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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年4月

2017年4月22日 (土)

自他の感情理解とコントロール

 定型タイプの私の勝手な想像です。

 アスペの方は他人の感情について理解するのがむつかしいと言われます。(感情自体について理解がむつかしいのか、定型的な感情の理解の仕方がむつかしいのか、そこはとりあえずおいておきます。) でも、実際は理解がむつかしいのは他人の感情についてだけではなくて、自分の感情についても(定型的な)理解がむつかしいのではないか、と思える経験が、たとえば私のパートナーについてはそう感じることがあります。

 この二つは、たとえばこんな感情理解の仕組みを考えると、まあそういうこともあるかなと思えることです。つまり、アスペの方(の少なくとも一部)は、感情の動きをコントロールする脳の仕組みと、それを意識する脳の仕組みの間のつながり方が、定型とは違いがあって、自分の感情の動きを定型的な形では意識しにくくなっている、ということです。

 もうひとつ、他人の感情理解というのは、「相手の感情状態に共鳴してしまって、自分の感情が突き動かされる」ということがベースになって、「相手の感情≒自分の感情」みたいな状態(まあ、共感というようなことですね)になり、で、その感情状態の原因を相手のものだと意識することでなりたつものだと、そんな風に考えてみます。

 そうすると、アスペの方の場合は、相手の感情状態に共鳴しやすい方でも、しにくい方でも、いずれにせよ、それを定型的に意識するのが難しいことになります。相手の感情の理解というのが、自分の感情の動きとセットになって初めて成り立ち、その自分の感情の動きを相手の動きとして意識する、という仕組みがあるとすればです。

 図式的に書くとこんな話ですね。

自分の感情の理解の場合
 <(私の)感情の動き>→<感情の動きを意識する働き>→<自分の感情の理解>

相手の感情の理解の場合
 <(相手の)感情の動き>→<(私の)感情の動き>→<感情の動きを意識する働き>→<相手の感情の理解>
 

 こういう風に仮に考えてみると、これまでここで語られてきたいろんなことが結構説明できるようになります。

 【例1】アスペの方は「共感性が低い」と言われたりする一方で、実際はすごく人の感情に影響されてしまうことがあるという、一見すると矛盾したように感じられる話。

 これは実際は <(相手の)感情の動き>→<(私の)感情の動き>という流れはあるんだけど、<感情の動きを意識する働き>→<自分の感情の理解>のところで定型的な展開になりにくいので、「定型的な共感が成り立ちにくい」からだ、という風に合理的に説明できます。

 【例2】アスペの方が過度に定型の感情に巻き込まれてしまって、自他の区別がむつかしくなっているように感じられることがある、ということについて。これについては以下のように考えることができます。

 定型の場合、<感情の動き>が起こった後、そこから<感情の動きを意識する働き>→<自分の感情の理解>と進んで、その感情の動きが自分自身が原因で起こったと感じるか、<感情の動きを意識する働き>→<相手の感情の理解>と進んでそれが相手が原因で起こったと感じるかの区別をしていきます。そこで<自分の感情>と<相手の感情>をある程度区別しながら調整する、ということを考えるようになる。

 ところがアスペの方の中に<感情の動きを意識する働き>のところで相手と一体になって共感状態のようになった感情を<自分の感情>と<他者の感情>に分けて考えるというしくみが定型のようには働きにくい場合、自他の区別なく混乱した感情の渦の中に巻き込まれてしまうということが起こりやすくなります。

 【例3】定型的に見て、相手のアスペの方が「こういう感情状態にあるんだろう」と思ってそういっても、その方が全くそんなことはない、と言われることがある場合について。

 これは<私の感情の動き>→<感情の動きを意識する働き>のところで、定型がそれを意識する働きとアスペの方がそれを意識する働きの型が違うので、同じ理解にたどり着きにくい、という形で説明することができます。

 【例4】 定型が他者との感情的な交流の中で自分の感情状態をコントロールしようとするのに対して、アスペの方がそれを嫌う傾向が強い、ということもまた次のように説明ができるようになります。

 それを説明するために、ひとつだけ次のようなことを補足して考えておくことにします。つまり、<感情の動きを意識する働き>→<自分の感情の理解>という風に感情を理解するということは、「理解することによって感情をコントロールする」ことにもつながるのだ、ということです。

