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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年5月

2017年5月23日 (火)

蚊の鳴くような挨拶

 「あいさつ」ということについては何度か書いてきていますが、アスペの方は礼儀としての挨拶は理解され、行われる方が多いと思いますが、親しい仲でのあいさつについてはそのあたりが微妙になることが多い気がします。

 ひとつには親しい仲ではあまり必要性を感じなくなるのかなと想像します。定型は例によって「常に相手の状態を気にしながらそのたびに調整しようとする」傾向(こだわりともいう(笑))が強いので、あいさつをするかしないか、どんな声で、どんな表情で、どんな態度でするかは大事なチェックポイント(もちろん無意識的に行う)のひとつになっていて、「いつもと違う」と感じたときには「警戒態勢」に入るわけです。

 「相手が気分が悪いのか、なぜ悪いのか、自分が悪いのか、ほかの原因か、自分はそれに対してどう対応すべきなのか」といったことをそこで考えてしまうのですね。まあ簡単に言うと「気になる」ということですが。

 この点は相手が親しくても親しくなくても同じです。つまり親しくなっても、というかむしろ親しくなるほど感情的な面でのバランスが大事になったりするので、挨拶の状態が変わると、すごく気になるわけです。特にこちらが挨拶をしていて、聞こえているはずなのに相手が挨拶をしないとなれば、それは「関係は非常に危険な状態になっている」という「警告」の可能性を考えなければならないので、ストレスが大きくなります。

 ある意味興味深いです。つまり、アスペの方は「挨拶をしない」ということはもしかすると親しみ(または相手に気遣わなくてもいいと言う安心感の現れ)の結果かもしれず、それにたいして定型は「挨拶をしない」ことは親しみに危機をもたらすことと感じる。もしそうなら、ここでもまあすごいとんちんかんなずれが起こっているわけですね。

 アスペの男性が、結婚前は熱心にプレゼントをしたり、女性を喜ばせるようなことを一生懸命してくれていたのに、結婚後にはぱたっとそれが止んでしまい、その変化はまるで「釣った魚に餌はやらない」ということのように定型女性の側が感じて苦しむ、というのも同じ理屈だと考えられます。

 関連してほかのポイントも思い浮かびます。たとえばアスペの方は定型に比べて「白黒はっきりさせる」という傾向がかなり強いということは、ここでも繰り返し議論されました。境目がはっきりしない状態は非常に嫌で、明確であってほしいという気持ちが強いように思える。だから数字の世界のように、境目がはっきりできるものが気持ちがよく、親しみを持ちやすいのかもしれません。

 このことも上の話につながってきます。結婚すればもう親しい家族なので、それまでとは全く違う状態に入るから、定型のように結婚後も相手の気分にいつも気遣って調整を続けるような中途半端な(と感じられる)ことはあまりしようとされないのかもしれません。もちろん生活上に必要な気遣いはされるわけですが、それは気分の調整とはちょっと違いますよね。

 気分とか感情状態というのは常に揺れ動き続けるもので、その都度バランスを取らないといけない。そこで定型は「親しい相手」にその作業を手伝ってもらいたいと感じるわけです。そこで悩みを聞いてもらったり、意見をもらったり、慰めてもらったり、場合によって叱ってもらったりして、「気持ちを立て直す」ことをしようとする。それがうまくいく間柄が「馬の合う関係」で、「親しい」関係で、そのとてもいい関係が「親友」になる。

 私の印象ではアスペの方も当然気分が揺れ動くわけですが、それをあくまで自分の中で処理しようとされる。これは最初からそうなのか、というと、その傾向がある(たとえば赤ちゃんの時にも泣くことが少なかったりする場合があることを考えると)とはいえるかもしれないけれど、それだけではなくて、誰かに頼っても結局うまくいかないか逆にひどくなることが多いので、早いうちにそれをあきらめて自分で、という風になるのではないかと想像します。

 そういうわけで、アスペの方はあるいみ早期に感情的に「自立」の方向に向かい、定型の方は大人になっても感情的に「依存」しあう関係を作り続ける傾向が強い(もちろん個人差も大きいですが)。

 アスペの方にとってそういう「自立」した状態はもう体の芯までしみこんだものになっていきますから、他人同士の「礼儀」の世界では親しみとは関係なしに「挨拶」をすることが「必要なこと」と理解される。けれども親しい仲では自分にとって自然な状態に戻るわけですから、挨拶には意味をあまり感じなくなる。

 定型の側は逆に感情的に「依存」しあう状態が続き、それを深くできることが親しい状態だというふうにもなるので、その調整のためにも「挨拶」が重要になる。それは形ばかりの「礼儀」のあいさつではなくて、ほんとうに感情的なバランスに直結するような重要な意味を持ちます。

 そう考えると、パートナーが韓ドラとかがすごく嫌いなのもわかります。韓ドラの世界は私もびっくりするくらい、感情をストレートに表現しあうことが多い。喜びも悲しみも怒りも憎しみも、あらゆる感情を(私から見て)ほとんど隠すことなく相手に直接ぶつける。親しい関係や深い関係ではそれはさらにそうです。そうしないと親しい関係ではないみたい。

 この点では日本の人間関係の方が「よりアスペ的」な部分があるような気がしますが、とにかくそうやってどろどろと感情をぶつけ合うような関係は、アスペ的に言えば自立していないとうことになるのかもしれません。

 で、なぜ「どうでもいい」のではなく「嫌い」になるのかと言えば、そういう形で感情的にぶつけ合うような関係は、もしそれをされたらたまらないと思うからでしょう。たぶん。なにしろ相手とのやりとりで感情を調整しようとするのではなく、相手と切り離された自分の世界で調整しようとするという生き方を追求してきているので、そこに相手の感情を持ち込まれたら対処のしようがなくて困るわけです。たぶん。

 

 この違いは感情のあるなしでは決してないわけです。ただその感情をどう処理するかの方法の違いです。彼女は韓ドラ的な、あるいは演歌のようなどろどろとした情愛の世界が嫌いですが、でもたとえば演歌にあるような「恨み節」がないわけでは決してない。昨日も話をしていて昔私の言動に深く傷ついたときのことを、今もリアルに恨んでいるような感じがひしひしと伝わってきてびっくりしたところでもありますが、ただそれを自分の中に抱え込んで自分の中で処理しようとする傾向がすごく強いのでしょうね。

