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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年3月

2017年3月25日 (土)

笑顔

 私は特にその傾向が強いのかもしれませんが、相手の人が大変そうにしているとき、逆に笑顔で接することがあります。これは下手をすると誤解されますから、ある意味では慎重にですけれど、そうすることで大変な状態にあるその人を、やわらかく受け止めたいという気持ちが働くようです。そういう形で相手の人が安心して話をしてくれれば、もちろん真剣に話を聞きます。でも、基本的にはその場合でもどちらかというと笑顔を絶やさないようにしているような気がします。

 事態に真剣に向き合うということと、深刻な表情をするということは、私の中ではすこし違うことのようです。大事な問題だからこそ、ある種のゆとりをもっていろいろな可能性を考えて対処していく必要がある。相手の人がゆとりがなくなって深刻さに落ち込んでしまっているときに、こちらも一緒にそこに落ち込んでしまっては、視野が狭くなってしまって却ってよくないことがある。

 ほんとにシビアな状況では、ユーモアが大事になることがある、というのも同じことなのでしょう。ユーモアは緊張をほぐし、視点を切り替えてくれるきっかけになるからです。

 私の場合はたぶんそういう感覚で笑顔になるのだろうと思います。

 この感覚がパートナーとの間ではなかなかうまく働かないみたいです。なんでなのか、いくつかのことを考えてみるのですが、定型的な感覚では笑顔や笑いは相手に伝染すると感じるものですし、そうするとこちらが笑顔でいることで、相手の気持ちも和やかになりやすくなるとなんとなく思っています。もしかするとこの点でひとつ、「感情の伝染」みたいなことが定型アスペ間では起こりにくいということがあるかもしれない。

 もうひとつの可能性として頭に浮かぶことは、アスペの方は非常に生真面目にストレートに物事をとらえる傾向が強く、笑いのようにちょっと外してずらしてみる、ということはあまり好きでないか得意でないのかもしれないということです。

 ここでは定型社会がいい意味でも悪い意味でもいろいろなクッションをたくさん作り、使う中でガチの衝突を避けたり緩めたりしながら関係調節をしようとするのに対して、アスペの方はそういうやり方になじみにくいのではないか、ということを何度か書いてきました。もしかするとそこにつながる問題かもしれません。

 あるいはもしかすれば、定型的な笑顔に「だまされ」続けてきたことで、それに強い警戒心を持たざるを得なくなり、それが普通の状態になった、ということもあるかもしれません。


 もちろん定型同士の間でも、笑顔がうまく働かないで、逆に状況を悪くすることもありますから、単純に割り切ることは無理でしょうけれど、ただ少なくともパートナーとの間では、そのうまく働かない感じが非常に強いということは言えそうです。

2017年3月17日 (金)

「譲歩」のズレ

 たまさんからいただいたコメントで考えたことです。

 私を含め、たぶん定型の多くの人は、定型アスペ問題に突き当たった時、「なんでこんな<当たり前>のことがこの人には通用しないんだ!」ということにショックを受けたり、恐怖を感じたり、あるいは怒りを感じたり、とにかくかなりシビアな感情的な葛藤を抱え込むことになるのだと思います。それがひどくなるとカサンドラとかにもなるし。

 そして、それでもなんとか相手のアスペの方と関係を調整しようとすれば、自分が持っている「当たり前」や「常識」、場合によっては「正しいこと」や「思いやり」や「正義」の感覚までも一時的には抑え込んで、常識の枠を超えた工夫をしなければならなくなります。

 そうすると、定型的な感覚で言うと、それは「本来譲れないことについて、相手のために譲って考えているんだ」という思いにどうしてもなってしまうんですね。

 ところが、ものすごく苦労してそういうことをしても、相手のアスペの方が全然その努力を評価してくれないと感じたり、歩み寄ってくれないと感じたり、逆に攻撃的になられたりすると、「自分がこれだけ努力しているのになんで相手はそれを無視するんだ、なぜ自分ばかり譲歩させられるんだ」というショックが加わることになります。

 これはたぶん定型の側が陥りやすい理解のパターンで、また苦しみ方のパターンでしょう。自分だけが苦労させられている感覚に陥ってしまうわけです。

 定型の「常識」の枠の中で考えている限り、これはとても当然の感覚で、だれからも非難される筋合いはない(はずの)ものということになります。なにしろ「当たり前(正しいこと)」から出発していると確信しているのですから。

 けれども、ここで思い切り視点を変えてみると、また別の世界が見え始めます。定型アスペ関係では、世の中定型が多数派ですから、基本的には多数派の「当たり前」に従うような圧力の中で生き続けてきたのがアスペの方ということになります。そしてその「当たり前」はアスペの方にとってはとても不自然に感じられるものだったりする。

 ということは、その不自然さの感覚を抑え込んで定型的なやり方を身に着ける努力をされてきたアスペの方は、生まれてからずっと「譲歩」ばかりを強いられてきた、というふうにも言えることになります。

