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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2017年2月

2017年2月23日 (木)

あなたはあなた

 あるシビアな人生のテレビドラマを見ていて,ふと,「ああ,こういう状況で生きていれば,そういう考え方になっても当然のことだな」と感じ,そしてそれだけではなくて,すべての人考え方が,その人の抱えた条件の中でどうしようもなくそういう形で作られていったのだろうなという気になりました。

 たとえその考え方がどれほど自分と相いれないものであろうとも,それはそうなのでしょうね。いいも悪いもなく。

 でも,そういう考え方だと,すべてのことを否定できなくなります。そしてすべてを否定できないということは,実は何も肯定できないことでもあります。


 それもまたなにか変だなと思う。

 じゃあ何も否定できず,何も肯定できないのなら,結局それぞれが勝手に生きるしかないのか,そして利害の対立で闘うしかないのか,と考えると,それもまたすんなり受け入れられないところがある。

 あなたはあなた,私は私。じゃあお互いをつなぐものは何なのでしょうか。共通の利害?  

2017年2月12日 (日)

耳順

 このところまた自分に変化が起こっていて、パートナーとの関係も変化しつつあるような感覚があります。何が変わったのかというと、以前より私の方で彼女の話を「聞ける」ようになった感覚があるのです。

 以前は言っていることが極端で単純な決めつけに聞こえたり、筋が通らないように聞こえたり、矛盾したことを言っているように聞こえたりして、それで「何をめちゃくちゃなことを言っているんだ」と思って「正しく反論する」みたいなことをしていたのですが、いくらやってもかえって話が混乱していくばかりで逆効果でしかありませんでした。

 その極限のところで、もう別れるしかないという感じのところまで行ったことになります。そして公私ともに深刻な状態になって、鬱になる、という展開ですね。

 そのあと、問題の根本に定型アスペ問題があることに気づき、定型アスペ関係の理解が少しずつ深まるにつれて、私の方はすぐに反論することを控えるようになってきました。「何を言っているんだ」と思ってカチンと来ても、深呼吸してその言葉を飲み込むみたいな。そしてわからなくてもそのまま置いておくという風にするようになり、それで衝突がぐっとなくなってきました。

 ところがそうなると今度は話をすることがなくなってきてしまうという展開が生まれたのです。これはこれでまた別のストレスになるんですね。

 ただ、介護の問題などで、彼女からいろいろアドバイスをもらって頼りにするような状況は生まれてきて、そこが数少ないつながりのようになってきていました。ただ、ほんとに必要な時に必要なことしか話さないような状態になってしまうわけです。

 で、最近、相変わらず筋の通らない決めつけのように聞こえたりする部分もありながら、でもその中に私も納得できるような、私が見過ごしているような指摘を感じ取ることが増えてきました。そうなると、言い方などに引っかかる部分は残りながら、でもその指摘に価値を感じられるようになってきます。なにしろ私とは違う視点で世界を見ていますから、私には見えていないものを見せてくれるわけです。で、ありがたいと思えるようになってくるんですね。

 実際、自分が今まで見過ごしてきたか、あるいは見ないようにしてきた「定型社会の裏面」のようなものがかなりリアルに見えるようになってくる体験がこのところ続いています。そのことで私自身の世界に対する理解がぐっと広がったり深まったりする実感があるわけです。

 そうなってくると、「話をすることがなくなる」という状態からやはり変化してきます。彼女の方から話しかけてくれることも増えてきます。

 まだそういう変化が起こり始めたように感じるという段階なので、どこまでこれが深まっていくかは何とも言えませんが、新しいものが生まれつつあるのは確かな気がしています。

2017年2月11日 (土)

記事公開手続き

明日午後から一週間ほど、通信環境が変わるため、投稿していただいたコメントなどの公開手続きが滞る可能性があります。ご不便をおかけしますが、ご了解をお願いいたします。

2017年2月10日 (金)

お互い様のむつかしさ

 猫というのはいろいろ面白くて、猫に物や手などを突き出すと、必ずといっていいほど、くんくんとにおいをかぎます。同じものを出してもそのたびににおいを確かめる。今朝は猫が窓の外を見ていたので、猫の顔に自分の顔を並べて猫の見ている方を見て見たのですが、そうすると今度は私の顔のにおいをかぐのですね。