 まあ、定型同士の間でも、似たような問題は起こるとは思いますし、ひとつにはレベルの違いということなのかもしれません。その差が非常に大きくて、お互いに理解がすごく困難なレベルにまでなるのか、なんとなくわかるけど違う、というレベルに収まるのかといった。ここでもスペクトラムの話になります。 

 あ、そうだ、もともと書こうと思っていたことはそれではありませんでした (笑)
 朝の挨拶を彼女がしなかったときに、私も蚊の鳴くような、相手には聞こえないような声で挨拶をする、という状態になったのが面白かったという話を書こうとしたのでした。

 

2017年5月13日 (土)

「私の勝手」としての「障がい特性」

 

めがねさんの興味深いアスペ的体験談を読ませていただいて思ったことです。

 私はピスタチオを食べるときに、割った殻をティッシュの上に並べるのですが、それがどうも定型の人たちからすると興味深いようで、何故そうするのか、どんな意味があるのかと良く聞かれます。

私の中ではピスタチオの殻はティッシュに並べて置く事が自然で、特に考えて置いている訳では無いのです。もちろんグシャグシャに置くことも出来ますが、毎回なんの考えもなく、並んで置いています。

 これ、よく自閉の子の特徴の一つとして言われる「ミニカーなどを一直線に並べて遊ぶ」みたいな話につながりますよね。

 で、それは定型的に言えば「面白くない遊び」「創造性のない遊び」「意味のわかんない遊び」「奇妙な遊び」ということで「こだわり」の一つとされ、自閉の子の示す理解不能な「症状」ということになります。症状というわけですから、「ビョーキ」だというわけですね。


 で、ちょっと視点を変えて、定型の社会でも、実際は「意味の分かんないこと」はいくらでもあります。

 「食事の前に『いただきます』と言わなければならない。」なんで?「言わないとお行儀が悪いから。」なんで?「昔からそうなってるから。」なんで?「だって当たり前でしょう!」

 という具合に、「なんで?」を何回か繰り返していくと、「だって当たり前でしょう!」としか言えなくなるような話は、つまりはそこまで行くと「意味が分かんない」世界に入ってしまうわけですね。ただ、自分の感覚では意味があると「思い込んでいる」し、ほかの人も「普通」はそうで、だからあえて聞いてこないので、問い詰められて困らないだけのことで。

 じゃあ、「みんながそう思っているから、人として自然な、当然のことなんだ」ということかといえばそうでもない。いただきますと言わない社会だってありますし。だから、「身の回りの多くの人がそれを当たり前と思っている」ということ以上ではないわけですね。

 「私、ゴーダチーズが好きなんです。」なんで?「なんか味が濃くておいしいでしょう。」なんで?「あの独特のにおいもいいし。」なんで?「いや、だからおいしいから。」なんで?「そんなの私の勝手でしょう!」

 これは蓼食う虫も好き好きのパターンですね。この場合はゴーダチーズを嫌う人たちも結構いっぱいいるから、「個人の好み」だというふうに自覚しているので、最後は「私の勝手」になります。

 で、このあたりだと「そういう好みの人もいるよね。私は嫌いだけど」ということで、個人の好みの問題として理解されて、そんなに大きな問題にもならないし、それ以上は普通文句を言われずに認められます。

 中学校で習った英語で There is no accounting for taste.という懐かしいのがありましたが、そんなの説明がいらないことになっている。それこそ「説明できない」のが「当たり前」という話で落ち着きます。

 さて、ここでめがねさんの話にもどると、ピスタッチオを並べる話と「いただきます」と言う話とどこに違いがあるのでしょう?まあわかりやすいのは、「みんながやってるかどうか」のちがいでしょうか。

 ではゴーダチーズが好きという話とはどこが違うのでしょう?どっちも個人の好みの話だから、同じということにならないんでしょうか?でも実際はそうならずに個人の好みの話としても認められず、「おかしなこだわり」とみられることになっています。なんで?


 ということで、めがねさんはそこで堂々と「そんなの私の勝手でしょう!」と言ってもほんとうはいいはずなんですよね。 で、お互いに「そういう人もいるのが当たり前」と思えるようになれば、ずいぶん状況は変わるのではないかとも思えます。「当たり前」になれば、もうそれ以上人から文句は言われなくなりますし、自分の自然な感覚で生きられますから。

2017年5月12日 (金)

沈黙の意味

 また韓ドラネタです。ちょっと考えるヒントになりそうな気がしたので。

 前にも書いたかもしれませんが、韓ドラ見ていて登場人物のやりとりに「え?なんでここで一言ほんとのことを言わないんだ!」といらいらすることがあるわけです(笑) 「言わなきゃ悲しい展開になることが見え見えだろう!」とか。「悲しい状態になってほしいのか?」とか(笑)。

 そこがすごく不思議で、それで、お互いに「言わない」状態で相手に気遣って無理をしたりするので、お互いに相手に気遣いながら誤解が積み重なって、当然のように悲しい結末になる。で、実はそういうことだったのだということが後からわかって、それで自分を思う相手の思いの深さに衝撃を受けて(感激して?)、それで余韻を残してドラマが終わる、みたいな。

 それから、字幕を見ていて面白いんですが、日本語ではいろんな言葉で訳されているところ、韓国語ではたんに全く同じ単語をくりかえしているだけ(たとえばただ相手の名前を何度も繰り返して言う)だったりして、韓国語はわからなくても、単語くらいは耳に入りますから、「なんだ、この翻訳いいかげんじゃん」とか思ったりしていたんですが、それも合わせて同じ理屈かもと思えたんですね。

 つまり、「言葉では語り切れない思い」を、そうやって沈黙で表したり、ただ相手の名前を繰り返して呼び続けることで表したりしているのでは?と思ったわけです。いや、もう「表す」という言い方自体も言いすぎなくらいかもしれませんが。だから翻訳する人は、そのあふれる思いを感じてしまうから、同じ単語を繰り返す翻訳ができなくて、ついついいろいろな言葉で表してしまうというようなことがあるんじゃないかと。