 まず <(私の)感情の動き>→<感情の動きを意識する働き>→<自分の感情の理解> という形で自分の感情状態が悪いと理解したとします。その時、定型の場合、自分の感情と相手の感情が影響しあってその状態が変わる、という仕組みを使おうとするわけです。つまり

 <相手に感情的に働きかける>→<(相手の)感情の動き>→<(私の)感情の動き>

 という仕組みを使って、相手によって自分の感情の動きを作ろうとするわけですね。それは相手と共感状態を作るということでもありますが、単に「同じ感情を共有する」という話ではなくて、その感情を<(私の)感情の動き>→<感情の動きを意識する働き>のところで「私の感情」と「相手の感情」に分けて考えることもやり、そこで自分と相手の感情をコントロールする、という作業を同時にやっているのだと考えられるわけです。

 その自分と相手の感情を定型的な形で分けて考える、というところがうまくできない場合は、お互いの感情がこんがらがってしまって、却って混乱してしまい、わけがわからなくなるという事態になる。

 アスペの方もその人なりのやり方で自分の感情と相手の感情を区別することはあるのかなと思うのですが、少なくとも定型的なやり方とは何かが大きく異なるので、定型的な区別に基づく働きかけが成り立たず、混乱してしまいやすい。

 そうなると、定型の感情的な働きかけは自分を混乱させ、事態を悪くすることの方が多いことになりますから、基本的にはそれをアスペの方は避けようとすることにもなる。そして自分の中で、時間をかけて自分自身で自分をコントロールする道を探す形になる。
 

 いずれの場合も、私がパートナーとの間で何度も体験したことを元に、私から考えるとそう理解するとわかりやすくなる、というような話です。


 

 

2017年4月20日 (木)

距離を置いた付き合い方と置かない付き合い方

 掲示板の方であすなろさんがまた面白いことを書かれています。

 「ASDのお子さんは、過剰な刺激や反応が辛くてパニックになることがあるので、最初の対応(子どもへの刺激を少なくしようということ)では落ち着くケースが多い。しかし、ADHDのお子さんは、とにかく相手の反応が欲しい。この傾向は、ダウン症のお子さんにも見られます。どんなに過剰な刺激でも、相手がこちらを向いてくれるだけで満足。」

 いわゆる自己コントロールがどう成り立つのか、ということについての二つの異なるパターンなんだろうなという気がします。

 ひとつは相手との関係抜きに、自分の中で少しずつ状況を整理して自分をコントロールしようとするやり方。人のかかわりは必要ですし、人のやり方を学ぶことで自己コントロールを可能にしていく点は変わりないとしても、それはその場その場で相手とのコミュニケーションの中で達成するのではなく、人のやりかたを参考にしながら、相手とは距離を置いて自分の中でじっくりと調整する、というスタイルをとる。その場その場で他人がかかわってくると混乱するだけになります。情動的なやりとりはそこでは禁物になります。

 もうひとつは相手との面と向かったコミュニケーションの中で、相手の働きかけに助けられて自分をコントロールしようとするやりかた。この場合は直接その場で情動的なやり取りが行われることが大事になる。相手の情動的な応答で、自分の情動的な状態がコントロールされるわけです。その関係が崩れて距離を取られると、自分の情動が暴走を始めてしまう。

 ある種の人格障害になると、とにかく相手の情動的な応答を求め続け、今度はそれ自体が目的になってしまうような場合もありますね。ストーカーなどはその極端な例になります。たとえ相手に憎まれても、情動的に応じてほしくなる。無視されることが最も耐えられないことになります。ただ、あすなろさんが注目されているADHDの子との違いは、相手が応じてくれることで収まるかどうかでしょう。その種の人格障害の人は、いくら相手が応じても、その効果はごく限定的で、落ち着けることがないわけです。どこまでもその要求が拡大し続ける。

 
 あすなろさんが書かれているように、定型とADHDの子どもは、そういう目で見ると、「相手とのその場での情動的なコミュニケーションを求める」点で似ていますね。そしてADHDの子の場合はそれが定型より強く出る形になるので、定型的な関係調整だけではうまくいかなくなる。ASDの子の場合はその逆パターンでうまくいかなくなるということになります。