 何の意味があるのか、においで確認するのか、挨拶なのか、いくつかの話を聞いたことがあるような気がするんですが、とりあえず私の方も「お互い様」で猫の顔を嗅ぐようなふりをしてみました。猫は特に嫌がる風もなく、そのあとふっと離れた私の顔をじっと見て、それでおしまいです。

 はたしてそれで「お互い様」が成り立ったのかどうか、そうすることに猫にとって意味があるのかどうかは全然わかりませんが(笑)、猫との間では独特の関係が作られていきますね。


 それはさておき、定型アスペ間のお互い様を考えるうえで、サロマさんが紹介してくださったアスペアスペ間の問題は私にはとても重要なものに感じられました。

 お互い様というのは、いいことにしても悪いことにしても、お互いに同じようなことをやりあっていて、それでつり合いが取れているんだ、という話ですよね。だから一見「自分だけが得(損)をしている」と感じられることでも、どこかでバランスが取れているんだと思うと「自分だけ」という緊張感が取れて平和(?)になったり絆が深まったりするという話です。

 それで、定型アスペ間で、たとえば「定型はこういう理屈で生きている」それに対して「アスペはこういう理屈で生きている」から、「お互いに相手の理屈を尊重した関係」を作ればうまくいくということが成り立てば、ある意味では問題は簡単になります。ところがサロマさんの体験談は、もう一段ややこしい問題がそこにあることをわかりやすく教えてくれます。

 つまりこういうことです。

 定型が定型アスペ関係で傷つく理由の大きなものの一つは、定型同士がうまく関係を作ろうとするときに大事に感じるやり方が通用せず、その結果自分が切り捨てられたり攻撃されているように感じてしまう、ということのようです。ところがここでもしつこく考えてきましたが、アスペの方にそういう意図はない(場合がほとんどな)わけです。

 ですから、シンプルに考えれば、アスペの方に対しては、アスペの方がやるようなやりかたで対応すればいいのだろうということになりますし、実際、そういう場合もあります。たとえば病気の時に「一人にして(最低限生きるうえで必要なこと以外)構わない」というやり方は、アスペの方にとって相手を気遣うことでもあり、また自分がそうされることで気遣われることにもなる。この場合はアスペ的なやり方で「お互い様」が成り立つことになります。

 ところが、アスペ的なやり方で返すと、それをやられたアスペの方が傷つき、「お互い様」でハッピーにならない場合があるわけです。これまで考えてきた例でいえば、それはスペクトラム上の位置のどこにいるかによって、相手がより自閉傾向が強い人に対して同じように定型アスペ問題が起こる、という話があります。だから同じ人でも、自分より自閉傾向が弱い人との間では「アスペ的に傷つく」ことが起こるのですが、逆に自分より自閉傾向が強い人との間では、今度は「定型的に傷つく」ことがある。

 そしてサロマさんの書いてくださった例を読んでいると、この自閉傾向の差はたんに一直線上に並んでいるというより、「こういうポイントでは自閉傾向が強いが、別のポイントではそうではない」というような、なんというか、平面的な関係にあるようにも感じられます。だから同じ人との間でも「こういうところでは私は相手より自閉的」だけれど「別のところでは相手が私より自閉的」という場合もある。

 つまり「平均」を出したら「同じ自閉度」になるかもしれない二人でも、それでバランスが取れるかというとそうではなさそうだということになりますし、さらに大事なことは、その際自閉度が弱い側が傷つく傷つき方はかなり「定型的」なものらしいということです。

 ということは、「アスペにはアスペのやり方があるんだから、そのやり方を学んで尊重すればハッピーになる」というシンプルな話は成り立たないということになりますよね。なにしろ「これがアスペ的なやり方だ」と思ってそうやってみたら、逆に傷つかれてしまう可能性もあるわけですし、目的が達成できません。

 
 自分のやり方を押し付けても問題が起こるし、けれども相手のやり方でやっても問題が起こる場合がある。だから「こういうときは定型的なやり方がうまくいきやすいし、こういう場合はアスペ的なやりかたがうまくいきやすい」みたいな形で、何か別の考え方を探す必要がありそうです。とりあえずは具体的な場合ごとにそれが見つかればいいし、それが見つかってくれば、それらに共通する部分がわかってくると、応用が利くようになっていきますし、そういう作業を地道にやっていく必要がありそうです。