 日本でも「ことばにすれば嘘になる」みたいな言い方があったようななかったような(笑) あまりに大事なこと、あまりにショックなこと、あまりに大きなこと、あまりに深いことはどんな言葉でも表すことができない。できない時はただその苦しい思いをため息のように表すしかなくなるわけでしょうね。

 韓国の人ってがんがん自分の気持ちとかぶつけてくる印象があるし、その印象で言うとそんなふうに「言わない」ということがますます不思議になるんだけど、でもたぶん自分の気持ちをぶつけあうような関係だから、逆にぶつけても伝わらないと思えるときの、あるいはぶつけてはならない(相手のためにとか)思えるときの、そのときの「沈黙」という最後の伝え方があるのかもしれないと思いました。

 で、ここでアスペの方の話になるんですが、アスペの方は、基本的に自分の言葉は伝わらない、自分の思いは共有されない、自分の世界は理解されない、という感覚を強くお持ちですよね?定型だってもちろんそういう「場合」はありますが、もうそれはレベルが全然違う。

 そうすると、「言葉」に対する無力感みたいなものが生まれても当然かなという気がします。

 韓国の場合はそこで「沈黙」みたいなことをいろいろ工夫して(?意識はしてないけど)使うことで関係を調整するということをやり続けてきたのかなと思うのですが、そんな風に「伝わらない時の伝え方」みたいなのはアスペの方にあるのか?あるいは伝わらない時にどうされるのか?そのあたり、ちょっと考えてみるといいかもと思ったのでした。

 ひとつには「あきらめて自分の世界に入り込む」という形があるのだと思いますが、それだけでもなさそうな気がして。具体的にはまだ全然わかりませんが。

 

2017年5月11日 (木)

考え方のスタイルの違い

 目覚めとともにふと思ったことです。

 私の場合、私のこだわりポイントというのがやっぱりあって、それは矛盾したようなことでもありますし、いつでもどこでもそうだというわけでもないのですが、ひとつにはできるだけ柔軟に考えたいということと、もうひとつは筋の通らない話は苦手だということです。

 あえて言えばそのどちらも「人とのコミュニケーション」にとって大事なことだという感覚があって、柔軟に考えることの大事さというのは、自分の見方だけではなく、相手の見方も可能な限り理解しながら、自分からの一方的な決めつけは避けたいという気持ちにつながる部分があります。(もちろん実際にはそれができないことも多いのですが)

 筋の通らない話については、これも「筋が通る」から「相手にも共有してもらえる」という感じ方がどこかにあるような気がします。自分だけの身勝手な理屈で言うんじゃない、誰でもまともに考えればそう思えるでしょ?というのが「筋が通る」話ということでしょうか。だからここでも「話が矛盾している」とか、そいういうのはおかしいとこだわり続けたりもしたわけです。

 そういう傾向があるので、パートナーの話がその部分で「かちん」と来ることがずっと繰り返されてきたんだ、ということにまずふと気が付いたんですね。私から見て筋の通らない話を一方的に決めつけたように言われるように感じる。それで、「それはおかしいでしょう?」とすぐに反論したくなるわけです。

 けれどもそういう「反論」でうまくいったことはほとんどありません。だいたい泥沼になって終わり。どちらかがいやになって話が途切れたり、彼女からは「何が言いたいのかわからない」と困惑した顔で言われて、私の方が「なんでこんなに単純なことが伝わらないんだ」という気持ちになってがっくりする、ということが何度も繰り返されました。

 子育ての仕方や私に対する要求なども、とにかく「押しつけ」と感じられるものが多くて、全然柔軟性がなくて、息苦しい……と、かつてはそう感じてものすごく憤ったり、しんどい思いが続いたりしていました。なんでこんなにかたくななんだ、筋も通らないことについて、一方的に。という思いになったわけです。自分のことについてはまだ我慢しても、子どものことについては実際に子どもがそれで苦しんでいるように私には見えたので、とてもつらかったのですね。

 このことを、一般的な「自閉理解」で言えば、こんな風に言われることになるのでしょう。自閉の人は「こだわり」が強く、状況に合わせて柔軟に考えたり対処したりすることができない。自分の視点とは異なる他者の視点を考えて、異なる視点を切り替えながら対応することがむつかしい。それで考え方や行動が固くなったり、相手にそれを要求するときは一方的な押しつけになりやすい、という説明の仕方です。

 でも、この説明の仕方は、わかりやすい部分もあるけど、何かどうしてもすっと受け入れられない部分が残っていたのですね。それこそなにか「定型はすばらしい。自閉は困ったものだ」という定型中心の見方になってしまっている感じがして、そこが嫌だったのです。

 それで、寝覚めとともに思ったのは、「これは考え方、納得の仕方のスタイルの違いなんだ」という理解の仕方をすれば、かなりすっきりする。ということでした。どちらが優れているとかいう話ではなく、それぞれが自分の特性に合わせていろいろ理解をしようとするときに、どうやって自分の納得感を作っていくか、その作り方のスタイルの違いなんだと。

 私のスタイルは彼女にはなかなか通用しません。そして同じように彼女のスタイルは私には通用しない。どちらが優れているということではなく、お互いに相手には通用しにくいスタイルを持っているのだ、と考えてみると、結構楽になる感じがしたのです。

 そういう考え方をすれば、改めてそれぞれのスタイルのプラスの面も見つけられる可能性も出てくるし、うまくいけばその組み合わせ方も見つかるかもしれません。まあ、そこはそんなに簡単なことではないでしょうけれど、ちょっと可能性が感じられる。

 「自分で納得する考え方のスタイルを大事にする」ということと、「相手の考え方のスタイルを尊重する」ということと、「お互いの異なる考え方のスタイルの関係を調整する」ということと、そのあたりを考えていくことが重要なのかなという気がします。

2017年5月 7日 (日)

