは接触を持たないようにする」以外の選択肢ってないでしょう?

ひとさん

> 「定型アスペ関係を調整するやりかた」ってあるんでしょうかね。

 まあ、今よりましになる方法はぼちぼち見つかるんだとは思います。どこまでいってもずれはなくなりませんけどね。

> 死ぬまでに完全に「本来の自分」を取り戻すことができるかわからない

 禅問答みたいになりますが、もともとは「本来の自分」というものが、確固としてあるのではないのだと思うんです。ただ今の生き方の窮屈な部分、しんどい部分について、それが少なくなる方向が「本来の自分」の方向だ、みたいなことくらいしか言えなさそう。

 異文化の社会に小さいときから暮らしたりすると、もともとの文化の人たちとも違うし、かといって異文化の人たちの中に入り切れているのでもないし、なんだか中途半端などっちつかずの状態になる、という話をしばしば聞きます。

 異質なものを持ちながら異文化に適応しようと努力し続けて、どちらの文化の人間でもなくなり、あえて言えば「適応しようとしている自分」が一番ありのままの自分に近くなる、というようなことも起こるのかもしれません。

 ただ、ひとさんの場合は、それと似ている部分もあるけど、大きな違いもありそうですね。

> こうなると「極力、定型発達者とは接触を持たないようにする」以外の選択肢ってないでしょう?

 ひとさんの努力だけではその状況は変わらないだろうと思います。周囲の定型発達者が変わっていかないと。それは大変なことで、ものすごく時間がかかることだと思います。だれも自分の生き方を無理して変えたいとは思いませんものね。そのままで行けるならそのまま行きたいでしょう。

 でも、たぶん世の中はいやでも変わらざるを得ない方向に進みつつあるのかなと、私なんかはそう感じています。だから時間はかかっても少しずつ変化していく。

 今から20年前には、アスペの方が自分たちを堂々と語るといった、ことがほとんど想像もできない感じだったと思います。ところが今はそれが全然珍しくなくなってきて、当事者本がすごく売れたり、それを読んだ定型が感動したり、といったことが起こってきている。

 そこまでやっぱり20年はかかるんですよね。で、その状況になってようやく「定型アスペ関係を調整するやりかた」をまじめに模索する可能性が出始めてきたわけです。

 ようやく可能性が出始めた段階なのだから、それが現実に多くの人にその考え方が共有されるには、また20年とか30年とかかかるのでしょう。ただ、今は情報の伝わり方が著しく早くなっているから、もしかするともう少し早く進む可能性もあると私は思っていますが。

 20年と言えば一世代です。つまり、新し環境で育った次の世代になって、ようやく新しい考え方が世の中に受け入れられるようになる。古い世代はどうしても古い考え方にしがみつきますから、そこはなかなか変化しにくいわけです。それはまあ仕方のないことでしょう。

 そういう現在の状況の中で、とりあえず少しでもましなバランスを探していくしかないのではないでしょうか。そのあたり、何がいいのかはいわゆる「自閉度」の強さによってもみんな違ってくると思います。

ひとさんの、「40年以上かけて「定型に叩かれ続けて、無理をして『普通の人間のふり』をするテクニックを身に着けた『定型モドキ』」みたいなものに仕上がっていました。」という言葉、本当によくわかります。

それでもわからないことだらけで、たとえばどこに立っていればいいのか、邪魔にならないのか、など、事細かに困ることばかりで疲弊します。

調整法についてはまだわかりませんが、1人、職場で多分アスペルガーの男性が障害枠で働いている(と想像してます)のですが、彼は周りから「あなたはこれが苦手なんだよね」とか「いいよ、ゆっくりで」とか、私が叱られまくってる同じ人からそう声をかけてもらってマイペースに仕事してるので、障害枠も悪くないのかなぁ(職場によるけど)とチョット羨ましく思ったりしているところです。

パンダさん
私はもう結構な歳ですし、この先何十年もかけて周囲とうまく調整をしていくみたいなことは現実問題無理ですね。
どの本を読んでも「自分がどうすればいいか」ということは見えてきません。
結局は「周囲がどうしてくれるか」なんですよね。
それって自分の努力でどうにかなるものではないですが「どう理解や手助けをしてもらうか」っていうのが、こちらからできることというか、すべきことなんでしょうけどね。
できそうにないですけど。

キキさん
私は未だに「その場にふさわしい声の大きさ」がわからず、声が小さすぎることが多いようで、よく聞きかえされたりしますが、どうにも「無理なこと」ってのはありますよね。
障害者枠で働こうとしたことがあって、面接にも何度も行きましたけど、受け入れ側の企業の理解や対応はピンキリだなっていうのが実感です。
うまく噛み合うと、とても良い方向に向かうんでしょうけどね・・・よくない話の方を多く聞きますが。

キキさん

>障害枠も悪くないのかなぁ(職場によるけど)とチョット羨ましく思ったりしているところです。

 これは定型の側が試みている調整のやり方の一つですよね。そういうことが一応職場に求められる仕組みができてくるまでにもずいぶん時間がかかっていると思いますけど、でもひとつの前進なんだろうなと。