2017年2月 9日 (木)

うっかりミスのお互い様

 私は基本的におっちょこちょいのところがあって、電気の消し忘れとかよくやるんですね。それでパートナーにはよく怒られてきました。最近は人を感知してついたり消えたりする電灯とかを使ってみたりもしています ('◇')ゞ

 で、台所で朝ご飯の準備をしているとき、いきなり彼女に電気を消されてしまいました。一瞬「え?」と思ったのですが、「あ、まただね」と思い、そして今回はさらに「ああ、お互い様か」と思えたという話です。

 「え?」というのは、私がまだ朝ご飯の準備をしているのに、電気を消されてしまったことですね。これは定型的には(?)かなりきつい警告であるか、あるいは「攻撃開始」を意味することがあります。ことばに直せば「あんたはいつも消し忘れをするんだから、もうあんたには電気を使う資格がない。」という宣告に等しいわけです。これはびっくりです。

 「あ、まただね」というのは、彼女にはそういうつもりは一切なかっただろうということで、それは彼女の他の態度からもそう思えます。そしてこんな推測がすぐに成り立ちます。つまり、彼女は「台所の電気がついている」「パンダがつけた」「パンダはまたつけっぱなしにするかもしれない」「電気を消さなければいけない」「電気を私が消さなければいけない」と思い、電気を消した。ここで抜けているのは「まだパンダがそれを使っている」という部分です。

 テレビを「一緒に」見ていると、いきなりチャンネルを変えられてしまうのと、ある意味同じ仕組みですね。「私はテレビを見ている」「このチャンネルは面白くない」「チャンネルを切り替えよう」と思ってそのまま切り替える。抜けているのは「パンダがそれを見ている」という部分です。

 これ、言葉でこういう風に説明すれば、彼女にも伝わります。だからときどきは(笑)チャンネルを変える前に「見てる?」と聞いてくれることもあります。その意味でこれは彼女にとって「パンダが○○している」という部分を「うっかり忘れてしまう」という話だということになります。

 そこで「ああ、お互い様か」になるわけです。私は電気の消し忘れといううっかりミスを繰り返し、彼女はそのしりぬぐいをいつもさせられ、彼女は「パンダが○○している」のをふっと忘れて相手の存在を無視したような行動をうっかりしてしまうことを繰り返す。

 そう考えてみると、電気をいきなり消されてしまったエピソードは、そういうお互いのうっかりミスが絶妙に「かみ合った」結果(笑) とも言えそうですね。まあどっちもどっち。お互い様。

 

2017年2月 5日 (日)

赤ちゃんと迷惑

 今ちょっと不思議に思い始めたことは、赤ちゃんは迷惑と思わない、ということです。

 「障がい」=「特別なケアの対象」=「迷惑をかける」という理解の図式があって、そこが「障がい」と名付けられた人のぶつかる大きな壁の一つになる。よくいう「障がい認知」みたいなことが大きな問題になるのも、自分や自分の子どもを「障がい」と考えることにそれだけ大きな抵抗があるからでしょうし、障がいに限らず、たとえば「老い」を受け入れられるかどうかも、この辺が大きく絡んでいるように思えます。

 たぶん二つくらいの側面があって、ひとつは「人と同じになれない」とか、あるいは「人に勝てない」という「運命」を宣告されたような気持になることに抵抗感を感じるという面、もうひとつは人に「迷惑」をかける立場になることに引け目を感じるという面で、いずれにしても「対等」な関係を作れないと言われた気持ちになるのではないでしょうか。

 他方で障がい認知によって「救われる」気持ちになる場合もあります。それまで得体のしれない苦労を続け、「自分はなんでこんなにも苦しい目に合わなければならないのか」という思いにつぶされそうになっているとき、「自分が悪いんじゃない。<障がい>が悪いんだ」という風に考えることで、自分をへんに責めなくてもよくなり、また「障がい」を前提にした新しい工夫の可能性も考えられるようになり、暗闇に光を見るような気持になるからでしょう。

 ただし、「障がい認知」で救われた気持ちになる場合でも、「ケアされる」=「迷惑」という理解の図式から自由になれるとは限りません。むしろそこに次の大きな壁が現れることの方が多いでしょう。そう考えれば、より重大な問題はやはりこちらの方です。