綾屋さんのたとえ話

 連休で少し頭が働きました(笑)。

 「自閉症という謎に迫る」の最後の章に、アスペの当事者の綾屋さんという方(当事者研究の方)の言葉が紹介されていて、とても分かりやすい比喩だと思いました。ちなみに綾屋さんは、ずいぶん前にここでもご紹介したことのある、当事者研究をやってる脳性麻痺の小児科医の熊谷さんのパートナーでもあって、ご夫婦で面白いなあと思います。

そもそもコミュニケーションにおける障害とは、二者のあいだに生ずるすれ違いであり、その原因を一方に帰することのできないものである。たとえるなら、アメリカ人と日本人のコミュニケーションがうまくいかないときに、「日本人はコミュニケーション障害がある」というのは早合点であろう。

 定型とアスペとトラブるのは、たとえて言えばお互いにコミュニケーションに使う単語も文法も違っているんだという話ですよね。英語と日本語なら聞いただけでそれが違うことがわかるから、トラブってもそれは「言葉の問題だ」というふうに考えることができて、どちらかのせいだとは思いません。ところが定型アスペ間では使う言葉は一応同じ日本語だと思えるので、そこにずれがあるとは気づきにくい。

 で、一応日本語を話せるのに、定型的なTPOにあった話し方ができない、ということでアスペの方の方に「コミュニケーション障がい」があるんだということになる。で、その原因はアスペの方の「おかしな脳の性格」にあるとかいう話にもなっていく。でもそれは定型中心の見方で、アスペの方にはアスペの方なりの文法(理屈)があるのだから、お互いの理屈の調整が必要なんだ、という話になります。

 ま、今まで書いてきたことの繰り返しですけど、綾屋さんのたとえがわかりやすかったんで、改めてちょっと書いてみました。

 
 

自閉症研究の最前線という本を読む

  「自閉症という謎に迫る:研究最前線報告」(小学館新書)という本を読んでみたのですが、研究の最前線というのも根本のところでは昔とあんまり変わってないなあというのが素朴な感想でした。

 もちろん、脳科学とか日に日に進歩しているわけですし、遺伝子のことも昔わかっていたことなど比べ物にならないレベルでいろいろわかってきています。ABAだのSSTだのTEEACHだの、そういういろんな手法も私の学生時代には聞いたことがありませんでした。

 自閉症の診断基準なんかもどんどん変わっていっています。

 でも、根本のところの発想はあんまり変わっていない。まあ個人の頭の中の理解の仕組みが定型発達者とどこが違うか(何が弱いか)、「定型のようになれない障がい」の原因を探ろう、というような発想ですね。その原因としては遺伝子とか、脳の仕組みの違い、ホルモンの出方の違いなんかが一生懸命調べられている。それに環境の影響がどのくらい効いているんだろうかとか、そういう話が加わる。

 なんにしても最終的には自閉症というのは個人の頭の中の特徴のようにとらえるのが基本でしょう。そういう基本路線の中でバージョンアップが進んでいるというレベルにとどまっている感じですね。

 でも、同時に大事なところでの変化の兆しも感じられました。そういう発想では自閉症の問題はとらえきれない、ということが、いろんなところで明らかになっていると、書いている人たちが感じてきているということです。

 それはどんなところに現れるかというと、そもそも診断基準がどんどん揺れ動き続けている、というところからして明らかなんですね。

 なんで揺れるのか?一つの理解の仕方は「真の自閉症」が本当はあって、まだ研究が不十分だからそれが何かをちゃんとつかみきれないから、研究の進展に伴って少しずつ「改善」しているんだというものでしょう。診断基準の変化は、その意味で「より正しい理解」に向かう変化なのだという考え方ですね。

 でもここでまたそういう考え方では追いつかないことがいくつも出てきます。この本でも繰り返し取り上げられるのですが、それがわかりやすく表れていることの一つに、時代や社会によって自閉症の発症率がずいぶん違う、という話があります。

 でもなんでそういう時代や社会による違いが生まれるのかがまた説明できないわけです。いろんな説、たとえば診断基準が変わったからだとか、自閉症への注目度が高くなって発見されやすくなったんだとか、化学物質の影響で増えたんだとか、世の中がせちがらくなってストレスが増えたから自閉が増えたんだとか、まあそんないろいろな説があるわけですけれど、でも部分的にでもそれが証明されているようなことはほとんどないということですね。車通りの激しい高速道路の近くで生まれたり妊娠の後期をすごした子どもは少し自閉を発症しやすいというのはわりと安定したデータのようでしたけど、まあその程度。だいたいは「そんなことじゃないのかな?」という推定のレベルの話みたい。

 なんでそうなるのかと言えば、これは私の理解ですが、それは「自閉症」という概念自体がなにか体の生理的な指標とかで決まらないものだからです。この本でも繰り返し言われていますが、結局その診断はその人の振る舞いの評価によるしかない。で、その人の振る舞いをどう評価するかというのは、自然科学的な評価ではなくて、評価する人の人間理解の仕方に基づいた社会的な評価だというわけです。

 社会的な評価に基づくわけですから、当然その人の理解の仕方自体が時代によって、社会によって揺れ動くことになります。

 そのことは、DSMとかの診断基準を見ればわかります。今は自閉症スペクトラムと診断されるポイントは「社会的コミュニケーションがうまくとれない」ということと「こだわりがずっと続く」というあたりが肝になってきているようですけれど(そしてこだわりがあんまりないアスペの方はもう自閉症スペクトラムとも診断されなくなるかも、ということですね)、社会的コミュニケーションがうまくとれるってどういうことか、こだわりがないってどういうことか、というのも物理的には評価しようがない。その人の持っている社会的な基準で考えるしかないわけです。だから社会が変われば基準も変わる。同様にお医者さんによって同じ人への診断結果が変わるのも当たり前です。

 というわけで、この本の著者のみなさんも、脳の仕組みの事とか、遺伝の事とか、いわゆる自然科学的な理解や分析のことをまずは説明しながら、最後は文化とか社会とかを考えずにはわかんない、というところに話が収まっていくわけですね。中には自閉症というのは社会的な概念だ、とはっきり主張する精神科医の方とかもいらっしゃるみたいだし。繰り返せば「コミュニケーションの障がい」なんだからそれはごく当然のことでしょう。