 昔は身体障がいの方が家の奥に隠されたりしていた話もあって、今のように点字ブロックがあったり、外で活動できる空間がこれだけ広がってきたのも隔世の感があります。時間はかかっても少しずつ変化はありますよね。もちろんその時々に限界はありますけれど。


ひとさん

>「どう理解や手助けをしてもらうか」っていうのが、こちらからできることというか、すべきことなんでしょうけどね。できそうにないですけど。

 こんなふうに発言されることが、その一歩なんだろうと私は理解しています。それと、そういう発言が同じ苦労をされている方の状況を改善するための礎になるわけですから、それはひとさんが大きな意味で「手助け」をしていることになる。……というのが私の考え方です。

>私はもう結構な歳ですし、この先何十年もかけて周囲とうまく調整をしていくみたいなことは現実問題無理ですね。

 ま、一挙に解決はありえないでしょう。死ぬまでに満足のいく解決も難しいでしょうね。もっともそれぞれの方が自分がどこに満足を求めるかについて定める基準によってもそこは違ってくると思います。仏教的に言えば「煩悩」が「苦」の根源とか言うことになるわけでしょうし、そういう見方もありうるかなと。そういう考え方になじむ方もなじまない方もいますので、一つの考え方にすぎませんが。

 あと、私は韓ドラが面白くてよく見ているのですが、韓国は地理的な位置からも昔からほんとに厳しい歴史状況を生きてきていて、とにかく世の中理不尽なことだらけなわけです。それが千年単位で積み重なってその生き方が作られているという印象があります。

 そうすると、「自分が生きているうちになんとかなる」なんて到底思えなかったりするわけですね。理不尽な思いを抱えて死ぬしかないというのがどうしようもない現実として感じられたりする。

 そこでとても興味深いことに、親が残した無念の思いを、子どもの世界で解決して、子どもが幸せになる、というストーリーも時々見られて、それが結構感動的な話になったりもしています。たくさんありますけど、ヒットしたクァク・ジェヨン監督の映画「ラブストーリー」なんかも典型的にそんな感じの映画です。 

 まあ、物語にすぎないといえばそうですし、子どもが仮に幸せになっても、無念の思いで死んでしまっている親には関係ないといえば関係ないですし、それはなんの救いにもなっていないという風に考えることも可能ですが、まあそれで救われる感じになる人もいるわけでしょう。

 ようするに、いろんな工夫をしながら、人はなんとか苦しみを和らげたり、少しでも前に進めるような努力をし続けているということかなと。絶望的な気分になるときにはそんなことどうでもいい話にもなりますが。

 なんにしても発言することはいいことだと私は思います。

>ひとさん

私のズレは、ADHDでのズレなので、アスペの方とは違うんですが、どうやっても理解してもらえず、説明したところで許されないことも多く、定型の『一般常識の範囲とはなんぞや?』を研究して、出来る限りの着地点を見つける。というところで乗り切ってきたので、おっしゃりたいことは分かります。

ADHD特性と定型の中間地点では、絶対に『そんなことは許されない!!』と叩かれることが多いので、かなり定型側に譲歩していると思います。
そうしなければ生きていけないですから、それも自分の生存権を守るために重要な任務だ!!と思うようにしています。

ひとさんが定型側に限りなく近く歩み寄ってこられた歴史は、とても貴重なサバイバル経験で、自分だからこそできた!と誇れることではないかな?と。

私はその歩み寄ってきた自分こそがすごいバイタリティの人間だと思うようになりました。
『絶対そんじゃそこらの人には真似できねーだろ?』と密かにほくそえんでいます。
それで本当の自分が気持ちよいと感じることを探して『ご褒美』を上げます。
さて、次頑張ったら何のご褒美にしようかな?と考えるのを楽しみに生きています。

多分、家族であってもこの感覚を話したら『ばっかみたい!』と嘲笑うのが分かっているので、自分だけで楽しんでいますよ。

あすなろさん
こういうネガティブなことを考えるべきではないとは思いますけど、「自分だからこそできた!」と誇る気分には到底なれず、「そこまでして生きている必要ってあったのかな」っていう感じですね。
「乗り切ってきた」っていう感覚もないですね。
常に叩かれ嫌味を言われて、仕方なく合わせるのを繰り返してきただけという。
死ぬまでそんなことを続けなきゃいけないなら、やっぱり生きていても仕方がないかなと思います。

>ひとさん

その感覚、とても分かります。
わたしもつい最近まで、そうでしたので。
何でこんなにポジティブに、(ある意味アホみたいに)考えられるようになったのか?
自分でも分かりませんし、今でも時々以前の劣等感の嵐が押し寄せてきて、大変なことになります。
だから、何とも説明は出来ないんですが、ふと、『こんな人生でも結構美味しいんじゃない?』と思える瞬間が訪れるかもしれません。
期待させるのも酷ですが、ひとさんにもそんな瞬間が訪れるといいなと願ってます。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/70480582

この記事へのトラックバック一覧です: 「いい加減」=「良い加減」:

« 時間が大事な理由 | トップページ | 自閉症研究とはなに? »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