 ASDとADHDの両方の傾向を強く持つ子の場合はどうなのかとか、まあ考えてみるべきことはいろいろありそうですが、いずれにしても結構これは重要な視点のような気がしました。

2017年4月11日 (火)

あきらめと理解の欲望

 先日、掲示板でまた誤解と思える投稿があって、改めてそういう方には私の説明の仕方は通じないんだなということを思いました。ほんとに私が書いてきたことをちゃんと読んでいらっしゃるのか不思議ですし、もし読んでいらっしゃるのなら単に文章の一部を文脈抜きで読んで勝手に自分の理解で決めつけられているのではないかと、そういうことも考えずにはおられません。

 まあ、私もほかの人の言うことにはそういう勘違いをしてしまうこともありますので、そのことだけでどうのこうのと言う気持ちはないのですが、ただ、「ああ、やっぱりそういうものなんだ」という感覚にならされていきます。

 この「どうにも伝わらない」感覚、一種の「あきらめ」にもつながります。

 「あきらめ」には二つの側面がありますね。ひとつは相手を切り捨てるということ。「あきらめ」は「相手をあきらめる」ことの意味になります。もうひとつは「そのやり方をあきらめる」ということ。この場合はあきらめるのは相手ではなく、やり方です。

 私の場合のあきらめ感覚は、基本的には「やりかた」の方についてですが、ただ、やりかたがわからない相手の人に対しては、対応の仕方が思いつかず、対応できなくなりますから、実質的には少なくともその段階ではその人をあきらめる、という意味にもなってしまいますね。

 「あきらめ」にはいいところも悪いところもあります。悪いところは相手の人を切り捨てたり、そのうえで否定したりすることにつながることもある点。いいところは自分の考え方や感じ方を相手に押し付けなくなる点。

 こういうことを書くのは、ひとつには今回の私の「あきらめ」が、「理解してほしい」「誤解してほしくない」という気持ちを捨てることにもつながる、ということに気づいたからです。

 「自分の考え方や感じ方を相手に押し付けない」というのは、定型アスペ間では<お互いに>とても大きな課題だということがここでのやりとりでもはっきりしてきたと思います。だから「あきらめ」はその意味では大事になる。定型のやりかたや基準をアスペの方に求め続けるのはアスペの方を苦しめるだけになる。「空を飛べと言われるようなもの」という言葉でアスペの方からその苦しさを何度か伺いました。

 同じことはアスペの方に対しても言えて、アスペ的な感覚を定型に求め続けるとか、定型的な感覚をおかしいと決めつけるのは、定型が持っている大事なものを否定することになる(ここがアスペの方の何人かにうまく伝わらない感覚があります)。だからそこはお互いに大事。

 「(私を)理解してほしい」「(私を)誤解してほしくない」という感覚は、言い換えれば「私と同じ見方もできるようになってほしい」ということでもありますから、そもそも理解の仕方がすごく違う人に対してはそれは押しつけになってしまうわけですよね。そうすると「理解されることへのあきらめ」はおしつけないために大事になる。

 ところが「理解されること」をあきらめたら、その人と関係を持つこと自体を放棄することにならないだろうか、という次の問題が浮かび上がってくるわけです。

 別に放棄したっていいじゃない、という割り切り方があるのはわかりますし、そういうスタンスの方もありました。特にアスペの方の場合、無理な定型的同調を求められる体験が大きいので、そういう割り切り方をしなければ生きていかれないという現実もあるだろうと想像します。

 でも、実際はその割り切り方を最後まで貫いて生きることは不可能です。もしそれができるのなら、そもそもアスペの方が定型社会の中で苦しむことはないわけですから。それは定型的な同調への圧力に対抗して身を守るための武器の一つではあっても、それで定型アスペ問題が解決することはありえない。

 結局人間、人とかかわらなければ生きていかれないのですから、かかわりがある以上、なにかかかわりかたについての共通の理解がなければなりません。だから「理解したい」とか「理解してほしい」という気持ちを失ったら、一緒に生きていくことができなくなる。

 「あきらめ」が相手を切り捨てること、関係を切り捨てることにならないようなものになるにはどうしたらいいのか。「あきらめ」つつ「あきらめない」という、なんかややこしい話ですね。

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