 で、著者のみなさんにかなり共通しているように感じたことは、「どの社会にも通用する自閉症の理解の仕方、対処の仕方があるのか?」ということへの疑問です。たとえばDSMとか、一応アメリカのものだけど、実際には「あらゆる社会で使えるもの」というデファクトスタンダードみたいな位置を占めています。ABAとかもネズミの心理学のオペラントの技法の応用版で、社会の違いによらず有効な普遍的な心の仕組みに基づく、と考えられているものです。でも、違う文化でそれがそのまま利用できるのか、ということに多かれ少なかれ著者のみなさんが疑問を感じているようでした。それも上に書いたことから言えば当然の結果です。

 最後のまとめの章はそれまでのお医者さんや心理学の人(?)ではなく、社会学の人が書いてますけど、もう完全にそういう社会のことを重視した視点でまとめと問題提起をされています。わかりやすい言い方をされていますが、社会学ではコミュニケーションというのは「シンボルを使った双方向のやりとり」と定義されていて、つまり「お互い」の関係が大事になるわけなのに、今の自閉症の議論は「お互い」がなくなって、自閉症の人の側の個人の問題になっちゃっている、というわけです。

 当然の議論だよな、と私なんかはそう思います。もともとこのブログの基本的なスタンスは、「定型アスペ問題」を考えるというものなわけで、その問題はアスペだけの側にあるのでも、定型の側だけにあるのでもなく、お互いの関係の中に生み出されていくものだという視点からずっと考え続けてきているわけですし。

 そういう風にお互い様で考えていかなければならない問題だから、自閉の問題を外側から客観的に分析するような話ではなくて、当事者の方の見方が重要になります。定型の側から決めつけるのではなく、当事者の方の感じ方や理解の仕方を大事にして、そこから問題を見直すことが必要になるわけです。当事者研究が魅力的なのはそういうことですね。

 そのうえで定型とアスペの両者がお互いの感じ方や理解の仕方のずれに気を配りながら、調整の仕方を工夫していくことが必要になる。

 コミュニケーションの障がいなわけですから、結局そういうやり方でなければ本当には解決に進んでいかないわけです。「治すべき病気」ではないわけすしね。「調整すべき障がい」なわけで、そしてその「障がい」はアスペの方の中にあるのではなく、アスペと定型の間にあるわけです。

 

 で、そここそが定型アスペ問題の本丸だと私は思っているのですが、この「研究最前線」の本はその入口のところまで語って力尽きています。つまり、「お互い様のコミュニケーションの問題」だというところまで指摘して、「じゃあどういう形でそのコミュニケーションを調整していったらいいのか」という具体的な話は一切なし。その具体的な中身こそが大事なのになあと、私は思うのでした。つまり,「最前線」のみなさんも,悩みは同じということですね。

 ということで、我田引水ですが、この「研究最前線」のだいぶ先の方をここでは模索し続けている、ということがこの本を読んでよくわかった気がします。もちろん「だいぶ先」なのか「はずれたところ」なのかは人によって見方が違うでしょうけれど (笑)。「なんでアスペの方の言葉で定型は傷つくのか?」「なんで定型のやり方でアスペの方は苦しむのか」というそのあたりをうじうじ考えていくことがやっぱり大事なんだと思います。脳の話は参考にはなるけど、それ以上を期待することは無理だということでもあります。

2017年5月 6日 (土)

自閉症研究とはなに?

 2013年に出た「自閉症という謎に迫る:研究最前線報告」という本をぱらぱら見ているんですが、中身についてはとりあえずおいておいて、「自閉症を研究する」ってなんのことなんだろう、ということでちょっと思ったことです。

 自閉症って、定型的な常識が通用しない世界ですよね。たとえば自閉の子が手のひらをずっとひらひらさせてるとか、キラキラしたものをすごく喜んでみているとか、ミニカーを一列に並べているとか、定型的には「なにがそんなこと面白いんだろう?」と共感しにくい世界があります。

 感覚的にわかりにくいから「異常な世界」ということになってしまって、共感的にわかりにくいから「頭で理解しようとする」ということになる。その極端なやりかたが「脳科学」の話です。脳の仕組みで「自閉の子は脳のこの部分の働きが異なる」とか、オキシトシンという物質がどうのこうのとか、そういうことで「説明」しようとする。

 自閉症って、私たちの直接の体験の中では「共感のしやすさ」みたいな「気持ち」の在り方の問題なんだけど、そういう気持ちの在り方の問題はその手の研究ではえてして置き去りにされて、物の世界の理屈で「わかった気持ち」になろうとするわけです。そしてそういうのが「正しい科学的な理解」(もう少し言えば自然科学的な理解ということでしょうけど)と信じられたりもしています。

 医療で、時に発達障がいの子に悲惨な形で薬物を過剰に投与するお医者さんの例を聞いたりもしますが(普通の内科などのお医者さんでも風邪などでかかっても、やたら薬で対応しようとするような人少なくないですけど)、これなんかも典型的に自閉症を「物の世界」で理解して、理解できない子どもの様子に混乱して、どう対処していいかわからないから「物(薬)の世界の理屈」だけでコントロールしようとすることで起こることでしょう。

 もともと心と体は切り離せないものですから、自閉症を物の世界の理屈で理解して対処することにも当然意味はあります。物の世界の理屈でわかる部分があることも間違いありませんし、その対処の仕方にある範囲で効果があることも当然です。でもそれだけになってしまうと、単に「物の理屈」で、人を物として扱う、物理的にコントロールするというおかしな世界になってしまうことになります。

 

 それで、ここでやっぱり面白いことだと思うんですが、なぜそうやって単純な「物扱い」の研究になりやすいのか、というと、つまりは「わかんない」からです。共感的に理解できないからです。気持ちの世界でわかんないから、物の世界でわかろうとする。

 それが悪いとかいう話ではなくて、これって、アスペの方が定型の世界を理解しようとするときにやることと同じではないでしょうか?