 で、赤ちゃんはもちろん「ケア」がないとすぐに死んでしまいますから、もう徹底的に「ケアされる」対象になりますが、考えてみると赤ちゃんは自分のことを「迷惑」とは思いません(って、別に赤ちゃんに聞いてみたわけじゃないですが (笑) )。 周りの大人は、中には泣きわめく赤ちゃんを「迷惑」と感じる人や場合もありますが、もしそれを迷惑だと言い続ける人がいたとすれば、かえってその人の方が「おかしい」と周りから言われることになります。

 つまり、赤ちゃんは「ケアされて当然」の人間だと自他ともに(笑)認められるわけですね。そうすると「ケア」=「迷惑」とはならないことになります。それはなんでなんだろうという話です。まあ考えられるのはひとつにはそれが「普通」のことと思われているからでしょうか。誰でも赤ちゃんの時はそういうものだという風に思うから、「当然」ということになる。

 老人の場合も老いれば人の世話にならざるを得ないのは「当然」なのですが、ただ赤ちゃんと比べると事情が複雑で、まずは人による差がすごく大きく、「ケア」が必要とされる程度がかなり異なって「みんなこうだ」という風にはなりにくい。 もうひとつ、赤ちゃんと決定的に違うのは、赤ちゃんは「迷惑」とかなんとか考えるまでもなく、「素直」にケアをされますが、老人の方はいろんな意味で葛藤をかかえた状態になるので、そこで対応がむつかしくなる。

 実際私も親の介護に関して、この辺の葛藤が大変ですね。老人は「自分の意思でやりたい」という思いと、「体がいうことをきかない」という現実の中ですごく葛藤を抱えるし、そのせいで「ケアされる」こともなかなか素直にいかない。

 今ふと思い出したのですが、脳性まひの方が、他の人から「不自由で大変でしょう」と言われることについて、「生まれながらにこれが自分の体で、その体で自分は自由に動いているのだ。全く不自由とは感じない」と反論されている話を聞いたことがあります。これも典型的ですが、「これが普通」という状態を、その人自身の状態から考えず、外側に何か基準を設ければ、脳性麻痺の方は「不自由」ということになるけれど、その人自身を基準にすれば「自由」なのですね。

 つまり老人が抱える葛藤は「自分自身のありのまま」から出発できず、「周りの基準」をじぶんに無理に当てはめようとすることから生まれる部分が大きそうですし、また周囲から見ても、どうしても「以前はできていた」というところが「基準」になることが多いし、そこは「仕方ない」とあきらめても、今度は老人自身が抱える葛藤の結果、「ケア」が素直に受け入れられなかったりして、そこでまた混乱が起こるわけです。

 あかちゃんとの関係ではそういう混乱が起こらないわけですね。問題はもっとシンプルになる。その意味で対応の仕方もシンプルになる。

 パートナーから以前、障がい者福祉の現場では障がい者が「子ども」扱いされることが多くてそれが問題になることがある、という話を聞いたことを思い出しましたが、これも同じ問題でしょう。

 つまり、ケアする側としては、相手が「赤ちゃん」であった方がやりやすいわけです。それは面倒でない、という意味もありますが、それだけではなくて、たぶん「すなおなケアの気持ち」はもともと赤ちゃんに対して起こりやすいものだからです。だから「困った人をケアしよう」という「素直な気持ち」は「赤ちゃんのような人」に対して起こりやすいし、「母性本能」を素直に発揮すればいいので、ケアする側に葛藤が少なくなるわけですね。

 

 そう考えてみると、アスペの方が「障がい」を巡って自分の中で、そして周囲との間で抱え込みやすい葛藤はこの点に大きく原因がありそうということになります。

 他の動物を見てもわかりますが、もともと「ほかの人を援助する」というのは、結構ハードルが高い行動なわけですね。できればそんな「めんどくさい」ことはやりたくない、と思う人がたくさんいても無理ないところはある。ただ、ほかの動物と違って、人間はこの「援助する」ということ、そして「援助しあう」ということをものすごくやる動物になって、その結果、ここまで複雑な社会を作って生きられるようになったわけです。

