蚊の鳴くような挨拶
「あいさつ」ということについては何度か書いてきていますが、アスペの方は礼儀としての挨拶は理解され、行われる方が多いと思いますが、親しい仲でのあいさつについてはそのあたりが微妙になることが多い気がします。
ひとつには親しい仲ではあまり必要性を感じなくなるのかなと想像します。定型は例によって「常に相手の状態を気にしながらそのたびに調整しようとする」傾向(こだわりともいう(笑))が強いので、あいさつをするかしないか、どんな声で、どんな表情で、どんな態度でするかは大事なチェックポイント(もちろん無意識的に行う)のひとつになっていて、「いつもと違う」と感じたときには「警戒態勢」に入るわけです。
「相手が気分が悪いのか、なぜ悪いのか、自分が悪いのか、ほかの原因か、自分はそれに対してどう対応すべきなのか」といったことをそこで考えてしまうのですね。まあ簡単に言うと「気になる」ということですが。
この点は相手が親しくても親しくなくても同じです。つまり親しくなっても、というかむしろ親しくなるほど感情的な面でのバランスが大事になったりするので、挨拶の状態が変わると、すごく気になるわけです。特にこちらが挨拶をしていて、聞こえているはずなのに相手が挨拶をしないとなれば、それは「関係は非常に危険な状態になっている」という「警告」の可能性を考えなければならないので、ストレスが大きくなります。
ある意味興味深いです。つまり、アスペの方は「挨拶をしない」ということはもしかすると親しみ(または相手に気遣わなくてもいいと言う安心感の現れ)の結果かもしれず、それにたいして定型は「挨拶をしない」ことは親しみに危機をもたらすことと感じる。もしそうなら、ここでもまあすごいとんちんかんなずれが起こっているわけですね。
アスペの男性が、結婚前は熱心にプレゼントをしたり、女性を喜ばせるようなことを一生懸命してくれていたのに、結婚後にはぱたっとそれが止んでしまい、その変化はまるで「釣った魚に餌はやらない」ということのように定型女性の側が感じて苦しむ、というのも同じ理屈だと考えられます。
関連してほかのポイントも思い浮かびます。たとえばアスペの方は定型に比べて「白黒はっきりさせる」という傾向がかなり強いということは、ここでも繰り返し議論されました。境目がはっきりしない状態は非常に嫌で、明確であってほしいという気持ちが強いように思える。だから数字の世界のように、境目がはっきりできるものが気持ちがよく、親しみを持ちやすいのかもしれません。
このことも上の話につながってきます。結婚すればもう親しい家族なので、それまでとは全く違う状態に入るから、定型のように結婚後も相手の気分にいつも気遣って調整を続けるような中途半端な(と感じられる)ことはあまりしようとされないのかもしれません。もちろん生活上に必要な気遣いはされるわけですが、それは気分の調整とはちょっと違いますよね。
気分とか感情状態というのは常に揺れ動き続けるもので、その都度バランスを取らないといけない。そこで定型は「親しい相手」にその作業を手伝ってもらいたいと感じるわけです。そこで悩みを聞いてもらったり、意見をもらったり、慰めてもらったり、場合によって叱ってもらったりして、「気持ちを立て直す」ことをしようとする。それがうまくいく間柄が「馬の合う関係」で、「親しい」関係で、そのとてもいい関係が「親友」になる。
私の印象ではアスペの方も当然気分が揺れ動くわけですが、それをあくまで自分の中で処理しようとされる。これは最初からそうなのか、というと、その傾向がある(たとえば赤ちゃんの時にも泣くことが少なかったりする場合があることを考えると)とはいえるかもしれないけれど、それだけではなくて、誰かに頼っても結局うまくいかないか逆にひどくなることが多いので、早いうちにそれをあきらめて自分で、という風になるのではないかと想像します。
そういうわけで、アスペの方はあるいみ早期に感情的に「自立」の方向に向かい、定型の方は大人になっても感情的に「依存」しあう関係を作り続ける傾向が強い(もちろん個人差も大きいですが)。
アスペの方にとってそういう「自立」した状態はもう体の芯までしみこんだものになっていきますから、他人同士の「礼儀」の世界では親しみとは関係なしに「挨拶」をすることが「必要なこと」と理解される。けれども親しい仲では自分にとって自然な状態に戻るわけですから、挨拶には意味をあまり感じなくなる。
定型の側は逆に感情的に「依存」しあう状態が続き、それを深くできることが親しい状態だというふうにもなるので、その調整のためにも「挨拶」が重要になる。それは形ばかりの「礼儀」のあいさつではなくて、ほんとうに感情的なバランスに直結するような重要な意味を持ちます。
そう考えると、パートナーが韓ドラとかがすごく嫌いなのもわかります。韓ドラの世界は私もびっくりするくらい、感情をストレートに表現しあうことが多い。喜びも悲しみも怒りも憎しみも、あらゆる感情を(私から見て)ほとんど隠すことなく相手に直接ぶつける。親しい関係や深い関係ではそれはさらにそうです。そうしないと親しい関係ではないみたい。
この点では日本の人間関係の方が「よりアスペ的」な部分があるような気がしますが、とにかくそうやってどろどろと感情をぶつけ合うような関係は、アスペ的に言えば自立していないとうことになるのかもしれません。
で、なぜ「どうでもいい」のではなく「嫌い」になるのかと言えば、そういう形で感情的にぶつけ合うような関係は、もしそれをされたらたまらないと思うからでしょう。たぶん。なにしろ相手とのやりとりで感情を調整しようとするのではなく、相手と切り離された自分の世界で調整しようとするという生き方を追求してきているので、そこに相手の感情を持ち込まれたら対処のしようがなくて困るわけです。たぶん。
この違いは感情のあるなしでは決してないわけです。ただその感情をどう処理するかの方法の違いです。彼女は韓ドラ的な、あるいは演歌のようなどろどろとした情愛の世界が嫌いですが、でもたとえば演歌にあるような「恨み節」がないわけでは決してない。昨日も話をしていて昔私の言動に深く傷ついたときのことを、今もリアルに恨んでいるような感じがひしひしと伝わってきてびっくりしたところでもありますが、ただそれを自分の中に抱え込んで自分の中で処理しようとする傾向がすごく強いのでしょうね。
まあ、定型同士の間でも、似たような問題は起こるとは思いますし、ひとつにはレベルの違いということなのかもしれません。その差が非常に大きくて、お互いに理解がすごく困難なレベルにまでなるのか、なんとなくわかるけど違う、というレベルに収まるのかといった。ここでもスペクトラムの話になります。
あ、そうだ、もともと書こうと思っていたことはそれではありませんでした (笑)
朝の挨拶を彼女がしなかったときに、私も蚊の鳴くような、相手には聞こえないような声で挨拶をする、という状態になったのが面白かったという話を書こうとしたのでした。
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