 アスペの方も定型的な気持ちの動き方などがとても分かりにくく、定型社会がどうしてそうやって成り立っているのか、定型のコミュニケーションの理屈がピンとこない。そうすると「共感的に理解する」ことはむつかしいので、パターンとして理解する、物のように理解するしかなくなるわけです。

 自閉の子にはパターンを教えるのが有効だとか、目に見える(物の)形で示すのが有効だとか、そういう話をよく聞きますけど、それってその背景にある理解は何かといえば、「自閉の子は気持ちが理解できないから、物の世界で教えたほうがいい」という話になっているような気がします。

 でもそれは自閉だけの特徴ではないと思うわけです。定型だって相手の気持ちがわからなければ物の世界で理解しようとするのは同じわけですから。いわゆる科学的研究みたいのはみんなそれでしょう。で、自閉の子にとって「わからない定型の世界」に対処する上で、その「物の世界の理屈」で対応することがある程度力を持つように、定型にとって「わからない自閉の世界」に対処する上で、同じく「物の世界の理屈」で対処することがある程度力を持つ。基本全く同じことです。人間、定型であろうがアスペであろうが、共感しにくい世界は物の理屈で理解しようとしやすい、というだけのことだとも言えます。もともと自然科学って、共感できない自然を「気持ちの理解」抜きでコントロールするために作られたテクニックですしね。(自然について気持ちの理解で対処しようとすると、雨乞いの儀式とか、天を祭る儀式とか、今でいうと「迷信」とか「呪術」とか言われる形になるわけですが)


 そこが仮に共通だとして、異なる部分は何かといえば、定型の場合は定型同士の間では気持ちの共有とか気持ちの調整とかがやりやすい、なにかの特性を持っているのに対して、アスペの方はその調整(共有)の仕組みに独特の性格があって、定型との間にそれが作りにくいし、アスペ同士でもそれぞれに独特の世界を作りやすいので調整がむつかしくなることが多い、というあたりだと思うわけです。

 で、定型の場合はそんな風に定型同士で「気持ちの理解・調整」がうまくいく場合が多く、その工夫もいろいろ身に着けていきやすいので、コミュニケーションをとるときにますます「気持ち」に注目しやすくなり、「気持ち」の理解がさらに深まりやすい。それに対してアスペの方はそこがずれてうまくいかないことが多いから、あまりそこに注目しなくなり、「気持ち」の理解が進まなかったり、そもそも「気持ち」とか「感情」というもの自体が全く分からなくなったり、それに気づけなくなったりする。

 そんな風に考えてみると、これまでいろいろ考えてきた定型アスペの謎がわりと説明がつくような気がしています。

「いい加減」=「良い加減」

 

 ひとさんのコメントにあった次の文章から思ったことです。

今はほとんど他人と関わり合うことがないので、自分でもびっくりするほど短絡的でいい加減だなと思うし、こういういい加減な性格の方が本来の自分だろうと思います。

 本来の自分てなんなのか、むつかしい問題ですけれど、「気楽にいられる」状態の自分というのは割合「本来の自分」というイメージでとらえられるものなのでしょうね。自然体とか、素直な自分とか。別の言葉で言えば「他の人の目を気にしなくてもいい状態」とか「人の要求や基準に従わされている感じではない状態」ということかもしれません。

 人は感じ方も考え方もみんなそれぞれ違いますから、人付き合いをするにはどうしても関係の調整が必要になります。対等な関係ならば<お互いに>ということになりますし、何かの力関係があればどちらかが相手に<従う>、あるいはどちらかが相手を<従わせる>という上下関係で調整されることになります。

 ITとかネット関係では、ビルゲイツやスティーブジョブスなどの例にあるように、アスペの側が超エリートになって定型を従わせる形になることもありますし、周囲を見渡しても、権力的な立場に立ったアスペの方の中には、時に暴力的なまでに周囲の人を強制的に従わせようとする方もあるように私には思えますが(たとえば家庭の中で言えば一部の権力を持つアスペ夫と定型妻や、職場の中で言えば一部の強権的なアスペ上司と定型部下の関係のように……もちろんあくまでの「一部の」、です。アスペだから必ずそうなるというのでは絶対にありません)、けれども定型多数派社会の中では多くの場合は定型が支配的な位置に立って、アスペの方が一方的にそれに従わなければならない、という場面が多い。

 発達障がい児への支援というのも、「如何にこの(定型優位な)社会で生きられるように援助するか」というところから発想が始まることが多いですから、その発想にとらわれている限り、アスペの方が定型に<従わされる>という場面が多くなるわけです。

 そうするとアスペの方は定型に比べて「本来の自分」でいられない場面がものすごく多くなります。常に自分を殺して生きなければならない、という感じになりやすい。

 で、なぜかはよくわからないのですが、私個人の好みとしては、そういう上下関係ではなくて、可能な限り<お互い様>の状態に近づいてほしいのです。パートナーとの関係ではどうしても私は定型的な感覚で彼女を見て判断してしまいますし、彼女に合わせると今度は定型としての私の自然な姿が否定されてしまうので、それはすごくむつかしいことであることは身に染みていますが、でも、なんとかそこを乗り越えて<お互い様>の状態に近づきたいわけです(なんでなのか、ほんとに謎ですが、なんかそういう<欲望>があるんですね)。

 

 で、その<お互い様>がどうやって実現できるかが気になるわけですが、そこでひとさんの書かれたことで素朴に思ったことが、まずはお互いに相手の「本来の自分」を知ることかなと。私にとって自然で気楽な「本来の自分」と、相手のそれは違う、ということに<お互いに>気づく。これ、口で言うのは簡単ですが、身についた自分の「自然な」感覚を超えて相手の違う「感覚」に気づかないといけないし、それを「相手にとっては自然なこと」として納得しなければならないので、相当大変なことです。でもそれが第一歩でしょう。

 そのうえで、お互いに相手にとっての「本来の自分」を尊重する。これも実際にはむつかしいことで、尊重するという意味が、「相手に合わせる」ということになってしまうと、今度は自分の「本来の自分」が否定されてしまうので、そうならない形で「尊重する」やりかたを見つけなければなりません。でもそれが第二歩かなと。