 じゃあ、どうやってその特殊な「援助」という行動を人間がやるようになったかといえば、その原動力の一つが「赤ちゃんのケア」だったわけですね。これはほかの動物でもやることですが、ここをさらに発展させた。

 だから、「母性本能」を発揮することで「ケア」という、ほかの動物にはなかなか見られないような「高度」な行動をとろうとするということ自体は、まあ無理のないことなわけです。「無償の愛」なども、たぶんその延長上に出てくることでしょう。ですからそのことを頭から否定して攻撃するのはあまりに酷だと思えます。

 ただ、人間はさらにややこしいことに、そこに「対等」とかそのあたりの感覚が絡んできて、それを無視した「母性本能」の発揮は相手に反発を与えることにもなります。それは「対等」な関係を壊し、相手の人としての「誇り」を傷つけ、ひどくなれば「服従」を強いるようなことにもなりかねない。

 ここ三日ほど、結局同じことを別の言葉で繰り返し考えているようなものですね(笑)

 で、結論はやはり「お互い様」の関係をどう作るか、そこしにしか解決の道はないだろうということになります。
 

2017年2月 4日 (土)

援助と偽善とお互い様

 

あすなろさんの娘さんが「ケアされる子を演じていた」という風にみられるところがあり、それが娘さんにとってとても苦しいことだった、そして中学になった今ようやくその苦しさを言葉で表現できるようになってきた、ということを書かれています。

 それを拝見していて、ようやく自分の中にずっともやもやしていたことの一つがすーっと見えてくる感じがしました。昨日の「ケアの『上下』と『対等』」の記事やおとといの「対等ということ」にもそのまま結びついてくる話です。

 ひとはなにかかにかバランスをとって生きていますし、バランスが崩れればつらい状態になります。体の中ではたとえば適度にバランスのいい血糖値というのがあって、それが減れば低血糖、多過ぎれば糖尿病です。病気まで行かなくても、少なすぎればおなかがすいてつらくなる。それでご飯を食べて血糖値を上げ、バランスを取り戻そうとします。

 気分もそうですね。苦しいことばかりだと当然調子が悪くなるし、でもかといって楽ばかりの世界があるかというと、これもまた不思議とそうならず、らくちんな生活が物足りなくなって何か苦労したくなったり(笑)、苦と楽もまた微妙なバランスがありそうです。

 人との関係もまた同じで、「してもらう」ことと「してあげる」ことに何かのバランスが取れていないと関係がおかしくなる。「対等」が崩れます。そして「上下」が生まれる。

 そして人が「自分の意思で自分らしく生きたい」と思う「欲望」はものすごいのですね。「反抗期」というのが子どもにありますけれど、その時子どもは人の手助けを拒否するようになります。手助けされた方がらくちんなはずなんだけど、それを拒否して、自分でやろうとする。できなくても頑張ろうとする。

 その気持ちが、子どもを成長させていくわけです。子どもは自分でできないことにいらだちを感じ、自分ですることを邪魔する大人に怒りを感じ、できるようになることに誇りを感じ、できないことに屈辱を感じる。

 あすなろさんの娘さんの抱えた葛藤は、そういうふうに理解すると私にはかなりわかりやすくなります。

 娘さんは自分が「衝動的」であり、それは「困ったこと」だという理解がある。なぜかと言えば、周りはそうでないからで、そうする自分を他の人とは違った目で周りが見ているからです。みんなが自分と同じならそんなことを考える必要もありません。そういう「みんなの目」で自分を評価するということをするとき、自分を肯定できなくなる。

 だから娘さんは「みんなの目」に応えられる自分になろうと努力はする。これも興味深いことで、人は「ほかの人と同じ」でないといけないという気持ちがどこかにあるのですね。それができて「一人前」で、自分が自分として誇りをもって生きられると感じるようになる。

 周囲の人は「この子は<できない>子なんだから、<普通>は許されないことでも、大目に見てあげなければならない」という「暖かい目」で見守るか、「この子のために、<犠牲を払って>特別の援助をしてあげなければならない」と考えて、「親切」にケアをしようとする。