 そういう感覚をベースに考えてみると、仮に定型が「譲歩」をしてきたとしても、そんなことは自分たちはずっとやり続け、あるいはやらせられ続けて苦労してきたことなのだから、大したことはない、とか、それ自体が「当然の事」というふうに感じられるのかもしれません。場合によってはなんでその程度のことで「譲歩」などと大げさに言うのか、意味が分からない、と感じるかもしれない。


 ここでもまた悲劇的なずれがあることになります。お互いに相手の努力が見えていないわけですね。だから自分だけが苦労させられている、という感覚が生まれやすい。頭では「相手も苦労しているのかも」ということは思えるかもしれませんが、実感がなかなかついていきません。だから「たいしたことはない」となんとなく思ってしまう。

 そうすると、「自分がこれだけ努力しているのに、相手が応じないんだから、それは相手の責任なんだから勝手にすればいい。私は関係ない。あなたはあなた、私は私。そんな人に振り回され、自分を犠牲にして関係を調整する必要もない」という割り切り方も生まれることになります。それも一つの現実的な対処法であることも間違いないでしょう。

 そしてその「あなたはあなた、私は私」という割り切り方にも、その人のそれまでの生き方によって、特に基本的に自分が肯定されて生きてきたタイプの人と、常に否定的に自分を感じざるを得ない状況に置かれてきた人の間に、わりと重要なニュアンスの違いが生まれる可能性も感じます。(もちろん肯定と否定は一人の人の中で結構複雑に入り組んでいるのが普通ですから、単純な二分法は無理だとしても)

  
 このあたり、どう考えていったらいいのか、結構重要な問題だなと感じます。

2017年3月11日 (土)

贈り物のコツ

 相手に喜んでもらえる贈り物というのはやっぱり難しくて、それができる人はすごいなとよく思います。ちゃんと相手の好みなどを理解できるから可能なことですよね。

 考えてみると、私の父親というのはこれが極端に下手な人でした。とにかく自分の思いでこれはいいと思ったら相手に渡そうとする。もらうこっちは持て余すので困るんだけど、そこはほとんど気にしていない様子。最終的にはこちらから「それはいらない」とはっきり断ることでようやく調整していました。

 そこまでのことはないと(自分では)思う(思いたい)のですが(笑)、やはり私も人に物を送るときは自分の気持ちが先行する傾向が受け継がれているのかもしれません。パートナーに送る贈り物で喜ばれることがきわめてまれな感じがして、もうプレゼントをしたい気持ちも抑えなければならないような状態が続いていました。(でもしたい気持ちがなくならないのは奇妙といえば奇妙ですが)

 まあ、お互い様の部分もあるようで、彼女に言わせると、たとえば何度か私に服を買ってあげたけど、全然着なかったりするから、もう買ってあげるのはやめた、みたいなことを言っていました。自分は全然そういうことに気づいていなかったのですが、彼女から見るとそういうことが何度かあったようです。

 ただ、「相手にあったものを贈れているか」という点では「お互い様」であったとしても、やっぱり彼女と私の間には違いもありそうです。贈り物について、自分の気持ちが先行しやすいタイプと、相手の気持ちから考えられるタイプと、定型の中でもいろいろいそうですし、男女差もありそうな気がしますが、定型アスペ間でもその違いが表れやすいポイントのひとつだろうとはやはり思います。

 自分の気持ちが先行する傾向のある私の場合でも、もちろん頭では「相手はまた違うかもしれない」と思っていますから、贈り物をした後の反応が気になります。で、その際、今考えれば、ですが、「その場での相手の反応」を特に注目しているようです。嬉しそうにしているかどうや、それは本心なのかおあいそなのか、といったことを直感的に判断しています。

 もちろん常にそれがバシッとできるわけではないし、読み違いもありますが、でも基本的にそうしようとする態度は変わりませんし、大雑把にはそんなに外れることはない(と自分では勝手に思っている)。あるいは、外れることもありうることは頭では理解していて、特に相手との関係が自分にとって大事で、かつ相手の反応が微妙な時には「注意し続ける」という姿勢が生まれたりする。その後何かのタイミングで調整しなおす可能性も感じるからでしょう。(もちろんいちいと頭で考えてというより、直感的にそうしている<みたいだ>という話ですが)

 パートナーの場合はたぶんそこは違う。私に比べれば「その場での相手の反応」というのはそこまで重要でないように感じます。それよりも、服のプレゼントの話のように、「その後実際にどうしているか」の方に注目しているようです。

 ちょっと単純化してみれば、私の方は「その時」の注目がメインで、「その後」はサブという感じですが、彼女の場合はその逆で「その時」はサブ(または希薄)で、「その後」がメインという感じでしょうか。

 そうすると、ある意味では興味深くもあるのですが、人はどうしても自分が重視するポイントで相手も判断してしまいがちですから、私の場合だと彼女があまり問題にしていない(ように思える)「その時」の彼女の反応で判断してしまうことになる。そうすると「その時の反応の仕方をあまり気にしていない」彼女の態度が「否定のサイン」に思えたりするわけです。