 そしてそうやって「本来の自分」を確保した者同士が、それを前提にしてお互いに「相手にも合わせる面を作る」。

 アスペの方が自閉的と言われるのは、「本来の自分」を守ろうとして、他の人との関係の調整を拒絶せざるを得ず、結果としてほかの人から切り離されて自分の世界に閉じこもるような形になるからじゃないかと、そういうふうに私は思うのですね。でもそこにとどまっていては定型アスペ問題が解決するわけではないと思えます。そしてアスペ的な関係の調整の仕方がきっとあるだろうとも思うわけです。同様に定型の側も、定型の論理の押しつけというかたちではなく、定型アスペ関係を調整するやりかたがきっとあるだろうと思う。

 

 ひとさんは「自分でもびっくりするほど短絡的でいい加減」と、否定的な言い方で表現せざるをえない状況なのでしょうけれど、同じことお互いにもっと肯定的に表現できるような関係が見つかると、すごくいいのになと、そういうことを思ったのでした。

 

2017年5月 4日 (木)

時間が大事な理由

 ここで結構大事なこととして確かめられてきたことの一つに、定型アスペ間のコミュニケーションをうまくいかせるには時間が大事だ、ということがありました。

 お互いに同じ言葉を使いながら、あるいは同じ表情をしながら、それが意味することは全然違っていたりする。それを自分の理解の仕方で応じると、ぜんぜん応答がずれてしまって、悲劇的な展開にもなりうる。

 そういうことが「頭」でわかってきたとしても、どうしてもその言葉や表情などから直感的に感じ取ってしまうのは、自分がずっと慣れた意味なので、言ってみれば「体」はそういう自分の感じ方からの「誤解」で突き進みやすいわけですね。

 ですから、相手のことばや表情などを、相手の人の意味に理解しなおすには、すでに一度体に生まれてしまった「理解」を「誤解」としていったん抑えてしまい、頭でもう一度理解しなおす必要があります。

 これは結構大変なことですし、そして「理解しなおさなければならない」ぶんだけ時間もかかります。たんに「頭で理解したこと」なら「そうじゃなくて、こういうこと」と理解しなおすのは割合簡単ですが、すでに体がそういう理解で反応してしまった場合、体の自然な状態を切り替えていかなければならないので、それが大変なのだろうと思います。

 当然時間がかかる。その時間をとらなければ誤解の積み重ねでひどいことになる可能性が高くなります。

 しかも、「もしかするとこれは私の誤解ではないか?」ということも、自分が頭で考えることで、実際には誤解ではないという可能性も否定できません。そこにはなにかの意味で相手の「善意」を「信じ」て、その「真意」を探る、みたいなことが必要になります。そこもまた大変ですよね。

 アスペの方が定型社会のわけのわからない理屈に適応しなければならない時に直面するのはそういう状態なのでしょう。そのとき、相手が時間をとってゆったり考える余裕を与えてくれればまだしも、ひたすら時間をせかされたとしたら、これはもう大変です。

 けれどもそれは「アスペだから」そうなるのではなくて、定型がアスペの方に合わせて対応を調整しようとすると、やはり同じ困難にぶつかるわけです。

 その意味で、上に書いたことは「アスペの方の問題」ではなく、お互いによくわからないもの同士がなんとかコミュニケーションを成り立たせていこうとすると、必ず起こる問題だということになります。

 ただ、今の社会では普通はアスペの方が定型に合わせざるを得ないから、そういう大変さがアスペの方に起こりやすく、定型は「あの人はアスペだから困ったものだ」という風に相手の側に責任を押し付ける形で一応自分を納得させることがしやすいわけですね。

 そこはお互い様で、共通した仕組みがあるのだとして、それでも当然違いもあるはずです。そこで特にアスペの方に起こりやすい困難として、昨日書いた話から想像すると、「矛盾した感情を両方抱えながら調整を進める」ことが苦手なことが多い、という点があるのではないか、というのが今回書いてみたく思ったことです。

 定型は言ってみればその二つの矛盾した感情を、なんとかバランスを取りながら同時に調整していくのに対して、アスペの方は一度に注目するのはそのどちらかになり、他方は見失われるのか、あるいはなくなってしまうのか、そこはよくわかりませんが、とにかくひとつに集中して考えるしかなくなるのかもしれない。

 仮にそうだとすると、実際には矛盾した状態があるわけですから、その両方の部分について考える必要が出てくることになりますが、それを一度にできないとすれば、時間をかけてひとつずつ整理していくほかなくなります。

 そこは定型にはあまりない、アスペの方に特有の困難さ、ということになる可能性があります。

 コミュニケーションがずれているときに、時間をかけて調整することは「頭の理解」と「体の理解」のズレを考えるとどうしても必要で、どちらにとっても大事だということ、と同時にアスペの方は矛盾した感情を同時に調整することが定型よりもむつかしい、という、もうひとつの困難が加わっているために、さらに時間をかけることが大事になる、という違いもある。ここではそんな可能性を考えてみたということになります。

2017年5月 3日 (水)

矛盾した思いを抱える

 先日、子どもと久しぶりにあることを企画して、私としてはそれがうれしくてパートナーに話しました。そうすると彼女からその企画の欠点をすぐに指摘されて、どうするのかと責められました(と私は感じました)。そして私のうれしい気持ちはさっとしぼんでしまいました。

 この感じ、今思い出したのですが、昔学生時代に知的障害を伴うタイプの自閉の子と初めて遊んだ時の気持ちにつながるところがあります。それまで自閉の子とつきあった経験がなかったので、いろいろ緊張しながらも笑顔で遊びかけるわけですね。もともと子どもと遊ぶのは好きな方で、わりと遊べる方でしたから、そんなにむちゃくちゃなことはしてないと思うのですが、相手の子どもは全くと言っていいほど反応せず、まるで「そこには誰もいない。自分だけで遊んでいる」とでもいうような感じで自分の遊びを続けていました。とてもショックでした。

 なにがショックだったのか。まあ無視されたというのはつらいわけですが、その無視の中身には「いっしょに楽しく遊ぼう」という「気持ち」が否定されたことが入っているような気がします。