 そういう周囲の人の「援助」は、逆に差別したり攻撃したり排除したりするような対応に比べれば明らかに優れたものと思えます。そしてその人は<普通>の対応を捨てて、<我慢>して「援助」するわけで、大きな<自己犠牲>を払っているのですから、その<無私>の行いは普通は称賛され、また感謝されるべきものと感じられるのも当然でしょう。少なくとも、それが攻撃されるという事態は理解不能になります。

 でも、そういう援助をされる側からすると、それを受け入れるということは「援助が必要である人間」として自分を認めざるを得ないわけですから、それは自分が<普通>の人に比べて「劣っている」というふうに自分を評価しなければならない立場に追いやられることも意味する場合があるわけです。そういう自分をいやいや受け入れざるを得ない状況が「ケアされる子を演じていた」という状況だということになります。

 これは「一人前」をめざして「自分らしく誇りをもって生きたい」と感じる、それこそ<普通>の感覚と激しく矛盾してしまいます。その状態は自分が<普通>として認められないという意味で「差別」の状態に思えることになります。

 援助をするというのは、普通は差別の正反対の行為として理解されるはずです。だから援助をする側はそれを「差別」と言われても通常は全く理解ができない。ここがむつかしいところです。常識的にはそれは善意以外の何物でもないわけで、援助をする側からすればその気持ちしかないわけですから。

 同じ一つの行為が、それを見る人の立場によって、正反対の意味を持って見えてくることになります。一方からはそれは<自己犠牲>を払って「相手のために」行う<善意>の行い以外ではなく、他方からは<善意>を装って人を「差別」し、そのことで人を傷つけておいて「美しい私」になろうとする<偽善>に見えてくる。これは悲劇です。

 そこで援助する側としてあと一歩踏み込んで、「自分の善意が相手にとっては差別になることがある」ということまでを理解し、そこにまで「配慮」して<偽善>にならないような「援助」を心掛ける、というような展開もあり得ますし、それ自体は悪いこととは思えません。

 でも仮にそうしたとしても、矛盾はそのまま残るわけです。つまり、援助される側は「援助される」という立場を受け入れるしかない状態が変わらないわけですね。援助する側の援助は<偽善>的に受け取られにくい「より優れた援助」になるだけのことで、逆に言えば援助される側はそれほど大きな援助を必要としている、という話になりますから、ある意味では問題はさらに深刻化するという面もある。

 「差別」に怒りを感じ、「対等」になろうとすることが、「より大きな援助」を相手に強要することになり、逆に「不平等な関係」を拡大するという矛盾から逃れられなくなります。「自立」を求めてますます相手への一方的な「依存」を深めてしまう結果にもなりかねない。

 この矛盾を解決するには、結局のところやはり何らかの形で「お互い様」の関係を作って、新しいバランスを作り上げ、そこで「対等」になるしかないのだという気がします。

 

2017年2月 3日 (金)

ケアの「上下」と「対等」

 

 ガーディナーさんとあすなろさんの最近のやりとりでも、定型アスペ間で起こりやすい対立を「ずれ」の問題としてとらえなおしてみることが実際に役立つ、ということが実感できますね。ガーディナーさんが書かれていますが、そこでは単に「私の理解を相手に伝える」とか「相手の理解を私が理解する」ということにとどまらず、「相手に言われて初めて自分(たち)のことに気づく」とか「自分(たち)についての新しい理解が生まれる」ということが起こっています。

 定型だから定型のことがわかっているわけでもないし、アスペだからアスペのことがわかっているわけでもない。お互いにずれを見つめあう中で、どちらにも相手と自分自身について新しい理解が生まれていくわけです。これは「ようやくわかってもらえた」という世界をさらに超えたものですよね。

 で、昨日「対等ということ」を書いて改めて思ったのは、そうやって「ずれ」を明らかにしていくという試みの次に課題になるのは「じゃあそういうずれを持った者同士がお互いを活かしあう関係を作るにはどうしたらいいか」ということなんだなあということです。

 ここでも常に問題になり、トラブルの原因にもなってきたと思えることですが、「障がい者」という見方にはどうしても「ケアの対象」という意味が強く出てきます。そうすると「障がいがなければしなくてもいいケアをわざわざしなければならない」という理解になりますから、ケアをする側からは負担感が出てきますし、ケアをされる側からすれば引け目が出てくる。