 それで、ちょっと面白いことがあったのですが、先日子どもと出かけることがあって、帰りにお土産を私が買おうと思ったのですが、さて何を買ったものか例によってわかりません。何が喜ばれるのかがほんとにわからない。聞くと「いらない」という答えが返ってきたりしますし。

 で、子どもに相談したんですね。何がいいかと。そうするとさすがだと思うのですが、ポイントをついたアドバイスをくれました。まず実用的であること。定型社会でよくやられる「ほんの形ばかりの気持ち」のプレゼントというのは意味がない。実質が大事。そして彼女の好きな動物に関係するもの。最後にこれがまた面白かったのですが、渡し方についての注意です。中身を説明せず、さりげなく渡す。

 さらに動物の絵柄がついたものについても、やはり彼女のセンスを子どもは見抜いているようで、具体的にこれ、というようなものを教えてくれます。

 というようなアドバイスをもらって、そうしてみました(というか、ほとんど子どもに選んでもらったようなもの(笑))。渡し方も「これお土産」とだけ言ってあとは何も言わず。

 そうすると、これがやはりうまくいくんですね。もらったときの表情でうまくいったとわかるよりは、その後のそれへの扱い方が、なんとなく喜んでもらっている感じがあるわけです。

 やっぱり子どもの方がよくポイントをつかんでいます。わからないことは子どもに聞いた方がいいのかも(笑)。


 

 

 

2017年3月 3日 (金)

定型アスペ問題の本体=二次障がい

 定型アスペ問題を考えてきて、まずはお互いの感じ方、考え方の傾向がどれほど大きく異なるか、ということに注目してきました。そしてそれを前提に、それがどう違うのかを整理しながら、私の場合は自分の定型的な感覚をベースに、それを応用する形で、アスペの方の世界を想像する試みを続けてきました。またそれに合わせて、なぜ定型アスペ関係でお互いが傷つくのかについても少しずつ考えてきました。

 そういう中で、定型アスペ問題といっても、実際にお互いの傷を生み出すのは、いわゆる「一次障がい」が直接というより、むしろお互いの間に気づかれずに存在するずれが生み出す「二次障がい」の方が現実的には大きな問題である、という理解を私などはするようになってきました。

 「一次障がい」の部分は、それを問題ととらえるより、むしろその人の個性的な生き方にかかわる特性としてとらえるべきで、その点では定型も定型的特性を持っているわけですから、「お互い様」の世界です。そこに絶対的な優劣を見るより、お互いの特性を生かしあう関係の仕方を模索するほうがよほど前向きだと思えます。

 ところがそのような関係を模索する上で、「二次障がい」の問題が大きく立ちふさがることに気づかされるわけです。この二次障がいの具体的な中身は、一つには発達障がいの多くの方が常に否定的に評価されやすい環境に置かれることから生まれる、自尊心や自信の危機でしょう。それは生きることへの外向きのエネルギーを奪うことになりやすい。もちろん定型でもカサンドラ状態に陥るとそうなります。

 二つ目はそのような関係の中で相手に「傷つけられる」ことから生まれる激しい怒りや恨み、不信感の感情です。その感情は相手に対する拒否や攻撃のエネルギーを生み出しやすく、お互いの特性を踏まえた柔軟で新しい関係調整に対して非常に大きく分厚い壁を作ります。

 

 どこにずれが生まれやすいか、ということについては、ある程度までは「理性的」に問題を考えていくことができます。もちろん自己中心的な見方を超えて「客観的」に考えるために、自分の痛みをいったんはカッコに入れてしまわなければならないという、別の痛みは伴いますが、それでもまあ理性的な作業ではある。

 けれども、「傷つけあう」ことから生み出される問題は、まさに痛み、感情が問題の本体になるわけで、少なくとも「理性」だけでどうなるわけではありません。たとえて言えば、けがをしたときに「傷薬を塗って包帯をしておく」という考えを理性的にいくら持っても意味はなく、実際にそれを実行して傷を癒さなければならないのと似ているでしょう。

 そしてこの点のむつかしさは、「お互いに傷つけあう」関係にあるということです。どちらかが単純に加害者で、どちらかが単純に被害者であれば、ある意味問題は簡単です。加害者が被害者に誠意ある謝罪を行うことが一番大事になる。ところが定型アスペ関係はそんな単純な問題ではない。どちらもが傷つき、そして相手を傷つける関係なわけです。

 定型アスペに限らず、どんな人間関係でも同じようなことは起こりえますが、定型アスペ間ではそういうことが非常に起こりやすく、しかも調整がむつかしくて修復が困難になりやすいため、問題が深刻化しやすい。つまりそこが「二次障がい」の部分なわけですね。もちろんここでいう二次障がいというのは、アスペの方の中にあるというより、定型とアスペの間に生み出されるものなわけですが。


 この問題にどう向き合って考えていくか、それが私にとっての大きな課題として感じられることの一つですね。

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