 話を戻すと、彼女は実際には責めたのではなく、その欠点は私がよくやる失敗なので、私のために一生懸命伝えようとしたのだと彼女は後から言いました。この、「彼女が言ったことは私には『責められている』と感じてしまう場合がある」ということを彼女はこのところかなり意識してくれているような気がします。そしてそのことをとにかく事後的にも伝えようとしてくれるようにはなってきたのは、以前からの変化です。

 私の方も、感覚的には「責められている」と感じるのですが、「いや、そうではないのかも」と考えてみる姿勢はだいぶんついてきました。そのあたりはお互いに牛の歩みですが、少しずつ変化してきたことのように思います。

 なぜそこで「責められている」と感じてしまうのかについては、これまでも何度か考えてみました。とりあえずの私の想像はこんなことでした。

彼女は自分の表情などが相手にどう伝わるかをほとんど意識しないまま、自分の心配や困惑に意識が集中して、すなおにその心配な思いがそのまま態度に出てしまう。

定型的にはそういう場合は、『この否定的な気持ちはあなたに向けたものではないのですよ』というようなことを相手に伝わるように工夫しながら表現しようとするので、相手は『この否定的な態度は私に向けられたものではなく、自分自身やそのほかのことに向けられたものなのだろう』と考えて安心、その上で困っている相手の援助を考えようとすることが多い。

けれども彼女の場合はそういう工夫は抜きで、ストレートに自分の心配や困惑が出るので、私からはそれは『私に対する強い拒絶や否定のメッセージ』と誤解してしまう。

 今もたぶんそのことについてはそういう可能性が結構あるなと思っているのですが、そのことを前提にもう一歩考えることがありました。

 定型タイプの場合、矛盾した感情をそのまま抱えながら人とやりとりすることが結構あります。というか、人との関係はほとんど矛盾した思いを抱えながらのものになっているのかもしれません。たとえば好意と嫌悪感とか、愛と憎しみとか、喜びと悲しみとか、そういう正反対のように感じるものでも、同じ相手に対して両方抱えながら付き合い続ける、みたいなことが結構多いような気もするわけです。そこまではっきり意識しているわけではなくても。

 このことはなにかの出来事についてもそうで、期待と不安とか、そういうのもどちらに決めることもなく両方膨らませていったりもする。

 そうすると、最初の話にもどると、私が考えた企画は、私にとっては期待が大きいものだったのですが、もちろん前提として「何か欠点がある」可能性は当然あるわけで、そのことを否定する気持ちはありません。そして「もし何か欠点があるのなら、期待を前提にして、欠点を克服してその期待を実現するのはどうしたらいいかを考える」という姿勢になります。

 そういう前提でまずは期待(喜び)の方を共有したくて彼女に話をするのですが、彼女の意識はまず「欠点」に集中してしまうのです。そして彼女にとってのその心配が大きいほど、強くその欠点を指摘することになります。そうするとコミュニケーションの仕方としては「期待の方を実現するために、どう欠点を克服していくか」という話にはならず、「こういう欠点をあなたは理解しているのか?」という頭ごなしの否定のようなスタイルになってしまいます。

 ここでも彼女には頭ごなしの否定をしている気持ちはないのだろうと思います。ただ心配なことがあるから、それを誠実に相手に伝えようとしているだけで、心配が大きければその分否定的な態度でそれが表現されているだけだということになるのだろうと想像します。この場合は私はその問題点をクリアするための方法を考えて、それで実際にそうなったので、それで問題は解決と言えば解決になったのかもしれません。

 けれども、そのようなコミュニケーションのスタイルによって、「喜びを共有したい」と思う気持ちはすっかりと冷めてしまう結果になります。喜びを共有したくて話をしたことで、そこに含まれていた欠点はクリアできたけど、クリアできたことで「よかったね」という喜びが共有されることもない。ここももしかすると定型的なコミュニケーションとのスタイルの違いなのかもしれません。

 もう一歩引いてこの話を考えてみると、二つのことを思います。

 一つはアスペの方は複数の感情を同時に抱きながら、どちらかに決めてしまわずに調整を進める、ということをあまりしないという傾向があるのではないか、ということです。だから期待をベースにしながら、不安にも対処して、不安の部分が解消されればさらに期待が膨らみ喜ぶ、というような感じにならず、不安が目につけば期待の部分は意識されずにそこに気持ちが集中し、期待の部分はほぼ消えてしまうことになり、その不安が解消してもマイナスがなくなっただけでプラスになるわけではない。というような展開になりやすいのかもしれない。

 もう一つは上に書いた自閉症の子どもとのエピソードにあるように、私は「一緒に楽しく遊びたい」という気持ちを最初に抱いてその子に向かったわけで、これは定型の子に対しては通常はうまくいくやり方なのですが、その時のその自閉の子には全然だめだったのでショックを受けたわけです。これをその自閉の子の立場から想像してみると、別に自分から「一緒に楽しく遊んでほしい」と思っていたわけではなくて、勝手に知らないおにいさん(当時)がやってきて自分に干渉してきただけです。自分が今関心を持っていることをやめてその干渉に付き合わなければならない理由などないわけです。いらぬおせっかいだということになります。そういうことなら無視しても当然でしょう。

 もちろんアスペの方が「一緒に楽しく」といった気持ちを全く持たないとは思いませんし、実際彼女も私に彼女の喜びを共有してほしがったエピソードもありますし、逆に私がその気持ちを理解できずに彼女の方がショックを受けたエピソードもおもいだします。私の想像を超えて彼女を傷つけたことも多いのだと思います。

 難しいのは、その気持ちが私の感覚に比べるととても弱く、しかも少し出してうまくいかないと、すっと引っ込んでしまい、そしていったん結果がうまくいかないと、その後の調整がとても困難に感じられることです。この調整が困難というところに、「複数の感情を同時に抱きながら関係をつくる」かどうかの違いが絡んでくるのではないか、ということを思います。

 お互いに傷つけあった後でも関係をやり直すというのは、「傷ついた自分」を否定することもなく、それを抱えながら、でも「相手への肯定的な思い」をベースに関係を持続していくことなのかなと思うのですが、定型同士でももちろんそれは結構大変なことですけれど、彼女の場合はそこが私の想像を超えてむつかしく、大変なことなのかもしれないと、そんなことを思いました。

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