 差別的な感情はそこから簡単に出てきてしまいます。ケアをしている側からは「ケアしてやっているんだから文句を言うな」という「支配的」な感情が生まれやすくなるし、それはケアをされる側からすると強い反発を生むか、あるいは「私はどうせそういうダメな人間だ」というような自分の否定が生まれたりする。どっちにしても「対等」な関係ではありません。

 定型アスペ関係だけでなく、たとえば親子関係なども実際は同じような形になっているんだけど、そこでは露骨な差別というのは普通はありません。同じ形というのは、子どもはケアされて生きている、という状態のことです。ですから、そのことが原因となって子どもは基本的に「親に従わなければならない」という考え方が普通に見られます。

 でもだからといって子どもの側から見て、自分が親から子どもであるために差別された、という風には普通は感じない。兄弟と比べて差別されたというのはあったとしてもそれは子どもだから、ということとはまた違いますし。そこですべての家庭で「親が厳しく子どもを支配する」というふうになっているわけでもありません。ほんわかした親子関係もいくらでもあります。だとすれば「ケアをされる」から「支配関係が生まれ、差別意識が生まれる」という話でもなさそうです。

 その理由の一つは、たぶん子どもは「かわいい」というふうに見られやすいからなのでしょう。つまり、「かわいい」ということは、それだけで大人にとっては魅力になります。そして「ケアしなければならない」という感情ではなくて、「ケアしてあげたい」という積極的な感情も生みます。そういう形でお互いに「与えあう」関係になっているので、単純な支配とか差別の関係にはならないのだという気がします。「かわいい」ということにはそういう力があるからこそ「子どもをかわいいと思えない」という悩みを持つ親は、子育てに深刻な問題を抱えてしまうことになります。

 老人の介護が子どものケアに比べてハードルが高いように思える一つの原因も、老人は子どものような「かわいさ」を持つ人はあまりなく、逆に「扱いにくい」と感じさせられることも起こりやすいというあたりでしょう。だから老人介護にやりがいを感じられる人は「かわいい」というのとはちょっと違うところで得るものを感じているようです。私のパートナーがそうですが。

 「ケアする」「ケアされる」という一方的な関係に見えるものが、支配や差別などにあまり結びつかないのは、「ケアする」側も「ケアされる」側から何かしら魅力的なもの(子どもの場合はかわいさ)を受け取っているからなわけですね。

 女性が「かわいさ」を重視される傾向が強いのは、それが男性の「ケア」を引き出す力を持っているためでしょう。「かわいい」ほど「ケア」されやすくなる、という関係がある。逆に言えば女性が「ケア」される必要がなくなれば(経済的な自立など)、「かわいさがすべて」という状態は、まったくなくなることはないにしても減っていきます。そこでは別の魅力が意味を持ち始めますし。

 障がい者に「かわいげ」が求められ、そのことで苦しむ障がい者が少なくないというのも、この構図の中に障がい者がはまりこみ、ケアされる、という形になるからだということになります。つまり「見返り」を求められる立場のはずなのに、見返りを与えない、と言って攻撃されるということが起こり始めるわけですね。全てのケアがそれなわけではありませんが、そういう場合もある。ケアの背後にときどき隠れているそういう構図に気づいて反発する障がい者が、それを「偽善」だと激しく攻撃することも起こります。

 無償の愛、ということも言われます。一見そこには「見返り」がないようにも見える。でも実際はたとえば信仰を持つ人ならその愛は「神の愛」などに支えられているように思えます(あくまで無信仰者の私の想像ですが)。ケアをする相手の人からは直接は与えられることはないように見えるかもしれないけれど、そのケアを行うことで、自分が神の愛に近づけることになる(ほかの信仰の仕方もあるかもしれませんが、とりあえず一つのパターンとして)。それはその人にとっておおきな精神的な潤いになり、また生きることの支えになり、場合によって自らの傷をいやす力も持ちます。

 重度の知的障害を持つ、成人した子どもをケアするあるお母さんは、そのケアが自分の生きがいだと語ります。ケアは「やらされている」のではなく、それ自体が自分を支えるものになることがあるわけです。この感覚から、「お世話をさせていただいている」というような、ケアをする側がされる側に感謝するような姿勢も生まれることがあります。

 あすなろさんが過去にいろいろ苦労させられてきたという学校の先生でも、いい先生になるほど「生徒から学ぶ」という姿勢を強く持っていきますよね。「教える」という点では「ケア」なのだけれど、実際はそのケアを通して「生徒から学ぶ」ことで先生自身が成長する実感を持つ。そうすると生徒を支配するのではなく、生徒を尊重する姿勢も生まれることになります。

 つまり、ここに挙げたような例の中では、「ケアする」「ケアされる」という、一種の上下関係を持つような状態でも、何らかの形で「見返り」と言えるようなものが生まれること(見いだされること)で、支配関係や差別の関係にならずに、ある種の「対等」に尊重しあう関係になる可能性が見えてきます。

 さらにあすなろさんとガーディナーさんのやりとりの関係を見ていると、そこには「ケアする」「ケアされる」という「上下」関係もありません。素直にお互いに学びあっている。その点で完全に「対等」な関係です。

 そう考えていくと、定型アスペ問題の最終的な解決は、やはりこの「相手とのかかわりに価値を感じあう」という意味での「対等」な関係をどう見つけ出していくのか、ということにかかっていると感じられます。それは何もしないで見つかるものではなく、放っておけば今普通にあるような差別や排除の関係になる危険性があり、だからその分意識しての努力や知恵や工夫が求められることでもあります。

2017年2月 2日 (木)

対等ということ

 バランスよく続く人間関係には、どうしても「お互い様」が必要なのだと思います。どちらかが一方的に相手に服従させられたり、自分のものを吸い取られ続けるような関係はやはりまずい。その意味で対等が重要だと思います。

 もちろん「対等」ということは、お互いに同じものを提供しあうことではありません。たとえばプレゼントを交換するとき、相手と同じものを送るのは意味がない。お互いに違うものを送るから意味があるわけです。

 では相手には送るものがあるけれど、自分には送るものがない、と思えるような状態にある場合はどうなるのでしょうか?

 たとえばお買い物をするとき、欲しいものを手に入れようとすれば、それに見合ったお金をお店屋さんに渡す必要があります。お店屋さんとの間にはお金と物とのバランスのとれた交換が成り立っています。でも当たり前のことですが、自分にその物にみあったお金がない場合は、交換は成り立ちません。そうすると「買い物」は成り立たない。

 その状態でそれがどうしても欲しいとなれば盗むか恵んでもらうかしかなくなる。これは対等な関係ではありません。長続きもしません。

 だから、「買い物をする」という枠だけで関係を考えれば、そこにはどうやったって「対等」は成り立ちようがないことになります。

 でも、人間関係って、「買い物」の関係だけではないわけですよね。プレゼント交換を例にとれば、別に「同じ値段」のものを送りあう必要はない。「相手にとって価値が感じられるもの」であればいいわけです。人にとって物の価値は値段では決まりません。私はおいしい沢庵で食べるお茶漬けの幸せが、高級料理店の高価な食べ物に「おいしさ」で劣るとも思えません。山登りをしたときの、単なる梅のおにぎりのおいしさといえば、他にたとえようもないものに感じたりもします。

 人間が何に価値を感じるかというのは、そういうふうに、かなり融通の利くものなわけですよね。ある人には全然価値がないものでも、ほかの人にはものすごい価値を感じさせることはいくらでもあります。

 価値はもともとあるものというより、作られるものでもあります。「気持ち次第」とまでは言いませんが、それまで価値を感じなかったものにすごい価値を感じるようになったり、その逆などもよくあることです。


 定型アスペ関係もやはり同じことかなと思います。定型が提供できるものと、アスペが提供できるものは違う。その違いがうまくかみ合って、相手のものが自分にとって価値があるということに気づければ、関係はよくなる。それが失敗すれば崩壊します。

 幸いこの場ではかなりそういう「お互いに提供しあう」関係が成り立ってきました。お互いに自分の感覚や見方ではわからないことを、相手に説明してもらうことで、それを参考にでき、自分が抱えている定型アスペ問題がそれで変化していく、ということが起こっています。

 この「お互い様」は今のところまだどちらかというと「マイナスを減らす」という「価値」が中心のような気がしますが、これがそのうちにお互いの個性が生かされてプラスを増やすという関係にまで進むと、これは本物になりますよね。

 そのとき、本当の意味で定型アスペ関係が「対等」になるのかなと。

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